取り引きのある不動産会社から相談が入った。
その内容は、
「社有マンションで自殺が発生」
「発見が遅れたため、部屋は相当に汚れているはず」
「故人は大学生で、両親を交えて協議することになっている」
「事前に現地調査を済ませたうえで、その協議に加わってほしい」
といったもの。
自殺案件は話がスムーズにまとまらないことも少なくなく、依頼の内容は心情的にやや難儀なもの。
ただ、懇意にしている担当者からの頼みでもあり、無碍な対応はできない。
まずは依頼通りに動くことにし、“あとは、野となれ山となれ”と思考をチェンジ。
“野”でも“山”でも“ハイキング”の経験は豊富なので、「なんとかなる」と半分開き直って、「伺います」と返答した。
訪れた街は、「住みたい街ランキング」で常に上位にある東京の某市。
目的の現場は、人気駅の近くに建つ賃貸マンション。
かなりの好立地で、賃料が高額であることはヨソ者の私でも容易に察しがついた。
私は、1Fエントランスで待ち合わせた担当者から鍵を預かり、根回しの済んでいるマンション管理人に軽く挨拶をしてエレベーターへ。
目的の階につくと、周囲に人がいないことを確認しながら そそくさと現場の部屋へ向かい、自宅に戻って来た住人かのような淀みない動きで開錠。
素早く かつ最狭にドアを引き、スルリと身体を滑り込ませた。
ハエがうるさくしたりもせず、室内はシ~ンと静まり返っていた。
慣れきった私は不気味さこそ感じなかったものの、「自殺」という死因が、その静けさを一層際立たせているような気がした。
1LDKの奥へ歩みを進めると、部屋の床には不自然かつ見慣れた物体があった。
それは、腐乱した遺体が残していったもの、腐乱した遺体しか残していけないもの。
私にとってその汚染度はヘヴィー級に近いミドル級、異臭レベルも同じ。
容易く片付けられるものではないながら、大袈裟に溜め息をつくほどのものでもなかった。
両親の自宅は関西の某県で、今回の件を受けて上京。
指定された集合場所は、現場マンションから徒歩数分のところにある両親宿泊のホテルラウンジ。
ただ、そこは人目の多いスペースで、話す内容も内容だっただけに、「話し合いは別の場所に移動してから方がいいだろうな・・・」と思った。
しかし、マンションの管理人室は狭すぎるし、エントランスだと人(住人)の目を引きやすい。
外での立ち話で済ませられる事案でもなし。
よくよく考えれば、ラウンジを行き交う人達は、いちいち我々のことを気に留めたりはしないはず。
声を低くしたうえで、「自殺」とか「遺体」とか、非日常的なキーワードを使わないようにすれば問題ない。
結局、そのラウンジがそのまま協議の場となった。
両親・担当者・私の三者は、約束の時間を前に集合。
当然か、どの顔にも笑みはなし。
日常的によく用いられる社交辞令的な愛想笑いさえも。
そんな重苦しい空気の中、担当者の、
「何と申し上げていいかわかりませんが・・・この度は・・・どうも・・・」
という歯切れの悪い言葉から協議は始まった。
本来なら、「ご愁傷様です」というのがマナーなのかもしれないけど、今回のような事案において、管理会社は、いわば“被害者”。
担当者が口ごもってしまうのは仕方のないことだった。
賃貸借契約解除、原状回復、損害賠償等々、協議しなければならない課題はいくつもあった。
不動産会社の主張が正当とされることや、要求して当然と思われる事項もいくつかあった。
が、両親が、悲しみと戸惑いと不安のドン底にあるのは察するに余りあり、担当者は、何をどう話せばいいのか考えあぐねている様子。
また、それに対して、両親は理解を示すのか、はたまた情緒不安定に反論してくるのか読み切れず。
私は、主張の根拠や判断の基準になる法令・条例や国のガイドライン、裁判例などは、だいたい頭に入れている。
しかも、踏んできた場数は担当者よりはるかに多い。
更に、“屁理屈”や“減らず口”においても右に出る者はわずか。
イザとなったら、担当者に代わって、「不動産会社vs両親(故人)」それぞれの責任・義務・権利を説明し、協議を落着させる気構えを持っていた。
私の役目は、特殊清掃・遺品整理・消臭消毒・内装改修工事など、原状回復の物理面を説明すること。
できるだけ詳しく現状を説明し、かつ、それに対処する作業や工事も丁寧に説明する必要があった。
ただ、一般の人は、“掃除=原状回復”と考える人が多い。
あと、ニオイの問題はほとんど無理解。
回りくどい表現ではなかなか理解してもらえないのだが、実状をリアルに伝えようとすると凄惨さばかりが際立ってしまう。
場合によっては、両親を更に悲しませることになりかねない。
そこのところの言葉選びが悩ましいところだった。
遺族がどう思おうと どう感じようと事実は事実。
回りくどい表現や、耳障りのいいことばかり言っていては仕事にならない。
常識的な礼儀とマナーを守ったうえであれば事務的に流しても問題はない。
あと、真心の伴わない白々しい同情が、かえって遺族に不快感を与えることもある。
“余計な感情移入”と“深い心遣い”の区別もできない独善者にはなりたくなかった私は、言葉は丁寧に、口調はソフトに、内容はストレートに、それを心掛けて状況を説明。
片や両親は、「呆け顔」といったら語弊があるが、まるで知らない言語を聞いているかのような表情。
反応は薄く、私が発する言葉の端々に合わせて規則的に頷くのみ。
それは、私の言葉を嚙み砕いて消化するのではなく、丸呑みして消化不良を起こしているような状態にみえた。
故人は20代前半の男子大学生。
出身は、両親のいる関西の某県、出身高校も全国的に有名な難関進学校。
そして、通っていたのは誰もが見上げる一流大学の理系学部。
しかし、故人はその道に満足せず。
医師になる夢を追い、大学に在籍しながら医学部入試に挑戦することに。
ただ、故人が目指していたのは、「国内最難関」といわれる医学部。
ちょっとやそっとの努力や能力、人並みの脳力や経済力では手は出せないところ。
同じ医師になるにしても、もっと難易度の低い大学はいくらでもあったはず。
故人の能力を鑑みると、私大を含めたら“選び放題”だっただろうに、故人はその道には流れなかったようだった。
大学生と受験生、二足の草鞋を履いた生活を維持するには金も時間もいる。
しかも、目指すのは医学部。
更に、住居は、「学生の一人暮しには贅沢過ぎるんじゃない?」と思われるくらいの部屋。
平凡な額の金銭では済まされないはず。
ただ、両親は共に医師で医院を経営。
“超”がつくかどうはわからないながら富裕層に間違いなし。
多くの大学生が「奨学金」という名の借金を背負い、学業を圧してまでアルバイトに精を出さざるを得ない時代にあって、金の心配が要らず夢に向かって突っ走れる環境にあった故人は「恵まれている」としか言いようがなかった。
とは言え、故人にとっては大変なチャレンジだったはず。
同時に、充実した日々でもあっただろう。
そんな中、故人の中の何かが変わった・・・
故人の中で何かが起こった・・・
医師への道は、“親の夢”を“自分の夢”と錯覚して選んだものか・・・
一つだったはずの親子の夢が、ちょっとした行き違いをキッカケに乖離していったのか・・・
そして、結局、一流大学で医師を目指すことの意味を見失ったのか・・・
しかし、故人は、既に一流大学の学生。
医師になれなくても、明るい未来が見通せる境遇。
しかも、裕福な家庭で、言わば、「親ガチャに当たった勝ち組候補」。
そんな故人の自死について、俗人(私)の頭には「何故?」という疑念ばかりが巡った。
自死の衝撃・・・
息子を失った悲しみ・・・
どう責任をとるべきか、それは負いきれるものなのか・・・
不安・怒り・悲哀・苦悩・後悔・葛藤・絶望・・・それらが制御不能で殴り合っている・・・
そんな心模様が、両親の顔に色濃く表れていた。
一方の不動産会社の主張や要求は、私の解釈としても「正当」と見なせるもの。
両親は、それに対して抗弁する術を持たず。
そもそも、そんな気力もなさそう。
故人の後始末が両親にとって辛い道程になることは明らかだったが、平和的に進めることができそうな予感がして、少しだけホッとした。
「協議」といっても、実のところは、不動産会社と私が“言う側”、両親は“聞く側”という構図。
見解が対立したり、どちらかが言葉に窮したりする場面はなく、時間は静かに経過。
協議が終わって場がお開きになる際には、
「あとのことはお任せします・・・」
「よろしくお願いします・・・」
と、両親は、泣きそうな顔で担当者と私に深々と頭を下げた。
両親に、そこまでの罪悪感を抱かせ卑屈にさせた故人の死・・・
「故人は、両親のそんな姿をみたらどう思うだろう・・・」
考えても仕方のないこと・・・“考えてはいけないこと”と知りつつ、私の心にはそんな凡俗な不満が過った。
「自殺は蛮行」と、世間は簡単に否定する。
同意できる部分はありながらも、私は少し違う感覚を持っている。
この人生において何度か自殺願望や希死念慮に囚われたことがある身の私は、これまで、自殺者について「同志的な感情を覚える」「一方的に非難できない」といった旨の考えを示してきた。
更に今は、「戦線離脱」「敵前逃亡」のように受け止められがちな自死を、過激を承知で言わせてもらうならば「“戦死”としても不自然はない」と思っている(戦争や暴力を美化する意図はない)。
どんな憶病者でも、どんなに弱虫でも、何かに苦悩するということは、何かと戦っているということでもあるのだから。
目標・目的を持ち、夢を追う。
心を燃やし、時間や金を費やし、頭や身体を駆使する。
素晴らしい生き方だと思う。
ただ、人間は“考える葦”。
偉大な思考力を持つものでありながらも、“葦”のように弱いものでもある。
虚無感という曲者は、疑念や不安、絶望感など、ネガティブな感情を次々と造り出しては、弱みにつけ込むかのように煽り立ててくる。
そして、それに立ち向かおうとすればするほど返り討ちに遭うリスクが高まる。
懸命に生きようとすればするほど、死へ向かう反動が大きくなる。
世(人)の中には「考えても仕方がないこと」や「考えない方がいいこと」がある。
答が出ないことや正解が一つでないことなんてザラにある。
“生きる意味”なんて、その最たるもの。
「やっと見つけた!」と思った“正解”は、いとも簡単に姿を変え、自分を裏切る。
“生涯の道標”と過信したら、とんだしっぺ返しを食らう。
結局のところ、“答”はない。
逆に、あるとしたら無数にある。
“無答”にうろたえるか、“無数”にたじろぐか、どちらも似たり寄ったり。
だとしたら、その都度、自分の頭に馴染む答、自分の心にシックリくる答を“正解”にして都合よく生きればいいと思う。
半世紀近くが過ぎ・・・
野球選手になることを夢見ていた無邪気な少年は とっても有邪気な中年に。
その手には、バットではなくスクレーパーを持ち、ボールではなくブラシを握り、皮革グローブではなくラテックスグローブをはめている。
目の前に広がるのは、活気溢れるグラウンドではなく 精気失うグロウンド・・・
香ってくるのは、芳しい芝の匂いではなく 悍ましい死場の臭い・・・
聴こえてくるのは、観客の声援ではなく 心の悲鳴・・・
笑えるようで笑えないような、笑えないようで笑えるような、まったく、人生っておかしなもの。
「俺って、一体、何やってんだろうなぁ・・・」
汚物と格闘している中で、ふと そう憂うことがある。
ただ・・・ただ、まだ、こうして生きている。
意味のある人生を無意味に生きている。
無意味な人生に意味をもらって生きている。
振り返れば、夢の跡が遠くに見える。
そして、かすかに輝きも見える。
震えるほどの虚しさがやってきたときは、滑稽な我が道を“フッ”と鼻で笑って自分を慰めるのである。