特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

宝さがし

2012-04-15 10:15:12 | 生活保護 特殊清掃
私は、ケチ。
そして、強欲。
私の身近にいる人は、とっくに気づいているはず。
仕方のないことだが、相当の陰口を叩いている人もいるかもしれない。

世の中には、よく、人におごる気前のいい人がいる。
しかし、私は違う。
私の場合、自分におごってばかり。
人におごるなんてことは滅多にない。

寄付金や義援金の額も些少。
しかも、渋々。
税金や社会保険料のように、強制的に課されないと積極的に差し出さない。
いい歳をして、恥ずかしいかぎり。

欲も深い。
そして、無駄な欲が多い。
頭は衰えても、これが衰えることはない。
“使用欲のともなわない所有欲”と“物欲のともなわない金銭欲”が先走っている状態。

そのせいか、モノが捨てられない性分。
特に、子供の頃はひどかった。
使わないモノでも、手に入れたものは見境なく保管。
しまいには、モノを擬人化して、捨てる際には泣いてしまうような始末だった。

この歳になっても、その本質は変わっていない。
ただ、それなりの知恵はついた。
“一年使わなかったモノは一生使わないモノ(非常時の備蓄以外)”との考えで、余計なモノは持たないように心掛けている。
「墓に衣は着せられぬ」・・・このことをイヤと言うほど体感しているから。



訪れたのは、街中の老朽マンション。
エレベーターを降りると、私の鼻は例の異臭を感知。
「生活保護の方で、発見が遅れちゃいまして・・・」
当マンションを管理する不動産会社の担当者は、気マズそうにそう言い、ハンカチを鼻にあてた。

目的の部屋は、エレベーターの目と鼻の先。
その位置が、他の住民への迷惑を倍増させていた。
玄関ドアの隙間には目張り。
担当者が貼ったのだろう、長方形に貼られたガムテープが、その先に別世界が待っていることを私に示していた。

私は、ポケットに常備している手袋を両手に装着。
そして、ペリペリと目張りのテープを剥した。
次に、愛用のマスクを装着。
「ちょっと見てきます」と、こもった声で担当者に告げ、素早く身体を室内に滑り込ませた。

室内は、作業服の上からでも湿気を感じるくらいの不快温度。
同時に、目に見えない異臭が身体に纏わりついてくるのを感じた。
しかし、そんなこと気にしていては仕事にならず。
私は、マスクと手袋とノミの心臓を信じて玄関を一歩上がった。

狭い1Rには家具家財がびっしり。
足の踏み場もないくらいに家具が詰め込まれていた。
ある程度は整理整頓されているものの、とにかく家財が大量。
私は、両側にそそり立つ家具の隙間を縫うように足を進めた。

少し進むと、汚染痕を発見。
それは床に敷かれた布団にあった。
ただ、それは、普通の敷布団を縦に二つ折りにした状態のもの。
家具がひしめく部屋に、布団を広げるスペースは残っていなかったのだった。

丸く凹んだ枕には、大量の頭髪と頭皮。
細長くたたまれた敷布団は人型に茶黒く濡れていた。
故人は、その細長い布団で寝起きしていたよう。
そして、そこで亡くなったようだった。

その脇には、折りたたみ式の小さな座卓。
その上には、眼鏡と数種の薬。
そして、食事の跡。
真っ黒に変色・乾燥萎縮したバナナが、故人の身に起こったことを代弁していた。

汚染度に比して、空中のハエは少数。
ピンときた私は、敷布団の隅を持ち上げてみた。
案の定、布団の舌には無数のウジが待機。
ハエになって自由に飛び回ることを夢見ながら?隠れていた。

夢は儚いのが常。
私の目に触れた時点で、ウジ達はハエになる前に始末される悪運に落ちた。
が、相手は何千匹、一匹逃さず始末するのは至難の業。
少なからずの者?が私の手から逃げのびるであろうことは容易に想像でき、私は、その幸運までは奪えないことに納得した。


故人は、初老の女性。
このマンションに越してきて、一年も経っていなかった。
どういう経緯で生活保護受給者になったのはわからないけど、とにかく、部屋に入るだけの“財産”を持ってきたよう。
そのため、ゆったり横になるスペースも失ったようだった。

「故人は、物理的には窮屈でも、精神的にはゆったりと生活していたのかもしれないな・・・」
私は、故人の気持ちがわかるような気がした。
“持っている”ということで何となく安心できることってあると思うから。
目に見えるモノを失うことで、心が細くなることってあると思うから。

しかし、残念なことに、主を失った家財はゴミとなる。
とりわけ、タップリの異臭を吸い、たくさんのハエ糞をつけたモノはゴミ以外の何物でもなくなる。
どれもこれも捨てたくないものに違いなかっただろうに、他人の手にかかれば一気に廃棄処分となる。
どんなに大切にしていても、死を境に、“モノ”の境遇は一変してしまうのだ。

ただ、これは、自分の身体さえ置き去りにせざるをえなかった故人にはどうすることもできないこと。
生きているうちには捨てることができなかった大切なモノを、他人が簡単に捨てる・・・
それが社会に必要なこと・・・
私は、死体痕が消えていく様に安堵する反面、故人が大切にしていた家財が躊躇いなく消されていく様に妙な虚しさを覚えた。


モノを大切にするのは非常にいいこと。
しかし、使わないモノを持っていても仕方がない。
モノを持ちすぎると重荷になる。
モノに執着しすぎると窮屈になる。

それはわかっている。
しかし、モノに大切な想い出を転化してしまう。
また、「いつか必要になるときがくるかも・・・」と思ってしまう。
そうして、次々に捨てられないモノをつくってしまう。

特に、長く持っていたモノ、長く使っていたモノは手放しにくい。
単なる愛着を越えた思い入れを抱く。
人が人生において最も長く使うモノは、自分の身体。
ただ、これも老い、衰え、いずれ、手放さなければならない時がくる。


いくら持っても欲は尽きず、いくら買っても古くなる。
いくら食べても腹は空き、いくら飲んでも酔いは醒める。
いくら張ってシワは刻まれ、いくら鍛えても体力は衰える。
いくら笑っても時は過ぎ、いくら泣いても死は免れない。

目に見えるモノの追うのは、時に虚しい。
否応なく古び、容赦なく朽ち、際限がないから。
目に見えるモノを抱え込むのは、時に虚しい。
いつか手放さなければならないことがわかっているから。

不動産、高級車、ブランド品、宝飾品、貴金属、美術品etc・・・
経済価値の高いモノは、だいたい大切なモノ。
知性、品性、人格、情、義、希望、想い出、人間愛、精神力、思想哲学、学識etc・・・
経済で計ることができない、そんなモノも大切なはず。

外に持つモノではなく、人が内に持つモノが本当の宝だったりする。
それは、一生を通じて人の幸せを支える基礎だから。
流行によって古びることもなく、時間によって朽ちることもないから。
そして、ひょっとしたら、天国に持って行けるものかもしれないから。

ま、こんなことは、私ごときがあらためて文字で訴える必要はないだろう。
大方の人はわかっているはず。
折に触れ、自分の心が答えているはず。
自分にとって大切なモノ・大切にすべきモノを、優先順位を決めるうえでの基準・取捨選択の基準を。


私は、一生、ケチな男のままだろう。
そして、この強欲は、一生、治まらないだろう。
ただ、自分に必要なモノは、自分にとって大切なモノは、時間や金や健康や人などといったモノだけではないことを知りつつある。
そして、そのボンヤリと感じられるモノを文字にして反芻しながら、人生の宝探しを続けているのである。




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