特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

思いやり

2024-07-15 08:03:43 | 自殺 事故 片づけ
特掃業務の自殺現場には、事前に自殺と知らされる現場と知らされない現場とがある。

どんな現場に対しても一定のスタンスで臨む私だが、自殺と自然死とでは若干その気持ちが違うかもしれない。
しかし、どんな現場でも気持ちがほぼ一定に保てる自分が頼もしくも思え、かつ冷酷にも思えてしまい複雑な心境がする。
また、私は現場の第一印象を率直にコメントすることが多い。
失礼な発言に聞こえるかもしれないけど、特掃現場ではだいだい「これはヒドイですねぇ」が第一声となる。
だって、本当にそうだから。
何年やっても何件やっても、「ヒドイなぁ」と腐乱現場に抱く感情は変わらない。

自殺と知らされないで出向いた現場。
新聞紙で覆われた汚染箇所がやけに狭いうえ、それに面した壁が縦長に汚れていた。
「妙な汚れ方だなぁ・・首吊りか?」と思いながら汚染箇所の真上を見上げた。
ロープを掛けたであろうフックや釘を探したがその類は見当たらなかった。
しかし、よく見ると柱に真新しい穴が何箇所かあった。
警察がそこまでやる訳ないから、遺族の誰かがこっそり釘を抜いたのだろう。
「首吊りはほぼ間違いないな」と内心で断定したものの、「それを遺族に問い正して何の意味があろうか」と自問自答。
遺族には隠しておきたい事情があるのだろうから、私も知らぬフリで仕事をするのみだった。

遺族は自殺がバレることを恐れているようにも見えた。
気持ちは分からないでもない。
ただでさえ世間から嫌悪される腐乱死体。
それでも、自殺と自然死では世間の冷ややかさが違う。

賃貸家屋の場合は家主・近隣住民に対する責任も変わってくる。
つまり、社会からの視線と社会への責任が変わってくると言うこと。
当然、バツの悪い自殺より自然死の方がまだマシと言うことになる。
「この柱の穴を大家は黙って見過ごすかなぁ」
作業を終えてからロープを吊っていたであろう釘の痕を見上げ、今後のことに思いを巡らせていたら、遺族が私に声を掛けてきた。
自殺を打ち明けるかどうするか迷っているみたいだった。
私の行動を見て、明らかに気付かれていることが分かったのだろう。
でも、話したくなければ話す必要はない。
私にそれを探る権利はないし、聞く器量もない。
「お気づきだと思いますが・・・」と言いにくそうに話しはじめた遺族の言葉を私は遮った。
「内装リフォームもできますから、よかったら見積らせて下さい」と。
こんな時はビジネスライクなくらいが調度いい。
それが私流の、ささやかな思いやり。
「バッチリきれいにする自信はありますから、大家さんとだけはキチンと打ち合わせして下さいね」
暗に「大家は敵に回さない方がいい」と言いたかった私。
気持ちが通じたのか?遺族はかすかに微笑んだように見えた。
その後の内装リフォームが、きれいに仕上がったことは言うまでもない。


自殺だと知らされて出向いた現場。
部屋全体に汚染が広がり、それは凄惨な現場だった。
始めに手首を切ったが死にきれず、とどめに首を切ったらしい。
多分、首からは大量の血しぶきが吹き出したのだろう、床一面には腐敗液と腐敗脂が広がり、壁には血痕が飛び散っていた。
「随分と思い切った手段にでたもんだな」と思いながら汚染箇所の多さと広さに閉口、その汚染度は深刻なものだった。

遺族は、現場の凄惨さと精神的ダメージでダウン寸前、とても中には入れない様子。
双方が同時に現場確認をすることは、私が施工契約・施工責任を果たすうえで非常に重要なことなのだが、凄惨な腐乱現場を前にそれが叶わない遺族も少なくない。
この遺族もそうだった。
無理矢理にでも中を確認させでもしたら、失神していたかもしれない。
また、大家や近隣住民に対してもどう対処すればいいのか分からず、心も身体も衰弱しきっていた。

そして、深刻な面持ちで作業手順を考える私に、遺族が申し訳なさそうに謝った。
深刻な現場で深刻そうな顔をするのは好ましくはないのに、現場の酷さについつい本心を顔にだしてしまった私。
うかつだった。

遺族は、見積に合った金額を支払うとはいえ、身内のやったことの始末を、しかも見るもおぞましい現場の片付けを他人の私にやらせることに何かしらの後ろめたさを感じるのだろう。
他の現場でも同様の遺族が多い。
こんな遺族と接する私は、恐縮する前にとても気の毒に思う。
こんな時は少々笑って話すくらいが調度いい。
それが私流の、ささやかな思いやり。
「自殺でも自然死でも、腐乱していても私には関係ないですよ!私は死体屋ですから」
暗に「ドンマイ!ドンマイ!」と言いたかった私。
気持ちが通じたのか?遺族は、かすかに安堵の表情を浮かべたように見えた。

それ以降、内装リフォームを完成させるまでのしばらくの間、この遺族と関わりを持ち続けることになった。
抱えた問題を一つ一つ片付けていく度に、一日一日と時間が過ぎていく度に元気を取り戻していく遺族に、私も少しは役に立てたような気がして明るい気持ちになった。

「自殺した故人は、わずかでも残される人に思いやりを持ってほしかった」
「逆に、故人に対しての思いやりが足りていれば自殺なんかしなかったのかも」
凄惨な現場と悲壮な遺族を見る度に思うことである。


トラックバック 2006/08/09 10:47:33投稿分より
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自死の選択

2024-05-15 05:37:39 | 自殺 事故 片づけ
ここ数年、日本人の自殺者数は高いままである。私のような職業ではない人でも知っている、目新しくもないニュースである。インターネットの自殺サイトも活発に動いているようである。

今日も日本のあちこちで、約100人が自らの命を絶っている。
ブログにも一案件だけ載せたが、当社にも自殺志願者が電話をしてくることがたまにある。もちろん、自殺現場の跡片付けをしたことも数知れず。

自殺理由はさまざまだろうし、それぞれの人にそれぞれの事情があるのだろう。

「自分の命は自分のものか?」

などと言う哲学的・宗教的な話は別に置いておいて、毎日のように死体と関わっている私が自殺について思うことを簡単に書いてみたい。


人間は死にたくなくてもいつかは死ななければならない。人生は二度ないし、人生という時間には必ず終わりがある。一旦生まれてからは、あとは死に向かって進んでいるだけである。そんなことは私が言うまでもない。

死にたい人は死ねばいい。生きていたくない理由があるのだろうから。自殺は悪いことではない。世の中には、自殺志願者の悩みや苦しみを理解できない者が、上っ面の同情心やきれい事で自殺を否定し罪悪視する風潮があるが、そんなのは無責任な連中の身勝手である。
私は、自殺志願者の人生の一部にでも責任を持てる者だけが、その人の人生への介入が許されるものと考える。

しかし、これだけは言っておきたい。

「自分には死ぬ権利はあっても、他人に迷惑をかけたり他人を不幸にする権利はない!」と。

逆に言えば、自殺しようとする人は、誰にも迷惑をかけず、誰も不幸にしない手段や時期を熟考して、それが実現できるように死ねばいい。

私が知る限りでは、自殺はどんなかたちであれ、他人に多大な迷惑をかけ他人を不幸にしている。私だって、自然死と自殺の現場では気持悪さが違う。

結局のところ、私も自殺を否定・反対しているように思われるかもしれないが、決してそうではない。私は自殺を肯定も反対もしない。自殺現場の跡片付けをしている私だからこそ言える感想を記したまで。

私は自殺現場の後始末も仕事として多くやっているが、仮に自殺者がゼロになったって心配無用。おまんま(御飯)が食えなくなることはない。日本(特に都市部)では自殺がなくなっても孤独死の現場だけで充分仕事になるから。


今日のブログは硬い話でつまらないかもしれないが、自殺を考えている人・生きていることに疲れている人の参考になれば幸い。自殺の跡は悲惨!だぞー。


トラックバック 2006/06/14 10:48:24投稿分より


日本初の特殊清掃専門会社
ヒューマンケア株式会社
0120-74-4949


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だいぶダイブ

2024-05-02 08:27:33 | 自殺 事故 片づけ
死体がらみのダイブと聞いて一番に思いつくのは、やはり飛び降り自殺だろう。飛び降りる高さや落下した場所によって、遺体の状態や現場の状況は千差万別。
やはり、高ければ高いほど遺体の損傷は激しいし、落下現場の汚染度も激しい。
人体の部位で最も重いのは頭らしく、ある程度の高さから落下すると、モロに頭から落ちるらしい。
汚染度の激しい現場の清掃は、手間がかかって仕方がない。なにせ、血液や肉片はあちらこちら広範囲に飛び散って、それを掃除するのが大変だからである。
激しい現場だと、地面に落ちた遺体の血液・肉片が三階まで飛び散って付着していたケースもある。しかも、血液や肉片は一度乾いてしまうとなかなかきれいにならない。
一応企業秘密なので、使用する機材や薬剤は明記しないが、手間がかかることには間違いない。
でも、一番災難なのは、普通に暮らしていて、いきなり自殺体の血液や肉片が自宅の壁に着いてしまった住人だろう。気持ち悪くて仕方がないはずだ。気に毒である。
ある、青年が飛び降りたケースでは、比較的低いところから飛んだみたいで、頭部の損傷と腕の骨折だけで済んでいた。
その代わりと言ってはなんだが、顔面が面白いほど真っ平らになっていて、頭頂部が割れて中身がでていた。顔面が見事に平らになっていたので、妙に感心してしまった(全く不謹慎だが)。
その青年の遺体と母親が初対面する場に居合わせたのだが、母親は死んだ息子の顔を見るなり卒倒して気絶してしまった。私はそっちの方にビックリしてオロオロしてしまったのであった。


トラックバック 2006/06/01投稿分より

-1989年設立―
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わけあり

2022-12-13 08:21:51 | 自殺 事故 片づけ
2022年も師走に突入。
忘年会やクリスマス、正月仕度で、何かと物入りな時季がやってきた。
しかし、そんなことおかまいなく、前回も書いたとおり、懐は寒々しいかぎり。
更に、昨今の物価高が、それに追い討ちをかけている。

色々な訳があることは理解できるけど、あちらこちらでモノの値段が上がりっぱなし。
とりわけ、庶民の財布を直撃する電気・ガス・食品については、頻繁にニュースになっている。
ガソリンも、一時期に比べれば下がりはしたものの、高止まりが続いている。
もともと使う金額が小さいから、これまであまり意識することはなかったが、ここにきて生活コストの高さを実感することが増えてきた。
私は、毎月、決めた予算内でやりくりしているのだが、以前に比べて、月末にかけての残金の少なさを痛感させられるようになってきたのだ。

予算を増やせない以上は、支出を抑えるしかない。
まずは、電気とガス。
もともと省エネ生活を心掛けている方だけど、今は、一層、それを強化。
エアコンはあるが、暖房で使うことはせず。
コンセントを抜いて休眠状態に。
コタツやホットカーペットは、そもそも持っておらず。
部屋にある暖房器具は、小さなガスストーブだけ。
どうしても寒いときにはこれを使い、あとは、厚着と靴下と膝掛でしのぐ。
また、どんなに寒い日でも、風呂は短いシャワーのみ。
浴槽に湯をためて温まるなんて贅沢なことは一切しない。

光熱費もさることながら、食費の節約効果は更に大きい。
その分、やり甲斐(?)はある。
ただ、単に「安ければいい」というのではなく、量・味・質が値段以上でなければならない。
それで、しばらく試行錯誤。
で、結局、色々と考えたり選んだりするのが面倒臭くなり、現在は、三食、ほとんど同じものを食べるようになっている。
魚はしばらく前から、今は、肉も食べなくなっている。
かつては庶民の味方だった鶏肉も、今は、例年にないくらいの品薄状態で、値段もかなり上がっている。
どうしても食べたければ買えばいいのだが、そこまでの食欲はないし、小さなことでも例外をつくると、せっかくの節約生活が総崩れを起こしかねないので、このところは、精肉コーナーには近寄らないようにしている。

しばらく前の暖かい季節の話だが、その鶏肉について、ちょっとした出来事があった。
ある日、私は、よく利用しているスーパーに食品の買い出しに出掛けた。
そのときは“肉気分”だったので、いつもの鶏肉を目当てに精肉売場へ。
すると、“半額”の割引シールが貼られた鶏肉が一パック出ていた。
消費期限は“当日”。
節約志向の強い・・・平たく言うと「ケチ」な私は、すかさず、それを手に。
その肉は、割引になっていない品と比べると明らかに色あせ、ドリップも多めに流出。
しかし、私は、「今日中に食べればいいんだろ?」「今夜は、これで一杯をやろう」と、冴えない見た目は気にせずカゴに入れた。

家に帰り、風呂に入ったりして、一通りの用を済ませ、肉のパックを開封。
すると、予期せぬ事態が・・・
異臭には慣れているはずの私でも動揺するくらいの、思いもしない異臭が鼻を突いてきたのだ。
それは硫黄のようなニオイで、「わずかに臭う」といったレベルではなく、ハッキリと感じられる濃度。
そう、その鶏肉は、腐りはじめていたわけ。
店側に悪意はなかったはずだから、「だまされた!」とまでは思わなかったけど、「勘弁してくれよぉ・・・」と、トホホな気分に。
さりとて、嘆いてばかりいても仕方がない。
私は、この肉をどうするか思案。
もう風呂にも入ってしまったし、片道数分の距離とはいえ、返品しに行くのは恐ろしく面倒臭い。
かと言って、そのまま捨ててしまうのも、極めて惜しいことだった。

元来、食べ物を粗末にするのが大嫌いなうえ、賞味期限や消費期限に無頓着な私は、「火を通せば食べられるかな?」「塩味を濃くすれば大丈夫かな?」等と、わけのわからないことを考えた。
しかし、加熱したところで鮮度が戻るわけはなく、また、塩をしたところで保存性が回復するわけでもない。そんなこと誰でもわかること。
また、明らかに腐っているわけだから、「もったいないから」と無理して食べて、その後、どうなるかは容易に想像できる。
嘔吐・下痢・腹痛、場合よっては仕事に行けなくなるかも。
結果的に無事であったとしても、食後しばらくはヒヤヒヤしながら過ごすことになるに決まっている。
ロシアンルーレットをやるようなもので、そこまでして食べるメリットはない。
で、相当悩んだ結果、泣く泣く廃棄した。

そしてまた、つい一か月くらい前、同じスーパーでのこと。
よく食べる安い冷蔵餃子を買うべく、いつもの陳列棚へ。
すると、その中の一パックに“二割引”のシールが。
それに気づいた私は、例によって、手に取った。
見ると、消費期限は翌日。
「同じ物なら安い方がいい」と、迷わず、それをカゴに入れた。

その後、私は、いつも買う商品を一通りカゴに入れ、レジを通過。
そして、詰め替えカウンターへ移り、商品をカゴからマイバッグへ移し替え。
その餃子を手にしたとき、ある異変が目に飛び込んできた。
それは、ラップ越しの餃子に浮かぶ緑の点々。
よくみると、それは一か所や二か所ではなく、結構な広範囲に。
「カビ!」とわかった私は、すぐレジに戻り、モノを見せながら店員に説明。
すると、状況を飲み込んだ店員は、売り場へダッシュ。
新しい商品を持ってきてくれ、割引シールが貼られていないのに、「差額は結構ですから」と、そのまま私に持たせてくれた。

“わけあり”だから割引シールが貼られているのは百も承知。
こういうことが起こると、いちいちSNSにアップするのが今流の“正義”なのかもしれないけど、私は、SNSの類は一切やらないし、もともと、そんな“善人”でもない。
また、いちいちクレームをつけるのは私の主義ではないので、一つも文句は言わなかった。
あと、地の利もあるので、今後も、このスーパーは利用するつもり。
ただ、割引で得しても、身体を壊してしまったら大損。
「この店では、パッケージの賞味・消費期限はアテにしない方がいいな・・・」ということは学習したので、よくよく品定めをしたうえでの買い物を心掛けようと思っている。



訪れたのは、郊外に建つアパートの一室。
軽量鉄骨構造で、古いながらもシッカリした建物。
間取りは1DK。
ごく一般的な建物だったが、そこで起こったことは一般に馴染まないこと。
そこで暮らしていた中年男性が自殺してしまったのだ。

依頼してきたのは、このアパート管理する不動産会社。
現場にきた担当者は、人が亡くなった現場に関わるのは苦手なよう(得意な人はいないか・・・)。
ましてや、それが自殺現場となると、本当にイヤなよう。
私は、神経が完全に麻痺しているので何ともないのだが、フツーの人にとって“自殺現場”というものは、気持ちのいいものではないことは察しがつく。
しかし、選り好みで仕事はできないし、会社組織で動いている以上、好き嫌いは言っていられない。
担当者は、罰ゲームでもやらされているかのような嫌悪感を滲ませながら玄関の鍵を開けた。

部屋は、故人が生活していたときのまま。
“中年男性の一人暮らし”にしては、きれい過ぎるくらい。
また、発見は早かったそうで、遺体による汚染や異臭も皆無。
特別な霊感でもあれば別だろうが、何の説明もなく そこで起こったことを察するのは不可能なくらい平和な状態だった。

ただ、台所は、フツーの家とは異なる様相。
「あるべきもの」というか、本来なら、どこの家にもあるものがない。
冷蔵庫、電子レンジ、炊飯器、ガスコンロをはじめ、食器棚もなし。
どこからか越してきたのなら、TV・冷蔵庫・洗濯機などは、以前から使っているものがあるはず。
にも関わらず、それら生活必需品の姿はなかった。

その理由は一体・・・
「引っ越しを機に新調するつもりだった」とか、「前は食事付の社員寮に入っていた」とか。
社員寮に入っていたと仮定すると、故人は、何らかの事情が発生して、そこを出なければならなくなったのか。
とは言え、このアパートに入居できたということは、無職・無収入ではなかったはず。
転職を機に越してきたのかもしれなかったが、正規社員ではなくなり、契約社員とか、業務委託契約になったりした可能性もあった。

同一企業・同一業務における業務委託契約への変更は、従来の雇用契約と大差ないように思われがちだが、事実上は“体のいいリストラ”。
個人事業主となるわけで、これまで身を守ってくれていた労働基準法や会社の処遇を失い、仕事がハードになる反面、収入は不安定になりやすい。
極端な言い方をすれば、日雇労働者みたいな境遇に陥ってしまう可能性もある。
決めつけたような言い方になるけど、そんな未来に、「希望を持て」と言う方が無理。
部屋には、社名・氏名・血液型が記された作業用ヘルメットと汚れた作業服が。
無造作に転がるヘルメットと無造作に脱ぎ捨てられた作業服は、故人の心情を代弁しているようにも見えた。

どちらにしろ、冷蔵庫や洗濯機がないと不便な日常生活を送らなければならないことは目に見えているわけで、買い替えるつもりがあるなら、とっくに用意していたはず。
また、調理器具・食器類くらいはあってもいいはず。
しかし、割箸はあったものの、鍋やフライパン等の調理器具、皿やコップ等の食器類はなし。
食品も同様。
「食べる」ということは、生きることに直結した生き物の本能的な欲であり、命を維持するための本能的な営みなのに、カップ麺もレトルト食品も缶詰も、米や調味料類も一切なかった。

口に入れるもので置いてあったのは、四合瓶の泡盛が一本だけ。
言うまでもなく、そのアルコール度数はかなりのもの。
その泡盛、蓋は開けっぱなしで中身も空。
コップもない中でラッパ飲みしたのか・・・
“別れの盃”なんてつもりはなかっただろうけど・・・
下戸の故人が、決行を前に一気飲みしたのか・・・
到底、故人の想いを知ることはできなかったが、
「ここに越してきた端から、この世に長居するつもりはなかったのかな・・・」
「仕事も生活も、過去を悔やむのも未来を憂うのも、何もかもイヤになっちゃったのかな・・・」
あくまで、物見高い輩の野次馬根性、下衆の勘繰り、個人的な推察の域を越えないけど、自殺という現実を知っていた私の頭には、そういった向きの考えばかりが過っていき、重苦しい切なさが覆いかぶさってきた。

室内の調査を終え、私は、外で待つ担当者のもとへ。
担当者は、入室前に渡した私の名刺をマジマジ見つめながら、
「この仕事は、もう長いんですか?」
と、何かに同情するかのような暗い表情でそう訊いてきた。
キャリアを訊いてくる理由の一つは、「経験が豊富かどうかを確認することによって、その人物・会社・仕事の信頼度が計る」というものだろう。
決して珍しい質問ではないから、そういうときは、決まって応えるセリフがある。
「残念ながら、長くやってます・・・」
実際、ウソではないし、そう言って他人事みたいに笑うと、苦笑いながら相手も笑みを浮かべてくれ場が和む。
で、その後のコミュニケーションがうまくとれるようになるのである。

そんな質問をしてくる他の理由として、「この人は、なんでそんな仕事をしてるんだろう・・・」といった好奇心もなくはないだろう。
そういうことは、言葉にでなくても、肌で感じるもの。
実際、これまで出会ってきた中で、私のことを“わけあり”と思った人な少なくないはず。
また、私の仕事があまりに“珍業”なため我慢できなかったのか、その類の疑問をダイレクトにぶつけてきた人もいる。
ただ、一部の法人客を除き、当該の仕事が終われば、その内のほとんどの人とは縁がなくなるわけだから、余程の無礼がないかぎり、気を悪くするようなことはない。
“わけあり”な人間であることは間違いのない事実だし。


この仕事に就いたキッカケ・動機については、十数年前、このブログを書き始めた頃、「死体と向き合う」という表題で二編書いた憶えがある。
若かった、浅はかだった、就業当時、二十三。
著しい不幸感・絶望感に苛まれていた私は、「他人の不幸を見てやろう!」「その先は、どうなったってかまわない!」と自暴自棄になっていた。
喜んでいいのか、悲しむべきなのか、あれから三十年、よくもまぁ、ここまでやってきたものだ。

思い返せば、食っていくために必要だった。
言い換えれば、死なないために必死だった。
それでも尚、この人間は惨めなまま。
ただ、ポツンと生きている。
死人のように、ただ生きている。

何事も“始まり”があれば“終わり”がある。
いつ、どういうカタチで終わりがくるのかわからないけど、“終わり”は必ずくる。
それまでは、やり続けるしかない。
しかし、やるからには、「食うため」以外の“わけ”がほしい。
ただ“食うため”だけに時間を浪費し、ただ“食うため”だけに身体を酷使し、ただ“食うため”にだけに精神を削り、いつの間にか歳だけとっていく・・・
そんな生き方は、ホトホト疲れた。本当につまらない。
何か、「食うため」以外の働き甲斐がほしい。
苦労して生きるのだから、少しくらい生き甲斐がほしい。

「人助け?」「社会貢献?」「使命?」
残念ながら、その類は、私の生き甲斐にはならない。
「金?」「物?」「名誉?」
少しは響くものがあるけど、それはそれで虚し過ぎる。
結局、生き甲斐は見つけられずじまい・・・
悲しいかな、生き甲斐を探し続けて終わる人生のような気がする。

生まれてきたことには“わけ”があるはず。
こうして生かされていることにも、
そして、死んでいくことにも、
人知を超えたところに“わけ”がある。
例え、その意味が見つけられなくても、そこに“わけ”があることを知らなければならない。

生きることの惨めさをやり過ごすために。
生きることの虚しさを忘れるために。
生きることの苦しさに負けないために。

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春待ち人

2014-04-02 08:05:51 | 自殺 事故 片づけ
暦は四月。
やっと春。もう春。
ついこの前まで極寒が続いていたのに、いきなりこの暖かさ。
車に乗っていると暑いくらい。
ともない、桜も満開。
宴会の予定はないけど、走る車窓から街々の桜を愛でている。

見慣れた景色に桜をみると、昨年の桜が昨日のことのよう。
「もう一年たったのか・・・」
歳のせいか、一年が過ぎるのがはやい。
当り前のように移ろう季節と、当り前じゃない自分の時間の重なりが、何とも不思議なことのように思えてくる。

まだ過去形にはできないけど、今年の冬も何かとツラい思いをした。
この性格・性質を否定し、自分の不甲斐なさと若い頃の薄慮を恨めしく思った。
それでも、そんな人間にも、こうして春は来た。
何の代償も、何の努力もなく、ただ待っただけで。



「飛び降り自殺が起こった」
「血まみれで、肉片も残っている」
「住民が気持ち悪がってるから、至急、片付けてほしい!」
ある晩冬の午後、団地の管理人から、そんな連絡が入った。

出向いた現場は、大規模な団地。
同じ規格の建物が幾重にも建ち並び、単調な景色は、まるで迷路のよう。
ただ、幸い、カーナビは現場の棟まで把握。
現場の棟前に着いた私は、目に飛び込んできた汚染痕の脇に車をとめ、管理人室に到着の電話を入れた。

汚染痕は、異様に目立っていた。
その状況は、一般の人には凄惨極まりない光景に映るものと思われた。
しかし、管理人のテンションから私が想像してきた状況より軽症。
確かに、血は広範囲に飛び散り、脳片・肉片も飛び散ってはいたが、もっと凄惨な現場を何度となく経験していた私にとっては、そんなに負荷のかかる光景ではなかった。
ただ、警察が画いたチョーク線の人型が私を神妙にさせるのみだった。

「ご苦労様です・・・早速にスイマセン・・・」
「住民が次々に苦情を言ってくるもんですから、自分で掃除するしかないかとも思ったんですけど・・・やはり無理でして・・・」
管理人は、駆け足でやってきた。
そして、住人に言うかのように、必要のない言い訳を私にした。

「それが普通ですよ」
「どこの管理人さんだって、やらないと思いますよ」
私は、気マズそうにする管理人をフォロー。
事実、血痕清掃・肉片除去なんて難しい技術のいる作業ではないけど、精神的に著しい嫌悪感を抱くのは人として自然なことだから。

「で、どんな具合でしょうか・・・」
「そんなにヒドくないですね・・・私の経験の中では軽いほうです」
「あれで、軽いほう!?」
「そうですね・・・」
「・・・ということは、これよりヒドいケースも多いということですか?」
「まぁ・・・」
この惨状でも軽症ときいて、管理人は驚いた様子。
同時に、もっとヒドいという他の事例を聞きたそうに。
しかし、私は、“話したくない”という気持ちが伝わるよう無愛想に言葉を濁した。


故人は40代の男性。
飛び降りたのは、その日の昼前。
自宅のベランダでは高さや落下地点に不都合があったため、自宅階より上の階段踊場を選んだよう。
しかし、その下は、建物の出入口につながる通路。
人の往来が頻繁にあるところ。
幸い、巻き添えになった人はいなかったが、下に人がいて激突でもしていたら、とんでもないことになっていただろう。
そこのところに、故人の薄慮を非難する気持ちが湧いてきた。

私から作業内容と費用の説明を受けた管理人は、そのまま特掃を依頼。
その心積もりで来ていた私も、二つ返事で承諾。
ただ、そこは、住民が建物に出入りする際に歩く通路。
とても人目につきやすい場所。
人目が苦手な私は、作業の難易度より、人目につくことの方が気がかりに。
他の現場同様、見世物みたいになって惨めな気分に苛まれるからだった。

やはり、そこには、多くの人の往来があった。
しばし立ち止まり、遠巻きに見物する人もいたけど、ほとんどの人は黙って通過。
中には、「ご苦労様です」と声をかけてくれる人もいた。
その一言の有無は、私をあたため、また冷やした。

汚染された地面の大半は、塗装されたアスファルト地。
コンクリートに比べたら痕が残りにくい。
ただ、細かい凹凸があり、その隙間に入り込んだ脳片は硬毛のブラシで掻き出すしかない。私は、外灯と懐中電灯の明りを頼りに、何十か所にも点在する脳片・肉片をアスファルトの凹から掻き出し、一つ一つ片付けていった。

言うまでもなく、それは根気のいる作業。
しかも、時は、晩冬の夕刻。
気温はそれなりに低下し、身体は冷え、手は凍えた。
そして、その寒さと野次馬の視線は、私の作業の邪魔をした。
ただ、最も邪魔をしたのは、自分の怠け心と、つまらない自尊心だったかもしれなかった。


そんな中、いつまでも立ち去らない人影が遠くにあった。
「モノ好きな人もいるもんだな・・・」
私は、それを不快に感じた。
しかし、
「見世物じゃないんで!」
なんて言えるわけはなし。
とにかく、私は、気にしないよう努めることに。
神経を地面に集中させ、黙々と身体を動かした。

作業の合間にチラッと見ると、それは年配の男女。
夫婦のように見えた。
私と視線が合うと、二人は私に向かって会釈。
人に頭を下げられて無視するのは無礼。
しゃがんで作業していた私は、一度立ち上がって、浅く頭を下げた。

二人は、ただの野次馬ではなさそう・・・
管理会社の人間なら声をかけてくるはず・・・
故人の関係者?・・・
多分、故人の両親・・・
何かを想ってのことだろう、二人は、暗くて寒い中、私の作業が終わるのを待っているように見えた。

私は、作業を中断し、二人に近寄ってみようかと思った。
が、やめておいた。
自分が野次馬になるおそれがあったから。
黙って作業をこなすことが、私が尽くすべき礼儀だと思ったから。

自殺した故人、その痕を消す私、それを見守る両親らしき二人。
そこには、それぞれの想いと立場が交錯。
私にとって、故人はアカの他人。その両親もアカの他人。
故人の死を悼む気持ちや両親を気の毒に思う気持ちがなかったわけではない。
が、心底の悲しみはない。
悲しそうなフリならできるが、過ぎた礼は無礼になる。
結局、そこに社交辞令が入り込む余地はなく、私は、会釈をもって作業終了を伝え、二人と言葉を交わすことなくその場を離れたのだった。


清掃痕をみて、二人は何を思っただろう・・・
故人の自死は、両親の心を凍え上がらせただろう・・・
冷えたその心は、一生、あたたまることがないかもしれない・・・
それでも、受け入れ難い現実を負い、亡くなった息子を、残りの人生に生かそうと考えたのではないかと思う。
私の特掃をずっと見ていたのは、そのためのような気がするから。

「生きていればいいことがある」「春は必ずくる」
そんなことは、軽はずみに言えない。
それでも、時が何かを解決することがある。
時にしか解決できないことがある。

人の一生には、ただ待つしかないときがある。
何の代償も、何の努力もなく、ただ待つことだけが大切なときがあるのである。
春がくることを信じて。



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負け犬の遠吠え

2013-12-31 09:48:33 | 自殺 事故 片づけ
「お前は負け犬」
「お前のブログは負け犬の遠吠え」
時折、そんな声が聞こえる。
そして、それは、自分を見つめ直すきっかけを与えてくれる。

勝敗の判断基準をどこに置くかによると思うけど、私はそれを否定しない。
容姿、収入、学歴、職業etc・・・私は、金持ちでもなく、社会的に高地位についているわけでもない。
人から羨望されるようなこともない。
そういう面では、人との勝負にはほとんど負けている。
だから、一般的にみて、“負け犬”と思われても仕方がない。

また、私の話には、“きれいごと”とされやすいネタやネガティブな愚痴が多い。
常に、不平・不満・不安感に支配され、陰気クサイ雰囲気がプンプン。
こうして自分を卑下する自虐ネタも好きで、それが陰気臭さを倍増させているかもしれない。
このブログにしたって、読んで明るい気分になれることは少なく、どちらかというと神妙な気分になることのほうが多いのではないだろうか。

しかし、負け犬は負け犬でも、不戦敗ではないと思っている。
一応は、戦っているつもりである。
生きていること・生きることを当然のことと思い、生きるということはどういうことか・生きるためには何をしなければならないのかなんてことは何も考えず、生に対して無責任でいられた若い頃は戦いを避けて通り、不戦敗を続けてきたこともあった。
しかし、この仕事を始めてからは、それも減ってきたように思う。
そして、ときには善戦したこともあったように思う。
完敗ではなく惜敗だったことがあったかもしれない。
それらを経て、わずかながらでも、努力することと忍耐することが身についてきたように思える(この歳になって、“手遅れ”の感もあるけど)。

戦場は、人生においていたるところにある。
そして、仕事は、主戦場のひとつである。
できることなら、仕事なんてやりたくない。
やらなければならないのなら、少しでも楽してやりたい。
また、色々な事象の現場において、色々な事情を抱えた人々、色々な立場の人々、色々なタイプの人々を相手にしなければならず、面倒なことや嫌な思いをすることも少なくない。
それでも、それをやらなければ生きていけない。
そこに戦いが生まれるのである。


「自殺後の遺体や現場について教えてほしい」
ある日、会社にそんな電話が入った。
はじめに電話をとった事務スタッフは、しばらく電話主と会話したものの、相談の内容は自分の守備範囲ではないと判断。
そこで、守備範囲が比較的広い私が電話を代わることに。
私は、電話を切るタイミングを失うような話になるなんてことはまったく予想せず、受話器をとったのだった。

電話の主は、30代の男性。
高学歴の持ち主で、それなりの企業に勤めていた。
そんな中、職場で恋愛関係にあった女性とトラブルを起こしてしまった。
男性は、男としてのメンツもあり、潔く退職。
「給与が少々下がることがあっても、自分の学歴・職歴があれば、新しい仕事に就くこともそんなに難しくはない」と考えてのことだった。
しかし、現実は違っていた。
20社近くに応募したにもかかわらず、採用してくれる企業はなし。
男性が就活に限界を感じるようになるまで、そんなに長い時間はかからず。
精神はひどくダウンし、死を考えるまでにいたっていた。

男性は、社会的地位が低い職業を具体的にいくつか挙げ、
「今更、そんな仕事に就いてまで生きていきたいとは思わない!」
と、自分が陥った境遇を嘆いた。
一方の私は、それに真っ向から反論できるほどの材料を持っておらず。
それどころか、男性のその気持ちがよくわかった。
そんな私が、ただの精神論や感情論をもって男性の心の向きを変えることができるわけはない。
私は、自殺が他の人にとってどれだけ迷惑なことか、自殺が他の人をどれだけキズつけるか、自殺が他の人をどれだけ不幸にするか等々、ひたすら自殺による実害を説明することに専念するほかなかった。
と同時に、それは、私自身に、言葉では表せない虚しさと悔しさを覚えさせたのだった。


職業には貴賎がある。
世に中には、“いい仕事”と“そうでない仕事”がある。
私の仕事は、明らかに“賎”のほうに属する。
それでも、私の場合、最初からこの仕事をしているから、この歳になっても、何とかやれているのかもしれない。
どこかいい企業に勤めていて、そこから転職せざるを得ない状況に陥ってからではやれなかったかもしれない。
これは、そこまで低い位置にある仕事。
ただ、そういう仕事と理解していても、やはり、他人から蔑まれたり見下されたりすると、不快にもなり憤りも覚える。
まったく、矛盾だらけである。

私が持つ職業の貴賎についてのこだわりは、私自身が職業に対する差別意識を持っていることの表れでもある。
自分に他人の仕事を上に見たり下に見たりするクセがあることは、ハッキリ自覚できる。
結局のところ、私は自分の仕事に対して不誠実であり、プライドが不足しているから、自らを卑下してしまうのだと思う。
だから、誰かにバカにされたら誰かに怒るのではなく自分に怒るべきで、誰かを批難したくなったら自分を批難すべきなのだと思う。

職業には貴賎はあるけど、それはそのまま楽苦の差となるわけではない。
「労苦」言葉はあっても「労楽」という言葉はない。
仕事に苦労はつきもの。
苦戦することも多く、負けそうになることも多い。
そこまでして生きなければならない理由を求めると、余計に苦しくなる。
そして、それがまた、あらたな戦いを生み、戦いが戦いを呼ぶ。

戦いのない人生はない。
戦いながら生きるのはツラい。
それでも、生き方としては正しいと思う。
戦わなければ勝利はない。
人生においては、戦いに負けた者が敗者でなく、戦うことをやめた者が敗者。
(自殺者が敗者ということではない。)

幸せに生きる、楽しく生きる、喜んで生きる、感謝して生きる、希望をもって生きる・・・
これらも、すごくいい生き方だと思う。
しかし、これらは人生の部品。
成型は“正しく生きる”ということ。
つまり、“人生の価値(勝ち)は、正しく生きることにある”ということ。
そうは言っても、これは決して簡単なことではない。
ただ、例え、正しく生きることができなくても、正しく生きることに向かっていくことが大切だと思っている。


今日は、2013年大晦日。
予定は未定の仕事ながら、今のところ、今日は現場仕事の予定はない。
“仕事納め”がない会社でやることは事務所内の雑用。
何事もなければ、残業もなく帰れ、ゆっくり風呂に入って一年の垢を落とすことができるだろう。
そして、好きな酒を飲んで、一年の労苦と労をねぎらうことができるだろう。
年老いたとはいえ、うちのチビ犬もまだまだ食欲は旺盛。
年末年始くらいは、おいしいモノを食べさせてやろうと思っている。

「特殊清掃 戦う男たち」
この一年もまた、我々は色んな戦いに遭遇した。
色んな現場に走り、色んな人と出会い、色んな想いをしてきた。
多くの涙があり、少しの笑いがあり、その中に苦悩と悲哀、感謝と喜びがあり、そして、戦いがあった。
そして、私は、人が“死”に勝てない摂理にあることを知りつつ、それでも生きた人々・生きる人々の戦いをここでリポートした。

精神の弱さを棚に上げ、強気なことを言ってきた。
小心に似合わない大口を叩くこともあった。
机上の空論もあったかもしれない。
上辺だけのきれいごとと思われても仕方がないこともたくさん吐いてきた。
実践がともなわない口先だけの発言も多かった。
正論か邪論か、善行か悪行か、そんな判断もできない頭で、自分の内に湧いてくるものを文字にしてきた。

それもまた私の戦い。
そして、例えそれが“負け犬の遠吠え”であっても、自分と誰かの心に届いているうちは吠えていこうかと思っている年末である。


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夏の思い出

2013-10-28 13:09:13 | 自殺 事故 片づけ
今年の夏も暑かった!
今年の夏は暑かった!
毎年のこととはいえ、この暑さには多くの人が苦しめられたことだろう。
この私もその一人で、これまでは、基本的に車のエアコンは使わない主義できたのだが、さすがに今年の暑さは身体に堪え、時々、エアコンをつけてしのいだ。
また、間接的だけど、「ブログを半年放置する一因にもなった」と言えるかもしれない。

前にも書いたとおり、私は、単独行動が多い。
精神的に一人では難しいことを理由に肉体的に一人でできる作業を二人以上の人間でやるなんてことはしたくないし、“一人のほうが気楽でいい”といった理由もある。
ただ、一人で動いていて気をつけなければならないこともある。
そう、夏場の熱中症だ。

“風通しのいい特掃現場”ってまずない。
“風通しがいい”どころか、私が行く先は“風通しが悪いところ”・・・・・いや、“風を通してはいけない”ところばかり。
外部に悪臭や害虫をだしてはマズイため、部屋を閉め切らなければならないことがほとんどである。
そうなると、おのずと室温は下がらない。
下がらないどころか、外気より高いこともしばしば。
そんなサウナ状態で汚物と格闘しなくてはならないわけだから、その作業が過酷を極めるのは言うまでもない。

そんな状態では、こまめな休憩と水分補給が重要。
しかし、それがわかっていても、作業を始めるとそれを中断するのが面倒臭い。
その都度、汚れた手袋や靴を脱着するのも面倒だし、休憩を入れることによって気持ちが萎えてしまうことも厄介。
結果、かなりしんどくなるまでは、休憩をとらなかったりするわけ。
実は、これが危険。
熱中症は早め早めの対処が大事で、症状がではじめたときは手遅れだったりするから。

幸い、これまで、病院に担ぎ込まれたり現場で倒れたりしたことはないが、具合が悪くなったことは何度もある。
もう若くはないのだから、気をつけなければいけない。
「孤独死現場で孤独死」なんて、いかにも私らしくて笑えるかもしれないが、現場で倒れでもしたら、依頼者やその関係者だけではなく、会社や同僚にも多大な迷惑をかけてしまうから。


そんな今年の夏、2020年のオリンピックが東京に決まった。
普段はネガティブな思考しかできない私なのに、しばらく前から、なんとなく、今回は東京に決まるんじゃないかと思っていた。
賛否両輪あるみたいだけど、私は賛成派。
物事に長所と短所、メリットとデメリットがあるのは自然なことだし、これによって、色んなことが活気づくだろうから。

7年後の自分を想像した人も多いと思う。
とりあえず、7年後も生きていると仮定したうえで、私が自分について考えたのは年齢のみ。
何をやっているかまでは、考えなかったし、あえて考えないようにしている。
もう20年以上もこんなことをやっているわけで、7年後も老体に鞭打ちながら今と同じことをやっている可能性も少なくなく・・・・・
それを思うと恐ろしくて恐ろしくて、具体的に考えたくなくなってくるのである。
前回記事に矛盾するようだが、その頃には、もう少し楽な仕事をしていたいと思っている。

何はともあれ、これから、東京の街も様変わりしていくはず。
これまでに見たこともないような建物とかできるんだろう。
何かの試合や競技を直に観ることができるかどうかわからないけど、とにかく成功してほしいものだ。
7年後の夏・・・きっと、忘れられない夏になるだろう。



ある年の初夏。
猛暑の中、私は、自殺腐乱現場となったマンションのエントランスで、依頼者の女性と待ち合わせた。
女性は故人の母親。
見たところ80歳前後の老年。
故人は中年の女性。
室内での縊死し、発見まで数日が経ってしまっていた。

数年の間、故人は精神を患っていた。
以前は女性と一緒に暮らしていたのだが、故人の精神状態は一緒に暮すことができないまでに悪化。
独り暮らしをさせることに不安はあったものの、本人の強い希望と回復への期待から、女性は故人が独り暮しをすることを認め、近所に部屋を借りた。
そして、その生活を支援するようになった。
しかし、故人の病状は回復の兆しをみせることなく一進一退。
調子のいいときは一緒に外に出かけたり食事をしたりできたのだが、悪いときは会話も間々ならず。
電話にでなかったり、訪問しても玄関を開けてくれなかったりすることもあった。
それでも、病院には通っていたし、薬もキチンと飲んでいたため、自ら死んでしまうなんてことは少しも考えていなかった。

故人は一人娘で、夫(故人の父親)は既に他界。
助けてくれる親類縁者はおらず。
年金生活で、自分の生活に余裕があるわけではない中、爪に火を灯すような生活で故人の生活を支えてきた。
故人宅は賃貸マンションで、部屋の原状回復と補償など、どれだけの負債を背負わされるか読みきれず。
いくらかは貯えがあるものの、場合によっては自宅を売らなければならない状況になるかも。
・・・・・等々、厳しい現実が容赦なく女性を襲っていた。


「部屋には入らないほうがいい」
と警察から注告されていた女性は、死後の部屋を確認しておらず。
「娘(故人)が最期に何を考えていたのか少しでも知りたい」
と部屋に入りたがった。
しかし、悪臭は著しく、光景も凄惨。
「私には“入ったほうがいい”とか“入らないほうがいい”とかいう権利はありませんから、判断はお任せします・・・・・」
と、私は冷たい対応しかできなかった。
結局、女性は悩みながらも入室を断念。
「部屋の様子はできるかぎりそのままにしておいて」
と要望するにとどまった。
その心中を察した私は、それを尊重する約束をして作業の準備にとりかかった。


部屋は1K。
キッチン部分の床は全滅、腐敗体液が覆い尽くしていた。
それでも、私にとってはよく見る光景。
定石を踏んだ作業でこと足りる。
ただ、室内はサウナ状態。
慣れた作業環境とはいえ、辛いものは辛い。
気温のせいか気持ちの温度のせいか、妙に息苦しく、私の呼吸は次第に“ハッハッ”と短くなっていった
そしてまた、この先、女性が負わなければならない責任と刻まなければならない時を思うと、余計に、気分は重くなっていった。


「暑いのに、大変なことをお願いしてしまって・・・」
「喫茶店にでも行って冷たいものを飲みましょう」
一次清掃を終えた私がエントランスへ戻ると、女性は、私の労苦をねぎらってくれた。
しかし、私は完全なウ○コ男に変身。
喫茶店どころか、マンションの1Fエントランスに留まっていることも躊躇われる状態だった。

「このニオイですから・・・」
「とりあえず、外へ出ましょう」
臭すぎる自分の身の置場は、そこにはなかった。
私は、女性をうながし、そそくさと外へ。
人に近づいてこなさそうな所を探して、一息ついた。

私の身がとても飲食店に入れる状態ではないことを理解した女性は、近くのコンビニでアイスクリームと飲み物を買ってきてくれた。
街を歩く人達には、ヨレヨレの中年男と老婆が、外の縁石に腰掛けてアイスクリームを食べる姿が奇妙に映ったかもしれない。
ただ、その場の空気はクサイだけではなく、そんな視線も気にならないほど重苦しいもの
だった。


「“死んでしまおうか・・・”と何度も思いました」
「でも、どちらにしろ、この先の人生は短いでしょうから、生きられるだけ生きるつもりです」
「それが私の責任だと思いますから・・・」
女性は、生きているのが本当に辛そうだった。
そして、いつもの安っぽい同情心ながら、私はそんな故人を気の毒に思った。
が、私には、その原因をつくった故人を批難する気持ちは湧いてこなかった。
多分、母と娘(女性と故人)の間には、第三者が入り込む余地がないほど、生きることと必死に戦った跡が残っていたからだろうと思う。


人生には、楽観できない現実と遭遇することがある。
人生には、降ろせない重荷を背負わされることがある。
今、苦しいかもしれない。
今、悲しいかもしれない。
今、辛いかもしれない。
しかし、この苦しみ悲しみも辛さも、永久のものではない。
すべてに終わりがあり、すべては過ぎ去っていく。
すべて思い出に変わり、そして、その思い出も過ぎて消えていく。
今、ここにいる自分も、ここに自分という人間がいたことさえも。


「生きられるだけ生きるつもりです・・・」
そう言った女性は、何かを決意し、また何かを覚悟したのだろう。
同時に、悲惨な現実の中に、娘への愛情と生きることへかすかな希望を抱いたのかもしれなかった。
そして、死ぬにも勇気がいるかもしれないけど、生きることにも大きな勇気がいること、また人はどんな状況でも生きる勇気を持てることを教えられたのだった。

・・・・・いずれは消え行く、夏の思い出である。




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ウソも方便

2012-02-15 07:49:21 | 自殺 事故 片づけ
私は、人間の性質について言及することがある。
あくまで個人的な自論であるとともに、自分自身にしか当てはまらないことも多いと思うけど、これについては、このブログでも多々触れている。

そのひとつに、「人には生まれもっての悪性がある」というものがある。
例えば、“ウソ”。
自分の子供にウソのつき方を教える親はまずいないだろう。
にも関わらず、子供はいつも間にかウソをつくことを覚える。
自分にとって都合の悪いことを隠し、自分にとって都合のいいように他人を欺く。
また、親は子供に、「他人のことは気にするな」「自分のことだけ大事にしろ」というスタンスの教育はしないだろう。
なのに、物心つく頃には、利己主義的思考をし、自己中心的な振る舞いをするようになる。
更に成長し、理性を持つようになってからも、悪い思いは、自分の中から次から次へと湧いてくる。
これらを、私は、「生まれもっての悪性」と呼んでいるのである。

しかし、本当に「ウソ=悪」と言い切れるだろうか。
経験を思い起こし、回りを見渡せば、「そんなことはない」と思う。
総論としてウソは“悪いこと”とされるけど、各論になると「悪いこと」とは言い切れなくなる。
ウソの善性・悪性は、それだけ曖昧。
良いウソと悪いウソは表裏一体。
その関係に明確な境界はない。

“ウソ”を考えることは面白い・・・けど難しい。
同時に、なかなか辛いことでもある。
結局、「その良し悪しは、よくわからない」ということになる。
多分、人の英知を結集しても、たいした答は得られないだろう。
ただ、「善悪について人ができる判断は意外と少ない」ということ・・・“人間の限界”を思い知らされるばかりなのである。



ある日の夕方、特殊清掃の依頼が入った。
他の現場にいた私は、会社の指示で依頼者に電話。
電話にでた相手は中年の男性のよう。
慌てた様子はなく、むしろ落ち着いた感じ。
私は、詳しい状況と要望を確認した。

「家族の者に事故があった」
「汚れた布団を回収してほしい」
「夜遅くなっても構わないから、今日中に来てほしい」
依頼の内容は、“特殊清掃”というより“汚物回収”。
私は、向かうべき先の住所を教わり、予想される到着時刻を伝えた。
そして、「事故」という言葉に色んな想像を巡らせながら現場に向かって車を走らせた。

到着したのは、閑静な住宅街にある一般的な一戸建。
あたりはとっくに暗くなり、空気はヒンヤリ。
空は満天の星空。
昼間の暖かさがウソのように、吐く息は白くなっていた。

門扉のインターフォンを押すと、すぐさま男性が応答。
それは、電話で話した依頼者だった。
男性は、庭に入ってくるよう私に伝え、中から玄関ドアを開けてくれた。
時間も時間、作業もすぐに済むと思っていた私は、回りくどい挨拶はとばして中に入った。

家には他にも人がいる気配はあったが、男性のほかには誰も私の前に姿をみせず。
TVの音も話し声もなく、シーンと静まり返っていた。
男性は、二階に私を案内。
「“事故”かぁ・・・」と、重苦しい雰囲気を全身に受けながら、私は男性について階段をあがった。

現場は、二階の一室。
男性は、ドアを開けると足を止めて一呼吸。
明らかに、何かを躊躇っている素振りをみせた。
私は、“部屋に入りたくない”という男性の気持ちを察し、男性と前後の位置を交代。
私は、「一人のほうが見やすいので・・・」と、男性をドア前に残して部屋に足を踏み入れた。

部屋は、男仕様。
血生臭い不快臭が漂っていた。
置いてあるモノと雰囲気から推測できる年齢は若め。
どうも、部屋の主は男性の息子のようだった。

部屋の隅にはパイプベッド。
その上には、無造作にたたまれた布団。
それが依頼の布団のようだった。
壁には、拳大の穴が数個。
それは、私によからぬことを想像させた。

それまでにも、血の現場に何度となく遭遇し、処理してきた私。
だから、血痕の原因となったものが何であるか、だいたいの検討がつく。
吐血の場合、部屋が汚れることを避けるために動いた痕が残っていることが多い。
例えば、洗面台や便器に吐いた痕があったり、洗面器やゴミ箱に血塊があったり、また、血の足跡や指跡があったりと・・・
下血の場合も似たようなもので、血痕はトイレに及んでいることが多い。
しかし、この部屋にはそれを想像させる痕跡は何もなかった。

作業に着手する前に、かかる費用を提示し了承をとらなければならない。
そして、費用を算出するには、汚染度の確認と回収物の特定が必要。
私は、それらを確認するため、ゆっくり布団を広げてみた。
布団は鮮血で真っ赤に染まり、一部はゼリー状に凝固・・・
その血は更に、布団だけにとどまらず、ベッドの敷板にまで浸透・・・
また、一部は床に垂れ、一部は壁に飛び散り・・・。
どうみても、頭に“死”が過ぎってしまう光景だった。

「色々ありまして・・・」
汚染具合を黙って観察する私の背中に向かって男性が口を開いた。
男性は“どうせ訊かれることだろうから話してしまおう”と思ったのかもしれなかった。
が、別に話したいわけではないことは容易に想像できた。

私にとって、身体を動かす作業だけが仕事ではない。
依頼者の話を丁寧に聞くことも仕事のひとつ。
また、逆に、訊かないことが大事な仕事になるときもある。
このときの私は、ことの真相を聞き出す必要性を感じなかった。

確かに、自然死と自殺では、精神的な負荷に違いが生じる。
しかし、仮に精神的な負担があるとするなら、それは黙って負うべきもの。
依頼者に投げ返すようなものではない。
私は、汚染に関する物理的な状況を説明し、見積った費用を事務的に男性に伝えた。

作業時間は一時間程度。
布団はきれいにたたみ直して梱包、ベッドは小さく分解し、血のついた部分だけ梱包。
そして、それを搬出し車に積載。
それから、床や壁に付着した血を拭き取り、簡易消毒を施して作業を終えた。

「ありがとうございました・・・お釣りは夕食代にでもして下さい」
と、男性は過分のお金を私に差し出した。
私には、遠慮することよりさっさと退散することの方が礼儀のように思われ、黙って頭を下げてそれを受け取り、玄関を出た。
そして、深呼吸で外の冷気を取り込み、赤い血と蒼い想像に過熱した頭を冷やしたのだった。


「自殺はダメ」「生きなきゃダメ」
この社会では、自殺は否定される。
私も否定している。
やはり、肯定されていいものだとは思わない。
ただ、口で言うのは簡単。
他人が言うのは極めて簡単。
人は、簡単に言えないことを簡単に言う。
悲しいかな、私は、その代表格なのかもしれない。

私には、自殺は絶対的に否定されるべきものかどうかわからない。
その人の存在がその人を苦しめ、誰かを苦しめていることがあると思うから・・・
その人の存在がなくなることによってしか解決しないこともあると思うから・・・
そして、自分が、その是非を判断するための力を得、権利を持ち、見識を備えているとは思えないから。
それでも、“その行為は否定しても、その人生は否定したくない”という気持ちが萎えることはない。
数々の自殺遺体を処置し、数々の自殺現場を処理する中で、それは硬度を上げている。


当人が亡くなったのか、それとも命を取り留めたのかは知る由もなかった。
もちろん、実際に自殺を図ったのかどうかも不明のまま。
ただ、私の頭の中で経験則と先入観が動いだだけのことだった。
仮に、私の想像が現実だったとしても、「色々ありまして・・・」と言葉を濁し、多くを語らなかった男性に悪いウソがあったとは思わない。
この社会は自殺を嫌悪すること・気味悪がることを常識としているため、私への気遣いがあったが故のことかもしれないと思うから。
そしてまた、防ぎようのない悲しみに対する孤独な戦いがあったのかもしれないとも思うから。


「助かってればいいけどな・・・」
帰りの車の中、私は、そう思った。
しかし、それは、どこか義務的・社交辞令的なもの・・・
そう思うことによって、当人を悪く思う後ろめたさを拭おうとした・・・
そして、自分をいい人間にしようとした・・・

私は、つまらない自分につまらないウソをついたのだった。



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