特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

ぼっち

2022-01-17 07:00:00 | 腐乱死体
まだまだ春は遠いところ、間もなく、マスク生活も二年になろうとしている。
そして、多分、今年も、一年を通してマスクは手放せないだろう。
「新薬と三回目のワクチン次第」と、ある専門家は言っているが、今回のオミクロン株は、その感染力の強さをみると、いよいよ他人事にはできない感じがしている。
もちろん、私は、これまでも決して“他人事”にはせず、できるかぎりの感染対策をしながら生活してきた。
しかし、もう、それだけでは防ぎきれないようなイヤな予感がしている。
特に、「老齢の両親が感染してしまったら・・・」と思うとスゴく心配になる。

そのせいでもないが、まったく気分が上向かない。
寝ても覚めても、常に、精神が緊張している感じ。
とりわけ、一日が始まる朝が深刻。
倦怠感、疲労感、嫌悪感、不安感、恐怖心・・・そういったネガティブな感情が容赦なく襲ってくる。
昼間になると、瞬間的に気分に薄日がさすこともあるが、それはほんの束の間。
ほとんどの時間、私の心は、どんより曇ったまま。
いつまでも、どこまでも、厚い曇に覆われている。

ただ、奴隷のように諦めてはいけないこともわかっている。
で、「焼け石に水」とわかりつつも、適度な運動をし、陽にもあたっている。
調子が悪くても、日課のウォーキング(一時間余、約6km)は何とか継続。
少し前までは、かなり気合が入っており、余程の暴風雨でないかぎり、傘をさしてでも長靴を履いてでもやっていた。
何故、そこまで意地になっていたかというと、やれるのにやらないでいると自分が怠け者のように思えてしまうし、また、自分が弱い人間であることはイヤというほどわかっているわけで、一度そこに落ちてしまうとズルズルと堕落してしまうことも恐かったから。
「怠け者になりたくない」「自分の弱さに負けなくない」という一心で、ウォーキングを自分に強制していたわけ。

その目的は、もちろん、心身の健康管理。
やったらやったなりに、その後には、それなりの爽快感・達成感・安心感は得られるのだが、これまで経験したことがない次元にまで精神に支障をきたしているこの頃、それが本当に心身の健康に寄与しているのかどうか疑問に感じるようになってきた。
「そこまで自分にプレッシャーをかけて、いいことあるだろうか・・・」
「ストレスになるくらいならやめた方がいいよな・・・」
精神が元気なら、そんな疑問を抱かなかったのだろうが、今は、それが重荷に感じられるくらい弱っているわけで、元も子もないような状態なのである。

結局、「日課」から外すことに。
時間があっても天気がよくても気か向かないときは、無理はしないことに。
それで、少しでも、自分を余計なプレッシャー・ストレスから解放して、気分を軽くすることを心掛けることにしている。


そんな私のウォーキング。
一月三日(月)の昼下がり、犬を連れた一人の老人(以降「男性」)と会った。
男性を会ったのは二~三年ぶり・・・いや、もっとかもしれない。
以前は、夫妻で犬の散歩をしており、ウォーキング中に顔を会わせることも多く、お互い、名乗り合うほどのことでもなかったが、その都度、しばしの立ち話をしていたような間柄。
で、男性も私の事を憶えてくれており、
「どうも!お久しぶりですね!」
と、声を掛けてくれた。

いつもは、奥さんと二人で歩いていた男性。
しかし、そのとき、男性は一人きり。
私は、何の気なしに そのことを訊ねた。
「奥さんは?」
「それがね・・・体調を崩してしまってね・・・」
「そうなんですか・・・」
「もう、外に散歩に出かけられるような状態じゃないんです・・・」
「・・・」
「おまけに、こっちの方もダメになってしまって・・・」
男性は、リードを持っていない方の手の人差し指を自分のこめかみに当てた。
それは、奥さんが認知症を患ってしまったことを示唆しており、更に、もう普通の社会生活を送れなくなってしまっていることを物語っていた。

「自分の方が先にダメになるとばかり思ってたんだけどね・・・」
「七十を越えるとダメだね・・・あちこちダメになっていくばかりで・・・」
「まったく・・・寂しいもんだね・・・」
男性は、諦め顔でそうつぶやき、悲しそうに足元の犬に視線を落とした。
私も、元気だった頃の奥さんを知っていたので、まったくの他人のようには思えず。
月日の移ろいを薄情にも感じつつ、それに抗えない現実に溜息をついた。
同時に、その様が、自分の老親と重なり、神妙な心持ちに。
生まれ、老い、死にゆくことは人間(生き物)の宿命であり、自然の摂理であることは充分わかっていながらも、この時の流れに、私は、逃れようがない寂しさと切なさを覚えたのだった。



出向いた現場は、街中に建つ小規模の賃貸マンション。
間取りは1K。
独身者用、おそらく投資用のマンション。
暮らしていたのは高齢の男性。
無職で持病もあり、生活保護費を受け取って生活。
そして、ある日のこと、そこで、ひっそりと死を迎えた。

時は、今と同じような寒冷の季節。
夏場と違って、遺体は腐敗溶解することなく乾燥収縮。
鼻を突くような異臭や目を覆いたくなるほどの害虫も発生せず。
床に敷かれた布団に横たわり、敷布団に薄いシミを残しながら、遺体は、ただ静かにミイラ化していった。

故人は、ここに十年余り居住。
生活保護を受けることになったのを機に、このマンションに越してきたよう。
ただ、長く暮らしていた割に、置いてある家財は少量。
家具らしい家具はなく、越してきた当時の段ボール箱をそのまま収納に利用。
TV台もテーブルも段ボール箱。
台所回りには、調理器具らしい調理器具はなく、小さなフライパンと小さな鍋、二~三の皿や椀があるくらい。
冷蔵庫の中も生鮮食品はほとんどなく、若干の調味料と飲料があるくらい。
こまめに自炊していたような雰囲気はなく、たまには、美味しいものを食べていたような雰囲気もなく。
とにかく、余計なことはせず、余計なモノは買わず、シンプルな生活を貫いていたようだった。

しかし、部屋には、その全体に漂う“味気ない生活”を払拭するモノがあった。
それは、台所の隅に並べられた焼酎の大ボトル。
それだけは、雰囲気を異にしていた。
どれだけの保護費を受け取っていたのか知る由もなかったが、質素な生活をしながらも酒だけは飲みたかったのだろう。
おそらく、のっぺりした日々の細やかな楽しみにしていたのだろう。
「せっかく生きてるんだから、ちょっとでも楽しみがあった方がいいよな・・・」
もともと、生活保護受給者が酒を飲んだりタバコを吸ったりギャンブルをしたりすることを快く思わない私だが、整然と並べられた焼酎ボトルには何ともホッとするものを感じた。


七十数年、故人がどんな人生を歩いてきたのか、私は知る由もなかった。
ただ、一人一人の人生には一人一人のドラマがあるように、故人の人生にもドラマがあったはず。

故人には娘がいた。
しかし、完全な絶縁状態。
相続を放棄したことはもちろん、遺骨の引き取りも拒否したそう。
もちろん、それは、相応の経緯と理由があってのことのはず。
何の証もなかったが、私には、その原因が故人側にあったことを想像する方が合理的に思われた。

ここに越してきて以降、最期の十年余りは、楽しく賑やかなものではなかったことは容易に想像できた。
家族とも別離し、自分を必要としてくれる人もおらず、人付き合いもせず、ただただ一人で、終わりがありながらも終わりが見えない日々をやり過ぎしてきたであろう故人。
毎年 毎年、クリスマスも、大晦日も、正月も、多分、一人で質素に過ごしてきたのだろう。
自分が納得しようがしまいが、その現実を受け入れるしかなかったのだろう。
孤独を意識するとツラいから、「一人の方が気楽」として、余計なことは考えないようにしていたかもしれない。

何とも寂しいことだが、そういった現実は意外に多く、社会の陰に、同じような境遇にある人がごまんといることを想像すると、自分自身を含めて「人間って、何でそうなんだろう・・・」と、苦々しい思いが湧いてきた。



コロナ禍によって、安易に人と会うことがはばかられるようになり、ときには、大勢集まることが犯罪視されるようにもなった。
これまで当り前のように行われてきた団体旅行や大人数での宴会も、ほとんど行われなくなったよう。
それらは、リモートや家にこもる時間に取って代わった。
それによって、今まで味わったことのないような孤独感に苛まれている人も多いだろう。
それは、画面の向こうにいる人達と接しても、画面の向こうにある賑やかな世界を覗いても、癒しきれるものではない。
気分を紛らわすには、映画やドラマ等の仮想世界や、ゲームや空想等の架空世界に自分をスリップさせるしかない。
もしくは、薬や酒の力を借りて、束の間でも現実から離れるしかなかったりする。

一体、この心細さは何だろう・・・
一体、この心の寂しさは何だろう・・・
一見、私は、孤独を愛する人間。
しかし、孤独に弱い人間。
孤独に強いフリをしてきたけど、実は、孤独に弱い。
このところ、それがヒシヒシと身に滲みている。
私の孤独感はコロナ禍から派生したものではないが、深刻な孤独感に苛まれている。

とりわけ、この頃は、老親との死別が頭を過ることが多くなっている。
先月、久しぶりに再会したことの余韻がそうさせているのだろうと思うけど、それもまた、私の心に影を落としている。
仕方がない・・・生まれ、老い、死にゆくことは人の宿命であり、自然の摂理なのだから。
ただ、寂しい・・・想像すると、寂しくて仕方がない・・・
「親孝行、したいときに親はなし」とはよく言ったもの。
こんないい歳になっても、心の準備も、受け入れる覚悟もできない。

「自然の摂理だ・・・仕方がない・・・」
どんなに悩んでも、どんなに悲しんでも、どんなに嘆いても、その言葉しかでてこないことに、人の無力さ、人の儚さ、人の切なさを今更ながらに思い知らされる。
同時に、「残された時間は少ない・・・」と、何かと疎遠になりがちだった両親だけでなく、自分が大切に想う人との時間を、これからは、もっと大切にしていこうと強く思っている。

それが、今まで、そのようにして生きてこなかった私を孤独から救い出してくれる手立てなのかもしれないから。


-1989年設立―
日本初の特殊清掃専門会社
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誤算

2022-01-11 07:00:00 | 腐乱死体
1月6日(木)PM、首都圏南部は大雪に見舞われた。
そして、ニュースで流れたとおり、大混乱となった。
ただ、もともと東京や千葉には雪の予報がでていた。
が、それは、「降雪量は少ない」というもの。
道路事情に影響することなので、私は、当日の朝も天気予報を確認。
しかし、このときもまだ「芝生のうえに薄っすらと積もる程度」とのこと。
で、「気にするほどのことにはならないな・・・」と、曇空の下、曇ったままの心を引きずって仕事にでたのだった。

雪は、予報よりやや早く、予報通りの少量で、昼前から降り始めた。
予報が狂っていったのはそれから。
「少量」と言われていた雪は、次第に大粒に。
「芝生に薄っすら積もる程度」どころか、樹々の葉にも積りはじめ、そのうち、人通りや車通りのない部分も白くなり始めた。

空模様は、予報に反して、刻一刻と変化。
あれよあれよという間に、大雪注意報が出され、それも束の間、夕方には東京23区・千葉県に大雪警報が出されるまでの事態に。
首都高は次々の入口を閉鎖。
事故や立ち往生も多発し、その機能を喪失。
それでも容赦なく雪は降り続き、既に事務所にいた私は、現場に出ていた同僚達が無事に帰社できるかどうか心配になってきた。

雪国の人には鼻で笑われるかもしれないけど、首都圏では、このレベルでも「大雪」。
途端に、パニックに陥る。
事前の小雪予報が混乱に輪をかけたようにも思う。
街は、滑りやすい靴を履いた人や傘を持たない人ばかり。
防寒着もなく観光地に出かけた人やノーマルタイヤで旅行に出かけた人も少なくなく、せっかくのレジャーも台なしに。
とにもかくにも、気象庁にとっても市民にとっても誤算の一日となってしまった。



真夏のある日。
古い賃貸マンションの一室で、住人が死亡。
放置された日数は長くはなかったが、時は高温多湿の真夏。
肉が腐るにはうってつけの時季。
で、遺体は、異臭を放ちながら猛スピードで腐敗溶解し、ウジも大量発生。
どういう経路をたどったのか不明だが、下階の部屋にウジが落っこちてきたことで、故人は発見されることとなった。

現場に到着した私は、まず、外から建物全体を目視。
建物は小規模、目的の部屋は外からも確認でき、視力が悪くない私は、窓に付着する無数の黒点を発見。
言わずと知れたこと・・・それは遺体から発生したハエ。
更に、同じくらいの数のハエが、その下の部屋の窓にも付着。
「下の部屋にもウジが発生している」と聞いてはいたが、その数は私の想像をはるかに超えていた。

時は、うだるような暑さの夏。
もう、その光景を想像しただけで、お腹いっぱい。
そうは言っても、「ごちそう様でした」と引き揚げるわけにもいかず。
ただの汗なのか、冷汗なのか脂汗なのか・・・私は、わからない汗をドッとかきながら、トボトボと灼熱の階段を昇った。

大家が開け放しにしたのだろう、玄関の鍵は解放されたまま。
「泥棒でもなんでも、入りたいヤツがいれば入ればいい」といった状態。
とはいえ、こんな部屋には、限られた人間しか入れない。
私も、その“特権”を持っている人間の一人であるのだが、“特権”に思えるわけもなく、出るのは汗と溜息ばかり。
私は、玄関前に漂う異臭を溜息で押し返しながら、窓際で暴れ回るハエに冷ややかな視線を送りながらドアノブに手をかけた。

室内がサウナ状態とはいえ、そんな状態で玄関ドアを開け放しにするのはタブー。
一般人が嗅いだとろころで何のニオイかわかるはずもないのだが、「クサい!」ということだけはわかる。
したがって、できるだけ、そのニオイが外に漏れないようにする配慮は必要。
幸い、そこは、玄関が外空に面した構造で、ある程度の異臭はすぐに中和されるのだが、ハエはどこに飛んでいくかわからない。
なので、いつも通り、ドアは必要最小限の幅で開け、私は、素早く身体を室内に滑り込ませた。


余談だが・・・
ここで、生活の役に立たない豆知識。
腐乱死体に発生したハエは、時間経過とともに丸々と太ってデカくなるのだが、警察が遺体を回収して以降は食料がなくなるため、図体の割には体力がないことが多い。
で、そのまま放っておくと、いずれは餓死して墜落する。
したがって、仮に外に飛び出しても、遠くまで飛んでいく力がなく、近所の外壁などにくっついたまま動かなくなる。
それでも、誰にも気づかれないうちに墜落するか、鳥の餌食にでもなればいいのだが、人に見つかれば苦情の原因にもなる。
それはそうだ、腐乱死体から涌いたハエが自分の家の外壁にくっついていたら気持ちが悪い。
ましてや、室内に侵入してこようものなら、我慢ならない。
だから、できるかぎり、ウジやハエはシャバに逃亡させないようにしなければならないのである。


話しを戻す・・・
現地調査を終えた私は、依頼者である大家に電話。
遺族が約束したのかどうかは不明ながら、「発生する費用は遺族が負担する」とのことで、部屋を原状回復させるために必要な作業や工事を打ち合わせ。
見積を作成したら、遺族にも連絡をとり、三者で協議することとなった。

協議の日・・・
私は、大家と遺族、どちらに側にも加担するべき立場にはない。
争いになった場合、巻き込まれるようなことは避けなければならない。
また、葬式などで目にしがちな下手な感情移入も白々しいだけ。
「よろしくお願いします」と名刺を差し出し、事務的かつ淡々とした態度を心掛けながら、作業や工事内容の説明に終始した。

遺族は、高齢の男性二人。
故人とは遠縁のようで、関係する複数の親族を代表して来たよう。
孤独死・腐乱は悪意ある犯罪ではないにも関わらず、「ご迷惑をおかけして申し訳ありません・・・」と、平身低頭。
ま、そうは言っても、落ち度のない多くの人に迷惑をかけ、相応の損害を与えてしまう現実もある。
あと、遠縁とはいえ血縁者が孤独死し、それに気づかす放置してしまったことの気マズさもあるのだろう。
だから、遺族は、おのずと謝罪姿勢になったものと思われた。

大家は、「無礼」という程ではなかったものの、やや憮然とした態度。
故人の後始末の一切合切をはじめ、そこから派生した損害の賠償も遺族が負うのが当然といったスタンス。
事に乗じて不当な利益を得るつもりもなかったと思うけど、下室住人が避難している間のホテル宿泊費、その後に予定している引越費用、家財の買い替え費用、下室の消毒費、空室となる下室と故人宅の家賃等々、諸々の費用を請求した。

大家の要求を聞いた遺族は、困惑の表情。
おそらく、そこまでのことを要求されると思っていなかったのだろう。
しかも、聞き方を変えれば、故人を罪人扱いするような物言い。
円満に決着させるつもりで協議に臨んだであろう遺族だったが、
「ある程度は負担するつもりでいますが・・・」
「あまりに大きな金額になりそうなので、家族と相談します・・・」
と、口を濁して、ハッキリした返答をせず。
結局、その場では何も決着せず、以降も双方で協議を続けることが決まっただけで お開きとなった。

当初から、遺族は、「ある程度の負担が生じることは覚悟している」と言っていたよう。
それに安堵した大家は、あれもこれもと要求内容を膨らませていったのだろう。
また、遺族は、争うような構えはみせず、謝罪姿勢の平身低頭だったから、大家も自分の立場を勘違いしていったのかもしれない。
私が第三者として客観的に判断すると、大家の要求は過大に思われ、その物腰は、やや調子の乗り過ぎのように見えた。

遺族の中で故人と近しい間柄だった者は誰一人としておらず。
当然、故人の相続人でもなく、身元保証人でもマンション賃貸借契約の保証人でもなし。
また、皆、高齢で、年金収入で慎ましい生活を送っていた。
それでも、血縁者としての道義を重んじて誠意をもって対応するつもりだった。
が、ない袖は振れない。
金額だけではなく、大家の要求内容も納得できるものではなく、それは、本件への関わり方を再考させるきっかけとなった。

考えあぐねた遺族は、本件を弁護士に相談。
その結論は、「法的責任はなく、大家の要求を受け入れる義務はない」というもの。
そして、遺族は大家に、
「今回の事案は、マンションを経営するうえで想定されるべきリスクであり、我々は責任を負うべき立場になく、よって、一切の後始末から手を引く」
といった旨を通達した。
道義的なことを考えて葛藤もあったが、それは、中途半端に関わるより一切から手を引いた方が安全と考えてのことだった。

一方の大家は・・・
これで一儲けしようとしたわけではないだろうに・・・
当初は遺族も同意していた部分まで賄ってもらえなくなり・・・
慌てて自らも弁護士にも相談したが、その回答は期待外れで・・・
「しまった!」と悔やんでも後の祭り・・・
まさに誤算・・・
結局、誰からも一銭も補償してもらえず、ただ、臭くて汚い部屋だけが残ったのだった。



今回の大雪。
ニュースを伝えるTV画面の向こうには、困惑する大人のことなんかおかまいなしに大喜びする子供達の姿があった。
それは、とても微笑ましく、また、とても羨ましく、癒されるものがあった。
同時に、「俺にもこんな時分があったんだよな・・・」と、夢幻と化した想い出が蘇った。
身も心も重くなった今とは違い、あの頃は、身も心も軽かった。
そして、平凡な日常にも楽しいことがたくさんあった。
「あの頃は、なんであんなに元気だったんだろう・・・」
「なんであんなに楽しかったんだろう・・・」
と、自分でも不思議・不可解である。

「こんな人生になるとはな・・・」
私は、幼い頃から特段の夢はなく、若い頃から目指していた目標もなく、自分の将来を具体的にプランニングしていたわけでもないけど、何となく、人生ってもっと楽なものだと思っていた。
苦労もあるだろうけど、もっと楽に生きられるようなイメージを持っていた。

一体、何が、自分を押しつぶしているのか・・・
自分が背負っている重荷の正体は何なのか・・・
自分が抱え込んでいるモノは、本当に自分が抱え込んでいなければならないモノか・・・
軽くなるために、捨てなければいけない何かがあるのではないか・・・

翌7日(金)朝、快晴の街は白銀の世界に。
朝陽に照らされて光り輝く視界には、花や緑にはだせない美しさがあった。
ただ、私の精神は、その眩しさから目を背けたくなるくらい沈んでいた。
その眩しさに溶け消えてしまいそうなくらい弱っていた。

「この先は、いい誤算があるといいけどな・・・」
陽にあたり少なくなっていく残雪と自分の人生を重ね、小さくなっても白く輝く雪と曇ったままの自分の心を重ね、どちらも そのうちに儚く消えていくことに安堵に似た寂しさを覚えながら、誤算だらけの人生を見つめなおした雪の一日だった。


-1989年設立―
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再会

2022-01-04 07:38:51 | 遺品供養
2022謹賀新年。
年末年始 無休だった人、今日から仕事始めの人、まだ休暇中の人、色々な人がいることだろう。
今年もコロナの影響で帰省や旅行を控えた人が少なくなかったよう。
私は、大晦日が仕事納め、そして2日が仕事始めだった。
つまり、今年は、例年のシフトに変更があり、元旦は休日だったのだ。
元旦休暇は何年ぶりかのことだった。

大晦日は、紅白などを観ながら、ゆっくりと、おせち+晩酌。
その後、ゆく年くる年を観ながら年を越し、0:15頃 就寝。
そして、元旦は、完全な寝正月。
朝御飯も昼御飯も食べず、カーテンも開けず、「朝はくるな!ずっと夜でいい!」とばかりに、午後三時頃まで睡眠と覚醒を繰り返しながらずっと布団に潜っていた。
もともと、出かけたいところもなかったし、出かけたい気持ちもなかったし、そうするつもりだったとはいえ、ほとんど病人の状態。
世間は、初詣とかレジャー・ショッピングとか、楽しい雰囲気に包まれていたのだろうけど、結局、私は一歩たりとも外へは出なかった。

その原因は、精神疲労。
新しい年を迎えても「あけましておめでとう」なんて気分にはならず。
それどころか、新しい一年が始まることの期待感は皆無で、疲労感に苛まれるような始末。
例年、冬季は鬱っぽくなりやすいのだが、とりわけ、近年の正月鬱は深刻な状態。
特に、今年の場合は、昨年から、個人的に超ネガティブな出来事に見舞われ、更に、そこから派生した諸々のことを自分の精神が処理できずヒドく苦悩苦悶している
不眠症はもちろん、この寒さの中でも身体が猛烈に熱くなり、首元にグッショリと脂汗をかく。
まるで、首がオネショをしたみたいにパジャマが濡れることもあり、かなりツラい状態に陥っている。
最も深刻なのは明け方だけど、日中も、動悸・息切れが続き、食欲も減退している。
居ても立ってもいられなくなったときには、“元気がでる言葉”の類をスマホで検索したりすることもあるけど、虚しいかな、それらが凍り固まった心に刺さることはない。

自己分析すると、不安神経症系の鬱病なのではないかと思っている。
これまで同様の状態は何度も経験してはいるし、心療内科を受診したことも何度かあるけど、ただ、今回は、これまでにないくらい重症で、しかも、発症している期間が長い。
こうしてブログに書いているところをみると、まだ“余裕”があるように見受けられるかもしれないが、かなりギリギリのところまできている。
放っておくと、更にマズい方向にも行きかねず、再び、どこかの心療内科を受診してもようかとも考えている。
とにかく、今は、脳にガツン!と効く薬を飲みたい気分なのだ。
しかし、ネットを検索しても、評判のいい医院はなかなか見つからず(どこも悪評コメントばかり)、それが更に私を憂鬱にしている。

ただ、私だけではなく、多くの人も、大なり小なりの憂鬱を抱えながらも忍耐を重ね、適当なところで折り合いをつけて生きているはず。
そして、このコロナ禍によって、それに輪をかけられている人も。
残念なことに、落ち着いていた感染者もジワリジワリと増えてきており、新型のオミクロン株が急拡大するのも時間の問題だろう。
今月後半から2月にかけて、爆発的に増えるのではないかと思う。
私は、昨年9月と10月にワクチンを二回接種しているのだが、二回接種者でも感染発症するらしいから、まったく、油断はできない。

とりわけ、心配なのは高齢の両親。
今年2月で八十五になる父は、血糖値が高く身体の衰えは顕著。
また、4月で八十になる母は、老齢に加えて持病(肺癌・糖尿病)がある。
それでも、それぞれ、介護保険を利用するまでのことにはなっておらず、自立した生活を送ることができている。
これは、本当にありがたいことで、感謝している。

12月下旬、世間が年末年始休暇に入る前、そんな両親に、久しぶりに会いに行ってきた。
ただ、コロナのことを考えると迷うところはあった。
その時はまだ市中感染の情報こそなかったものの、オミクロン株も日本に入ってきていたし、ブレークスルー感染も頻発していたし。
しかし、第六波がくる可能性が高い中で、このタイミングを逃すと、またしばらく会えなくなくなることが容易に想像でき、結果、「会えるときに会っておかないと、もう二度と会えなくなるかも・・・」という考えに至り動くことにした。
間もなく二年になる長いコロナ禍で、慌ただしく時間が過ぎ、振り返ってみると、実に二年二カ月ぶりの再会だった。

当然のことながら、両親とも二年分は歳をとり、それだけ衰えていた。
そういう私も二年分は歳をとり、母からは、「白髪が増えたね・・・」としみじみ言われた。
とにもかくにも、二人とも、私との再会をとても喜んでくれ、私も感謝の念でいっぱいになった。
ただ、以降のコロナ波によっては、またしばらく会えない日が続く可能性もある。
また、仕事柄、高齢者が急逝するケースは、イヤというほど見聞きしている。
これについては、私の両親も例外ではない。
先日の別れが今生の別れになる可能性だって充分にある。
しかし、何はともあれ、「また会いたい!」と強く願っている。



訪れた現場は、郊外に建つ一軒家。
要件は、供養処分する遺品の回収。
依頼者は高齢の男性。
共通の知人を介しての依頼だった。

約束の日の早朝、私の晴れ渡る空の下、男性宅に向かった。
東京都内とはいえ、うちの会社からは遠方。
ただ、“一人の車中”は、私にとって数少ない落ち着ける場所。
私は、ドライブ気分を携え、長距離運転でも苦も無く車を走らせた。

目的の地域は整備されて住宅地で、ナビが示した場所には大きな家が建っていた。
築年数は新しくはなかったが、廃れた感はなく、家屋はきれいに保たれていた。
ただ、外周は整然としており、どことなく生活感は薄く、わずかに寂れた雰囲気が漂っていた。

私は、掲げられていた表札を確認し、その前の道路に車を駐車。
車を降りで門扉のインターフォンを押した。
すると、すぐさま、高齢の男性が丁寧な物腰で玄関から出てきた。
お互い、顔を会わせるのは初めてだったが、それまでに電話でのやりとりが何度かあり、見ず知らずの関係でもなく、やわらかな挨拶を交わした。

玄関に入った私は、あることにすぐ気がついた。
それは、家の中にあるはずの、色々な家財生活用品が目につかないこと。
ちょっと大袈裟に言うと、「空き家?」と思ってしまうほど。
私は、怪訝に思いながら、すすめられたスリッパに足を入れ奥へと進んだ。
玄関同様、リビングもやけにモノが少なかった。
生活できないほどでもなかったが、「引っ越すのかな・・・」と思うほど。
ただ、そんな疑問は仕事には関係ないので、何も言わず、うながされるままダイニングチェアに腰を下した。

目的の回収品(供養遺品)は、既に用意され、テーブルの上に置かれていた。
それは、三柱の位牌と三枚の遺影。
それは、男性の父・母・妻のもの。
男性は、それらを名残惜しそうに触りながら、事の経緯を説明。
そして、男性は、話したいことがたまっていたのか、次から次へと言葉をつなげた。
一方の私も、急ぐ用事でもなく、供養品を回収するだけなら、ものの数分で済むところ、わざわざ遠方から出向いてきたわけだし、それだけでサヨナラするのは素気ない気がして、時の流れを男性のスピードに合わせることにした。

もともと、この家には、両親・男性夫妻・二人の息子、最多時は六人が生活していた。
当時の生活は、この大きな家も狭苦しく感じるくらい賑やかなものだった。
しかし、父が逝き、母が逝き、自分より長生きするとばかり思っていた妻も逝き・・・
独立した二人の息子は、遠く離れた地方で家と家族を持ち、その土地に根を下ろし・・・
結果、男性宅は、必要のない部屋やモノが ただ残されているだけ、“想い出の物置”のような状態になった。

そんな家で暮らす中、男性は、自分が死んだ後のことを想像。
すると、
「人生の後始末は、できるだけ自分でやりたい」
「せめて、両親と妻の後始末だけはやって逝かないと」
という想いが芽生え、一念発起。
身体の衰えと、先が短くなっていることをヒシヒシと感じ、自分が動けるうちに、やれることはやっておくことを決意し、齢八十を機に終活に着手したのだった。

現に、私が出向いたときは、家財が置いてあったのは、男性が生活に使っている一階の1LDK分のみ。
それ以外の部屋には何も置いておらず、余計な調度品や装飾品も皆無。
また、二階の部屋はすべて空室になっているとのこと。
日常生活で二階を使うことはなく、用事といえば換気で窓を開閉するくらいのこと。
足腰が弱まれば昇降もできなくなるため、二階はいち早く片付け、上がらなくても生活に困らないようにしたのだった。

亡き両親のモノ、妻のモノ、自身のモノ、息子達のモノ、六人分の荷物は大量。
想い出深いモノもたくさんあり、その懐かしさと愛おしさに心が折れそうにもなったことも何度となくあった。
しかし、男性は、
「始まりがあれば終わりもある」
「どんなに執着したって、自分の身体さえ置いて逝かなければならないときがくる」
と“自分の終わり”をシッカリと見据えて、片づけを続けた。
「息子のためじゃなく、自分のためですよ・・・」
「自分の人生なんだから、できるだけ自分で始末をつけて逝きたいと思いましてね・・・」
男性は、そう言いながら、寂しさを滲ませつつも信念みたいなものを表情に浮かべた。

そんな中で、手に余ったのが、遺影と位牌。
ほとんどのモノはゴミに出せたのだが、心情的に、これだけはゴミに出すことができず。
位牌や遺影だって、見方を変えれば、“ただのモノ”であることに間違いはない。
男性は、思い入れのある他のモノだって、想い出だけを心にしまい、必死に割り切って処分してきた。
しかし、位牌と遺影だけは、長年、故人同様に想ってきた品だから、他のモノと同じようにゴミに捨てることができず。
そこで、私が参上することになったのだった。

男性は、特定の宗教を信仰しているわけでもなく、悟りきった死生観をもっているわけでもなかった。
しかし、
「親父やお袋や女房に会いたい気持ちが、歳をとるごとに強くなっていくんですよね・・・」
「で、あの世に逝ったら、また会えるような気がしてるんですよね・・・」
「もう、棺桶に片足突っ込んでるわけですから、それまで、もうちょっとの辛抱ですけどね・・・」・・・」
と、真理の端でも見つけたかのように微笑んだ。

男性宅に一時間くらいいただろうか、話に区切りがついたところで、私は預かった遺影・位牌を手に男性宅を後に。
玄関前に出て見送ってくれる男性に、
「もう、お目にかかることはないでしょうけど、どうぞお元気で・・・」
と、いつものセリフで挨拶。
すると、男性は、
「いや・・・また会えるかもしれませんよ・・・先に逝ってますから・・・」
と、頭上に広がる晴天を指差して笑った。

車に乗り込んだ私は、男性に会釈をしながらゆっくり発進。
バックミラーの中で遠ざかる男性の姿に
「人生って、寂しく切ないもんだな・・・」
「でも、明日に生きなきゃいけないんだよな・・・」
と思いながらアクセルを踏み込んだ。
そして、想い出の中にいる色んな顔や、想い出の中にある色んな光景を思い浮かべながら、
「会いたいなぁ・・・」
と、何となく寂しい気持ちで、再び、長い道程に向かってハンドルを握ったのだった。


このコロナ禍で、多くの人が笑顔を失った。
多くの人が、楽しみにしていた再会を断念せざるを得ない事態にも陥った。
そして、第五波が収束し、笑顔を取り戻しつつあった人達の顔も、忍び寄るオミクロン株で再び曇りはじめている。

誰しも、この世にもあの世にも、会いたい人がいるだろう。
過去に置いてきた、会いたい想い出があるだろう。
自分のことさえどうにもできないでいるのだが、私は、会いたい。
他人のことを想う余裕はないのだが、私は、会ってほしい。
愛する人に、すばらしき想い出に。
そして、元気な自分に、笑顔の自分に。


-1989年設立―
日本初の特殊清掃専門会社

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