特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

面倒

2019-01-07 08:42:22 | 腐乱死体
年が明けて一週間が経ち、軽くなった財布と重くなった身体を携えて面倒な日常に戻った人も多いだろう。
その面倒さに、鬱っぽくなっていないだろうか。
一方、年末年始に働いたサービス業等の人達は、これから長期休暇に入るのだろうか。
行くところに行けば、まだまだ正月ムードは残っているだろうから、初詣、飲食、旅行etc・・・楽しめることはたくさんありそうだ。
子供がいる人は学校の冬休みに合わせられないというデメリットはあるけど、混雑は終わっているし、シーズンで高騰した宿泊費等も廉価に戻っているし、そのメリットは大きい。
皆が遊んでいるときに働いた御褒美だ。

一応、私の仕事もサービス業(イメージがそんな感じじゃないけど)なんだけど、今のところ、今月も休暇をとる予定はない。
親戚の結婚披露宴に招待されているので、その日くらい。
多額の御祝儀や会場で会う人々との関わりを考えると面倒臭くもあるけど、普段、喪色ばかりに染まっているので、たまには紅色に触れてみるのも悪くないだろう(不気味な紅色にはしょっちゅう触れているけど)。
それ以外、休暇らしい休暇は、暖かくなる頃にとろうかと思っている。
ちょっとしたレジャーや旅行を考えており、そのため、寝床の枕元に隠した空缶に、時々、500円玉を呑み込ませている。

その枕元で毎朝繰り広げられているのは起床との戦い。
寒いし暗いし、だいたいの朝は鬱っぽくなってるし、布団から出るのはなかなか面倒。
しかも、後に待っているのは、面倒な仕事。
重くなった気と身を持て余しながら、止まるわけない時間が止まる願望をもって時計に何度も目をやる。
しかし、時は無情。
始業から逆算した起床時刻はすぐにやってきて、鬱々と重い身を起こすのである。

私の場合、鬱っぽい気分で覚醒する朝は多い。
朝鬱夕躁・・・例年、冬場はそれが重症化。
ただ、幸いなことに、その持病(冬鬱?)も近年は楽になってきている。
完治はしていないし、そこそこのレベルで慢性化しているけど、以前よりはマシ。
以前は、心が闇に覆われて、虚無感・脱力感・疲労感、そして絶望感に苛まれて、生きるのが面倒臭くなるくらい しんどい思いをしていた。

あまりの重症が脳裏に焼きついて、忘れられない冬もある。
それは、五年前の話。
2013年の秋から精神は低空飛行を始め、若干のUp Downを繰り返しながら徐々に下降。
そして、翌2014年1月は墜落寸前の状態に。
あまりのことで日付まで憶えている・・・
1月13日、出かけた先には真っ青に晴れ渡る空と、真っ青に広がる海があった。
空も海も、眩しいくらいに光り輝いていた。
が、私の精神は、暗い雲に覆われ、ドシャ降りの冷たい雨。
それでも、「大丈夫!何とかなる!」と心の中で何度もつぶやきながら、必死で自分を鼓舞し続けた。
しかし、それも虚しく、翌14日 15日 16日、三日間の朝は地獄のような苦しみが襲ってきた。
寒いはずなのに汗ダク、全力で走った後のように呼吸は浅く小刻み、発狂したいような衝動にかられ、布団に座った状態で頭を抱え、倒れ込んでは起き・倒れ込んでは起き、それを繰り返し、自分の身体を脱ぎ捨ててどこかに逃げ出してしまいたいような気分にのたうち回った。

それでも、仕事には休まずでた。
“休めなかった”のか“休まなかった”のか、それは憶えていないけど、結果的に仕事にでて正解だった。
頭を仕事に向け 作業で身体を動かせば、少しは気持ちを中和できるし、一時的にでも誤魔化すこともできる。
家にこもっていてはロクなことにならなかったはず。
ただ、その時の私の顔は、内面の異変を如実に表していたと思う。
暗い表情であったことは間違いないけど、それを通り越し、怯えるような顔をしていたのではないかと思う。

そんな状態を脱するため、ある術を、重度の鬱病から復活した人から教えてもらった。
それは、「気持ちが暗くなり始めたら、そのことは考えるのをやめる」ということ。
これは、その場をしのぐための一つのテクニック。
根本的な解決にはならず、無責任な現実逃避かもしれない。
しかし、それでもいい・・・“弱虫のテクニック”でもいい、“卑怯な手”でもいい、まずは自分を救い出さなければならない。
とにかく、目の前の壁を乗り越えなければ次に進めない。
こういう性分の私にとって簡単な方法ではなかったけど、気分がマズくなってきたときはそれを心がけた。

残念ながら、それは劇的な解決策にはならなかった。
それで、気持ちが軽くなることはなかった。
ただ、それ以上に気分が落ち込んでいくことを止めるくらいの効果はあったように思う。
応急処置としては、一定の効果があったように思う。

結局のところ、私が味わわされているこの“苦”は、“身から出た錆”・・・“自業自得”のように思っている。
自分の弱さとか 愚かさとか ズルさとか、そういったものが病原のような気がするから。
ということは、もっと強く 賢く 誠実な人間に成長できれば、苦も軽くなるはず。
人が人である以上、私が私である以上、苦が無になることはないけど、自分のためを考えるなら、少しでも軽くすることを志向するべきだろうと思っている。



前回ブログ「大失敗」の現場。
あまりの惨状で部屋にいることができなくなった遺族二人(故人の両親)と共に、私も一旦 玄関の外へ。
エレベーターを使おうとした二人を制止し、階段で降りるよう促した。
エレベーターに悪臭をこもらせると面倒なことになるからだ。

我々は、最初に話をした建物脇の物陰に行き、以降のことを協議。
二人は青ざめた顔で、貴重品や個人情報が入っていそうな書類等の探索選別を私に依頼。
そういう流れになることを想定していた私は、承諾とともに、
「面倒臭がってるように聞こえたら申し訳ないですけど、いちいち丁寧にやっていたら時間がかかるだけですから、泥棒が入ったかのようにひっくり返しますよ」
と許可をもらって、一人 汚部屋に戻った。

汚染痕はベッドに残留。
ベッドマットはワインレッドやピンクに生々しく染色。
ただ、部屋の気密性が高いせいか、いてもおかしくないウジはおらず、ハエも一匹も飛んでおらず。
仮に、彼らがいたとしても大した敵にはならない。
が、玄関から外へ逃走しないよう極小の彼らを見張るのは かなり面倒。
そんなことに気を取られていたら仕事にならない。
私は、彼らが生まれてこなかったことを自分の幸運として仕事のやる気を高めた。


慣れたせいか、麻痺しているのか、私は、こういう現場に一人でいても恐怖心は湧かない。
仕事の義務感(いい言い方をすると“使命感”“責任感”)が嫌悪感も薄くしてくれる。
ある意味で、故人は仕事の依頼人のようなもの。
また、パートナーのようなもの。
だから、恐怖心や嫌悪感などは最初のうちだけで消えていく。
で、思考は故人の生き様と その最期に傾いていく。
私は頼まれた仕事を黙々とこなしながら、氏名や年齢をはじめ、徐々に知れてくる故人の経歴や普段の生活ぶりに神妙な思いを深めていった。

優秀な高校・大学を経るにあたっては、もともとの能力もさることながら、その上で人並以上の努力をしただろう。
そしてまた、相応の努力をもって一流企業に就職し、以降も、会社や社会で活躍することに夢を抱いていただろう。
そんな若者の目に、“死”は影も形も映るはずはなく・・・
自分の人生が20代のある日で突然終わってしまうなんて、微塵も思っていなかったに違いない。

万民に、“時間”は不平等でも“死”は平等。
無情なのは“死”ではなく“時間”の方かもしれない
その中でどう生きるか・・・“努力する”って楽じゃないけど楽しくもある。
学歴や肩書だけを称賛するつもりもないし、そういったことと人格が一致するとは限らないけど、面倒臭がり屋の人間にはマネできない 相応の努力が積まれてきたことは間違いないことだと思う。
短い人生でも、悔いが残っても、それでも、故人は故人の人生を有意義に生き切ったものと私には思えた。


貴重品らしい貴重品は、銀行通帳と印鑑くらい。
財布は警察管理で、既に遺族の手に渡っていた。
しかし、書類等は結構な量があった。
公共料金の明細書や仕事関係の名刺や書類、学校の卒業証書や昔書いたと思われる履歴書、想い出の写真やアルバムも少なくなかった。
結果、持ち出す荷物は、段ボール箱三つ分にもなった。

「面倒臭いことになっちゃったなぁ・・・」
結構な量になったため、それを持ち出すにあたっては算段が必要になった。
荷物からもウ○コ男からもニオイが出てしまうから。
玄関前の共用廊下は塞がった空間で、空気が外気と入れ替わりにくい構造。
階段も内階段で、外気との換気が困難。
エレベーターを使うなんて論外。
方法は一つ、廊下と階段を素早く走り過ぎるしかなかった。

二階や三階ならまだいい。
現場はもっと上の上・・・見晴しのいい上階。
クサ~イおっさんが、必死の形相で駆ける姿は、“みっともない”“滑稽”を通り越して“不可解”“不気味”。
その怪しい動きは、警察に通報されてもおかしくないものだと思う。
私は、それを三往復やらなければならなかった。
汗は吹きだし、息は切れ、心臓は鼓動し・・・若くない身体にはキツい作業。
しかし、そんなことより、異臭が漏洩してしまうことの不安感と、誰かと遭遇してしまうことの緊張感の方が勝っており、それが身体のキツさを忘れさせてくれた。

約束の仕事を果たした私に、遺族の二人は礼を言ってくれた。
ただ、それは、あくまで社交辞令的なもので、あたたか味は感じられず。
あたたか味を加えるほどの余裕は、二人にはないようだった。
それも仕方がない・・・息子の死と凄惨な部屋に遭遇し、プライド(世間体)といった面倒臭い事情を抱え・・・心を暗くさせる要因はいくらでもあったのだから。
二人に覆いかぶさっている困難は、二人の味気ない態度にも、私に不満は抱せることはなかった。


故人(息子)の人生は早々と終わってしまったけど、遺族二人(両親)の人生には まだ残りがある。
心が癒えるまで、何日か、何ヶ月か、何年か、重苦しい時間を強いられることだろう。
また、いずれは、世間から好奇の視線を向けられ、いらぬ同情を押し付けられる日がくるだろう。
何もかもか面倒臭く思えるような虚しい日々が続くかもしれない。

人は、時として、生きることに面倒臭さを覚えてしまうことがある。
本意でも本意でなくても、そういった思いが頭を過ることは人生で何度となくある。
疲れたとき、悲しいとき、悩んでいるとき、ツラいとき、苦しいとき・・・“元気に生きたい”という本能がベースにありながらも、魔がさすように、そういう思いが頭を過ることがある。
そして、それが心の隙間に入り込んで、居座ってしまうことがある。

そんなときは、その場をしのぐための一つのテクニックとして、まず、そのことを考えるのをやめてみる。
一時しのぎ、無責任な現実逃避かもしれないけどやってみる。
とりあえず、それで気分の降下を止める。
次に、自分の人生が、いつか・・・そう遠くないうちに終わることを思い出す。
そして、具体的に、自分が死の床についたときのことを想像する。
それで、面倒なことばかりだった人生、面倒臭く思えた人生を回想する。
死を目前にすると、面倒な煩わしさは消え、それらは懐かしく想い出されるのではないだろうか・・・
また、そんな人生でも、愛おしく、名残惜しく想うのではだろうか・・・
そして、
「面倒臭い人生だったけど、もう少し生きていたかったなぁ・・・」
と想うのではないだろうか。

人生は短い。
アッという間。
自分が思っているほど長くはない。
面倒臭がっているうちに終わってしまう。

その希少さを、儚さを、貴重さを、大切さを・・・
まるで愛情深い親のように、“死”は繰り返し教えてくれるのである。



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大失敗

2019-01-04 08:43:06 | 腐乱死体
2019謹賀新年。
例年通り、私は、大晦日が仕事納めで、元旦が仕事始め。
大晦日の夜は 紅白を観ながら(なかなか楽しかった)いつもよりたくさん飲み、カップ蕎麦を食べ、零時過ぎまで夜更かし。
で、元旦の朝は、軽く二日酔気味。
ただ、気持ちのいい快晴で、「今年もがんばろ!」といつも通り出勤した

この年末年始、九連休という人も多いらしい。
ということは、三ヶ日が過ぎた今日が仕事始めではなく7日が仕事始めという人も多いということか。
羨ましいのはもちろんだが、同時にその過ごし方が気になる。
家にこもってゴロゴロしてばかりじゃ時間がもったいないし、そうは言っても遊びに出かけてばかりじゃ金がもたないだろう。
結局のところ、私みたいに仕事をしてるのが一番無難だったりして・・・
何はともあれ、私は自らの意志(絶望と穢れた動機)でこの仕事を選んだわけで、ゆっくり休めないこの現状は諦めるしかない。
あとは、この現実の中で喜びを見つけるしかない。

ただ、喜んでいられない失敗もある。
それは、休肝日を設けそこなっていること。
ビールもウイスキーも日本酒も潤沢にあり(すべて頂きモノ)、「せっかくの正月なんだから」と自分に言い訳もでき・・・で、暮れの30日からダラダラと飲み続けてしまっている。
あと、スーパー銭湯に行きすぎて、小遣いが赤字になっていること。
冬の寒さと ヒドい肩コリ(特に左肩が重症)と 家で極寒シャワーに耐えている反動で、「がんばってる自分への御褒美」と、事ある毎に銭湯に足を運んでしまっている。

・・・自分を律するのって本当に難しい・・・それを 今更ながらに痛感している。



腐乱死体現場が発生。
「また厄介なことをお願いすることになってしまって・・・」
依頼してきたのは、それまでに何度か仕事をしたことがある不動産管理会社。
「ほんの少ししか見てないんですけど、部屋の状況はですねぇ・・・」
顔見知りの担当者も要領を得ており、私が欲しがりそうな情報を端的に伝えてきた。

現場は都心の一等地に建つ賃貸マンション。
間取りは1Kで独居用。
住人の多くは、都心勤務の若いビジネスマンや経済力のある学生。
亡くなったのは部屋の住人で若い男性。
特段の持病もなかったらしく、自殺でもなく、死因は、いわゆる“突然死”。
不幸は重なり、それは休暇中の出来事。
通常の休暇なら、「無断欠勤」「連絡不通」で早めの発見された可能性が高い。
しかし、よりによって、それは長期休暇中に起こってしまい、勤務先が故人の死を知ったのは遺体の溶解がかなり進んだ段階だった。

死後約一週間、時季の暑さも重なって遺体は深刻に腐敗。
ともなって、部屋には重度の汚染と異臭が発生。
しかし、部屋の気密性は高く、外部への異臭漏洩はなし。
また、警察が来て騒ぎになったはずなのに、平日昼間の出来事で近隣にはバレていないとのこと。
風評被害を恐れる管理会社は、「近隣に知られないよう秘密裡に処理してほしい!」と強く要望してきた。

どんなに汚れていようがクサくなっていようが、法律上、部屋の家財は相続人の所有物。
相続人(遺族)の許可なく勝手に入室し、家財に触れるわけにはいかない。
緊急事態とはいえ、勝手なことをして後々トラブルになっては困る。
私は、管理会社の要望のもと、遺族と電話で打ち合わせ。
遠方の街から来る遺族の都合に合わせて現地調査の日時を決め、その日は一緒に部屋に入ることにした。


約束の日時、現場に現れたのは中年の男女二人、故人の両親。
1Fエントランスでの立ち話は他住人の目にもつくし、会話の内容を誰かに聞かれるのもマズかったので、我々は、挨拶もそこそこに建物脇に移動。
物陰に隠れるようにしながら、私は、経験による想像にもとづいて、小声で室内の汚染・異臭の状況を説明。
一方、管理会社から言われるまでもなく、二人も事を秘密裡に収めたいみたいで、言葉数も少なく、真剣な面持ちで私の話に聞き入った。

どんなに素早く出入りしても、異臭が空気である以上、玄関ドアを開けた時点である程度は外に漏れる。
ただ、開ける幅を極力狭くし、開ける時間を極力短くすれば、その量を抑えることはできる。
それでも、若干の異臭は漏れるし、周辺に人影がないことを確認して入るつもりではあっても、そこに人が近づかない保証はない。
そこで異臭を感知され、管理会社にでも通報されたらおしまい。
私は、室内はかなりの異臭が充満しているはずであること、近隣に気づかれないよう厳重に注意しなければならないこと、躊躇なく素早く入ってもらう必要があること等を二人に念入りに説明。
そんな私の話を二人は真剣な表情のまま聞いていたが、話が進むにつれ、その表情には恐怖心のような固さが上書きされていった。

私は、話の最後に、心遣いのつもりで、先に自分一人で室内を確認してくることも可能であることも伝えた。
しかし、何らかの強い思いがあったのか、それでも、二人は入室を辞退せず。
結果、我々三人はエレベーターで見晴しのいい上階の部屋へ。
同階周囲に人の気配がないことを確認しながら部屋の前まで進んだ。
そして、男性に開錠してもらい、私がドアを引いた。
それから間髪入れず二人を押し込むように入室させ、私も素早く身をすべり込ませた。

悪臭のレベルは二人の想像をはるかに超えていたよう。
しかも、高温でムシムシとしたサウナ状態。
見えない壁に阻まれた二人は狭い玄関で立ち止まってしまい、三人で“おしくらまんじゅう”状態に。
私は、二人を奥へ進むよう促し、急いでドアを閉めた。
が、二人は地蔵のように固まり、歩を進めず。
それどころか、早々と具合が悪くなったよう。
嘔吐を我慢するかのように、前かがみになって紙マスクの上から口を押えた。

腐乱死体のニオイって、他の何にも例えようがない独特かつ強烈なもの。
鼻を直撃するのはもちろん、腹や心臓、精神にもくる。
嗅覚が担当するべきニオイが、視覚を担当している目に滲みてくるような深刻なケースもある。
特掃をやり始めた当初、専用マスクを持ってなかった私もよく“オエッ!”とやっていた。
結局、二人とも ものの2~3分でギブアップ。
人目を盗みながら、泥棒のように外へ逃げ出して行った。

二人が入室したかったのは、故人の死後処理をスムーズに行うために必要な貴重品や書類等を選別して持ち出したかったから。
何かに不備があって役所とかで手続きが滞ると、その間に事が公になるかもしれない。
すると、息子の若い死を知った地元周辺から好奇の目を向けられたり 野次馬的な同情をかったりすることになる。
どうも、そういったことが我慢ならないよう。
だから、死んだ息子のことを誰にも知られたくないようだった。
しかし、この汚部屋には手も足も出ず、その作業を私に任せざるを得ず。
つまり、私にも、個人情報が知れることになるわけ。
で、二人は、故人一家の地元には縁もゆかりもない私にさえ、知り得た個人情報は絶対に口外しないよう念を押してきた。

故人は一流大学を卒業し、外資系の一流企業に勤務。
高校も地元の偏差値上位校で、誰もが羨むような経歴。
両親の期待通り、いや、それ以上の人生を歩んできた・・・
就職してからもバリバリと仕事をし、今後の出世や活躍も大いに期待されていた・・・
きっと、自慢の息子だったに違いない。
しかし、期待通りの寿命は与えられず、突然の死によって、そのすべては無残に絶たれてしまった。

二人が、それを強く秘匿したがった心境の根源はどこにあるのか。
俗世間的な成功を手にし、それを大きな名誉とし、無意識のうちに世間に対して優越感や勝利感を抱いていたのかもしれない。
そういう心情が、息子の死を、世間体を前に、“敗北”とか“失敗”のように捉えさせたのかもしれず、羞恥心をくすぐったのかもしれなかった。


本来、“死”というものは、人間主体で「受け入れる」とか「受け入れない」等といえるものではない。
人間の力ではいかんともし難い、人間の主体性を無視した事象で、人間の主体性を超越した領域にあるもの。
にも関わらず、人間は、一方的に、 “死”というものを、“敗北”“逃避”“失敗”といった人間主体の概念に引きずり込んでしまう。
確かに、人が“死”に向かうプロセスには、老化・病気・事故など、ネガティブに感じさせやすい経緯・事情・状況は多い。
それらに、“死”に対する未知(無知)からくる人間の恐怖心や嫌悪感がプラスされるから、余計にそうなるのだろう。

宗教の多くは、“死”に期待や希望を持たせようと、昇華を試みる。
そして、“死”を意識する人々も、それを信じたい気持ちを抱いて集まる。
しかし、現実的には、やはり喜んで受け入れられるものではない。
希望を持てるものでもなければ、明るい気分になれるものでもない。
“死”に勝てない人間は、ある種の諦念をもって捉えるしかない。
私は、“死”を“失敗”として捉えてしまうことに悲しい違和感を覚えつつも、本性の部分で理解できるところもあり、雑然とした心境を放置するしかなかった。


二十数年前、私が就職したのは遺体処置業(湯灌)の会社。
歳の離れた(クセのある)先輩達もいて、業務の色々を教えてもらうことができた。
しかし、特殊清掃業は、その後に新規でやり始めたもの。
当時、世の中に、専業としてそういった業種や会社があったわけではなく、自らがパイオニア的存在。
当然、教えてくれる人は誰もおらず、試行錯誤・七転八起の連続。
腐敗液の掃除の仕方、ニオイの取り方、遺品の片付け方・・・何もかも未知の領域、チャレンジの日々。
機材も道具も素人仕立て、最初はネクタイ姿に革靴を履いて作業にあたっていた。
そんな具合に、当初は、技術も道具も持たないズブの素人が忍耐力と根性だけでやっていたような始末で・・・今、思い返すと笑ってしまうくらい。

当然、多くの失敗もしてきた。
依頼者の期待に沿えなかったことや関係者に迷惑を掛けてしまったこと、肝を冷やしたことも少なくない。
それでも、一つの失敗を一つの教訓とノウハウにしながら経験を積み重ね、何とかお金をもらえる仕事にまで成長させてきた。

しかし、残念なことに、仕事と人生はちょっと違う。
過ぎた時間を巻き戻すことはできない。
過去の事実を消すこともできない。
仕事より人生のほうがシビア。
人生においては、失敗の巻き返しを図ることはなかなか難しい。

半世紀生きてきて、半世紀生かされてきて、「失敗したな・・・」と思うことは多々ある。
「もっと勉強しておけばよかった・・・」
「もっと先を見る目を養っておけばよかった・・・」
等と、若気の至りを後悔することもよくある。
大人になってからも、金の失敗、酒の失敗、女の失敗等々・・・色々と失敗してきた。
で、“最大の失敗”だと思っているのは、やはり“就職”。
この四半世紀余を振り返ってみると、真っ先に自分の悲惨さが目に浮かぶ。
「俺って、なんて愚かなんだ・・・」
「なんて頭が悪いんだ・・・」
といった想いが沸々とわいてくる。
「もう諦めるしかない」
「現状で頑張るしかない」
と覚悟しているつもりでも、その想い(後悔)は消えない。
もちろん、日々における細かなHappy Luckyはある。
生活や人生の糧にもなっているし、幸せや楽しさや笑いもあるし、感謝の念も強く持っている。
ただ、「人生」という大局的な器に入れ、「一生」という長期的な道に乗せてみると、やはり、失敗感は否めない。
どんなに理屈をこねても、カッコつけても、やはり、「この仕事に就いてよかった!」とは思えない。
大なり小なり、この後悔の念は一生消えないのだろうと諦めている。

しかし、考えようによっては、別の見方もできる。
精神が荒みまくっていた就職時の状況を考えると、「自分がこの仕事を選んだ」というより、「天職として、この仕事が私を選んでくれた?」といった方がシックリくるかもしれない。
とすれば、それは、喜ばしいこととなる・・・選ばれたわけだから。
自分を主体にすれば失敗でも、自分以外を主体にすればそうじゃなくなる。

つまり・・・
「失敗は失敗だと思うから失敗なのである」
そして・・・
「自分の人生を失敗だと思うことが人生最大の失敗である」
・・・ということになる。

こんなの、人から見れば 取るに足らない浅慮かもしれない。
また、この通りに自分を律することができないかもしれない。
しかし、この気づきは、この先、私の人生にとって喜ばしい出来事になるのだろうと思うのである。



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