特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

ゆく年

2006-12-31 21:00:39 | Weblog
今日はとうとう大晦日。
2006年も今日でおしまいだ。
楽しいことより辛いことが多かったように思う今年だけど、過ぎてみると早いもんだ。
年齢も一つ重ねて、「オヤジ」「オジさん」と呼ばれるにはもう充分だ。

今日は、血の特掃と別現場の消臭消毒に行ってきた。
どちらの現場もリアルタイム過ぎるので、詳細を伝えるのは控えるが、私にとっては軽い現場だった。
特掃だけじゃなく消臭消毒も大事な仕事の一つ。
「消臭消毒」と一口に言っても、仕事としてはかなり難しい。
人間の腐乱臭は鼻に臭いだけじゃなく精神に悪いから。
それを片付けるには、錬磨したノウハウと根気が必要なのだ。

5月からだけど、ブログも結構書きまくった。
トータルで、180編くらいにはなるのだろうか。
「死」や「死体」だけをテーマに、よくもこんだけ好き勝手なことを書けるもんだと、我ながら呆れるやら苦笑するやら。

「人は、何故生まれてくるのか」
「人は、何故生きるのか」
「人は、何故生きなければならないのか」
「生きる意味って何なのか」
「自分とは?」
そんなことを考えながらの死体業生活である。
これらの問いには、人それぞれの答や解釈があるだろう。
そして、その真理を追い求めている人も少なくないだろう。

世の中や人生には、知らなくていい事・知らない方がいい事、考えなくていい事・考えない方がいい事があるように思う。
どうだろうか。

上記の問いにつき、時々そんな風に思うことがある。
「命とは?人生とは?自分とは?」
なんて考えたところで、私の場合はしんどい思いをするばかりだから。


本ブログの書き込みコメントに、「死ぬのはやめた」と書いてくれる人がいる。
そんな人達に対して「よかった・・・ありがとう」と安堵するのも事実だけど、私には「人助けをしている」「人を救っている」なんて思い上がった考えはない。
「人の役に立っている」なんて勘違いもない。

真実はその逆。
死にたい気持ちと戦いながら書かれたコメントに、私は生かされているのだ。
助けてもらっているのは私の方。
ブログを始めてから、もう何人もの人が生きる勇気を与えてくれた。

私は弱い人間だ。
日々、悩んだり落ち込んだりする。
他人からすると驚くような些細なことで、気分を沈ませることも多い。
そして、生きる価値・自分の存在価値を見出だせなくて苦しむ。
結果、心の闇に支配され、そこからなかなか這い出せなくなる。
この状況に陥ると、手に負えない。
生きていることそのものが、辛くて辛くてたまらない。

そんな私に向けて発信される生きるエネルギーに、私は支えられているのだ。
苦渋の中から搾り出される生きる決意が、私を闇から救ってくれる。
涙もろい私は、「ありがとう」と泣く。

人という文字は、人と人が支え合うかたちを表していると、よく言われる。
そんなこと、若い頃には気にもしなかったけど、この歳になって確かにそう思う。
少なくとも、この私は自分一人では自分を支えることはできないくらい無力だ。
このブログ(書き込み)により、随分と私は支えら救われているけど、結果的に誰かを支えていることもあるだろう。
この支え合いが、私達を人間にしてくれ、生かしてくれているのではないだろうか。

死を考える程ではなくても、人それぞれが色んな悩みや苦しみを抱えているはず。
自分一人で戦うのは辛いかもしれない。
でも、このブログを通じて人と人とが支え合い、生きるきっかけを共に享受できればいいと思う。

「今年も終わりか・・・」
仕事が終わって、着替えた特掃服をしみじみ眺めた。
特掃で浴びた故人の血が、ズボンに着いていた。
黒く乾いた血痕と自分の存在価値を重ねて思った。
「俺は・・・俺は生きるよ」

「特殊清掃 戦う男たち」を来年もヨロシク。
そして、2007年が私達にとって生きた年になることを祈る。



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2006-12-28 14:48:16 | Weblog
朝夕の通勤電車に乗ると思うことがある。
みんな、疲れているように見える。
ひょっとして、疲れを通り越して病んでいるのかも。
特に、休み明けの月曜日にはブルーになる人が多いのではないだろうか。
電車への飛び込みも、月曜が一番多いらしいし。
そう考えると、正月休暇の後の仕事も、かなりキツそうだね。
年末年始休暇がない私は、その点では救われてるかも。

自殺・引きこもり・過労死etc
この社会には心を病んでいる人が多そうだ。
そう言う私も、その中の一人であることを自覚している。
自殺や引きこもりが当たり前になっている社会に寒々しさを感じるているのは私だけではないだろう。

時折、過労死のネタがニュースに取り上げられる。
労災認定がおりたとか、裁判で勝ったとか。
労災が適用されようが裁判で勝とうが、本人が死んでしまっていては後の祭だ。
社会的な意義が残るのかもかもしれないけど。

「人生って一回きりなんだなぁ」としみじみ思うことがある。
二度ない人生なら悔いのないように生きていきたい。
しかし、現実には悔いだらけ。
悔いのない人生を私は既に諦めているけど、それでもわずかな抵抗を持っている。

今現在、私の両親は健在。
ただ、私とはかなり疎遠。
以前は、2~3年も音信不通だったことが何度かある。
かつては、「もう、生きているうちに会うことがなくてもいいや」とさえ思っていた。
今でも、年に一度、顔を合わせるか合わせないかの付き合いでしかない。
そんな冷え切った関係だ。

これは、つい何年か前の自分の誕生日のこと。
仕事を通じて独自の死生感が養われている私は、あることに気づいた。
「過去に何があったとしても、どんな関係だろうと、どんな感情を持っていようと、親が産んで育ててくれたから、今の自分が生きていられるんだよな」
自分が歳を重ねるにあたってそう思った私は、自分の誕生日に親に電話をかけた。
そして、一方的に話した。

「産んでくれてありがとう」
「育ててくれてありがとう」
「お互い生きているうちに、これだけは言っておきたくて・・・」
私は、そう言って短い電話を切った。
考えようによってはくさいセリフなのに、不思議と照れ臭さはなく、真剣に伝えることができた。

ただの自己満足に過ぎないかもしれないけど、心の荷が軽くなったような気がした。
そして、気持ちが暖かくなった。
ズルズル引きずっていたたくさんの悔いのうちの、重い一つが消えた瞬間だった。

今でも親密な親子関係とは言えないけど、「あの時、生の感謝を伝えられてよかった」と、ずっと思っている。
特掃魂を育んでいくと、金には恵まれなくてもそんな恩恵に与れることがあるんだよね。

話はガラリと変わる。
私は、腐乱死体現場の清掃片付けを「特殊清掃」と称している。
それを略して「特掃」と言っている次第。
全くのオリジナル造語だ。
造語は他にもある。
「腐敗液」「腐敗脂」「腐敗粘度」「汚宝」「デスワーク」「未確認歩行物体」etc
その最たるものは、やはり「汚腐団」「汚妖服」「汚腐呂」だろうか。
それらを造語と知らないで、辞書で調べた人も何人かいたらしい。
それでも意味が判明せず、過去ブログに遡る。
失礼ながら、その様はちょっとオカシイ。

ブログの色合いも暗い。
さすがに腐乱臭まではしないまでも、陰気臭さは否めない。
寒々しくもある。
黒地に青文字だからねぇ。
これは、管理人が選定したものだけど、特掃に妙にマッチしていると思っている。
ただ、こんな画面でこんなネタばかり読んでちゃ、ますます気分はブルーになる?

また、私のブログは恐ろしく地味。野暮野暮。
画面上に動くモノはおろか絵文字もない。
その逆に、誤字脱字はある。
デジタルなのに、すごくアナログっぽい。
これも趣があっていい?

二重人格?一人二役?と勘違いされやすいみたいなので、あらためて案内しておく。
私と管理人は全くの別人であり、全くの分業で本ブログを運営している。
管理人とは、私が死体業を初めて一年後くらいから一緒に仕事をしているので、もう十何年の付き合いになる。
これも一種の腐れ縁だろうか。

そんな本ブログも初めての年越しを迎える。
過ぎる年の終わりも、新しい年の始まりも、ブルーなスタンスを変えようがない。
だだ、それを通じて人の暖を分けてもらいたいと思っている。
そして、いつかは人に暖を分け与えられるくらいの人間になりたいとも思っている。

今年は暖冬と言われているけど、みんなもっと心に暖をとった方がいいね。



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憂鬱

2006-12-26 22:29:57 | Weblog
あー、憂鬱だ。
私にとって、年末年始は一年を通じて最も憂鬱な時期かもしれない。
クリスマス・正月、この時期の世間は華やかなお祭ムードが続く。
何がめでたいのかハッキリ分からないまま、お祝いムードが続く。

都内をよく走る私は、お洒落にライトアップされたホテルや町並みを毎日のように目にしているのだが、それがやたらと眩しく見える。
こっちは、汚れて臭い身体で汚れて臭い荷物と一緒にドライブしているわけで・・・「俺には縁のない世界だな」と、何とも言えない溜息ばかりをついている。
今更、寂しいわけでもないし、惨めなわけでもない。
でも、何となく気分はブルー。

今はこんなでも、子供の頃は冬休みが大好きだった。
自分にとって、特に何があるわけでもないのに、世の中がHappy一色の雰囲気になるのが好きだった。

では、いつ頃から年末年始を憂鬱に思うようになったのだろうか。
多分、それは死体業を始めてからだ。
年柄年中、人の不幸に関わっているこの仕事には、お祝いムードは合わない。
年柄年中、「御愁傷様です」と頭を下げ、辛気臭い面持ちで仕事をこなす私は、お祭りムードを持ちようがない。

仕事とプライベートをクッキリと区別すればいいのかもしれないけど、現実は、なかなかそうもいかない。
プライベートが仕事に侵されたり、またその逆だったりと。
まぁ、私の場合はプライベートが仕事に侵されていることがほとんどだ。

その典型が休日数にある。
一般企業だと、年間休日数は110日~120日くらいだろうか。違う?
私の場合は、それを大きく下回る。

これは、20代後半の頃の話だけど、一年間の休日が28日だった年もある。
ある年の暮れ、「今年はよく働いたなぁ」と思いながら、スケジュール帳を遡ってみたことがあった。
すると、当年に取った休暇数が28日だったのである。
「たった28日?ひと月に2日余か・・・」
その数を知って、我ながら驚いたものだった。
若くて心身が軽かったからできたのだろう。

しかし、今年も、春ぐらいからそれに近いペースで仕事をしている。
さすがに、この歳になると結構疲れる。

夏の盛りに、現場アパートの階段の昇降を繰り返したときは、水をかぶったような汗がでてブッ倒れそうになった。
階段下の日蔭にうずくまった私は、地面に落ちる汗に色々なことを思ったものだった。
「これも俺の宿命だ!修業!修業!」
そう言う今も、バカの一つ覚えのように「疲れた」「疲れがとれない」と愚痴ってばかりの日々だ。

そんな死体業には、年末年始も休みはない。
人が死ぬのに、クリスマスや正月は関係ない・・・はずたからね。

余談だが・・・
「病院の延命措置と世間の大型連休は相関している」といったブラックな噂はよく聞く。
「病院職員が休暇を取るために、患者の死期が作為的に操作されている」というものだ。
ただ、噂は噂でしかなく、その実態は定かではないが。

私も死体業のはしくれ。
死人相手の仕事をやってて、年間計画が立てられるわけはない。
計画が立てられないところに、死体業の面白さがあるとも言えるかも。
何はともあれ、年末年始に長期休暇を取るなんて、夢のまた夢だ。

この点では、各種サービス業や交通機関などで働く人達も同じような境遇だろう。
ただ、私は代休もとれないうえに、やってる仕事がコレだから、なかなか明るい気持ちになれない。
片や、年末年始の世間は自分の心情とは真逆をいっている。
そのギャップが大き過ぎて、自分ではその溝を埋めることができないから憂鬱になるのだ。

そんな年の瀬。
ほとんどの人がHappyに過ごしていることだろう。
そんな中でも、私のブログだけは相変わらずドヨヨ~ンとしている。
新しい年に希望を持って、たまには楽しいネタを書いてみたいもんだ。



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まさか(後編)

2006-12-24 10:04:01 | Weblog
毎日、新しい朝を迎えられることが当たり前になっている私。
ただ、その日の仕事や天気・眠気などによって起床することが辛く思える日がほとんど。
気分が低滞していると「夜が明けなければいいのに・・・」とさえ思ってしまう。

しかし、世の中には朝を迎えたくてもそれが許されない人達がいる。
予期せずして朝が与えられない人達がいる。
また、いずれこの私もそういう日が来る。
死は必然だ。
「まさか」のことじゃない。

その日の朝も、気分が浮かない目覚めだった。
睡眠不足のはずなのに、やたらと早く目が覚めてしまった。
就寝中、唸されたような記憶と季節外れの寝汗が、この日に起こる出来事を予感させた。

「ひょっとして、昨夜の電話は悪い夢だった?」
一瞬、気持ちが緩んだ私だったが、残された自筆のメモが一気に気持ちを引き締めてくれた。
書かれた内容が結構グロかったため、思わず溜息がこぼれた。

「やっぱ、現実か」
「気合を入れて行ってくるか!」
私は、自分に喝を入れた。

現場は、公営の団地だった。
私は、かなり緊張していた。
汚腐呂掃除の経験は随分と積んできてはいるものの、「死後二ヶ月」というのは記憶になかったからだ。

ドキドキする心臓を落ち着かせて、玄関前で深呼吸。
それから、隠してあった鍵を使って開錠。
誰もいるはずもない部屋に、例によって「失礼しま~す」と言いながら上がりこんだ。
その動きはロボットみたいにぎこちなく、腐乱臭も気にならないくらいにワナワナしていた。

浴室の場所はすぐに分かった。
アレコレと考え始めると、ドアを開けるのに躊躇するばかりなので、何も考えないようにして一気に入口の扉を開けた。

「うぉっ!これか!」
浴室内には独特の腐乱臭が充満しており、浴槽には真っ黒な汚水が溜まっていた。
そして、表面には黄色い厚みを持ったおびただしい数の脂玉が浮遊。
私がこれまでに何度も遭遇してきた汚腐呂のそれより明らかに色が濃く、透明度はほとんどゼロ。
「これが二ヶ月モノか・・・」

浴槽の縁や浴室の床のあちこちには、焦げ茶色の干からびた皮膚とが腐敗液が付着。
浴槽内部以外の汚れは、遺体(遺骨?)搬出の際にできた汚れのようだった。
ちなみに、同じ腐乱でも、臭汚腐呂の臭いと汚腐団などの陸地の臭いは似て非なるものなのである。
当然、両方ともかなりイッてる臭いなので、「こっちがマシ」とか言えるレベルではない。

私は、器具を使ってゆっくり汚水を掻き回してみた。
明らかに、元固形物(人間)だったであろうドロッとした黄土色の沈殿物が底の方から舞い上がってきた。
何と言ったら分かるだろうか・・・ま、分かり易く説明する必要はないか。

「これは何?ここはどこ?俺は誰?」
私の中で、嫌悪感と特掃魂が戦っていた。

「大丈夫?」(俺)
「あんまり大丈夫じゃない」(隊長)
「やれそう?」(俺)
「分かんない」(隊長)
「二ヶ月経つとこうなるのか・・・」(俺)
「・・・だな」(隊長)
「断る?」(俺)
「それをやっちゃ男が廃るだろ」(隊長)
「じゃ、どうすんだよ」(俺)
「考えるしかない・・・あとは根性」(隊長)
「でたー!困ったときの根性頼み」(俺)
「やっぱ、最後はそれしかないだろ」(隊長)

私は、依頼者に電話した。
依頼者は弱々しかった。
身内をこういう亡くし方しただけでもショックだろうに、急かされる事後処理に心身ともに疲れていると思われた。
私に対してもすごく申し訳なさそうに話す依頼者に、私は特掃魂に火をつけざるを得なかった。
人の役に立ってお金までもらえるんだから、特掃冥利に尽きるってもんだ。

「二ヶ月の聞いて驚きましたけど、たいしたことなかったですよ」
「似たような現場を何件もこなしていますので大丈夫です」
「安心して待っていて下さい」

依頼者の心的重荷を軽くするのも大事な仕事。
↑こう言うと少しはカッコいいけど、実は、そうすることによって私は自分を追い込んでいくのだ。
そうして自分の逃げ道を塞ぎながら、特掃の切り札である最後の根性を引き出すのである。

その後の作業は複数日に渡って行った。
過酷・凄惨を極めたことは言うまでもない。
その詳細を記すのは、しばらく後にしよう。
クリスマスイブには似合わな過ぎるネタなんでね。

そう、今日はクリスマスイブ。
街は、きらびやかに飾り立てられている。
それにしても、キリスト教徒でもないのに、世間(皆)が「メリークリスマス!」ってお祭り騒ぎしているのが、私には少々滑稽に映る。
浮かれ気分も悪くないけど、こんな日くらいは、イエス・キリストを覚えてみてもいいかもね。

私は、今夜はマーボー豆腐でも食べながら安焼酎でも飲むかな。
MerryChristmas!


PS:「マーボー豆腐?」ってピンときた貴方は特掃通!




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まさか(中編)

2006-12-22 15:13:40 | Weblog
真夜中、一本の電話が入った。
就寝中だった私は、寝ボケたまま電話を取った。

夜遅い電話の場合は、「夜分にスイマセン」と言ってくれる人が多い。
その一言があるのとないのでは、目覚めの気分が全然違う。
しかし、この電話の主からは、その一言はなかった。
ただ、声のトーンや口調から、社交辞令が言えるほどの余裕もないことが伺えた。

「風呂場で身内が死にまして・・・」
「浴槽の中でですか?」
「ええ・・・」
「水は溜まったままですか?」
「ええ・・・多分・・・」
「水は抜かないで、そのままにしておいて下さい」
「はい・・・」

私は、浴室腐乱につきものの細かい注意点をアドバイスした。
「特掃」と一口に言っても、現場の状況や依頼者の事情等によって柔軟に対応できる臨機応変さが大切。
それができるのとできないのでは、仕事の中身や成果が大きく違ってくる。
しかし、この類は単なるマニュアルや机上論ではカバーしきれないもの。
やはり、経験と平素の姿勢がモノを言う。
そこに特掃隊長の価値がある(自画自賛)。

「死後、どれくらい経ってましたか?」
「ニカゲツ・・・警察からはそう言われました・・・」
「え?何日って?」
「二ヶ月・・・」
「ニ?ニ・カ・ゲ・ツ?・・・まさか・・・二週間の間違いじゃないですか?」
「いえ、二ヶ月で間違いありません」
「え゛!」

私は、絶句した。
浴槽に浸かって二週間程度経過した現場はそう珍しくない。
とは言え、それでも充分過ぎるほどベリーハード!
それが、この時は「二ヶ月」ときた。
浴室特掃と死後二ヶ月現場の経験・記憶を総動員して、この現場を想像してみた。
モヤモヤモヤモヤ・・・
私の頭には、モノ凄くヤバい状況が浮かんできた。
「イカン!これは、ヤバ過ぎる・・・」
プルプルプル
私は、想像してしまったモノを保存せず、さっさとゴミ箱に入れた。

「なんでそんなになるまで発見できなかったんですか!?」
興奮した私は逆ギレしそうになり、思わずそんな無神経な言葉を吐きそうになった。
かろうじて、その言葉を呑み込んだ私は悩んだ。

「二週間だってよぉ、どうするよ」(俺)
「かなりヤバそうだよな」(隊長)
「正直、気が進まないよ」(俺)
「でも、とりあえず行ってみるしかないだろ!」(隊長)
「え?行くの?」(俺)
「他に頼める人がいないらしいんだから、俺が行くしかないだろ!」(隊長)
「無理無理無理無理、無理だよぉ」(俺)
「じゃ、どうすんだよ」(隊長)
「適当なこと言って断っちゃえよ」(俺)
「せっかく頼りにされてんのに、そんなことできる訳ないだろ」(隊長)
「じゃ、やりたいの?この現場」(俺)
「やりたかないけど、それが俺の仕事だろ?もともと、腐乱現場の片付けが大好きでやってると思ってんのか?」(隊長)
「違うの?」(俺)
「そんな訳ないだろ!」(隊長)
「冗談、冗談」(俺)
「とにかく、やるしかない」(隊長)
「恐いなぁ・・・」(俺)
「やれるかやれないかは、とりあえず行ってみてから決めても遅くないさ」(隊長)
「そうだな」(私)
「こんな俺でも人様が頼りにしてくれる価値があるんだから、逆に感謝しないとな」(隊長)
「強引な解釈・・・お前、ホントはそんなポジティブキャラじゃないはずだろ?」(私)
「ウルセー!バカにならなきゃやれないだろ?お前こそ、脳を止めとけよ」(隊長)
「そりゃそうだ」(私)
「よっしゃ!とりあえず、行くだけは行ってみよう!」(私・隊長)

電話の主に現場を直接見たかどうかを尋ねてみたら、警察から「見ない方がいい」と言わたので見ていないとのことだった。
「それだけ凄まじいってことか・・・」
現場(浴槽の中)の様子を少しでも知りたかったのだが、それも叶わずに不安ばかりが募ってきた。
しかし、依頼者も困りきった様子で、話しているうちに気の毒に思えてきたのも事実。
私は腹をくくり、翌日、現場に行く約束をして電話を終えた。

布団に戻った私は、汚腐呂のことで悶々としてなかなか眠ることができなかった。
「人間スープが腐ったのが、腐った人間がスープになったのか・・・二ヶ月とは・・・まさかなぁ・・・」

つづく





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まさか(前編)

2006-12-20 15:27:35 | Weblog
特掃現場になる家のほとんどは、故人が独居していたところである。
近年増えてきていると言われる孤独死だ。
ただ、まれにそうでない所もある。
それは自殺現場に多いのだが、自然死して腐乱死体がでた家でも他に同居者がいることがある。

家庭内別居の状態とはいえ、まさか同じ家で暮らしている人間が腐乱するまで死んだことに気づかないとは・・・。
通常だと、物音や気配がなくなれば変に思うだろうし、そうでなくても家の中に異臭が漂い始めれば異変を感じて当然のはず。
なのに、腐乱死体になるまで誰にも気づかれずに放っておかれるのだ。
作為的な何かがあるのだろうか、不思議でならない。
まぁ、私が考えるまでもなく、警察がシッカリ調べているのだろうから、私が余計なことを詮索しても仕方がない。

また、特掃現場では、故人が死んでからの時間がストップしたようになっていることが多い。
ベランダに洗濯物が干したままになっていたり、電子レンジに食べ物が入ったままになっていたりと様々。
何気ない日常生活が、いきなりの状態で止まったままになっている。

これは中高齢者宅に多いのだが、「元気に生きるための○ヶ条」「幸せに暮らすコツ」「病院のかかり方」「薬の飲み方」の類が大きな字で壁に貼ってある家もある。
そういうものからは、故人が自分の人生を大切にしながらも回りに(家族・子供)に迷惑を掛けないように、普段から心身の健康に留意していたことが伺える。
そんな生前の心掛けと現実の腐乱痕を対比すると、ちょっとせつなくなって汚物に情が傾いていく。

ガスコンロに何かが入った鍋が置いたままになっていることもある。
そのほとんどはドロドロに腐りきっていて、元が何の料理だったのか判別不能なのだが。
まさか、それを食べる前に逝くことになろうとはね。
腐乱は腐乱でも、腐った食べ物もタチが悪い。
独特の悪臭を放つし、液状のものは処理にも手間がかかる。
同じ現場でも、人の腐敗は耐えられるのに、食べ物の腐敗に「オエッ!」とくることさえある。

ある家では、カップラーメンが蓋が開いた状態で、テーブルの上に置いてあった。
そして、その脇には腐乱痕。
興味本位で容器の中を覗いてみると、お湯を注いだような跡があった。
カップラーメンを食べるつもりで仕度をしたものの、ラーメンができ上がるまで命がもたなかった訳だ。
これもまた「まさか」の出来事、せつない運命だ。

死体業をやっていると、生死は常に表裏一体のものであることを毎日のように思い知らされる。
生と死は、まさに隣り合わせ。
一瞬先のことさえ、誰にも分からないものだ。
必然的に死ぬ前に偶然的に生きている中で「明日は我が身?」と緊張する。

トイレ・浴室での突然死も多い。
本ブログにも頻出している通りである。
用を足しにトイレに入った本人は、まさか生きて出られなくなるとは思ってなかっただろう。
気持ちよく風呂に入った本人は、まさか生きて浴槽から出られなくなるとは思ってなかっただろう。

ホントに「まさか!」である。
しかし、この「まさか」が自分や自分の身の回りで起こらない保証はない。

夜中に電話が鳴った。
就寝中だった私の脳は、無防備のまま。
必死に平静を装おうとするのだが、叩き起こされた脳が瞬時に平常稼働するわけもない。
半分寝ボケたまま電話にでた。

電話は、浴室特掃の問い合わせでだった。
現場の状況を聞き進めるうちに、次第に脳が動き始めた。
そして、「まさか」と、目がパッチリ覚めた私だった。

つづく




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ピエロ

2006-12-18 21:44:31 | Weblog
「特掃隊長」こと私は、今までのブログから人付き合いが苦手(下手)な、暗いヤツだという印象を持たれているかもしれない。
実のところ、肯定も否定もできない。
孤独を愛するわりには、結構淋しがり屋なのである。

社会生活を無難に過ごしていくためには、人間関係を円滑に運んでいくことが大事(必要)とされる。
それにはまずコミュニケーションが大事(必要)。
しかし、ただのコミュニケーションではダメ。
本音風の建前と社交辞令、協調風の迎合と妥協がポイント。
本音・本心が通用する範囲がどれだけ狭いものか、理解してもらえる相手がどれだけ少ないかは、私が言うまでもないことだろう。
ひょっとしたら、それらは皆無かもしれない。

私は、人間関係のほとんどは、利己的な打算にもとづいた利害関係でしかないように思う。
そんな中で、数少ない真実じみた関係を探しだし、それを信頼関係だと錯覚しているに過ぎないのではないだろうか。
私が、ひねく過ぎ?

世間の人を大きく三つに分けると、好きな人と嫌いな人、好きでも嫌いでもない人に分かれる。
「嫌いな人」と言うと極端かもしれないが、肌が合わない人・ウマが合わない人・感性や価値観が著しく違う人・そのキャラが苦手な人を含んでの「嫌いな人」である。
また、「好きでも嫌いでもない人」というのは、関係の薄い人を指す。
好きとか嫌いとかを判断できるまでの付き合いや関わりがない人だ。
そうすると、身の回りには「好きな人」がわりと少ないことに気づく。

小心者の私は、好印象を持ってもらいたくて、誰に対しても愛想笑い(つくり笑顔)をしようとする。
ただ、それは本心からでる笑顔じゃないもんだから、上手くできない上にどことなく不自然なものである。

世の中には、すごく上手にピエロを演じることができる人がいる。
決して、皮肉っているわけではない。
その器用さやたくましさに、人間社会を生き抜くある種の生命力さえ感じるのだ。
動物にはできない技だ。

死人相手の商売だって、上手にピエロを演じることが必要なことが多い。
仕事上、依頼者には好印象を持ってもらった方がいいし、少しでも誠実そうに見えた方がいい。
そのために、できる限りの背伸びする私。
でも、腐乱現場に一歩足を踏み入れた途端に上げていた踵が下がる。
「こりゃヒドイですねぇ」って。

また、特掃の現場に入るとピエロなんて入り込む隙間(余裕)はない。
追いつめられた状態での作業にピエロを存在させる意味もない。
裸にされた自分自身だけが冷汗と脂汗をかきながら、時には涙を流しながら格闘する。
そんな状況の中では、真の自分・自分の真が露になる。
そこには、くじけそうになる自分がいる。へこたれそうになる自分がいる。逃げたくなる自分がいる。

恥ずかしながら告白しよう。
私は、一人の現場で泣くことがある。
「心が泣く」等といった比喩的・抽象的なことではなくて、涙を本当に泣くのだ。
もちろん、故人の死に様や遺族を哀んで泣くのではない。
それどころか、汚した故人や依頼してきた遺族を愚弄(逆ギレ)するような気持ちがでることさえある。
では、何に泣くのか・・・自分の置かれた状況を悲観して泣くのだ。
その惨めさ、空虚さ、過酷さに泣くのだ。
私は、その程度の人間。

依頼者に見せる私の姿は、下手ながらも一生懸命に演じているピエロ。

ピエロの化粧には涙の滴が描かれるが、それには深い意味があるのだろう。
その意味が、私なりに分かるような気がする。

そんな特掃ピエロは、今日も生きている。



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輝ける日々Ⅱ ~生きる輝き~

2006-12-15 17:31:43 | Weblog
「命の有限性を自覚すると生き方が変わる」
「命は、限界があるから輝く」
私は、そんな類のことを考えるようになって久しい。

では、それによって、私の人生は変化しただろうか。
ハッキリと自覚できないだけかもしれないけど、残念ながら、大した変化はないように思う。
また、私が生きる世界は、光り輝いているだろうか。
自分に与えられた時間には限りがあり、一瞬一瞬が貴重だということは何となく理解できているけど、残念ながら、輝いているとは言えない。
私の目には、生きているこの世界や人が美しく愛おしく映っているだろうか。
それらは、その時々の精神状態や気分によって、目まぐるしく変わる。
どちらかと言うと、私が生きているのは味気ないモノクロ世界になっているかもしれない。

気の持ち方やモノの考え方を少し変えるだけで、モノクロだった世界が色づき始める。
そんな類のことを吐いておきながら、そう言う私は自身はなかなか自分が生きる世界を色づかせられないでいる。

もちろん、人間同士の関わりの大切さや、きれいな景色の素晴らしさに触れることはある。
ささやかながらも、楽しさや幸せもある。
人に優しくしてもらった時、空が青く晴れ渡った時、ケーキ屋のショーケースを眺めた時、温かい味噌汁を飲んだ時etc


しかし、それは生きている中のごく一部・特定の場合、しかも表面的なことに限られている。
肝心なのは、何気ない普段の暮らし(人生)に通じた命の輝きのはずだ。
しかし、現実にはその輝きを見出だせないでいる。

三十数年の人生を思い返してみると、学生時代に一種の輝きがあったように思う。
社会的にも経済的にも背負う責任は軽く、適当に遊び・適当に勉強し・適当に食べ・適当に寝て、全てお気楽に適当に生きていた。
それに、「若さ」というエネルギー(生命力)もプラスされ、表面的には輝いていたように思う。

しかし、「生きる輝き」とはそんな類のことではないのではないだろうか。
強欲軽薄な私は、ついつい生きる輝きと遊興快楽をダブらせてしまいがちなんだけど。

限りある人生の中で、一体どうしたら、輝ける日々を手に入れることができるのだろうか。
私は、思い悩むばかりでハッキリした答を見つけられないでいる。
だだ、この歳になってきてボンヤリと答らしきモノが見えるようになってきた感じがする。
間違ってるかもしれないし、気のせいかもしれないけど。
また、これから更に歳をとっていくと変わるものかもしれない。
雲をつかもうとしているようなものかな?

結局のところ、輝ける日々は、自分が死に際に至ってやっと手に入れられものなのかもしれないと思う。
人それぞれに生き抜いた人生が、その終焉が近づいた時に人生そのものを遡及的に光らせるのではないかと。

艱難辛苦・苦悩苦悶の日々を悲観することはない。
辛いけど、耐えなければならない。
そんな日々を、必死に・必死に生きることによって、それは輝ける日々に変わってくるのだと、今の私は思う。




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輝ける日々Ⅰ ~共に歩く~

2006-12-13 11:37:31 | Weblog
死は老若男女、全ての人に訪れる。
その人生はもちろん、寿命や死に様は人それぞれ。
しかし、死そのものは誰にも公平なものだ。

日本人の平均寿命が物語る通り、亡くなる人の大半は高齢者だ。
遺体処置業務の仕事が入ると、まずは故人の年齢が気になる。
変な言い方だが、高齢だと安堵に似た感情を覚える。
それが長寿であればあるほど、変なプレッシャーはなくなる。
「仕事だ」とドライに割り切っていても、やはり故人は長寿の人がいい。

念のために断っておくが、「老人なら死んでもいい」「老人から先に死ぬべき」等と思っている訳ではないので、くれぐれも誤解のないように!

故人の年齢が若ければ若いほど妙なプレッシャーが増す。
無用に気構えてしまうのだ。
ましてや子供となると、イヤな力み方をする。
その理由を記すと長くなりそうなので、これはまた別の機会にしよう。

老人の死が多いということは、仕事上で老夫婦の別れに立ち会うことも多いということ。
どんな別れにもそれぞれの悲哀があるが、老夫婦の別れには独特のドラマがある。

人の一生において、最も長く共にいる人は誰だろうか。
親?子?兄弟姉妹?・・・親も子も兄弟姉妹も、共にいるのはだいたい20年程度だろう。
精神的・肉体的・経済的・社会的に一人前になれば、それぞれがそれぞれのかたちで離れていくもの。

そんな中で長く共にいるのは、やはり夫婦だろう。
親と死別しても子が独立していっても、夫・妻だけはそのまま残る。
(もちろん、結婚しない人や離婚・死別等で早くに夫・妻と別れた人もいるはずだが、ここでは一般多数の状況にもとづく。)

この高齢化社会では、半世紀も一緒にいたような老夫婦も珍しくない。
そんな夫婦が死に別れる様は、親子や兄弟姉妹の死別とは異なる重みがある。
血肉を分けた間柄でもないし、出逢うまではアカの他人だった男女が夫婦になると血よりも濃い絆をもって人生を共に歩く。
「貴方と一緒で楽しい人生だった」
「ありがとう」
先に逝った故人に、そんな言葉をかける配偶者は多い。
そして、淋しそうに涙を流す。

気持ちが熱くなりやすかった(純粋だった?)若い頃は、そんな様を見て仕事を忘れそうになるくらいにのめり込むこともあった。
歳を重ねた今も、受ける重さは変わらない
が、・・・ここからは、表現が難しい。

この歳になると、老夫婦の死に別れに単なる寂しさや悲しみだけではなく、それらを超越した光のようなものを感じるようになっている。
光・・・再会の希望?夫婦が一つのものになった喜び?・・・自分の感覚・感情が文字でうまく表現できない。
強引にまとめると、老夫婦の死別の様は、時間がとまって輝いているように見えるのだ。
(↑何が言いたいのか分かんないよね?)

随分前、ある末期癌患者が、余命宣告を受けた際の心情を綴った手記を読んだことがある。
それによると、「病院から外に出ると、いつもの景色が、目に入る全てのものが輝いて見えた」とあった。
私なりの想像の域は越えないのだが、何となくその気持ちは分かるような気がする。
当たり前の景色・ありきたりの風景が、自分の時間が残り少ないことを自覚した途端に美しく愛おしく見える。

「この世とも、もうすぐ別れなければならない」
そう考えると、何もかもが眩しくて大切に思えてくるのだろう。

恋愛感情なんかとっくになくなり、普段は文句ばかり言い合っている仲でも、いざ死に別れなければならなくなると、途端に感謝の気持ちが芽生えるかも。
お互い、歳をとって心も身体もくたびれてしまっていても、夫・妻の存在が何よりも大切に思えるかもね。
苦しくて辛いこともあったけど、一緒に歩いた日々が愛おしく思えるかもしれない。

「輝ける日々は、誰(私)にも与えられている」
自分の死を考えるとき、何となくそんな風に思う。



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飽食の陰でⅡ

2006-12-11 09:15:13 | Weblog
および腰の遺族が、腐乱臭が漂う家に案内してくれた。
遺族は私に鍵を渡して後退。
私は、いつも通りに動揺を見せないようにして、事務的に玄関を開けた。
「きたな!」
濃い腐乱臭がモァ~ッと覆ってきた。
ハエがブンブンと飛び交う中、私は部屋の中へと進んだ。
汚染箇所は容易に発見できた。
「ありゃりゃー、ここかぁ」

それから周りを観察すると、妙なものが目に入った。
「ん?何だコレ」
死体痕の傍らに毛ムクジャラの何かが転がっていた。
「ん~?ぬいぐるみかな?」
「あ!犬?犬じゃん!」
そこには、犬の死骸が転がっていた。
飼い主に先立たれて餓死したのだろうか、毛の長い小型犬だった。

遺体を回収していった警察だって犬には気づいたはず。
しかし、彼等だって仕事だ。
犬の始末は仕事の範疇外なのでそのまま放置していったのだろう。

「うわぁ、可哀相になぁ」
私は、しゃがみこんで犬の死骸をマジマジ見た。
小さなウジがたかり、既に顔はつぶれていた。
飼い主が急死し、いきなり食料の供給が止まってしまって飢え死にしたのだろう。

飼い主が動かなくなってから、この犬はどのくらい生きていたのだろうか。
悪臭を放ちながら変色し膨らんでいく飼い主を見ただろう。
それから溶け始めるにはしばらくの時間を要しただろうから、液化段階を見る前に息絶えた可能性は高い。

見積見分の際は作業らしい作業はしない。
しかし私は、死骸とはいえ犬を放置していくことが可哀相に思えて、とりあえず腐乱現場から出してやることにした。

私は、きれいなバスタオルと適当な大きさの段ボール箱を探して来た。
そして、犬の身体を持ち上げようとした。
私の中で同情心と嫌悪感が戦っていた。

「うわっ!かてーっ(固い)!」
鳥肌を立てながら犬に触ってみた私。
そして、最小限の接触で持ち上げることを考えた。
「んー、どうやって持ちゃいいんだろうなぁ」
私はまず、小さな耳を指で摘んで引っ張ってみた。
ツンツン。
身体はウンともスンとも動かない。
「これじゃ、耳がちぎれちゃうな」
今度は身体の毛を摘んで引っ張ってみた。
ツンツン。
同じく動かない。
「こりゃ、ガッチリ掴まないとダメだな」
私は、諦めて胴体を掴み上げることにした。

「があ゛ー」
御多分に漏れず、腐敗した犬は腐敗液とともに床に貼り着いていた。
それを引き剥がすように、死骸を持ち上げた。
バリバリ!メリメリ!
犬は、ほとんど骨と毛皮だけになっており、倒れたままの状態で固まっていた。
「うへぇ~!きっつー!」
気の弱い私は、黙っては作業ができないのである。

広げておいたバスタオルに、持ち上げた死骸を置いて丁寧に包み、そっと段ボール箱に納めた。
「ヨシ!これでOK!」

飼い主の死因は知らされはしなかったけど、餓死ではなかったはず。
冷蔵庫や台所には、いくらかの食品が残っていたから。
しかし、犬は飢え死にしてしまった。
ドッグフードは残っていたのに。

動かなくなった飼い主を前に、空腹感が募ってきて苦しかっただろう。
飼い主が腐っていく様を見て、さぞツラかっただろう。
犬は鼻が効くだけに、その腐乱臭は堪え難かっただろう。

前記の通り、原則として初訪問・見積見分の時は作業はやらない。
ましてや、頼まれもしないことをやることはほとんどない。
しかし、汚い腐乱現場に犬の亡骸を放置しておくことができなかった。
私は、段ボール箱の柩を遺族に手渡して「作業費はいりませんから」と、安心の溜息をつきながら現場を後にした。

それにしても、思い知らされる。
色んな所に色んなかたちで、飽食の陰があることを。




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飽食の陰でⅠ

2006-12-09 09:30:04 | Weblog
私は、食欲旺盛だ。
昔から早食いの大食い。
経済的な事情から、たいして上等なものは口にしていないけど、毎日おいしく御飯を食べている。

食べ物が美味しく食べられるのは幸せなことだ。
不自由なく食べることって極めて当たり前のことのようで、よく考えるとそうでもないことに気づく。

まず、お金がないと食べ物は買えない。
お金を得るには仕事が必要。
また、いくらお金があったって、買える食べ物がなければ仕方がない。
食べ物があっても、食物を受け入れる身体(健康)がなければどうしようもない。
また、健康って、精神と肉体の両方でないてダメなもの。
そう考えると、毎日の食事が美味しく食べられることがどんなに貴重なことであるかに気づかされる。

更に、酒や甘味まで味わえる私は幸せ者だ。
酒が美味しく飲めるときは心身ともに調子がいいとき。
五臓六腑に浸み渡るアルコールが、もらい腐りした脳をリセットしてくれる。
また、酒に対する味覚が健康のバロメーターにもなっている(肝臓くんだけが一人静かに泣いている?)

私は、更に甘味にも目がない。
洋菓子・和菓子、何でもOK!・・・(あ!最中や甘納豆など、凝った和菓子は苦手だった)。
5号サイズのラウンドケーキなら一人でペロリといってしまう。

「ミルクレープ」ってケーキがあるでしょ?
アレを初めて食べたのは30歳くらいの時、人に連れられて行った銀座のケーキ屋だった。
フォークが入っていく感触が何とも言えず心地よく、一口食べると「なんだこりゃ!?」。
食べてビックリ!、その舌触りと旨さに心を動かされた私だった。

店は違えど、それから何度かミルクレープを食べているが、いつも三角にカットした小さなもの。
いつか、円いラウンド状態のままを思いっきり食べてみたいものだ。
それが、私のささやかな(バカな?)夢。

食い意地の張った私には食い物の話は尽きない。
ただ残念なことに、舌に美味しいものは身体に悪いことが多い。
脂肪・糖分・塩分・アルコールetc
こんなんじゃ、将来は、ロクな病気にはならなそうだね。

食べ物が豊富にある現代の日本で、意外な死に方をする人がいる。
どんな死に方って?
冷たい言い方だけど、事故死や自殺は珍しくも意外でもない。

答は、餓死だ。
にわかに信じ難いかもしれないが、現代でも餓死する人がいるのだ。
色んな人の色んな死に携わっている私でも、餓死には驚く。
豊食による病気で逝く人が数知れない中で、ひっそりと餓死者もいるのだ。

そんな現場では、「なんで?」と思ってしまう。
一体、何が人を餓死に追いやるのだろうか。
貧困か・・・
将来の悲観か・・・
プライドか・・・
それとも、餓死も自殺手段の一つなのか。

餓死者がいた部屋だからといっても極貧の雰囲気はない。
もちろん、お金持ちの雰囲気はないけど、一通り家財道具・生活用品は揃っている。
腐乱汚染も例の通り。
「どうして・・・」
ホント、不思議なせつなさを覚える。

何年か前、幼い子とその母親が餓死遺体で発見されたというニュースがあった。
かすかな記憶によると、その家には食べかけたのカップラーメン以外に食べ物はなかった。
母子は名前も分からず身元不明。
このニュースを聞いた私は、もの凄くせつなくなった。
薄っぺらい同情心でしかないけど、複雑な悲しさがあった。
母と子、どちらが先に息絶えたのか知らないけど、どちらにしろその状況を想像すると堪え難いものがある。

格差社会、低所得者層の増大が取り上げられる中で、日本でも餓死者が増えていくのだろうか。
過剰な接種カロリーに悩む大多数の日本人の陰で、誰にも気づかれることがなく。

「昼飯は何を食べようかな?」
「夜は何をツマミに飲もうかな?」
なんて、呑気に考えられる日々に飽食の陰を見る私である。


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2006-12-07 15:24:45 | Weblog
「仕事とは言え、よくやりますねぇ」
依頼者の中には、そんな類のコメントを言う人が少なくない。
私は返事に困るので、ほとんどの場合で黙ってうなずくだけに留めている。

意地悪な気持ちで言う人もいないではないだろうが、それに対して私がムカつくことはほとんどない。
言う人にとっては、正直な気持ちなのだろうから。
また、そんなコメントも、冷たい社交辞令に比べればマシに思える場合もある。

私は、もう何年もこの仕事をやっているわけで、そんな事を言われても著しく気分を害するようなこともない。
ただ、メンタル的に弱っている時にそんな事を言われてしまうと、ちょっと落ち込む。

以前のブログでも軽く触れたことがあるが、中年・年配女性の中には泣きだす人もいる。
私の職業や仕事内容を知って、驚嘆・同情・嫌悪の感情がミックスされ、自分でも訳の分からないまま涙がでてしまうのではないかと思う。

死体業、その中でも特掃はとりわけインパクトがあるみたいだ。
かく言う私だって、この仕事を知った(知ってしまった)当初は、
「へぇ~!世の中にはこんな仕事があるんだ!」
と、衝撃を受けたものだった。
ただただ驚き、「あくまで他人がやる仕事」「他人事」として捉らえていた。

しかし、何の因果だろうか、それがバッチリ・ドップリ自分でやるハメになっている。
今になると、苦笑いしかでない・・・トホホ。

「ムカつく」と言えば、代金を払わない依頼者。
普段は温厚な私でも(?)、払うべき金を払わない人にはムカつく。
信じられないかもしれないけど、実際にいるのだ。

代金の未収を防ぐために前金制・頭金制でやっているのだが、これは原則的なもの。
困窮している様を前面にだされて作業を懇願されると、こっちだってムゲには断れない。
冷たくなった人ばかりを相手にしていても、少しは温かい心を持っているつもりの私。
怪しい雰囲気(人物・人柄)は、予めだいたい分かる。
だから、安易に相手を信用する訳ではないけど、ついつい情にほだされてしまう。
もちろん、後払いでもキチンと払ってくれる人がほとんど。
しかし、残念ながらそうでない人もいる。

「人に汚い仕事をさせ、ウソをついてバックレる」
まったく、イヤな世の中だ。
こんな人は、ごく一部の人間だけと思いたい。


話は全然変わるが、書き込みコメントの公開・非公開について私からも説明しておこう。
今回、管理人がコメント公開サイトを新設したことにつき、その趣旨・情報が錯綜しているみたいだから。

管理人は、今回新設したコメント公開サイトを、読者のコメント公開を望む声に応え、読者同士が交流・情報交換をする場として立ち上げたらしい。
「・・・らしい」と言うのは、これは私の発案ではなく管理人の提案を私が了承した経緯があるからだ。

書き込まれるコメントは、文の長短に関わらずそれぞれに味がありドラマがある。
重みがあり、勉強になり糧になる。
「その価値を、少しでも多くの人と共有できれば幸い」
と言うのが管理人の趣旨。

以前、コメント欄が荒れて気分を悪くしたことがあるので、正直なところ私はコメント公開については消極的だ。
そして、放っておくと、新設サイトも荒れてくる可能性は充分あると思う。
ま、あとは荒れないように管理人がシッカリ管理してくれることを望む。

したがって、コメントの公開を望む人は新設のコメント公開ブログの方へ、コメントの公開を望まない人は従来のコメント非公開ブログの方へ書き込んで欲しい。
私は、両方の書き込みを閲覧する。
ただし、何日か遅れて見るのが常だけどね(管理人は、ほぼリアルタイムに見ている)。
また、自分で直接書き込むことはしないので了承を。

私は、本ブログを携帯電話を使って書いて(打って)いる。
以前は、時々PCを使っていたけど、今は全て携帯電話。
外で働くことが多いデスワーカーにとっては、携帯電話の方が便利。
お陰で、携帯の文字打ちは女子高生レベルにまで達しているかも。
アップした状態を想像しての改行も、上手にできるようになった。
ただ、欲しい漢字がだせなくて、仕方なく類似漢字を転用することはある(おバカなのは、私じゃなく携帯電話の方だからね)。
明らかな誤字脱字は、私のミスだけどね。

何はともあれ、公開or非公開、どっちのサイトでも構わないので、これからもヨロシク。

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秘蔵酒

2006-12-05 18:05:00 | Weblog
私は酒が好きだ。
たいして強くもないけど、下戸でもない。
数少ない、人並みにできることの一つが酒を飲むこと。

例えばビール。
子供の頃は、「大人は、なんでこんな苦いものを飲みたがるんだろう」と不思議に思っていた。
子供の頃に飲んだビールは、苦いばかりで本当にマズかった。

それからしばらく成長して自分でビールを飲み始めるようになるのだが、当初は周りに合わせて(大人ぶって)味の分かるフリをしていた。
ホントはマズイくせに、「うまい!」なんて言いながら。
しかし、飲み続けているうち次第に味が分かってきた。
そして、本当に「うまい」と感じるようになり現在に至っている。

少し前、ある居酒屋に行った時のこと。
高級店には縁がない私が行くのは、いつも安価な大衆店。
その時も大手チェーンの大衆店だった。

「とりあえずビールを下さい」
目の前に、どの店にも見られる普通の中ジョッキがでてきた。
私は、当たり前の味を想像してグビグビッと勢いよく飲んだ。

「ん?うまい!・・・」いい意味で意表を突かれた。
「今日はヤケにうまく感じるなぁ」
「喉が渇いてるのかな?」
不思議な感覚のまま、ビールはグイグイすすんだ。
しばらく飲んでいても、ペースは落ちない。
しばらくして、店員に尋いてみた。

「このビールの銘柄は何ですか?」
「○○(メーカー)の○○(銘柄)です」
「え?この値段で?」
「メーカーとタイアップして、○○記念のキャンペーン中でして」
「なるほど!そう言えば、このビールは○○でしたよね」

私は、そのビールの存在は知っており、ずっと「飲みたい」と思っていたものだった。
しかし、貧乏人の私には手が届かないでいたもの(いつも雑酒ばかり)。
それが偶然にも一般ビールと同じ値段で飲めたことはラッキーだった。

私は宣伝のつもりでも、結果的に営業妨害になってはいけないので、メーカー・銘柄は伏せておく。
ちなみに、有名メーカーの国産だ。

ある腐乱現場。
故人は年配の男性。
台所で腐っていた。
部屋の隅にはビールの空缶や酒瓶がゴロゴロと転がっており、酒好きだったことが想像されて親しみを覚えた。

床には腐敗粘土が厚く広がっており、私はそれを回り(外側)から少しずつ片付けていった。
そのうち、床からは床下収納のフタが見えてきた。

「中に 何か入ってるかな~?」

私は、目詰まりしたフタを工具でコジ開けた。
床下収納のフタは意外に重いもの。
私は、腐敗脂で滑りやすくなっていたフタを慎重に外した。

中には、何本かの酒瓶が立っていた。
その一つを手に取ってみたら、名の知れた高級酒。

「おっ!?」
少し興奮してきた私は、次々と瓶を取り出してみた。
日本酒・ウィスキー・バーボン・ブランデーetc、知らない酒もあったけど、どれも高級酒である威厳があり、かなりの熟成度を誇ってるようなモノもあった。
しかし、残念ながら、それらには例の熟成した液体がベットリ着いていた。

「これじゃぁ、どうしようもないなぁ」
せっかくの酒も、飲めるとか飲めないを考える以前の状態になっていた。

酒好きの故人は、きっと大事にとっておいたのだろう。
そして、それを口にする前に逝くハメになろうとは思ってもみなかっただろう。

人間は死んでしまうと、高級酒も金も、自分の身体さえも持っては逝けない。
何でも惜しみ過ぎないで、適当に使っていった方がいいね。
それが、生きているうちの特権かもしれないから。

さーてと、今夜も飲むか!
宵越しの銭なんか持ってられるか(単に、持てないだけだけど)!



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追いつめられて ~小心者の戦いⅡ~

2006-12-03 08:46:09 | Weblog
ワサワサワサワサ・・・
汚染箇所の周辺には、それまでに何度かお目にかかったことがある未確認歩行物体が、群れをなして這い回っていた。
「オッ?こいつらに会うのは久し振りだな」
最初はそんな余裕をかましていた私だったが、よく見てみるとその数は膨大。
気のせいか、彼等は私に向かって近づいてきているように思え、その不気味さに鳥肌が立ってきた。

「こんな所に長居は無用!退散、退散っと」
現場見分の山場(汚染箇所の確認)をクリアした私は、気持ちも軽快に外に出るため玄関に進んだ。
そして、老朽鉄扉のノブに手をかけた。

「あれ?」
ドアが開かない。
「あれっ!?」
まだ開かない。
「あれーっ!?」
全然開かない。

私は、何が起こったのか理解できず、頭が真っ白になった。
無意識のうちに、ドアをガチャガチャやり続けた。

「ま、ま、まさか?」
「ひょ、ひょ、ひょっとして?」
「と、と、閉じ込められた!?」
私は動揺しまくった!
心臓はバックンバックン、身体からはイヤな汗がジトーッとでてきた。

「落ち着け!落ち着け!」
「慌てるな!慌てるな!」
「冷静に!冷静に!」
自分に言い聞かせる自分が、既にパニックに陥っていた。
精神的にも物理的にも、完全に追いつめられた私。

しばらくの間、ドアノブと格闘した私だったが、いつしか弱気になり、ついに自力脱出を諦めた。
「どうしよぉ・・・」
とにかく、他の住人に私の存在を知らせることにした。

まず、ドアを内側からしばらくノック。
時折、外から物音・人の動きを感じるものの、反応がない。
「腐乱死体部屋の中からノック音がしたら、助けるどころかビックリして逃げてしまうか・・・」

次に、ドアポストの隙間から「スイマセーン」と何度か声をだしてみた。
「・・・ま、これも不気味だな」

私は、他に助けを呼ぶことにして、ポケットの携帯電話を取り出した。
「さて、誰(どこ)に電話しよぉか・・・」
会社・大家・鍵屋etc、自分の面子や事の緊急性など色々考えて、とりあえず不動産会社に電話することにした。
そして、特掃を依頼してきた担当者に、「玄関ドアが壊れたらしく、真っ暗な腐乱死体現場に閉じ込められてしまった」ことを伝えた。
すると、担当者は驚いて「すぐに110番か119番に電話する!」と、見当違いな返答をしてきた。

このくらいのことで警察や消防の手を煩わせる訳にはいかない。
私はそれを制止して、とにかく鍵を持って急行してくれるように頼んだ。

担当者が到着するまで、私は、そこで待つしかなかった。
腐敗臭、未確認歩行物体、そして暗闇。

私は、意識的に楽しいことを考えようと試みたが、思考はどうしてもネガティブな方向に傾いた。
「俺には、楽しいことのネタがこんなにも乏しいのか」
と苦笑したのもつかの間
「未確認歩行物体が自分を食おうとするのではないか」
「幽霊がでるんじゃないか」
と言う不安が襲ってきた。
「なんだか、恐いなぁ・・・」

私は、余計なものが見えたり聞こえたりしないよう目を閉じ、両手で両耳を塞いでジッとしていた。
そして、自分を励ますために、どこかで聴いたことがあるアンパンマンのテーマソングを不完全な歌詞で繰り返し唄った。
ちなみに、「ウジとシタイだけがト~モダッチさ~〓」なんて唄ってないからね。

助けを待つ、その場の臭かったこと、その時間の長かったこと。
しばらくして、やっと担当者が来てくれた。
そして、外からドアを開けてくれた。
意味不明なことに、外からだと普通に開いたドアだった。

「助かったーっ!」
「だ、大丈夫ですか?」
「あまり大丈夫じゃないです」
「でも、大事にならなくてよかったですね」
「まぁ・・・ね」

長時間いたせいで、私の身体には腐乱死体臭がバッチリ着いていた。
生きているのに死人の臭いを発しながら、ヨロヨロと帰途につく私だった。

「追いつめられて・三部作」はこれで終了。

記したこと以外にも、私は毎日色んなかたちで追いつめられながら生きている。
そんな人生は、楽よりも苦の方が多いような気がしている。
それでも、人は誰でも、追いつめられた土俵際で踏ん張る力は備わっているようにも思う。
ま、踏ん張れないときは一旦負けて、また仕切り直せばいいんだけどね。

気づけば、2006年も師走。
大したことができないまま、歳だけとっていく。


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お知らせ(管理人)

2006-12-02 11:24:34 | Weblog
いつも特殊清掃「戦う男たち」を閲覧いただき、ありがとうございます。

さて、以前より「コメントを公開してほしい」との要望を沢山いただいておりましたが、本ブログでのコメント公開は難しいため、別にブログを立ち上げることにしました。
書き込みは基本的に自由とさせていただきます。
戦友同士の意見交換の場などとして有効に活用していただけたらと思います。

http://blog.goo.ne.jp/tokushuseisou/
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