特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

毎日元旦

2018-03-11 13:31:34 | その他
季節錯誤も甚だしくて恐縮だが、「2018謹賀新年」。
早春、三月も中旬になろうかというのに、昨年大晦日以来、今年初のブログ更新。
作業が より過酷になる夏場にブログが止まるのは珍しくないけど、この時季に止まるのは珍しいかも。
正直、こんなに長く書かないつもりはなかった。
その理由は単純、単に仕事が忙しかっただけのこと。
体調を崩したわけでもないし、精神状態が悪かったわけでもない(恒常的な不具合はあるけど)。

話を正月まで遡らせる。
私は、大晦日も元旦も仕事だったのだが、体調はすこぶる優れなかった。
12月30日の午後から頭痛がしはじめ、腹には不快感も発症。
翌31日になると寒気がきて鼻が詰まってきた。
どこからもらってきたのか、どうも風邪を引いたらしい。
それでも、せっかくの年越しなので、おとなしく寝る気にはなれず。
一通りの肴を食べ、一通り酒を飲み、カップ蕎麦を年越蕎麦とし、0:00をまたいで新鮮な気分を味わった。
しかし、翌日の元旦、体調は更に悪化。
発熱と倦怠感に襲われ、食欲もでず。
夕方までの仕事を何とかこなし、寄り道もせず帰宅。
当然、その日の夜は酒も飲まず。
「よりによって、元旦早々 風邪にやられるなんて・・・」
と、一年を始まりに不吉さを覚えつつ、
「始まりが悪い分、今年はいいことがある!」
と、無理矢理、自分にそう言い聞かせながら、おとなしく布団に入った。

幸い、それ以来、風邪も引かず、大きく体調を崩してもいない。
周辺で大流行しているインフルエンザにもかかっていない。
難といえば、慢性的な腰痛と左股関節の不具合くらい。
身体を壊すと自分が苦しいし、周りにも迷惑をかけるから、一応、健康管理には留意している。
好物の酒や甘味は控えめにし、適度な運動を心がけ、毎晩 体重計に乗っている。
もちろん、それで、すべての病気が防げるわけではない。
病気やケガは、自分ではどうにもできない領域が広い。
ましてや、モノが経年劣化するのと同様 身体も歳を負う毎に衰え弱るわけで、そのリスクは高まるばかり。
だけど、ある程度の摂生(≒ケチ生活)は、精神衛生上もいいような気がするし、身体を楽にしてくれるような気がする。
だから、少々の我慢や忍耐が伴おうが、心身の健康のために摂生をやめるつもりはない。

摂生だけではなく、仕事を頑張ることも健康の一要因。
ある高齢労働者が言っていた。
「元気だから働くのではなく、働くから元気なのである」
“働かずに生きていけたら どんなにいいだろう・・・”なんて邪念がつきまとっている私だからこそ、この言葉は心に刻まれ、時には励まされている。

カレンダーを遡ってみると、私が最後に休みをとったのは1月8日。
つまり、それ以来、今日に至るまで二か月余り休みをとっていないことになる。
仕事に追われていたのか、それとも夢中で仕事をしていたのか、そんなに長い間 休みをとっていなかったなんて、まったく自覚していなかった。
ま、確実に言えるのは、「それだけ働けた」「それだけ頑張った」ということ。
決して悪いことではない。

ただ、これだけみると、うちの会社は、今 流行りの(?)“ブラック企業”みたいに思われるだろう。
しかし、実のところ、“受動的に働かされている”が故に、白いものが黒く見えることってあると思う。
逆に、“能動的に働いている”が故に、黒いものが白く見えることもあると思う。
隣の芝生が青く見えるのは世の常・人の常、不平不満が消えないも世の常・人の常。
楽しんで幸せは手に入るけど、楽して幸せは手に入らない。
結局のところ自分次第。
実際にブラックかどうかはさておき、勤労者として幸せなのは 先の前者or後者 どちらかは言うまでもない。
自分で言うのもおこがましいが、私は、能動的に働いているつもり。
同僚を差し置いて、好きで現場に走っているわけで、そのせいで休みがとれないわけだから、少なくとも、私にとって うちの会社はブラック企業ではない。

私は、ヒマで楽するより、忙しくて疲れるくらいの方がいい。
心身が壊れるほどの疲労困憊はご免だけど、結局のところ、人間 ヒマだとロクなことがない。
ロクなことを考えないし、ロクなことをしない。
頭は余計なことを思い煩うばかりだし、身体は怠けてダラけてしまうし、伴って心は萎えてしまう。
そして、金より大事な時間を無駄に垂れ流してしまう。
私みたいなネガティブ人間は、少々忙しいくらいの方が、生きてて丁度いいような気がしている。

とにもかくにも、“働ける”ってありがたい!
不本意なブラック作業だけど、それでも、ありがたい!
ホント、素直にそう思う。



今、身内の一人に末期癌の患者がいる。
タバコも吸わず、飲酒も少量、スポーツジムに通って筋骨隆々、病気とは無縁の元気な人だった。
それが、数年前に食道癌を罹患。
そして、食道を切除。
以降は、継続して抗癌剤治療。
進行性の癌だったため、薬は強いものが使われた。
その副作用は重く食欲は減退し、ガッシリした体格も細くなり、濃かった頭髪も薄くなった。
あまりにツラいものだから、本人は、癌への効きは弱くなってもいいから、薬の強度を下げることも希望。
医師も、本人の意思を尊重した。

病状は、徐々に悪化。
身体が弱ってきているのは、たまにしか会わない私の目にも明らかだった。
結局、癌は各所に転移し、もう手の施しようがなくなってきた。
そして、昨年の晩秋、医師から家族に「年を越せないかも・・・」と告げられた。
ただ、闘病の意志と生きる希望が削がれてはいけないので、本人には、そのことは伏せられた。
ホスピスに入れることを薦める親族もいたが、表向きには余命を宣告されていないため、その話は立ち消えになった。

私が直近で会ったのは、昨年12月の下旬。
本人の自宅を訪問した際。
悟られないように気をつけながらも、“最期のお別れ”のつもりも少しはあった。
元気な頃に比べて身体は痩せ、髪も薄くなってしまっていたが、顔色はいいし言葉も弱々しくなく、比較的元気そう。
家に引きこもっていると身体が鈍るので、買い物や散歩等、できるだけ外に出るようにしているとのこと。
日常生活はフツーにできているようで、医師の「年を越せないかも・・・」といった言葉が信じられないほどだった。

その時は、一緒に昼食を食べ、お茶を飲みながら しばらく雑談。
抗癌剤を打っている間とその後しばらくは食欲が減退するらしかったが、そうでない時 食欲はあった。
しかし、モノを食べる際は注意が必要。
食道部分がとても細くなっているため、食べ物は少量ずつ口に入れて、更によく噛んでゆっくり飲み込む必要があった。
ちょっと油断して 手術前みたいな食べ方をすると、すぐに嘔吐してしまうのだ。
“食べたいのに食べられない”、頭が欲する食事と身体が受け入れられる量に大きなギャップがあるため、それがストレスになっているようで、飲食大好きの私は とても気の毒に思った。

「朝 目が覚めたら、“あぁ・・・今日も生きてるな・・・”って思うんだ・・・」
「一日 一日だよ・・・一日 一日を生きてるんだよ・・・」
「私にとっては、毎日が正月の元旦みたいなもんだね・・・」
しんみりと、そうつぶやいた。
でも、私とは逆で、もともと明るくポジティブな性格。
「でもね、はやくよくなって蕎麦を思いっきりすすりたいんだよね!」
心のどこかで 先が長くないことを覚悟しつつも、それでも、病気と闘いながら明るく生きることは諦めていないようで、元気だった頃と変わらない笑顔をみせた。

しかし、生老病死は万民の定め。
先週から、ほとんど食事ができなくなり、横になっていることが多くなったよう。
それでも、本人は明るく過ごしているという。
その状況は、桜を待たずに逝ってしまうことを示唆しているような気がして、私は、独特の怖さとの寂しさと切なさを覚えている。
とにかく、近いうちに休みをとって見舞に行きたい。
仕事柄、危篤の知らせで受けてもすぐに駆けつけられない可能性が高いし、ちゃんと話ができるうちの方がいいから。
ただ、それこそ、“最期のお別れ”になりそう。
「学べ!学べ!」「感じろ!感じろ!」「受け取れ!受け取れ!」
今、私は、身近にあるその生と死を想いながら、また、自分の最期を重ねながら、強く自分に訴えている。


死は、戦いの相手であり、恐怖の怪物であり、嫌悪の対象であり、諦めの原因であり、悟りの機会であり、ときには憧れの行先になるもの。
死は、生きるための戦いを強い、未知の恐怖を与え、恐怖がゆえに嫌悪し、生きることを諦めさせ、人生を悟らせ、生きる苦しみから逃れる先となるわけ。
ただ、こちら側(生きている側)がどんな捉え方をしようが、どんな哲学・思想・宗教を振りかざそうが、到底 太刀打ちできるものではなく、勝てる相手ではない。
老い・病・ケガ・事件・事故・自死、人の死を伝える世のニュースや、身近な人の死を見ればわかるように、死は、多くの人が考えているほど遠いものではなく身近なものであり、絶対的な存在で常に私達の背後につきまとっている。
ただ、そんな“死”があるから生があるわけで、死があるから人生が生きるのではないかと思う。

“死”は、人生を生かすために必要な礎。
「どうせ いつか死ぬんだから・・・」といった空虚感・虚無感が、生きる意味を見失わせることが少なくないけど、実は、“死”は、人を活かし、人生を充実させ、人に生きる意味と生きなければならない理由を示してくれているのではないかと思う。
今の私にとって“死”は、怖く・寂しく・切ないものだけど、実は、それだけのものではなく、優しく・あたたかく・明るいものかもしれない。

そんな死を前に、新鮮な心持ちで、明るい気持ちで毎日を生きることができたら何より。
だけど、色んな事情や悩みがあって、暗い気持ちを引きずったまま朝を迎えることもあるだろう。
「いつか きっといいことある!」
なんて、無責任なことは言えないけど、心の持ち様(大局的・長期的な感性)で、悪いことの中に いいことが見いだせることもある。


あの大震災から今日で7年。
大きなものを失い、多くのものが失われた。
しかし、それで得たものもまた大きく、それで気づかされたこともまた多い。

毎日、元旦のような新鮮な心持ちで、感謝の時を生きていきたいものである。


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