特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

宝探しⅡ

2025-01-25 06:22:27 | 腐乱死体 ごみ屋敷
5月から書き始めた本ブログ。
半年余が経ち、結構な量になった。
同時に、書いたことと書いていないことの記憶が薄くなってきた。
まだ書いていないことを書いたものと勘違いしたり、またその逆もでてきそう。
その辺のボケは寛容に受け止めてもらえると、ありがたい。


その昔、私が、モノを捨てられない子供だったことは、以前のブログにも書いたかと思う。
親にとってはゴミ同然に思えるようなモノであっても、子供にとっては宝物みたいに大事なモノってある。
私があまりに妙なモノ(玩具の類)を溜め込んでいたものだから、親が勝手に整理して捨てたことがあった。
私は、悔しくて悲しくて、しかも腹が立って仕方がなく、泣き叫んだのを憶えている。
大事なモノって、人それぞれなんだよね。


特掃の仕事をする場は、死体現場であることが多いが、たまに不用品の片付けもやることもある。
「不用品の片付け」と言っても、特掃でやる現場は特別なもの、いわゆるゴミ屋敷が少なくない。
ちなみに、腐乱現場がゴミ屋敷になっていることもかなり多い。


ゴミ屋敷にも色々あり、ゴミの量やゴミの中身も千差万別。
床が隠れる程度の所もあれば、天井近くまでゴミが積み上げられているような所もある。
色々なゴミがゴチャ混ぜになっている所もあれば、新聞・雑誌や空缶など特定の物ばかりがやたらと多い所もある。


ある現場。
腐乱死体現場ではあったが、そんなことよりゴミ山の方がインパクトがあった。
汚染箇所もゴミに埋もれており、遺族も完全にお手上げ状態。


ゴミを片付けることはもちろんながら、貴重品を探し出すことも遺族の強い要望だった。
遺族の欲しがる貴重品とは、預金通帳・カード・印鑑・保険証券・年金手帳etc、金になりそうなものばかりだった。
しかも、小さくて探しにくそうなものばかり。


「考えていても仕方がないんで、とにかく、やるしかないですよねぇ」
私は、見つからなくても責任は持てないことを条件に作業に着手した。


まずは、玄関のゴミから袋詰めをスタート。
中腰姿勢の作業は、なかなかキツい作業だった。
「故人は、なんでここまでゴミを溜めてしまったんだろう」
そう思いながら、ひたすら手を動かした。


「なんとか探し出して下さい!」
遺族は切望していた。


「んー、なかなか見つかりませんねぇ」
期待に応えたいのは山々だったが、いつまでゴミを漁っても一向にでてこない。
それどころか、あまりのゴミの量に疲れてきた私は、探し物をする気力がなくなってきた。


かなりのゴミを片付けると、床に敷かれた汚腐団が姿を現してきた。
「でたなー」
私は、敵の大将でも見つけたかのように、テンションを上げた。
そして、染み付いた特掃本能がムクムクと頭をだし、肝心の探し物はそっちのけで汚腐団との格闘に入った。
汚腐団については過去ブログに頻出しているので、今回は詳細記載は省略するが、例によってこの汚腐団もかなりヤバイ代物だった。


敷布団を上げると何かがあった。
茶色い腐敗粘土がベットリ着いていたので、それが何かはすぐには分からなかった。
よく見るとカードが見え、更によく見ると預金通帳が見えた。


「大事なものを布団の下に隠しておくとは、なかなかの知恵者だな」
「しかも、汚腐団の下じゃ、俺以外は誰も盗めないし」
「抜群の防犯対策じゃん」


私は、何冊かの通帳と何枚かのカードを手にとって叫んだ。
「ありました!通帳とカードがありましたよ!」
「え!?ありました?」
遺族も嬉しそうに応えた。


私は、別室の遺族のもとへ行き、それを差し出した。
「やっと見つかりましたよ」
「え゛っ!?」
「通帳とカードです・・・」
「・・・」
絶句した遺族は、鼻と口を押さえながら眉をひそました。


モノを何と説明したら分かり易いだろう。
んー、表面がドロドロに溶けた板チョコに味噌をからめた感じ・・・かな。
(また食べ物に例えてしまって申し訳ない。)


そんなモノが、探し求めていた預金通帳・カードだと言われても困るのは分かる。
しかし、せっかく探し出したモノを捨てられるのは悲しい。


私は、チョコ通帳と味噌カードをビニール袋に入れて、遺族に手渡した。
「これ、銀行に持って行ってもいいものですか?」
「さぁ・・・銀行の人もビックリするでしょうねぇ・・・やはり、やめといた方がいいと思いますよ」
その後、遺族がそれをどうしたか・・・まさか、銀行には持ち込んでいないと思うが、私が知る由もない。


宝を得るためには、相応のリスクや困難も克服しなくてはならない。
いい教訓を得た。



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2006-11-23 15:28:54
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感情の味

2024-12-20 05:01:30 | 腐乱死体 ごみ屋敷
腐乱死体現場には色々な生き物がいる。
ウジ・ハエはもちろん、ゴキブリ・蚊・ダニ・謎の虫、そして私。
この括り方でいうと、「俺って一体・・・」と思ってしまう。


ここで取り上げるのはネズミ。
特掃に入る家には、たくさんのネズミがいることも珍しくない。
押入の衣類等を片付けていると、その中からポトポトと子ネズミが落ちてくることがある。
ネズミ達の安住地をいきなり奪うのは申し訳ないような気もするが、こっちも仕事なんで仕方がない。
行き場を失った子ネズミは、とりあえず物陰に隠れようとする。


子ネズミって、丸くて小さくて可愛いいもんだ。
そんなのが、小刻みに震えたりなんかしていると、不憫に思えて大きな同情心がでてくる。
仕事を忘れて、代わりの住家を造ってやりたくなる。


捕まえて始末することは容易なこと。
しかし、そうしようと思ったことはない。


片やウジ。
汚腐団など、ウジの安住地を奪うことには何の抵抗もない(別の抵抗はあるけど)。
更には、抹殺することにさえ抵抗感はない。
ウジは天敵、宿敵。
殺すのに抵抗感がないどころが、妙は使命感・責任感みたいな・・・闘争心?がでてきて、ウジの始末には燃えてしまう。


ウジだって丸くて小さな生き物。
しかし、そんなのが途方に暮れて震えていても、とても「可愛い」なんて感情は湧いてきそうにない。


ウジは殺せてもネズミは殺せない。
そう考えると、ウジも可哀相なヤツかもしれない。


一見は可愛いネズミでも、デカいヤツになってくると話が変わってくる。


ある現場。
ゴミ屋敷に近いボロボロの老朽家屋。


古ぼけた和室の一部が腐乱死体によって汚染されていた。
汚染度は、特記するほどでもない並レベル。


ただ、その家には、やたらとたくさんのネズミがいた。
どうも、故人の生前からそうだったらしく、あちこちに毒餌とネズミ捕りが仕掛けてあった。


いくつかのネズミ捕りにはネズミがかかり、こっちも腐乱していた。
私は、視線を逸らしながらそれらを片付けた。


その中の一つがやたらと重い。
中がどうなっているのか、だいたい想像できたのだが、バカな好奇心から中を開けてみてしまった。
すると、やたらとデカいネズミがかかっていた。
しかも、まだ生きていてキーキー鳴いていた。


私は驚きと同時に悪寒が走り、全身に鳥肌が立った。
気持ち悪くて持っていたネズミ捕りを床に放り投げた。
それから、しばらくは寒気が引かなかった。


「イヤなものを発見しちゃったなぁ・・・どうしよう」
放心状態の中、私は余計なことを考えてしまった。
「このネズミは親ネズミだろうか・・・」
「親ネズミだとすると、家族(子)がいるはすだな」
「故人が仕掛けたネズミ捕りと俺の特掃作業が、ネズミ一家の幸せをブチ壊したのか・・・」
「この悲惨な親ネズミの姿を、可愛い子ネズミはどこからか見ているだろうか・・・」
「この親ネズミも、苦しみながらも、子供達のことを心配してるんじゃないだろうか」
そんな妄想をしたら、ネズミが物凄く可哀相に思えてきた。


でも、親ネズミは虫の息。
粘着シートにからまって、とても助けられる(助かりそうな)状態ではなかった。


親ネズミの始末をどうするか、私は悩んだ。
選択肢は限られているので、悩みようもなかったのだが。


余計な想像をしてしまった私だったが、結局、親ネズミを始末するしかなかった。
自業自得、ブルーな気持ちで親ネズミandネズミ捕りをゴミ袋に入れた。


私は、汚物の中を這い回るウジを見て思った。
「こいつらにも家族はいるんだろうか・・・」
「仮に、いたとしたら大家族だな」


幸いなことに、ウジってやつは感情移入を拒んでくれる生き物だ。
ウジに感情移入してたら、とても特掃なんてやってられないから。


感情ってものがコントロールできたら、どんなに楽だろうと思う。
でも、コントロールできたらできたで味気ないかもね。


喜怒哀楽・七転八倒・七転八起・迂余曲折・試行錯誤・春夏秋冬・焼肉定食・・・生きているから味わえるもの。
生きるってそういうこと。


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2006-10-23 16:55:24
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終 ~淋しさと救い~

2022-11-15 07:00:52 | 腐乱死体 ごみ屋敷
11月11日は、1年365日のうちで、もっとも多くの「記念日」が登録されている日らしい。
たまたまだが、その日は、私にとってもある種の記念日。
それは、愛犬“チビ犬”が死んだ日。
先日の11月11日は、八回目の命日だった。

この犬は、その昔、仕事で出向いた自殺現場に取り残されていたのを引き取ったもの。
死んでしばらくの間は、事あるごとに目に涙が滲んでいたものだが、八年も経った今では、想い出して涙することもなくなったし、想い出すことも自体も少なくなった。
ただ、スマホの待受画面も、ず~っとチビ犬のまま。
これは、ある年の冬、海辺に出掛けたときに撮ったもの。
四角い画面にはおさまりきらないくらいに拡大した顔面ドアップの写真を待受画面にして、変わらぬ想いを大切にしている。

私は、もともと犬好きなので、散歩中の犬を街中で見かけたりすると、ついつい視線を向けてしまう。
とりわけ、チビ犬と同じ犬種を見かけたときは、視線は釘付け。
先日も、街で、飼主の女性と散歩している同じ種の犬を見かけた。
近寄って声をかけ、あわよくば触らせてもらいたいくらいだったけど、女性からすると、見ず知らずの中年男にいきなり声を掛けられては迷惑な(怖い)ことかもしれないので、それはやめておいた。
とりあえず、立ち止まって、可愛らしい犬をしばらく眺めながら、チビ犬との楽しい想い出に浸った。
そして、いつの間にか笑顔を失ってしまったこの顔に、ささやかな笑みを浮かべた。
ただ、遠ざかっていく犬の後ろ姿を見ていると、何とも言えない淋しさにも襲われてしまった。

ただ、どんなに淋しくてもチビ犬は戻ってこない。
どんなに懐かしくても、過ぎてしまった想い出の中には戻れない。
出逢いがあれば別れもある。
始まりがあれば終わりもある。
この大宇宙にさえ“始まり”はあったとされるのだから、塵芥のような小さな人間は尚更。
楽しいイベントにしても、労苦した一日にしても、“終わり”があるというのは淋しいもの。
人生も、また然り。
いつ、どこで、どういうかたちで訪れるのはわからないだけで、“死”という間違いのない終わりがある。



「住人が部屋で亡くなって、そのまま発見が遅れてしまって・・・」
「しかも、玄関から見ただけですけど、中はゴミだらけになってまして・・・」
「そんな所で申し訳ないんですけど、中に入って見てもらうことはできないでしょうか・・・」
と、とある不動産管理会社から現地調査の依頼が入った。

訪れた現場は、老朽アパートの一階の一室。
間取りは2DK。
暮らしていたのは老年の男性。
倒れていたのは玄関を上がってすぐのところ。
無職の年金生活者で発見は遅延。
第一発見者は、電話をしてきた管理会社の担当者。
キッカケは、しばらく聞こえなくなった生活音と日に日に濃くなる玄関前の異臭。
それを不審に思った隣室の住人が管理会社に連絡したのだった。

駆け付けた担当者は、鼻と突く異臭で異変を察知。
スペアキーで玄関を開けると、中はゴミの山。
そして、その視界には、ゴミに混ざるような格好で横たわる人間らしきものが・・・
眼を凝らして見ると、皮膚は黒く変色し、着衣も、汚れた機械オイルに浸したかのような不自然さがありながら、それは、やはり人間・・・
心臓が爆発して失神しそうなくらい気が動転する中、担当者は、すぐさま警察に通報したのだった。

もちろん、私が出向いたとき、既に遺体は搬出済み。
しかし、遺体が残した腐敗物は残留。
遺体があったと思われる部分は、茶黒色の粘液がゴミと混ざってドロドロの状態。
もちろん、強烈な悪臭も発生。
しかも、大量のゴミが堆積。
私は、部屋の全体像をつかむため、堆積するゴミに足を取られながらも、台所と二つの部屋をグルグルと巡回し、ゴミの内容と量を観察していった。

浴室・トイレ・洗面所もゴミによって全滅
浴槽も便器はゴミの中に埋没し、洗面台はゴミだらけ。
部屋よりも高く積み上げられており、「ゴミの収納庫」のような状態。
トイレの扉は半開きのまま、内外に積まれたゴミの圧によって固定され、まったく動かず。
横向きで無理矢理に滑り込ませれば出入りできるくらいの隙間しか開いておらず。
また、浴室の扉は開いたまま、枠から外れて倒壊。
天井近くまでゴミが積まれて、足を踏み入れる余地は まるでなし。
洗面所も同様。
洗面台は部分的に姿を現していたものの、ゴミやカビにまみれて著しく汚染。
とにかく、とても使えるような状態ではなく、生活設備としての命はとっくに失っていた。

それまでにも、「ゴミ屋敷」「ゴミ部屋」と言われるような現場には数えきれないくらい遭遇しているけど、いつも、「これでどうやって生活していたのか・・・」と不思議に思う。
不衛生なうえ日常の生活に支障をきたすのはもちろん、害獣・害虫による病気や、漏電・電気ショートによる火災や、壁が壊れたり床が抜けたりすることによるケガ等、場合によったら危険だったりもするはず。
しかし、なんだかんだと、人は環境に適応するのか・・・
菌やウイルスにも耐性がつくし、不便さも、忍耐と工夫と慣れで乗り越えてしまうのだろう。

ゴミの上でも、平たくしてマットでも敷けば寝床になる。
風呂は、地域に銭湯があれば問題ないし、シャワー完備の職場であれば、そこを使えばいい。
別件での話だが、スポーツジムの会員なってそこのシャワールームを使っている人もいた。
台所が使えなくても、外食や買い食いをすれば飢えることはない。
洗濯はコインランドリーに行けばいい。
トイレは公園や駅などの公衆トイレを使えばいい。
ただ、故人は、トイレに関して大きな問題をこの部屋に置いて逝ってしまっていた。


山積するゴミの中には、かなりの数の瓶・缶・ペットボトル等があった。
まず、ウイスキー好きの私の目についたのは、中身の入ったウイスキーボトル。
普通に考えると、その中身はウイスキーのはず。
しかし、そこは重度のゴミ部屋。
しかも、同じ態様のボトルが何本も転がっている。
更に、よく見ると、ゴミに埋もれて一部だけ見えているものも無数。
そんなに買いだめるわけはないし、褐色ながら、中身の色もまちまち。
また、ウイスキーなら濁るはずはないのに、濁ったものまである。
似たようなモノに何度となく遭遇したことがある私は、はやい段階から“ピン”ときていた。
もはや、それがウイスキーでないことは明白。
そう・・・中身は尿。
トイレが使えない部屋で、故人は、ウイスキーボトルに用を足していたのだった。

尿が入れられていたのは、ウイスキーボトルだけではなかった。
炭酸水・お茶・ジュース等のペットボトルも多量。
もちろん、それらすべて尿がタップリ。
そのほとんどにはキャップがされ、漏れないように締められていたのが唯一の救い。
しかし、例外なく中身は腐敗醗酵しているようで、独特の変色や濁りが発生。
持ち上げてみると、沈殿していた固形物がモワモワと舞い上がり、相当 不衛生な状態に仕上がっていることは明らかだった。

日本酒の容器も多量
残念ながら、そのほとんどは瓶ではなく紙パック。
もちろん、それなりの耐水性はあるのだが、それも場合による。
ゴミの中で、圧されたり潰されたりして変形すれば強度は落ちる。
一部にでも容器にキズがついたりすると、それが起因して容器(紙)自体の強度や耐水力は激減。
本来は固いはずの紙パックは浸み出た尿でベチャベチャになり、そのうちにフニャフニャ・グズグズに腐食。
持った感覚は、水を入れたビニールみたいな状態に。
もちろん、手袋を着けているのだが、手は尿でベチョベチョになるわけで、なかなかの気持ち悪さがあった。

ビールやチューハイの缶も同様。
これも、部屋中にゴロゴロ。
しかし、缶には蓋はなく、一度開けたら閉じることができない。
当然、傾けたり横にしたりすれば中身がこぼれる。
当初、故人は、缶をできるかぎり直立させていたようだったが、ゴミ部屋の中では水平で安定したスペースは少ない。
となると、横に並べるのではなく縦に積み上げるしかない。
故人は、平面と見つけては缶を並べ、横に並べるのは無理になると縦に積み上げ、また、家具や壁に面したところでは斜めにしたまま積み上げ、まるで、芸術作品のように器用に組み上げられた部分もあった。
しかし、結局、それらは、ちょっとした拍子で倒壊・転倒するはず。
となると、中身は容赦なく流れ出るわけで、それは、火を見るより明らかなことだった。

また、急を要するときもあったのか、こともあろうにビニール袋やカップ麺の容器に入れられた尿もあった。
もちろん、それらに栓や蓋はないわけで、もはや、こぼさないでゴミの中から取り出すのは不可能。
既に、こぼれているものも少なくないはずで、となると、尿にまみれたゴミや床が悲惨な状態になっているわけで、それを想像する私の口からは愚痴と溜息しか出なかった。

ゴミ屋敷・ゴミ部屋において、尿を容器に溜めるのは、そんなに珍しいケースではない。
トイレが使えるうちはトイレで用を足すのだが、トイレがゴミで埋まったり、排管が詰まったりした場合、トイレはトイレとしての機能を失う。
一日一回くらいの糞便なら、その辺の公衆トイレや勤務先のトイレを使えるかもしれないが、一日数回の排尿はそういうわけにはいかない。
尿意をもよおす度に公園や駅のトイレに行くのは面倒臭い。
で、身近にある容器に溜めてしまう。
当然、尿は、そんなことおかまいなしに毎日出てくるわけで、部屋の尿容器は増えていく一方となり、あれよあれよという間に、自分では手に負えないくらいの膨大な量となるのである。


まずは、長く使われていなかったトイレを尿が流せる状態にするのが先決。
トイレの前に積まれたゴミを移動し、扉が空いたら、中のゴミを丸ごと除去。
すると、著しく汚損腐食した床と壁、そして、得体の知れない汚物でゴテゴテになった便器が露出。
しかし、それらは、手を入れたところで再使用できるものではなく、そのまま放置。
とりあえず、便器に水を流し、詰まっているかどうか確認。
残念ながら、トイレは詰まっており、あの手この手で詰まりを解消。
何とか、尿を流せるところまで復旧させた。

しかし、これは、小さな前哨戦。
メインイベントは、尿をトイレに流す作業。
当然、それ専用の道具や機械はない。
使えるのは自分の身体、一本一本、手作業でやるのみ。
ゴミの中から尿容器を数本拾い集め、それをトイレに運び、キャップを外し、中身を便器に流す・・・ひたすらそれの繰り返し。
ほとんどの尿は腐敗醗酵しており、多くは、甘酒や味噌汁のように汚濁。
また、理由はわからなかったが、中には、ヨーグルトのような固形物が沈殿しているものもあり、それは更に強烈な悪臭を放った。
そして、それが、容赦なく身体に飛び散ってきた。

肉体への負担も大。
ゴミの上は足場が悪く、その上、中腰姿勢も多く、地味ながら膝や腰に負担がかかった。
スムーズにキャップが外せない容器も多々。
キャップの開け閉めも、回数を重ねると手に負担がかかり、ビニール手袋を破損させるだけでなく、指を痛くさせ握力まで疲弊させた。

精神への負担も同様。
もともと、私は、コツコツ努力することが苦手で勤勉な人間ではない。
単純単調な作業を繰り返すことは、苦手中の苦手。
「だから、この珍業が務まっている」とも言える。
しかし、そんな性質を無視するかのように、ここで求められたのは単純単調な作業。
更に、追い討ちをかけるように、ゴミ山の中からは次から次へと尿容器が出現。
拾っても拾っても減った感を得られず、「自分との戦い」と気取る余裕もなし。
「頭だけでも楽しいことを考えよう・・・」と努めても焼け石に水。
折れそうになる心との戦い・・・というか、終わりの見えない作業に心が折れないわけはなく、尿の汚さと悪臭も加わり、早い段階で心はポキリと折れてしまっていた。

しかし、どんなに嘆いても、最後までやり遂げなければならないことに変わりはない。
ある程度は自分のペースでできるものの、工期も限られているわけで、甘えてモタモタやるわけにもいかない。
とにかく、気が向こうが向くまいが一定のスピートでやるしかない。
あと、仕事なのだから、故人に腹を立てるのはまったくの筋合い。
しかし、この事態を収拾しなければならない自分の立場を思うと、器の小さい男ならではの妙なイライラ感が沸々。
それに対するには、まるで何かの修行をさせられているような、「根性」とか「根気」などと言ったものとは異なる次元の「開き直り」みたいな感覚が必要。
「踏んだり蹴ったり」とまでは思わなかったけど、いつもの特殊清掃とは違う、なかなかツラい仕事となった。

尿容器は、見えているだけでも数えきれず、また、ゴミに埋まっているものまで含めると相当の数があるはずだった。
どれだけやれば終わるのかわからない・・・
いつまでやれば終わるのかわからない・・・
しかし、わかっていることもあった。
それは、「その数には限りがあり、無限に出てくるわけではない」ということ。
「やり続ければ最後の一本にたどり着くことができる」ということ
つまり、「終わりがある」ということ。
何度となくイラ立ち、何度となく嫌気がさしてくる作業の中、何気ないところで、これが心の癒しとなり支えとなった。


すべて、生きているうちだけのこと。
万事が無常であることは、虚しいことであり、“終”というものは、淋しいものである。
しかし、同時に、“救い”でもあると思う。
何故なら、生きることの苦しみも 悩みも 悲しみも 痛みも、“終”があることによって永遠ではなくなるのだから。
命や人生にも、“限り”があるからこその意味や価値があるはずだし。
私のように、苦悩に満ち ただ日々をやり過ごし、ただ生きているだけでも・・・

チビ犬の写真を見る私は、淋しさの中で微笑みながら、しみじみとそう想うのである。


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