特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

ロープはどうする?

2024-04-22 08:23:16 | 特殊清掃 自殺
日本人の自殺者は一日約100人にのぼっていることは特に新しいニュースではない。
日本人の自殺方法で最も人気のあるのは、首吊りらしい。
我々が自殺現場に関わることも少なくない。

これは、ある首吊り現場での出来事である。発見が早かったらしく、部屋の汚染は軽度で、特殊清掃作業自体はライトなものだった。
ただ、遺族から受けた相談には困った。
「故人が自殺に使ったロープはどうすればいいか?」とそのロープを差し出されたのだ。
遺族は、故人が自殺したことにビビッて、ロープの取り扱いにも異常に神経質に慎重になっていたのだ。
ああでもない、こうでもない、と遺族同士が議論する中で、私が責任を負わされると困るので、「お身内の方々が決められるのが本筋では?」とうまく回避した。
結局、「本人が最後に使った物だから本人の責任ということで柩に入れよう」と言う意外な意見にまとまった。不謹慎ながら苦笑いするしかなかった。

死人に追い討ちをかけるような結論で、こんな冷たい親族じゃ自殺もしたくなる?

トラックバック 2006/05/22 投稿分より


-1989年設立―
日本初の特殊清掃専門会社
ヒューマンケア株式会社
0120-74-4949


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生と死 権利と義務

2022-05-09 07:00:00 | 特殊清掃 自殺
五月に入り、色とりどり、街や野山のあちらこちらでツツジが満開の盛りを迎えている。
そんな中、長~いGWが終わった。
懐が寒くなっている人、渋滞や人ごみに疲れた人、飲み過ぎ食べ過ぎで太った人など、様々な人がいそう。
とにもかくにも、久しぶりに政府や自治体による規制らしい規制がないGWで、多くの人が、その ひと時を楽しんだことだろう。
そして、そこでは、多くの“笑顔の想い出”が生まれたことだろう。
今は気づいていないかもしれないけど、この先、それは、“人生の宝物”になるもの。
だから、次の楽しみを追うばかりではなく、これはこれで、大切に、大切に、心にしまっておいた方がいい。
先々、自分を癒し励ましてくれることがあるかもしれないから。

併せて、今日から再び仕事の人も多いだろう。
家族から解放されてホッとしている人、再びの労苦に向かって憂鬱になっている人、様々か。
憂鬱になっている人にとっては、キツいところ。
そのうちに慣れてくるのだろうけど、とりわけ、新入社員や新入学生などは、五月病にならなければいいけど。
現実逃避からくる退職・退学等の間違いが起こって、私のような人生を歩くことになったら、目も当てられないからね。

私の場合、GW明けとか、まったく関係なく、毎朝、キツい思いをしている。
毎朝、起床前の数回、ほんの数秒から十数秒なのだが、「波」というか「発作」というか、胸の内を得体の知れないものが襲ってくる。
鬱にも慣れたこの頃は、それが「来そう」「来てる」「過ぎた」というのが自分でもわかる。
うまく言葉では言い表せないけど・・・
奈落に突き落とされるような恐怖感、暗闇を彷徨うような不安感、追い詰められるような切迫感、動悸がするほどの緊張感、息をするのもイヤになるくらいの虚無感・・・すべて自分の中で起こっていることながら、身の危険を感じるときもある。
あくまで、個人的な憶測だけど、ビルからの飛び降りや電車への飛び込み等、衝動的な自殺の場合、当人は、この症状に見舞われているときが多く、瞬間的な感情に動かされてしまうのではないかと思う。



「自殺があった部屋なんですけど・・・」
取り引きのある不動管理会社から、現地調査の依頼が入った。
日本人が自殺する場合、「縊死」、つまり、首をくくることが多いのだが、自刃の場合は“血の海”になっていることも多く、念のため、私は、そのことを質問。
すると、担当者は、
「“首吊り”です・・・」
と、声のトーンを落として返答。
発見に至った経緯や汚染・異臭の具合も訊きたかったけど、それ以上、担当者の気分を沈ませては申し訳なかったので、“現場に行けばわかること”と、私は、質問の言葉を飲み込んだ。

希望された調査日は、それから数日後。
訪れた現場は、閑静な住宅地に建つアパート。
軽量鉄骨構造で、「マンション」とは呼ばないものの、「アパート」と呼ぶには高級。
外観もきれいで、同地域の木造アパートに比べると、間違いなく家賃は高いはずだった。

早めに到着した私は、建物の前で待機。
すると、程なくして、二人の男性が現れた。
一人は、電話で話した管理会社の担当者。
そして、もう一人は中年の男性で、故人の遺族(以降「男性」)。
落ち着きのない物腰と、怯えたような表情から、故人とは、かなり近い血縁者であることが伺えた

通常の孤独死でも充分ショッキングなのに、自殺となると、男性も、心中、穏やかではいられないはず。
通常の精神状態ではなく、デリケートな状態、ナーバスになっていても不思議ではない。
私は、前もって、遺族が来ることを知らされておらず。
だから、そんな男性を前に、私は、やや緊張。
どんな表情で、どんな物腰で、どんな言葉遣いで接すればいいのか、ない知恵を絞って思案した。

現場の状況については、「担当者に会った時に訊けばいい」と考えていた私。
しかし、男性が一緒となると、なかなか訊きにくい。
結局、死後どれくらいで発見されたのか、汚染や異臭はどんな具合か、状況は不明のまま、短く挨拶を済ませただけで、我々は部屋の方へ。
玄関前に着くと、担当者は、カバンから鍵を取り出し、何の躊躇いもみせず、ドアの鍵穴に差し込んだ。

部屋が凄惨な状態になっている場合は、一番先に私が入ることが多い。
もっと言うと、私しか入らないことが多い。
しかし、ここでは、鍵を開け、ドアを引いた担当者は、迷うことなくそのまま入室。
次いで男性も。
中が汚い場合は土足のまま、またはシューズカバーをつけて入ることが多いのだが、二人とも玄関で靴を脱いで。
部屋を見るまでもなく、もう、それだけで「軽症」であることが判明した。

部屋に入ると、室内に家財はなく、空っぽ。
また、汚染らしい汚染もなく、異臭らしい異臭もなし。
というか、これから誰かが入居してくるのはないかと思われるくらい、かなりきれいな状態。
事情を知らずに一見すると、部屋を探している人を不動産会社が案内しているのかと見まがうくらいの画で、私は、逆の意味で驚いた。

間取りは1DK。
「この辺です」
部屋に入ると、担当者は、そう言って、遺体があった辺りを指さした。
そして、
「床に、少し体液がついていたようですけど、〇〇さん(男性)が掃除されたそうです」
と説明。
残っていた家財も男性達遺族が片付けたようだった。

「ところで、私は、何をやれば・・・」
特段の汚染も異臭もない部屋で、自分がやるべき仕事を計りかねた私は、そう質問。
「床の清掃と部屋の消毒です!」
担当者は、男性に気遣う素振りもみせず即答。
「大家さんが強く希望されているものですから」
と、言葉を続けた。
しかし、「掃除」と言っても、既に床はピカピカ、「消毒」と言っても、部屋は充分に清潔な感じ。
しかし、大家は、それを強く希望。
担当者は、更に言葉を続け、
「その後、床と天井壁のクロスは貼り替えます」
「水周りの設備をどうするかは検討中です」
と、大家の“要望”・・・というか、”命令”を代弁。
私は、内心で、“どうせ貼り換えるなら、清掃も消毒もいらないんじゃないかな・・・”とも思わなくもなかったが、それを口にしても自分の得にはならないので、黙って聞き流し。
男性も、故人の身体あったところの床を見つめながら、黙ったまま反論もせず。
この流れからすると、「向こう〇年間、通常家賃の〇%を補償していただきます」といった家賃保証の問題がでてくるのも時間の問題だった。

担当者としては、この痛ましい現実に対して、いちいち男性に気遣って、その心情を汲んでいては仕事にならない。
親切のつもりで感情を移入すると、それが、精神的な負担を重くすることもある。
担当者は、横柄な態度をとるとか、偉そうな口調で話すとか、そんなことはなく、男性に対する礼儀をわきまえつつも、男性の顔色をうかがうことなく、一方的、且つ、やや事務的に大家の意向を伝えていった。

同時に、私は、大家の心情も察した。
大家は、ありきたりのアパートを建てて、ありきたりの家賃を得るより、付加価値の高いアパートを建てて、地域相場より高い家賃を得ることを選択したのだろう。
もしくは、結構な資産家か。
どちらにしろ、アパートへの愛着もあれは思い入れもあって当然。
しかも、問題は、この部屋だけのことでおさまる保証はない
「気持ち悪い」と、他の部屋の住人が出ていく心配もある。
「あそこのアパートで自殺があった」等と、一部屋だけの問題ではなく、アパート全体が風評被害に遭って、他の部屋まで家賃を下げなければならなくなる可能性だって充分にある。
ただの孤独死なら、ある種の不可抗力な出来事でもあるが、事情はどうあれ、あくまで自殺は「故意」。
大家は、その事実に対して、大きな嫌悪感を抱き、強い憤りを覚えていたのではないかと思われ、そんな気持ちを考えると、遺族に対する要求は理不尽なものとも思えなかった。

成り行きで、私は、その場にいたのだが、担当者と遺族がやりとりする中では無用の存在。
極めてデリケート、かつ故人や男性のプライバシーに関わるような話だから尚更のこと。
しかし、そこに、「用は済んだので、私は引き揚げます」と口を挟めるような雰囲気はなく、結局、黙ってその場に滞在。
そして、マジマジと見つめたわけではなかったが、担当者が何かを言うたびに、私のチラチラとした横目視線は、自然と遺族の方へ。
無表情の中にも滲み出る心情があり・・・
下衆の野次馬根性がありながらも、独善的な感傷がありながらも、私の頭は、その心情を読んでいった。

亡くなったのは、男性の息子。
年齢を訊く立場にはなかったけど、男性の年齢からすると、故人は若かったはず。
若くして逝った故人の苦悩はいかばかりだったか・・・
残された遺族の嘆き悲しみはいかばかりか・・・
抱えきれない苦悩を抱え、負いきれない重荷を負い・・・
倒れないでいるだけでやっと、潰されないでいるだけでやっと・・・
生きているだけでやっと、やっと生きている・・・
担当者の口から出る言葉に対して、男性は、短い質問こそすれ反論はせず。
反論したいことがなかったわけでもなく、大家の言いなりにもなりたくなかったはずだけど、故人がやってしまったことを大家の立場になって考えると言い返す言葉も見つからなかったのだろう。
私の目には、床に視線を落としたまま黙っている男性が、
「息子はそんなに悪いことをしたのだろうか・・・」
「これだけ人に迷惑をかけてるんだから、やはり、悪いことをしたんだろうな・・・」
と、無理矢理、自分を納得させ、
そしてまた、
「育て方が悪かったんだろうか・・・」
「助けてやる方法はなかったんだろうか・・・」
と、深く悔やんでいるように見えた。
そして、私は、そんな男性の姿に、何も及ぼせない過去を痛感させられ、男性にとって、何の役にも立たない哀れみや同情心をともないながら、ただただ小さな溜め息をつくのみだった。


「自殺」というものは、痛ましいことであり、悲しいことであり、憐れむべきことかもしれない。
しかし、往々にして、「自殺」は悪行とみなされ、故人だけでなく遺族まで罪人のような扱いを受ける・・・
やったのは故人で、遺族ではないのに、いわば、故人の身代わりとして、重荷を背負わされる。
同時に、同じ、一人の死でも、“自殺”となると、同情心はなかなか湧いてこず、疑義や咎める気持ち、場合によっては嫌悪感や恐怖感が沸いてきやすい。
特に他人は。
これも、また現実。
正邪・善悪で片付けることができない中でうごめく悩ましい現実。
しかし、これを「冷酷」と非難することはできない。
もともと、生存本能をもつ人間は、“死”に対して嫌悪感や恐怖感を持っているものだし、自ら命を絶つことに対して、更に強い感情を抱くことも自然なことだと思われるから。

私は、これまで、遺族・利害関係者・他人に関係なく、「自殺」という事象によって甚大な害を被った人々の悲哀や苦悩もたくさん目の当たりにしてきた。
そして、残念ながら、これからも、自殺現場に携わることが少なからずあるだろう。
それでまた、己のメンタルにダメージを受けることもあるだろう。
また、百歩譲って、それで故人は救われるのかもしれないけど、残された人は、誰一人、幸せにはならない。
それどころか、未来に向かって持っている、幸せに生きる権利さえも奪いかねない。
だから、故人を責める気持ちになれないのも事実だけど、私は、決して「自殺」というものを肯定しない。


生きることは権利なのか、それとも義務なのか・・・
不幸の底にいると義務のように思えてしまうこともあるけど、実のところは権利。
行使していいもの。
また、死ぬことは権利なのか、それとも義務なのか・・・
絶望の淵にいると権利のように思えてしまうこともあるけど、実のところは義務。
履行されなければならないもの。
つまるところ、“生きることは権利”であり“死ぬことは義務”であるのが、本来のあり方のように思う。
生きる義務の履行中は死ぬ権利は行使できず、生きる権利を行使している中でも死ぬ義務は履行される・・・つまり、いつまでも生きていたくても、いつか死ななければならないのだから。

本来、権利である“生”を義務として履行せず、本来、義務である“死”だけを権利として行使するのは、虫が良すぎやしないだろうか・・・
しかし、私は、今、義務的に生きてしまっている。
程度に差はあれど、生きにくくなる一方の現代社会には、似たような人も少なからずいそう。

「俺には、俺が生きる権利を奪う権利はないよな・・・」
「死ぬことは、義務として定められているんだから、そんなに、生きることを恐れる必要はないのかもな・・・」
私は、混乱している頭でこの文を打っている自分に、そう語り掛けている。
そうして、やっとの想いで、明日への命を繋いでいるのである。
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Negative speaker

2014-03-19 09:15:09 | 特殊清掃 自殺
年柄年中、あちこちの街に出かけている私。
ある時、ある街で、妙な看板が目についた。
そこには、
「ネガティブスピーカーと楽しく会話」
と、デッカイ文字。

「ん? ネガティブスピーカー!?」
「ネガティブスピーカーと楽しく会話なんてできんのか?」
と、私は、少し驚いて頭を傾げた。
そして、自分の仕事を棚に上げて
「世に中にはヘンテコな商売があるもんだな」
と感心しながら苦笑。
しかし、その看板をよく見ると、「ネガティブスピーカー」ではなく「ネイティブスピーカー」と書いてある。
それは、どこにでもある、英会話教室の看板だった。

“ネガティブスピーカー”と“ネイティブスピーカー”はまったく別物。
そもそも“ネガティブスピーカー”なんて言葉、聞いたことがない。
「“ネイティブスピーカー”を“ネガティブスピーカー”と読み間違えるなんて、何とも俺らしいや」
マイナス思考が服を着たような人間である私は、再び苦笑したのだった。


故人は50代の男性。
死因は縊死。
現場は、一時代前のアパート
間取りは2DK。
死後、結構な日数が経過しており、深刻な汚染と異臭があった。

入室して、まず目指したのは遺体汚染痕。
それは、和室の押入れの前に残留。
畳は何枚もの新聞紙に覆われ、更に、その新聞紙は大量の腐敗液に覆われていた。
上を見上げると、押入れの天井板は外され、梁が露出。
故人は、押入れの天井裏の梁を使って首に体重をかけたよう。
そして、そのままの状態で何日もの時間が経過したようだった。

警察がその辺にある新聞紙・タオル・毛布などを腐敗液の上に敷くことはよくある。
自分の靴が汚れないようにするために。
そして、この現場の床にも、多くの新聞紙が敷かれていた。
しかし、それは、故人が敷いたもの。
それが、腐敗液発生の後に敷かれたものであるのか、その前に敷かれたものであるのか、汚染状態を見てすぐにわかった。

故人は、自分なりに後のことを考えたよう。
それを気にかけるようだから、多分、故人は決行前に用を足したはず。
それでも、糞尿が少しは垂れることを想定したのだと思う。
しかし、その用意も虚しく、遺体は著しく腐敗し、新聞紙では到底まかないきれないほどの汚物を発生させたのだった。

特掃作業は、特に困難なものではなかった。
フローリングとは違い、畳の場合、必要な作業は、「掃除」というより「撤去」。
汚れた畳は、そのまま撤去すれば済む。
あとは、敷居や柱に着いた腐敗液を除去すればいいだけ。
ただ、パックリと口を開けた押入の天井は、まるで処刑台の下にいるかのように錯覚するくらいの寒々しさがあった。
そして、それが作業の邪魔になりそうに思えた私は、まず先に押入の天井板を元に戻し、その光景を自分の視界から消した。

結局、作業自体は、身体的に重いものにはならなかった。
ただ、私には、別のものが重くのしかかった。
それは、故人が残したメモ・・・
同じことが書かれた何枚ものメモが、部屋のあちこちに散乱。
警察は、それらを遺言・遺書の類とみなさなかったのか、そのまま放置。
それが、私の精神に重くのしかかってきたのだった。

「金も仕事も家もない」
「人生50年 余分に生きてしまった」
何枚ものメモには、すべてそう書いてあった。それだけしか書いてなかった。
そこからは、故人が、経済的にも社会的にも困窮していたこと、そして、明日に対して夢も希望も持てなくなっていたことがハッキリうかがえた。
そして、故人は、今に疲れ、将来を悲観し、生きることをやめた・・・

故人は、どんな気持ちでメモを書いたのだろうか・・・
何故、同じものを何枚も書いたのだろうか・・・
死にたがる自分が納得するためだったのだろうか・・・
生きたがる自分を説得するためだったのだろうか・・・
新聞紙を敷くときの気持ちはどんなものだったのだろうか・・・
・・・私の頭には、そんな思いばかりが過ぎった。
そして、私は、悲しい、寂しい、虚しい、同情・・・そんな言葉では片付けられない重苦しい心境に陥った。
同時に、思いたくなくても、それが自分のことのように思えてしまい、重苦しい気分は下へ下へと引きずり下ろされていったのだった。


少子高齢化
経済格差・教育格差・拡大する貧困層
上がるばかりの税金・社会保険料等
下がるばかりの年金・医療費等
不景気・財政赤字
就職難・結婚難
環境破壊、大地震の想定
あたたかみのない競争社会
殺伐とした人間関係etc・・・
残念ながら、将来を悲観しようと思ったら、その材料はいくらでもある。
そんな中にあっては、夢や希望を持つことは簡単なことではない。

とりわけ、私のような、何の取り柄も能力も経歴もない中高齢者はそう。
特に、私は、右に出る者が他にいないくらいのネガティブ人間(かなり重症)。
何事も悲観すること、マイナスに考えることが大得意。
大方の事について、ポジティブに捉えることを苦手とし、楽観すること、プラスに考えることができない習性を持つ。
だから、何の根拠もなく将来を楽観してポジティブに考えることなんて、簡単にはできない。

病死、孤独死、自殺、事故死、事件死・・・
私は、それらを作り事ではない現実として体感している。
時に励まされ、時に奮い立たされ、時に精神を立て直すチャンスが与えられる。
ただ、そこで受け取り、自ら発生させるものは、プラスのものばかりではない。
時に不安感を煽られ、時に虚無感に襲われ、時に疲労感に苛まれる。
一人一人の死から感じたことをプラスに転じることが故人に対する礼儀みたいに思いながらも、それができなくてマイナスに落ち込むことも少なくない。

だから、自分自身のことについては、愚痴や弱音、暗い話や悲観的な話が多い。
ブログの上でも、連々脈々と似たような陰鬱話を繰り返してしまうのだ。
ただ、それは、自分にできるかぎり正直に書こうとしていることの現れでもある。
もちろん、誰かに読まれていることを意識して、汚い部分に蓋をして、きれいな結論に向かおうとする自分・向かう自分がいないわけではない。
また、ときには、無理矢理、ポジティブなキャラクターを作りあげたりもする。
誰かにいいカッコしたいがために。自分を叱咤激励するために。

自分を肯定するために、自分を否定する。
人から肯定してもらいたいから、自分を否定する。
自分を善人にするために、偽善者を自称する。
人から善人にみてもらいたいから、偽善者を自称する。
本質(事実)を非難されることを嫌い、上辺だけでも賞賛されることを好む。
これが私の器。
これが私の限界。
これが私。

私は、ポジティブな話をたくさんしたいけど、多分、できない。
ポジティブな人間になりたいけど、多分、なれない。
自分ではどうしようもできない苦悩の人生を歩いているから。
弱い自分を自分ではどうしようもできないから。
それでも、私は、生きなければならない。理由はどこかにある。
だから、こうして生き、そして、その生苦をこうして吐露しているのである。


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