特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

貧しさと切なさと心細さと

2022-11-28 07:00:22 | ごみ処分
11月も下旬、師走が目前に迫っている今日この頃。
朝晩はもちろん、陽によっては日中も寒さが感じられるようになっているが、そんな季節の移ろいをよそに、春だろうが夏だろうが、懐はず~っと寒いまま。
足音聞こえる真冬に忖度しているわけでもないだろうに、温かくなりそうな兆しは一向にない。

少し前、TVの報道番組で観た切ない話。
そこでは、コロナ禍、円安、物価高により、経済的に困窮している人に焦点を当てたコーナーで、何人かの実例が取り上げられていた。
これを観ても明るい気分にならないことはわかりきっていた。
しかし、他人事として片付けられない不安感に駆られて、チャンネルを変えることなく視聴した。

派遣業の20代男性。
仕事がなく、取材時の所持金は百数十円。
働く気があっても 自分に回ってくる仕事はわずか。
少し前まではネットカフェで寝泊りできていたものの、金がなくなり路上生活に。
何度か役所に生活保護の相談に行ったが、「若いから」「住居がないから」と門前払いになっていた。

零細企業経営の50代男性。
コロナ禍で売上が激減。
それでも、「コロナが過ぎれば復活できる」と希望を持ち続け、事業を継続。
しかし、コロナは一向に収束せず、それに物価高と円安が追い討ちをかけ、経営は更に悪化。
ほとんどの社員を解雇しても赤字は解消せず。
貯えも底をつき、本業以外のアルバイトで何とか生活を維持していた。

ホームレスの50代男性。
支援団体のサポートにより、雑誌を路上販売しながら生活。
しかし、日々の収入の波が激しく、一日の収入は数百円から数千円。
路上生活から脱出するには程遠い金額で、食事がとれないこともしばしば。
おまけに、行政により住み慣れた公園からも追い出され、新しいネグラを探すしかない境遇だった。

この類の話を書いていると思い出すことがある。
それは、K県Y市N区K町。
もう、十年以上も前のことになるだろうか、そこで2~3度仕事をしたことがある。
職業紹介所を中心に、ドヤ(簡易宿泊所)、反社っぽい事務所、そして、朝から酒を飲める飲食店等々が密集。
失礼な言い方になるが、ボロい建物が多く、ただの偏見なのだが、悪臭を感じるような全体的に不衛生に思える雑然とした街。
今はわからないが、かつては「日雇労働者の街」と言われ、当時は、「治安が悪い」とされていた。

実際に行ってみると、目的もなさそうにフラフラと歩いている人、昼間から店先で酒を飲んでいる人、路上に屯してタバコをふかしている人、歩道に寝転がっている人があちらこちらに・・・
そこには、「いかにも」といった荒れた光景が広がり、一般市民が近寄り難い不穏な空気があった。
出向く際、街を知る人から、
「警察も取り締まりに来ないから路上駐車しても大丈夫」
「ただ、“当り屋”がいるから車の運転には気をつけろ」
と言われ、そのエリアでは、慎重に前後左右の安全確認を行いながら最徐行。
また、
「車の外から見えるところにバッグとか置くな」
「食べ物もガラスを割られて盗まれる」
と言われ、外から見える座席には何も置かず。
しかし、そのように気をつけていたにも関わらず、ほんのちょっと目を離した隙に、私は、車の陰に置いておいた工具箱を盗まれてしまい、自分の甘さを痛感させられた。

多くの庶民が貧しくなっている現実は、私が長々と書き連ねるまでもないこと。
この30年、日本人の賃金が上がっていないことは、誰もが知る通り。
反面、物価や社会保険料・税金が上がっているのだから、実質賃金は低下。
「一億総中流」と言われていた時代は過去の夢物語。
日本の貧困層は拡大するばかり。
かつての中間層は貧困層に転落し、一部の富裕層だけが豊かさを独占。
とはいえ、今では、その富裕層さえ、世界的にみると増加数は著しく少ないそう。

年のせいもあり、最近、年金について興味を持つようになってきたのだが、年金制度も然り。
保険料は上昇、支給額は減少、納付期間は延長、受給開始時期は平均寿命に近づく一方。
それでも、老後の生活を年金だけで維持できるのは一部の人。
多くの人は、年金だけではやっていけず、極端な節約生活をするか、働いて副収入を得るか、どちらかしないと生きていけない。
まさに「死ぬまで働け!」「働けないなら死ね!」と言われているのと同じこと。
なんと心細いことか・・・
私が、俗にいう「負け組」だからそう感じるのかもしれないけど、ここまでくると、夢も希望も持てず「あまり長生きしない方がいいのでは・・・」と思ってしまう。

国民一人一人の苦境もさることながら、日本の行く末にも暗雲が垂れ込めている。
「販売力」だけでなく「購買力」も含め、国際競争力は低下の一途をたどっているよう。
「先進国」と言われる我が国より新興国の方に勢いを感じるニュースも多々。
低所得とデフレと円安により、外国からみても日本は「安い国」になっているし、「小国」になりつつあるという。
ひと昔前、日本人が海外で爆買いしていた時代があったのに、今やそれが逆転。
観光や一般消費に外国人が金を使うのは大歓迎なのだが、不動産・企業・人材・利権など、あまり買われたくないものまで買い漁られている。
海外からの「出稼ぎ」も同様。
出稼ぎ先としての魅力は低下するばかりで、今や、日本人が海外に出稼ぎに行くような事態になっている。

ただ、表立ってニュースになるのは、ほんの一例、見えている問題は氷山の一角。
苦境に喘いでいる人は、陽の当たらないところにもっとたくさんいるはず。
資本主義・競争主義のわが国では、「自己責任」が大前提となるのだろうが、そこには、それだけでは片付けられない悲しみがある。
それは、皆、「仕事がほしい」「働きたい」と思っているからだ。
怠け者やズルい人間が貧乏をするのは、まぁ、仕方がないと思う。
しかし、そうでない人間が人並の暮らしができないなんて、どういうことなのだろうか。
働きたくないわけでも怠けたいわけでもないのに・・・ただ、「生まれてきた時代が悪かった」「生まれてきた国が悪かった」と思うしかないのだろうか。

そうは言っても、何もかも社会のせい、他人のせいにしていても仕方がない。
この時代をサバイバルしていくしかない。
となると、まずは、自分や家族を守ることが第一。
金にも心にも他人のことを思いやるような余裕はないため、どうしても、他人のことは二の次・三の次。
「自分さえよければそれでいい」とまでは言わないけど、この現実を前には、薄情にならなければ生き延びられなかったりもする。
人として心の貧しい状態に陥るわけだが、生き残るためにはやむを得ないのか。

経済的に豊かでなくなる分、心や生き方が豊かになればいいのだけど、人間は、長い歴史の中で、生き方や心の豊かさを物理的・経済的な豊かさに委ねるように。
残念ながら、経済的な貧困が心を貧しくさせる方程式は、ごく一部の人を除いて普遍の原理となっている。
そして、この感性や価値観を変えるのは至難の業。
この“豊かなような貧しさ”は、その時々でせめぎ合いながら、これからも我々を葛藤させるのだろう。



頼まれた仕事は、ゴミの片づけと清掃。
依頼者は、マンションの管理会社からその片づけを依頼された清掃業者。
管理会社の事業規模は大きく、何棟ものビルやマンションを管理。
多くの外注先や下請会社を抱えており、この清掃業者のその一社。
この清掃業者は、当管理会社とは古くから取引関係にあり、多くの物件で仕事を受注。
となると、立場的に、「できません」「やりたくありません」とは言えず。
そうは言っても、特殊清掃業者ではないため、あまりの汚さに自社でやること躊躇。
どこか、丸投げできる業者を探している中で、当社にたどり着いたようだった。

清掃会社がそういう社風なのか、担当者個人の性質なのか、この担当者は、感じのいい人物ではなかった。
取引実績もないのに客ヅラ。
物言いも上から目線で、会ったこともないのにタメ口。
こちらが仕事欲しさにヘコヘコするとでも思っているのか、とても、人に頼みごとをするような態度ではなく、私の中には嫌悪感が沸々。
しかし、あくまで一仕事上の一時的な関り。
いちいち引っ掛かっていては、世の中は渡っていけない。
とりあえず、現地調査の依頼はおとなしく引き受け、初回の電話を終えた。

訪れた現場は、マンション敷地内の一角。
外の道路とは大人の背丈より少し高いくらいの金網で隔てられており、普段は、人が立ち入らないような裏地。
そこに、大量のゴミが堆積。
おそらく、始めは、ゴミ出しルールを守らないマンションの住人が隠れて捨てたのだろう。
それから、少しずつゴミは増えていき・・・
そのうちに、ゴミがゴミを呼ぶかたちで、通行人も、道路から金網越しに投げ込みだし・・・
雨風にさらされたゴミは月日とともに腐食し・・・
腐敗した食品も見え隠れする中、害虫や異臭が発生し、ドブネズミの巣となり・・・
ゴミの内容を確認するため、私が少しのゴミを動かすと、「胴体だけでも20cmはあろうか」というくらい巨大なドブネズミが何匹も飛び出してきて、驚いた私は思わず「ウワッツ!」と声を上げ のけ反ってしまった。

現地調査を終えた私は、会社に戻って見積書を作成。
担当者にメールし、併せて、電話をかけ内容を説明。
私は、担当物に対する反抗心もあって、料金も免責事項も強気に設定。
「ご注文は、料金と作業内容に充分納得してからお願いします」
「後々、トラブルになっては困るので」
と、礼儀に反しないように気をつけながらも、あえて“お仕事くださいモード”の平身低頭な態度はとらなかった。

対する担当者は、
「この値段じゃ、よそにお願いするしかないかな・・・」
「値段によっては、今後も、引き続き、おたくに仕事を出せるんだけどね・・・」
と、思わせぶりなことを言って駆け引き。
しかし、担当者に業者を選ぶ権利があるのと同じで、こっちにも客を選ぶ権利はある。
“良縁”は大歓迎だけど“腐れ縁”はご免。
実際、こういった業者が“お得意様”になったためしはない。
私は、ある程度の値引きに応じる余力はあったものの、
「“足元を見やがって”って思われるかもしれませんけど、あの状態ですからね・・・」
「特別な技術が必要なわけじゃないので、やろうと思えばご自分達でもできるはずですよ」と、ちょっと意地悪な言い方で譲歩せず。
その後のことは成り行きに任せることにして、値引きには一切応じず電話を終えた。

その後、数日して担当者から再び連絡が入った。
「他に業者が見つからなかったから」とは言わなかったが、おそらく、他にやってくれる業者がみつからなかったのか、当社より料金が高かったかのどちらかだろう、“渋々”といった感じで、当該業務を当社へ発注。
一方、私は、表向きは快く受諾。
ただ、腹の中では警戒をゆるめず。
作業後に難癖をつけられないよう、念を押すように免責条項を説明。
具体的な作業計画は契約書を取り交わしてから立てることを了承してもらい、できるだけ早急に対応することを約束した。

作業の難易度は想定内。
掘り出されて膨らんだゴミ・ガラクタの量も、ほぼ想定内。
しかし、陶器・ガラスやスプレー缶、電球・電池や刃物など、危険物は想定以上。
また、その不衛生さも想定以上。
ゴミ山は全体的にドブネズミの巣と化しており、あらゆるものをかじり砕き、大量の糞が混在。
ネズミは食料を持ち込んでくるだろうし、死んでしまえば死骸となって腐る。
ともなって、異臭や害虫も発生。
これもウジの一種なのだろうか、いつもの現場で遭遇するウジに比べると大型のイモ虫も大量に発生。
とにもかくにも、どこから飛び出してくるかわからないネズミを警戒しながら、鋭利なものでケガをしないよう注意しながら、それらを少しずつ始末していった。

作業が終わる頃、担当者も現地へ。
作業前に比べるとはるかにきれいになったのだが、それでも、
「こんなもんか・・・」
「これが限界?」
と、鼻で笑うかのごとく不満げにコメント。
労苦した作業の達成感もあって、
“ここまでやれば充分だろう”
“満足してもらえるだろう”
と自画自賛していた私にとって、それは非常に腹立たしい反応。
そんな私の腹が読めたのか、担当者は、もっと何か言いたげにしたが、事前に、免責事項を念入りに設けていたおかげで、それ以上のことは言わず。
私は、口から出かかった反論を呑み込み、“コイツとは二度と仕事したくないわ!”と思いながら、
「作業は、これで完了とさせていただきます」
「近日中に請求書をお送りしますので、よろしくお願いします」
と、一方的に話を締め、後ろ足で砂を蹴るようにして現場を後にした。


私もその一人だが、社会には色々なタイプの人がいる。
“良し悪し”は別として、合う人 合わない人がいるのも自然なこと。
担当者に悪意はなく、会社や上司からそう命じられていたのかもしれない。
一仕事として、自分の職責をまっとうしようとしていただけのことかもしれない。
私だって、公私を分けて生活している。
担当者のことを一方的にどうこう言えないようなところもある。
そうは言っても、不快感や憤りとは別のところにある、人間としての妙な貧しさを覚えてしまった。

経済力を頼りに、得ること、獲ることによって生まれる豊かさはある。
しかし、ある意味、欲は無限。
満足しないことで生まれる貧しさに気づかず、ひたすら追い求めてしまう。
私のような人間の価値観や志向はこれ。
一方、分けること、与えることによって生まれる豊かさもある。
他人の生き方や豊かな表情をみると、何となく、それを感じることがある。
ただ、残念ながら、これは、私のような人間には適わない、夢のようなもの。

「どうしたら、豊かな心が持てるのだろうか・・・」
「どうしたら、豊かな人間になれるのだろうか・・・」
「どうしたら、豊かな人生を送れるのだろうか・・・」
暮らしぶりも、外見も、内面も、どこからどう見ても貧しい人間であることの自覚がある中で、真に豊かなものに価値が感じられず、真に豊かな方へ志が向かず、心を痩せ細らせているのである。

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終 ~淋しさと救い~

2022-11-15 07:00:52 | 腐乱死体 ごみ屋敷
11月11日は、1年365日のうちで、もっとも多くの「記念日」が登録されている日らしい。
たまたまだが、その日は、私にとってもある種の記念日。
それは、愛犬“チビ犬”が死んだ日。
先日の11月11日は、八回目の命日だった。

この犬は、その昔、仕事で出向いた自殺現場に取り残されていたのを引き取ったもの。
死んでしばらくの間は、事あるごとに目に涙が滲んでいたものだが、八年も経った今では、想い出して涙することもなくなったし、想い出すことも自体も少なくなった。
ただ、スマホの待受画面も、ず~っとチビ犬のまま。
これは、ある年の冬、海辺に出掛けたときに撮ったもの。
四角い画面にはおさまりきらないくらいに拡大した顔面ドアップの写真を待受画面にして、変わらぬ想いを大切にしている。

私は、もともと犬好きなので、散歩中の犬を街中で見かけたりすると、ついつい視線を向けてしまう。
とりわけ、チビ犬と同じ犬種を見かけたときは、視線は釘付け。
先日も、街で、飼主の女性と散歩している同じ種の犬を見かけた。
近寄って声をかけ、あわよくば触らせてもらいたいくらいだったけど、女性からすると、見ず知らずの中年男にいきなり声を掛けられては迷惑な(怖い)ことかもしれないので、それはやめておいた。
とりあえず、立ち止まって、可愛らしい犬をしばらく眺めながら、チビ犬との楽しい想い出に浸った。
そして、いつの間にか笑顔を失ってしまったこの顔に、ささやかな笑みを浮かべた。
ただ、遠ざかっていく犬の後ろ姿を見ていると、何とも言えない淋しさにも襲われてしまった。

ただ、どんなに淋しくてもチビ犬は戻ってこない。
どんなに懐かしくても、過ぎてしまった想い出の中には戻れない。
出逢いがあれば別れもある。
始まりがあれば終わりもある。
この大宇宙にさえ“始まり”はあったとされるのだから、塵芥のような小さな人間は尚更。
楽しいイベントにしても、労苦した一日にしても、“終わり”があるというのは淋しいもの。
人生も、また然り。
いつ、どこで、どういうかたちで訪れるのはわからないだけで、“死”という間違いのない終わりがある。



「住人が部屋で亡くなって、そのまま発見が遅れてしまって・・・」
「しかも、玄関から見ただけですけど、中はゴミだらけになってまして・・・」
「そんな所で申し訳ないんですけど、中に入って見てもらうことはできないでしょうか・・・」
と、とある不動産管理会社から現地調査の依頼が入った。

訪れた現場は、老朽アパートの一階の一室。
間取りは2DK。
暮らしていたのは老年の男性。
倒れていたのは玄関を上がってすぐのところ。
無職の年金生活者で発見は遅延。
第一発見者は、電話をしてきた管理会社の担当者。
キッカケは、しばらく聞こえなくなった生活音と日に日に濃くなる玄関前の異臭。
それを不審に思った隣室の住人が管理会社に連絡したのだった。

駆け付けた担当者は、鼻と突く異臭で異変を察知。
スペアキーで玄関を開けると、中はゴミの山。
そして、その視界には、ゴミに混ざるような格好で横たわる人間らしきものが・・・
眼を凝らして見ると、皮膚は黒く変色し、着衣も、汚れた機械オイルに浸したかのような不自然さがありながら、それは、やはり人間・・・
心臓が爆発して失神しそうなくらい気が動転する中、担当者は、すぐさま警察に通報したのだった。

もちろん、私が出向いたとき、既に遺体は搬出済み。
しかし、遺体が残した腐敗物は残留。
遺体があったと思われる部分は、茶黒色の粘液がゴミと混ざってドロドロの状態。
もちろん、強烈な悪臭も発生。
しかも、大量のゴミが堆積。
私は、部屋の全体像をつかむため、堆積するゴミに足を取られながらも、台所と二つの部屋をグルグルと巡回し、ゴミの内容と量を観察していった。

浴室・トイレ・洗面所もゴミによって全滅
浴槽も便器はゴミの中に埋没し、洗面台はゴミだらけ。
部屋よりも高く積み上げられており、「ゴミの収納庫」のような状態。
トイレの扉は半開きのまま、内外に積まれたゴミの圧によって固定され、まったく動かず。
横向きで無理矢理に滑り込ませれば出入りできるくらいの隙間しか開いておらず。
また、浴室の扉は開いたまま、枠から外れて倒壊。
天井近くまでゴミが積まれて、足を踏み入れる余地は まるでなし。
洗面所も同様。
洗面台は部分的に姿を現していたものの、ゴミやカビにまみれて著しく汚染。
とにかく、とても使えるような状態ではなく、生活設備としての命はとっくに失っていた。

それまでにも、「ゴミ屋敷」「ゴミ部屋」と言われるような現場には数えきれないくらい遭遇しているけど、いつも、「これでどうやって生活していたのか・・・」と不思議に思う。
不衛生なうえ日常の生活に支障をきたすのはもちろん、害獣・害虫による病気や、漏電・電気ショートによる火災や、壁が壊れたり床が抜けたりすることによるケガ等、場合によったら危険だったりもするはず。
しかし、なんだかんだと、人は環境に適応するのか・・・
菌やウイルスにも耐性がつくし、不便さも、忍耐と工夫と慣れで乗り越えてしまうのだろう。

ゴミの上でも、平たくしてマットでも敷けば寝床になる。
風呂は、地域に銭湯があれば問題ないし、シャワー完備の職場であれば、そこを使えばいい。
別件での話だが、スポーツジムの会員なってそこのシャワールームを使っている人もいた。
台所が使えなくても、外食や買い食いをすれば飢えることはない。
洗濯はコインランドリーに行けばいい。
トイレは公園や駅などの公衆トイレを使えばいい。
ただ、故人は、トイレに関して大きな問題をこの部屋に置いて逝ってしまっていた。


山積するゴミの中には、かなりの数の瓶・缶・ペットボトル等があった。
まず、ウイスキー好きの私の目についたのは、中身の入ったウイスキーボトル。
普通に考えると、その中身はウイスキーのはず。
しかし、そこは重度のゴミ部屋。
しかも、同じ態様のボトルが何本も転がっている。
更に、よく見ると、ゴミに埋もれて一部だけ見えているものも無数。
そんなに買いだめるわけはないし、褐色ながら、中身の色もまちまち。
また、ウイスキーなら濁るはずはないのに、濁ったものまである。
似たようなモノに何度となく遭遇したことがある私は、はやい段階から“ピン”ときていた。
もはや、それがウイスキーでないことは明白。
そう・・・中身は尿。
トイレが使えない部屋で、故人は、ウイスキーボトルに用を足していたのだった。

尿が入れられていたのは、ウイスキーボトルだけではなかった。
炭酸水・お茶・ジュース等のペットボトルも多量。
もちろん、それらすべて尿がタップリ。
そのほとんどにはキャップがされ、漏れないように締められていたのが唯一の救い。
しかし、例外なく中身は腐敗醗酵しているようで、独特の変色や濁りが発生。
持ち上げてみると、沈殿していた固形物がモワモワと舞い上がり、相当 不衛生な状態に仕上がっていることは明らかだった。

日本酒の容器も多量
残念ながら、そのほとんどは瓶ではなく紙パック。
もちろん、それなりの耐水性はあるのだが、それも場合による。
ゴミの中で、圧されたり潰されたりして変形すれば強度は落ちる。
一部にでも容器にキズがついたりすると、それが起因して容器(紙)自体の強度や耐水力は激減。
本来は固いはずの紙パックは浸み出た尿でベチャベチャになり、そのうちにフニャフニャ・グズグズに腐食。
持った感覚は、水を入れたビニールみたいな状態に。
もちろん、手袋を着けているのだが、手は尿でベチョベチョになるわけで、なかなかの気持ち悪さがあった。

ビールやチューハイの缶も同様。
これも、部屋中にゴロゴロ。
しかし、缶には蓋はなく、一度開けたら閉じることができない。
当然、傾けたり横にしたりすれば中身がこぼれる。
当初、故人は、缶をできるかぎり直立させていたようだったが、ゴミ部屋の中では水平で安定したスペースは少ない。
となると、横に並べるのではなく縦に積み上げるしかない。
故人は、平面と見つけては缶を並べ、横に並べるのは無理になると縦に積み上げ、また、家具や壁に面したところでは斜めにしたまま積み上げ、まるで、芸術作品のように器用に組み上げられた部分もあった。
しかし、結局、それらは、ちょっとした拍子で倒壊・転倒するはず。
となると、中身は容赦なく流れ出るわけで、それは、火を見るより明らかなことだった。

また、急を要するときもあったのか、こともあろうにビニール袋やカップ麺の容器に入れられた尿もあった。
もちろん、それらに栓や蓋はないわけで、もはや、こぼさないでゴミの中から取り出すのは不可能。
既に、こぼれているものも少なくないはずで、となると、尿にまみれたゴミや床が悲惨な状態になっているわけで、それを想像する私の口からは愚痴と溜息しか出なかった。

ゴミ屋敷・ゴミ部屋において、尿を容器に溜めるのは、そんなに珍しいケースではない。
トイレが使えるうちはトイレで用を足すのだが、トイレがゴミで埋まったり、排管が詰まったりした場合、トイレはトイレとしての機能を失う。
一日一回くらいの糞便なら、その辺の公衆トイレや勤務先のトイレを使えるかもしれないが、一日数回の排尿はそういうわけにはいかない。
尿意をもよおす度に公園や駅のトイレに行くのは面倒臭い。
で、身近にある容器に溜めてしまう。
当然、尿は、そんなことおかまいなしに毎日出てくるわけで、部屋の尿容器は増えていく一方となり、あれよあれよという間に、自分では手に負えないくらいの膨大な量となるのである。


まずは、長く使われていなかったトイレを尿が流せる状態にするのが先決。
トイレの前に積まれたゴミを移動し、扉が空いたら、中のゴミを丸ごと除去。
すると、著しく汚損腐食した床と壁、そして、得体の知れない汚物でゴテゴテになった便器が露出。
しかし、それらは、手を入れたところで再使用できるものではなく、そのまま放置。
とりあえず、便器に水を流し、詰まっているかどうか確認。
残念ながら、トイレは詰まっており、あの手この手で詰まりを解消。
何とか、尿を流せるところまで復旧させた。

しかし、これは、小さな前哨戦。
メインイベントは、尿をトイレに流す作業。
当然、それ専用の道具や機械はない。
使えるのは自分の身体、一本一本、手作業でやるのみ。
ゴミの中から尿容器を数本拾い集め、それをトイレに運び、キャップを外し、中身を便器に流す・・・ひたすらそれの繰り返し。
ほとんどの尿は腐敗醗酵しており、多くは、甘酒や味噌汁のように汚濁。
また、理由はわからなかったが、中には、ヨーグルトのような固形物が沈殿しているものもあり、それは更に強烈な悪臭を放った。
そして、それが、容赦なく身体に飛び散ってきた。

肉体への負担も大。
ゴミの上は足場が悪く、その上、中腰姿勢も多く、地味ながら膝や腰に負担がかかった。
スムーズにキャップが外せない容器も多々。
キャップの開け閉めも、回数を重ねると手に負担がかかり、ビニール手袋を破損させるだけでなく、指を痛くさせ握力まで疲弊させた。

精神への負担も同様。
もともと、私は、コツコツ努力することが苦手で勤勉な人間ではない。
単純単調な作業を繰り返すことは、苦手中の苦手。
「だから、この珍業が務まっている」とも言える。
しかし、そんな性質を無視するかのように、ここで求められたのは単純単調な作業。
更に、追い討ちをかけるように、ゴミ山の中からは次から次へと尿容器が出現。
拾っても拾っても減った感を得られず、「自分との戦い」と気取る余裕もなし。
「頭だけでも楽しいことを考えよう・・・」と努めても焼け石に水。
折れそうになる心との戦い・・・というか、終わりの見えない作業に心が折れないわけはなく、尿の汚さと悪臭も加わり、早い段階で心はポキリと折れてしまっていた。

しかし、どんなに嘆いても、最後までやり遂げなければならないことに変わりはない。
ある程度は自分のペースでできるものの、工期も限られているわけで、甘えてモタモタやるわけにもいかない。
とにかく、気が向こうが向くまいが一定のスピートでやるしかない。
あと、仕事なのだから、故人に腹を立てるのはまったくの筋合い。
しかし、この事態を収拾しなければならない自分の立場を思うと、器の小さい男ならではの妙なイライラ感が沸々。
それに対するには、まるで何かの修行をさせられているような、「根性」とか「根気」などと言ったものとは異なる次元の「開き直り」みたいな感覚が必要。
「踏んだり蹴ったり」とまでは思わなかったけど、いつもの特殊清掃とは違う、なかなかツラい仕事となった。

尿容器は、見えているだけでも数えきれず、また、ゴミに埋まっているものまで含めると相当の数があるはずだった。
どれだけやれば終わるのかわからない・・・
いつまでやれば終わるのかわからない・・・
しかし、わかっていることもあった。
それは、「その数には限りがあり、無限に出てくるわけではない」ということ。
「やり続ければ最後の一本にたどり着くことができる」ということ
つまり、「終わりがある」ということ。
何度となくイラ立ち、何度となく嫌気がさしてくる作業の中、何気ないところで、これが心の癒しとなり支えとなった。


すべて、生きているうちだけのこと。
万事が無常であることは、虚しいことであり、“終”というものは、淋しいものである。
しかし、同時に、“救い”でもあると思う。
何故なら、生きることの苦しみも 悩みも 悲しみも 痛みも、“終”があることによって永遠ではなくなるのだから。
命や人生にも、“限り”があるからこその意味や価値があるはずだし。
私のように、苦悩に満ち ただ日々をやり過ごし、ただ生きているだけでも・・・

チビ犬の写真を見る私は、淋しさの中で微笑みながら、しみじみとそう想うのである。


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2022-11-10 16:33:16 | 生前整理
今日から11月。
秋も深まり、朝晩はだいぶ冷えるようになってきた。
日中も過ごしやすい日が続いてはいるけど、この秋は、やたらと暑い日があったり、やたらと寒い日があったりと、順序よく秋が深まっているような感じがしない。
世界に目を向けてみても、季節外れの暑さや寒さに襲われているところが多い。
また、これまで経験したことがないような大雨や干ばつに襲われているところも。
そして、それは、一口に「気候変動が原因」と片付けられている。
 
地球温暖化を防止する気運はあっても、現実的には、ただの合言葉のようになっている感が否めない。
「生きることに精一杯で、自分が死んだ後の地球のことまで考える余裕はない」
多くの人は、目の前の生活に追われ、自分や家族の生活を守るのが精一杯で、真剣に二酸化炭素のことを考える余裕なんかないのではないだろうか。
そして、
「何もやらないよりマシだけど焼け石に水」
「地球温暖化も気候変動も受け入れるしかない」
そんな風に諦めているのではないだろうか。
 
かくいう私もその一人。
マイバッグを持ち歩くのもレジ袋代を節約するため、省エネを心掛けるのも光熱費を抑えるため。
結果的に、二酸化炭素が少しでも抑えられれば、それはそれでいいのだけど、そのためではない。
「無責任」と言われればそれまでだが、難題に対峙しようとすると早々と疲れてしまう。
だから、“無”に・・・力んだ無我夢中にはない、穏やかな無心に憧れる。
その方が、生きていて楽なのではないかと思うから。
しかし、そんなことおかまいなしに、この人生には“現実”という名の難題が次から次へと容赦なく襲いかかってくる。
 
 
 
家財処分の調査依頼が入った。
約束の時間より早く着いた現場は、ちょっと田舎の住宅地に建つアパート。
周辺には、広い畑もあるような長閑なところ。
アパートの前面は広い駐車場。
普段は住人の車がとまっているのだろうが、平日ということもあって、ほとんど空いた状態。
もちろん、「空いているから」といって、誰かのスペースに勝手にとめるのはマナー違反。
その日、私は、他の用事もあったため、2tトラックに乗っていたのだが、駐車区画でない部分も広く、住人の車の出入りの邪魔にならないところに車を止めて待機した。
 
約束の時刻には、まだ十分に余裕がある中、しばらくすると、駐車場に一台のタクシーが入ってきた。
私は、「依頼者かな?」と思いながらタクシーを目で追った。
すると、止まってすぐ一人の男性がゆっくりと降りてきた。
その様子から、その男性が依頼者であることを察した私は、そそくさと車を降り、「〇〇さんですか?」と声を掛けながら男性の方へ歩み寄った。
 
男性は、かなり痩せていた。
歩みも遅く、顔色も悪く、表情にも精気がない。
そして、寒い時季でもないのに頭にはニット帽。
その佇まいから察せられたのは、男性が病人であるということ。
そして、直感的に頭に浮かんだ病気は「癌」。
それも、病状がかなり進んだ状態の。
安直な想像でしかなかったが、私は、弱々しい男性の風貌に、戸惑いを覚え、また、にわか仕立ての同情心を抱いた。
 
そんな男性は、私が乗ってきたトラックをジッと注視。
そして、何を思ったか、弱々しいながらも怒りのこもった声で、
「トラックで来るなんて失礼じゃないですか!?」
と、私を一喝。
あまりに突拍子もないことで、私は、何を言われたのかすぐに理解できず、
「???」
と、しばしキョトン。
返す言葉がすぐには出てこず、目を丸くするばかりだった。
 
確かに、「トラックで行く」とは伝えてなかったが、それがどうしたというのか。
デコトラのような派手な装飾もなく、暴走族のような爆音を立てるわけでもなく、どこにでもある、何の変哲もないトラック。
車体にあるのは会社名とロゴマークのみ。
サービス内容・事業内容はおろか、電話番号も記されてはいない。
ネットで検索でもしないかぎり得体は知れようがなく、誰かに迷惑をかけたり不快な思いをさせたりするような心当たりは一切なかった。
 
“タキシードを着て黒塗りのリムジンで来い!ってことか?”
私には、男性のクレームがまったく理解できず、まったく受け入れられず。
そうは言っても“客候補”なわけだから、
「他の現場からそのまま来たものですから・・・」
と、下げたくない頭を、とりあえず下げた。
しかし、男性の怒りはおさまらず。
「それにしたって、無神経過ぎませんか!?」
と、まくし立ててきた。
 
私は、小心者のクセに気は短い。
しばらくは我慢していたものの、そのうち、頭の中で何かが“プツッ”“プツッ”と切れはじめ、とうとう堪忍袋の緒が“ブチッ!”。
内から、“やってられるか!”“こんなヤツと関わるとロクなことにならない!”という思いが沸き上がり、
「トラックに乗ってきて何が悪いのか説明して下さい!」
「失礼だとも非常識だとも思ってませんので!」
と、やや声を荒げて反論。
更に、
「私を呼んだのは〇〇さんの方ですよね!?」
「人に時間と経費を使わせておいて、その言いぐさは何ですか!?」
と、連打。
そして、
「こちらにも仕事を選ぶ権利はあるので、この仕事は辞退します!」
「失礼します!」
と言い残し、クルリと向きを変え、ツカツカとトラックに引き返した。
 
場は、そのまま“もの別れ”になっても当然の雰囲気。
しかし、男性は、
「ちょっと待って下さい!」
と、プンプンのキナ臭さを携えた私を呼び止めた。
おそらく、体調が優れない中で、やっとこの機会をつくったのだろう。
そして、私とつながったのも、何かの縁。
険悪な雰囲気の中、怒りと気マズさを混ぜたような顔で、
「苦情は苦情として別に置いて、調査見積は調査見積としてやって下さい」
と、事務的に言葉を続けた。
私は、まったく乗り気ではなく、断ることもできたのだが、弱々しく佇む男性が不憫に思えなくもなく、請け負うつもりはないながらも、室内の調査だけはしていくことにした。
 
男性の部屋は二階。
男性は、手すりを掴みながら、息を切らせながら、階段を一歩一歩ゆっくり上へ。
部屋の前に立つと、ウェストポーチから鍵を取り出し開錠。
ゆっくりドアを引くと、中からは、湿気を帯びたカビ臭いようなニオイが漂ってきた。
 
間取りは1K。
「ゴミ部屋」という程ではなかったものの、結構な散らかりよう。
また、換気もされず長く放置されていたせいか、カビ臭いようなホコリっぽいような、ジメッとした不快臭も充満。
訊けば、ここ数年、男性は、入退院を繰り返す生活。
そして、いよいよ病が悪化してきたため、この部屋は退去することに。
「ここに戻って来られる見込みがなくなったものですから・・・」
「部屋にあるものは、全部、捨てて下さい」
とのこと。
その口から「死」という言葉は出なかったものの、男性が自身のそれを予感していることは、寂しげな口調と衰えた身体から滲み出ていた。
 
 
作業の日。
依頼者である男性は姿をみせず。
代わりに現れたのは、一人の女性。
女性が乗ってきた車は、某医療法人の業務車。
女性の着衣も、そこのユニフォーム。
そう、男性が入院している病院のスタッフ。
「〇〇さんは体調が優れないので、代わりに鍵を持ってきました」
「また来ますから、終わったら連絡して下さい」
そう言って、私に部屋の鍵を渡すと、女性は、忙しそうに帰っていった。
 
男性不在の中、作業は、完全に当社の段取りのまま、当社のペースで進行。
問題やトラブルは一切なく、順調に事は運んで完了。
作業終了の確認は、先ほどの女性に来てもらい、鍵もそのまま返却。
結局、男性とは一切関わることなく、その仕事は終わった。
 
そして、その後も、男性とは、顔を合わせることはもちろん、電話で話すこともなかった。
ただ、その後、元気に回復して社会復帰が叶ったとは到底思えず。
それより、“その命がどこまでもったか・・・”と考える方が自然な感じで、おそらく、そう長くは生きられなかっただろうと思われた。
 
ただ、あの時、どうして、あそこまで怒ったのか、トラックの何が、男性の癇に障ったのか、私は、私なりに、ない頭を使って想いを巡らせた。
思いもよらないトラックの出現は、空になった部屋を想像させ、自分の死を連想してしまったのか・・・
それとも、運命を受け入れようとする気持ちに、いらぬ追い討ちをかけられたように感じたのか・・・
はたまた、この世から放されまいと必死にしがみついている自分をこの世から引き離そうとしているように思ったのか・・・
もちろん、その真意は、男性にしかわからない・・・
ひょっとしたら、男性自身にもわからないことだったかもしれないけど、そこには、アパートに戻れる希望を捨てきれず、死を待つ覚悟を決めきれない中で大きく揺れ動く、自分では如何ともしがたい感情があったに違いなく・・・
そのことを想うと、好きになれなかった男性に自分の弱さが重なってくるのだった。
 
 
多くの人は健康長寿を願う。
そして、食事や運動などに気を使いながら健康管理に努める。
とりわけ、健康診断で難点が出やすくなる中高年はそう。
健康が気になりはじめる年頃で、遅ればせながら、血圧や血糖値、出っぱった腹を気にしはじめる。
世の中に出回る多くのサプリメントや健康器具の宣伝文句が、更に、その不安感を刺激する。
成人病をはじめ、癌予防や癌検診を啓発・促進する風潮も昔からある。
 
それでも、現代は、「二人に一人が癌にかかる時代」と言われている。
私の周りにも癌を患った人は少なくない。
それで亡くなった人も。
ただ、「二人に一人」という程 多くはない。
実のところ、「二人に一人」というのは、「生涯のうちで癌にかかる人の数」だそう。
つまり、子供から老人まで、また、その中には治癒する人もいれば、死因が癌でない人も含まれているわけ。
また、晩年に癌がみつかっても「一人」としてカウントされるわけ。
だから、実感している数より、はるかに多いような気がするのだろう。
 
そうは言っても、癌を患う人は、少ないわけではない。
また、医療の進歩で治癒する確率が上がってきているとはいえ、相変わらず、「不治の病」「死の病」といったイメージは強い。
有名人が癌になると、すぐにニュースになり、癌の種類をはじめ、「ステージ〇」と進行具合が具体的に報道されるのも、そういう深刻さからきているのだろう。
また、抗癌剤を使うと、身体は瘦せ細り、髪は抜け、皮膚や歯はボロボロになり、極度の吐気・高熱・倦怠感に襲われるといったイメージが強い。
そんな、偏った闘病の一面が、恐怖心を強くさせているのだろう。
 
先日のブログにも書いたけど、私も、二十代後半の頃 胃にポリープが見つかったことがあり、そのときは癌も疑われた。
俗に「若者は癌の進行がはやい」と言われる中、精密検査の結果がでるまでの二~三週間は、“癌≒死”という恐怖感が頭から離れず、気分を沈ませる日々が続いた。
幸い、結果は「良性」で、ポリープは、しばらく後の検査で自然消滅していることがわかった。
また、三十代前半の頃 肝硬変や肝癌が疑われるくらい肝臓の数値が悪化したことがあった。
そのときもまた、“癌≒死”という不安感が頭から消えなかった。
再検査の結果は、「脂肪肝」。
重度だったため、これはこれで問題だったのだが、まずは、肝硬変や癌でなかったことに胸をなでおろした。
ただ、肝を冷やしまくったのは事実で、これが、いい薬となって、その後、食事の改善とダイエットに励むこととなった。
 
 
“死=無”なのか、私にはわからない。
同じく癌で亡くなった“K子さん”は、死を恐れている風ではなかった。
むしろ、“解放”され、“自由”を手に入れることを楽しみにしているようにも見えた。
また、「“死=無”ではないと思う」とも言っていた。
私も、その願いはあるし、世の中の心霊現象を解釈するには、「“死=無”ではない」と考えた方が合理的に思われる。
しかし、その真実は、私にはわからない。
わかる日が来るのかどうかもわからない。
 
ただ・・・ただ、無心で生きたい・・・今はそんな気分なのである。

 



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ウジウジ

2022-11-01 09:11:07 | その他
陽が暮れるのが日に日にはやくなっている。
セミにとって代わった鈴虫の音色が耳に優しく響く。
本格的な秋は、もう目の前。
コロナ七波も落ち着いてきた感があり、秋を満喫する環境は整いつつある。
TVの情報番組でも、あちこちの行楽地や、数多くの秋の味覚が紹介され始めており、“にわか”ではあるけど、私も秋に迎えてもらっているような気分を味わっている。
 
「食欲の秋」「行楽の秋」「趣味の秋」、人それぞれ色んな秋がある。
私にとってこの秋は、どんな秋になるだろう。
酒は飲み続けているけど、大して食欲はないし、行楽の予定もなければ趣味もない。
そうは言っても、この鬱々とした日常に嫌気がさしている。
だから、とにかく、この現実から離れたい。
すぐに死なないとすれば、何もかも手放して生き直したいような気分である。
 
私は、自分が書くブログの根底に、「生きろ!」というメッセージを流しているつもりだけど、時々、その熱量が失せることがある。
死にたいわけじゃないけど、生きているのがイヤになるときがある。
自分なりにがんばって、ここまで生きてきたにも関わらず、いまだに
「なんで、人は、こうまでして生きなきゃならないんだろうな・・・」
といった考えに苛まれることがある。
私も、ただの人間、どちらかというと軟弱な人間だから、気分が沈むこともあれば、鬱々とした状態から抜け出せなくなることもあるわけで、そういうときは、生きるための意欲が減退するのである。
 
食欲がなくても、行楽の予定がなくても、酒に対する欲だけはある。
前にも書いたが、どうしても酒がやめられない。
そうなると、肴もいる。
せっかくの秋なのだから、時季の味覚を味わってみたいとは思うけど、何分、懐が乏しいゆえ、私の口には季節感のないものばかりが入っている。
自分なりに工夫して、舌と腹が少しでも満足できるようなものを繕っているだが。
ただ、どんなに質素な食事でも、毎日三食 当り前に食べられていることは、深く感謝しなければならないことでもある。
 
秋の味覚といえば、秋刀魚も代表格の一つ。
そして、今年もその季節がやってきた。
しかし、近年は不漁続き、しかも、サイズは小型。
当然、値段は高く、先日、馴染みのスーパーで見たら、なんと一尾250円!
しかも、小型の冷凍もの。
もう一軒のスーパーでは、店頭に置かれてもいなかった。
高級魚の仲間入りをするのも時間の問題か。
何年か前までは、スーパー等では、一尾100円くらいで売られていたように記憶しているけど、それに比べると信じられない値段。
ただでさえ、物価高騰の時世、この値段・この品では、とても「買おう」という気持ちにはなれない。
 
とにもかくにも、秋刀魚は、塩焼きにしても刺身にしても、おいしいもの。
塩焼きは、身は食べ尽くす。
脳天からエラの際、尻尾の付根まで、きれいに食べる。
苦い内臓も、背ビレも、胸ビレも、腹の小骨も。
残すのは、頭と背骨と尻尾のみ。
ちなみに、私が子供の頃には、秋刀魚を刺身で食べる習慣はなかった。
刺身で食べられるようになったのは、物流が発達したおかげらしい。
しかし、庶民の味方だったはずの秋刀魚が気軽に食べられなくなるなんて・・・
事実、私は、秋刀魚を、もう何年も食べてない。
最後に食べたのがいつだったかも憶えていない。
 
もう十年以上も前のことになるが、仕事で仙台に出張した日の夜、「一杯やろう!」と、仲間と国分町(市内の繁華街)に出掛けたことがあった。
入ったのは、店構えのいい大衆居酒屋。
そこで食べた秋刀魚の塩焼きが、今でも記憶に強く残っている。
 
家庭用に売られているものに比べると型は大きく、丸々と太り、脂ものって身はやわらか。
飲食業のプロが出すわけだから、焼き具合も塩加減も上々。
飯のおかずではなく、酒の肴で注文したわけだが、とにかく美味。
あれは、本当にいい秋刀魚だった。
 
昨今の秋刀魚は、そこまでのクオリティーはなく、そもそも、数が少なすぎて選びようがない。
気候変動、世界情勢、物価高・・・秋刀魚にかぎらず、食べ物の選択肢がどんどん少なくなっている。
現在でも、所得が低い人ほどジャンクフードを主食にする傾向が強いらしいが、それがもっと深刻化するおそれがある。
 
「食料危機」が現実味を帯びはじめている近年では、昆虫食や人工肉の研究もすすめられているよう。
TV番組で、“生態系を破壊する厄介者”とされる外来生物等を駆除して食す企画を何度か観たことがあるが、ああいうのもいいのではないかと思う。
ちなみに、マムシの干物やイナゴの佃煮なら私も食べたことがある。
正直なところ、「美味い」とは思わなかったけど。
 
私にとって馴染み深い“彼ら”も、一応、昆虫の類か。
ウジ・ハエ・ゴキブリが食用にできれば、こんなに頼もしいことはないかも(?)。
なにせ、彼らはタフ!
繁殖力・増殖力・生命力・生存力、どれをとってもピカ一!
腐りモノから勝手に涌いてきて、またたく間に成長するのだから、その養殖は、省力・低コストでできそう。
 
そうは言っても、米一粒一粒が、ウジ一匹一匹だと想像すると・・・
ハエのサラダとか、ゴキブリの酒蒸しとか・・・かなりヤバい!
仮に、「安全」「美味」「栄養豊富」だとしても・・・
それを口に入れるのも、噛み潰すのも、簡単じゃなさそう・・・
しかし、何事も慣れてしまえば、当たり前になるもので・・・
そのうち、鮮度抜群!“踊り食い”を売りにするような料理屋が現れたりして・・・
 
ウジというものは、寛容な目でみると、小さくて丸みがあって、モタモタとして可愛いらしく見えるかもしれない。
しかし・・・やはり、気持ちのいい生き物ではない。
カブトムシや蝶の幼虫とさして変わりはないのだけど、汚物や腐ったモノに涌くから嫌われるのだろうか。
その昔、トイレが水洗式ではなく、いわゆる「ボットン便所」だった頃は、どこの家庭の肥溜にもいたはずなのだが、今の時代、ウジを知っている人はほとんどいないか。
どんな生態なのか、どんな姿をしているのか、生きる上で不要な無駄な知識として検索してみるといいかもしれない。
 
以前、ブログに書いた覚えがあるけど、
目を閉じた遺体の目蓋がモゾモゾと動いているので、その目蓋を開けてみたら、“ゴマ団子”のごとく眼球をビッシリ覆いつくしていたり、
腐敗した猫の死骸をひっくり返してみたら、その腹部には、どんぶり一杯ほどのウジが“稲荷寿司”のごとくパンパンに詰まっていたり、
何日も放置された怪しい鍋の蓋をとってみたら、ウジが“雑炊”のごとくフツフツと涌いていたり、
そんなこともあった。
 
ウジは、私にとって、当たり前の存在。
一方、彼らにとって私は、ある種の天敵。
その姿は、“進撃の巨人”。
互いに、非常に厄介な存在で、激戦になることも少なくない。
とにかく、殺虫剤が効かない。
「ウジ殺し」と銘打つ薬剤でもダメ。
駆除法は、熱死させるか、焼死させるか、凍死させるか、物理的に排除するか。
手間とコストと気持ち悪さを考えると、物理的に除去するのが最も得策。
掃除機で吸い取ってゴミにしてしまうのである。
(“巨人”は喰って吐くようだが、もちろん、私は喰ったりはしない。仮に喰ったとしたら吐くに決まっているが。)
 
そんな仕事、楽しいわけはない。
心身が疲れていると尚更。
「キツい」「汚い」「危険」、いわゆる3K。
プラス、「クサい」「恐い」「気味悪い」「嫌われる」で7K。
そして、私の場合、「気落ちする」「苦悩する」「心病む」で10K。
話題沸騰中、メジャーリーグS・О投手の三振ショーのように、考えれば、もっと出てきそう。
なんとか、“パーフェクトゲーム”で完敗しないようにだけは気をつけたい。
 
世の中に、楽しく仕事をしている人が多いのか少ないのか、私はわからない。
生活や家族のため、自分に強いている人が多いか。
ただ、それなりのやり甲斐や喜びや目的を持ってやっている人も少なくないように思う。
そうは言っても、誰もが知るとおり、人生は、楽しいことばかりではない。
人の感覚として、楽しいことはアッという間に通り過ぎ、人の性質として、楽しくないことは心に刻まれやすい。
また、人生は、思い通りになることばかりではない。
ただ、人は、思い通りにならなかったことはいつまでも覚えているくせに、思い通りになったことはすぐに忘れてしまう性質を持つ。
だから、“人生は思い通りにならないもの”と感じ、自分の鬱憤を紛らわすために、“そういうものだ”と思い込ませてしまう。
“思い”というものは、本当は、もっと自由なもののはずなんだけど。
 
笑顔が失われた日常において、少しでも気持ちが上向くよう、ネットで元気が出そうな「名言」を検索することがある。
「心に刺さる!」というほどではないけど、「いい言葉だな」と思えるものも少なくない。
それでも、その効能は一時的なもの。
おそらく、それらは、自分が勇気をもって周りの現実を動かしてみることで実感でき、また、説得力をもって、その真価を人に伝えることができるのだろう。
 
何億匹、何兆匹、おそらくもっと・・・これまで、私は、数えきれないウジを始末してきた。
毒を吐くわけでも襲ってきたわけでもないのに、ただ「邪魔」というだけで。
その因果応報であるはずないけど、この性格は、いつまでもウジウジしたまま。
「余計なことを考えるな!」「それ以上 考えるな!」
自分に言い聞かせてはみるものの、自分が言うことをきかない。
自分の性格や価値観なんて、そんなに簡単に変えられるものではないことはわかっている。
いや・・・根本的には、変えることはできないものかもしれない。
だからと言って、このまま人生を棒に振るのはイヤ。
自分の内に自分を変える力がないのなら、自分の外に自分を変えるチャンスを探すしかない。
 
ウジだって、いつまでもウジのままではない。
たくましく生き、確実に成長し、脚を得て歩き、羽を得て宙を飛ぶ。
殺虫剤にやられる者、ハエ取り紙に捕まる者、餓死する者、鳥に喰われる者、色々いるだろうが、生きるために冒険の空へ飛び出していく。
その生きることに対する純粋さ、実直さ、必死さは人間に勝るとも劣らない。
ひょっとしたら、動植物や昆虫の生きようとする性質の純粋さ・実直さ・懸命さは、人間のそれをはるかに凌ぐものかもしれない。
 
今、必死に生きているだろうか、
毎日、一生懸命に生きている実感があるだろうか、
病気・ケガ・事故・事件・災害など、何か特別なことがないかぎり死なないことが当り前のようになっている日常に生きている者と、いつ死んでもおかしくない危機を身近に感じさせられる日常を生きている者との生に対する熱意は天地ほどの差があるように思う。
 
ただ、“死を意識しながら生きる”とか“生きる意味を問いながら生きる”とか、そういうことばかりが必死に生きることではないと思う。
そういう意識をもって生きるのは、とても大切なことではあるけど。
 
キーワードは「大切にする」ということ。
肝心なのは、「大切に生きる」ということ。
世界、社会、家族、友達、仕事、食事、趣味、時間・・・
「当たり前」と勘違いしている現実を大切に思い、人や物、色々な出来事に感謝する心を育むこと。
同時に、自分を大切にし、ときには自分に感謝することを意識すること。
 
「自分のために生きる」「生きることは自分のため」
生存本能があるせいか、何となく そんな価値観や思想をもって生きている。
そして、何かにつけ、「結局は自分のため」「結果的に自分のためになる」「間接的には自分のためにもなる」といったところに“強制着陸”しようとする。
もちろん、それに一理はある。
ただ、それで、不本意な自分の生き方を誤魔化そうとする自分がいるのも事実。
 
人の生き方に「正解」はない。
また、「正解」と思われる道は一つではない。
一つの判断基準は、「それで自分が幸せかどうか」「楽しめているかどうか」。
家族の笑顔を守るため労苦することは幸せなこと。
誰かの正義を守るため戦うことは幸せなこと。
目標に向かって鍛錬することは楽しいこと。
夢に向かってチャレンジするのは楽しいこと。
遊興快楽を手にして生きるばかりが“正解”ではない。
 
満たされない日々・・・
「人生なんて そんなもんだ・・・」と、自分に言い聞かせながらも、せっかくの人生を無駄にしているような気がしてならない。
それは何故か。
一つは、感謝の心が足りないから。
感謝しなければならないことがたくさんあるのはわかっているのだが、気持ちはどうしてもマイナスの方に向いてしまう。
もう一つは、生き甲斐を感じられることがないから。
銭金・商売・打算を抜きにして、誰かの役に立てている実感がない。
 
このまま下っていくだけの人生なんて、まっぴらご免!
残り少ない人生を、燃え尽きた灰のように諦めるのはイヤ!
ならば、変える必要がある。変わる必要がある。
「もう一花咲かせよう!」なんて大層な欲を持っているわけではないが、この陰鬱とした日々から脱出したい。
 
ウジをネタにこれだけ語れるのは、私にも、まだ余力がある証拠か。
だとすると、「大空」とまではいかなくても、どこか違う世界に飛び立てるかも。
ウジウジするのは程々に、心の燃えカスに再び火をつけて。
ウジから生まれ変わるハエのように。




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