特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

見えない敵

2020-04-30 08:51:55 | 遺品整理
今日で4月も終わり。
本来なら穏やかなはずの春暖はどこへやら、今月も激動のひと月となった。
流れるのは厳しいニュースばかりで、世の中の空気は重い。
目に見えるほどの明るい兆しもなく、暗雲はどこまでも垂れこめている。
そこへもってきて、私は、安酒で誤魔化せるほど能天気な性格ではなく、なかなか明るい気持ちになれないでいる。

そんな今月中旬のこと。
私は、仲間4人と、とある民家に向かった。
現場は一般的な木造二階一戸建、築年数は50年くらいか。
空き家になってから、そう時間が経っていなかったにも関わらず、家屋は著しく劣化。
室内もまた、結構な傷みが出ていた。

頼まれた仕事は家財撤去、依頼者は亡くなった住人の遺族。
「遺族」といっても、子や孫ではなく、ちょっと複雑で薄い関係。
家財や家屋はもちろん、故人にも特段の思い入れはないようで、非情にも見えるくらい冷淡。
他人に見せないようにしていても、“欲”というものは、なかなか抑えることができず、どことなく滲み出てしまうもの。
多分、それに突き動かされたのだろう、さっさと家を空にして土地を金に替えたいようだった。

単独でやる特掃にかぎらず、複数名で取りかかる一般現場でも、だいたい、作業難易度の高い部分や危険度の高いところ、特別な汚染や汚物があるようなところは私が担うことになる。
遺体系・腐敗食品系・液物系・害虫害獣系・糞尿系etc・・・
社内ルールでもなく、作業マニュアルでもなく、私が志願するわけでもなく、暗黙の慣習として。
ず~っとそうだから、私も、抗うことなくそれに従っている。

この現場でいうと、当該部分は物置にあたる。
庭に建つ、今にも倒壊しそうな古ぼけた木造物置。
もう、何十年も放置されている感じで、いかにも不衛生。
皆が各々の作業場所に散るのに合わせて、私は、その物置へ。
建てつけのわるい戸をこじ開けると、ヒンヤリとした湿気と肺に悪そうなカビ臭がお出迎え。
薄暗い中、目を凝らしてみると、何もかもにホコリが厚く堆積し、モノクロに変色。
まるで、時代に取り残されたような景観。
加えて、見えないところに何が潜んでいてもおかしくなさそうな、不気味な雰囲気が漂っていた。

私は、ウジやハエはもちろん、ゴキブリやネズミも平気。
蜘蛛やトカゲもかわいいもの。
蜂やムカデも何とかなる。
ただ、蛇はイカン、蛇だけはダメ。
実物はもちろん、玩具のゴミ蛇も無理。
TVとかで、蛇の写真や映像がでてきても目をそむけるくらい。
子供の頃は平気だったのに、いつの頃からか超苦手に。
そんな具合だから、人の死痕でも悲鳴なんか上げないのに、紛らわしいところに紛らわしいかたちで置いてあるロープやホースに悲鳴を上げてしまうこともある。
ハブやマムシじゃなければ、そんなに怖がることもないのだろうけど、あの形状は生理的に受けつけないのだ。

何年か前、一人でアパート孤独死現場の特掃をやっていたとき、天井から蛇が降りてきたことがあった。
わずかな物音で気づいたのだが、天井からのびてくる長いヤツをみたときの私の狼狽ぶりには、上から見ていた(?)故人も、思わず笑っちゃったかもしれない。
あとは、とある御宅のタンスを動かしたら、その裏からデッカイ蛇がでてきてビックリ仰天!、悲鳴とともに飛び跳ねて逃げたこともあった。

また別の民家で、 “ネズミ避け”のつもりのようで、家のあちこち 庭のあちこちに何十匹ものゴム蛇が置いてあったこともあった。
玩具とはいえ、どこを向いても、どこに行っても蛇だらけ。
しかも、何かの陰に隠すように、見えないところに置いてあるものだから、いつも突然現れる。
その驚いたこと、その恐ろしかったこと、その不気味だったことといったら・・・もう泣きそうになった。

本件の物置にトカゲはいたけど、幸い、蛇はおらず。
近くに蜂も飛んでいたが、こちらがちょっかいを出さなければ問題ないので、特に気にならず。
しかし、そこには、目に見えない厄介なヤツが他にいた。
そう・・・そこにいたのは“ダニ”。
私は、そこに多くのダニが潜んでいるのを、身をもって知ることとなった。

作業を始めると、目が痒くなるくらい大量のホコリが舞った。
それは防ぎようがないので、我慢して作業を進行。
すると、ほどなくして、首元が痒くなってきた。
そして、その痒みは、どんどん強くなり、首元から脇、背中へと拡大。
しかし、別に“痛い!”わけじゃないから耐えられないものではなく、そんなことで作業を止めるわけにはいかない。
私は、ヒドくなるばかりの痒みと戦いながら、作業を続行した。

もっとも重症だったのはクビ周り。
ぐるりと360°赤いブツブツができ、これが痒いこと!痒いこと!
しかし、掻くと余計にヒドくなるので、痒くても我慢!
仕事をしている昼間は気が紛れてそんなに気にならなかったけど、夜になると、感じる痒みは倍増!
特に、就寝中が強烈!
もう、痒くて!痒くて!まったく我慢することができず。
ボリボリ ボリボリ、手が届くところは軒並み掻きまくってしまった。
手が届かない背中は、愛用の孫の手をつかってまで。
それが二~三日続き、その間はロクに眠ることができなかった。

私は、頭だけじゃなく身体もかなり固い。
自分の手で背中を掻くことができない。
で、“孫の手”を持っている。
昔ながらの木製のヤツではなく、金属製でアンテナのように伸縮する最新式(?)のヤツ。
よくある木製のモノは先端(指先部分)が丸みをおびていて肌への当たりがソフト。
掻き心地は弱くて、痒みがとれるどころか、逆に歯痒い思いをしてしまう。
一方、私が持っている金属製のモノは先端(指先部分)が鋭利で肌への当たりがハード。
それを痒いところに押し当てて、ガリガリ!と痛いくらいに擦りつける。
すると、その強い掻き具合により、バツグン!の爽快感が得られ、これが相当に気持ちいいのである。

ちなみに、私は、耳カキもハード派・・・「スーパーハード派」といってもいいくらい。
中学の頃からそう。
しかし、耳鼻科医は、「耳掃除は綿棒でソフトにするべき」「耳垢は全部とってはいけない」と警告。
しかし、これは、「雑巾だけで特掃をやれ」って言っているようなもの(じゃない?)。
綿棒で撫でるだけなんて、そんな赤ん坊みたいなことやってられない。
固く鋭利な耳カキ棒で、ガリガリ!やらないと満足できない。
私は、それを、一日に一度とかではなく、二~三度、多いときは五~六度もやる。

となると、それなりの備えが必要(大袈裟な言い方だけど)。
で、いつでもどこでも耳カキができるよう、耳カキ棒は身の回りの至るところ置いてある。
自宅にも何本か持ってるし、会社のデスクにも、車にも積んである。
たまにしか使わない、カバンやリュックにも。
掻きたくなったらすぐに掻けないとストレスになるから、いつでもどこでも掻けるようにしてある。
26とか27くらいのときだったか、運転中の耳カキで右耳の鼓膜を破ったことがあって、今でも難聴と耳鳴りが残っているのに、まったく懲りていないのだ。

ダニの話に戻る。
あれから二週間余が経ち、今、症状はほとんど治まっている。
ブツブツはかなり小さくなり、残っている痒みもわずか。
本来なら、蕁麻疹がでてときみたいに、すぐ病院に行けばよかったのかもしれないけど、もともと私は病院嫌い。
その上、コロナにも注意しなければならず、皮膚科とはいえ不要不急で病院に行くと色んなところに迷惑がかかってしまう恐れもあった。
で、結局、病院には行かず、自然治癒に任せて今日に至っている。


特効薬もワクチンもない今、この新型コロナウイルスも自然治癒を待つのが治療法の主流だそう。
根本的には、人がもつ免疫力や治癒力が頼り。
必死に行われている治療を批判するつもりもなければ、懸命に動かされている医療を軽視しているわけでもないけど、その根幹は原始的。
ということは、日常生活において免疫力を下げないよう気をつけ、免疫力を高めるよう努めることが大切だろう。
感染しないよう充分な対策を実行し、また、“自分が保菌者かもしれない”という危機感を持ち、その上で、人に感染させないよう細心の注意をはらうことと同じくらいに。

問題は、身体のこと以外にもある。
そう・・・、生活の問題・・・お金の問題・・・経済の問題。
リーマンショックのときは、我々のような零細末端の珍業種には、ほとんど影響がなかった。
東日本大震災のときは仕事が激減したが、二カ月を過ぎた頃から徐々に復調してきた。
で、今回のコロナ災難は・・・
これは、それよりも、はるかに大きな影響がでる可能性をはらんでいる。
そして、終わりの見えないこの未知数が、不安感・悲愴感を増大させている。

そんな中、コロナ対策支援金として、政府が一人10万円くれるという。
はじめの30万円のときは、自分が対象外になることは容易に想像できたので何の興味も覚えなかったけど、今回の10万円は私ももらえるようなので関心がある。
ただ、その政策・・・いわゆる“金のバラマキ”には賛成できない。
「安直」というか「安易」というか、そういった浅慮感が否めない。

確かに、今の今、現金がなくて困っている人は多いのかもしれない。
「今をしのぐことで精一杯、その先のことなか考えられない」という人もいるかも。
そういう私だって、お金は必要、お金はほしい。
しかし、世帯差・個人差はあれど、これで延びる“生活寿命”は約一ヶ月。
たった一ヶ月延びるだけ、たったの一ヶ月・・・一ヶ月なんてすぐ過ぎる。
一ヶ月経って、支給金を使い果たして、スッカラカンになって、その後、どう生きればいいのか・・・一ヶ月先に待っているのは、今と同じ苦境なのである。

国も、“焼け石に水”であることは分かってながら、“目先の急務”としてやらざるを得ないということか。
他に妙案があるわけでもないから「愚策」とまでは言えないけど、布マスク二枚も同様、政治家の人達は、本来、頭がいいはずなのだから、もうちょっとマシな政策が打てないものかと、首を傾げてしまう。

もちろん(?)、政策に同調できないからといって、私は、受給を辞退するつもりはない。
「受給を辞退しても10万円は国庫に溶けるだけで何の役にも立たない(byどこかの市長)」といった啓けた見識もなければ、金銭欲を押しのけてまで貫けるほどの信念も持っていない。
ただ、「お金がほしい」「お金が必要」というだけのこと。
結局のところ、誰も最後まで助けてくれないし、自己責任・自助努力・・・個々で何とかするしかないのだから。

・・・と、評論家気取りで私見を述べてはいるものの、ことの是非を判断するのは一個人(私)ではなく社会、成否を見極めるのは一個人(私)ではなく未来、そして、評価を下すのは一個人(私)ではなく歴史。
ただ、この大きな難局において、今は、批判は口(文字)だけにして、国や自治体の方針に従うべきところは従い、協力すべきところは協力すべき。
同時に、痒いところに手が届く孫の手のような策を練りながら、蛇のようにしなやかに 苦難と苦悩の隙間をすり抜けながら、粘り強く生きるしかない。


敵は、新型コロナウイルスだけではない。
そこから派生したツラい出来事・・・怒り、悲しみ、苦しみ、恐怖、不安、絶望感が渦巻く現実も然り。
しかし、この苦境は、これまで我々が目もくれなかったことに目を向けさせ、多くのことを学ばせ、たくさんの知恵を得させてくれるのかもしれない。
人格を練り、品性を磨き、自分を鍛えるチャンスを与えてくれるのかもしれない。

そして今、“ぜいたくウイルス”“わがままウイルス”“傲慢ウイルス”“怠惰ウイルス”“冷淡ウイルス”etc・・・
それぞれ自分が感染している“見えない敵”を私達に気づかせ、その病を治す免疫を与えてくれるのかもしれないのである。


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ヤバい奴

2020-04-24 08:57:10 | 腐乱死体
4月も終盤に入ってきているというのに、なかなか暖かさが安定しない。
例年なら、暖かい日はもちろん、暑い日も少なくないはず。
なのに、今年はこんな感じ、いわば“令春”。
何かの摂理が働いてのことか・・・
この寒気が何かに影響しているのかどうか、逆に、何かが影響して寒気がきているのかどうか知る由もないけど、多くの人が曝されているように 肌で感じる気温だけではなく、世の中の空気まで寒々しくなっていることは言うまでもない。

こういう事態になってくると、平穏な日常のありがたみをヒシヒシと感じる。
飽き飽きするほどかわり映えしない毎日、平凡でありきたりの日常、不平不満ばかり吐いていた味気ない日々を・・・
ついこの前のことなのに、そんな日常を懐かしく思ってしまうのは、それほど、このコロナ災難が重大かつ深刻であるということか。

休業や外出自粛で、街の活気も失われている。
“活気”だけでなく、“生気”まで失っている人もいるだろう。
ただ、この期に及んでも、一部には“三密回避”“外出自粛”を無視し、人の迷惑も顧みない輩もいるよう。 
“自由”というものの成り立ちや根源を知らず、自制できないことを“自由な生き方”と勘違いし、「経済を回すため」等と自制心の欠落を他人への偽善にすり替え、無責任なクセに困ったことが起こると他人からの支援を当然のように貪るヤバい奴だ。
「越境飲み!?」「越境パチンコ!?」
もう、呆れるし、不愉快だし・・・強い憤りを覚える。

「外出自粛要請」がでていても、在宅勤務が不可能な私は、毎日、出勤している。
現場仕事は少なくなってきているけど、それでも、まだやるべき仕事があるから。
ただ、仕事以外での外出は控えている。
スーパーに食料を買いに行くくらいにして、余計な動きはしていない。
しかも、できるだけ短時間で、レジ精算時をはじめ、店内を歩くときも他の客との距離に気をつけている。

せっかく?時間があるのだから、スーパー銭湯にでも行ってリフレッシュしたいところだけど、そこも営業休止中(営業していても、今は行かないけど)。
しばらくぶりの軽登山も考えたが、人出が多いと登山道は混む。
屋外とはいえ、人と濃厚接触してしまうこともあり得る。
しかも、マスクをしたたままでは呼吸がツラい。
で、結局、断念。
あとは、ソロキャンプか、一通りの道具は持ってるし。
しかし、キャンプ場も混み合ったら意味がない。
シャワー室・トイレ・炊事場などは感染リスクが高いから、やはりダメ。
その代わりに、今年は花見もできなかったし、もう少し暖かくなるのを待ってBBQでもやろうかとも思うけど、人を集めてしまうのはマズいので、これも工夫が必要。
あと、“ソロBBQ”でも気分転換できるはずだけど、趣味を孤高に楽しんでいるように見えるソロキャンプは、ある意味でカッコいいのに比べ、“ソロBBQ”ってのは、「そこまでして炭火で飯が食いたいのか?」っていう風に見られて、なんだか、ネクラっぽい孤独感がでて“ヤバい奴”になってしまいかねない。
結局、できることが思いつかず、人を避けながらウォーキングだけやって その日その日を暮れさせているのである。

休みがとりやすくなったのはありがたいけど、遊び慣れしていない私でも、何のレジャーも楽しめないのは寂しく思う。
また、その理由が仕事減では、身体は休めても気持ちは休まらない。
現場作業が少なくて身体は楽になったのかもしれないけど、逆に精神はツラくなっている。
事態が深刻化していく一方であるうえ いまだウイルスの収束時期が読めていないわけで、先に明るい展望が持てないから余計に。
筋金入りのネガティブ男(私)は、この先のことを考えると 悪い予感しかしない。
そして、鬱持ちであるが故に、その精神は それに過敏に反応しているのである。
何とか今はまだ、少しは余裕があるけど、このまま時が経てば経つほど、私も徐々に追い詰められていくだろう。
ホント、困った・・・ホント、弱った・・・。


「転落死なんですけど・・・」
付き合いのある不動産会社から特掃の依頼が入った。
現場は、繁華街の裏路地にある古い木造アパート。
そこは、車が通れるほどの道幅はないけど、自転車や歩行者の往来は多いエリア。
建物は二階建で、1DKが一階に二戸、二階に二戸。
二階の一室は空室で、もう一室が故人の部屋。
二階へつながる階段は内階段になっており、二階二戸の玄関は一階、路地に面していた。

「うぁ!・・・ヤバ・・・」
目を見張ったのは、その玄関。
玄関ドア外側の下部には、いくつも赤黒い筋。
それは、醤油やソースでもなく、チョコレートでもなし。
そう・・・それは、どこからどう見ても血、しかも大量。
私は、不動産会社から“階段下の玄関で倒れていた”ということは聞いていたが、“外に血が流れ出ている”ということまでは聞いていなかったので、ちょっと驚いた。

「さてと・・・開けてみるか・・・」
私は、何枚かのタオルを細長く折り、ドアの下に重ねて置いた。
そして、不動産会社から借りてきた鍵を挿入。
周囲に人影がないことを確認してから、ゆっくりドアを引いた。
素人ではない私は、ドアを開ける際、ダムが決壊したときのように土間の血が再び流れ出てくることにも用心していた。
しかし、幸い、血だまりの大部分は凝固し、新たに流れ出てくることはなかった。

「うぁ~・・・こりゃ迫力あるな・・・」
眼下には、赤黒い粘液で覆われた玄関土間が出現。
それは、半乾きの状態で滞留した大量の血。
乾いた部分は冷えたブラックチョコレートのように固まり、乾ききっていない部分は煮詰めた赤ワインのように生々しく光っていた。
と同時に、特有の血生臭さがプ~ンと私の鼻をとおり過ぎて、ズ~ンと精神を圧してきた。

「本当に転落死か?」
もっとも大きい血痕は玄関土間にあったけど、そこだけにとどまらず階段から二階故人宅の台所床にも付着。
もともと身体の具合が悪かったのだろう、 “転落”だけではない死因が他にあったことは素人目にも明白。
室内で吐血または下血した後、それで慌てたか、階段を転げ落ちて外傷を負ったものと思われた。
ま、どんなに推理を働かせてところで、私がやらなければならない仕事は変わらない。
自分の中で一応の決着をみた私は、作業のシミュレーションに頭を切り替えた。

「しかし、よりによって、この場所とは・・・」
そこは人通りが多い路地に面した位置。
階段は急で狭く、血が溜まった玄関の土間も狭い。
しかも、くたびれた裸電球はロウソクの灯程度の光しか放たない。
室内からの特掃は極めてやりにくい・・・ドアを開けた状態で外からやらないと無理な構造。
しかし、そうすると、通行人から血痕も作業も丸見え、“なかなかの見世物”になりかねない状況だった。

「別に、悪いことするわけじゃないんだから・・・」
ない頭で知恵を絞ってはみたものの、私は、その作業法以外の妙案を思いつかず。
開き直ってやるしかなく、結局、オープンで作業することに決定。
私は、自己防衛のため“一人の世界”に引きこもり、誰かに近づかれないよう“多忙につき声かけ無用”の雰囲気を醸し出して心理的なバリアを張ることに。
極力、自分の視界を狭くするため、うつむき加減でしゃがみ込み、ほとんど路地側に背中を向けたまま作業をすすめた。

「警察とか呼ばれたらかなわんな・・・」
一人の世界にバリアを張っていても、私の横目視界には幾人もの通行人が入り、耳には近づいては遠ざかる足音が聞こえ、背中にはムズ痒くなるような好奇の視線を感じた。
ただ、ヒマな野次馬はほとんどおらず、大方の人は、軽く目をやるだけで通り過ぎていったと思う。
好奇心旺盛な人の中には視線を止めた人もいただろうけど、そんな気配は感じなかったから、多分、歩を止めて覗き込んだ人はいなかったと思う。
ただ、多くの人は、“血だらけの玄関”と“両手 血まみれの男”を見て、“ギョッ!”としたのではないかと思う。
これで鋭利な道具でも使っていたら、完全に警察を呼ばれていただろう。
事実、小声ながらも、何度か驚嘆の声が上がったのを私の耳は聞き逃さなかった。

「ヤバい奴に見えてんだろうな・・・」
私は、背後を往来する人から見た自分の姿を想像。
その怪しさは、例えようがないくらいの奇妙でインパクトのあるもの。
我ながら、その様がなんともおかしくて、故人には失礼ながら、時々 クスクスと笑いが込みあげてきた。
黙っていても“ヤバい奴”なのに、そいつが一人で笑っているとなると“ヤバい”と通りこして“恐ろしい”。
“そんな風に見られているかも”と思ったら、私は、余計に自分がおかしくて、“ヤバい現場で笑っているヤバい奴”となってしまっていた。


時々、私は、ヤバい奴に変身する。
アブナイ系ではなく、ヘンテコ系の。
特掃現場では、特にそうなる。
ヤバい所が元来の仕事場で、ヤバい状況を片づけるのが仕事なのだから仕方がない。
客観的に見ると、その様は、かなりグロテスクかつ滑稽だと思う。
人の目には、とてもカッコよく見えるものではないけど、それでも、自分では「カッコいい」と思ってしまうときもある。
その由縁は、“使命感・責任感”“依頼者の付託に応えるため”などといった上等のものではなく、“故人の尊厳を守る”“仕事のプライド”などと言った高等のものでもない。
“並の奴にはできんだろ”といった塵芥のような優越感だったり、“俺にしかできんだろ”といったゴミ屑のような職人技だったり、自分以外の他人には興味も価値もないことだったりする。

更に、その由縁がある。
それは、その内にいる“ヤバい奴”。
私の心底には、過激な思考、邪悪な想像、卑猥な妄想(ちなみに、性癖はノーマル)をする奴がずっと居座っている。
例えば・・・・・んー・・・問題あるから書くのはやめておこう。
もちろん、そいつが現実の行動にまで姿を現してくることはない(?)けど(たまにはあるかも、・・・あるな・・・)、人に知れると、人は私から離れていくだろう。
ただでさえ、交友関係が狭い私の場合は、いよいよ一人ぼっちになるか。
ま、この時期なら、人との距離は空いた方がいいし、一人ぼっちでいるくらいの方が安全だし、世の中のためにもなる。

今は、これからくるであろう“寒夏”に耐えきれるかどうか悩むことはさておいて(私は悩んでしまうけど)、また、他人事として無責任に遊ぶことはやめて、我々がやれること・やるべきことを真剣に考え、真摯に取り組むべきとき。
今は、今日の自分のために生きるのではなく、明日の自分のために生きるべきとき。
それが、誰かのためになり、世の中のためにもなる。
常々、“今を大切に”、“今を楽しむ”生き方に憧れ、実践したいと思っている私だけど、それは、今を大切にすることに矛盾することなく、今を楽しむことに通じる部分もある。
我々は、獣や草と同じではなく、本能だけじゃない動力を持たせてもらっている「人間」・・・・・幸せに生きるチャンスをもらっている「人間」なのだから。

とにもかくにも、この“新型コロナウイルス”ってヤバい奴、早いとこ くたばってほしいものである。



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希望の芽

2020-04-18 13:29:01 | その他
2020年、春、新緑の季節。
しかし、今日の東京は大荒れの空模様。
肌寒く、台風がきたかのような暴風雨。
これで、水害や土砂災害が起きなければいいけど・・・

時勢も大荒れ。
気温だけじゃなく、世の中の雰囲気も寒々しい。
オリンピックという大祭もなくなってしまったし、芽吹いて間もない葉桜が、どことなく寂しげに見えるのは私だけだろうか。

前回ブログを更新したのが昨年8月23日だったから、夏が終わり、秋が過ぎ、冬を越え、もう8ヶ月近くが経つ。
しばらくぶりの私、「仕事を辞めた?」「傷病で休んでる?」とか「ひょっとして、死んだ?」等と思われていただろうか。
が、歳だけはとったけど、私は、相変わらず そこそこ元気にやっている。
意識してブログを止めていたわけでもなく、仕事等 時間の都合で、結果的に止まってしまっていた。
ごくたまに「そういえば、しばらくブログが止まっているな・・・」と、気づくときもあった。
そして、「このままやめてしまおうか・・・」と思ったこともあった。
とにかく、睡眠や休息の時間を削ってまで書くほどのことでもないので、放っておいた次第。
しかし、この時勢で仕事が減り、少しずつヒマになってきている。
幸か不幸か、ブログを書く時間がつくれるようになっているわけ。
はたして、今更、これを読んでくれる人がいるのかどうかわからないけど、この“ヒマ人のヒマつぶし”に立ち止まってくれる人がいたら、細やかに嬉しい。

基本的に“相変わらず”やっている私だけど、困ったこともあった。
昨秋、プライベートで大変な目に遭った。
それは、身近な人間の大病。
仕事も休めず、心身の疲労が重なり、情緒不安定な状態に陥ってしまった。
それが一段落ついたかと思った矢先、今冬、仕事で大変な目に遭った。
これもまた、身近な人間の大病。
「少しゆっくりさせてもらおうか・・・」と思っていた矢先の急病で、仕事はテンテコ舞。
休んでいるヒマはなく、夜、寝ている間にも仕事のことを考えているような始末だった。
そして、今、プライベート・仕事、両方で大変な目に遭っている。
そう・・・この新型コロナウイルスの問題だ。

二月の時点では完全に他人事。
自分には関係ない、どこか遠くの出来事のように捉えていた。
三月になると、発生地が身近なところにまで迫ってきて、少しは自分の問題として捉えるようになってきた。
連日、コロナのニュースが踊り、飲食業・観光業・レジャー業などの苦境が多く伝えられるようになってきた。
それでもまだ、“他人事”のような感覚は残っていた。
が、三月下旬になると、身近なところの様相も一変。
業界や取引先に影響が及んできて、仕事が減る兆候が見え始めてきたのだ。

それはそうだ。
私の仕事は、生活を維持するうえで不可欠なものではない。
製造・食品・物流・医療等とは関わりがなく、有事の際の社会貢献度も極めて低い。
更に、遊興快楽的な要素も健康に資する要素もなく、人々に元気をもたらすものでもない。
災難の真っ只中では、まず必要とされない。
近隣から苦情がでるような腐乱死体現場なら緊急性・必要性が高いけど、肌寒いくらいのこの時季はそれもない。
したがって、仕事が減っていくのもうなずける。

ただ、“コロナ消毒”の問い合わせは増えてきている
不動産管理会社やマンション管理組合等が、感染が発生した場合を想定した上での事前準備として。
これだけは、この時勢でニーズがあるわけだ。
が、対象の規模が大き過ぎたり、求められるクオリティが高過ぎたりすることも多く、机上の想定だけで安易に契約するのは危険。
また、施工者(当社)のリスク管理の問題もある。
一人でも感染したら、そこで営業中止になるわけだから、一つの依頼でも売上利益だけ見るのではなく、大局的・長期的・客観的に見て判断することが必要なのである。

かと言って、多くの人達と同様、私も収入がなければ生活を維持できない。
つまり、仕事がなければ・・・働かなければ生きていけない。
事態がこのまま深刻化していけば、仕事を選ぶ余裕はなくなってくるはず。
大袈裟な言い方になるけど、生きていくために命を懸けてコロナ消毒をする日がくるかもしれない(今、最前線で闘っている医療従事者に比べれば、“子供のお遊び”みたいなものかもしれないけど・・・)。

こんな状況になって、今、「失業」という文字が“心構え”として頭に浮かんでいる。
加齢や体力が理由の退職なら想定内のことだけど、この事態はまったく想定外。
説得力のある論拠で、事態の収束時期を具体的に示せる専門家も現れていない。
「なるようにしかならない」「何とかなる」等と、根拠なく楽観視できるほど、事は小さくない。
現場仕事がなくなれば仕方がない。
この状態が長引けば、失業の“心構え”は“覚悟”に変わっていき、いずれ“現実”となってしまう。
似たような境遇にある人はごまんといる。
とてもイヤなことを言うようだけど、この先、感染者や死亡者だけでなく、失業者・破産者も増えていくだろう。
悲しいことながら、自殺者も増えていくかもしれない。

察してもらえる通り、私の仕事は“在宅勤務”ができるものではないし、在宅勤務で給料が得られるものでもない。
在宅勤務を拡大解釈しても、我が家は、特殊清掃が必要なほど汚れてはいないし、ゴミ屋敷でもない。
死人もいないし、死体もない(当り前!)。
ブログ制作くらいは家にいてもできるけど、これは仕事(給料がもらえるもの)ではない。
で、今のところ、現場仕事がない日でもフレックスタイムで出退社している。
まだ、いくらかはやらなければいけない事務作業や雑用があるから。
もちろん、事務所では“三密”にならないよう・・・“一密”もつくらないよう細心の注意をはらい、外出の際もかなり気をつけている。

「三密回避」の警告が出されて久しい。
更に、「緊急事態宣言」が出されていることは、承知のとおり。
同時に“外出自粛要請”も出されている。
自分だけの問題じゃ済まされないから、ある種の社会的責任も発生している。
しかし、普段から私は“外出自粛”をしているようなもの。
友達もなく非社交的、外食をはじめ 外で飲むこともほとんどない。
誰かに遊びに誘われることもなく、趣味や同好会等のグループにも属していない。
結果、“外出自粛要請”の前後で、生活スタイルにほとんど変化はない。
変わったことといえば、マスクや消毒剤を常用するようになったことと、ウォーキングや買い物の際、人との距離を意識するようになったことくらい。
それも、日に日に神経過敏になってきていて、不用意に誰かに近づかれると“イラッ!”とくるようになってしまっている(きれいな女性に近づかれて“イラッ!”とくるかどうかは不明)。

外出自粛で家にいると、特にやることがなく、スマホやPCをいじりながら、暇な一日を過ごしている人も多そう。
SNSが高度に活用されている今日この頃、大衆に重用さて重宝されているよう。
反面、私は、普段、YouTubeを観ることはないし、Twitterとうヤツもやったことがない。
“時代おくれ”は重々承知しているけど、興味がないから積極的に触れることもない。
ただ、多くの著名人がそれらを通じて、励ましや癒しの音楽やメッセージ・パフォーマンスを発信しているのを、TVニュースを通して目にしている。
発信側の芸能人やアーティスト・アスリートにとっては、これも ある種のビジネス、または、先を見越したビジネスの種蒔きなのかもしれないけど、個人的にはシックリこない。

人を励ますことができる人は、まだ、余裕がある人。
新型コロナウイルス被災民は、“まだ余裕がある人”と“もう余裕がない人”に分かれると思う。
つまり、「被災民の中にも階層がうまれ、温度差がうまれている」ということ。
そして、残念ながら、これは、時間が経ては経つほどハッキリとした型を成していくと思われる。
真に追い詰められた人は人を励ます余裕はなく、自分と家族を維持していく力さえ奪われている。
そういった発信者達の善意に目を向けられないほど気力を失い、素直に受け止められないほど疲弊し、絶望し、苦悩しているような気がする。

真に追い詰められている人にとって、角度によっては“他人事”“お遊び”“お祭り騒ぎ”にも見えるそれらの発信は、“癒し”“励まし”にはならず、冷淡に神経を逆なですることにもなりかねない。
もちろん、それらを「偽善」「不要」と言っているわけではない。
善意であるだろうし、そういう発信を欲し、それで、癒され・励まされている人も多いだろう。
私のように、能書きだけ垂れて何の人助けもしない輩よりよっぽどいい。
ただ、被災民の中でも、崖っぷちに立たされている“弱被災民”がいることに心を寄せることも人間同士の礼儀ではないかと思う。
善意の押し売りは、結果的に、悪意に似たものとなる可能性があるのだから。

善意だったかもしれないマスクの高額転売も悪意と見なされ、表面上、今はネットからも消えている。
それが拍車をかけたわけでもないのだろうけど、マスクはもちろん、消毒剤の類も、相変わらず手に入れにくい。
街のあちこちにあるドラッグストアには、朝から長蛇の列ができている。
今のところ、自分達で使うくらいのマスク・消毒剤は確保できているから、私は そこまでの購買行動はしていない。
しかし、このままの状態が続けば、そのうち、朝ドラ(朝のドラッグストア)デビューしなければならない日がくるかもしれない。
ま、早起きは得意だし、開店までボーッとつっ立ってるだけのことだから、難しいことではない。
難しいのは、手間暇かけてもマスクが手に入らなかったときに、自分の感情を理性的にコントロールすること。
“溜まっていく一方の不満・ストレスをどう解消していくか”だろう。

事実、コロナ問題が原因で、家庭不和・DVが増えているらしい。
「コロナ離婚」という言葉まで出現している。
この災難は、健康や経済だけにとどまらず、人間的にも多くのマイナスをもたらしている。
しかし、何かしらのプラスを得られないわけではないと思う。
残念ながら、多くの人間は、失わなくても気づくことができる知恵を持ち合わせていない。
与えられている平和を当り前のことのように、手にしている恩恵を当り前のもののように勘違いして生きている。
失ってみて 多くのことに初めて気づき、初めて気づかされる。
こうした困難に遭ってこそ気づかされる大切な何か、苦難に遭ってこそ学ばされる大切な何か、災難に遭ってこそ養われる・練られる大切な何かがある。

もともと、人は、その“何か”の種をもって生まれてくる。
例えば、日常では影を潜めている家族愛や友情、無視している健康や寿命、衰弱している忍耐力や自制心、目をそむけている正義感や道徳心、遠ざけている使命感や責任感・・・
そういった、人が、ただの獣ではなく、人であるが故に大切にすべきものが、暗い土中から“芽”を出してくるのではないだろうか。

不安は大きい・・・将来に大きな不安を抱えている。
それでも、変わりなく時間は流れている。
この先も、望まない事態、逃げたくなるような出来事は起こるだろう。
ただ、今の苦境を楽境に、逆境を順境に反転させるのは、その“芽”。
その芽は、今生で花を咲かせることはできないかもしれない、実をみのらせることはできないかもしれない。
また、人間がもつ愚弱な性質によって、途中で枯れてしまうかもしれない。
しかし、子や孫に、友や縁もゆかりもない若者に、次の世代・新しい時代に、歴史や教訓としてつないで花を咲かせ実をみのらせることはできる。
先の大戦による死苦痛悩悲哀が、今の平和の礎となっているように。
そのための人生、そのための生き方でも、生きる理由と価値は充分に見いだせるのではないだろうか。

生きていくのが面倒臭く思えるくらい、不満の芽・不安の芽が次々と出てくる昨今。
悪い意味での非日常に、気分も沈みがち。
それでも、希望の種はある。
どうあがいても、私の人生、あと もう少し。
これから、自分の人生がどのように展開していくのか、想像を超えた人生が待っているのではないか、ほんの少しは楽しみに思える瞬間がある。
それは、これまで幾度も「死にたい!」と思ってしまうようなことがあったけど、結局のところ生かされてきたことを思い出し、また今、こうして生かされていることを覚えるとき。
同じように、この先も、この命が尽きるまでは生かしてもらえるだろうと思うと、一寸先の闇に一筋の光が射し、希望の芽を導いてくれるのである。


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