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特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

暖【トラックバック】

2025-03-13 06:26:23 | その他
朝夕の通勤電車に乗ると思うことがある。
みんな、疲れているように見える。
ひょっとして、疲れを通り越して病んでいるのかも。
特に、休み明けの月曜日にはブルーになる人が多いのではないだろうか。
電車への飛び込みも、月曜が一番多いらしいし。
そう考えると、正月休暇の後の仕事も、かなりキツそうだね。
年末年始休暇がない私は、その点では救われてるかも。


自殺・引きこもり・過労死etc
この社会には心を病んでいる人が多そうだ。
そう言う私も、その中の一人であることを自覚している。
自殺や引きこもりが当たり前になっている社会に寒々しさを感じるているのは私だけではないだろう。


時折、過労死のネタがニュースに取り上げられる。
労災認定がおりたとか、裁判で勝ったとか。
労災が適用されようが裁判で勝とうが、本人が死んでしまっていては後の祭だ。
社会的な意義が残るのかもかもしれないけど。


「人生って一回きりなんだなぁ」としみじみ思うことがある。
二度ない人生なら悔いのないように生きていきたい。
しかし、現実には悔いだらけ。
悔いのない人生を私は既に諦めているけど、それでもわずかな抵抗を持っている。


今現在、私の両親は健在。
ただ、私とはかなり疎遠。
以前は、2~3年も音信不通だったことが何度かある。
かつては、「もう、生きているうちに会うことがなくてもいいや」とさえ思っていた。
今でも、年に一度、顔を合わせるか合わせないかの付き合いでしかない。
そんな冷え切った関係だ。


これは、つい何年か前の自分の誕生日のこと。
仕事を通じて独自の死生感が養われている私は、あることに気づいた。
「過去に何があったとしても、どんな関係だろうと、どんな感情を持っていようと、親が産んで育ててくれたから、今の自分が生きていられるんだよな」
自分が歳を重ねるにあたってそう思った私は、自分の誕生日に親に電話をかけた。
そして、一方的に話した。


「産んでくれてありがとう」
「育ててくれてありがとう」
「お互い生きているうちに、これだけは言っておきたくて・・・」
私は、そう言って短い電話を切った。
考えようによってはくさいセリフなのに、不思議と照れ臭さはなく、真剣に伝えることができた。


ただの自己満足に過ぎないかもしれないけど、心の荷が軽くなったような気がした。
そして、気持ちが暖かくなった。
ズルズル引きずっていたたくさんの悔いのうちの、重い一つが消えた瞬間だった。


今でも親密な親子関係とは言えないけど、「あの時、生の感謝を伝えられてよかった」と、ずっと思っている。
特掃魂を育んでいくと、金には恵まれなくてもそんな恩恵に与れることがあるんだよね。


話はガラリと変わる。
私は、腐乱死体現場の清掃片付けを「特殊清掃」と称している。
それを略して「特掃」と言っている次第。
全くのオリジナル造語だ。
造語は他にもある。
「腐敗液」「腐敗脂」「腐敗粘度」「汚宝」「デスワーク」「未確認歩行物体」etc
その最たるものは、やはり「汚腐団」「汚妖服」「汚腐呂」だろうか。
それらを造語と知らないで、辞書で調べた人も何人かいたらしい。
それでも意味が判明せず、過去ブログに遡る。
失礼ながら、その様はちょっとオカシイ。


ブログの色合いも暗い。
さすがに腐乱臭まではしないまでも、陰気臭さは否めない。
寒々しくもある。
黒地に青文字だからねぇ。
これは、管理人が選定したものだけど、特掃に妙にマッチしていると思っている。
ただ、こんな画面でこんなネタばかり読んでちゃ、ますます気分はブルーになる?


また、私のブログは恐ろしく地味。野暮野暮。
画面上に動くモノはおろか絵文字もない。
その逆に、誤字脱字はある。
デジタルなのに、すごくアナログっぽい。
これも趣があっていい?


二重人格?一人二役?と勘違いされやすいみたいなので、あらためて案内しておく。
私と管理人は全くの別人であり、全くの分業で本ブログを運営している。
管理人とは、私が死体業を初めて一年後くらいから一緒に仕事をしているので、もう十何年の付き合いになる。
これも一種の腐れ縁だろうか。


そんな本ブログも初めての年越しを迎える。
過ぎる年の終わりも、新しい年の始まりも、ブルーなスタンスを変えようがない。
だだ、それを通じて人の暖を分けてもらいたいと思っている。
そして、いつかは人に暖を分け与えられるくらいの人間になりたいとも思っている。

今年は暖冬と言われているけど、みんなもっと心に暖をとった方がいいね。


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2006-12-28 14:48:16
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憂鬱【トラックバック】

2025-03-10 06:19:13 | その他
あー、憂鬱だ。
私にとって、年末年始は一年を通じて最も憂鬱な時期かもしれない。
クリスマス・正月、この時期の世間は華やかなお祭ムードが続く。
何がめでたいのかハッキリ分からないまま、お祝いムードが続く。


都内をよく走る私は、お洒落にライトアップされたホテルや町並みを毎日のように目にしているのだが、それがやたらと眩しく見える。
こっちは、汚れて臭い身体で汚れて臭い荷物と一緒にドライブしているわけで・・・「俺には縁のない世界だな」と、何とも言えない溜息ばかりをついている。
今更、寂しいわけでもないし、惨めなわけでもない。
でも、何となく気分はブルー。


今はこんなでも、子供の頃は冬休みが大好きだった。
自分にとって、特に何があるわけでもないのに、世の中がHappy一色の雰囲気になるのが好きだった。


では、いつ頃から年末年始を憂鬱に思うようになったのだろうか。
多分、それは死体業を始めてからだ。
年柄年中、人の不幸に関わっているこの仕事には、お祝いムードは合わない。
年柄年中、「御愁傷様です」と頭を下げ、辛気臭い面持ちで仕事をこなす私は、お祭りムードを持ちようがない。


仕事とプライベートをクッキリと区別すればいいのかもしれないけど、現実は、なかなかそうもいかない。
プライベートが仕事に侵されたり、またその逆だったりと。
まぁ、私の場合はプライベートが仕事に侵されていることがほとんどだ。


その典型が休日数にある。
一般企業だと、年間休日数は110日~120日くらいだろうか。違う?
私の場合は、それを大きく下回る。


これは、20代後半の頃の話だけど、一年間の休日が28日だった年もある。
ある年の暮れ、「今年はよく働いたなぁ」と思いながら、スケジュール帳を遡ってみたことがあった。
すると、当年に取った休暇数が28日だったのである。
「たった28日?ひと月に2日余か・・・」
その数を知って、我ながら驚いたものだった。
若くて心身が軽かったからできたのだろう。


しかし、今年も、春ぐらいからそれに近いペースで仕事をしている。
さすがに、この歳になると結構疲れる。


夏の盛りに、現場アパートの階段の昇降を繰り返したときは、水をかぶったような汗がでてブッ倒れそうになった。
階段下の日蔭にうずくまった私は、地面に落ちる汗に色々なことを思ったものだった。
「これも俺の宿命だ!修業!修業!」
そう言う今も、バカの一つ覚えのように「疲れた」「疲れがとれない」と愚痴ってばかりの日々だ。


そんな死体業には、年末年始も休みはない。
人が死ぬのに、クリスマスや正月は関係ない・・・はずたからね。


余談だが・・・
「病院の延命措置と世間の大型連休は相関している」といったブラックな噂はよく聞く。
「病院職員が休暇を取るために、患者の死期が作為的に操作されている」というものだ。
ただ、噂は噂でしかなく、その実態は定かではないが。


私も死体業のはしくれ。
死人相手の仕事をやってて、年間計画が立てられるわけはない。
計画が立てられないところに、死体業の面白さがあるとも言えるかも。
何はともあれ、年末年始に長期休暇を取るなんて、夢のまた夢だ。


この点では、各種サービス業や交通機関などで働く人達も同じような境遇だろう。
ただ、私は代休もとれないうえに、やってる仕事がコレだから、なかなか明るい気持ちになれない。
片や、年末年始の世間は自分の心情とは真逆をいっている。
そのギャップが大き過ぎて、自分ではその溝を埋めることができないから憂鬱になるのだ。


そんな年の瀬。
ほとんどの人がHappyに過ごしていることだろう。
そんな中でも、私のブログだけは相変わらずドヨヨ~ンとしている。
新しい年に希望を持って、たまには楽しいネタを書いてみたいもんだ。



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2006-12-26 22:29:57
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ピエロ【トラックバック】

2025-02-27 07:59:18 | その他
「特掃隊長」こと私は、今までのブログから人付き合いが苦手(下手)な、暗いヤツだという印象を持たれているかもしれない。
実のところ、肯定も否定もできない。
孤独を愛するわりには、結構淋しがり屋なのである。


社会生活を無難に過ごしていくためには、人間関係を円滑に運んでいくことが大事(必要)とされる。
それにはまずコミュニケーションが大事(必要)。
しかし、ただのコミュニケーションではダメ。
本音風の建前と社交辞令、協調風の迎合と妥協がポイント。
本音・本心が通用する範囲がどれだけ狭いものか、理解してもらえる相手がどれだけ少ないかは、私が言うまでもないことだろう。
ひょっとしたら、それらは皆無かもしれない。


私は、人間関係のほとんどは、利己的な打算にもとづいた利害関係でしかないように思う。
そんな中で、数少ない真実じみた関係を探しだし、それを信頼関係だと錯覚しているに過ぎないのではないだろうか。
私が、ひねくれ過ぎ?


世間の人を大きく三つに分けると、好きな人と嫌いな人、好きでも嫌いでもない人に分かれる。
「嫌いな人」と言うと極端かもしれないが、肌が合わない人・ウマが合わない人・感性や価値観が著しく違う人・そのキャラが苦手な人を含んでの「嫌いな人」である。
また、「好きでも嫌いでもない人」というのは、関係の薄い人を指す。
好きとか嫌いとかを判断できるまでの付き合いや関わりがない人だ。
そうすると、身の回りには「好きな人」がわりと少ないことに気づく。


小心者の私は、好印象を持ってもらいたくて、誰に対しても愛想笑い(つくり笑顔)をしようとする。
ただ、それは本心からでる笑顔じゃないもんだから、上手くできない上にどことなく不自然なものである。


世の中には、すごく上手にピエロを演じることができる人がいる。
決して、皮肉っているわけではない。
その器用さやたくましさに、人間社会を生き抜くある種の生命力さえ感じるのだ。
動物にはできない技だ。


死人相手の商売だって、上手にピエロを演じることが必要なことが多い。
仕事上、依頼者には好印象を持ってもらった方がいいし、少しでも誠実そうに見えた方がいい。
そのために、できる限りの背伸びする私。
でも、腐乱現場に一歩足を踏み入れた途端に上げていた踵が下がる。
「こりゃヒドイですねぇ」って。


また、特掃の現場に入るとピエロなんて入り込む隙間(余裕)はない。
追いつめられた状態での作業にピエロを存在させる意味もない。
裸にされた自分自身だけが冷汗と脂汗をかきながら、時には涙を流しながら格闘する。
そんな状況の中では、真の自分・自分の真が露になる。
そこには、くじけそうになる自分がいる。へこたれそうになる自分がいる。逃げたくなる自分がいる。


恥ずかしながら告白しよう。
私は、一人の現場で泣くことがある。
「心が泣く」等といった比喩的・抽象的なことではなくて、涙を本当に泣くのだ。
もちろん、故人の死に様や遺族を哀んで泣くのではない。
それどころか、汚した故人や依頼してきた遺族を愚弄(逆ギレ)するような気持ちがでることさえある。
では、何に泣くのか・・・自分の置かれた状況を悲観して泣くのだ。
その惨めさ、空虚さ、過酷さに泣くのだ。
私は、その程度の人間。


依頼者に見せる私の姿は、下手ながらも一生懸命に演じているピエロ。


ピエロの化粧には涙の滴が描かれるが、それには深い意味があるのだろう。
その意味が、私なりに分かるような気がする。


そんな特掃ピエロは、今日も生きている。




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2006-12-18 21:44:31
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お部屋を汚してお困りの方は



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さらば【トラックバック】

2025-01-17 05:28:22 | その他
つい先日、特掃用に履いていた靴を捨てた。
9月10日のブログに登場させたアノ靴だ。
なかなか捨てることができなかった靴を、やっと捨てたわけだ。
ブログに登場させたアノ時点でも既に末期状態だったんだけど、あれから二ヶ月余も健闘してくれた・・・て言うか、強引に履き続けた。


思えば、約半年の付き合いだった。
「半年」と言っても、夏場の半年と冬場の半年では、その中身は全然違う。
夏場の半年は、ハンパな汚れ方では済まない。


この半年の間、この靴は何十人もの人間の腐敗液と、何百(千?万?)匹ものウジを踏んできた。
汚れは靴底には限らない。
上にも側にも、何十人もの腐敗液がタップリ浸み込んでいる。
そんなことを考えると、「我ながら、よくもまぁ・・・」という気分になって苦笑した。


靴に情みたいなものが芽生えてきて、何となく神妙な気持ちになった私は、ある考えが浮かんだ。
「随分と世話になったから、最後はきれいに洗ってやろうかな」


私は、ちょっと善人になったような気分に満足しながら、靴を手に取った。
そして、臭いを確認するために鼻を近づけた。


「グハッ!くせーっ!」
ノーガードの私に、生々しい刺激臭が直撃してきた。
直近の特掃業務から放っておいたせいで、靴に腐敗粘土・腐敗液が着いたままになっていたのだ。


「チッ!しくじった!」
靴に対しての情は、腐敗汚物の力で一気に吹き飛ばされた。
洗ってやるどころが、私はそそくさと靴をゴミ袋に投げ込んだ。
そして、袋の口をきつく縛った。


それにしても、腐乱現場で嗅ぐ腐敗臭と別の場所で嗅ぐ腐敗臭は、似て非なるもの。
腐敗臭は、シャバで嗅いじゃイカンね。


余談だが・・・
せっかくなんで(?)、管理人にも靴の臭いを嗅がせてやろうかと思ったら、「いい!いい!いい!」と速攻で断られた。
当然か・・・。


新しい靴はいつまで履くことになるだろうか。
今は晩秋、これからの時季は特掃の閉閑期になるので、寿命は長めになるだろう。
多分、来年の初夏ぐらいまでは付き合えるのではないかと思う。


自分の回りを見渡せば、私が生きている世界は物が豊富だ。
日本は物質的には満たされている。
特掃現場からでる廃棄物のほとんどは、まだ使えそうな物ばかり。
(ま、物理的には使えても、精神的には使えない物ばかりだけどね。)
そんな物をどんどん処分してしまうのは、だいぶ抵抗がある。
やはり物は大切にした方がいいと思う。


でも、今回別れた特掃靴はちゃんと役割を果たしてくれた。
充分に使いきった。
「さらば、特掃靴」


「さらば」と言えば・・・
10月13日の掲載で、本ブログを終了することを示唆したが、ちょっと考え直した。
書き込み・コメントに影響を受けたせいもあるが、更新頻度を落としながらも、今しばらく続行していこうと思う。


私は、モノ凄く狭い世界で生きているので、色んな人の価値観や考えに触れることができる書き込み・コメントには格別の新鮮さを覚えている。
人間(自分)を作るうえでの材料になっているような気もする。


狭い世界でしか動いていないと、自然と、都合の悪いことは他(人)のせいにして独善的になってしまいやすい。
書き込み・コメントによって、それを修正できるような気もする。


と言うわけで、本ブログの方は今しばらく続けていこうと思うので、これからもヨロシク。



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2006-11-19 09:04:07
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愚か者【トラックバック】

2024-12-24 12:21:52 | その他
そもそもこのブログは、管理人に促されて書き始めたものであり、自発的に始めたものではなかった。
そして、もともとインターネット関係のことはかなり疎い私なので、書き始める前は「ブログって何?」って言うレベルで、興味もなかった。
そのレベルは、今でもほとんど変わりない。


したがって、私はインターネットを直接的に利用することもほとんどない。
たまに開くのも、余程の調べ物がある時くらいだ。
そんな私は、当然、ネットサーフィンなんてやったこともないし、その面白さも知らない。
インターネットって、使いこなすと便利で面白いものなのだろうが、一度ハマってしまうとそれに費やす時間の収拾がつかなそうだ。
だから、私は深入りしないでいる。


ちなみに、私はテレビもほとんど見ない。
だから、流行りのテレビ番組やCM、売れてるタレントもほとんど知らない。
だから、飲み会などでの世間話についていけないこともある。
つい先日も、某有名タレントを知らなくて驚かれた(呆れられた)ことがある。
時代に取り残されている感も否めないが、そんな生活でも特段の支障がある訳ではないので、自分では「よし」としている。


このブログも読んでくれる人が増えて、一時期は「人気ブログ」と称されたこともあったらしい。
それはそれで、単純に嬉しかったのだが、問題もあった。


「人気ブログ?=俺は人気者?=影響力がある?=力がある?=俺は強い?=俺は偉い(立派)?=俺は人格者?」


無意識のうちに、こんな勘違いをしているような気がしないでもなかった。
だから、自分の無力さを痛感したときに落ち込むのだ。
普段から謙虚な姿勢でいれば、自分の無能さや無力さを自然に受け入れることができているはずなのに、ちょっと読者が増えただけで「人格者気取り」で傲慢になっていた(かもしれない)自分がいる。


「自分には力がある」
こんな勘違いをするような愚か者にはなりたくないと思いながら、シッカリと愚か者になっている私である。


書き込み・コメントは「感謝」の一言に尽きるm(__)m←(初めての絵文字!画期的?)
懸案の「死にたい」コメントをもらうことだって、私の理解を超越したところに、何らかの意義があるのかもしれないし。


承知の通り、書き込みは非公開にしているが、私にとっては、その一つ一つが貴重な糧だ。
年齢・性別・仕事・環境etcは全然違うけど、みんなが「戦う男達」「戦う女達」だね。
勝手に、「戦友」だと思わせてもらおう。


書き込まれる内容は、管理人と二人だけで読むのはもったいないくらい。
でも、公開したらまた荒れそうだし、非公開だから書き込んでくれる人もいそうなので、このままのスタンスを維持するつもり。
一部のコメントを選別して公開するのも、不公平と言うか男らしくないような気がするしね。


悲観的な言い方かもしれないけど、所詮、私は死体屋だ。
良くも悪くも、それ以上でもそれ以下でもない(具体的に、それ以下を思いつかない・・・死体屋以下ってある?)。


クヨクヨしたって仕方がない。
自分の器をわきまえて、できるだけ楽にやっていこうと思う。



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2006-11-05 09:12:28
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野次馬【トラックバック】

2024-12-16 05:52:27 | その他
人は誰しも好奇心を持っていると思う。
特に理由もないのに「知りたい」と思う気持ちだ。
それは、有意義に働くこともあれば無意味な行動をとらせることもある。


その両者は五分五分ではない。
自分の経験で言うと、残念ながらそのほとんどは無意味な方に働いている。
自分にとって関わりのない知識や、自分に影響を及ぼさない(自分が影響を及ぼせない)情報を得るために、いかに多くの時間を費やし、多くの手間をかけているか。


好奇心を持ち見識を広げることは大事だが、無闇やたらの好奇心や度を越した好奇心は、時間(人生)を無駄にするだけではないかと、自分の中で危機感を持っている。


有名人のゴシップを笑うヒマがあったら、自分を省みた方がいい。
大企業の株価を気にするヒマがあったら、秋刀魚の値段でも観察した方がいい。
政府の政策を憂うくらいなら、自分ができることを考えた方がいい。
流行に追われるくらいなら、流行から外れた方がいい。


自分が知っていても知らなくても現実に影響しないことは世の中にたくさんある。
なのに、そんな情報・知識を得るために膨大な時間・労力を費やしている。
持っている知識・情報の量で人間の能力(価値)を計るような風潮がある。


自分が本当に知っておかなければならないこと、真に覚えておかなければならないことが蔑ろにされているような気がする。


自分にとって大事(本当に必要)な知識・情報が何であるかを整理するだけで、随分と時間(人生)の無駄が省けるのではないだろうか。
得ようとする知識・情報の優先順位を考えながら、それらを選別していきたいものだ。


車で道路を走っていると、「事故渋滞」に遭遇することがある。
走行車線が規制されたりすれば渋滞が発生するのは当然。
しかし、走行車線が規制されない反対車線まで渋滞することがある。
いわゆる「見物渋滞」だ。


みんな、それなりに急いでいるはずなのに事故現場にさしかかると見物のために徐行する。
そんな渋滞にハマるとイライラしてくる。
「野次馬根性だしてないで、さっさと行けよ!」
かく言う私が事故現場にさしかかると、ブレーキを踏みながら、
「どれどれ、事故の具合いはどんなかな?」
と、しっかり野次馬の一員になっている始末。
大きな事故だと、
「こりゃ、人が死んだな」
と、軽く(冷たく)走り去る。


遺体がらみの現場には、野次馬が集まりやすい。
もちろん、黒山のハエ・・・もとい、黒山の人だかりができる程ではないものの、チラホラと人が寄ってくる。


私の作業を、ただただ遠目に眺めているだけの人もいれば、話し掛けてくる人もいる。
また、話し掛けてくる人の中には、事情を知らずに尋ねてくる人と事情を知っているのにそれ以上のことを聞き出そうとしてカマをかけてくる人がいる。


関係者以外の人に対しては、「故人や遺族のプライバシーも守られるべき」と考えるが私は、「詳しいことは知らない」ととぼけるのが常。
ただ、腐乱臭がプンプンする特掃現場で、
「ここで人が死んだんですか?」
と尋ねられて
「詳しいことは知りません」
と応えると
「こいつ、アホか?」
みたいな顔をされる。


関係者のフリをして近づいてくる筋金入りの野次馬もいる。
例えば、遺族・不動産会社・大家の関係者を自称したりして。
そんな人は、「死体」とか「腐乱現場」に対する好奇心が抑えきれないのだろう。
または、噂話や陰口が大好きな地域の「情報通」か(こんな人はどこの地域にいるんだよね)。


そんな人は直感的に「怪しい」と感じる。
こんなケースでは、野次馬に悪意すら感じることが多いので、私は無視することにしている。


そんな猥雑な日々の中、昨夜、今秋初めて焼イモ屋の車を見かけた。
なんだか、ホッとするような幸せを感じた。


芋は、馬も好きだしね。



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2006-10-21 12:54:21
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死体市場

2024-11-12 06:07:27 | その他
東京で最も有名な市場は、築地の魚市場だろう。
テレビの食べ物番組でも、よく放映されている。

私は、中には入ったことはないけど、たまに市場前の通りを車で走る。
朝早くから、たくさんの人が働き、たくさんの車が出入りしている。
そして、場外には、おいしそうな店が軒を連ねている。


機会があったら立ち寄って、食してみたいものだ・・・
あ!ここに行けば、美味しいウニ丼があるかもね。

食べ物を扱っているせいもあるのだろうが、活気あふれる魚市場からは人が生きるエネルギーを感じる。


身内や知人の葬式で、一度くらいは火葬場に行ったことがある人は多いと思う。
仕事柄、私は首都圏の火葬場は一通り行っている。

火葬場には色々な施設がある中で、私が縁のある部屋はやはり霊安室。
霊安室には、柩に納まった状態の遺体が、保管されている。
また、納棺作業をその場で行うことがある。


死亡者数が少ない時期は、霊安室もガラガラ。
多い時期は、保冷庫も満杯になり、棚や床に柩が並べられる。
場所によっては、歩くスペースもなくなるようは所もある。
ある種、壮観な光景でもある。


霊安室だからと言っても、特に暗い雰囲気はない。
絶えず保冷庫と空調の動く音がしているような、機械的な所。
無機質な構造に冷たさはあるものの、精神的に受ける悲壮感はない。
あくまで仕事場。


人は一年を通して平均的に亡くなっていくのではなく、季節ごとに大きな波があり、日ごとに小さな波がある。
亡くなる人が増えるのは冬場。
気温や気圧が影響するのだろうか、冬は葬儀業界が活気づく季節だ。


忙しい時期の火葬場には、魚市場のような活気がある。
一口に葬式と言っても、それは多種多様な仕事で構成されており、それぞれの専門業者・専門部署に分業されている。
したがって、一つの葬式も実に多くの人の働きがあって成り立っているのである。


都市部の火葬場では、毎日何人もの人が焼かれる。
当然のことだが、葬式の裏方は辛気臭い雰囲気で仕事はしない。
葬式がたくさんでる時期に火葬場が活気づくのも自然なこと。


忙しく立ち働く多くの人、激しく出入りする車、遺体や柩があちこちに運ばれていく様・・・
死人は異なれど、いつもと変わらない手際よさで葬式の準備が整えられていく・・・
そんな光景を見ていると生きていることのエネルギーを感じる。


死人を送る仕事によって生きる糧を得る。
(糧とは、金銭のみを指さず。)


不謹慎な言い方かもしれないが、そこは魚市場ならぬ死体市場。
死者を送る仕事に関わっている私自身も、いつかはこういう所で灰にされる。
それは、逃れられない現実。


「俺も、いつかは死ぬんだなぁ・・・」
自分の死は、にわかに信じ難いことでもある。


何度も同じようなことを書いてしまうが、生きていることって、ホントに不思議なことだ。


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2006-09-22 14:21:33
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死に場所

2024-09-08 07:33:57 | その他
自分の死については、色々と興味がある。
その中で最も気になるは、やはりその時期。
今の私は、「元気で長生きしたい」と思っている。
過去には、そう思わなかったこともある。
勝手なものだ。

次に気になるのは、その場所。
可能性として高いのは、やはり病院。
健康を取り戻し、生命を永らえることが本来の目的(役割)である病院が、皮肉なことに、多くの人の死に場所となる。
死を前にすると、いかに人が無力であるかを物語っている。
まぁ、仕方のないことだろうが、病院を自分の死に場所とするのは、何となくさえない感じがする。

「だったら、どこがいいのか?」ときかれても答えに困るし、残念ながら答を用意しておいたところでそれは何の役にも立たないだろう。

特掃現場には、風呂・トイレ・寝室が多い。
その場所でコト切れる人が多ということ。

風呂で死ぬ場合、浴槽の中に入ったままの状態が多い。
更に、追焚き機能が動いたままで煮えていたであろうケースも少なくない。
入浴の際は、むやみに高温の湯に肩までドップリつかるのは避けたいところだ。
また、飲酒後の入浴も。
やはり、低めの湯温での半身浴がおすすめ。

トイレで死ぬ場合は、便器の汚染具合から想像して、用を足している最中が多いと思う。定かではないが。
ふんばる時、歯を食い縛ると血管が切れやすいらしい。
なかなか力を入れにくいかもしれないが、口を開けて用を足した方が安全だと聞いたことがある(ガセだったらゴメン)。
口を開けておくことによって、力み過ぎを防ぐことができるとのこと。

布団で死ぬ場合は、やはり寝ている時が多いと思う。
ん?
これって結構ベターな死に場所?
腐乱してしまうと色んな人に迷惑をかけてしまうけど、本人にとっては悪くないことかも。

人生の最後を自宅の布団で迎えるなんて、理想かもしれない。

死に場所は自分で選べない。
「俺はどこで死ぬことになるんだろうなぁ」
どこであろうと、穏やかな死を迎えたいものだ。


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2006-08-31 09:53:53投稿分より

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ルービックキューブ

2024-08-08 04:43:32 | その他
今の若い人達は知らないだろうか、ルービックキューブを。
流行ったのはいつ頃だったか・・・ハッキリは憶えてないけど、私と同世代、またはそれ以上の年代の人には知っている人が多いと思う。

私の友達には、短時間で6面を合わせる頭脳派もいれば、時間はかかるが諦めないでやる努力家もいた。
ちなみ、私は頭脳派でもなければ努力家でもないので、恥をかくだけの無用なチャレンジはしなかった(こういうとこがダメなんだよね)。

故人は初老の男性。
脳神経系の病気を長く患っていたらしい。
故人は、病気の進行具合を自分で把握するために、ルービックキューブを解くことを日課にしていた。
家族や看護師に適当にシャッフルしてもらい、6面合わせられるまでの時間を毎日測っていた。
次第に時間はかかるようになってきたものの意識はハッキリしており、最期の方は「解けない」と言うより(体力的に?)「続けられない」と言った感じだったらしい。

ひとつの家族でも、故人に対する個々の想いは同じ色とは限らない。
「優しい夫だった」「厳しい父だった」「誠実な兄弟だった」
もちろん、どれも一人の故人。
一人の故人が色々な顔・面・色を見せていた訳で。

生まれてきた時は一つの顔しかなったものが、歳を重ねるごとに持つ顔が増えていく。
息子、兄弟、夫、父、部下、上司、知人、友人など。
全て一つの顔で通すのが理想かもしれないが、なかなかそうはいかないのが現実。

「本当の自分はどれ?」
一体、本当の自分の顔はどれなのだろう。
全て?一部?一つ?

いつの間にかシャッフルされたまま放置している心のルービックキューブ。
解き戻せたとしても6面6色。一面一色ではない。
何だか、人の心のよう。
「二枚舌」「二重人格」なんて可愛いものだ。

たくさんの顔・面・色を持ち過ぎた私は、今では元の状態さえも忘れてしまっている。
元に戻せる賢明さがほしい。
子供のようになるしかないかも。

故人愛用のルービックキューブを柩に納めながら、そんなことを考えた。


トラックバック 2006-08-20 09:05:42投稿分より

-1989年設立―
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同じ空の下で

2024-07-17 06:48:40 | その他
昨日までグズついていた東京の空は、今日は快晴!
また夏の猛暑が戻ってきた。
夏は特掃業務にとっては過酷な季節だが、青い空を見上げると気持ちに涼風が通る。

読者からの書き込みを非公開にしてから一ヶ月余りが経った。
それ以前に比べれば書き込み件数が明らかに減っているが、私の気分に余計な波風が立つこともなくなり、ブログも落ち着いて書けるようになっている。
そして、書き込んでくれる人自体も変わってきているように思う。
今でも色んな意見や感想があるものの、冷静に読むことができている。

あの当時は、「スルーすればいい」という類のアドバイスをたくさんもらったが、私の性格ではアレが限界だった。
我ながら、器量不足も感じているが、どうにもならない。
私はこの性格で三十数年生きてきたので、今更、大きなモデルチェンジもできないのだろう。「人間ってそんなもんだ」と開き直っている。
そして、何事もスルーできるような性格だったら、もともとこんな人生を歩いてないかもしれない。

書き込みの非公開については色々な意見がある。
「非公開の方が書き込みやすい」等、現在の書き込みには非公開に賛成する意見が多い。
ただ、公開を望む声もある。
そんな読者には申し訳ない気持ちがある。
また、公開を好む人は書き込むこと自体をやめている可能性が高いので、一概に非公開が歓迎されているとも思っていない。

しかし、今はまだ書き込みを公開する予定はない。
公開しても、いずれまた荒れてくるだろうから。
やたらと気の短い金色の蝿がでてこなくなったのは少し寂しい気もするけど、現場業務が過激な分、それ以外の時は平穏にいきたい今日この頃である。

「ブログのアップくらいは自分でやれ」「たまには休んだら?」という類の書き込みも少なくない。確かにそうかもしれない。
ただ、私の本職はデスクワークではなくデスワーク。
机に向かってカチャカチャやるのはかなり苦手、しかも決まった時間に机に向かえる仕事ではない。
そんな私は、ブログを携帯電話を使って小刻みに打つことも多い。
誤字が多いときは、携帯電話で打ったと思って間違いない。
あと、管理人との二人三脚はブログ運営に限ったことではなく、その相乗効果は多岐に渡っているので、今後もこの体制を変えるつもりはない。
私も意固地になって毎日更新している訳でもないので、これからは適当に休むかもしれない。

「怖くない?」「ストレスは?」という類の書き込みがある。
死体に「怖い」という感情を持ったことはほとんどない。
「気持ち悪い」はたくさんあるけど。
人は、死体を何故そんなに怖がるのだろうか。

死体は、私を裏切ったり傷つけたりしない。
死体は、私を困らせたり悲しませたりしない。
死体は、私に生きることを考えさせてくれる。
死体は、私に死ぬことを考えさせてくれる。
そして、死体は私に生きるヒントを与えてくれる。

こんなにいい死体を、何でみんな嫌うのだろう。
みんなも、いつかは死体になるのに。

死体を怖がる理由をよくよく考えてみると、ハッキリした理由を挙げられない人が多いような気がする。
考えてみると面白いかも。

ストレスはある。人並みにあると思う。
日々のストレスから人生のストレスまで。
物欲では決して満たされない何かがある。
詳細を書くとただの愚痴になるので省略するけど、こんな仕事をやっているからって人並み以上に精神力が強いとか神経がズ太い等といったことはない。全然。

私は、ネガティブシンキングが大得意!マイナス面に神経質!
障害に果敢に挑んだり、物事を楽観的に考えたりすることが不得意!
不平不満や愚痴を吐くことも日常茶飯事!
できるだけ、腹に溜め込まないようにしている・・イヤ、溜め込む器量がない!
そんな私は、これといったストレス解消法は持っていない。
辛くて苦しいときは「永遠にこの苦しみが続くことはない」と考えて自分を鼓舞する。
それでも、片付かないものは片付かないし、処理できないものもある。
でも、それでいいと思っている。
それが生きている証、生きることの宿命、そして「生きる」ということかもしれないから。

今日もみんな同じ空の下で生かされている。
このブログを通じて、色々な読者との触れ合いがある。
何の因果か、この世に生かされているうちは、共に泣いて笑って過ごしていこう。
ね、皆さん。


トラックバック 2006/08/10 11:38:51投稿分より


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線香花火

2024-07-10 09:28:24 | その他
私は夏の夜の花火が好きだ。
夜空に舞う打ち上げ花火は特に。
時間が合わなくて、ここ何年も花火大会には行っていないけど、綺麗な花火を思い浮かべるだけでワクワクする。
ドン!と上がったかと思ったら、パッと開き、サラッと消えていく。
音に迫力、火花に華、去り際に潔さ、その華麗さに魅了される。
同じ一つの花火なのに、光速と音速の差から視覚と聴覚に時を異にして届いてくるのも絶妙。

そんな花火には、人の生き死にが重なって見える。
日本文化においては、日本男児的な「男らしさ」に通じる部分もあるのかもしれない。
玉の大小、上がる高さに違いはあれど、誰の人生にも華があると思う。
そういう私は、いつ頃が華だったのだろうか。
それとも、華はこれから来るのだろうか。
生きていること自体が華だったりして・・・ね。

壮年の男性が死んだ。
死因は糖尿病。
どんな病気でも、闘病は辛く苦しい。少なくとも、快く楽しいものではないと思う。
糖尿病の食事制限や運動強制も相当のストレスを抱えるらしい。
故人は医師の忠告を軽く見たのか、節制ができなかったのか分からないが、病気を回復に向かわせるはずの自己管理を自らが怠ったらしい。
遺族の話を組み立ててみると、故人は、まさか死に至る程の深刻な状況になるとは思ってなかったらしい。
家族も本人も、いくら後悔したところで後の祭だ。
それでも、遺族は何かをごまかすために?故人の死を受け入れるために?やたらと「男らしかった」と褒めて場の混沌を払拭しようとしていた。

意志の弱い私などにとっては、何事についても自己管理というものは難しい。
自分で自分を律する力が問われる問題。
自分で自分を管理することよりも、他人に自分を管理してもらう方がよっぽど楽なことだと思う。

ひと昔前、アメリカで出世できない人物像というものを聞いたことがある。
それには、たった二つの要因しか挙げられていなかった。
「太った人間」と「タバコを吸う人間」。
要は、「肥満・喫煙」→「自己管理能力が低い」→「社会に通用しない」→「出世できない」という式図らしい。
肥満と喫煙については一概には言えないかもされないけど、自己管理能力の重要性については同感したものだった。

では、人生においては
何をどう自己管理すればよいのだろうか。
「人生」という道を歩む時、どこに重きを置いて進めばよいのか。
我々は、常に明日の不安ばかりに心を奪われ、今日を見失ってはいないだろうか。
昨日のことばかり悔やんで、今日を暗い一日にしてはいないだろうか。
はたまた、「今が良ければそれでいい」と短絡的な歩を進めてはいないだろうか。

昨日を悔やまず、明日を思い煩わず、今日を楽しむ。
昨日を反省し、明日に備え、今日を実らせる。
昨日の思い出に笑い、明日の夢に期待し、今日の糧に感謝する。
なかなかできないけど、それが私の理想。

自分の命は自己管理できるものではない。
人生だって、一体どれだけ自分の力が通用するものなのか。

私は、派手な花火に憧れる線香花火。
世の中の表舞台に立つことはない地味な存在。
若年の頃は、やたらと派手な花火を打ち上げてやろうと燃えたこともあった。
それが、いつの間にか花火をあげるかわりに線香をあげている。

それでも、火玉の途中で落ちてしまう線香花火に思う。
「俺は最期まで燃えて尽きたい」と。

トラックバック 2006/08/04 09:53:32投稿分より
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毎度ありー!

2024-07-05 05:25:50 | その他
「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」「またヨロシクお願いします」etc、何気ないこのセリフは、色々な店や仕事で当り前に使われている言葉。
しかし、私の仕事にこのセリフはない。
「ご愁傷様です」に始まり「お疲れ様でした」で終わる。

何かを得ようと、何年か前、知人に頼んで飲食店で働かせてもらったことがある。
夜の時間だけ、無償で。
誰にも遠慮しないで済む笑顔と、「いらっしゃいませ!」「ありがとうございます!」「またヨロシクお願いします!」と堂々と言える仕事が新鮮だった。新しい自分を発見できて爽快感みたいなものを覚えた。
かったるそうに働いているバイト学生に反して、私は楽しさすら覚えた。
そのバイト学生に私の本職を話したら、「ウェーッ!その手で食い物を触って大丈夫ですか?」とストレートに嫌悪された。
私とは随分と年下の若者だったが、あまりにインパクトのある仕事に礼儀も忘れて本音がでてしまったのだろう。


「これから世の中をうまく渡っていくためには、力のある者の言いなりになること、とにかく頭を下げること、本音とたて前をうまく使い分けること・・・そして社交辞令を覚えることが必要だぞ!」と思いながら、「遠慮のないヤツだなぁ」と苦笑いするしかなかった。そして、悲観するでもなく卑屈になる訳でもなく、「やっぱ、これが現実なんだよな」とあらためて思ったものだ。
人間が「死」を忌み嫌う本質を持っていること、人間が生存本能を持っていることを考えると彼(社会)の表す態度は極めて当然かつ自然なことで、仕方のないことだと思っている。

それが耐えられないなら、死体業なんかやらなきゃいいだけ。
それに耐えられる人だけがやる仕事。
それに耐えなきゃ生きていけない人がやる仕事。

「他人からみると悲惨に見えることが、当人にとってはそれ程でもない」と言う類のことは、私だけのことではなく世間一般によくあることだと思う。
自分では難なくやっているこの仕事。
でも、正直言うと、親類縁者・友人知人にはやらせたくない。

「職業に上下はない」と言うのはきれい事、職業に上下はある!
明らかに社会的地位の低い死体業、その中でも特掃業務は更に下を行く最低の仕事だ。
しかし、その中にもわずかな「最高」がある。
例えて言うと、ウジ・ハエがたかるウ○コの中に、砂粒ほどのダイヤモンドが一粒入っているようなもの。
そんな小さなダイヤなんかには、誰も価値や魅力を感じない。
しかも、それがウ○コの中にあるとなれば、価値がないどころか皆が嫌悪感を覚える。
でも、どんなに小さくても、どんなに汚くてもダイヤはダイヤ。
その輝きに偽りはない。
誰も知る事ができないその価値を、自分だけが気づいていると思うとちょっと鼻が高い(低次元の自己満足?)。

私は声を小にして言いたい。
「死体業は最低の仕事だ!しかし最高の仕事でもある!」

依頼された仕事を完了させ遺族に挨拶するときは、だいたい「今後、再びお目にかかることがないように・・・」という言葉を掛ける。
自分で言っててちょっと寂しいけど、そんな言葉を掛けられた遺族も返す言葉に詰まる。
遺族も、私の仕事の苛酷さを気遣ってくれようとするのだが、適切な言葉が瞬時には見つからない様子。
私は、いつもの社交辞令が使えないやっかいな相手、変な気を使わせてしまう相手なのだろう。
また、自分の子供とダブらせて私のことを不憫に思うのか、初老の女性には泣かれることが多い。
それが一時的な同情心であっても、赤の他人である私のことを思って泣いてくれる人がいるだけで感謝なことだ。

あまりいないけど、「どのくらいこの仕事をやっているのか?」「何故、この仕事をやっているのか?」を訊いてくる人もいる。
そんな人は、「この男には余程の事情があるのだろう」という表情をしながら、その疑問に対する好奇心が抑えられなくて訊いてくるみたい。
現場にはお喋りに行く訳ではないので詳しい話はしないけど、要点を絞って正直に話している。
あと、雰囲気が神妙になると困るので、我慢して凝った自論は避ける。
「余程の事情」は、皆それぞれが持って生きているもの。
「余程の事情」があるから人生はドラマになる。

居酒屋でビールジョッキを傾けながら聞こえる店員の威勢のいい声が心地いい。
私もたまには、「毎度ありー!」と元気に言える仕事をしてみたいものだ。
洗い物は得意だしね(笑)


トラックバック 2006/08/01 09:25:46投稿分より
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怪談

2024-06-29 10:33:36 | その他
夏は怪談話のシーズン
あちらこちらで恐ろしいとされる話が湧いてくる。
でも、所詮はフィクションがほとんど。
本当に怖いのはこの世の現実かもしれない。

世間にとって腐乱死体は、突然現れるやっかい者。
本人はしばらく前から時間をかけて腐っているのに、発見されるのが急なものだから、世間的には降って湧いたような印象を受けるのだろう。

キチンとしたデータをとっている訳ではないが、腐乱死体がでる住宅は、自己所有より賃貸の方が多いように思う。そして、経済力も低レベル。
そんな腐乱死体は、残された人々に多大な迷惑を掛けることになる。
その中でも絶大な損害を被るのは、家族(保証人)、大家、近隣住民。

家族、特に賃貸契約の保証人になっている人は、社会的にはもちろん法的にも責任が発生する。
部屋の清掃費用からリフォーム費用、ヒドイ現場になると上下階や隣の住人が引っ越してしまうこともあり、その転居費用からリフォーム費用まで負担するとなると総額は莫大な金額になる。
しかも、「腐乱死体がでた物件」「腐乱死体がでた部屋」ともなれば入居者の獲得も難しくなる。
空室や値下家賃分まで保証せざるを得なくなると、とても一般の人では負担しきれるものではなく、人生を大きく狂わせてしまうことにもなりかねない。
賃貸契約の保証人になっているのなら諦めるしかないけど、血のつながりだけを根拠に責任を背負わされるのも悲劇である。
まったく、気の毒としか言いようがない。

一方、大家のリスクも大きい。
自分の所有物件から腐乱死体をだしてしまった場合、他人事では済まされない。
保証人や家族がキチンとした対応をとれる、責任・誠意を持った人ならまだしも、必ずしもそういう人とは限らない。
無責任な保証人や家族の場合は、「ない袖は振れない」と開き直って責任逃れをする。
しかし、大家は立場的に汚染物件を放置しておくことはできない。
開き直った家族を前に、結局、大家は泣き寝入りするしかなく莫大な損害を肩代わりせざるを得なくなるのである。
裁判沙汰になったケースも複数あるけど、開き直った相手に裁判を起すのは無駄なこと。
裁判所の通達が効くような相手だったら、始めから責任・誠意ある対応をとっていたはず。
無責任で社会的なプライドを持たない人を相手に裁判を起したって、裁判費用をドブに捨てるようなもの。
残念ながら、最後は悪意を持った人間の方が勝ってしまうのである。
腐乱死体がでたお陰でアパート一軒がまるごと空いてしまい、家賃収入が無くなってローンの返済が滞り、手も足もでなくなった大家もいる。
まったく、気の毒としか言いようがない。

次に近隣住民。
同じアパートやマンションに住む人も被害なしという訳にはいかない。
臭いの被害だけならまだ可愛いもの。
ウジ・ハエが上下階や隣室に侵入したり、腐敗液自体が染みるケースもある。
自宅に腐敗液が染みてきたのでは、とても住めたものではない。
この私でも、さすがに引っ越す。
いきなり生活基盤を変えることを余儀なくされ、急な出費が補填される保証もない。
子供がいる世帯では、学校を転校させざるを得なくなることもある。
まったく、気の毒としか言いようがない。

私は過去に友人・知人の賃貸保証人になったことが何度かある。
どんなに親しい相手でも金銭貸借の保証人にはならないと決めていたけど、「住宅の賃貸保証くらいなら平気だろう」と思い違いをしていたのだ。
今考えると恐ろしい。
特掃業務を通じて、住宅賃貸契約の保証人になることは極めてハイリスクな行為であることを知り、それからは誰の保証人にもならないことにしている。

心当たりのある方、心当たりのある人に至急連絡を。
自分に関係する人達から腐乱死体をださない工夫と対策が必要だ。
腐乱死体に責任を負うということは、並の怪談話より怖いこと・・・最悪の場合、自分も生きていられなくなる可能性があるからね。


トラックバック 2006/07/29 09:54:14投稿分より

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How much?

2024-06-08 05:23:17 | その他
「死体業っていくらくらい稼げるんだろうか」と興味を持っている人は多いと思う。
ブログ開設当初、読者からの質問にもこの類の質問は少なくなかった。
ほとんどの人が、「結構な額を稼げるんだろう」と思っているのではないだろうか。
その様に勝手に勘違いして、闇雲にこの仕事に応募してくる人が後を絶たない。

応募の第一歩として、まずは履歴書・職務経歴書を郵送してもらうのだが、「高額を稼げる」と早合点しているような人に限って、志望動機欄にきれいなことを書いてくる。
もちろん、何を書こうが応募者の勝手。だけど、歓迎はできない。
必要な資格と言えば、車の運転免許だけ。学歴も職歴も問わない(年齢は問う)。
ただし、独断も偏見も関係なく採否の決定権はこちら側にある。
もちろん、私一人に決定権があるわけではないが、私の採否判断の一員に加わる。
私が判断材料にする第一は顔写真。
前記の通り、学歴でも職歴でも資格でもなく「顔」だ。意外でしょ?

一般的には職を転々としていると企業側の印象はよくないし、学歴の低いより高いに越したことはない。何の資格だって、持ってないよりは持っていた方が有利だ。
しかし、そんなことと人格とは直結しない。
無関係とまでは言えないけど、それらのことは人間の本質に大きく影響するものではないと思っている。
向上心を持って職を転々とし、職を変えるごとにステップアップし人格を磨いているような人もいるはずだし、夢や目的があってあえて大学に行かない人だっているはず。
人生色々、千差万別、十人十色で、一人一人にそれぞれの道があり秘められた個性と力がある。それをキチンと見極めることが大事・・・だから「面構え」なのである(もろ自論だけど)。

履歴書に貼られている写真は小さく、顔を中心に胸元から上くらいしか写ってないのが普通。「一体それだけで何が分かるんだ?」と不信に思われる人もいるはずだが、そこは前記の「独断と偏見も関係なく・・・」という次第。
どこかで撮ったスナップ写真を切り抜いて貼ってくるような人は全くもって論外(即、不採用!)。
スーツにネクタイ姿である必要もないが、襟のない服、つまりTシャツやトレーナー姿もダメ!茶髪・長髪もダメ!ヒゲ面もダメ!口が開いててもダメ!視線を外しててもダメ!
写真映りの良し悪しも運のうちかもしれない。
とにかく、私は写真に写る顔をジーッと見る。とにかく見る!穴が開きそうになるくらいまで見続ける!2~3日かけても見る!
では、どんな面構えがいいかというと非常に説明しにくい。
「笑顔」でもなく「真剣そうな表情」でもなく「二枚目」でもなく・・・とにかく「面構えである程度の人柄が伝わってくる」としか言い様がない。
抽象的な説明で申し訳ない。

私は「人柄は顔にでる」(顔だけじゃないけど)と思っている。
よく「人を外見だけで判断するな!」と言っている人がいるが、「人は充分に外見で判断できる」と言っても過言ではないのではないだろうか。
もちろん、外見だけで100%その人を知ることは不可能だが、外見がその人柄を映す大きな材料になることも事実である。
更に言うと「外見だけで判断するな!」とイキがっている人ほど、所詮は中身もしれていることが多い。
この差別的?見解を批判的に思われる方は多いかもしれないが、私はそう確信している。

結局のところ、書類選考から面接に進める人は10%にも満たないのが現実。
そして、面接から体験入社(業務見学)に進む人も更に面接者の10%に満たない。
その難関?をパスして仕事に就いても試用期間をクリアできずに脱落する人も少なくない。
結果的に、電話での問い合わせから数えると、実際の正スタッフになるのは1%以下、つまり100人のうちたった一人もいないのではないかと思う(きちんと数えている訳ではないけど)。


「採用・募集の話なんかどうでもいいから、さっさと給料を教えろよ?」
給料については、ご想像にお任せします。ありきたりの答でスイマセン。


なんて言おうもんなら、「ふざけんなよ!」「納得できるかよ!」という不満の声が現場にまで聞こえてきそうだ。
・・・冗談、冗談。
できるだけ正直に本音を吐露していくところも私のブログの長所だと自負しているので、キチンとお応えしよう。

私の給料は、月々の仕事量によって異なり、だいたい40万~50万円。
手取額で言うと約32万~約43万円くらいである。
ちなみに、私の昨年の年収は約560万円だった(残念ながら、今年はもう少し減りそう)。
もっと欲しければ、見積額を底上げするか、仕事量を増やすかしかない。
見積額は自力で何とかなるにしても、仕事量は他人(死人?)任せにしかできないので、難しい。
私の年齢と経歴を考えても、どう?仕事の割には想像してたより少ないでしょ。
ホント、自慢したくなるくらい少ない。正真正銘、嘘じゃない。

私だって、お金は大好き!一円だってたくさん欲しい!
でも、何故か給料額に不満はない。決して贅沢できる金額ではないけれど、食べて行けない額でもないしね。欲は無限、金は有限。
与えられた仕事とお金に感謝しながら、ささやかな幸せと楽しみの中で生きていけばいいさ(負け犬の遠吠え?)。

ついでに、特殊清掃事業部の処遇(労働条件)も教えてしまおう。
ボーナスはなし。社会保険は一式完備。
定時の勤務時間は9:00~17:00。ただし、定時なんてあってないようなもの。
早出、残業は当たり前。夜中の電話や出動もある(夜中の出動は特にキツイよ!)。
年間休日は、所定で97日(これも少ないでしょ?)。
仕事の特性で察してもらえると思うが、休日の予定は立てられない。
人が私の都合に合わせて死んでくれるはずもなく、たまたま仕事が空いた時に休むしかない。

ちなみに、現在は、特殊清掃事業部は新規スタッフの募集していない。
こんな労働条件を知ってしまったら、求人募集しても応募はないかもね(笑)。
でも、労働条件が低い割には、スタッフの出入りは極めて少ない。


どう?やっぱ、なかなかいい仕事でしょ(笑)。
刺激タップリで死生観を磨けるよ!



トラックバック 2006/07/09 07:59:35投稿分より

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そこのけ、そこのけ、死体が通る

2024-06-07 06:13:54 | その他
死体業には色んな仕事がある。

私は、一応、特掃隊の一員として死体と格闘する日々だが、時にはそれ以外の仕事にも出る。遺品回収・遺体処置・遺体搬送などなど。

その遺体搬送業務のことを「死体とドライブ」と表現したことがあった。
それを聞いて(見て)、もしも、死体を自家用車の助手席にでも乗せて、気ままにドライブしていると想像された方がいるとしたら、かなり可笑しい。
そんなことしたら、さすがにヤバイでしょ(笑)。


でも、業界外の人が想像できないにも当然と言えば当然か。
遺体搬送には遺体搬送用の専用車両がちゃんとある(霊柩車とは違う)。
車体は1Boxタイプがほとんどだが、まれにステーションワゴンタイプもある。
車内後部が荷台になっており、ストレッチャーという折りたたみ式の車輪付担架を搭載している。

分かり易く言うと、救急車をものすごくシンプルにしたような車だと思ってもらえればいい。
病院から自宅、自宅から葬式場など、遺体を積む場所と降ろす場所は人によって様々である。もちろん、夜中の出動もある。


病院は、亡くなった患者を長くベッドに寝かせておくことを好まない。
他の患者への配慮もあるのだろうが、空ベッドをつくると経営効率も落ちる。
一日でも早く新しいお客さん・・・いや、患者さんに入院してもらえるようにしたいのである。

病院にとっては、なるべく空ベッドをつくらないようにして、入退院の回転率を上げることが重要なのだ。
したがって、昼間でも夜中でも関係なく、患者が亡くなると直ちに遺体の搬出要請が入る。それが、夜中になった場合は、まさに夜中に「死体とドライブ」となる訳である。


ちなみに、看護婦にも感じのよい人とそうでない人がいる。
良心的な看護婦は快く遺体の移動を一緒にやってくれるのだが、そうでない看護婦は遺体への嫌悪感丸出しで、ものすごく感じが悪い
こんなのは、ごく一部の看護婦さんだと思うが(願いも込めて)。
そういう人に遺体をベッドから担架に移動させる作業を一緒にやらせようものなら、私への文句も一言では済まない。

それでも、しかめっ面の看護婦にペコペコしなくてはならないのにはストレスがかかる。
そんな時は「白衣の天使」も「悪意のテン師」に見える。


外の暗闇や死体と二人きりになっていることよりも、睡魔の方が怖い。
眠いときは本当に眠くなる!夜中に死体と一緒に事故死でもしたら洒落にもならないし、死体にとっては二回死ぬようなもので、あの世に行ってから殴られるかも(笑)。


遺体搬送業務だけとっても色々な思い出と経験を積んできた。
例えば、病院から自宅へ搬送する場合、そこが古いマンションや団地の場合は旧式エレベーターが多く、ストレッチャーが入らないところが多い。

その場合は、担架などは使えず、遺体を抱えるしかない。
浴衣を着て冷たく硬直した遺体を強引に立たせた状態でハグしてエレベーターに乗るのである。

浴衣姿で蒼白い顔、不自然にグッタリしている人を抱えてエレベーターに乗っている男を想像してみてほしい。なんとも不気味だろう。
ここで笑っちゃいけないよ。やってる私は「落としでもしたら大変!」と冷汗もので真剣に抱えているのだから。

しかし、他の住民はそんなのが乗っていると知らずにエレベーターを止める。
ドアが開いた時にみせる住民達の反応はとても面白い。
驚く人、悲鳴をあげる人、目が点になって呆然と見ている人など反応は様々。
一番可笑しいのは、死体だと気づかないで一緒に乗ってきて、死体だと気づいた途端に逃げようとする人(動いているエレベーターで逃げられる訳もないのに)。
そんな人は、当初の目的階なんか放っておいて、必死で次の階のボタンを連打する。
そして、ドアをこじ開けるようにして、そそくさと小走りに去って行く。
その様がなんとも可笑しいのである。


だいたい遺族は先に自宅階に上がって待っているので、私が遭遇した途中階での出来事は知らない。
遺体を抱いたたまま明るい笑顔でエレベーターから出てくる私をみて、だいたいの遺族が

「コイツ、普通じゃないな」

という表情を浮かべる(笑)。
同時に、何とも滑稽な私の姿を見て、思わず吹き出してしまう遺族や笑顔(内心では爆笑しているのかも)になる遺族もいたりして、結構、和やかな雰囲気になることも少なくない。
ちなみに、私の笑顔に「不謹慎だ!」等とクレームがついたことはない。


本件以外にも、死体を背負ったこと、抱かかえたことは数知れず。
変かもしれないが、小さく軽くなった老人を背負う時などは、何とも言えないない温かい気持ちにもなる。

「おじいちゃん(おばあちゃん)、お疲れ様でしたね・・・」

と心の中で呟く。
やはり、「死体が気持ち悪い」という感情よりも、「落とさないように」という緊張感の方が強くて、不気味とか怖いなんて気持ちは全然ない。


ちょっと脱線。
「死体をハグする」で思い出したが、6月21日掲載「ハグ」に登場した不動産屋の担当者は勤務する会社は退職したものの、今でも不動産会社で頑張っている。
さすがに、あの時からしばらくは暗い日々を送ったようだが、今は、飲み会や合コンなどでそのネタを出すと、すぐさまその場の主役になれて、まんざらでもないらしい。

しかも、あちこち同じネタで何度も話しているものだから、話し方や状況の描写もうまくなり、話を聞く皆に抜群にウケるらしい。まるで、落語家のよう。
すごい災難に遭遇してしまった彼だったが、それによって少しはいいことがあるみたいで、まぁよかった。


遺体を運ぶのに老若男女や身体状態を選ぶことはできないけど、どうせ運ぶなら安らかな顔の老人がいい。
そして、笑顔で仕事をしても遺族の心象を害さないくらいの器を持った人間になりたいものである。


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