特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

善と悪の間で

2024-07-19 05:35:20 | 自殺腐乱死体
自殺した女性が腐乱死体で発見された。
もちろん、私には自殺の動機は不明。
独り暮しだった故人の自宅は賃貸マンション、その玄関で首を吊ったらしい。
身寄りはないらしく、賃貸契約の保証人も有料の保証会社が請け負っていた。
依頼者である大家は、保証会社の対応に不満を漏らしていた。
このままだと、大家と保証会社の間でトラブルが発生するのは明白だった。

汚染は玄関と外の共有部分のみ。
ウジ・ハエも玄関フロアのみ。
女性らしい雰囲気の部屋はきれいに片付いており、独身女性の部屋に免疫のない私は勝手に入ることに気が引けるくらいだった。
しかし、片付けるうちに故人が私と同年であること分かって、急に気持ち悪くなってきた。
我ながら勝手なものだ。
女性には失礼な偏見になるかもしれないけど、男性の自殺より女性の自殺の方が何だか気持ち悪い。
私が遭遇してきた自殺体・自殺現場は圧倒的に女性の方が少ないから免疫がないのだろうか。
それとも、世俗に伝わる怪談の影響だろうか、その理由は自分でもハッキリしない。
とにかく、女性の方、申し訳ない。
ちなみに、動物の場合は犬よりも猫の方が気持ち悪い。

玄関で首を吊るケースにはたまに遭遇する。
「なんで玄関で?」
故人が死に場所を玄関にした理由を考えた。
例によって全くの主観的想像だけど、三つの理由を思いついた。
一つ目は、できるだけ早く発見してもらうため。
二つ目は、部屋を汚さないため。
三つ目は、ドア上の金具が紐を吊るのに適していたため。
これが当たっていたとしたら、ちょっとせつない。
死んでからも醜態を晒したくない・・・腐乱死体にはなりたくなかったのか、それとも部屋を汚して大家に迷惑を掛けたくなかったのか。
もちろん、その真意を知ることはできなかったが、現場の様相から故人の何らかの考え(配慮)を感じた。
しかし、残念なことに故人は腐乱し一通り周囲を汚していた。

自分と年齢が同じであること、身寄りがいない孤独な身の上であること、きれいに片付いた部屋に人柄を感じたこと・・・それが私の気持ちを微妙に動かした。
明らかに、故人への同情心が働いたのが自分でも分かった。

故人も家主も保証会社も、事が大きくなるのは避けたいはず。
そして、現場がきれいなら無闇に事が大きくなるのを防ぐことができるはず。
と言うことは、事の大小は私の清掃作業の仕上がりにかかっていると言うこと。

私は偽善だろうが何だろうが、とにかく黙々と玄関を掃除した。
玄関ドアから流れ出た腐敗液も擦り洗った。
目に見えにくい人の脂と腐敗臭はそう簡単に除去できるものではない。
いつもだったら、時間の経過に任せるところを、この現場では人為的に行った。
通常だと一日仕事の作業を、二日がかりで念入りにやった。

我ながら、その仕上がりは満足のいくものだった。
現場確認に気がすすまなそうな大家を呼んで来て、半強制的に現場を見せた。
気味が悪過ぎて汚染現場を見ていない大家は、汚染の痕が見えない現場に少し驚いていた。

私は、家主から現場のBefore.Afterを写真に撮っておくように依頼されていた。
約束なので一応は撮影しておいたが、きれいになった現場を見た大家にはて写真の必要性がなくなってきていた。
私も「妙なものが写っていたらマズイですからねぇ」と意味深なことを言って、大家の判断を確定させた。

「ここの汚染は軽いものだった」「あとは通常の空室リフォームとハウスクリーニングで充分」
そう伝えた私は、要らなくなったカメラを捨てた。

私は常に偽善と悪を併せ持っている。
表立って他人から非難されることがない代わりに、自分が偽善者であることは自分が一番よく知っている。
仮に偽善者と罵られても、腹も立たないだろう。
自分にも充分その自覚があるから。
では、善悪の判断基準はどこにあるのだろうか。偽善と真善はどこで区切られるのだろうか。
善悪の知恵はどこから来ているのだろうか。
そんなことを昔から考えている。でも、今だに答はない。

私は、この故人に対して偽善的であったか。
私の行動はただの自己満足か。
それがジャッジできるのはアノ世の故人だけかもしれない。

足りない頭で難しいことを考えるのも限界がある。
人生とは、ひたすら善と悪の間で格闘しなきゃいけないものかもしれないね。
疲れたら、居酒屋にでも行って気分転換をしよう。
やっぱ、身体の外側には消毒用エタノール、内側には飲用アルコールが欠かせないね。


トラックバック 2006/08/12 09:32:09投稿分より
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身を焦がして

2024-06-26 05:20:15 | 自殺腐乱死体
夏の風物詩のひとつに土用の丑の日がある。
その日に鰻を食べる風習は、全国的なものだと思う。
先日も、スーパーの屋外で鰻を焼く煙が香ばしく、食欲をそそられた。
焼肉屋や焼鳥屋の前を通りかかっても、同じように香ばしいニオイがして、空腹時にはたまらなくいいニオイに感じるものである。
肉を焼くニオイって、どうしてこうも食欲をそそるのだろうか、不思議である。
野菜を焼いたって、こうまでは魅了されないのに。


焼身自殺で人が死んだ。
自殺体は珍しくない中でも、焼身自殺体は少ない。
「何とかなるものなら何とかしてほしい」と依頼され、とりあえず現場へ。
警察の検死が終わって、遺体は納体袋に入れられていた。
この納体袋というヤツは通常の遺体が納められることはほとんどなく、変死体専用の寝袋と言ってもいいほどの不気味な代物である。
したがって、何の説明を受けなくても、納体袋に入っているだけで中の遺体は損傷や腐敗が激しいことがすぐ分かる。
という訳で、納体袋を開けるときはいつも緊張する。

今回は焼身自殺。
「何とかしてほしい」と言うからには「何とかなる」程度のものと推測して、心の準備を整えていた。
しかし、納体袋を開けてビックリ!
損傷が激しく、とても何とかできるような状態ではなかった。
特に、顔・頭部の損傷(燃焼)が酷く、ほとんど部位が炭になって焼失していた。
目蓋・鼻・唇・耳など、燃えやすい部分は燃えてなくなり、大きな眼球と歯は剥き出し状態。
瞬時に、腐敗臭と焦げ臭いニオイが辺りに立ち込めた。
人間の身体も所詮はただの肉。
その焦げたニオイは、普段の街に漂う肉を焼くニオイに酷似していた。

※間違っても「食欲が湧いた」なんてことはないので、誤解のないように(笑)。

「こりゃヒドイなぁ」と思いながら、「依頼者(遺族)の真の要望はどこにあるのだろうか」と考えた。
その損傷の酷さに、遺族の誰も遺体を見ることができなかったよう。
少しでも遺族とコミュニケーションが図れればヒントが掴めるものが、この現場では遺族は立ち会わなかったために思慮を重ねるしかなかった。
しかし、いくら考えを巡らせたところで、遺体の損傷が軽くなる訳でもない。
結局、遺体にはほとんど手を着けることができないまま、隠すように柩に納めた。
遺族の真の要望を計り知れないまま。

焼身自殺はなかなか大胆な手法だと思う。
こと切れるまでの時間、かなり苦しいだろう。
そして、ひとつ間違えて火事にでもなったら、他人を巻き込んでしまう可能性も高い。
もし、そんな事にでもなってしまったら、本人の人生や命そのものを否定されるような結果を招いてしまうだろう。
そして、そんな自分勝手な行為は決して許されることはないと思う。
ただ、残念なことに本人にとっては、「そんなの知ったこっちゃない」のだろうけど。
ほとんどの人が、自分の身の回りも未来も見えなくなるから自殺する訳で、「自分勝手」なんて批判は虚しいばかりか。

ハードな仕事にはスタミナが必要、特に暑い夏は肉料理が恋しくなる。
焼肉・焼鳥、そして鰻の蒲焼etc。
高い人格を持った謙遜な人は言う。
「この世にマズイ食べ物なんかない」と。
私のような愚人は品性もなく、ひたすら舌に美味いものばかりを追い求め、感謝の気持ちなんて少しも持たずに「美味い」「マズイ」と批評しながら命を存えている。

人間に食われるために生まれてくる命がある。
人間に食われるために失われる命がある。
「舌に美味しいものには身体に害があるものが多いのは、何かの摂理が働いているのだろうか」と思うことがある。
人間は、他の命を著しく犠牲にしないと生きていけない動物である。
何を食べるかが問題ではなく、どう食べるかが問題。

平凡な毎日でも、粗食しか口に入れられなくても、当り前のようにモノが食べられる幸せを噛み締めて、「たまには心に美味しいものも食べないとな」と思いながら、街角の香ばしい煙の誘惑との戦いに身を焦がす今日この頃である。


トラックバック 2006/07/26 08:37:56投稿分より
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愕然!

2024-06-17 06:41:26 | 自殺腐乱死体
ある不動産管理会社から自殺腐乱現場の見積依頼がきた。
場所は、一般には高級住宅街と言われる地域。
中年男性の首吊り自殺だった。自殺の理由は借金苦。
管理会社の担当者に聞くまでもなく、部屋に散乱していたクレジット会社や消費者金融からの請求書で、それは容易に察することができた。
マンションの築年数はそれなりに経過しているものの、その立地もよく高級感のあるたたずまいで、いかにも「買うと高そうだな」と思われるような建物だった。

管理会社立ち会いのもと、いつもの調子で現場の部屋へ。
管理会社の担当者は玄関の外で待っていた。
腐乱痕と腐敗臭以外は、特に変わった雰囲気もなく、多少散らかっている程度の部屋だった。もちろん、毎度のウジ・ハエもたくさんいた(彼等の存在は当り前過ぎて、いちいち書くのも面倒になってきた)。

見積作業では、色々な角度からその部屋を観察しなければならない。
見積り一つ間違うと、赤字仕事になってしまうからである。
私の会社は、一発見積りで金額を確定し、作業中や作業後になってグズグズ言って追加料金をせびるようなことは一切しない。
現場業務はもちろん、金銭的にもクリーン第一!(宣伝)。

その際、何気なく見た本棚に、「ん?」と思うような固有名詞の入った書類が目に留まった。
「これは・・・」、そこには、ごくごく一部の、ごくごく特定の人間にしか分からないような資料があったのである。
そして、その「一部・特定の人間」に私も含まれていた
「なんで、○○の資料がここにあるんだ?」と少し驚いた。
嫌な予感がして、「まさか・・・!」と思いながら、更に目を凝らして部屋を見渡した。
写真タテに飾られた写真もいくつかあり、写真に写った人物を見て愕然とした!
「これは○○さんじゃないか!?」と。
何枚かあった写真を一枚一枚顔に近づけて、何度も何度も見直した。
なんと、写真に写っていた人物は私が見知った人だったのである!
いきなり、心臓がバクバクし始めて、「まさか!人違いだろ!?」「人違いであってくれ!」と思いながら夢中で名前を確認できるものを探した。
氏名はすぐに判明し、力が抜けた。残念ながら、やはり故人はその人だった。
心臓の鼓動は不規則になり、呼吸するのも苦しく感じるくらいに気が動転した!

故人とは、二人で遊ぶ程の親しい間柄ではなかったが、あることを通じて知り合い、複数の人を交えて何度か飲食したり話しをする機会があった。
見積時は、縁が切れてから既に何年も経っていたが、関わりがあった当時のことが昨日のことにように甦ってきた。

彼は当時、かなり羽振りがよさそうにしていて、高級外車に乗っていた。
高級住宅街に住んでいることも自慢していた。
自慢話が多い人で、自分の能力にも生き様にも自信満々。
かなりの年齢差があったので軽く扱われるのは仕方がなかったけど、正直いうとあまり好きなタイプの人物ではなかった。
しかし、「(経済的・社会的に)自分もいつかはこういう風になりたいもんだなぁ」と羨ましくも思っていた。

その人が、首を吊って自殺した。
そして、目の前にはその人の腐乱痕が広がり、ウジは這い回りハエは飛び交っている。
自分が今まで持っていた価値観の一つが崩れた瞬間でもあった。
しかも、よりによってその後始末に自分が来ているなんて・・・気分的にはとっとと逃げ出して、この現実を忘れたかった。
身体に力が入らないまま、とりあえず見積作業を済ませて、そそくさと現場を離れた。
その時の私は、「この仕事は、やりたくない・・」と思っていた。

もちろん、管理会社には、故人が自分と知り合いだったことは言わなかった。言えもしなかった。管理会社だけではなく、その時は誰にも話したくなかった。
でも、否応なく注ぎ込まれる嫌悪感が自分の心のキャパシティーをはるかに越えていた。
誰かに話さないと自分がおかしくなりそう・・・だけど、誰にも話せない・・・。

同情心でもない、悲壮感でもない、喪失感でもない、なんとも言えない重いものが圧し掛かってきて、しばらく気分が沈んだ日々を過ごした。
その人が持つ経済力や社会的地位だけとは言え、羨望視していた人が金銭苦で自殺した・・・その厳しい現実をどう受け止めて消化してよいものやら・・・私の心は完全に消化不良を起していた。
そして、それを消化するのにかなりの時間を要したのである。

作業的なことでは経験を積みながら随分と鍛えたれ、神経もズ太くなって打たれ強くなっていた私だが、知人の死についてはかなり打たれ弱いことが自分自身の中で露呈した。
(もちろん、今は立ち直っているからブログに書いている訳だが)

結局、不本意ながらもその現場の特掃依頼は入り、作業を実施することになった。
本当は行きたくなかった。
でも、仕事は仕事、依頼者に対しても責任があるし、お金をもらう以上はプロとしての仕事をやってみせるのがスジ。
更には、自分自身に「こういう現実から目を逸らして逃げてはいけない」という自戒の念が働いた。
仕事を通じて依頼者をサポートするのが私の責任なのに、当の私が逃げていたのでは話にならない。
依頼者である遺族や関係者は、逃げたくても逃げられないのだから。

現場では、とにかく無心で作業した。
いつもより、無意識に急いでやったように思う。
写真はもちろん、名前がでているようなモノもあえて見ないようにして作業を進めた。
普段は、無神経に見えるくらいの態度と雰囲気で仕事を進めるのだが、「故人が知人となると、ここまで気が重くなるものか・・」と重い気分と新鮮な感覚が交錯した。
故人には申し訳ないけど、少しは遺族側の気持ちを体感することができて、私にとってはいい薬になったかもしれない。
そして、自分の弱い部分が自覚できたことも収穫と言えば収穫。

更に、「あれだけ自分の人生に自信を持ち自分の生き様を自慢していた人が、最期をこういうかたちで迎えることになるなんて・・・」「先々のことは本当に分からないな・・・」とあらためて痛感した。

自殺志願者の気持ちは少し理解できる。
無責任なことを言うようだけど、とりあえず空気を吸い、何かを食べ、雨時々曇りの人生でも、惰性でもいいから、もう少し辛抱してこの世に存在してみたら、意外なところから陽が照ってくるかもしれない。
本当は、いくつかの道がまだ残っているのに、余計なプライドとか世間体とか怠け心(甘え)等が、自分の歩みを邪魔しているってこともあると思う。
死にたくなったらいつでも死ねる。
でも、いくら生きていたくても寿命ばかりは自分で決めることはできない。

誰の人生も、のんびり晴れた日ばかりじゃないと思う。雨も降れば風も吹く。時には暴風雨が襲ってくるかもしれない。
風雨に曝されるのに耐えられなかったら、雨風が凌げるところへ避難すればいい。
「根性なし」「弱虫」「負け犬」などと罵られても、逃げればいい。
格好悪くてもいいから、逃げればいい。
無理に気張ってビショ濡れになっても、結局、風邪をひくのは他人ではなく自分。


そんなことを考えながら、日々、目まぐるしく変わっていく心の天気に逆らわずに生きられるよう自分を励ましているのである。


トラックバック2006/07/17 08:40:12 投稿分より

-1989年設立―
特殊清掃専門会社
ヒューマンケア株式会社

お急ぎの方は
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(365日24時間受付)


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愛人

2024-04-21 15:39:52 | 自殺腐乱死体
神奈川県、賃貸マンション4階。20代女性が玄関ドアの内側にロープをかけ首吊り自殺。

腐乱が進み、悪臭と腐敗液が外に漏れ出して発見。
現場に参上したときは遺体はなく、汚染個所も比較的狭く玄関とその周辺だけ。
部屋は、若い女性らしくインテリアや装飾も可愛らしい雰囲気だった。
ただ、玄関だけは別世界。餌(遺体)を無くしたウジ・ハエの死骸と、故人の腐敗液を掃除。見た目にはきれいな部屋にも悪臭は充満。そこは除菌・消臭作業。
故人には身寄りがなく、不動産賃貸契約には知人の中年男性が保証人になっていた。
どうも故人は保証人男性の愛人らしい。
それなりの事情があってのことだろうが、身寄りのない20代女性の自殺には、せつなさを感じざるをえなかったが、最後にオチがついていた。

特殊清掃作業代を払うはずの保証人がトンズラしたのだ。まさにタダ働き。
事情はどうあれ、これじゃ、死んだ愛人も浮かばれまい。

トラックバック 2006/05/21より


-1989年設立―
日本初の特殊清掃専門会社
ヒューマンケア株式会社
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重圧

2021-01-03 16:36:05 | 自殺腐乱死体
2021謹賀新年。
日本海側は大雪で難儀しているようだけど、この三が日、こちらは気持ちのいい快晴に恵まれた。
一見は穏やかな正月、元旦は、早朝から日課のウォーキングに出かけ、明るくなれない心に初陽の光を当てながら黙々と歩いた。
自分の心に纏わりつく暗い過去を振り払うように、自分の心が欲しがっている明るい未来を探すように。

特に忙しかったわけでもないが、例年通り、大晦日が仕事納めで、元旦が仕事始め。
また、これも、ほとんど毎年のことだけど、
「また、一年、労苦に汗し、苦悩を携えて生きていかなければならないのか・・・」
と、動悸にも似た浅い溜息が、幾重にも口を突いてでてきた。
とはいえ、大晦日と元旦の夜は、TVを相手に、いつにない御馳走に舌鼓を打った。
気分は浮かないながらも、「せっかくの正月だから」と、酒も、いつもより多めに飲み、それなりに穏やかに、それなりに平和に年を越すことができた(0:00になる前に寝てしまったけど)。

しかし、今年の正月は、「おめでとう」とばかりは言っていられない。
承知の通り、コロナ第三波が猛威をふるっているからだ。
その禍は、春の緊急事態宣言時をはるかに超越していて、もはや制御不能の状態。
しかも、そのピークは、まだ見えていない。
緊急事態宣言が再び発出されるのは、時間の問題かもしれない。

この冬が、今回のコロナ禍において、最大・最悪の山場になるであろうことは、かねてから予想されていたことだろうけど、我々がコロナに慣れてしまっていること、我慢・自制に疲れてしまっていること、政府の対策が後手後手になっていること等々、一波・二波にはなかった要因が、感染に拍車をかけているように思う。
併せて、「経済を回すため」「自分は重症化しない」等とのたまわり、医療従事者の苦境も他人事にして自制しない人達のことが目につき、どうしても気に障ってしまっている。
飲食店や観光業を支援する術は、他にもたくさんあるはずなのに。

ただ、身体が不要不急の外出をしていないだけで、自分だって、中身は似たようなもの。
「人々の気が緩んでいる」と言われている中、私にも心当たりがある。
忘年会中止や、新年会不要不急の外出を自粛しているのはもちろん、スーパーマーケット以外、人が多いところに出向くこともしていないけど、第一波のときに比べると緊張感は薄い。
あの頃は、人の少ない屋外をウォーキングするだけでもピリピリしていたけど、今は、そこまでではない。
で、この期に及んでも、「たまには、スーパー銭湯くらいには行きたいな」なんて、呑気なことを考えてしまう。
そんな自分を顧みて、“他人を批難することは簡単、自分を改めることは難しい”と、つくづく思う。
とにかく、国や自治体が行う感染対策の足を引っ張らないようにだけは気をつけたい。

やはり、心配なのは医療体制。
このままだと、医療体制が崩壊するうえ、医療従事者といわれる人達が病んでしまう(既に病んでしまっている人も多いらしい)。
「感染したって重症化しなければいい」と、自分だけのことを考えるのはよした方がいい。
感染者を罪人扱いするつもりもないし、罪人扱いしてならないけど、無責任な行動によって多くの人を感染のリスクに晒し、多くの人の手を煩わせることになることを肝に銘じよう。
自分だって、コロナに限らず、いつ、どんな傷病で病院のお世話になることになるかわからないのだから。

それでも、残念ながら、これから、感染者数・死者数は激増していくはず。
私の場合、感染者数や死者数だけでなく、同年代男性の、倒産、破産、失業、路上生活に転落・・・なんていうニュースがやたらと目につき、とても他人事として流すことができず、気分を落ち込ませている。
この寒空の下、外で夜を明かさなければならないなんて・・・
どんなに寒いだろうか・・・
どんなに惨めだろうか・・・
どんなに淋しいだろうか・・・
「生きているのがイヤになる」って、よくわかる・・・切ない。

それも一因としてあるのだろう、昨年から気分が優れない。
例年の“冬鬱”か。
虚無感・疲労感、そして、得も知れぬ孤独感・・・
今回はここ数年になかったくらい重症で、なかなかツラいものがある。
夕方から夜にかけては、比較的 楽になるのだが、夜明け前の早朝がもっとも苦しい。
不眠症は長年の持病なので仕方がないとしても、寒いはずなのに身体が熱くなって、ベットリと汗をかく。
息は浅く、小刻みになり、時にはうなされる。
一体、自分はどうなっているのだろう・・・原因は何なのだろう・・・
自分よりはるかに苦しい境遇にあっても、果敢に生きようとしている人達もたくさんいるというのに、得体の知れない重圧が、私の精神を押さえつけてくるのである。

重鬱になると、今や未来、周りの環境や周り人達に気持ちが向かなくなる。
仕事や家族のことさえ、心の視界から消える。
周りの迷惑を考えないわけでもなく、誰かが悲しむのがわからないのでもなく、「周りがどうなってもいい」と思うのでもなく、自分のツラさだけで手いっぱいになり、周りのことに想いが行かなくなるのである。
そして、人によっては、それが自死に向かわせる・・・それが恐い。
死生観的な“健常者”が、そこのところを理解すれば、少しは自死を減らすことができるような気がする。



出向いた現場は、市街地に建つ賃貸マンション。
駅近で生活の利便性は高い地域。
築年数は浅く、間取りは1K。
部屋の状態は、一言でいうと、「腐乱死体ゴミ部屋」。
ドロドロの遺体汚物、無数のウジ・ハエ、凄まじい悪臭はもちろんのこと、目を引いたのは、ウイスキーの空瓶と氷の空袋。
かなりの量を飲んでいたのだろう、それが、部屋中に散乱・山積みされていた。
その荒れ様は、そのまま、故人の最期の生き様が映し出されているようで、凄惨さの中にも何ともいえない切なさがあった。

発見のキッカケは異臭と害虫。
当該現場から妙な異臭がしはじめ、そのうち小さなハエまででるように。
それが日に日に悪化してきたものだから、隣室の住人は、管理会社に通報。
玄関ドアの隙間から漏れ出る異臭は、それまでに嗅いだことがない種類の悪臭。
部屋の中でとんでもないことが起こっていることはドアを開けずとも察することができ、管理会社は、そのまま警察に通報。
そして、部屋の床、ゴミに埋もれるように、人間のかたちをした物体が、人間とは思えないくらい変わり果てた姿で横たわっているのを発見。
凄まじい悪臭と、無数のウジ・ハエが放たれる中、その後、警察の手によって、その物体は、人間扱いしたくてもできないくらいの状態で、引きずられるように搬出されたのだった。

亡くなったのは、50代後半の男性。
死因は、一応、自然死(病死)。
晩年は無職。
ただ、一流企業でもなく、エリートでもなかったけど、それ以前は一所の会社に長く勤務。
出世も望まず、当たり障りなく、誰かと競うこともなく、無難なサラリーマン生活だった。
一方、社宅暮らしの独身で、上司に従順だった故人は、会社にとっても動かしやすく、使い勝手のいい社員だった。

そんな中で転機となったのは異動。
肩書きは“昇進”だったが、社内の誰の目にも、それは“左遷”。
ただでさえ、歴代、そのポジションに就いて長くもった人はおらず、いわば“窓際”。
五十も半ばにして「NО!」と言えない立場であることは、会社にも見透かされていた。
会社都合の転勤や異動に黙って従い、実直に勤めてきた見返りがこれ・・・
余計なプライドや自分を幸せにしない意地は持たないようにして、従順サラリーマンを渡世として無難に過ごしてきた故人だったが、事実上の「クビ」を言い渡され、自分の中で、張りつめていた何かが“プツン”と切れた。

結局、定年を待たず退職。
同時に、住み慣れた社宅を出て、新しい住処(現場)へ転居。
「何とかなる!」「まだやれる!」と信じて。
が、自分が思っていたよりはるかに現実は厳しく、なかなか新しい仕事にありつけず。
それでも、非正規のアルバイトや派遣の仕事で食いつなぎながら、粘り強く就職活動を続けた。
しかし、経験や能力をよそに、自分の年齢が、それを邪魔した。
年齢だけ訊かれてはねられたことは数知れず。
悲しく、悔しい思いをしたことも数知れず。
“現実”に打ちのめされ、“現実”をイヤと言うほど思い知らされた。

この状況では、「心を折らず がんばれ!」と言う方に無理がある。
労働意欲は次第に削がれていき、そのうち、就活も頓挫。
現実を忘れたくて・・・
昼間から酒を飲むクセがつき・・・
貯えは減っていく一方で・・・
先には暗闇しか見えず・・・
自らを破滅に追いやることはわかっていたけど・・・
そこから抜けだす術がわからず・・・
理性は麻痺し、そのまま酒に溺れる日々は続いていった。

病死、老衰、事故死、戦死、餓死etc・・・そして自死・・・死因は後の人が決める。
また、“自殺という名の病死”があれば“病死という名の自殺”もある。
故人は、「このまま死んだってかまわない」と思いながら飲んでいたように思え・・・
私には、故人が、生きること・生きなければばらないことの重圧に押しつぶされた、いわば“圧死”のように思えた。
そして、それは、私にとって決して他人事ではなく・・・
その圧が重すぎるのか、こちらか弱すぎるのか・・・その答を導くヒントさえ見つけることができず、私は、ただただ重苦しい溜息を吐くしかなかった。



死業二十九年目の冬・・・
私も、随分と歳をとった・・・
そして、何だかスゴく疲れた・・・
鏡の中に衰えた自分を見ると、その顔からは、「後悔」なんて簡単な言葉では片づけられないくらい重苦しいものが滲み出ている。

あと、どれくらい、こうやって生きていかなければならないのだろうか・・・
この重い虚無感・疲労感・孤独感が癒される日はくるのだろうか・・・
自分に待っているのは明るい未来ではなく、暗い日々ばかりのように思えることもしばしば。

それでも、生かされているうえは生きなければならない。
死ぬまでは生きなければならない。
それが、摂理だから。

私は、「生かされている」ことの感謝・喜びと、「生きなければならない」ことの苦悩・重圧の狭間で、もがいている。
決意もなければ、覚悟もできていない中で・・・
しかし、生きていくかぎりは、これからも もがき続けるしかない。

「がんばれ・・・」
心の奥底にこだまする、幸せに生きたがる自分のそんな声に、かすかな希望を抱きながら。


特殊清掃についてのお問い合わせは
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個人戦

2017-11-07 08:43:54 | 自殺腐乱死体
相変わらず 現場仕事に勤しむ毎日。
久しぶりのブログ更新となったが、気づけば、晩夏も初秋も通り過ぎ11月になっている。
ありがたいことに、私は、代わり映えのない日々を送っている。
愉快爽快に暮らせているわけではないけど、大きな災難にも見舞われていない。
(「仕事自体が災難」「性格自体が災難」と言ってしまえば そうかもしれないけど。)
ただ、日常の平穏が保たれていながらも、ブログの更新は二の次・三の次。
これで、会社から手当(報酬)が支給されているわけでもないし、その割に結構な時間を取られてしまうわけで、限りある時間(残り少ない人生)の中でリスキーな一面もある。
だから、読んでくれる人には申し訳ないことなのだが、時間の使い方を気にしながら、気が向いたときにだけ書いている。

そんな秋、例によって、私の精神も低空飛行をはじめている。
重症だった四年前の秋冬に比べたらマシだけど、怠けて立ち止まると、ツラいものに襲われる。
しかし、それを言い訳に、だらしなく時間を過ごすようなことはしたくない。
楽することが大好きな私は、それに負けじと、仕事でもプライベートでも積極的に身体を動かすことを心掛けている。
併せて、ささやかなものかもしれないけど、日常にある幸せを数えるようにしている。
やがてくる冬と人生の終わりに備えて、温かな笑顔の想い出を溜め込んでいるのである。


「一人で行かれるんですか?」
所は、不動産会社の事務所。
担当者の男性は、現場の部屋の鍵を私に差し出しながらそう言った。
「はい・・・・・とりあえず、見るだけのことですから・・・」
私は、あちこちで受け慣れた質問に応えながら、鍵を受け取った。
「大丈夫ですか!?」
担当者は、驚きの表情を浮かべた。
「大丈夫です・・・・・慣れてますから・・・・・」
私は、“No problem”の笑みを浮かべた。
そして、現場の状況について、二~三の質問を投げかけた。

現場は、そこから歩いて数分のところにあるマンション。
その一室にある浴室で、住人が孤独死。
死後 どのくらいの日数が経過していたのか、湯(浴槽)に浸かった状態だったのかどうか、浴槽に湯(汚水)が溜まったままになっているかどうか、私は、その辺のところを担当者に訊いた。
しかし、担当者の口からは、ハッキリした返答がでてこず。
「現場を見てないものですから・・・」
と、気マズそうに口を濁すばかり。
“問答を繰り返すのは時間の無駄”“見に行ったほうがはやい”と判断した私は、
「とりあえず、見てきます」
と話を打ち切り、その足を現場マンションに向けた。

現地に到着すると、まずは1Fエントランスの管理人室へ。
管理人に挨拶し、用向きを説明。
部屋は見ていないものの、出来事は管理人も把握。
「事情は・・・・・御存知・・・・・ですよね?」
と、少し言いにくそうにそう言った。
そして、
「お一人ですか? 大丈夫ですか!?」
と、不動産屋と同じことを言ってきた。
私は、そんな管理人に“No problem”の頷きをみせてから、その足を現場の部屋に向けた。

幸い、玄関の外に異臭の漏洩はなし。
窓にハエの影が映っているようなことも。
私は、借りてきた鍵で玄関を開錠し、“失礼しま~す”と心の声で挨拶をしながら、玄関を奥へと進んでいった。

問題の浴室は、玄関から近い場所にあった。
室内には、それなりの異臭が充満していたが、浴室の近づくとその濃度は徐々に上昇。
更に、浴室の扉を開けると一気に上昇。
私は、脇に挟んでいた専用マスクを装着しながら、蛍光灯のスイッチをON。
すると、衝撃の光景が目に飛び込んできた。

浴室は、至極凄惨な状況。
汚染具合を観察すると、故人は、浴槽内にいたことが伺えた。
亡くなった当初から湯は張られていなかった模様。
浴槽の底には、黒・茶・赤・黄、不気味な紋様の腐敗粘土と腐敗液が堆積。
更に、その遺体を搬出した際の“引きずり痕”が浴槽の淵・外面・洗い場・出入口にベッタリ。
「ホラー映画のセットか?」と思われるくらい悍(おぞ)ましい色彩で汚染。
また、警察が指紋を採ったため、浴室の壁を中心に、そこら中 黒カビのような汚れが付着。
これが、見た目の印象を更に衝撃的にしていた。

浴室の手前は洗面所。
そこには、洗面台や洗濯機等があり、洗面用具や洗剤・タオル等、日常の生活用品が整然と置かれていた。
が、その傍らには、日常の生活用品とは思えないモノが。
それは、黒マジックで“浴室内”と書かれた半透明の薄いビニール袋に入れられて、床の隅に置かれていた。
ある種の証拠品として警察が現場に一時保管したものと思われた。
よく見ると、それは七論。
そして、その中には、練炭の灰も残されていた。
結果、私の頭には、そこで起きたことが自ずと浮かんできた。

「自殺か・・・・・」
「不動産屋も管理人も そんなこと言ってなかったなぁ・・・・・」
「知らないのかな・・・・・いや、知らないはずはないな・・・・・」
「知ってて黙ってるんだろうな・・・俺は、そんなこと気にしないのにな・・・」
私は、そんなことを考えながら、不気味な色に染まった浴室をくまなく観察した。
同時に、それを掃除することになるかもしれない自分に湧いてきた不安と対峙できる勇気を自分の中に探した。


特殊清掃の日・・・
「作業も一人でやるんですか!?」
「大丈夫なんですか!?」
何が大丈夫じゃないのかよくわからなかったけど、不動産会社の担当者とマンションの管理人は それぞれに驚いた様子で、一人で現れた私にそう訊いてきた。
先入観も働いて、二人の顔は自殺の事実も知っているように見えた。
それでも、私は、故人への気遣いのつもりで、まったく気づかぬフリをして、
「二人がかりでやるような作業じゃありませんから・・・・・」
「そもそも、浴室の作業スペースは一人分ですしね・・・・・」
と、“Low problem”の笑みを浮かべて そう応えた。

腐乱死体現場に一人で入るなんて、尋常なことではないのだろう・・・
自殺現場を一人で片づけるなんて、驚くようなことなのだろう・・・
“一人で充分に用が足りる仕事なのだから一人でやるのは当り前”“一人のほうが気楽でいい”等と思っている私は、神経がおかしいのだろうか。
ただ、慣れているとはいえ、いざ作業となると、現場が凄惨であればあるほど気分は重くなる。
自分の中の勇気を できるかぎり掻き集めてはみたものの、
「ハァ・・・・・アレを掃除しなきゃならないのか・・・・・」
と、ここでも、前日の夜から気分は重くなっていった。

しかし、それをやるのが自分の仕事。
会社員としての責任であり、請負者としての義務であり、生きるための権利でもある。
そう・・・私は、誰のためでもなく自分のために、生きる責任を負い、義務を履行し、権利を行使しているのだ。
“誰かのため”は結果の実であり、私は、誰かのために頑張るような殊勝な人間ではない。
もっと言えば、“誰かのため”も結局は自分のため。
自分のためだから頑張れる・・・一人きりの戦いである。

浴室とは裏腹に、部屋の方は整理整頓・清掃が行き届いてきれいだった。
リアルな生活感の中、死に支度を整えていたような形跡はなく、故人は、死の間際まで日常の生活を営んでいたよう。
つまり、そこからは、故人が “まだまだ生きるつもりだった” “ギリギリまで生きようとしていた”ということが伺えた。
故人は 生きることの苦しさ・辛さと戦っていた・・・
七輪・練炭を手元に用意したのは、ずっと以前のことなのか、近日中のことだったのか知る由もなかったけど、どこか“心の保険”“心の武器”のようなつもりで用意していたのかもしれない・・・
そんなことを頭で想像すると、その胸の内には 生きることと格闘した故人を労うような同志的な想いが湧いてきた。
そして、それは“俺は この仕事で生きてるんだ”“俺なら この風呂をきれいにできるはずだ”という想いに変化し、くたびれた中年男一人の身体に故人の力が加わるような感覚を覚えたのだった。


自死は敗北ではない・・・
もちろん勝利でもない・・・
いうなれば戦線離脱・・・
戦闘責任・戦闘義務・戦闘権の放棄・・・
私は、そういう風に思っている。
そして、肯定できるものではないけど、一部かもしれないけど、その気持ちはわかる。

人生、一日一日が戦い。
人は一人で生きていけないものではあるけど、一人で生きていかなければならないものでもある。
誰かに悩みを打ち明けたり、誰かと悲しみを分かち合ったりすることで、癒されたり・励まされたり・救われたりすることはある。
しかし、究極的には孤独なもの。
過去の後悔・現在の不満・未来の不安、自分の不運・弱さ・愚かさ、自分を押しつぶそうとするモノと一人で戦いながら生きていかなければならない。

そんな人生では、生きていることがツラくなるときがある。
生きることが面倒臭いことのように思えてしまうことがある。
でも、死にたいわけではない。
私は生きたい・・・・・精一杯生きたい・・・・・間違いなくそう思っている。
だから、悩みながら、苦しみながらも、涙と汗で飯を得て、それを喰う。

私は、一つ一つの現場で一人一人の死痕を消しながらも、その生痕に残る生きる力を与えてもらっているのかもしれない。
そして、それが、人生の個人戦を戦い抜くための力になっているのかもしれない。

約四半世紀、これに携わって生きてきた私は、先逝人が見せてくれた戦いの痕跡、そして、これから見ることになるであろう戦いの痕跡を一助に これからも この小さな人生を精一杯生きていこうと思うのである。



特殊清掃についてのお問い合わせは
0120-74-4949
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