特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

トンネル

2022-02-22 07:00:50 | コロナ死亡現場
一昨日、北京冬季オリンピックがやっと終わった。
TVは、連日、オリンピックの話題に終始。
各局、同じことの繰り返しで、飽き飽きするような放送ばかり。
一部(大勢?)の人の間では、かなり盛り上がっていたようだが、私は、げんなり・うんざり。
昨夏の東京大会同様、「大のオリンピック嫌い」と言っても過言ではない私にとっては、ある意味、薄暗いトンネルの中にいるような状態だった。

一方で、コロナ関連のニュースは、同じことの繰り返しでも、飽きずに観てしまう。
自分の生活や身に直結することだから、やはり、関心がある。
で、知っての通り、今、減少傾向にあるとはいえ、それでも、第六波の感染者数は凄まじいことになっている。
「ピークアウトしている」といった見方が大勢のようだが、こんな状況ではピークアウトもへったくれもないように思う。
現に、重症者や死亡者は増加傾向にあるし、感染者が増えている県もある。
また、医療従事者をはじめ、大変な思いをしている人もたくさんいるわけだし。

人の不幸を横目に「幸い」と言ってはいけないのだが、幸い、まだ、私自身は感染しておらず、直接の知り合いにも感染者は発生していない。
が、東京では“ステルス”も確認されたようだし、こうなってくると、自分が、いつ感染してもおかしくない。
まずは、はやいところ三回目のワクチンを打ちたい。
とりわけ、高齢の両親には、はやいところワクチンが回ってきてほしい。
いずれは、死に別れなければならない時がくるとわかってはいても、できるかぎりの策を講じて、やっと覚えた親孝行したい気持ちを少しでも具現化したいから。

どちらにしろ、現実的には、自分が感染してしまうことや、身近なところで感染者が発生してしまうことも想定しておかなければならない。
そうなると、生活は一変するだろう。
自分が濃厚接触者になったらどうすればいいのか、
検査が迅速に受けられるのかどうか、
感染したら、ただちに病院にかかれるのかどうか、症状はどの程度か、
不安は尽きない。

私は、ワクチンを二回打っているから、少しは、それが安心材料になっている。
ワクチンを打っている人とそうでない人の重症化リスクには差があるらしいから、可能性の問題とはいえ望みはある。
ただ、打てない事情はなく、自らの意思でワクチンを打たなかった人は、今、どういう心境だろう。
私の周りにも何人かいるが、私の目に、そういう人達は、ワクチンについてネガティブな情報ばかりをかき集めているように見える。
しかも、真偽が定かではないようなネット情報ばかりを。
“オミクロン”や“ステルス”が出現するなんて想定してなかったはずで、中には、「打っとけばよかった・・・」と後悔している人もいるのではないだろうか。
とにもかくにも、その想いは、未接種者に対する“優しさ”や“思いやり”からきているのではない。
何かに勝ったときの感覚みたいな、妙な優越感からきているもの。
そんな感情を抱いてしまうところに、私の弱点があるわけで、そういう性質が治らないかぎり、私はダメな人間のままなのだろうと残念に思う。



訪れた現場は、賃貸アパートの一室。
「老朽」というほど傷んでもなかったが、やや古め。
間取りは、狭い1R。
地域の相場に比べれば、割安の物件。
そこで、住人であった中年男性が死去。
わりと早く発見されたため、特段の汚染や異臭はなかった。

ただ、部屋は、男の一人暮らしにありがちな状態。
ロクに掃除もされておらず、そこら中、ホコリまみれカビまみれ。
生活用品やゴミも散らかり放題。
お世辞にも「きれい」と言える部分は、片隅もなし。
ただ、自分で暮らせはしないけど、このくらいの不衛生さは、私にとっては軽症。
ここよりはるかにハードな現場も数多く処理してきたわけだから、いちいち驚くほどのこともなかった。

気になることは他にあった。
それは故人の死因。
不動産管理会社から伝えられた死因は「新型コロナウイルス」。
つまり、今、流行っているヤツの原型。
どういう経緯で死因がコロナだと判明したのかまでは知らされなかったが、故人がコロナに感染していたことは事実のよう。
今と同様、皆がコロナに警戒しているときで、管理会社も「あとはヨロシク!」といった具合に作業を丸投げしてきた。

「気がすすまないなぁ・・・」
死因が新型コロナウイルスであることを知った私は、そんな風に思った。
今よりも更に未知の部分が多かったあの時期だったら、大抵の人がそう思うだろう。
が、こういう現場に先陣を切るのは“特掃隊長”の役目だったりもするわけで・・・
どちらにしろ、他に進んで行ってくれる者はおらず、立場的に他の誰かを行かせることもできず・・・
どこをどう考えても、私が、この現場を避けることは無理な状況・・・
キッパリ諦めて、自分を差し出すほかなかった。

調べたところ、住処(人体)を失ったウイルスは、いつまでも生きているわけではないらしい。
うまく生き延びられたとしても、2~3日のもの。
仮に、部屋にウイルスが残留していたとしても、故人が亡くなってから数日も間を空ければ、ウイルスはすべて死滅するはず。
ということは、それだけの期間を空ければ安全ということ。
更に、いつもやっている消毒を施せば、万全になる。
しかし、しかしだ、それは、あくまで、よそでの研究結果。
今回のコロナウイルスには未解明な部分が多く残っており、おまけに、一度もワクチンを打っていなかった私は、不安がなくはなかった。

アパートの他の住人も、故人がコロナで亡くなったことを承知。
同時に、コロナウイルスに嫌悪感や恐怖心を抱いていた。
だから、周辺で居合わせた誰も、故人の部屋には近づかず。
その部屋に出入りする私をも警戒し、バイキンから逃げるように、そそくさと姿を消した。
中には、「ドアや窓を開けっぱなしにしないで!」と、遠くから言ってくる人もいた。

しかし、そんな状況でも、隣室の初老男性だけは態度が違った。
故人と親しく付き合っていたようで、マスク着用で一定の距離を保ちながらも、
「(死因を)聞いてるよね?」「大丈夫?」「気をつけてね!」
と、優しい言葉をかけてくれた。
これには、随分と気持ちが癒された。

部屋に残留しているかもしれないコロナウイルスが死滅するのと待つため、私は、作業に着手するまでは、充分な期間を設けた。
その上で、念入りに消毒を実施。
更に、本件に携わるスタッフも最少人数に限定。
そして、室内での作業は、ほとんど私一人で行った。

部屋の始末が終わると、もう、この部屋からコロナに感染する心配はまったくなくなった。
隣室の男性も、安心したようで、
「大変だったでしょ・・・ご苦労様でした」
と、私を労ってくれた。
そして、
「あれじゃ、コロナにかかっても仕方がないよ・・・」
と、故人との想い出を話し始めた。


故人が、このアパートに越してきたのは、数年前。
男性と、ほぼ同時期。
故人が、引っ越しの挨拶に来たのが最初の会話だったそう。
話してみると、歳も同じくらいで、境遇も似たようなもの。
独り身の寂しさも手伝ってか、親しみを覚えた。
そして、あるとき、偶然、近所と居酒屋で居合わせ、一緒に酒を飲んだことがあった。
それを機に、男性と故人の距離は一気に縮まり、親しく付き合うようになった。

二人とも酒が好きで、コロナ前は、外で一緒に酒を飲むことも多々あった。
ただ、お互い、仕事の話はほとんどせず。
お互い、紆余曲折があって、このアパートに転がり住んだ身の上。
下り坂にさしかかった人生、再起を期して、新しい生活をスタートさせたのかも・・・
過去に仕事がうまくいっていたら、こんな境遇には陥らなかったかもしれず・・・
そんなところで、仕事の話をしたって、楽しい会話になるはずもなく・・・
だったら、そんなネタを捨て置いた方がいいわけで、仕事のことは詳しく訊かず、話さず・・・それが暗黙のルールになりマナーになった。

楽しい酒の席で仕事の話をするのがナンセンスであることは、何となく私にもわかる。
昔、仕事の自慢話や愚痴を聞かされながら酒を飲んだことが何度かあるが、そのつまらないことといったら、もう、腹が立つくらい。
せっかくの美味い酒が台なしになる。
また、私に至っては、仕事の話をした日には、酒がマズくなるどころか吐いてしまうかもしれないし。
で、男性も、故人の仕事の詳しい事情は知らず。
ただ、故人の様子をみていると、コロナの煽りを喰って、うまくいかなくなっていたことは何となく察することができた。

コロナが流行りだしてから、男性は、不要不急の外出は自粛。
世間の風潮に合わせてマスク生活を送るように。
しかし、一方の故人は、そんなこと一向にお構いなし。
マスクをつけることはなく、
男性が、「マスクくらい着けた方がいい!」「飲みに行くのはやめた方がいい!」といくら忠告しても、まったくきかず。
マスクを着けることはなく、パチンコに行ったり、飲みに出かけたりと、生活スタイルを変えることはなかった。

コロナ前、故人は、羽振りがよさそうにしていた時期もあった。
しかし、コロナが流行りだしてからは、キチンと仕事をしている風ではなかったよう。
故人は、自分の努力や忍耐ではどうにもできないコロナ不況に陥っていたのかも。
その姿は、どこか、「ヤケクソ気味」というか、「投げやりになっている」というか、自暴自棄になっているように映った。
故人の死因は、あくまでコロナウイルスによるものだったし、男性が「自殺」という言葉を使ったわけではなかったけど、男性の語り口には、それを匂わせるものがあった。
そして、それは、私に、ありがちな同情心と、えも言われぬ緊張感を覚えさせたのだった。


コロナが世界で流行りはじめた頃、確か、ハーバード大学の研究チームだったと思うが、
「このコロナ禍は、波と凪を繰り返しながら三~四年続く」
という予想を発表したことがあった。
それを聞いた私は、
「まさか・・・」
と、耳を疑った。
「頭のいい人達の考えだから、まったくの見当違いってこともないんだろうけど・・・」
と思いつつも、
「さすがに、それはないだろぉ・・・」
と、ほとんど信用しなかった。

しかし、現実はどうだ・・・
コロナ禍は、三年目に入る。
そして、オミクロンの後にステルスオミクロンまで出てきて、第七波の襲来も想像だけでは済まなそう。
ということは、コロナ禍が年内でおさまることは考えにくく、前記の研究チームのシュミレーション通りになるのは、ほぼ確実。

多くの庶民は、切り崩せる貯えに限界をもつ。
減っていく一方の仕事と貯金を前にすると不安感は大きくなるばかり。
誰かのせいにしたくても誰のせいにもできない現実。
誰かに助けてもらいたくても誰も助けてくれない現実。
心が折れない方がおかしいくらい。
先の見えない暗闇にあって、「この先、どうやって生きていけばいいのか・・・」と頭を抱えている人も多いはず。

コロナウイルスで亡くなる人、コロナ苦で亡くなる人、また、コロナ禍で死にそうになっている人は、世界にたくさんいる。
絶望の淵をさまよいながら、冷たい雨に打たれながら、暗闇に怯えながら、
「自殺はご免、だけど、生きているのもツラい・・・」
と、一日一日を、必死の思いでやり過ごしている人も少なくないのではないだろうか。
「何のために、そうまでして生きなければならないのか・・・」
と、自問している人も少なくないのではないだろうか。

しかし、このトンネルにも出口はある。
今は、まだ見えていないだけ。
ただ、ここまで打ちのめされると、「明けない夜はない」「やまない雨はない」等といった安売りされた精神論は役に立たない。
残念ながら、それを自分に信じ込ませるだけでは、出口まで元気に歩き切る力を得ることはできない。

そう考えると、人に死があること、人生に終わりがあることは、救いなのかもしれない。
信じようが信じまいが、“死”という“出口”は誰にもあるのだから。
そして、出口までの距離は、自分が恐れているほど遠くない。
振り返ってみればアッという間だったりする。
だったら、たまには、闊歩してみようか。
下を向いてトボトボ歩こうが、上を向いてサクサク歩こうが、暗いトンネルを歩かなきゃならないことに変わりはないのだから。

・・・と、こうして、長々と文字を連ねながら、いつまでも明るい出口が見えない自分を励ましているダメ親父なのである。



-1989年設立―
日本初の特殊清掃専門会社
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いきづまり

2022-02-10 07:03:20 | 腐乱死体
息詰まる熱戦が繰り広げられている北京冬季オリンピック。
ただ、例によって、私は、興味薄。
連日のTVニュースも飽き飽き。
昨夏もそうだったが、あまりに内容がしつこいと、イラ立ちさえ覚えてしまう。
で、オリンピックの話題をやっていないチャンネルに変えてしまう。

しかし、この前の、スキージャンプ混合団体での出来事は、ちょっと違った。
そう、女子選手がスーツの規定違反で失格になった件だ。
軽はずみな感情なのかもしれないけど、その選手が泣き崩れている姿を見ると、こっちまで“うるっ”ときてしまった。
年齢でいうと娘くらいの子が、あんなに泣いているなんて・・・このポンコツ親父は、可哀想で 可哀想で、仕方がなかった。
そして、自分のダメさを棚に上げて、「人間としても選手としても、これをバネにもっと飛躍してほしい」と強く願った。

そんな二月も、もう中旬に入る。
今更、正月の話をするのもなんだけど・・・
その時季の風物詩の一つに餅がある。
で、この正月、餅を食べた人は多いだろう。
そういう私も食べた。
しかし、肝心の雑煮は食べなかった。
正月くらいは食べてもよかったのだけど、病人のように寝込んでしまい、結局、食べずじまい。
またしばらく、雑煮を口にすることはないだろう。

ただ、私の場合、普段から、たまに餅を食べることがある。
意識して常備しているわけではないのだけど、個包タイプは常温で長期保存できるから、家に餅が置いてあることが多い。
それを、時折、思い出したように食べるのだ。

好きな食べ方は、大福っぽくした粒餡トッピング。
チンして柔らかくした餅に、市販されている既成の粒餡をのせる。
それに、バター(正しくはマーガリン)を少し加えることもある。
ピーナッツバターを試したこともあるが、これはこれで美味だった。
ゴマ団子みたいな風味になるので、ゴマがあったら、ゴマを混ぜたりもする。
もともと、大福とか粒餡菓子は好物なので、とにかく、和菓子感覚で、甘くして食べるのが好きなのだ。

そして、食べるタイミングは、いつも就寝前。
晩酌の後の“締め”で食べるのだ。
ただ、そんな食べ方は、中年男の身体によくはない。
また、酒を飲んだ後、寝る前にそんなことしてたら、普通なら、速攻で太るはず。
なのに、今の私は、体重が増えない。
餅を食べない日はインスタントラーメンを食べることも多いのだが、まったく増えない。
歳のせいか精神的な問題が、食欲も減退しており、一日の総接種カロリーが大したことにはなっていないせいだと思う。
しかし、不健康に太るのはイヤだけど、不健康に太らないのもイヤなもの。
心身ともに元気になり、食欲旺盛なくらいに戻りたいと思っている。

しかし、そんな餅で事故が起きることがある。
毎年、正月は、餅をノドに詰まらせる事故が多発する。
そして、気の毒なことに、そのうちに何人かが、それで亡くなってしまう。
そのすべてが高齢者。
仕方がないことだが、老いとともに身体能力は落ちていくわけで、噛む力も飲み込む力も弱くなっているのだろう。
急に、呼吸ができなくなる苦しみと恐怖感を想像すると、気の毒で仕方がない。



依頼された現場は、街中に立つ一軒家。
二階建ての二世帯住宅。
故人は一階部分で生活。
二階には、本件の依頼者である故人の娘(以後「女性」)とその家族が生活。
で、故人は、自宅の風呂で、浴槽に浸かった状態で孤独死。
発見は比較的はやかったようだったが、それでも、しばらく放置されていた。

「湯に浸かっていた時間は数時間」
女性は、私にそう説明。
ということは、余程、湯が沸いてないかぎり、汚染はライト級のはず。
場合によっては、女性や家族でも掃除できるレベルではないかと思った。
しかし、
「浴槽の栓は抜けているのに、浴槽の半分くらいまで水がたまったままになっている」
とのこと。
排水口に何かが詰まっていることは女性にも容易に想像でき、何が詰まっているのかも、ある程度、想像できているよう。
そう、それは、故人の身体の一部・・・
結局、女性は、浴槽に水が溜まったままになっているのが怖くて、それ以降、浴室に入ることができなくなってしまった。
「たった数時間で?・・・追い炊き機能が動いていたのかな・・・」
私は、怪訝に思いながらも、女性の動揺が感じ取れたため、それ以上のことを尋ねるのはやめ、とりあえず、現場に行ってみることにした。


現場の到着した私を出迎えてくれた女性の顔は曇っていた。
そして、
「恐くて見れないんです・・・」
と、申し訳なさそうにした。
「家族とはいえ、誰しもそうですよ・・・」
と、私は、“気にすることじゃありませんよ”といった雰囲気を前面に醸して女性をフォロー。
それから、女性に促されるまま家に上がり、女性が指差す方の浴室に向かった。

浴室の扉を開けると、独特の異臭が鼻を衝いてきた。
ただ、それは熟成されたニオイではなく、わりとアッサリとしたニオイ。
あえて言うと、生活雑排水と糞尿臭を混ぜて濃くしたような感じ。
もちろん、これでも充分にクサいのだが、“クサいもの慣れ”している私には、「アッサリ」に感じられた。

「しかし・・・これは、“数時間”じゃないな・・・」
水の濁り具合やニオイの感じからして、私は、一~二日の浸水を想像。
ただし、そのことを女性に尋ねる必要は何もない。
また、「数時間」と言った女性の心情もよくわかる。
故人が、突然、風呂で亡くなったことも、発見が遅れたことも、不可抗力な出来事。
人知を超えた領域のことで、女性に非や責があるわけはない。
とは言え、二世帯住宅だろうと同じ家に暮らしていながら、父親の異変に気づくのが遅れたことに罪悪感みたいなものを抱いていたのだろう。
だから、「数時間」と言ったのは、世間体を気にしてのことや私に対しての気遣いだったのかもしれなかったが、自分でも そう思い込みたかったのだろうとも思った。

ちなみに、浴槽死で長期放置だと、かなり厄介なことになる。
想像できるだろう・・・自動運転機能が働いていると、低温調理みたいになって、もう、言葉では表せないくらい強烈なことになる。
しかも、部屋死亡のケースとは異なり、生臭いような、腹をえぐるような、何とも言えない独特のニオイを発する。
当然、見た目も超グロテスク!
色んなモノが溶け込んでいて・・・もう、頭がブッ壊れそうになる。

湯に浸かった遺体は、まず、皮膚が剥離。
よく、日焼けしたとき等に剥がれる、薄い表皮だ。
これが、水でふやけた状態になるから、厚みを増して大きく膨張し、見た目は半透明のレジ袋のようになる。
過去にも書いたが、脱皮したかのようにきれいに抜けている場合もあり、「手袋?」と見まがうくらい良質(?)の状態のものもある。
あと、身体の筋肉が死んでしまうわけだから、脱糞していることも多く、底に糞便が残っていることも少なくない。
おそらく、放尿もしてしまうのだろうけど、尿は水と混合してしまうため判別できない。

この風呂の水も、薄く汚濁。
底に何が沈んでいるか見通せず。
とにもかくにも、浴槽に水が溜まったままでは掃除のしようがない。
私は、まず、バケツで水を汲み、それをトイレに流す・・・バケツで汲みきれない水位に下がるまで、それを繰り返した。
もちろん、汚水をトイレに流すことは女性に許可してもらったうえで。

水位が下がるにつれ、水の濁りは増してきた。
底に沈殿していた異物が水流によって舞い上がるためだ。
ただ、目を引く程の固形物はなく、小さな皮膚の断片が数枚、クラゲのように舞ってくるぐらい。
ヘビーな何かが現れることに緊張しながらの息詰まる作業だったので、私は、ホッと一息。
その場で腰を伸ばして、特掃根性のギアを一つ落とした。

水位が数センチにまで下がったところで作業変更。
排水口は指が入れられる状態になり、私は、軽く指を差し込んでみた。
しかし、水中で手袋をしているせいか、何かに触れた感覚はなし。
とにかく、執拗に指を入れて詰まりがヒドくなったら、作業が行き詰まってしまう。
私は、排水口を目視できるようになるまで、浴槽の汚水を完全に除去することに。
バケツを小さな容器に変え、それでもすくえなくなったら、小さなチリトリを持ってきて、手で汚水をかき集めた。
そして、最後は、雑巾。
雑巾に染み込ませては、バケツに絞り・・・それを繰り返し、浴槽の底を完全に露出させた。

案の定、排水口には、遺体の一部らしき物体が詰まっていた。
一本しか入らない指は諦め、サジのような形状にした針金を差し込んで、少しずつ物体を取り出した。
取り出してみると、それは皮膚。
私は、それらを小さなビニール袋に集め入れた。
また、浴槽の底には、糞便も残留していたが、さすがに、それはトイレに流させてもらった。
皮膚と一緒に収拾したところで、女性も困っただろうし。
もっと言うと、気分を悪くしたかもしれないし。

私は、ビニール袋に入れた皮膚片をハンドタオルに包んで、女性に差し出した。
「何ですか?これは・・・」
私が差し出した包みを見て、女性はそう尋ねた。
「浴槽に残っていた皮膚の一部です・・・」
うまいウソを思いつかなかったし、ウソをついても仕方がなかったので、私はそう答えた。
「・・・・・」
女性は、絶句し手を口に当て、目に涙を滲ませた。
「火葬のとき、柩に入れてください・・・」
私が、そう言うと、女性はゆっくり包みを受け取った。

“余計なことをしてしまったかな・・・”
私は、そう思ったが、遺体の一部が浴槽に残留していたことは女性も察していたはず。
で、それを汚水と一緒にトイレに流したとなると、そっちの方がマズイことになると判断したのだった。

女性は、差し出した包みを悲しそうに見つめながら、
「・・・ということは、こういうものが外の浄化槽にある可能性もありますよね?」
と、私に質問。
私は、
「そうですね・・・その可能性はありますね・・・」
と返答。
すると、女性は、潤んでいた目を更に潤ませ両手で顔を覆った。
“しくじった!”
女性が悲しむ姿を目の当たりにした私は、とっさにそう思った。
ウソも方便、機転をきかせることができなかった私は、「その可能性はないと思います」と答えればよかったところ、バカ正直に答えてしまった。

女性は、浴室で体調が急変し、二階に向かって助けを呼んだかもしれない父親を一人で死なせ、それに気づかず放置し、ほんの一部とはいえ その身体をゴミ同然に流し捨ててしまったことを深刻に捉え、後悔の念と強い罪悪感に苛まれているようだった。
そうは言っても、私は、浄化槽の清掃まではできない。
仮に、できたとしても、日常生活で排出される多種多様の雑排物から、遺体のモノだけ取り出すのは不可能。
結局、女性に対して、気の利いた説明はおろか、何のフォローもできず。
何とも言えない息苦しさが漂う中、「仕方がないこと」と諦めてもらうしかなかった。

「きれいにしてもらって、ありがとうございました」
帰り際、女性は礼を言ってくれた。
が、その表情は曇ったまま。
私は、掃除屋としての仕事は完遂できたはずだったが、何かをやり残してしまったような感覚を拭えず。
女性の曇顔が自分のせいではないことはわかっていたけど、
“もうちょっとマシな仕事ができなかったかな・・・”
と、どことなく、ため息が出るような、息が詰まるような思いで現場を後にしたのだった。



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Speed

2022-02-01 08:00:45 | 腐乱死体
それにしても、速かった!
オミクロン株の拡大スピードは。
先月初頭、にわかに感染者が増え始めたかと思うと、すぐに倍々、いや、もっとはやいスピードで感染者は増えていった。
全体的にみると重症化する確率は従来株より低いらしいが、それは、自分が重症化しない根拠にはならないうえ、「軽症」に類されても、実際の症状はけっこうな重症ときく。
また、医療従事者の感染、幼稚園・保育園や学校の閉鎖、自宅待機者や自宅療養者の急増など、今までにない問題が勃発。
従来通りの動きができない人が増えすぎて、社会インフラが麻痺し始めている。

色々考えると、心配は尽きない。
ワクチンを二回接種していても、まったく油断できず。
はやいところ三回目のワクチンを打ちたいところだけど、私のような一般人に回ってくるのは春・・・いや、夏頃になるかもしれない。
となると、私の場合、オミクロンのピークは、下がりゆく抗体のまましのがなければならないわけだ。

マスク着用・こまめは消毒・三密回避は当然のこと。
外で飲食はしないし、買い物に行く回数も最低限で、手早く目的の品だけ買う。
仕事先で人と会うときも、できるだけ換気のいい状態のところで、できるだけ距離をあけ、味気ないけど、“密”になってしまう場合、余計な会話はしないよう心掛けている。
また、街で人とすれ違うときも、できるだけ端に寄って距離をあけるようにしている。
意味ないとは思うけど、距離が空けきれないときは息を止めることもある。
そういった具合に、私は、感染対策にかなり気をつかっている方だと思うのだが、日々のニュースでオミクロン株の威力を目の当たりにしていると、「今回は防ぎきれないかもな・・・」という諦めの気持ちも湧いてくる。

それでも、第六波だっていつかは収束する。
それが、春なのか夏なのか、はたまた秋になるのかわからないけど。
既に、“ステルス”による第七波もささやかれ始めているが、それがくるかどうかは別として、昨秋のように、再び一息つける時期がくるとありがたい。
特に、何がしたいわけでもないけど、そうなったら、この日常から脱出して、どこかに出かけたい。
ドライブに出かけるのもヨシ、温泉旅行とかで遠出するものヨシ、再び老親の顔を見行くのもヨシ。
とにかく、この曇天の生活圏から脱出して気分転換したい!



1月11日「誤算」の現場。
遺族が後始末から手を引いたものの、そのまま放置することは、大家にとって、自分で自分の首を絞めるようなもの。
結局、特殊清掃・消臭消毒は、大家の負担で実施することに。

間取りは1DK。
時季は真夏で、故人の肉体は猛スピードで腐敗溶解。
故人が倒れていたのは部屋の真ん中で、下半身は布団、上半身は床。
その人型は、腐敗物となってハッキリと残留。
布団は、タップリの脂が浸み込んだような状態でグッショリ!
床は、タップリのタールを流したような状態でベッタリ!
おまけに、頭皮ごとズレ落ちた頭髪がカツラのごとく残留。
光景もさることながら異臭濃度も凄まじく、フツーの人なら嘔吐してしまうようなレベル。
しかし、私にとっては、これも、ある種の“日常”。
部屋はどんでもないことになってはいたけど、慌てふためく程のことではなかった。

それよりも、私が閉口したのは、部屋の温度。
密閉された室内はサウナ状態で、一つ一つの汗腺から汗がフツフツと噴き出していることが感じられるくらい。
また、頭に巻いたタオルがジトッと濡れてくる感覚と、作業着の下、首筋から腹部に向かって汗が流れる感覚もあった。

ちなみに、私は、子供の頃から風呂に長く浸かるのが好き。
好みは、ぬるめの湯。
それに長く浸かっているのが好きなのだ。
一方、サウナは苦手。
昨今は、「ととのう」等と言われて、ちょっとしたブームのようになっているみたいだが、
あの不自然な高温に恐怖心を抱くのだ。
あと、それが本当に身体にいいのかどうか疑問もある。
スーパー銭湯で、よく、真っ赤な顔でサウナ室からでてきて、そのまま水風呂に飛び込んでいく人を見かけるけど、あれは、心臓や血管に悪くはないのだろうか。

もちろん、この“腐乱サウナ”は、それとは別物。
辛抱して入っていなければならないことに変わりはないのだが、そのニオイとビジュアルのインパクトは、あまりにも過激。
「ととのう」どころか、心も身体も、何もかも乱れまくる。
サウナに強い人でも、一秒たりと耐えられないだろう。

時は、外気でさえ尋常な温度ではない季節。
私は、大家からエアコンの使用許可をもらっていた。
換気扇とは違い、室内でエアコンを回しても、近隣へ迷惑はかからない。
しかし、肝心のリモコンが見当たらず。
それは、私にとっては、ある意味の死活問題。
私は、少し焦りながら、少し緊張しながら、キョロキョロと部屋のどこかにあるはずのリモコンを目で追った。

目当てのリモコンは、床に落ちていた・・・
残念ながら、腐敗液に溺れた状態で・・・
拾い上げてみると、液晶仮面はのっぺらぼう・・・
私は、かすかな希望を胸に冷房スイッチを押してみた・・・
が、「ピッ」という音もせず、エアコン本体もウンともスンとも言わず・・・
直接、本体を操作する方法もわからずじまい・・・
とは言え、未練がましく、動かないエアコンを見上げて途方に暮れていても仕方がない。
また、その後に、きれいな女性と会う約束があるわけでもない。
汗みどろになろうが、クサくなろうが、カッコなんて気にする必要はまったくないわけで、私は、頭を切り替えて、己の方位を特掃に向けなおした。

とにもかくにも、そんな所に、長時間、居続けるのは危険。
小刻みに外へでて休息し、水分を摂らないと、下手したらこっちも死んでしまう。
孤独死現場で死んでしまったらスゴ~く残念であるのはもちろん、他人様の部屋で事故っては申し訳ない気もするし、故人にも悪いような気がする。
しかも、一人きりの作業だから、「そんなリスクはない」とは言い切れず、用心には用心を重ねないといけない。
ただ、本来、人並外れて神経質(臆病)な性質の私なのだが、特掃に入ると、そんなことお構いなしに没頭してしまうクセがある。
そして、それを自戒しながらも、やり遂げた後の達成感や爽快感が大きいものだから、あちこちの現場で、麻薬(やったことないけど)のように繰り返してしまうのである。


故人が滲みだしたものをタップリ吸い込んでいる布団の重いこと重いこと。
手を当てた部分からは腐敗脂がジュワッ!滲み出てきて、その感触は、手袋が破れたのかと思うくらいリアル。
しかも、ヌルヌルと滑りやすく、また、身体に着けたくないものだから、うまく持ち上がらず。
また、室温のせいか何かが発酵しているせいか、かなりの熱を持っており、それが人の体温にも感じられて、猛烈に暑いのに背筋に悪寒が。
更には、無数のウジが潜んでおり、そいつらの逃亡も阻止しなければならず。
敷布団一枚を畳んで袋詰めするたけでも悪戦苦闘する始末だった。

床の掃除も同様。
腐敗脂は、ヌルヌル・ベトベトの状態で部屋の床面の半分近くまで拡散。
隅に置かれたタンスやTV台の下にも侵入。
汚染された面積もさることながら、上半身があった場所には、腐敗粘土が結構な厚みで堆積。
その上には、必死に(?)走る輩が・・・
「蜘蛛の子を散らす」とは、まさにこのこと。
安住の地(御布団=汚腐団)を失ったウジが四方八方に拡散逃亡。
一匹一匹のスピードは遅いものの、敵は、中年男一人で相手ができるほど少数にあらず。
私は、「外に逃げられなきゃいい」と考え、萎えそうになる根性から、やる気と根気を引きずり出して、腐敗物の除去作業に入った。

ただ、そんな凄惨な現場にも、過酷な作業にも救いはある。
それは、自分の裁量でやれること。
「あぁやれ、こうやれ」と指示してくる者もいなければ、文句を言ってくる者もいない。
自らの判断で、必要なだけ頑張り、必要なだけ休憩をとればいい。
焦る必要もないし、慌てる必要もない、落ち着いてやればいいだけのこと。
あと、まったくの独り善がりなのだけど、仮に、この作業を故人が見ていたとしたら、きっと感謝してくれるんじゃないかな・・・と思えること。
そこに、この仕事の“楽”がある。


誰しも経験があるだろう・・・
楽しいとき、楽なときは時間が過ぎるのがはやい。
日常的なのは、朝の起床時。
「ウソじゃないか!?」と思うくらい、時計が進むスピードは速い!
先日、両親と共に過ごした時間も、やたらと短く感じた。
逆に、楽しくないとき、苦しいときは時間が過ぎるのが遅く感じる。
昔、十代の頃、工場で単純作業のアルバイトをしていたときは、本当に時間が過ぎるのが遅く感じられた。
「もう30分は経っただろう・・・」と思って時計をみると、たった10分しか経ってなかったりしたもの。
あと、最近では、一日一日が過ぎるのが遅く感じる。
多分、今の精神状態が・・・この日々が苦しいからだと思う。

特殊清掃における時間感覚も特有のものがある。
この仕事においては熟練者を自負している私。
自分では効率のいい作業手順を組み立ててテキパキやっているつもりだけど、終わってみると感覚以上の時間が経過していることが多い。
決して楽しい仕事でもなければ楽な仕事でもないのだけど、時間が経つのがはやく感じる。
作業に没頭し夢中になっている証か・・・
良きにしろ悪きにしろ、特掃根性が沁みついてしまっているのだろう。

日常が平坦なのは、とにかく、ひたすらありがたいことなのだけど、その分、つまらない考えやくだらない想いが涌いてきて、それに苛まれやすい。
本当に愚かなことなのだけど、小さいことをグズグズと考える負のスパイラルに陥りやすい。
で、時間が過ぎるのが、やたらと遅く感じ、一日が長く感じられてしまう。
しかし、特殊清掃ってヤツは、心の余裕を奪い、私を、精神力を超えたところに導いてくれる。
人目には最悪に見える状況から、私を最善の状況に救い出してくれる。


言うまでもなく、“時”は、万民平等のスピードで流れている。
ただ、私という人間は、まったく身勝手な生き物。
その時々で、そのスピード感は異なる。

この先の人生、どのようなスピードで過ぎるのだろう・・・
はやく過ぎる感覚でありたいような、はやく過ぎてもらっては困るような・・・
どうあれ、「過ぎてみればアッと言う間だった」という人生でありたい。
そして、「悩んだことも、苦しかったことも、辛かったことも、悲しかったことも、たくさん たくさんあったけど、ま、それでも、おもしろかったかな」と思える人生でありたい。

そのためには、今、ただ楽を求めるのではなく、楽しく遊ぼうとするのではなく、一心不乱に何かに取り組むこと、何かに熱中することが大切なのではないかと思う。
理想を言えば、それは、仕事や生活から離れたところにある、趣味や娯楽なんだけど、今のところ、私は、その類の持ち合わせがない。

不本意ながらも、やはり、私の場合は、特殊清掃に励むのが手取り早い。
当然、一件一件は、おもしろくも何ともない。
だけど、人生としては、おもしろいかもしれないから。

-1989年設立―
日本初の特殊清掃専門会社
コメント
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