特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

情けは人の為ならず

2018-04-30 08:21:42 | その他
相変わらず仕事に追われる日々を送っていたため、久しぶりのブログ更新。
かなりの期間が空いてしまった前回更新よりマシながら、それでも およそ一か月半ぶり。
ただ、ブログの更新がないのは元気に働いている証拠。
読んでくれる人が離れていくのは寂しいけど、“元気に働ける”って、私には、とても幸せなことなのである。

はやいもので、そうこうしている間に、今日で四月も終わり。
そして、世の中はGWの真っ只中。
長い人では九連休の人もいるらしい。
ま、私にはまったく縁のない話・・・・・どころか、私はここ一カ月休みをとっていない。
三月下旬、どうしても外せない私用があって、一日だけ休みをとった。
二カ月と二十一日ぶりの休暇だった。
更にそれから、無休で一カ月余が経過している。

私は、神経質であるがゆえに健康管理にはそれなりに気を遣っているけど、それでも、明らかに身体は疲労を溜めこんでいる。
ポンコツ親父の肉体はギシギシと凝り固まって、就寝時、寝返りをうつ度にうめき声をあげてしまうような始末。
がんばることは大切だけど、時には、自分を労わることも大切。
ただ、自分が堕落しやすい人間だということをよく知っている私は、
「俺は、楽しようとしているんじゃないか・・・」
「俺は、怠けようとしているんじゃないか・・・」
と常に危機感をもっている。
だから、なかなか“純粋に休む”ということができない。
で、その代わりの気休め、また、私のために休まず働いてくれている身体に対する せめてもの償いで、眼肩腰に効くと宣伝されている「ア○ナ○ンEXプラス」を朝食後に、肉体疲労を和らげると宣伝されている「養○酒」を就寝前に毎日飲んでいる。
ただ、しばらく飲み続けているのに、効果を自覚するまでには至っていない。
多分、特効薬は、何か別次元のところにあるのだろう。

それでも、精神は比較的元気。
「人生は短い」「腐ってるヒマはない」「スネてる場合じゃない」「クヨクヨしてる時じゃない」等と、ことあるごとに自分鼓舞激励するようにしている。
不平・不満・不安etc・・・私の心(頭)にはそんなことばかりが湧いてくるけど、そんなものに占められている間は幸せでもないし楽しくもない。
自分で自分を不幸にすることは人生に対する愚行で、モノ凄くもったいないことをしているということを、何かにつけて腐ってしまう自分に分からせようとしているのである。

あと、それほど深刻な不調に陥らないでいられるのは、季節的な要因もあると思う。
今は、優しい春だから、希望の春だから。
暑からず 寒からず、過ごしていて楽。
花や新緑も美しいし、命の新生も感じられる。
これから暑くなっていくことを思うと、ゲンナリする気持ちがないではないが、短くなってきた余生に“やる気”のような上向きの気持ちが湧いてきて、自然と元気がでてくるのである。



相談を受けた男性は60代後半。
賃貸マンションに独り暮らし。
両親はとっくに亡くなり、兄弟姉妹もなし。
叔父や叔母もいたが、長く付き合いをしていなかったうえ、皆、既に他界。
生存する血縁者としては何人かの従兄弟がいたものの、叔父叔母よりも更に付き合いはなく、近所の他人より もっと他人状態。
事実上、身寄りなしの孤独な身の上だった。

マンションの賃貸借契約更新時期になって、大家は「契約は更新しない」と通告。
表向きの理由は、「近い将来、アパートの建て替えを予定しているから」というものだったが、男性は すぐにピンときた。
真の理由は「身寄りのない独居老人を入居させておくのはリスクが高い」と考えての“追い出し”のよう。
大家や他の住人に迷惑をかけたこともなく、家賃を滞納したこともなく、その恐れもないのに追い出されるわけで、男性は、そのことをヒドく気に病んでいた。
しかし、表向きの理由を突き付けられては抵抗できない。
男性は、泣く泣く承諾し、転居先を探し始めた。

男性は、無職で年金生活。
ただ、経済的な余裕はあった。
親からの遺産が多くあり、年金に足して 少しずつそれを切り崩して生活しているのだった。
しかし、その経済力も世間は評価してくれず。
身寄りのない単身老人と契約してくれる物件は簡単には見つからず。
シニア向けの賃貸住宅はいくつもあったけど、その多くは、不便なところ建つ老朽物件等、一般に人気のない物件。
「住みたい」と思えるような物件ではなく、惨めな思いをしそうな物件ばかりだった。

「自分は社会のお荷物?社会の邪魔者?」
「自分は世の中に必要ない人間なのか?」
「まっとうに生きてきたつもりなのに、老い先短くなってこんな仕打ちを受けるなんて・・・」
理不尽な世の中や人の冷たさが悲しく、男性はヒドく失望。
そして、
「もう、この世にいないほうがいいんじゃないだろうか・・・」
と生きていくことが憂鬱になってきた。

今の時勢、住む家を失う高齢者が増えていると聞く。
貸主(大家)からすると、孤独死のリスクや死後処理の手間や費用を考えると、高齢者は厄介な客。
確かに、可能性で考えると、高齢者はハイリスク。
“死”は老若男女に平等とはいえ、確率統計で考えると、若者に比べて部屋で孤独死する可能性は高いと判断される。
そして、誰にも気づかれず、しばらく放置される可能性も。
酷い場合、被害はその部屋だけにとどまらず 他住人も出て行ってしまい、アパートが全滅することだってある。
したがって、そういったリスクの高い入居者は、何だかんだと理由をつけて賃貸借契約を更新しなかったり、何かと口実をつけて追い出しにかかったりするのである。

頼れる人がいない男性は、転居先を探すとともに“緊急連絡先”及び“身元保証人”になってくれる人を探していた。
新しい住まいを契約するためにも、それが必要だった。
また、死後の財産や家財の処理も大きな課題だった。
そんな中で、遺品整理をやっている会社に片っ端から調べて電話。
生前契約ができるかどうか、その場合、確実な契約履行をどうやって担保・保証するのか等、色々と問い合わせた。
しかし、まともに取り合ってくれるところは極少数。
ほとんどが、どうにも信用できなそうな会社や、金の話ばかりしてくる怪しげな会社ばかりだった。

そんな中で、たどり着いた当社。
「“良心的な会社”と聞いたもので・・・」
誰からどう聞いたのかわからなかったが、“良心的”と言われて悪い気はしない。
それが男性の作戦だったら脱帽だが、その言葉は私の耳に何とも心地よく、本当に良心的かどうか怪しいものながら、軽率にも気分は上々に。
売上利益的には仕事にならなそうな案件とわかりつつも、一応は相談に乗ってみる方向に気持ちは傾いていった。

男性から悩みの一通りを聞いた私は、後見制度を利用することを勧めた。
後見制度には、意思能力や判断能力が充分でない人のための法定後見制度だけではなく、脳力が衰える将来に備える任意後見制度がある。
男性は、後見制度についての認識は持っていたが、把握していたのは法定後見制度のみ。
だから、“健康な自分は利用できない”と諦めていた。
しかし、男性のような境遇の人のための任意後見制度がある。
過去に資格試験の勉強でかじったことがある私は、そういう制度があることを男性に伝えた。
そして、日をあらため、男性の住所を管轄する任意後見制度が利用できる法律家の団体を調べ、そこから色々教わったうえで、必要な手続き等の詳細を男性に伝えた。

併せて、住居は、建物に多少の難があっても、県営とか市営などの公営住宅を申し込むことを進言。
メリットは、家賃が安いことと、民間のアパートやマンションに比べて退室後(死後)の原状回復責任の基準が甘いこと。
デメリットは、老朽建物が多いことと、自治会の活動が多く他住民との関わり(人間関係)が煩わしいこと。
男性の高い資力が引っかかる心配はあったものの、男性の境遇と将来の不安を総合的に考慮すると、男性には公営住宅が適していると判断。
そこで、私は、同県や近隣市の公営住宅の申し込みについてネットで調べ、詳細については男性自身が積極的に動くよう促し、ひとまず、その一件は終わった。

それから何ヶ月か後、この一件が頭から消えた頃、久しぶりに男性から電話が入った。
S県C市に暮らしていた男性は、そこから少しばかり東京に寄った同県T市の公営住宅に移ることが決まった。
また、先が見通せるようになって気持ちが落ち着いたのだろう、任意後見についても余裕をもって進めていた。
男性は、肩の荷が降りた分、以前に比べて声も明るく口調も軽やかで、私も嬉しくなった。

男性は、「何かお礼がしたい」と言ってくれたが、やったことと言えば、男性やその他との電話が十数回とインターネット検索等の情報収集が数回だけ。
男性のもとへ出向いたわけでもなく、男性の用で実作業をしたこともなかった。
それに費やした時間や費用はわずかなもの。
結局ところ、金銭をもらうほどの仕事はしていなかった。
また、“先々、遺品処理業務等を請け負う可能性もゼロではない”という打算もなくはなかった。
だから、謝礼については辞退した。


“タダ働き”なんか、まっぴら御免!
これまで何度となく書いてきた通り、私は、この仕事を、お金のため・生きるための糧を得るためやっている。
故人や遺族のためでは決してなく、あくまで自分のため。
しかし、私も 体力・精神力に限界がある ただの人間だから、それだけで精力を持続させるのは困難。
金銭以外のやり甲斐が必要になってくる。
それは、「人に必要とされる」「人に頼りにされる」というところ。

不平・不満・不安等、自分の悪性や弱性により精神を腐らせることが多い私は、自分の存在価値や生きる価値を見失うことも多い。
そして、それが、生きることに疲れを覚えさせる。
しかし、人に必要とされる・人に頼りにされると、「生きていていいんだ」「生きるべきなんだ」と、自分の存在価値を感じることができる。
そして、それが生きがいになったりする。
例によって“きれいごと”を吐かせてもらうけど、人に必要とされ、人に頼りにされ、人の役に立てるって、何だか気持ちがいい。
何か善いことができるような、善いことをしたような気分が味わえて、心が晴れ晴れとする。
結果、体力や精神力がパワーアップし、過酷な作業も元気に頑張れるのである。

“人に優しく、自分に厳しく”は、カッコはいいけど、そればかりじゃ能がない。
時には“人に優しく、自分にも優しく”ありたいもの。
その優しさは巡り巡って己の為になり、やがてくる酷な夏を、難しい秋を、厳しい冬を乗り越える元気と、その時々に生きる幸せをもたらしてくれるのだから



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