特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

ルービックキューブ

2024-08-08 04:43:32 | その他
今の若い人達は知らないだろうか、ルービックキューブを。
流行ったのはいつ頃だったか・・・ハッキリは憶えてないけど、私と同世代、またはそれ以上の年代の人には知っている人が多いと思う。

私の友達には、短時間で6面を合わせる頭脳派もいれば、時間はかかるが諦めないでやる努力家もいた。
ちなみ、私は頭脳派でもなければ努力家でもないので、恥をかくだけの無用なチャレンジはしなかった(こういうとこがダメなんだよね)。

故人は初老の男性。
脳神経系の病気を長く患っていたらしい。
故人は、病気の進行具合を自分で把握するために、ルービックキューブを解くことを日課にしていた。
家族や看護師に適当にシャッフルしてもらい、6面合わせられるまでの時間を毎日測っていた。
次第に時間はかかるようになってきたものの意識はハッキリしており、最期の方は「解けない」と言うより(体力的に?)「続けられない」と言った感じだったらしい。

ひとつの家族でも、故人に対する個々の想いは同じ色とは限らない。
「優しい夫だった」「厳しい父だった」「誠実な兄弟だった」
もちろん、どれも一人の故人。
一人の故人が色々な顔・面・色を見せていた訳で。

生まれてきた時は一つの顔しかなったものが、歳を重ねるごとに持つ顔が増えていく。
息子、兄弟、夫、父、部下、上司、知人、友人など。
全て一つの顔で通すのが理想かもしれないが、なかなかそうはいかないのが現実。

「本当の自分はどれ?」
一体、本当の自分の顔はどれなのだろう。
全て?一部?一つ?

いつの間にかシャッフルされたまま放置している心のルービックキューブ。
解き戻せたとしても6面6色。一面一色ではない。
何だか、人の心のよう。
「二枚舌」「二重人格」なんて可愛いものだ。

たくさんの顔・面・色を持ち過ぎた私は、今では元の状態さえも忘れてしまっている。
元に戻せる賢明さがほしい。
子供のようになるしかないかも。

故人愛用のルービックキューブを柩に納めながら、そんなことを考えた。


トラックバック 2006-08-20 09:05:42投稿分より

-1989年設立―
特殊清掃専門会社
ヒューマンケア株式会社
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同じ空の下で

2024-07-17 06:48:40 | その他
昨日までグズついていた東京の空は、今日は快晴!
また夏の猛暑が戻ってきた。
夏は特掃業務にとっては過酷な季節だが、青い空を見上げると気持ちに涼風が通る。

読者からの書き込みを非公開にしてから一ヶ月余りが経った。
それ以前に比べれば書き込み件数が明らかに減っているが、私の気分に余計な波風が立つこともなくなり、ブログも落ち着いて書けるようになっている。
そして、書き込んでくれる人自体も変わってきているように思う。
今でも色んな意見や感想があるものの、冷静に読むことができている。

あの当時は、「スルーすればいい」という類のアドバイスをたくさんもらったが、私の性格ではアレが限界だった。
我ながら、器量不足も感じているが、どうにもならない。
私はこの性格で三十数年生きてきたので、今更、大きなモデルチェンジもできないのだろう。「人間ってそんなもんだ」と開き直っている。
そして、何事もスルーできるような性格だったら、もともとこんな人生を歩いてないかもしれない。

書き込みの非公開については色々な意見がある。
「非公開の方が書き込みやすい」等、現在の書き込みには非公開に賛成する意見が多い。
ただ、公開を望む声もある。
そんな読者には申し訳ない気持ちがある。
また、公開を好む人は書き込むこと自体をやめている可能性が高いので、一概に非公開が歓迎されているとも思っていない。

しかし、今はまだ書き込みを公開する予定はない。
公開しても、いずれまた荒れてくるだろうから。
やたらと気の短い金色の蝿がでてこなくなったのは少し寂しい気もするけど、現場業務が過激な分、それ以外の時は平穏にいきたい今日この頃である。

「ブログのアップくらいは自分でやれ」「たまには休んだら?」という類の書き込みも少なくない。確かにそうかもしれない。
ただ、私の本職はデスクワークではなくデスワーク。
机に向かってカチャカチャやるのはかなり苦手、しかも決まった時間に机に向かえる仕事ではない。
そんな私は、ブログを携帯電話を使って小刻みに打つことも多い。
誤字が多いときは、携帯電話で打ったと思って間違いない。
あと、管理人との二人三脚はブログ運営に限ったことではなく、その相乗効果は多岐に渡っているので、今後もこの体制を変えるつもりはない。
私も意固地になって毎日更新している訳でもないので、これからは適当に休むかもしれない。

「怖くない?」「ストレスは?」という類の書き込みがある。
死体に「怖い」という感情を持ったことはほとんどない。
「気持ち悪い」はたくさんあるけど。
人は、死体を何故そんなに怖がるのだろうか。

死体は、私を裏切ったり傷つけたりしない。
死体は、私を困らせたり悲しませたりしない。
死体は、私に生きることを考えさせてくれる。
死体は、私に死ぬことを考えさせてくれる。
そして、死体は私に生きるヒントを与えてくれる。

こんなにいい死体を、何でみんな嫌うのだろう。
みんなも、いつかは死体になるのに。

死体を怖がる理由をよくよく考えてみると、ハッキリした理由を挙げられない人が多いような気がする。
考えてみると面白いかも。

ストレスはある。人並みにあると思う。
日々のストレスから人生のストレスまで。
物欲では決して満たされない何かがある。
詳細を書くとただの愚痴になるので省略するけど、こんな仕事をやっているからって人並み以上に精神力が強いとか神経がズ太い等といったことはない。全然。

私は、ネガティブシンキングが大得意!マイナス面に神経質!
障害に果敢に挑んだり、物事を楽観的に考えたりすることが不得意!
不平不満や愚痴を吐くことも日常茶飯事!
できるだけ、腹に溜め込まないようにしている・・イヤ、溜め込む器量がない!
そんな私は、これといったストレス解消法は持っていない。
辛くて苦しいときは「永遠にこの苦しみが続くことはない」と考えて自分を鼓舞する。
それでも、片付かないものは片付かないし、処理できないものもある。
でも、それでいいと思っている。
それが生きている証、生きることの宿命、そして「生きる」ということかもしれないから。

今日もみんな同じ空の下で生かされている。
このブログを通じて、色々な読者との触れ合いがある。
何の因果か、この世に生かされているうちは、共に泣いて笑って過ごしていこう。
ね、皆さん。


トラックバック 2006/08/10 11:38:51投稿分より


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線香花火

2024-07-10 09:28:24 | その他
私は夏の夜の花火が好きだ。
夜空に舞う打ち上げ花火は特に。
時間が合わなくて、ここ何年も花火大会には行っていないけど、綺麗な花火を思い浮かべるだけでワクワクする。
ドン!と上がったかと思ったら、パッと開き、サラッと消えていく。
音に迫力、火花に華、去り際に潔さ、その華麗さに魅了される。
同じ一つの花火なのに、光速と音速の差から視覚と聴覚に時を異にして届いてくるのも絶妙。

そんな花火には、人の生き死にが重なって見える。
日本文化においては、日本男児的な「男らしさ」に通じる部分もあるのかもしれない。
玉の大小、上がる高さに違いはあれど、誰の人生にも華があると思う。
そういう私は、いつ頃が華だったのだろうか。
それとも、華はこれから来るのだろうか。
生きていること自体が華だったりして・・・ね。

壮年の男性が死んだ。
死因は糖尿病。
どんな病気でも、闘病は辛く苦しい。少なくとも、快く楽しいものではないと思う。
糖尿病の食事制限や運動強制も相当のストレスを抱えるらしい。
故人は医師の忠告を軽く見たのか、節制ができなかったのか分からないが、病気を回復に向かわせるはずの自己管理を自らが怠ったらしい。
遺族の話を組み立ててみると、故人は、まさか死に至る程の深刻な状況になるとは思ってなかったらしい。
家族も本人も、いくら後悔したところで後の祭だ。
それでも、遺族は何かをごまかすために?故人の死を受け入れるために?やたらと「男らしかった」と褒めて場の混沌を払拭しようとしていた。

意志の弱い私などにとっては、何事についても自己管理というものは難しい。
自分で自分を律する力が問われる問題。
自分で自分を管理することよりも、他人に自分を管理してもらう方がよっぽど楽なことだと思う。

ひと昔前、アメリカで出世できない人物像というものを聞いたことがある。
それには、たった二つの要因しか挙げられていなかった。
「太った人間」と「タバコを吸う人間」。
要は、「肥満・喫煙」→「自己管理能力が低い」→「社会に通用しない」→「出世できない」という式図らしい。
肥満と喫煙については一概には言えないかもされないけど、自己管理能力の重要性については同感したものだった。

では、人生においては
何をどう自己管理すればよいのだろうか。
「人生」という道を歩む時、どこに重きを置いて進めばよいのか。
我々は、常に明日の不安ばかりに心を奪われ、今日を見失ってはいないだろうか。
昨日のことばかり悔やんで、今日を暗い一日にしてはいないだろうか。
はたまた、「今が良ければそれでいい」と短絡的な歩を進めてはいないだろうか。

昨日を悔やまず、明日を思い煩わず、今日を楽しむ。
昨日を反省し、明日に備え、今日を実らせる。
昨日の思い出に笑い、明日の夢に期待し、今日の糧に感謝する。
なかなかできないけど、それが私の理想。

自分の命は自己管理できるものではない。
人生だって、一体どれだけ自分の力が通用するものなのか。

私は、派手な花火に憧れる線香花火。
世の中の表舞台に立つことはない地味な存在。
若年の頃は、やたらと派手な花火を打ち上げてやろうと燃えたこともあった。
それが、いつの間にか花火をあげるかわりに線香をあげている。

それでも、火玉の途中で落ちてしまう線香花火に思う。
「俺は最期まで燃えて尽きたい」と。

トラックバック 2006/08/04 09:53:32投稿分より
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毎度ありー!

2024-07-05 05:25:50 | その他
「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」「またヨロシクお願いします」etc、何気ないこのセリフは、色々な店や仕事で当り前に使われている言葉。
しかし、私の仕事にこのセリフはない。
「ご愁傷様です」に始まり「お疲れ様でした」で終わる。

何かを得ようと、何年か前、知人に頼んで飲食店で働かせてもらったことがある。
夜の時間だけ、無償で。
誰にも遠慮しないで済む笑顔と、「いらっしゃいませ!」「ありがとうございます!」「またヨロシクお願いします!」と堂々と言える仕事が新鮮だった。新しい自分を発見できて爽快感みたいなものを覚えた。
かったるそうに働いているバイト学生に反して、私は楽しさすら覚えた。
そのバイト学生に私の本職を話したら、「ウェーッ!その手で食い物を触って大丈夫ですか?」とストレートに嫌悪された。
私とは随分と年下の若者だったが、あまりにインパクトのある仕事に礼儀も忘れて本音がでてしまったのだろう。


「これから世の中をうまく渡っていくためには、力のある者の言いなりになること、とにかく頭を下げること、本音とたて前をうまく使い分けること・・・そして社交辞令を覚えることが必要だぞ!」と思いながら、「遠慮のないヤツだなぁ」と苦笑いするしかなかった。そして、悲観するでもなく卑屈になる訳でもなく、「やっぱ、これが現実なんだよな」とあらためて思ったものだ。
人間が「死」を忌み嫌う本質を持っていること、人間が生存本能を持っていることを考えると彼(社会)の表す態度は極めて当然かつ自然なことで、仕方のないことだと思っている。

それが耐えられないなら、死体業なんかやらなきゃいいだけ。
それに耐えられる人だけがやる仕事。
それに耐えなきゃ生きていけない人がやる仕事。

「他人からみると悲惨に見えることが、当人にとってはそれ程でもない」と言う類のことは、私だけのことではなく世間一般によくあることだと思う。
自分では難なくやっているこの仕事。
でも、正直言うと、親類縁者・友人知人にはやらせたくない。

「職業に上下はない」と言うのはきれい事、職業に上下はある!
明らかに社会的地位の低い死体業、その中でも特掃業務は更に下を行く最低の仕事だ。
しかし、その中にもわずかな「最高」がある。
例えて言うと、ウジ・ハエがたかるウ○コの中に、砂粒ほどのダイヤモンドが一粒入っているようなもの。
そんな小さなダイヤなんかには、誰も価値や魅力を感じない。
しかも、それがウ○コの中にあるとなれば、価値がないどころか皆が嫌悪感を覚える。
でも、どんなに小さくても、どんなに汚くてもダイヤはダイヤ。
その輝きに偽りはない。
誰も知る事ができないその価値を、自分だけが気づいていると思うとちょっと鼻が高い(低次元の自己満足?)。

私は声を小にして言いたい。
「死体業は最低の仕事だ!しかし最高の仕事でもある!」

依頼された仕事を完了させ遺族に挨拶するときは、だいたい「今後、再びお目にかかることがないように・・・」という言葉を掛ける。
自分で言っててちょっと寂しいけど、そんな言葉を掛けられた遺族も返す言葉に詰まる。
遺族も、私の仕事の苛酷さを気遣ってくれようとするのだが、適切な言葉が瞬時には見つからない様子。
私は、いつもの社交辞令が使えないやっかいな相手、変な気を使わせてしまう相手なのだろう。
また、自分の子供とダブらせて私のことを不憫に思うのか、初老の女性には泣かれることが多い。
それが一時的な同情心であっても、赤の他人である私のことを思って泣いてくれる人がいるだけで感謝なことだ。

あまりいないけど、「どのくらいこの仕事をやっているのか?」「何故、この仕事をやっているのか?」を訊いてくる人もいる。
そんな人は、「この男には余程の事情があるのだろう」という表情をしながら、その疑問に対する好奇心が抑えられなくて訊いてくるみたい。
現場にはお喋りに行く訳ではないので詳しい話はしないけど、要点を絞って正直に話している。
あと、雰囲気が神妙になると困るので、我慢して凝った自論は避ける。
「余程の事情」は、皆それぞれが持って生きているもの。
「余程の事情」があるから人生はドラマになる。

居酒屋でビールジョッキを傾けながら聞こえる店員の威勢のいい声が心地いい。
私もたまには、「毎度ありー!」と元気に言える仕事をしてみたいものだ。
洗い物は得意だしね(笑)


トラックバック 2006/08/01 09:25:46投稿分より
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怪談

2024-06-29 10:33:36 | その他
夏は怪談話のシーズン
あちらこちらで恐ろしいとされる話が湧いてくる。
でも、所詮はフィクションがほとんど。
本当に怖いのはこの世の現実かもしれない。

世間にとって腐乱死体は、突然現れるやっかい者。
本人はしばらく前から時間をかけて腐っているのに、発見されるのが急なものだから、世間的には降って湧いたような印象を受けるのだろう。

キチンとしたデータをとっている訳ではないが、腐乱死体がでる住宅は、自己所有より賃貸の方が多いように思う。そして、経済力も低レベル。
そんな腐乱死体は、残された人々に多大な迷惑を掛けることになる。
その中でも絶大な損害を被るのは、家族(保証人)、大家、近隣住民。

家族、特に賃貸契約の保証人になっている人は、社会的にはもちろん法的にも責任が発生する。
部屋の清掃費用からリフォーム費用、ヒドイ現場になると上下階や隣の住人が引っ越してしまうこともあり、その転居費用からリフォーム費用まで負担するとなると総額は莫大な金額になる。
しかも、「腐乱死体がでた物件」「腐乱死体がでた部屋」ともなれば入居者の獲得も難しくなる。
空室や値下家賃分まで保証せざるを得なくなると、とても一般の人では負担しきれるものではなく、人生を大きく狂わせてしまうことにもなりかねない。
賃貸契約の保証人になっているのなら諦めるしかないけど、血のつながりだけを根拠に責任を背負わされるのも悲劇である。
まったく、気の毒としか言いようがない。

一方、大家のリスクも大きい。
自分の所有物件から腐乱死体をだしてしまった場合、他人事では済まされない。
保証人や家族がキチンとした対応をとれる、責任・誠意を持った人ならまだしも、必ずしもそういう人とは限らない。
無責任な保証人や家族の場合は、「ない袖は振れない」と開き直って責任逃れをする。
しかし、大家は立場的に汚染物件を放置しておくことはできない。
開き直った家族を前に、結局、大家は泣き寝入りするしかなく莫大な損害を肩代わりせざるを得なくなるのである。
裁判沙汰になったケースも複数あるけど、開き直った相手に裁判を起すのは無駄なこと。
裁判所の通達が効くような相手だったら、始めから責任・誠意ある対応をとっていたはず。
無責任で社会的なプライドを持たない人を相手に裁判を起したって、裁判費用をドブに捨てるようなもの。
残念ながら、最後は悪意を持った人間の方が勝ってしまうのである。
腐乱死体がでたお陰でアパート一軒がまるごと空いてしまい、家賃収入が無くなってローンの返済が滞り、手も足もでなくなった大家もいる。
まったく、気の毒としか言いようがない。

次に近隣住民。
同じアパートやマンションに住む人も被害なしという訳にはいかない。
臭いの被害だけならまだ可愛いもの。
ウジ・ハエが上下階や隣室に侵入したり、腐敗液自体が染みるケースもある。
自宅に腐敗液が染みてきたのでは、とても住めたものではない。
この私でも、さすがに引っ越す。
いきなり生活基盤を変えることを余儀なくされ、急な出費が補填される保証もない。
子供がいる世帯では、学校を転校させざるを得なくなることもある。
まったく、気の毒としか言いようがない。

私は過去に友人・知人の賃貸保証人になったことが何度かある。
どんなに親しい相手でも金銭貸借の保証人にはならないと決めていたけど、「住宅の賃貸保証くらいなら平気だろう」と思い違いをしていたのだ。
今考えると恐ろしい。
特掃業務を通じて、住宅賃貸契約の保証人になることは極めてハイリスクな行為であることを知り、それからは誰の保証人にもならないことにしている。

心当たりのある方、心当たりのある人に至急連絡を。
自分に関係する人達から腐乱死体をださない工夫と対策が必要だ。
腐乱死体に責任を負うということは、並の怪談話より怖いこと・・・最悪の場合、自分も生きていられなくなる可能性があるからね。


トラックバック 2006/07/29 09:54:14投稿分より

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How much?

2024-06-08 05:23:17 | その他
「死体業っていくらくらい稼げるんだろうか」と興味を持っている人は多いと思う。
ブログ開設当初、読者からの質問にもこの類の質問は少なくなかった。
ほとんどの人が、「結構な額を稼げるんだろう」と思っているのではないだろうか。
その様に勝手に勘違いして、闇雲にこの仕事に応募してくる人が後を絶たない。

応募の第一歩として、まずは履歴書・職務経歴書を郵送してもらうのだが、「高額を稼げる」と早合点しているような人に限って、志望動機欄にきれいなことを書いてくる。
もちろん、何を書こうが応募者の勝手。だけど、歓迎はできない。
必要な資格と言えば、車の運転免許だけ。学歴も職歴も問わない(年齢は問う)。
ただし、独断も偏見も関係なく採否の決定権はこちら側にある。
もちろん、私一人に決定権があるわけではないが、私の採否判断の一員に加わる。
私が判断材料にする第一は顔写真。
前記の通り、学歴でも職歴でも資格でもなく「顔」だ。意外でしょ?

一般的には職を転々としていると企業側の印象はよくないし、学歴の低いより高いに越したことはない。何の資格だって、持ってないよりは持っていた方が有利だ。
しかし、そんなことと人格とは直結しない。
無関係とまでは言えないけど、それらのことは人間の本質に大きく影響するものではないと思っている。
向上心を持って職を転々とし、職を変えるごとにステップアップし人格を磨いているような人もいるはずだし、夢や目的があってあえて大学に行かない人だっているはず。
人生色々、千差万別、十人十色で、一人一人にそれぞれの道があり秘められた個性と力がある。それをキチンと見極めることが大事・・・だから「面構え」なのである(もろ自論だけど)。

履歴書に貼られている写真は小さく、顔を中心に胸元から上くらいしか写ってないのが普通。「一体それだけで何が分かるんだ?」と不信に思われる人もいるはずだが、そこは前記の「独断と偏見も関係なく・・・」という次第。
どこかで撮ったスナップ写真を切り抜いて貼ってくるような人は全くもって論外(即、不採用!)。
スーツにネクタイ姿である必要もないが、襟のない服、つまりTシャツやトレーナー姿もダメ!茶髪・長髪もダメ!ヒゲ面もダメ!口が開いててもダメ!視線を外しててもダメ!
写真映りの良し悪しも運のうちかもしれない。
とにかく、私は写真に写る顔をジーッと見る。とにかく見る!穴が開きそうになるくらいまで見続ける!2~3日かけても見る!
では、どんな面構えがいいかというと非常に説明しにくい。
「笑顔」でもなく「真剣そうな表情」でもなく「二枚目」でもなく・・・とにかく「面構えである程度の人柄が伝わってくる」としか言い様がない。
抽象的な説明で申し訳ない。

私は「人柄は顔にでる」(顔だけじゃないけど)と思っている。
よく「人を外見だけで判断するな!」と言っている人がいるが、「人は充分に外見で判断できる」と言っても過言ではないのではないだろうか。
もちろん、外見だけで100%その人を知ることは不可能だが、外見がその人柄を映す大きな材料になることも事実である。
更に言うと「外見だけで判断するな!」とイキがっている人ほど、所詮は中身もしれていることが多い。
この差別的?見解を批判的に思われる方は多いかもしれないが、私はそう確信している。

結局のところ、書類選考から面接に進める人は10%にも満たないのが現実。
そして、面接から体験入社(業務見学)に進む人も更に面接者の10%に満たない。
その難関?をパスして仕事に就いても試用期間をクリアできずに脱落する人も少なくない。
結果的に、電話での問い合わせから数えると、実際の正スタッフになるのは1%以下、つまり100人のうちたった一人もいないのではないかと思う(きちんと数えている訳ではないけど)。


「採用・募集の話なんかどうでもいいから、さっさと給料を教えろよ?」
給料については、ご想像にお任せします。ありきたりの答でスイマセン。


なんて言おうもんなら、「ふざけんなよ!」「納得できるかよ!」という不満の声が現場にまで聞こえてきそうだ。
・・・冗談、冗談。
できるだけ正直に本音を吐露していくところも私のブログの長所だと自負しているので、キチンとお応えしよう。

私の給料は、月々の仕事量によって異なり、だいたい40万~50万円。
手取額で言うと約32万~約43万円くらいである。
ちなみに、私の昨年の年収は約560万円だった(残念ながら、今年はもう少し減りそう)。
もっと欲しければ、見積額を底上げするか、仕事量を増やすかしかない。
見積額は自力で何とかなるにしても、仕事量は他人(死人?)任せにしかできないので、難しい。
私の年齢と経歴を考えても、どう?仕事の割には想像してたより少ないでしょ。
ホント、自慢したくなるくらい少ない。正真正銘、嘘じゃない。

私だって、お金は大好き!一円だってたくさん欲しい!
でも、何故か給料額に不満はない。決して贅沢できる金額ではないけれど、食べて行けない額でもないしね。欲は無限、金は有限。
与えられた仕事とお金に感謝しながら、ささやかな幸せと楽しみの中で生きていけばいいさ(負け犬の遠吠え?)。

ついでに、特殊清掃事業部の処遇(労働条件)も教えてしまおう。
ボーナスはなし。社会保険は一式完備。
定時の勤務時間は9:00~17:00。ただし、定時なんてあってないようなもの。
早出、残業は当たり前。夜中の電話や出動もある(夜中の出動は特にキツイよ!)。
年間休日は、所定で97日(これも少ないでしょ?)。
仕事の特性で察してもらえると思うが、休日の予定は立てられない。
人が私の都合に合わせて死んでくれるはずもなく、たまたま仕事が空いた時に休むしかない。

ちなみに、現在は、特殊清掃事業部は新規スタッフの募集していない。
こんな労働条件を知ってしまったら、求人募集しても応募はないかもね(笑)。
でも、労働条件が低い割には、スタッフの出入りは極めて少ない。


どう?やっぱ、なかなかいい仕事でしょ(笑)。
刺激タップリで死生観を磨けるよ!



トラックバック 2006/07/09 07:59:35投稿分より

日本初の特殊清掃専門会社
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そこのけ、そこのけ、死体が通る

2024-06-07 06:13:54 | その他
死体業には色んな仕事がある。

私は、一応、特掃隊の一員として死体と格闘する日々だが、時にはそれ以外の仕事にも出る。遺品回収・遺体処置・遺体搬送などなど。

その遺体搬送業務のことを「死体とドライブ」と表現したことがあった。
それを聞いて(見て)、もしも、死体を自家用車の助手席にでも乗せて、気ままにドライブしていると想像された方がいるとしたら、かなり可笑しい。
そんなことしたら、さすがにヤバイでしょ(笑)。


でも、業界外の人が想像できないにも当然と言えば当然か。
遺体搬送には遺体搬送用の専用車両がちゃんとある(霊柩車とは違う)。
車体は1Boxタイプがほとんどだが、まれにステーションワゴンタイプもある。
車内後部が荷台になっており、ストレッチャーという折りたたみ式の車輪付担架を搭載している。

分かり易く言うと、救急車をものすごくシンプルにしたような車だと思ってもらえればいい。
病院から自宅、自宅から葬式場など、遺体を積む場所と降ろす場所は人によって様々である。もちろん、夜中の出動もある。


病院は、亡くなった患者を長くベッドに寝かせておくことを好まない。
他の患者への配慮もあるのだろうが、空ベッドをつくると経営効率も落ちる。
一日でも早く新しいお客さん・・・いや、患者さんに入院してもらえるようにしたいのである。

病院にとっては、なるべく空ベッドをつくらないようにして、入退院の回転率を上げることが重要なのだ。
したがって、昼間でも夜中でも関係なく、患者が亡くなると直ちに遺体の搬出要請が入る。それが、夜中になった場合は、まさに夜中に「死体とドライブ」となる訳である。


ちなみに、看護婦にも感じのよい人とそうでない人がいる。
良心的な看護婦は快く遺体の移動を一緒にやってくれるのだが、そうでない看護婦は遺体への嫌悪感丸出しで、ものすごく感じが悪い
こんなのは、ごく一部の看護婦さんだと思うが(願いも込めて)。
そういう人に遺体をベッドから担架に移動させる作業を一緒にやらせようものなら、私への文句も一言では済まない。

それでも、しかめっ面の看護婦にペコペコしなくてはならないのにはストレスがかかる。
そんな時は「白衣の天使」も「悪意のテン師」に見える。


外の暗闇や死体と二人きりになっていることよりも、睡魔の方が怖い。
眠いときは本当に眠くなる!夜中に死体と一緒に事故死でもしたら洒落にもならないし、死体にとっては二回死ぬようなもので、あの世に行ってから殴られるかも(笑)。


遺体搬送業務だけとっても色々な思い出と経験を積んできた。
例えば、病院から自宅へ搬送する場合、そこが古いマンションや団地の場合は旧式エレベーターが多く、ストレッチャーが入らないところが多い。

その場合は、担架などは使えず、遺体を抱えるしかない。
浴衣を着て冷たく硬直した遺体を強引に立たせた状態でハグしてエレベーターに乗るのである。

浴衣姿で蒼白い顔、不自然にグッタリしている人を抱えてエレベーターに乗っている男を想像してみてほしい。なんとも不気味だろう。
ここで笑っちゃいけないよ。やってる私は「落としでもしたら大変!」と冷汗もので真剣に抱えているのだから。

しかし、他の住民はそんなのが乗っていると知らずにエレベーターを止める。
ドアが開いた時にみせる住民達の反応はとても面白い。
驚く人、悲鳴をあげる人、目が点になって呆然と見ている人など反応は様々。
一番可笑しいのは、死体だと気づかないで一緒に乗ってきて、死体だと気づいた途端に逃げようとする人(動いているエレベーターで逃げられる訳もないのに)。
そんな人は、当初の目的階なんか放っておいて、必死で次の階のボタンを連打する。
そして、ドアをこじ開けるようにして、そそくさと小走りに去って行く。
その様がなんとも可笑しいのである。


だいたい遺族は先に自宅階に上がって待っているので、私が遭遇した途中階での出来事は知らない。
遺体を抱いたたまま明るい笑顔でエレベーターから出てくる私をみて、だいたいの遺族が

「コイツ、普通じゃないな」

という表情を浮かべる(笑)。
同時に、何とも滑稽な私の姿を見て、思わず吹き出してしまう遺族や笑顔(内心では爆笑しているのかも)になる遺族もいたりして、結構、和やかな雰囲気になることも少なくない。
ちなみに、私の笑顔に「不謹慎だ!」等とクレームがついたことはない。


本件以外にも、死体を背負ったこと、抱かかえたことは数知れず。
変かもしれないが、小さく軽くなった老人を背負う時などは、何とも言えないない温かい気持ちにもなる。

「おじいちゃん(おばあちゃん)、お疲れ様でしたね・・・」

と心の中で呟く。
やはり、「死体が気持ち悪い」という感情よりも、「落とさないように」という緊張感の方が強くて、不気味とか怖いなんて気持ちは全然ない。


ちょっと脱線。
「死体をハグする」で思い出したが、6月21日掲載「ハグ」に登場した不動産屋の担当者は勤務する会社は退職したものの、今でも不動産会社で頑張っている。
さすがに、あの時からしばらくは暗い日々を送ったようだが、今は、飲み会や合コンなどでそのネタを出すと、すぐさまその場の主役になれて、まんざらでもないらしい。

しかも、あちこち同じネタで何度も話しているものだから、話し方や状況の描写もうまくなり、話を聞く皆に抜群にウケるらしい。まるで、落語家のよう。
すごい災難に遭遇してしまった彼だったが、それによって少しはいいことがあるみたいで、まぁよかった。


遺体を運ぶのに老若男女や身体状態を選ぶことはできないけど、どうせ運ぶなら安らかな顔の老人がいい。
そして、笑顔で仕事をしても遺族の心象を害さないくらいの器を持った人間になりたいものである。


トラックバック 2006/07/08 08:12:39投稿分より

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お菓子な奴

2024-05-31 04:55:06 | その他
6月も今日でおしまい。ということは、2006年も半分終わり。

今年の後半、これから迎える暑い夏を美味しいお菓子でも食べて乗り切ってもらうため、今回は、趣向を変えてお菓子の作り方を紹介する。
甘いものを食べると、疲れもとれ、リフレッシュできるからね。


興味がある方は是非チャレンジしてみて欲しい。
まず、フライパンを用意。ボウルじゃダメ。
溶かしバターから澄ましバターを作り、フライパンに多めに敷く。
チョコレートを湯煎し、柔らかくなった状態のものをバターの上に流し広げる。
チョコレートはできるだけ色の濃い、ブラック系が適す。
今度は、インスタントコーヒーを用意。
通常のインスタントコーヒーは粒が粗いので、少し粒が細かくなるように磨り潰す。
ここでは、粉末になり過ぎないように注意。


そして、このインスタントコーヒーを先程のチョコレートの上に少し盛り上がる程度に乗せる。黒蜜か色の濃いシロップをかけると、更にGood!

その上から、更に白のカラースプレーを適量散らす。
(※カラースプレー:チョコレートを砂糖でコーティングしたもの。お菓子作りの材料やケーキ・アイスクリームのトッピングによく使われる。形状は小さな米粒みたいな感じ。)

最後の仕上げにお好みのリキュール類を上から全体的に吹きかけて(霧吹きを使えばうまくできる)、全体にシットリ感をだせば出来上がり!



・・・え?何が出来上がりだって?
お菓子で作る液化人間・腐乱現場のミニチュア、フローリングバージョン。
私の過去のブログを思い出しながら想像力を膨らませて完成品を眺めてほしい。
(ハエや毛髪をうまく再現できる具材を思いつなかいのが残念!)
少しは、腐乱現場のビジュアルを体感できると思う(体感したくない?)
ひとしきり体感し終わったら、フライパンの中身をボウルに移して湯煎しながら小麦粉と混ぜ合わせ、整形し、オーブンでこんがり焼けば、ハイ!香ばしいチョコレートクッキーの出来上がり。
舌にも心にもちょっとビターな大人の味。


ここで一点注意。
間違っても、人間の形にしてみないこと。気持ち悪くなって食べられなくなったら、もったいないからね。
できたら、ハート型にでもしてもらえると気分が変わって美味しく食べられるかもよ。


ちなみに、布団・ベッド・カーペット・畳バージョンはこれとはまた違うので、興味のある方は、チャレンジしてみるといい。このバージョンでは、フライパンの代わりにスポンジ生地を使えば応用できる。ちょっとくどそうだけど、こってりデザートが好きな人には美味しいチョコレートケーキになるかも。



おかしな奴のお菓子作り講座は、これでおしまい。
最後に、今回はあまりにもくだらな過ぎるためか、周囲にアップロードを反対された中を押し切って書いたブログであることを追記しておく。


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Thanks

2024-05-17 05:27:27 | その他
このブログを書き始めて一ヶ月が経った。書き始めた動機は同僚の提案である。私は、この特殊な仕事を人知れず黙々とやってきたし、これからもそうやっていくつもりでいた。

その同僚は、せっかく(?)こんな珍しい仕事をやっている私が持つ経験や考えを世間にアウトプットしていくことで、何かメリットが得られると考えたのだろうか。

現場業務で手一杯の私は余計な仕事が増えるので、正直言うと嫌だったのだが、あまりにアナログ人間過ぎて時代に取り残されているような危機感も持っていたので、とりあえず書き始めることにした。

拙く幼稚な文章かもしれないし、思いをうまく表現できていないかもしれない。
しかし、そんな私のブロクを見ず知らずの方々が読んでくれ、感想・意見・疑問などを書き込んでくれているのに驚いている。

私は、ブログを書くばかりで、肝心の掲載ホームページはほとんど見ていない。いや、正確にいうと見ているヒマがないのである。
反響などは、その同僚が伝えてくれているのである。
最初は、

「仮に読者からの反応があったとしても誹謗中傷的なものがほとんど」「野次馬的な嫌がらせが多い」

等とかなり悲観的・否定的に考えていた。

それには理由がある。


特殊清掃という仕事は、一般的には蔑まれ・嫌悪され・奇異に思われる仕事だからである。実際にも、依頼者(遺族)から

「よくこんな仕事できるよなぁ」

的な軽蔑発言を受けたことが何度もある。もちろん、その人達は私には聞こえないつもりで話しているのだが、バッチリ聞こえてしまっている。

また、言葉ではなくても、その態度で明らかに見下されてバカにされていると感じることも多いのも実情。経験の浅い頃は、そういう事にいちいち引っ掛かって気落ちしていたが、今はそんな程度のことは気にならない。
決して開き直っている訳ではなく、そういう事実は事実として素直に受け入れているのである。

したがって、

「このブログには読者が付かないか、読者が付いて反応があったとしても、誹謗中傷的なものがほとんどだろう」

と悲観的に考えていたのである。


しかし、実際は違った。
意外や意外、激励や肯定的な書き込みがほとんどで、驚きと同時にとても嬉しかった。

正直言うと、自分の職業に後悔がないわけでもない。二度とない人生で、よりによってこんな仕事をしているのだから。


ちなみに、私が幼い頃、初めて「なりたい」と思った職業はプロ野球選手である。
遠い昔に描いていた夢と今の現実を対比すると、自分でも笑うしかない。
世の中には色々な仕事があるし、若いうちはわざわざこんな仕事を選ばなくてもよかったのである。しかし、若かった私は死体業を自ら選び、極めつつある?のである。これも、私の人生の運命(さだめ)なのか・・・(苦笑)。

ブログというものは返信するのが礼儀らしいが、アナログ人間の私はそんなことも知らない。同僚からは、

「書き込んでくれた人に返事を書いた方がいい」

と言われるが、私にはその時間がない。

ついては、この場をかりて、私のブログへの書き込みをしてくれた方々、特に私の仕事へ励ましや肯定的な意見を寄せてくれた方々に感謝の気持ちを伝えたい。本来なら、一人一人に返事を書きたいところだが、私の本来の仕事は特殊清掃であるので、ブログに優先して時間を使えない事情も察してもらいながら、気が向いたら、
今後も継続して購読・書き込みをお願いしたい。

また、疑問や質問的な書き込みに対しては、リアルタイム・個別にお応えすることができないので、ブログを通してお応えしていこうと考えている。ついては、お尋ねの件は少し気長にお待ちいただけるとありがたい。


何はともあれ、見ず知らずの皆さん、どうもありがとう。皆さんの励ましにの力をもらって、今日も私は特殊清掃の現場で戦い続ける。



トラックバック 2006/06/16 08:40:28投稿分より

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生くあて

2023-05-08 08:24:20 | その他
三年ぶり・・・
コロナ規制が大幅に緩和された今年のGWは、季節外れの暑さも手伝って、多くのところで盛り上がりをみせたよう。
ニュースが伝える各所の盛況ぶりは、コロナ禍について、悪い夢でも見ていたかのような錯覚を覚えるくらい。
そして、新型コロナウイルスも、「危険性がもっとも低い」とされる五類に引き下げられた。
ただ、引き続き、高齢者や基礎疾患のある人への配慮は必要だし、後遺症に苦しんでいる人も少なくないらしいから、まるっきり過去の禍として忘れていくわけにはいかないと思う。
また、倒産・失業、そして病死、この禍によって、取り返しのつかない事態に陥った人も少なくない。
社会経済や世の中が息を吹き返そうとしているところに水を差すようなことを言うのはナンセンスだとわかりつつも、諸手を挙げて喜ぶことはできない。
この社会には、いまだ、多くの弱者がいることも忘れてはならない。

物価も上がりっぱなし。
一部では賃金が上がっているところもあるらしいが、実質賃金は低下の一途。
選挙を意識して行われる“バラマキ”も、ほとんど焼け石に水。
本音のところでは「その場しのぎ」のつもりなのかもしれないけど、その場さえしのげていない感が否めない。
結局のところ、気前よく撒かれる金の原資は借金なわけで、そのツケは、我々の注意が他に逸れた頃合いを見計らって、増税や社会保障の圧縮といったかたちで回ってくる。
「一億総中流」と言われていた時代は遠い過去のもの。
このままだと、「一億総下流」といった事態にもなりかねない。

ただ、いつの世にも富裕層はいる。
その一部には、既得権益によって甘い汁を吸っている人もいるのだろうが、それを恨むのは筋違い。
もともと、人間とは、そういう性質(欲)を持った生き物であり、この社会は、そういう生き物によって構成されているわけだから、この社会が“弱肉強食”になり、封建的になるのは当たり前のこと。
搾取される側だから不満を覚えるわけで、多くの人間は、搾取する側になればそれを推すだろう。
で、私は、搾取される側の人間だから、こういったネガティブな論調になっているわけだ。

それはさておき、この先、この日本は、この世界は、どうなっていくのだろう。
残念ながら、大半の庶民にとって、この社会は、生きにくくなっていく一方のような気がしてならない。
とは言え、問題はあまりに大きすぎ、多すぎるため、選挙権を行使しても納税の義務を果たしても何も変えることはできない。
講じることのできる具体策はなく、できることと言えば、ただただ、政治家や専門家の机上の空論でお茶を濁すことくらい。
それで、事が解決するわけではないことを知りつつ、「なんとなかる」「なるようにしかならない」と都合の悪いことは深く考えないようにして放り投げるしかないのかもしれない。



「今回は、孤独死とかではないんですけど・・・」
付き合いのある不動産会社から、一本の電話が入った。
「“夜逃げ”とでも言うんでしょうか、住んでいた人がいなくなりまして・・・」
担当者は、自分が悪いわけでもないのに、やや言いにくそう。
「一通り探してはみたんですけど・・・」
まるで、誰かに言い訳をしているかのよう。
「いなくなって数か月経ちますし、必要な手続きも終わったんで、そろそろ部屋を片付けようかと・・・」
溜息混じりに、用件を伝えてきた。

訪れた現場は、街中に建つアパート。
築年は古く、かなりの年月が経過。
それでも、日常のメンテナンスがキチンとされているのだろう、そこまでのボロさは感じさせず。
部屋の鍵は、現地に設置されたキーボックス内。
私は、不動産会社から知らされていた四桁の暗証番号にダイヤルを合わせた。

「悪臭」というほどではなかったものの、カビ臭いようなホコリっぽいような独特の生活臭がプ~ン。
間取りは1Kで、お世辞にも「きれい」とは言えず。
台所をはじめ、風呂やトイレ等の水廻りは、ロクに掃除がされておらず。
部屋の隅々もホコリまみれ。
本人が暮らしていた当時からそうだったのか、後に立ち入った第三者がそうしたのか、雑多なモノが散らかり放題。
「ゴミ部屋」という程ではなかったが、その予備軍のような状態だった。

「“失踪”ということだけど、本当は亡くなったんじゃないの?」
「あ、でも、俺にそんなウソつく理由ないな・・・」
「そうすると、やっぱ、失踪か・・・」
住人が亡くなっていようがいまいが、私には関係ないこと。
ただ、部屋が生命力を失い、また あまりにもモノクロに荒廃しているものだから、“住人の死”という、職業病的な考えが頭を過った。

とにもかくにも、余計な野次馬根性は仕事に無用。
やるべきことは、不動産会社の指示に沿って、粛々とことを進めるのみ。
「かかる費用は大家が負担する」とのこと。
想定外の負担を強いられることになった大家を気の毒に思いながらも、苦労しながら生きていたことが如実に伺える部屋を前には、失踪した当人を責める気持ちにもなれなかった。

残置された家財は少量ながらも、その中には色々なモノがあった。
男性の氏名、生年月日など、個人情報が記された書類。
消費者金融からの支払催促状や、不動産会社からの家賃滞納通知も。
古い免許証や何枚かの写真もあり、本人の顔も伺い知れた。
また、白い袋に入った何種類かの処方薬もあった。

その部屋に暮らしていたのは八十代の男性。
ここに入居したのは十数年前。
賃貸借契約の保証は保証会社が担い、身元引受人もおらず。
入居当時は仕事にも就いており、高額ではなかったが安定した収入があった。
家賃は銀行口座からの自動引き落としで、これまで何度か残高不足による遅払いはあったものの、完全な滞納はなかったそう。
ただ、近年は、仕事をしていたのかどうか不明。
どれだけの年金を得ていたのかも不明ながら、家賃滞納の現実を鑑みると困窮していたのは明白。
また、残された処方薬が示す通り、持病も抱えていたようだった。

あってもおかしくない雰囲気ながら、生活保護を受けていたことを伺わせるような書類は見当たらず。
「生活保護を申請すれば通っただろうに・・・」
「年齢も年齢だし、持病があったなら尚更・・・」
「それとも、頼れる身寄りがいたのかな・・・そんなわけないか・・・」
頭の雑草地に、仕事に無用な野次馬が駆け回った。
そもそも、生活保護を受けていれば、「家賃滞納」ということにはならなかったはずなので、貧乏しながらも何とか自力で生活してことが想像された。


話が逸れるが・・・
「生活保護」という制度は、多くの欠点をはらんでいる。
多くは不正受給。
そして、それを貪る貧困ビジネス。
自治体の事情や地域の状況によるところが大きいのだろうから、一概に批判するのは軽率とわかりつつも・・・
勤労者がボロアパートで窮々としているのに、受給者はきれいなマンションに暮らしている。
勤労者が嗜好品を我慢しているのに、受給者は酒・タバコ・ギャンブルを楽しんでいる。
勤労者が汗水流して働いているのに、受給者は健常に動く身体をブラブラと持て余している。
仕事上、そういった現実を目の当たりにすることが少なくない私は、現行制度をどうしても斜めに見てしまうところがある。

ただ、問題とされることには、その逆もある。
それは、役所が何だかんだと難癖をつけて申請させないよう圧力?をかけたり、申請を受け付けないようにしたりすること。
それで、本当に保護が必要な人が申請しにくい雰囲気や文化ができてしまうこと。
実際、受給者が増えている実情の陰で、「人の世話になりたくない」「身内に知られたくない」「恥ずかしい」等と、申請を躊躇っている人が少なくないらしいのだ。
本来は、そういう人達を救うための制度なのに、各所に見え隠れする矛盾を苦々しく思ったことがある人は、私だけではないのではないだろうか。


不動産会社は、男性を探し出すことを諦めていた。
仮に探し出せたところで、資力があるとは考えにくい。
困窮していることに変わりはなく、裁判沙汰にしても差し押さえる資産もないはず。
無駄な手間と費用をかけるだけ損。
結局のところ、滞納家賃の回収はあきらめて、次の段階に進んだ方が得策と判断したよう。
後々、始末する家財が問題の種にならないようにだけ留意した上で部屋を空にし、きれいにリフォーム・クリーニングを施し、新たな入居者を募集する算段をつけていた。

不動産会社からの通知書を見ると、家賃の滞納額は三か月分、十数万円。
過去にも支払いが遅れることはあったのかもしれないけど、それでも何とかやってきていたのだろう。
しかし、ここにきて、いよいよ払えなくなってきた・・・
もちろん、“袖”があれば“振る”つもりはあったはず・・・
払えるだけの収入がないからそういうことになったのだろう。
で、結局、何か月分滞納すれば追い出されるのかわからない中、「追い出される前に出て行こう」ということにしたのだろうか。

しかし、持病のある高齢者。
家賃が払えないほど困窮し、頼れる身寄りもない。
そんな男性が、どこへ行くというのだろう、アパートを出て行ってしまえば、途端に、路頭に迷う。
行くあてがあるとは容易には思えない。
いくらかの金があれば、ホテルにでも入れるが、家賃が払えないくらいだから、仮にそれができたとしても長続きはしないだろう。
また、金がなければ毎日の食事にも事欠く。
ホームレスになっても生き延びることはできるのかもしれないけど、果たして、そこまで体力と気力を持ち続けることができるものかどうか・・・
「もしかして、自分で寿命を決めて出て行ったのかな・・・」
自然と、そんな考えが頭を過った。
と同時に、恐ろしいほどの切なさと淋しさが悪寒となった背筋を走った。

ただ、男性がどこでどうなっていようが私には関係ないこと。
実際に手助けをするわけでなし、ただの野次馬根性、余計なお世話。
一時的な感傷、ただの自己満足。
もっと言うと、善人気分を味わいたいがための勝手な同情。
事実、作業から数日・・・いや、一晩寝て翌日になれば、男性のことなんか忘れている。
結局のところ他人事で、冷淡にやり過ごすだけのことだった。


「人生100年時代」と言われるようになって久しいが、それが“吉報”ではなく“悲報”のように聞こえるのは私だけではないだろう。
「長寿」、響きはいいけど、誰しも若いまま生きられるわけではない。
頭も身体も衰える。
動きたくても動けなくなり、働きたくても働けなくなり、大半の庶民は経済力も衰える。
健康寿命は100年よりもっと短いわけで、「命が尽きる前に金が尽きる」とも言われている。
「100才まで生きなきゃならないとしたら、お先真っ暗?」なんて、笑えるようで笑えない思いが湧いてくる。

真面目に働いて、税金や社会保険料もキチンと納めて、それでも老後は年金だけで充分な暮らしができない人は多い。
視聴者ウケするよう極端な事例を選んで取り上げているのかもしれないけど、TVで、少ない年金で壮絶な節約生活をする高齢者の暮らしぶりを伝えるドキュメントを何度か観たことがある。
年金の大半が家賃で消える人、電気を契約せず懐中電灯生活をしている人、一日をおにぎり一個でしのいでいる人、老体に鞭打ってアルバイトをしている人等々・・・
「生きているのが面倒くさい」と言っていた老人の疲れた言葉が、ドキッと胸に刺さり、そのまま、夏陽に逆らえないアイスクリームのように悲しく溶けていき、拭いたくても拭い切れないものとなってしまった。


作業が終わると、部屋は空っぽになった。
男性がそこで暮らしていた証・・・生きていた証は、部屋に残された汚れや傷みのみ。
その様が、私の内に涌く妙な淋しさと切なさを煽ってきた。
ただ、そんな私でも、
「どこかで生きてくれてればいいな・・・」
とまでは思わなかった。
私には、男性に対して無責任に生きることを求めることが、薄情で軽はずみなことのように思え・・・
男性に、更なる苦しみを強いることになるような気がしたからだった。

よく 人は、命の大切さ、生きることの素晴らしさを訴える。
当り前のように、それが健全な人間、健全な考えとされる。
人に“死”を強いることが「悪」とされるのは決まりきった倫理価値であるが、はたして、人に“生”を強いることは「善」と言い切れるものだろうか・・・
その中で、人の手によって“生”が粗末にされている現実も多い。
心の中の殺人を含めれば、「日常的に起こっている」といっても過言ではないのではないか。
そこには、「矛盾」の一言では片付けられない矛盾がある。
その矛盾とともに、人類の歴史は、脈々と紡がれている。
無力と諦めの中で、“時間”が、その悲しみと怒りを遠い過去へ洗い流し、忘れさせてくれるのを待ちながら。


結局のところ、これからの時代、物事によっては、短絡的になった方が楽に生きられるのかもしれない・・・
足元を見つめ直し、それを固めることに注力し、将来に“生くあて”を求めない方が軽やかに生きていけるのかもしれない・・・
ネガティブに思われるこの思考も、意外に、見通せない未来に向かってポジティブな芽を出すのかもしれない・・・

コロナ禍明けに沸く世間から取り残された人間が藁をも掴もうとするかのように、私は、そんな風に思うのである。

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ウジウジ

2022-11-01 09:11:07 | その他
陽が暮れるのが日に日にはやくなっている。
セミにとって代わった鈴虫の音色が耳に優しく響く。
本格的な秋は、もう目の前。
コロナ七波も落ち着いてきた感があり、秋を満喫する環境は整いつつある。
TVの情報番組でも、あちこちの行楽地や、数多くの秋の味覚が紹介され始めており、“にわか”ではあるけど、私も秋に迎えてもらっているような気分を味わっている。
 
「食欲の秋」「行楽の秋」「趣味の秋」、人それぞれ色んな秋がある。
私にとってこの秋は、どんな秋になるだろう。
酒は飲み続けているけど、大して食欲はないし、行楽の予定もなければ趣味もない。
そうは言っても、この鬱々とした日常に嫌気がさしている。
だから、とにかく、この現実から離れたい。
すぐに死なないとすれば、何もかも手放して生き直したいような気分である。
 
私は、自分が書くブログの根底に、「生きろ!」というメッセージを流しているつもりだけど、時々、その熱量が失せることがある。
死にたいわけじゃないけど、生きているのがイヤになるときがある。
自分なりにがんばって、ここまで生きてきたにも関わらず、いまだに
「なんで、人は、こうまでして生きなきゃならないんだろうな・・・」
といった考えに苛まれることがある。
私も、ただの人間、どちらかというと軟弱な人間だから、気分が沈むこともあれば、鬱々とした状態から抜け出せなくなることもあるわけで、そういうときは、生きるための意欲が減退するのである。
 
食欲がなくても、行楽の予定がなくても、酒に対する欲だけはある。
前にも書いたが、どうしても酒がやめられない。
そうなると、肴もいる。
せっかくの秋なのだから、時季の味覚を味わってみたいとは思うけど、何分、懐が乏しいゆえ、私の口には季節感のないものばかりが入っている。
自分なりに工夫して、舌と腹が少しでも満足できるようなものを繕っているだが。
ただ、どんなに質素な食事でも、毎日三食 当り前に食べられていることは、深く感謝しなければならないことでもある。
 
秋の味覚といえば、秋刀魚も代表格の一つ。
そして、今年もその季節がやってきた。
しかし、近年は不漁続き、しかも、サイズは小型。
当然、値段は高く、先日、馴染みのスーパーで見たら、なんと一尾250円!
しかも、小型の冷凍もの。
もう一軒のスーパーでは、店頭に置かれてもいなかった。
高級魚の仲間入りをするのも時間の問題か。
何年か前までは、スーパー等では、一尾100円くらいで売られていたように記憶しているけど、それに比べると信じられない値段。
ただでさえ、物価高騰の時世、この値段・この品では、とても「買おう」という気持ちにはなれない。
 
とにもかくにも、秋刀魚は、塩焼きにしても刺身にしても、おいしいもの。
塩焼きは、身は食べ尽くす。
脳天からエラの際、尻尾の付根まで、きれいに食べる。
苦い内臓も、背ビレも、胸ビレも、腹の小骨も。
残すのは、頭と背骨と尻尾のみ。
ちなみに、私が子供の頃には、秋刀魚を刺身で食べる習慣はなかった。
刺身で食べられるようになったのは、物流が発達したおかげらしい。
しかし、庶民の味方だったはずの秋刀魚が気軽に食べられなくなるなんて・・・
事実、私は、秋刀魚を、もう何年も食べてない。
最後に食べたのがいつだったかも憶えていない。
 
もう十年以上も前のことになるが、仕事で仙台に出張した日の夜、「一杯やろう!」と、仲間と国分町(市内の繁華街)に出掛けたことがあった。
入ったのは、店構えのいい大衆居酒屋。
そこで食べた秋刀魚の塩焼きが、今でも記憶に強く残っている。
 
家庭用に売られているものに比べると型は大きく、丸々と太り、脂ものって身はやわらか。
飲食業のプロが出すわけだから、焼き具合も塩加減も上々。
飯のおかずではなく、酒の肴で注文したわけだが、とにかく美味。
あれは、本当にいい秋刀魚だった。
 
昨今の秋刀魚は、そこまでのクオリティーはなく、そもそも、数が少なすぎて選びようがない。
気候変動、世界情勢、物価高・・・秋刀魚にかぎらず、食べ物の選択肢がどんどん少なくなっている。
現在でも、所得が低い人ほどジャンクフードを主食にする傾向が強いらしいが、それがもっと深刻化するおそれがある。
 
「食料危機」が現実味を帯びはじめている近年では、昆虫食や人工肉の研究もすすめられているよう。
TV番組で、“生態系を破壊する厄介者”とされる外来生物等を駆除して食す企画を何度か観たことがあるが、ああいうのもいいのではないかと思う。
ちなみに、マムシの干物やイナゴの佃煮なら私も食べたことがある。
正直なところ、「美味い」とは思わなかったけど。
 
私にとって馴染み深い“彼ら”も、一応、昆虫の類か。
ウジ・ハエ・ゴキブリが食用にできれば、こんなに頼もしいことはないかも(?)。
なにせ、彼らはタフ!
繁殖力・増殖力・生命力・生存力、どれをとってもピカ一!
腐りモノから勝手に涌いてきて、またたく間に成長するのだから、その養殖は、省力・低コストでできそう。
 
そうは言っても、米一粒一粒が、ウジ一匹一匹だと想像すると・・・
ハエのサラダとか、ゴキブリの酒蒸しとか・・・かなりヤバい!
仮に、「安全」「美味」「栄養豊富」だとしても・・・
それを口に入れるのも、噛み潰すのも、簡単じゃなさそう・・・
しかし、何事も慣れてしまえば、当たり前になるもので・・・
そのうち、鮮度抜群!“踊り食い”を売りにするような料理屋が現れたりして・・・
 
ウジというものは、寛容な目でみると、小さくて丸みがあって、モタモタとして可愛いらしく見えるかもしれない。
しかし・・・やはり、気持ちのいい生き物ではない。
カブトムシや蝶の幼虫とさして変わりはないのだけど、汚物や腐ったモノに涌くから嫌われるのだろうか。
その昔、トイレが水洗式ではなく、いわゆる「ボットン便所」だった頃は、どこの家庭の肥溜にもいたはずなのだが、今の時代、ウジを知っている人はほとんどいないか。
どんな生態なのか、どんな姿をしているのか、生きる上で不要な無駄な知識として検索してみるといいかもしれない。
 
以前、ブログに書いた覚えがあるけど、
目を閉じた遺体の目蓋がモゾモゾと動いているので、その目蓋を開けてみたら、“ゴマ団子”のごとく眼球をビッシリ覆いつくしていたり、
腐敗した猫の死骸をひっくり返してみたら、その腹部には、どんぶり一杯ほどのウジが“稲荷寿司”のごとくパンパンに詰まっていたり、
何日も放置された怪しい鍋の蓋をとってみたら、ウジが“雑炊”のごとくフツフツと涌いていたり、
そんなこともあった。
 
ウジは、私にとって、当たり前の存在。
一方、彼らにとって私は、ある種の天敵。
その姿は、“進撃の巨人”。
互いに、非常に厄介な存在で、激戦になることも少なくない。
とにかく、殺虫剤が効かない。
「ウジ殺し」と銘打つ薬剤でもダメ。
駆除法は、熱死させるか、焼死させるか、凍死させるか、物理的に排除するか。
手間とコストと気持ち悪さを考えると、物理的に除去するのが最も得策。
掃除機で吸い取ってゴミにしてしまうのである。
(“巨人”は喰って吐くようだが、もちろん、私は喰ったりはしない。仮に喰ったとしたら吐くに決まっているが。)
 
そんな仕事、楽しいわけはない。
心身が疲れていると尚更。
「キツい」「汚い」「危険」、いわゆる3K。
プラス、「クサい」「恐い」「気味悪い」「嫌われる」で7K。
そして、私の場合、「気落ちする」「苦悩する」「心病む」で10K。
話題沸騰中、メジャーリーグS・О投手の三振ショーのように、考えれば、もっと出てきそう。
なんとか、“パーフェクトゲーム”で完敗しないようにだけは気をつけたい。
 
世の中に、楽しく仕事をしている人が多いのか少ないのか、私はわからない。
生活や家族のため、自分に強いている人が多いか。
ただ、それなりのやり甲斐や喜びや目的を持ってやっている人も少なくないように思う。
そうは言っても、誰もが知るとおり、人生は、楽しいことばかりではない。
人の感覚として、楽しいことはアッという間に通り過ぎ、人の性質として、楽しくないことは心に刻まれやすい。
また、人生は、思い通りになることばかりではない。
ただ、人は、思い通りにならなかったことはいつまでも覚えているくせに、思い通りになったことはすぐに忘れてしまう性質を持つ。
だから、“人生は思い通りにならないもの”と感じ、自分の鬱憤を紛らわすために、“そういうものだ”と思い込ませてしまう。
“思い”というものは、本当は、もっと自由なもののはずなんだけど。
 
笑顔が失われた日常において、少しでも気持ちが上向くよう、ネットで元気が出そうな「名言」を検索することがある。
「心に刺さる!」というほどではないけど、「いい言葉だな」と思えるものも少なくない。
それでも、その効能は一時的なもの。
おそらく、それらは、自分が勇気をもって周りの現実を動かしてみることで実感でき、また、説得力をもって、その真価を人に伝えることができるのだろう。
 
何億匹、何兆匹、おそらくもっと・・・これまで、私は、数えきれないウジを始末してきた。
毒を吐くわけでも襲ってきたわけでもないのに、ただ「邪魔」というだけで。
その因果応報であるはずないけど、この性格は、いつまでもウジウジしたまま。
「余計なことを考えるな!」「それ以上 考えるな!」
自分に言い聞かせてはみるものの、自分が言うことをきかない。
自分の性格や価値観なんて、そんなに簡単に変えられるものではないことはわかっている。
いや・・・根本的には、変えることはできないものかもしれない。
だからと言って、このまま人生を棒に振るのはイヤ。
自分の内に自分を変える力がないのなら、自分の外に自分を変えるチャンスを探すしかない。
 
ウジだって、いつまでもウジのままではない。
たくましく生き、確実に成長し、脚を得て歩き、羽を得て宙を飛ぶ。
殺虫剤にやられる者、ハエ取り紙に捕まる者、餓死する者、鳥に喰われる者、色々いるだろうが、生きるために冒険の空へ飛び出していく。
その生きることに対する純粋さ、実直さ、必死さは人間に勝るとも劣らない。
ひょっとしたら、動植物や昆虫の生きようとする性質の純粋さ・実直さ・懸命さは、人間のそれをはるかに凌ぐものかもしれない。
 
今、必死に生きているだろうか、
毎日、一生懸命に生きている実感があるだろうか、
病気・ケガ・事故・事件・災害など、何か特別なことがないかぎり死なないことが当り前のようになっている日常に生きている者と、いつ死んでもおかしくない危機を身近に感じさせられる日常を生きている者との生に対する熱意は天地ほどの差があるように思う。
 
ただ、“死を意識しながら生きる”とか“生きる意味を問いながら生きる”とか、そういうことばかりが必死に生きることではないと思う。
そういう意識をもって生きるのは、とても大切なことではあるけど。
 
キーワードは「大切にする」ということ。
肝心なのは、「大切に生きる」ということ。
世界、社会、家族、友達、仕事、食事、趣味、時間・・・
「当たり前」と勘違いしている現実を大切に思い、人や物、色々な出来事に感謝する心を育むこと。
同時に、自分を大切にし、ときには自分に感謝することを意識すること。
 
「自分のために生きる」「生きることは自分のため」
生存本能があるせいか、何となく そんな価値観や思想をもって生きている。
そして、何かにつけ、「結局は自分のため」「結果的に自分のためになる」「間接的には自分のためにもなる」といったところに“強制着陸”しようとする。
もちろん、それに一理はある。
ただ、それで、不本意な自分の生き方を誤魔化そうとする自分がいるのも事実。
 
人の生き方に「正解」はない。
また、「正解」と思われる道は一つではない。
一つの判断基準は、「それで自分が幸せかどうか」「楽しめているかどうか」。
家族の笑顔を守るため労苦することは幸せなこと。
誰かの正義を守るため戦うことは幸せなこと。
目標に向かって鍛錬することは楽しいこと。
夢に向かってチャレンジするのは楽しいこと。
遊興快楽を手にして生きるばかりが“正解”ではない。
 
満たされない日々・・・
「人生なんて そんなもんだ・・・」と、自分に言い聞かせながらも、せっかくの人生を無駄にしているような気がしてならない。
それは何故か。
一つは、感謝の心が足りないから。
感謝しなければならないことがたくさんあるのはわかっているのだが、気持ちはどうしてもマイナスの方に向いてしまう。
もう一つは、生き甲斐を感じられることがないから。
銭金・商売・打算を抜きにして、誰かの役に立てている実感がない。
 
このまま下っていくだけの人生なんて、まっぴらご免!
残り少ない人生を、燃え尽きた灰のように諦めるのはイヤ!
ならば、変える必要がある。変わる必要がある。
「もう一花咲かせよう!」なんて大層な欲を持っているわけではないが、この陰鬱とした日々から脱出したい。
 
ウジをネタにこれだけ語れるのは、私にも、まだ余力がある証拠か。
だとすると、「大空」とまではいかなくても、どこか違う世界に飛び立てるかも。
ウジウジするのは程々に、心の燃えカスに再び火をつけて。
ウジから生まれ変わるハエのように。




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残された時間 ~続編~

2022-03-02 07:00:52 | その他
2022年も3月に入った。
まだまだ朝晩は冷え込むものの、暦の上では、もう春。
晴天に恵まれた昼間には春暖が感じられるようになり、じきに桜の蕾もふくらんでくるはず。
そして、今日は2日。
昨年3月2日に亡くなった“K子さん”の命日。
(※2021年1月26日 1月30日 2月3日「残された時間」参照)
一昨年12月3日に「余命二か月」と宣告された自分の死期について、
「医師も用心して余命は“最短”で言うでしょうから、“桜が見れるかどうか・・・”ってところでしょうかね・・・」
と言っていたK子さんだったが、結局、その命は、桜が咲くまでもたなかった。

当初、この「続編」は、もっと早く書くつもりでいた。
・・・正確にいうと「書けるつもりでいた」。
想いが強すぎるせいか、書きたくても、言葉(文章)として、うまく文字を並べることができず。
薄情な私のことだから、「悲しみに暮れている」とか「心の悼みが癒えていない」とか、そういうことではないのだが、出会ってからのこと、亡くなる前後のことを想い出すと、色々なことが溢れてきて、まったく頭の整理がつかず。
結局、いつまでたっても書くことができず、一年が経過してしまった次第。

出会いは、一昨年、2020年12月9日の電話。
「余命二か月」を宣告された上での生前相談だった。
しかし、抱えている問題に反して、K子さんが、あまりに平然と、また淡々と話すものだから、はじめ、私は「冗談?」「いたずら?」と疑った。
ただ、話は事実であり現実であり・・・その後の関りはブログ三篇に記した通り。
この世での付き合いは、二か月程度の極めて短いものとなったが、同時に、二度と得られないような濃い時間となった。

もちろん、K子さんのことをブログに書くことは、本人も了承済みだった。
2021年1月26日に「前編」をあげると、早速、読んでくれたらしく、翌日には、
「うお!? 
なんかもしかして、ブログに登場してきましたかワタシ!?
なんかすごい嬉しいです。
でも私へのお気遣いは全く無用ですので、お好きなように書いちゃってくださいね!!
お返事はいりませんよ~」(原文のまま)
と、メッセージを入れてくれた。
喜ぶような場面ではないのに、とても喜んでくれたK子さんに、私は、何やら、自分に存在価値のようなものを感じ、場違いも省みず、少し誇らしく思ってしまった。

また、後日には
「私はブログを拝見しながら ずっと“この人とお友達になりたいなぁ”と思っていたことを思い出しました。」
「私が死ぬことで、友人達に何かの芽が発芽してくれたら、こんなに嬉しいことはないなぁと思いました。」(※「一粒の麦」の話から)
とのメッセージを送ってくれた。

最期に会ったのは、宣告された二か月が経過した2021年2月6日の午後。
癌は確実に進行しており、その前に会ったときに比べて体調は明らかに悪化。
それは、K子さんの動作や口調から、ハッキリ見てとれた。
とりわけ、頭(脳)に支障をきたし始めていたようで、著しい物忘れに苦悩。
TVのリモコン操作や冷蔵庫から飲み物を出してコップに注ぐといった、極めて簡単な日常的動作も、ゆっくり考えながらでないとできないくらいに。
それは本人も自覚しており・・・次第にダメになっていく自分を、培ってきた精神力でやっと支えているといった感じだった。

そこでも、色々な話をした。
K子さんについて書いたブログの話もした。
私が、独りよがりであることを承知のうえで、
「とにかく、K子さんに読んでもらいたい一心で書きました!」
「一文字一文字を渾身の想いで打ちました!」
と伝えると、
「ありがとうございます・・・何度も読み返しますね」
と、穏やかな表情で私に礼を言ってくれた。
一方、泣きたいのはK子さんの方だったのかもしれなかったのに、何故か、私の目には、薄っすらと涙が・・・
悲哀?同情?感傷?達成感?独善?、それは、得体の知れない涙だった。

K子さんは、“死”というものについて、私が、どういう概念を持っているのか尋ねてきた。
私は、
「この肉体は、この世の服みたいなもので、“死”というものは、それを脱いで天の故郷に帰ることみたいに思っています」
と応えた。
すると、同意するでもなく反論するでもなく、ただ、
「そうなんですか・・・なるほどね・・・」
と、不思議そうな表情を浮かべ、その後、感慨深げにうなずいた。

「“人生は楽しまないと損”と思いますか?」
と問うと、
「そうは思いません・・・後悔はありますけど、“楽しまなきゃ損”と言う考え方は、何だか薄っぺらく思えますね」
と応えてくれた。
幸せな話の少なかったK子さんだったが、それでも、ここまで生き抜いてきたことに ささやかな誇りを感じ、また、ここまで生かされてきたことに ささやかな幸せを感じているようでもあった。

それまでのやりとりの中で、私が、無神経なくせに神経質な人間であることは充分に伝わっていたはずだったので、
「私に友達がいない理由が少しはわかるでしょ?」
と言うと、
「私は、勝手に友達だと思っていますよ」
と愛嬌タップリに応えてくれた。
私は、素直に嬉しかった。

「死ぬのはいいけど、苦痛だけは困る」
K子さんは、何度もそう言っていた。
“死”への恐怖ではなく、身体的苦痛への恐怖感は強かったよう。
頼みの綱だった麻薬系の薬も効きにくくなり、痛みに襲われたときは、かなり辛かったみたい。
あまりに辛いときは、耐えきれず、規定量を超えて薬を服用。
その効果で、一時的に痛みは軽減するものの、同時に、それは頭(脳)へ大きなダメージを与えた。

「あと、二度でも三度でも会いたいなぁ・・・」
K子さんは、私にそう言ってくれた。
誰かに必要とされることが少ない人生を生きてきた私には、ありがたい言葉だった。
ましてや、K子さんが最期を迎えるにつき、私が役に立つことがあったとすれば、「ここまで生きてきた甲斐があった」いうもの。
ただ、K子さんは、その言葉の後に、
「でも・・・それで死ぬのがイヤになったら困るな・・・」
と、寂しげにつぶやいた。

ときに、時間は残酷なもの・・・
差し迫っている現実は、夢の話ではなく抗いようのない事実なわけで・・・
その言葉に、私は、今までに覚えたことがないくらいの切なさを覚え、返す言葉を見つけられず、その場に流れる静かな時間の中をさ迷うばかりだった。

そんな中で、私は、K子さんに三つのお願いごとをした。
一つ目は、
「亡くなったときは私にも連絡が入るようにしておいてほしい」ということ。
これについては、
「友達に頼むしかないけど、何か方法を考えておきます」
とのことだった。

二つ目は、
「死んだ後、何らかの合図を送ってほしい」というもの。
何という無茶なお願いだろう・・・
フツーなら、かなり無神経、かなり不躾、また、酷な言葉のはずだが、K子さんと“死”を語るのはタブーではなく、“死”は、我々の関係性の中心にあるものだった。
「死んでから、できることなら、何か合図みたいなものを送ってくださいよ」
「ラップ音とか?」
「そうそう!」
「え~!? なんか、恐くないですかぁ?」
「普通だったら恐いでしょうけど、不可解な現象があったらK子さんだと思いますから」
「そうですかぁ・・・」
「(心霊写真のように)スマホの画像に写り込んでもいいですよ!」
「いやぁ~!・・・さすがに、そんな図々しいマネできませんよぉ~!」
と、二人で、真剣な話を冗談のように話して笑った。

三つ目は、
「最期を迎えるにあたって、思いついたこと何でもいいから、率直な想いを言葉にして残してほしい」というもの。
それまでにも、色々な考えや想いを伝えてもらっていたが、まだまだ聞きたいこと知りたいことが尽きなかった私は、以降も、その心持ち吐露してほしくて、そんなお願いをした。
それが、K子さんがいなくなってからも続くであろう自分の人生において貴重な糧になると考えたのだ。
しかし、その後、K子さんの体調は急激に悪化し、メールを打つこともままならない状態になってしまった。

最後に文章らしい文章が届いたのは、2021年2月8日23:12のこと。
「なかなかお返事できなくてすみません。メールが打てなくなったら、次は入力がほとんどできなくなりました。
日々退化しているようです
メール打つのもすごく時間がかかります
このままではめーるすら打てなくなるかもと焦っています
キーボードも日々打てなくなっていて、今現在は退化しているかもです」(原文のまま)

そして、生前最後の言葉は、その少し後、2月9日0:29に受信。
最後に、私に伝えたいことがあったのか・・・
意識が朦朧とする中で、必死の想いでスマホを打ったのだろう・・・
受信したのは「もっといっぱさん」の八文字。それだけ。
一見、意味不明な言葉だが、私には、その意味がすぐにわかった。
「もっと、いっぱい話したかった」
私は、そう受け止めた・・・間違いなくそのはずだった。
元来の薄情者のくせに、その人間性を無視するかのように、私の目には涙が滲んだ。
「“もっと、いっぱい話したい”ですよね? 言葉にならなくても、その想いは伝わってますよ!」
と、私は、すぐにメッセージを返した。
事実、私も、もっとたくさんのことを訊きたかったし、聞きたかったし、話したかった。
が、しかし、もう“K子さん”からメッセージが送られてくることはなかった。

そのまま音信は途絶え、安否がわからぬまま一か月が過ぎ・・・
3月9日の午後、会社に一本の電話が入った。
私宛で、要件は「“K子さん”の件」とのこと。
私は、某腐乱死体ゴミ部屋での作業を終えて、次の現場へ移動するため車を走らせていた。会社から知らせを受けた私には、話の内容が何であるか、すぐに察しがついた。
車をとめ、伝えられた番号に電話をすると、相手は「K子さんの友人」を名乗る女性だった。

K子さんが自宅から病院に移ったのは2月18日。
つまり、「できるだけ自宅に居たい」と言っていた通り、私に最後のメッセージを送ってから、10日も自宅で頑張っていたわけ。
容赦なく襲ってくる苦痛・・・
急速に失われていく自我・・・
日々、医療スタッフが訪れてサポートしていたはずだけど、さぞツラかったことだろう。
癌は脳にまで転移。
モルヒネを打つほかに苦痛を和らげる手はなく、あとは死を待つばかり・・・
その頃は、もう意識も混濁し、自分のこともわからなくなっていたそう。
最期は昏睡状態。
そうして、3月2日、K子さんは、その生涯に幕を降ろしたのだった。

K子さんの死を知った私は、一人、運転席で涙。
音信不通になってから、「もう亡くなったのかもな・・・」と覚悟はしていたのだが、実際に、その知らせを受けてみると、おとなしくしていた感情が噴出。
「悲しい」とか「寂しい」とか、そういうのではなく、「わびしい」「切ない」みたいな感情がドッと沸いてきた。
そして、その、今まで味わったことがない何ともいえない心持ちは、しばらく私の心を支配し、私を感情的にしたり落ち込ませたり、逆に、落ち着かせたり奮い立たせたりした。
また、K子さんと関わるきっかけとなったのは、遺品整理の生前相談だったのだが、遠戚の親族も相続を放棄し、結局、その遺品整理を当社が契約するには至らなかった。

ただ、話は、これで終わりではなく・・・
K子さんの死を知ってから三日後の3月12日8:42、私のスマホがSMSを受信。
なんと、送信元はK子さんのスマホ。
会社にいた私は、「え!?」と、周りの者が振り向くくらい、驚きの声を上げた。
まさか、亡くなったはずのK子さんからメッセージが届くなんて・・・
すかさず画面を開くと、そこには、「書き方かか」の文字が。
おそらく、「もっといっぱさん」と送った後に、「書き方が」と・・・「書き方がわからなくなってきた」と打とうとしたのだろう・・・
しかし、それも最後まで打つことができず、送信ボタンさえ押せず・・・
そんな極限状態になってまで、私に言葉を送ってくれようとしていたなんて・・・
多分、スマホの契約が解除される際に、未送信メッセージが処理されて私に届いただけのことなのだろうけど、私には、それがK子さんに話した“二つ目のお願い事”のように感じられ、あり余る想いに胸がいっぱいに・・・
そうして、それをもって、今生におけるK子さんとの関りは、すべて終わったのだった。


誰の命にも終わりがある。
誰の人生にも終わりがくる。
いずれは、誰しも死んで逝く。
言われなくてもわかっている。
しかし、人間は、どこまでも愚かで、どこまでも無力。
「生きている」という、その奇跡的な希少性を蔑にし、目の前の雑事に心を奪われ、小さなことにつまずき、克己を忘れ、大切な時間を空費してしまう。

K子さんとは、本当に短い付き合いだった。
しかし、とてつもなく濃い時間だった。
そして、本当に稀有な出逢いだった。
多分、この先、こんな出逢いは、二度とないだろう。
仮に、あったとしても、K子さんくらい明るく死と向き合う人はいないと思う。
幼少期から過酷な経験をし、苦労の連続で、辛酸を舐めたことも多々あり・・・
「“よく死なずに生き続けてこれたな・・・”と自分でも思います」と、話していた。
そこには、病魔に襲われ、家も家族(愛猫)も仕事も奪われ、余命二か月を宣告され、それでも、「前向き」という言葉が陳腐に感じられるくらい明るく生きる姿があった。
世間の片隅で、自分の人生を生き抜いた一人の女性の、泣き笑い、幸せと不幸があった。
そこから“一粒の麦”をもらった私は、これからの人生で、それを咲かせ 実らせるべきなのだろう。

私は、「生涯 忘れません」と約束した。
だからでもないが、K子さんのことは、今でもよく思い出す。
目には見えず、耳にも聞こえず、肌にも感じられないけど、どこかで強い味方になってくれているような気がしている。
そして、その度に、透明な空気の中から「かんばって!」と応援してくれる声がきこえてくるような気がするのである。



-1989年設立―
日本初の特殊清掃専門会社
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バカちん

2021-03-30 08:47:12 | その他
春暖の候、満開の桜が、もう散り始めている。
毎年のことだけど、厳しい冬を越えたこの季節には、希望にも似た独特の穏やかさがある。
しかし、二年目に突入したコロナ禍によって、今年もまた、花見などの宴会は自粛しなければならないムード。
ただ、そんなことお構いなく「自分達が楽しければそれでいい」という者がいる。
ま、そんな輩はいつの世にもいるもので、あちこちの桜に集まっては酒盛りをしているよう。
まるで、何かに群がるウジ・ハエのように。
しかも、己も“社会のゴミ”“人間のクズ”になりたいのか、人の迷惑もおかまいなし。
ドンチャン騒ぎだけにとどまらず、自らが出したゴミもその辺にポイ捨て。
「人間ってヤツは、まったく、ロクなもんじゃないな!」
「世のためにならないから、さっさと散ってしまえ!」
とばかりに、せっかく咲いた桜も、嘆き散っているように見える。

時を合わせるように、懸案だった聖火リレーも始まった。
できるかぎりのコロナ対策を講じつつ進めていくらしいが、開催に否定的な私の目には、“実のないパフォーマンス””限られた人間のお遊び“のように映る。
また、オリンピックやる気満々の人達にそんなつもりはないのかもしれないけど、そこからは、戦時中の思想統制を思わせるような雰囲気が感じられて、私には不気味な窮屈ささえ感じられる。
誤解を承知で極端な言い方をすれば、「バカバカしい」。
“コロナ自殺”ではないかと思われるような死痕を目の当たりにすると、自ずと、そんな苛立たしい感情が噴出してくる。

一年も経つとやむを得ないのか、皆、コロナにも緊急事態宣言にも慣れてしまって、タガが外れている感じ。
緊急事態宣言が無意味なことだったように思えるくらい感染者も増えてきているし、変異種の感染者も確実に増えている。
外国からの観客は入れないことに決まったが、選手関係者の入国にも制限がかかるらしい。
下手したら、海外選手の入国にも厳しい制限が設けられるようになるかも。
この調子だと、国内の観客も簡単には観戦できなくなるだろう。
結局、無観客でやらざるを得なくなり・・・そうなって、やっと中止決定か・・・
開催したって大赤字を喰うことは目に見えているわけで、どれだけ無駄な金を、無駄な手間を、無駄な時間をつかえば気が済むのか。

とにもかくにも、このコロナ禍によって、オリンピックどころではない国民がたくさんいることは公然の事実。
自分の命を食いつぶすように、ギリギリで生きている人がいることを忘れてはならない。
しかも、少数ではなく大勢。
個人的には、ここは潔く中止して、その分の労力と費用を、死にかかっている人々の支援に回すべきではないかと思っている。
桜は散っても、また来春 咲くことができるけど、人は散ったら それでおしまいなのだから。



「おたく、“特殊清掃”とかっていう仕事をやっている会社?」
「孤独死の現場とか片づけるヤツでしょ?」
一ヶ月くらい前、ある日の夜中、中年男性の声で電話が入った。
当夜、電話当番だった私は、仕事の依頼、もしくは問い合わせだと思ったので、話の内容を書きとめるべく、メモ用紙を前にボールペンを手に取った。
そして、男性の話を聞き漏らさないよう、受話器の声に耳を傾けた。

「おたくの会社はどこにあるの?」
「○○(某県某市)にはないの?」
現場に近ければそれだけ利便性が高いし、地元業者だと どことなく安心感があるのだろう。で、“地元業者に頼みたい”といったニーズは少なからずある。
しかし、こんな珍業会社、“どこの街にもある”というものではない。
したがって、私は、男性が示した街に営業所はないことを伝え、その上で、男性が示した街も対応可能エリア内であることも伝えた。

「で、日給いくら?」
「月にいくらもらえんの?」
男性は、前置きもなく訊いてきた。
時間帯といい、口のきき方といい、てっきり客だと思い込んで丁寧に対応していた私。
しかし、それは大きな勘違い。
そう・・・男性は、特殊清掃スタッフに応募してきた人物。
とはいえ、“働かせてもらいたい”なんて謙虚な物腰ではなく、“待遇がよければ働いてやってもいい”といった横柄な態度だった。

「こんな時間にかけてきて、その口のきき方とは・・・」
「ケンカ売ってんのか!?」
それは、“ムカつくな”という方が無理な悪態。
そもそも、うちの会社は求人なんかだしていない。
男の正体がわかった途端、私は不愉快に。
愛想よくする必要なんかどこにもなく、私は、気分の赴くまま態度を豹変。
苛立ちを露わにして、憮然と応答した。

「孤独死・自殺数は増えているから、人出が足りないに決まっている」
「人が嫌がる仕事だから高給が稼げるに決まっている」
勘違いはなはだしいが、特殊清掃業には、そういうイメージがあるのだろう。
そして、残念ながら、この類のバカは、たまに涌いてくる。
一体、どういう神経をしているのか、どこの都市伝説を鵜呑みにしているのか、見識がなさすぎ。
あと、常識も良識もなさすぎ!
ついでに、頭も悪すぎ!

「幼稚園から行き直せ!」
「どんなに人手が足りなくたって、オマエのようなヤツは採用しない!」
私は、そう言ってやりたかった。
事実、どんなに高学歴だろうが、熟練者だろうが、無教養で礼儀知らずな人間は必要ない!
面接する以前、履歴書を見るまでもない。
しかし、そんなことを言ったって自分の口が汚れるだけなので、私は、“求人はだしていない”“人手は足りている”とだけ伝えて、さっさと電話を切った。

「ふざけやがって!」
「バカにしやがって!」
人にバカにされるのは慣れたこととはいえ、バカにバカにされると無性に腹が立つ。
私は、独り言でブツブツと電話の男に毒を吐いた。
と同時に、
“あんな男を雇う会社なんかあるのだろうか・・・”
“あそこまでバカだと、ロクな仕事に就けないだろうに”(人のことは言えないけど・・・)
“あんな人間でさえ雇わなければならない会社があるとしたら、気の毒なことだな・・・”
と、つくづく思ったのだった。


また、これも一ヶ月ほど前のこと。
遺品整理の調査依頼が入り、千葉県の田舎の方へ出かけた。
(ちなみに、そこは2020年市町村別魅力度ランキングで全国最下位という栄誉?に輝いたそう。)
車の運転が嫌いではない私は、のんびり走るつもりで早めに会社を出発。
時間にも余裕があったし高速料金も節約できるので、だいぶ手前のICで降りて一般道へ。
仕事とはいえ、走ったことがない道や、出かけたことがない地域を走るのは なかなか楽しいもので、穏やかな天気の中、束の間のドライブ気分を味わっていた。

そんな気分で平和に走っていた千葉の道。
片側二車線の大通りを走っていたときのこと、後方から爆音がこだましてきた。
それは、マフラーのサイレンサーを違法に改造したバイクのエンジン音。
そんなバイクが何台も集まって走行している音だった。
その集団は、爆音を響かせつつ、徐々に私の車に接近。
そして、信号待ちの最前に止まった私の車を取り囲むように停車したのだった。

普通にアイドリングしているだけでは気が済まないのか、彼らは、止まっている間も、“ブンブン!バリバリ!”とアクセルを空吹かし。
私や周囲の車を威圧しているつもりはなさそうなのだが、いつまでも止めず。
とにかく、自律神経が乱れそうになるくらいの爆音で、うるさくてたまらない!
あまりにやかましいものだから、「うるせー!!」と怒鳴ってやりたくなったけど、そんなことをしても、返り討ちに遭うだけ。
小心者は小心者らしく泣き寝入ることにして、私は、黙って彼らに視線を送るのみだった。

その行為に何の目的があるのか、まったく意味不明。
自分で“カッコいい”とでも思っているのか?
人に“カッコいい”と思われるとでも思っているのか?
私からみれば、「私はバカです!」と大声で宣伝しているようなもので、みっともないだけ。
恥を曝しているのは彼らの方なのに、もう、見ている方が恥ずかしくなるくらい。
周囲の車も、珍獣でも見つけたかのような好奇の目で、また、犯罪者でも見下すかのような冷ややかな目で、顔をしかめつつ彼らを見ているようだった。

家族連れのファミリーカーからは、
(親)「あんな大人になりたい?」
(子)「いや、なりたくない!」
(親)「でしょ!?」
(子)「うん!」
(親)「だったら、しっかり勉強しないとね!」
(子)「そうだね!ああはなりたくないからね!」
といった会話が聞こえてきそうなくらいだった。 

そうは言っても、「無法者」とは言い切れず。
半キャップながらも、ちゃんとヘルメットはかぶっているし、信号も守る。
猛スピードで疾走するわけでもなく、蛇行運転はしても車線は越えないし、他の車の走行を邪魔するようなこともしない。
車体は暴走族風に品悪く改造してはあるものの、俗にいう“特攻服”を着ているわけでもない。
いわゆる「暴走族」といわれる輩とは違い、基本的な交通法規は守るよう。
こういう連中のことを「○○族」とか、別の呼び名があるのかもしれないけど、どちらにしろ、世間から白い目で見られることに変わりはないか。

私は、信号待ちの間、“どんなツラしてるか見てやろう”と、彼らの顔をジックリ見てみた。
このコロナ問題でも若者に偏見を持っていることが否めない私は、その集団もてっきり“若僧”だと思っていた。
が!、その顔を見てビックリ!
彼らは、どうみても皆40代、またはそれ以上・・・下手したら私と同年代の者も。
いい歳をして、“年の功”というものがないのか、何を学んで生きてきたのか、生きてきて何かを学ばなかったのか・・・
「呆れてモノが言えない」とは、まさにこのことで、はなはだ疑問に思った私は、驚愕の表情で首を傾げるしかなかった。

趣味を持つことも、趣味を楽しむこともいいこと。
バイクに乗るのもヨシ、好きなようにカスタマイズするのもヨシ、ツーリングでどこに出かけるのも自由。
しかし、社会規範は守るべきで、人に迷惑をかけてはいけない。
ただ、どうみても、あの騒音は不可抗力でも過失でもなく意図的なもの。
健常者だってストレスがかかるのに、近くに、補聴器をつけている人とか、療養している病人や眠っている赤ん坊がいたらどうするのか。
そんな良識、子供だって持っている。

人の迷惑をかけ、人に不快な思いをさせても尚、己の欲望を満たそうとする・・・
そんなことまでして遊んで、本当に楽しいのだろうか・・・
しかし、彼らにとっては楽しいんだろうな・・・
そんな人生、何の徳があろうか・・・
しかし、彼らには得した感があるんだろうな・・・
結局、「自分が楽しければそれでいい」ってことか・・・
私は、他人事では済まされないはずの価値観を他人事にして、ひたすら、彼らをバカにしたのだった。


「バカな奴・・・」
人を見てそう思うことが多々ある。
「バカな人間・・・」
人からそう思われることも多々あるだろう。
「俺も、結構なバカだよな・・・」
自分でそう思うことも多々ある。
自分に自信がない私でも、自分のバカさ加減には自信がある。

完全なバカは、人の目も気にせず、人の迷惑も省みず、能天気に人生を楽しむことができる。
賢い人間は、世の中との調和を守りつつ上手く人生を楽しむことができる。
しかし、バカはバカでも、私のような中途半端なバカは、賢くもなれず、バカにもなりきれない。
で、人生を楽しむことが下手。
振り返ってみると、随分ともったいない生き方をしてきた。

人に無礼を働いたり、自分本位で人に迷惑をかけたりするのはよくない。
当然のこと。
もちろん、そんな人間にはなりたくない。
しかし、やたらと人の目を気にし、やたらと人の心象を想いはかってばかりでは、自分が楽しくない。
品のないバイクにまたがり、爆音を響かせながら楽しげにしていたオッサン達のカッコ悪い姿を思い出すと、嫌悪感や蔑みの中にも、憧れるような、羨ましいような、妙な感覚が湧いてくる。
そして、あるはずの楽しみに気づけない自分の頭の悪さと心の鈍さを、虚しく、また口惜しく思う。


「人生は一度きり・・・短く儚いもんだよな・・・」
「もっと楽しく生きられればいいんだけどな・・・」
「とにかく、俺は、人の目を気にし過ぎ、金を欲しがり過ぎ、先のことを心配し過ぎなんだよな・・・」
ヒラヒラと散りゆく桜をながめながら、頭の回転と心の感度を上げていくことを考えている“バカちん”である。


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自分との戦い

2021-03-02 08:29:46 | その他
前々回の「緊急事態」。
そんなつもりはないながら、当人達をややバカにするような文調で、おもしろおかしく書いてしまったけど、大腸のトラブルは、決して他人事ではない。
ていうか、実際に漏らしはしないにしても、誰しも、似たような経験をしたことがあるのではないだろうか。
半世紀余り生きてきて、私も、同じような経験をしたことが何度となくある(漏らしたことはないよ!)。

最も多かったのは20代後半から30代前半、とにかく大酒を呷っていた時代。
毎日の晩酌は当然、今に比べると外で飲むことも多く(だいたい上野)、二軒・三軒と決まった店をハシゴ。
当時、健康のことはほとんど気にせず、食べたいだけ食べ、飲みたいだけ飲んでいた。
で、体重も今より15kgほど多く、腹回りもパンパン。
これでは身体を壊すのも当り前、結局、肝癌や肝硬変を疑われるくらいの悪い数値がでてしまい(実際は重度の脂肪肝)、禁酒とダイエットを余儀なくされた。
肝臓が悪いと腹を下しやすいそうで、深酒した翌朝は、きまって下腹が不調に。
通勤電車の中で冷や汗をかいたこともしばしば。
ただ、途中下車したところで、トイレまである程度の距離を歩かなければならない。
しかも、朝のラッシュ時にすぐにトイレを確保できる保証はなく、双方リスクは似たようなものなので、私は途中下車を選択せず、尻の穴に気合を入れて何とか会社までもたせていた。

しかし、一度、途中下車せざるを得ないくらい逼迫したことがあった。
「会社までもたせるのは難しいかも・・・」と弱気になった私は、途中の新橋駅で下車。
そして、案内表示を頼りに、人波をかきわけて足を急がせた。
広い駅構内、ようやくトイレにたどり着いた私は、ホッと胸をなで下ろしながら中へ。
すると、そこには想定外の光景が!
なんと、トイレ(大)には長蛇の列ができていたのだ。
難なく入れると思って油断していたらこの事態。
朝の通勤時間帯とはいえ「“緊急事態”の人って、こんなにもいるものなのか・・・」と、面喰らうやら、感心するやら・・・
そうは言っても、とにかく並ばなければ先へは進めない。
「他のトイレに移動するべきか・・・下手に動くと藪蛇になるか・・・」
短い用ですむ“小市民”が苦境に陥った我々を横目に出入りする中、私は、とりあえず列の最後尾へ。
そして、先の読めない待ち時間に焦りが増す中で、順に個室に入っていく“大先輩”に「早く出せ!早く出ろ!」と、まるで呪いでもかけるかのように念を送った。

当然、そんな苦悩もお構いなしに大腸は蠕動運動を活発化。
緩急の波をもって徐々に圧を上げてきた。
そうは言っても、苦悶の表情を浮かべて、ソワソワ・モジモジと身体をくねらせるのはカッコ悪い。
表情にだけは余裕をもたせて、ひたすら、尻の穴と拳に力を込め、身体を固くするのみ。
列の面々をみても、「まだ俺は余裕あるぜ」といった雰囲気を醸し出して平静を装っている。
実際は、緊急事態のはず、必至に!我慢しているはずなのに。
自分もその一人とはいえ、“大腸vs尻の穴”、皆がジッと“糞闘”している様は実に滑稽で、そこに小さな人間の大きな人間味を感じた。
併せて、朝の駅トイレ(大)は簡単に入れると思わないほうがいいことを学んだのだった。

しかし、人間の身体って、一筋縄ではいかないもの。
大腸が、TPОも考えず急に便意を発することがある。
すると、前記のように、一人の人間、一つの身体の中で「大腸vs尻の穴」のバトルが始まる。
直ちにトイレに行ける状況であれば何の問題もないのだが、すぐにトイレに行けない場合は、一進一退の“自分との戦い”が繰り広げられることになる。
当然、脳は便意を抑え込もうとする。
しかし、大腸は、そう簡単には従わない。
ひたすら、「出そう!出そう!」と、力んでくる。
しかも、姑息にも、飴と鞭(緩急)を使いわけて、こちらの意思を挫こうとしてくる。
便意が抑え込めないとなると、あとは、最後の砦“尻の穴”を締めてかかるしかない。
しかし、“尻穴筋”なんて、普段から鍛えようもないし、“大腸筋”に比べたら明らかに筋量が少ない(?)。
結局、圧してくる大腸を前にできるのは、防戦一方の時間稼ぎのみ。
尻の穴が稼いでくれた時間を使って便器を獲得するしか助かる道はないのである。

“鼻づまり”もそう。
風邪を引いたり高熱がでたりすると、ただでさえ呼吸が苦しくなるのに、この身体は、わざわざ鼻孔を詰まらせてくる。
苦しいときに、なんでそんなことをするのだろう。
ウイルスや菌など、悪いモノが身体に入らないように防御しようとしているのか?
病んでから鼻を詰まらせたって手遅れじゃないか?
とにかく、鼻が詰まると、息苦しくて仕方がない。
カッチカチに詰まったりなんかすると、怒りを覚えるくらい。
子供の頃は、棒を差して穴を通したくなるような衝動にかられたことが何度もある。
寝返をうったりして体勢を変えると、一時的に鼻がスーッと通ることがあるけど、その間にチューブを差し込んで穴が閉じるのを阻止しようかと考えたりもした。
そんな過激なことを考えさせるくらいに難儀なことだった。

鼻水・鼻づまり・・・これからの時季は花粉が多くの人を悩ませる。
ただ、ありがたいことに、私には花粉症をはじめ、アレルギーらしいアレルギーはない。
「人の目を気にしすぎる」「人付き合いが苦手」「猜疑心が強い」等、ある種の“人間アレルギー”があるくらい。
ただ、周囲には花粉症の人がたくさんいる。
それぞれ、薬をのんだり目薬をさしたりして対策を講じてはいるものの、万全の策はないらしく、目や鼻を赤くして、涙や鼻水を流している人もいて、ティッシュを箱で持ち歩かなければダメなくらいの人もいる。
それに加えて、今年はコロナがある。
咳やクシャミをするにも人目をはばからなくてはならない世の中。
自分の身体のことだけではなく、人目も気にしなくてはならないわけで、大きなストレスがかかっていることだろう。


そんなコロナ禍にあって、自殺件数が増加しているらしい。
とりわけ、目立つのが若年層と女性の自殺。
近年、私の仕事においても減少傾向にあったのだが、昨年後半から、やや目立つようになってきている。
ただ、現実には、「自殺」という名の病死もあれば、「病死」という名の自殺もある。
私見だけど、多くの場合の自殺は、ある種の病死だと考えている。
経済的に追い詰められている人、精神的に追い詰められている人・・・
何の希望も見いだせず、絶望の淵に立たされている人・・・
虚しさの中で孤独な戦いを強いられている人・・・
それで精神を病んでしまう人・・・
全部が全部、コロナの影響ではないのだろうけど、それだけ、厳しい現実に直面している人が増えているということ。

ということは、コロナ禍がなければ死なずに済んだ人もいたのかもしれない。
そこに抱く感情は、
自分との戦いに負けた悔しさか・・・
自分との戦いに勝てない寂しさか・・・
自分との戦いを終える安堵か・・・
あくまで主観的な想像だけど、もっとも大きいのは諦念と方向違いの解放感。
すでに葛藤や迷いはなく、後悔や悲哀も過去のものにしているのだろうと思う。

しかし、事情はどうあれ、ほとんどの他人は「自殺」というものを嫌悪し批難し、また恐怖する。
ただ、私は、自殺というものを許容するわけではないながらも、自殺者を戦いの同志のように思っている。
だから、自殺者や自殺現場にも嫌悪感や恐怖感は湧いてこない。
湧いてくるのは同情を超えた労いの気持ちのみ。
もちろん、自殺という事象で悲しみのドン底に突き落とされる人や、大迷惑・大損害を被る人もいるわけで、批難されても仕方がない現実があることはイヤと言うほど目の当たりにしている。

それでも、それだけで片づけないでほしい。
うまく言えないけど、そこには苦悩の中にも必死に生きていた命がある。
「敵前逃亡」「戦線離脱」等、色々な見方がある中で、少なくとも不戦敗ではなかったこと・・・その“不戦敗ではない”というところに焦点を当ててほしい。
そして、その家族・友人・知人は、その人がこの地上に生きていたこと、精一杯 生きようとしていたことを自分が生きているかぎり忘れないでほしいと思う。
弔いの意味でも供養の意味でもなく、そのことを自分の戦いの武器にしてもらいたいと思う。


“K子さん”が「メンタルが強い」と褒めてくれたことがある。
どんな凄惨な現場も、果敢に?処理する姿を思い浮かべると、そう思えるらしい。
しかし、それとメンタルの強弱は無関係。
私にとって、この仕事は、「生きていくためにやらざるを得ないもの」「やらないと生きていけないもの」、だからやれているわけで、決してメンタルが強いからではない。
もっと言えば、メンタルが弱い人間だから故に たどり着いた仕事。
メンタルが強い人間は相応の根性があり、こつこつと努力ができて、ジッと忍耐ができて、思い切った挑戦ができる。
だから、もっと立派な仕事に就くことができる。
一方、メンタルが弱い人間は、小さいことでクヨクヨしてしまうし、ちょっとしたことにつまずいてしまう。
些細なことで悩んだり、気分を沈ませたりすることも日常茶飯事。
努力・忍耐・挑戦といったものとは縁がなく、で、こんな顛末・・・四苦八苦・七転八倒の人生を歩いている。

“生きる”って、本来、そんなに難しいことではないはず・・・
しかし、現実には難しく感じる・・・
でも、ここまで難しくしているのは自分なのかも・・・

私は、知らず知らずのうちに贅沢病、わがまま病、怠け病を患っている。
無意識のうちに、常に何かに不満を抱き、常に自己中心的な思考をし、常に楽することばかり考えている。
また、過剰に金を欲しがり、過剰に人の目を気にし、過剰に先のことを不安に思うようになっている。
特に欲しいモノがあるわけではないのに金銭欲だけは旺盛で、見た目も生き様も充分にカッコ悪いくせに開き直れず、いつまでも人の目を気にし、幸せな将来が待っているかもしれないのに悪い想像しかしない。
どういう生き方が正しい生き方なのか、どうすれば楽に生きられるのか、大方のところは本能的にわかっているのに、そこから変わることができない。
自分の愚かさに、自分の弱さに、自分の悪性に、易々と自分を乗っ取られてしまう。
そして、後味の悪い夜をやり過ごし、寝覚めが悪い朝を迎える。

「昨日の自分に今日は勝つ!」「今日に自分に明日は勝つ!」
そう決意しても、その志はそんなに長続きするものではない。
“自分”というものは、そこまで強くはない。
ただ、体力も脳力も落ちてきているとはいえ、無駄に歳はとっていない。
振り返ってみると、若い頃は負けが込んでいたような気がするけど、このところは善戦しているような気がする。
固有の“逃げ癖”も、いくらか弱くなっているような気がする。

しかし、“敵”が弱くなったのでも、“自分”が強くなったのでもない。
敗戦の苦渋から戦術を学び、勝戦のたびに武器を磨き・・・
敵の弱点がみえてきて、自分の強みがわかってきて・・・
「肉を切らせて骨を断つ」というか・・・
歴戦の中で、戦い方がうまくなってきたのではないかと思う。
あと、残りの人生が短くなっていることも影響していると思う。
「最期くらいは、きれいに生きたいな」って。


戦いの相手は、目の前の生活ではあるけど、真の相手は、その向こうにいる愚弱悪な自分。
この戦いは、生きているかぎり終わらない。
粘り強く戦うか、妥協して手をゆるめるか、諦めて人生を下っていくか・・・
どちらにしろ、中途半端なところで戦線を離脱するわけにはいかない。
負け癖に甘えてばかりでは、生きている甲斐がない。

人生、負けるときもあれば勝つときもある。
敗戦から学ぶ必要はあっても、それを引きずる必要はない。
勝敗は、自分次第で、その都度 リセットすればいい。
「ツラいなぁ・・・」「楽したいなぁ・・・」
そう思ったときこそ、いざ勝負。
「絶好のチャンスがきた!」と、闘志を燃やそう!
今はツラくとも、今は苦しくとも、それを乗り越えた先には、達成感、満足感、爽快感、そして、次への希望・・・そういったものが待っている。

日々、繰り広げられる自分との戦い・・・
生きていることの意味と喜びは、そういったところにも隠されているような気がするのである。


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緊急事態

2021-02-15 08:35:29 | その他
この状況では仕方がない・・・おおかたの予想どおり、緊急事態宣言の終了が一ヶ月延長された。
表面上の感染者数は減少傾向にあるものの、高齢者の感染者数や重症者数はそれにリンクしておらず、病床の逼迫具合も改善されていないのが理由らしい。
死亡者数も高止まりしており、延長はやむを得ないと思う。

まったく、「慣れ」というものは恐ろしい。
かつて、東京都一日の感染者数が500人を超えたときは、ビッグニュースとして衝撃的に受け止められた。
が、しかし、今では、500人くらいで驚く人はおらず、もはや「少ない」といった印象。
事実、不要不急の外出自粛が呼びかけられているけど、私が住む世界(昼の世界)では、あまりその変化は見受けられない。
仕事上、あちこちの商店街を通りかかることがあるけど、「緊急事態宣言下」といった雰囲気はない。
いいことなのか 悪いことなのか・・・ほとんどの商店街には、大勢の人が出歩いている。
パチンコ屋は朝から賑わっているし、ランチ時には狭い店も混み合っている。
特に、東京の人間は、もともと人ごみに慣れているせいか、“密”もあまり気にしていないように見える。
余計なおせっかいか・・・神経質な私なんかは、「もっと、人を警戒した方がいいんじゃない?」と思ってしまう。

かくいう私も、正直なところ、春のときよりは明らかに緊迫感がない。
しかし、私の場合は、もともと地味な性格で、金遣いも地味なら遊びも地味。
当然、暮らしぶりも地味なので、不要不急の用も少なく、普段の生活スタイルそのものが自粛生活みたいなものだから自制してるっぽく見えるだけ。
そんな中でも、テレワークできる仕事ではないので、毎日、仕事には出ている。
ただ、電車やバスは避けているうえ、マスクの着用、こまめな消毒はもちろん、できるだけ人と距離をあけるように心がけている。
作業でも密にならないよう気をつけ、飛沫が散らないように口数も減らしている(“減らず口”は多いけど)。
また、感染も重症化も恐いし、後遺症も侮ることはできないので、少しでも免疫力を高めておこうと、食事・運動・睡眠のバランスには気を使っている。

さてさて、この緊急事態、一体、いつまで続くのだろうか。
いつになったら“終わり”が見えてくるのだろうか。
一昨日の深夜には、世の中の不安につけこむかのように、大きな地震が起こったし・・・
その次には何が待っているのだろうか。
景気回復か、それとも第四波か。
少なくとも、東京オリンピックが待っているようには思えない。
図らずも、大会組織委員会のドタバタ劇は、それを後押ししているようで、“延期派”の私は冷めた視線で観劇している。



ある日の深夜、一本の電話が入った。
相手は中年の男性、かなり慌てている様子。
相談の内容は“特殊清掃”。
ただ、得意の(?)腐乱死体とかゴミ部屋とかではなく、対象は糞尿・・・男性自身がやらかした跡を始末する仕事だった。

男性は、人々で賑わう繁華街にいた。
仕事を終えた男性は、職場の仲間とそこで飲んでいた。
愉快で楽しい酒だったのだろう、結構な量を飲んだよう。
で、ひとしきり飲んで後、終電間際で宴はお開きに。
終電を逃すわけにはいかなかったので、時間には余裕をもって駅に向かって千鳥足を進めていた。

そのとき、身体に異変が!
楽しい酒に酔っていい気分だったのに・・・下腹部にイヤ~な圧迫感が・・・
そう・・・急に“大”をもよおしてきたのだ。
しかし、心配無用、駅には安息の地、トイレがある。
そして、駅までは数分の距離、そんなに遠いわけではないし、いつもの帰り道で道順もわかっている。
「落ち着け!このくらいの腹痛なら駅までは充分にもつ」と、男性は慌てそうになった自分を落ち着かせ、駅までの道を確実に進んだ。

しかし!、男性の大腸は、たった数分も待ってくれなかった。
酒を飲み過ぎたせいもあるのか、大腸の圧力は急上昇!
男性の立場も顧みず、ブツを放出しようと躍起に。
尻の穴に力を入れて抵抗する男性に対し、冷酷にも、大腸は膨張と収縮を過激に繰り返して攻め立ててきた。
もはや、数分の猶予もならない状態、大ピンチ!
悲しいかな、このパターン、攻防戦の結末はだいたい決まっている。
尻の穴が決壊するのは時間の問題となっていた。

「慌てるな!間に合う!間に合わせてみせる!」
自分を奮い立たせながら歩行スピードを上げるも、尻の穴を力ませたまま走ることまではできず。
圧力を増すばかりの大腸を前に、次第に男性は弱気に。
「間に合わないかも・・・」
事は、一刻を争う状態に。
「ウウ・・・もう、間に合わない・・・」
諦念した(悟りの境地に達した?)男性は、頭を切り替え、別の選択肢を思案。
そして、急いで周囲を見回し、身を隠せそうな場所を探した。

不幸中の幸い、時刻は深夜。
多くが店じまいする時間帯で、ほとんどの店が暖簾をおろし始めていた。
周辺に人影は少なく、街灯の明かりもまばらで、あちこちに暗闇を発見。
男性は、営業を終えた とある店舗の脇に、人目につかない隙間をみつけ、素早くそこへ身体を滑り込ませた。
そして、せわしなくズボンとパンツを下し、ブリブリブリッ!・・・
・・・クサ~い空気を吸い込みながら、ホッと一息ついたのだった。

しかし、一息ついたのも束の間、その直後、災難は再びやってきた。
不審な物音をききつけた店員が店から出てきたのだ。
そこには、ズボンを下してしゃがみ込んでいる男・・・
周囲には、不穏かつクサい空気が漂い・・・
暗闇に潜む不審者を発見した店員は、
「オイ!そこで何やってんだ!?」
と男性に向かって大声を上げ、一か所しかない通路に立ちふさがって威嚇した。
一方の男性が、
「ウ・・・ウンコしてるんです・・・」
と言ったかどうか定かではないが、どんなに弁が立ったとしても、この状況は言い逃れようがない。
男性は、潔く?観念。
ズボンを上げる前に白旗を上げたのだった。

冷静になって考えれば、新聞を敷くとかレジ袋を使うとか、何かしらの対処ができたはず。
そこまでの余裕がなかったとはいえ、男性は、何の措置も講じず用を足したわけで、はなから“垂れ逃げ”するつもりだったことは明白。
誰にも見つからなければ、そのまま知らんぷりして立ち去るつもりだったのだろう。
さすがに、それは悪質。
不法侵入?器物破損?営業妨害?、多分、何らかの犯罪になるはずで、弁解の余地はない。

しかし、尻丸出しの状態で店員に見つかった男性は、相当にパニックったことだろう。
怒鳴る店員を前に慌てふためき、尻を拭くことも忘れてズボンを上げたかも(訊きたいのは山々だっだけど、仕事に関係ないから、そこのところは詳しく訊いてない)。
店員だって、男が脱糞している姿なんて、見たくないものを見せられて、気持ちが悪かっただろう。
同時に、怒りが込み上げてきたに違いない。
男性が店員にコテンパンに叱られたのは、想像に難くなかった。

翌日の朝一、私は、あまりに滑稽なものだから、遊びに出かけるような気分で現場に出向いた。
着くと、現場には店長らしき人物と依頼者の男性がいた。
結局、男性は、そのまま帰宅できず。
夜通しで、掃除をやらされたのだろう、心身共に疲れ切った様子。
罪悪感・羞恥心・徹夜・二日酔・・・悲愴感を漂わせる男性が、やや気の毒に思えたけど、これは自分で撒いた種。
緊急事態だったとはいえ、脱糞逃亡しようとしたツケが回ってきただけで、同情の余地はあるような ないような・・・とにかく、私は、どうしてもニヤけてしまう顔を隠しながら糞跡を消毒するのみだった。



また、違う日、とある会社から特殊清掃に関する相談が入った。
対象は会社の車。
内容は糞尿。
「車の糞尿汚染?」
私は、すぐには状況が呑み込めず、詳しく話を訊いた。

ある日、男性社員二人が、社用車で外出。
そして、走行中に一方の男性が“大”をもよおしてきてしまった。
しかも、通常の便意ではなく、腹痛をともなう緊急の便意。
しかし、そこは高速道路。
おまけに、大渋滞にハマって超ノロノロ、PAなんて何十キロも先。
そうは言っても、車を降りて路肩で尻を出すわけにもいかない。
(それはそれで、渋滞で退屈していたドライバー達に超ウケだと思うけど)
そうこうしているうちにも、大腸は残酷な蠕動運動をやめず。
腹の痛みも酷くなってきて、限界が近づいてきたことを悟った男性は「もう、我慢できない!」と同僚に告げたかと思うと、おもむろに助手席から後部座席へ移動。
そして、「ま!まさか!?」と思った同僚の予想通り、男性は、ズボンのベルトを外しはじめた。
それは、尻の穴ばかりか、羞恥心までもが大腸の圧力に屈してしまう瞬間だった・・・
「やめろ!やめろーっ!!」と、同僚が制止するのもきかず、シートの下にしゃがみ込み、そのままブリブリブリッ!・・・
で、その後の車が悲惨なことになり、同情していた同僚が悲惨な目に遭ったのはいうまでもない。

自分がやらかしたことの恥ずかしさに耐えられなかったのだろう、その後、数日、「体調不良」ということで、本人は休暇をとった。
そして、わざわざ病院に行って、指示もないのに会社に診断書まで提出したそう。
車中脱糞を病気のせいにして、周囲に不可抗力だったことを理解してもらい、更に同情を誘おうとしたのだろう。
それで、少しは罪悪感や羞恥心を紛らわすことができたかもしれなかったけど、残念ながら、その浅知恵は会社もお見通しで、気の毒にも本人の意図は空振りとなっていた。

問題の車は、社屋の敷地内にある駐車場にあった。
上司や同僚達・・・仕事をそっちのけで野次馬が集まること集まること。
しかも、皆が、ニヤニヤ クスクスと笑っている。
そのうち、上司らしき人がでてきて、
「“固形物”は自分で始末させましたから」
「費用は、私が責任をもって本人に払わせますから」
と、これまた、笑いたいのをこらえるようなニヤケ顔で作業を依頼してきた。

そんな余裕もなかったのだろう、本人は、ビニールとか何も敷かず、ダイレクトに脱糞。
コゲ茶色の変色と濡れた痕・・・
ニオイからしても、それは明らかに糞尿汚れ・・・
汚れは、後部座席の足を置くスペースを中心にシートにまで付着。
限られたスペースの中でズボンを脱いで用を足すわけだから、あちこち汚れてしまうのはやむを得ない。
そうは言っても、当然、特別のチューニングでもしないかぎり、フツーの車は便器仕様にはなっていない(“便器仕様のチューニング”なんて聞いたことないけど)。
内装は布地が多く、染み込んだ汚れを完全に除去するのは困難。
掃除するより内装材を張り替えたり、シートを交換したりする方がはやい。
私は、
「やるだけのことはやりますけど、見た目はあまり変わらないと思いますよ・・・」
と上司に伝えて、一通りの作業をやった。

「それにしても、随分と思い切ったことしたなぁ・・・」
「しかし、そうするしか方法がないか・・・」
「そのままパンツの中に漏らした方がマシだったんじゃないか?」
「いや・・・やっぱり、パンツの中はマズいか・・・」
「ん~・・・車の中orパンツの中、究極の選択だな・・・」
私は、頭のヒマつぶしで、作業をしながら“自分だったらどうするだろう”と考えてみた。
が、やはり、この二者択一で結論を出すのは困難。
で、深酒すると腹を下しやすい(肝臓が弱っているとそうなりやすいらしい)私は、「酒はほどほどが自分のため!」というところに着地し、それで、くだらないことを考えるのをやめた。

休暇を終えた本人がどんな顔で出社してくるのか、また、他の社員がどんな態度で迎えるのか、興味深いものがあった。
どちらにしろ、その車は、会社にとって、誰もが敬遠する“伝説の名車”となり、本人は“伝説のウ○コ男”となり、笑いのネタになったことは間違いない。
そして、車の中で“野グソ”をした男として社史に残るかもしれない。
ただ、“災い転じて福となす”こともある。
車はダメになってしまったけど、一時でも、会社には笑いがあふれ、くだらなくもハッピーな雰囲気に包まれたかもしれない。
その後の本人の動向は知る由もなかったが、羞恥心に負けて転職したりせず、笑いもとれる“恥ずかしいヒーロー”として会社で活躍していてほしいものである。


当人達のことを思うと、笑ってばかりではいけないのだけど、このところ しばらく心が深刻だったので、“明るく、元気よく”をモットーに、バカバカしい記事を書いてみたくなった次第。
それにしても、こんなくだらないネタで、くだらない内容の記事がこんなに長く書けるとは・・・普段の私がくだらないことばかり考えている証拠か?
でも、「くだらない」って悪いことばかりではない。
人生、「無意味なことに意味がある」「無意味だから楽しい」ってことも多い。
どんな時も悪事はよろしくないけど、たまには、くだらないことをしたり、くだらないことを考えたりしてバカ笑いすると人生は楽しくなる。


人生の緊急事態にあるK子さんとは、2月9日0:29に たった八文字の打ちかけたメールが送られてきて以降、連絡が途絶えている。
体調は1月28日から急激に悪化したものの、2月4日には復調の兆しもでてきた。
しかし、以前のようにまで戻ることはなく、8日から再び悪くなり、今日に至っている。
本人も私も、ある程度は予想していたことだけど、ひょっとしたら、もう、この記事も読めなくなっているかもしれない・・・

ただ・・・かすかな望みをつないで、
「特掃隊長のバカっぷりをみて、“クスリ”とでも笑ってくれればいいな・・・」
・・・そんな風に想っているのである。


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