特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

お化け屋敷(前編)

2024-07-11 09:23:02 | 特殊清掃
人それぞれに怖いもの(苦手なもの)を持っていると思う。
私の場合は、高所・蛇・歯医者・お金・心霊写真・暗闇etc。

当然、この中に死体は入らない。
気持ち悪いことはあるけど、恐くはない。
どちらかと言うと、道端に転がっている動物の轢死体の方が苦手。いつも目を背けて通り過ぎてしまう。

逆に、一般の人にとって人間の死体は上位にランキングされるものらしい。
その理由の中核を探ってみると面白いことが発見できるかもしれない。
やはり人は、死をイメージさせたり感じさせたりするものを根本的に嫌うのである。
葬儀習慣に限らず一般世間の習俗や慣習にも、それを感じさせるものが多い。
その延長線上には死からの逃避願望があり、やはり死ぬことは恐くて考えたくないものなのだろう。

ある日の夕方、特掃の依頼が入った。
「できるかぎり早く現場を見てほしい」とのこと。
何の仕事が入るか分からないので、昼間の予定はできるだけ業務用に空けておきたい私は、その日の夜に行くことにした。
「鍵は開いているので、勝手に入っていい」とのことだったし。

現場に着いた頃は、外はもう真っ暗。
目的の家は老朽狭小の一戸建。
電気は止まっており中も真っ暗、懐中電灯を照らすしかなかった。
庭には、手入れをしてない木々がうっそうと茂り、外灯の明かりもなく、淡い月明かりが不気味さを照らし出していた。

玄関の前に立っただけで、いつもの腐乱臭を感じた。
自分で自分を脅しても仕方がないので、余計なことを考えないようにして玄関ドアを開けた。
それから、誰もいるはずのない家に、いつもの様に「ごめんくださ~い」と言いながら入った。

狭い屋内は、ゴミなのか生活用品なのか分からないような物が散らかっており足の踏み場もないくらいだった。
腐敗箇所をいち早く見つけて汚染具合を確認。
まぁ、腐乱死体現場としたら並のレベル。
ウジはいたけど馴染みのハエは二軍落ちし、その代わりに蜘蛛の巣と蚊がまとわりついて弱った。

廃棄するゴミの量もキチンと把握しなければらないので、建て付けの悪い押入も開けてみた。
そこで思わず「あ゛ッ!」
暗闇の中に人の首・・・押入の中には頭部だけのマネキンが並べられていた。
「なんでこんなもん持ってをだよ!ドリフのコントじゃないんだから、こんなもんで脅かさないでくれよぉ」
心臓の鼓動か静まらない私は、勢いよく戸を閉めた。

そのうち、どこからか「キィーキィー」と泣き声のような音が聞こえてきた。
「ドキッ!」、心臓は再び高鳴り始めた。
気のせいにして無視しようとしたけど、確かに聞こえてくる。
放っておく訳にもいかないので、嫌々その音(声)がする方を探した。
それは流し台の収納スペースから聞こえていた。
思い切ってその戸を開けてみた。
そこで思わず「あ゛〓ッ!」
いくつものネズミ獲り(粘着シート)に無数のネズミがかかってもがいていたのである。
中にはもう死んで腐ってるのもいて、それはそれは悲惨な状態。
「見なかったことにしよう」
全身鳥肌の私は、機械的に戸を閉めた。

一階を見分し終えて、次は二階。
脅され過ぎか気の張り過ぎか、心身ともに疲れてきて、身体にも力が入らなくなっていた。
「もう少しの辛抱」と、暗くて狭い急階段の上を見上げた。
そこて思わず「あ゛〓〓ッ!」
あまりのことで悲鳴は声にならなかった。
なんと!宙に浮いた人の顔が、ジーッと私の方を見ていたのである。
そして、その顔が私に・・・

つづく


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線香花火

2024-07-10 09:28:24 | その他
私は夏の夜の花火が好きだ。
夜空に舞う打ち上げ花火は特に。
時間が合わなくて、ここ何年も花火大会には行っていないけど、綺麗な花火を思い浮かべるだけでワクワクする。
ドン!と上がったかと思ったら、パッと開き、サラッと消えていく。
音に迫力、火花に華、去り際に潔さ、その華麗さに魅了される。
同じ一つの花火なのに、光速と音速の差から視覚と聴覚に時を異にして届いてくるのも絶妙。

そんな花火には、人の生き死にが重なって見える。
日本文化においては、日本男児的な「男らしさ」に通じる部分もあるのかもしれない。
玉の大小、上がる高さに違いはあれど、誰の人生にも華があると思う。
そういう私は、いつ頃が華だったのだろうか。
それとも、華はこれから来るのだろうか。
生きていること自体が華だったりして・・・ね。

壮年の男性が死んだ。
死因は糖尿病。
どんな病気でも、闘病は辛く苦しい。少なくとも、快く楽しいものではないと思う。
糖尿病の食事制限や運動強制も相当のストレスを抱えるらしい。
故人は医師の忠告を軽く見たのか、節制ができなかったのか分からないが、病気を回復に向かわせるはずの自己管理を自らが怠ったらしい。
遺族の話を組み立ててみると、故人は、まさか死に至る程の深刻な状況になるとは思ってなかったらしい。
家族も本人も、いくら後悔したところで後の祭だ。
それでも、遺族は何かをごまかすために?故人の死を受け入れるために?やたらと「男らしかった」と褒めて場の混沌を払拭しようとしていた。

意志の弱い私などにとっては、何事についても自己管理というものは難しい。
自分で自分を律する力が問われる問題。
自分で自分を管理することよりも、他人に自分を管理してもらう方がよっぽど楽なことだと思う。

ひと昔前、アメリカで出世できない人物像というものを聞いたことがある。
それには、たった二つの要因しか挙げられていなかった。
「太った人間」と「タバコを吸う人間」。
要は、「肥満・喫煙」→「自己管理能力が低い」→「社会に通用しない」→「出世できない」という式図らしい。
肥満と喫煙については一概には言えないかもされないけど、自己管理能力の重要性については同感したものだった。

では、人生においては
何をどう自己管理すればよいのだろうか。
「人生」という道を歩む時、どこに重きを置いて進めばよいのか。
我々は、常に明日の不安ばかりに心を奪われ、今日を見失ってはいないだろうか。
昨日のことばかり悔やんで、今日を暗い一日にしてはいないだろうか。
はたまた、「今が良ければそれでいい」と短絡的な歩を進めてはいないだろうか。

昨日を悔やまず、明日を思い煩わず、今日を楽しむ。
昨日を反省し、明日に備え、今日を実らせる。
昨日の思い出に笑い、明日の夢に期待し、今日の糧に感謝する。
なかなかできないけど、それが私の理想。

自分の命は自己管理できるものではない。
人生だって、一体どれだけ自分の力が通用するものなのか。

私は、派手な花火に憧れる線香花火。
世の中の表舞台に立つことはない地味な存在。
若年の頃は、やたらと派手な花火を打ち上げてやろうと燃えたこともあった。
それが、いつの間にか花火をあげるかわりに線香をあげている。

それでも、火玉の途中で落ちてしまう線香花火に思う。
「俺は最期まで燃えて尽きたい」と。

トラックバック 2006/08/04 09:53:32投稿分より
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苦々しい

2024-07-08 05:25:28 | 遺体処置
ある若者が、あるマンションから飛び降り自殺をした。
高層階から3階天井のでっぱりに激突、その血しぶきと肉片は4階のベランダにまで飛び散っていた。
乾いた血痕と肉片は落とし難い。
しかも、汚染個所が高い壁だと作業もしづらい。
私は仕事だから仕方ないけど、何の関係もないのに、いきなり見ず知らずの人間の血肉で自宅が汚された方は、本当に気の毒だった。
こんな現場に遭遇すると、「汚すのはせめて自宅だけにして欲しいもんだな」と思ってしまう。死人を貶めるようなことを言ってしまうようだけど。

その遺体の損傷も激しかった。
例の納体袋に入っていたその遺体は、頭が割れ、脳がハミ出ていた。
ちょうど、焼けて膨らんで破れたパンのように。
髪は血のりでベッタリ、血生臭さがプ~ンと漂っていた。

私が自殺の理由を知るはずもない。
ただただ遺体を処置するのみ。
頭はどうすることもできず、脳ミソを頭にしまって包帯をきれいに巻くしかなかった。
飛び降り遺体の場合は、このパターンの処置法が多い。やむを得ない。

遺族は号泣。それは悔し泣きにも聞こえるものだった。
そんな中、遺族の男性がいきなり遺体を殴りつけた。
「バカタレが!こんなヤツはこうしてやればいいんだ!」と怒りの鉄拳を食らわせたのだ。
あまりにとっさのことで、間に入って止めることもできなかった。
二発目を繰り出そうとしたときはさすがに私も止めに入ったが、その怒り様は私も殴られるかと思ったほど。
しかし、遺族の誰も止めに入らない。
故人の自殺と損傷激しい身体にショックが大きかったのだろうか、それとも男性の殴りたい気持ちを理解していたのだろうか、私だけが男性を止めていた。
「俺の遺体に手をだすな!」じゃないけど、せっかく処置してきれいになったものが、再び出血などで汚れてしまってはもともこうもない。
またまた冷酷かもしれないけど、男性を止めた理由が故人の尊厳を守るためではなくて、自分の職務を守るためであったことが自分らしくて苦々しかった。

ある中年男性が亡くなった。
妻はやたらと明るく元気そうに見えた。
余程の強い精神力を持っているのか、または、故人に心配をかけたくない一心で、とにかく気丈に振舞っていたのか・・・真実は分からないけど、とにかく明るくてよく喋る女性(妻)に、意味もなく辛気臭くすることが嫌いな私ですら違和感を覚えた。

その女性は何年か前に息子を亡くしていた。
そして今回は夫を亡くして一人ぼっちになってしまった女性。
「何年か前に一人息子を亡くして、今回また夫に先立たれた訳か・・・さぞや寂しいだろうなぁ」と思う間もなく、女性の明るい声が耳に飛び込んでくる。
「人が死んだからと言っても、わざわざ暗くなることはない」と思いながらも、そのギャップが奇妙に思えた。

故人には一張羅のスーツを着せた。
そして、訊きもしないのに、女性は勝手に話しを続けていた。

故人を柩に納めたら、「忘れ物!」と女性が叫んだ。
どうも、柩に入れたい副葬品があるらしい。
「ちょっと待って下さい」と、それを探しに部屋から出て行き、しばらくの時間が経った
「大事な物なのだろうから、ゆっくり待っていてあげよう」と思い、しばらく畳の上に座っていた。
「大事な物だとしたら、何だろう」
退屈しのぎに勝手な想像を膨らませながら待っていた。
しかし、「ないなぁ、おかしいなぁ」という声ばかりが聞こえて、一向に女性が戻ってくる様子がない。
畳に正座していた私はだんだんと足が痺れてきて、我慢できなくなった。
痺れをとるために立ち上がったついでに、女性のいる部屋へ声を掛けてみた。
女性は、いくら探しても目当ての物が見つからない様子。
長時間かかったけど、結局、目当ての品は見つからなかった。

「ところで、その物は一体何なんですか?」と私。
「息子が死んだときに柩にスーツとワイシャツを入れてやったんですけど、肝心のネクタイとベルトを入れてやるのを忘れてしまいまして、せっかくだからお父さん(故人)に持って行ってもらおうと思いましてね」と女性。
夫の死を「せっかくの機会」と捉えるとは、なかなかタフな女性である。
「そのネクタイとベルトはどんなデザインなんですか?」
無駄な質問かとも思ったが、世間話として訊いてみた。
意外なことに、女性が応えたデザインに心当たりがあった。
少し前に故人の身につけたそれと同じだった。
「あのー、これじゃないですか?」と遠慮がちに故人の身体を指した。
「これ!これ!これ!お父さん、○○(亡き息子の名前)のを勝手に着けちゃダメじゃないのぉ!」と嬉しそうに故人にツッコミを入れる女性だった。
私は微笑ましく思うべきなのか、コケていいものなのか迷った。
とにかく、一緒に苦笑いするしかなかった。

今となっては、女性の明るさの訳は知る由もない。
「金は人を変える・・・元気の源が多額の生命保険金でなければいいな」と思ってしまう金銭至上主義的思考が自分らしくて苦々しかった。


トラックバック 2006/08/03 09:28:24投稿分より
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ブラックホール

2024-07-06 10:58:52 | 腐乱死体
便所の話。
そこは「お手洗い」とか「トイレ」という呼称は似合わない、いかにも「便所!」という感じの現場だった。
発見が早かったためか、汚染は軽いもの済んでいた。
悪臭も腐乱臭なのか便所臭なのか分からないくらい。
それよりも、私はその便所の形態に驚いた!
水洗式ではなく、いわゆるボットン便所。
しかも、私が知るボットン便所よりはるかにハイグレードで古風なモノだった。


ほとんどの人が「ん?どんな便所だろう?」と、その便所の形態を理解できないと思うので、詳しく説明しておこう。
地面に深さ1.5~2.0m、直径1.5~2.0mくらいの穴を掘る。
その上に床板を敷き、屋根と囲いをつける。
床板に直径20~30cmの穴を開ける。
床板に和式便器をくっつけて完成。
あまりにシンプル過ぎて、これ以上詳しく説明できない。

大きな口を開けた和式便器を覗き込んでみると、下は真っ暗のブラックホール状態。
深くて大きな穴が開いているらしかったけど、真っ暗で何も見えない。
それは、悪臭を忘れるくらいの不気味さがあった。
そして、小心者の私には、薄くて古ぼけた床板に乗る勇気はなかった。
床板には悪いけど、その風貌からは強度を信用する訳にはいかなかった。
信用性が乏しいこの床に乗るということは、一種のロシアンルーレットみたいなもの。
万が一にも「バキッ!」といってしまったら、アウトーッ!
「故人はいつもこの床板に乗って用を足していたのか・・・勇気あるなぁ」と感心してしまった。

しかし、シンプル便所と故人の勇気に感心してばかりもいられない。
これを何とかしなきゃならないのが私の仕事。
トイレや風呂で死ぬ人も少なくないので水回りの始末も慣れてはいたが、ここまでシンプルな便所は見たことがなかった私。
「汚い」というより「怖い」という気持ちの方が大きかった。
掃除するより解体した方が早いと判断して、依頼者に相談。

汚染されているのは床板の一部と便器が少し。
もう誰も使わない便所なので解体することで話はまとまり、すぐさま作業にとりかかった。
どうしてもブラックホールへの恐怖心が抜けない私は、恐る恐る床板の隙間にバールを差し込んだ。
驚いたことに、床板の一枚一枚は固定されている訳ではなく、細い梁にポンとのせられているだけだった。
「えッ?こんな簡単なもんだったの?」
おかげで、便器も床板も簡単に取り外せて作業的には楽だった。

そして、床板を外すと底の穴が露になった。
「これが肥溜というヤツか!」
ずっと以前から言葉では知っていた肥溜、その本物を生まれて初めて見た瞬間だった。
その光景にはちょっとした衝撃を受けた。
そして、妙に感心したというか感銘を受けたというか・・・人が生きることの凄さのようなものを感じた。
肥溜に、生きるエネルギーみたいなものを感じる私は変?・・・やっぱ変だろうな(苦笑)。
そしてその中ではウジが気持ちよさそうに泳ぎ、ハエが気持ちよさそうに飛んでいた。
彼らは、いつも私の行く先々に先回りする賢い連中だ(笑)。

そして、肥溜の臭いは鼻にツンとくる刺激臭で、「アンモニアの影響か?糞尿が熟成されるとこんな臭いになるのか!」と、またまた感心してしまった。

ちょっと余談。
下水道が完備されていな地域では、行政による糞尿回収サービスが行われている。
たまに、その車を見かけることがあり、車輌後部に表記してある積載物欄に「糞尿」と書いてあるのが印象的。当然、それに従事する人もいる。
子供の頃の風説に、その仕事に従事する人のことを言ったものがあった。
「身体にウ○コの臭いが染みついていて、風呂に入ったくらいでは臭いは落ちない」というもの。
実際にその仕事に従事する人と接したことがないのでハッキリしたことは分からないけど、
多分それはガセ。
濃い!腐乱臭が着いた私でも、ユニフォームを着替えて風呂に入れば完全に臭いは落ちるから。
変な偏見は持たないで、そんなことを言っている子供達がいたらキチンと否定しておいてね(笑)。

私を含めて、現代の男どもは軟弱になっているような気がする。
歳のせいもあるのかもしれないけど、最近の若者は、外見からは性の違いが分かりにくくなってきているような気もする。
最近の家庭は、ほとんどが水洗・洋式。そして、小でも便座に座る男が増えているらしい。
筋肉に負担が大きい和式便所にまたがって、心もとない床板に勇気を持って身体をあずけていた故人は、この有り様を憂いているかもしれない(完全な想像)。
男として、もっと強くなりたいものだ。

しっかし、便所ネタでここまで語れる私ってウ○コ臭い・・・もとい、ウサン臭いヤツかもね。


トラックバック 2006/08/02 11:10:47投稿分より
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毎度ありー!

2024-07-05 05:25:50 | その他
「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」「またヨロシクお願いします」etc、何気ないこのセリフは、色々な店や仕事で当り前に使われている言葉。
しかし、私の仕事にこのセリフはない。
「ご愁傷様です」に始まり「お疲れ様でした」で終わる。

何かを得ようと、何年か前、知人に頼んで飲食店で働かせてもらったことがある。
夜の時間だけ、無償で。
誰にも遠慮しないで済む笑顔と、「いらっしゃいませ!」「ありがとうございます!」「またヨロシクお願いします!」と堂々と言える仕事が新鮮だった。新しい自分を発見できて爽快感みたいなものを覚えた。
かったるそうに働いているバイト学生に反して、私は楽しさすら覚えた。
そのバイト学生に私の本職を話したら、「ウェーッ!その手で食い物を触って大丈夫ですか?」とストレートに嫌悪された。
私とは随分と年下の若者だったが、あまりにインパクトのある仕事に礼儀も忘れて本音がでてしまったのだろう。


「これから世の中をうまく渡っていくためには、力のある者の言いなりになること、とにかく頭を下げること、本音とたて前をうまく使い分けること・・・そして社交辞令を覚えることが必要だぞ!」と思いながら、「遠慮のないヤツだなぁ」と苦笑いするしかなかった。そして、悲観するでもなく卑屈になる訳でもなく、「やっぱ、これが現実なんだよな」とあらためて思ったものだ。
人間が「死」を忌み嫌う本質を持っていること、人間が生存本能を持っていることを考えると彼(社会)の表す態度は極めて当然かつ自然なことで、仕方のないことだと思っている。

それが耐えられないなら、死体業なんかやらなきゃいいだけ。
それに耐えられる人だけがやる仕事。
それに耐えなきゃ生きていけない人がやる仕事。

「他人からみると悲惨に見えることが、当人にとってはそれ程でもない」と言う類のことは、私だけのことではなく世間一般によくあることだと思う。
自分では難なくやっているこの仕事。
でも、正直言うと、親類縁者・友人知人にはやらせたくない。

「職業に上下はない」と言うのはきれい事、職業に上下はある!
明らかに社会的地位の低い死体業、その中でも特掃業務は更に下を行く最低の仕事だ。
しかし、その中にもわずかな「最高」がある。
例えて言うと、ウジ・ハエがたかるウ○コの中に、砂粒ほどのダイヤモンドが一粒入っているようなもの。
そんな小さなダイヤなんかには、誰も価値や魅力を感じない。
しかも、それがウ○コの中にあるとなれば、価値がないどころか皆が嫌悪感を覚える。
でも、どんなに小さくても、どんなに汚くてもダイヤはダイヤ。
その輝きに偽りはない。
誰も知る事ができないその価値を、自分だけが気づいていると思うとちょっと鼻が高い(低次元の自己満足?)。

私は声を小にして言いたい。
「死体業は最低の仕事だ!しかし最高の仕事でもある!」

依頼された仕事を完了させ遺族に挨拶するときは、だいたい「今後、再びお目にかかることがないように・・・」という言葉を掛ける。
自分で言っててちょっと寂しいけど、そんな言葉を掛けられた遺族も返す言葉に詰まる。
遺族も、私の仕事の苛酷さを気遣ってくれようとするのだが、適切な言葉が瞬時には見つからない様子。
私は、いつもの社交辞令が使えないやっかいな相手、変な気を使わせてしまう相手なのだろう。
また、自分の子供とダブらせて私のことを不憫に思うのか、初老の女性には泣かれることが多い。
それが一時的な同情心であっても、赤の他人である私のことを思って泣いてくれる人がいるだけで感謝なことだ。

あまりいないけど、「どのくらいこの仕事をやっているのか?」「何故、この仕事をやっているのか?」を訊いてくる人もいる。
そんな人は、「この男には余程の事情があるのだろう」という表情をしながら、その疑問に対する好奇心が抑えられなくて訊いてくるみたい。
現場にはお喋りに行く訳ではないので詳しい話はしないけど、要点を絞って正直に話している。
あと、雰囲気が神妙になると困るので、我慢して凝った自論は避ける。
「余程の事情」は、皆それぞれが持って生きているもの。
「余程の事情」があるから人生はドラマになる。

居酒屋でビールジョッキを傾けながら聞こえる店員の威勢のいい声が心地いい。
私もたまには、「毎度ありー!」と元気に言える仕事をしてみたいものだ。
洗い物は得意だしね(笑)


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カレンダー

2024-07-02 04:55:27 | その他
今日で7月も終わり、今年の夏も後半に入る。
今年の梅雨は、前半が空梅雨で後半は長雨。
東京では、昨日やっと梅雨明けしたらしい。
毎月末には過ぎたカレンダーを破り捨てるのが私の習慣。

このひと月を思い返してみると、特掃業務に追われる毎日だった。
しかも、インパクトのある内容のものが多かった(だいたい、いつもインパクトはあるけど)。
早速にでもブログに書きたい案件もあったが、現場が特定されないような配慮が必要なため、ネタとしてはしばらく寝かせておかざるを得ない。
と言う訳で、私の書く現場ネタは、しばらく寝かせておいたものがほとんど。
鮮度は落ちているかもしれないけど、腐敗ネタには鮮度も何も関係ないか(笑)。

きっちりと自分の中で線を引いている訳ではないけど、死人は人間の形をとどめているモノとそうでないモノでは気持ちが全く違う。
分かり易く説明すると、人間の形をしている死人に対しては極めて人間的に接し、そうでない死人に対してはただの物体として接するのである。
みんな同じ人間なのに、「腐っているのと腐っていないのとでは、こんなに気持ちが異なるものか」と我ながら不思議に思う。
それが正しいことなのか、正しくないことなのかは分からないけど、死体業をやっているうちに自然とそういうスタンスになってしまった。
私は、そういう冷酷?不躾?な一面も持っているのである。
ただ、この世で負った責任を果たすのみ。それだけで精一杯。

「遺体の尊厳」について展開される議論を見聞きしたことがある。
「グリーフケア」に興味を覚えた時期もある。
しかし、現実に起こっていることは机上論とは遠くかけ離れたもの。
きれい事では済まされない。
人が持つ卑しい部分が分かり易いかたちで曝け出されることもある。
まさに「地獄の沙汰も金次第」と思えるようなこともある。
腐敗現場は議論によって片付くものでもなく、遺族も理屈によって癒されるものでもない。
ましてや、死んだ人間が机上論でうかばれることも考え難い。
所詮は、コノ世の人間がどんなきれい事を吐いても、アノ世の人間のことをどうすることもできないということ。

腐乱現場に行くと、遺族に対しても「これは、ヒドイですね」「自殺ですか?」等といった、無神経にも聞こえる言葉がでてくる。
気持ち悪いときは驚嘆の声を上げるし、作業はキツイときは苦渋の言葉を吐く。
腐敗液などは私にとってはただの汚物、人ではない。
亡くなった人と目の前の汚物は物理的には同一でも、私の心情的には全くの別物。
そうは言いながらも、「汚物=故人」という概念も時々は顔を覗かせる。
腐敗液を拭きながら「もうちょっと早く見つけて欲しかったね」とか、腐敗粘土をすくいながら「今、俺がきれいにしてやるからね」とか、自殺痕を始末しながら「何で自殺なんかしちゃったの?」とか思ってしまう。霊感もないのに。
んー・・・この心情を文字にするのは難しい。

私に夏休みなんかない。
社会人になってから、夏休みなど言うものも取ったことがない。
仕事がない時が休み。
過ぎ去る7月のカレンダーを眺めながら、「明日から8月か・・・海にでも行きたいなぁ」と呑気なことを考えている。自分にも刻一刻と死に近づいていることを忘れて。


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苦悶

2024-07-01 07:21:14 | エンゼルメイク
死ぬ瞬間って、どういう感覚を憶えるものなのだろうか。
「脳内アドレナリンが大量に発生して、快感の絶頂に到る」と説いた本を読んだことがあるが、誰もその実態を知ることはできない。
私は、三十数年間の人生で一度だけ人が死ぬ瞬間を目の当たりにしたことがある。
時は幼少の頃、祖父が死んだときのことだ。
内臓疾患で闘病生活を送っていた祖父は、しばらくの闘病生活の後、意識不明の危篤に陥った。

急いで病院に駆けつけたときは、意識不明で荒い息をしていた。
皆が見守る中、最期の息をゆっくり吐いたかと思うと、もう次の息を吸うことはなくそのまま臨終した。
何分にも幼かったため、人が死ぬということがよく理解できなかったけど、祖父の最期の様子は今でも鮮明に記憶している。
黄疸で黄色く変色した身体、腕には無数の内出血の痕、柩に入った祖父の身体の冷たさと固さには、幼い私も異様な感覚を覚えたものだった。
その子が、それから十数年後には見ず知らずの屍をたくさん処置することになるなんて・・・「人生~ってぇぇぇ~不思議な、もので~すね~♪」

死ぬ瞬間って苦しくないのだろうか。
苦悶の表情を浮かべている遺体を見かけるのは、単なる偶然か。
それとも、私の先入観か。

口を開けたままの遺体、目を開けたままの遺体、そして眉間にシワを寄せて苦悶の表情を浮かべている遺体。
遺族は、安らかな死に顔を求めて「何とかならないか」「何とかしてくれ」と要望してくる。
個人的な主観では、故人のためを思って処置を求めるケースは少ないように思う。
遺体は苦悶の表情を浮かべていては、遺族も気持ち悪いのだろうか。
それとも、人目を気にしているのだろうか。
その理由を訊くことはできない。

誰が貼るのか知らないけど、TVタレントのモノマネ顔負けのセロテープ加工してある遺体も少なくない。
失礼ながら、テープのおかげで可笑しな表情を作られている遺体もある。
極端なケースだと顔にガムテープを貼って、しかもご丁寧に「はがすな!」と注意書きが付いた遺体と遭遇したこともある。
「はがすな!」と言ったって、はがさないと仕事にならない。
はがすガムテープに皮膚もくっついてくる。
本人は死んでるから文句も言わないけど、やっていて痛々しい。
しかし、テープを貼ったくらいで表情が変えられるほど人間の表情は単純なものではない。
無駄な抵抗だ。

専門の技術を使えば、開いたままの目や口を閉じることはそんなに難しいことではない。
更に特殊な技を使えば眉間のシワだって消すことができる。
ただし、目や口を閉じるだけならともかく、私の場合は安易に眉間のシワを消すことはしない。
故人の人格を否定してしまうような気がするから。
しかし、遺族の要望も簡単に無視することはできない。
したがって、私が取る策は、遺体の眉間に素手をしばらく当て続けること。
イメージとしては、シワにある布にアイロンを当てて伸ばすような感じで。
もちろん、私に念力などない。
ただただ、自分の体温を遺体に伝えるという非科学的・原始的な手法。
こんなことで完全にシワが取れることはないながらも、少しはシワが目立たないようになる遺体もある。
自分勝手に、「それくらいが調度いい」と考えている。

苦悶の表情には訳がある。
それは最期の瞬間を表しているのかもしれないし、人生そのものを表しているのかもしれない。
残され人にとって気持ちのいい表情ではないけど、それもまた故人である。
遺体の表情を変えることより、自分の心を変えることを考えた方がいいのかも。
他人(遺体)の喜びを自分の喜びとし、他人(遺体)の苦しみを自分の苦しみとできるように。


遺体というものは、生きている者に無言のメッセージを伝えてくれる。
それが苦悶の表情でも安らかな死に顔でも。
メッセージの受け取り方は人それぞれ。
どちらにしろ、やはり遺体は人間の形をしていた方がいい。

「眉間のシワより笑いジワ」と思いながらも、この猛暑についついシカメッ面をしてしまう夏である。


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怪談

2024-06-29 10:33:36 | その他
夏は怪談話のシーズン
あちらこちらで恐ろしいとされる話が湧いてくる。
でも、所詮はフィクションがほとんど。
本当に怖いのはこの世の現実かもしれない。

世間にとって腐乱死体は、突然現れるやっかい者。
本人はしばらく前から時間をかけて腐っているのに、発見されるのが急なものだから、世間的には降って湧いたような印象を受けるのだろう。

キチンとしたデータをとっている訳ではないが、腐乱死体がでる住宅は、自己所有より賃貸の方が多いように思う。そして、経済力も低レベル。
そんな腐乱死体は、残された人々に多大な迷惑を掛けることになる。
その中でも絶大な損害を被るのは、家族(保証人)、大家、近隣住民。

家族、特に賃貸契約の保証人になっている人は、社会的にはもちろん法的にも責任が発生する。
部屋の清掃費用からリフォーム費用、ヒドイ現場になると上下階や隣の住人が引っ越してしまうこともあり、その転居費用からリフォーム費用まで負担するとなると総額は莫大な金額になる。
しかも、「腐乱死体がでた物件」「腐乱死体がでた部屋」ともなれば入居者の獲得も難しくなる。
空室や値下家賃分まで保証せざるを得なくなると、とても一般の人では負担しきれるものではなく、人生を大きく狂わせてしまうことにもなりかねない。
賃貸契約の保証人になっているのなら諦めるしかないけど、血のつながりだけを根拠に責任を背負わされるのも悲劇である。
まったく、気の毒としか言いようがない。

一方、大家のリスクも大きい。
自分の所有物件から腐乱死体をだしてしまった場合、他人事では済まされない。
保証人や家族がキチンとした対応をとれる、責任・誠意を持った人ならまだしも、必ずしもそういう人とは限らない。
無責任な保証人や家族の場合は、「ない袖は振れない」と開き直って責任逃れをする。
しかし、大家は立場的に汚染物件を放置しておくことはできない。
開き直った家族を前に、結局、大家は泣き寝入りするしかなく莫大な損害を肩代わりせざるを得なくなるのである。
裁判沙汰になったケースも複数あるけど、開き直った相手に裁判を起すのは無駄なこと。
裁判所の通達が効くような相手だったら、始めから責任・誠意ある対応をとっていたはず。
無責任で社会的なプライドを持たない人を相手に裁判を起したって、裁判費用をドブに捨てるようなもの。
残念ながら、最後は悪意を持った人間の方が勝ってしまうのである。
腐乱死体がでたお陰でアパート一軒がまるごと空いてしまい、家賃収入が無くなってローンの返済が滞り、手も足もでなくなった大家もいる。
まったく、気の毒としか言いようがない。

次に近隣住民。
同じアパートやマンションに住む人も被害なしという訳にはいかない。
臭いの被害だけならまだ可愛いもの。
ウジ・ハエが上下階や隣室に侵入したり、腐敗液自体が染みるケースもある。
自宅に腐敗液が染みてきたのでは、とても住めたものではない。
この私でも、さすがに引っ越す。
いきなり生活基盤を変えることを余儀なくされ、急な出費が補填される保証もない。
子供がいる世帯では、学校を転校させざるを得なくなることもある。
まったく、気の毒としか言いようがない。

私は過去に友人・知人の賃貸保証人になったことが何度かある。
どんなに親しい相手でも金銭貸借の保証人にはならないと決めていたけど、「住宅の賃貸保証くらいなら平気だろう」と思い違いをしていたのだ。
今考えると恐ろしい。
特掃業務を通じて、住宅賃貸契約の保証人になることは極めてハイリスクな行為であることを知り、それからは誰の保証人にもならないことにしている。

心当たりのある方、心当たりのある人に至急連絡を。
自分に関係する人達から腐乱死体をださない工夫と対策が必要だ。
腐乱死体に責任を負うということは、並の怪談話より怖いこと・・・最悪の場合、自分も生きていられなくなる可能性があるからね。


トラックバック 2006/07/29 09:54:14投稿分より

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ビーフシチュー(後編)

2024-06-28 06:31:35 | 浴室腐乱
書いているうちに気持ち悪くなってきたので、前編と後編に分けさせてもらった。
今回はその後編。
しかし、現場の悲惨さを読者に伝えきれないのが非常に残念!
でも、臨場感があり過ぎると誰も読んでくれなくなるかもね(笑)。

さて、本題のつづき。
思わず悲鳴を上げた私。
なんと、腐敗した肉塊の中に体調10cm・直径3cmくらいの巨ウジがいたのである!
私は悲鳴を上げながら浴室を飛び出した!
全身に鳥肌が立ちまくり、しばらくの間、全身が痒くなるような悪寒が続いた。
「ウジってあんなに大きくなるものか?」「その前にハエになるはずじゃないのか?」「仮にウジじゃないとしたら何?」
もう、頭はパニック状態、仕事なんか放り投げてとっとと帰りたくなった。

しばらくブツブツと独り言をいいながら、「これからどうしようか・・・」と考えた。
引き受けた仕事は途中で投げ出す訳にはいかないのは当然、だけど浴室に戻る勇気がなかなか出てこない。
「適当な言い訳をして逃げようか・・・」⇔「ダメダメ、責任を果たさなきゃ!」
しばらくの間、独り問答を繰り返しながら自分と戦った。

気分を落ち着かせるのと、勇気を振り絞るのに少々の時間を要した私。
「俺は泣く子も目をしかめる特掃隊長、ヨッシャ!」と気合を入れ直して再び浴室へ。
放り投げたままのスコップと肉塊を再び手にした。
自分を勇気づけるために、何かの鼻歌を歌ったように記憶している。
そして、勢いをつけてさっきの巨ウジを直視してみた。
すると、どうも様子がおかしい。
おそるおそる腐敗粘土を削ぎ落として見たら、巨ウジと思ったモノはただの浴室の石鹸だった。
「キーッ!石鹸ごときに脅されて悲鳴をあげてしまうとは!」
ただの石鹸にここまで驚く人間って、そうはいないだろう。
まったく、不覚をとってしまった。
釈明するとしたら、石鹸にここまで怯えられるくらいに凄惨を極めた現場であったとも言えるだろうか。

元気を取り戻した私は、腐敗粘土に包まれて柔らかくなっていたその石鹸をグニュッと踏み潰し、作業を再開した。
相変わらず、腐敗肉塊がかもし出す気持ち悪さも絶好調。
とにかく、違うことを考えるようにしながら、手と体だけを単調に動かした。
食道にこみ上げて来るモノを強引に押し戻しながら。
そうこうしていると、急に腹が痛くなってきた。
そのうち、その痛みと圧迫感は下腹部に降りて行った。
「ゲロだかウ○コだか知らないが、上がダメなら下に行こうって寸法か?」
しばらくして、自分が下痢の腹痛に襲われていることを察知。
「よりによってこんな時に!」
誰に腹を立てていいのか分からないけど、とにかくイラついた。
そのイラつきも、次第に焦りに変わり始めた。
お約束の通り、下腹部の圧迫感が増してきたのである。

我慢できないことは自分がよく分かっていた(諦)。
モノを出すしかないけど、出すところがない(焦)。
作業用の装備と汚れて臭いユニフォームが邪魔をして、外のトイレを借りに出ることもできない(悲)。
苦慮していると、グッドアイデアをひらめいた(喜)。
「灯台元暗し!俺がいる所はトイレじゃないか!」
渡りに船、幸いな事に私はトイレにいたのである(快)。
しかし、こんなトイレに喜ぶ自分って一体・・・(苦笑)。

肝心の便器は腐敗液まみれ。とてもそのままでは用を足せる訳もなく・・・。
皮肉なことに、用を足したければ自分できれいにするしかない状況だった。
私の下腹部の圧迫感は、ひと山越えるごとに強くなってきていた(似たような経験がある人、いるでしょ?)。
そのうち、腸がゴボゴボと妙な音を出し始めた。
限界点へ到達するのは時間の問題だった。
(これ以上、詳細な描写をすると下ネタ注意報が発令されてしまうので、書きたいけどやめておく。)

ウ○コ男が本当にウ○コを漏らしてしまったんでは、汚れた人生に更に汚点が残る。
それからの私は、まるで人が代わったように迅速に動いた。
石鹸ごときに驚嘆した自分がウソのように、腐敗肉塊の気持ち悪さもそっちのけで。
ウ○コを漏らすのが先か、トイレをきれいにするのが先か、背に腹は代えられない時間との戦いであった。
もはや、依頼者のためというより自分のためにトイレを掃除していた。
仕事に対する心構えがなっちゃいないから、自業自得だったのかもしれない。

私は、人生に汚点を残すことになったのか、はたまた無事にクリアできたのか。
その後のことは想像にお任せする。
気が向いたら、今後のブログに載せるかも(ま、誰も興味ないね)。


滅多に食べないビーフシチューを、次に食べるまでは忘れることにする。


  • トラックバック 2006/07/28 14:17:50投稿分より
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ビーフシチュー(前編)

2024-06-27 04:35:34 | 浴室腐乱
嫌いな訳ではないけど、ビーフシチューなんて滅多に食べない。
しかも、この暑い季節には。
そんな私は、ビーフシチューを目にすると思い出すことがある。
自分の中では伝説になっている現場のことを。

現場はマンションのユニットバス。
狭いスペースに風呂とトイレが一体型で設置されている密閉された空間。
その光景は、「なんでここまでになるまで発見されなかったんだ?」と場慣れしている私でも驚嘆するくらいに衝撃を受けるものだった。
溶けかかった人肉が床一面に広がり、5cmくらいの厚みがある腐敗粘土層を形成していた。
それ自体が床のようにも見えるくらいに、床一面がきれいに腐敗粘土に覆われていたのだ。
そして、その粘土層の数箇所にこんもりと盛り上がった部分があった。
そう、解けるスピードが遅い部位が半固体のまま残っていたのである。
熟成された腐敗臭に、細長い体型をした奇妙なウジがいたりして、現場の不気味さを色濃くしてくれていた。

「とにかく、きれいにしてほしい」という依頼者の要望に対し、さすがに「どうやったらきれいになるんだろうか・・・」とたじろいだ。
依頼者は他に頼める人がいないらしく、藁をも掴むような物腰と弱りきった表情だった。
「この現場じゃ、できるヤツは限られているだろうなぁ・・・(冷汗)」と内心で呟きながら、「とにかく、やるしかない」と心に決め、策を見つけられないまま勢いで引き受けた。
私は依頼者に対して変な使命感を持ってしまうことが多く、ほとんど職業病かもしれない。
引き受ける代わりの条件として、見た目をきれいにすることを最優先に「悪臭は根絶できないこと」「ある程度の日数を要するかもしれないこと」を了承してもらった。

作業初日は緊張した。
とにかく、実践と対策を繰り返しながら試行錯誤するしかなかった。
細かい作業内容や作業手順、使用薬剤や器具等は企業秘密(という程のものでもないけど)と言うことで省略するが、今回は作業の山場を記そうと思う。

困難を極めたのは腐敗粘土(元人間)を除去する作業。
小さなスコップ状の道具で腐敗粘土をすくい取る。
それは、液体に近いものから固体に近いものまで場所によって態様が違い、サックリすくえるモノからスコップからボタボタと垂れてしまうモノまであった。
すくい取ったモノはバケツに移す。
バケツがいっぱいになったら、外へ運んでビニール袋に入れる。
その作業をひたすら繰り返した。
汚物が身体に着かないように作業するものだから、無理な体勢を続けざるを得ず、体力的にもかなりキツかった!
それにも増してその気色悪さときたら・・・泣けるくらい(笑)。
「人間をスコップですくうって、どういうことだよぉ!」「バケツに入る人間って、何なんだよぉ!」「何でこれが人間なんだよぉ!」
私は脳の思考を停止することによって気持ち悪さをクリアするタイプなのに、この現場は思考を停止することを許してくれなかった。
無理矢理に動かされた私の思考回路はショート寸前でぶっ壊れてしまいそうだった。

そんな作業をコツコツと続け、やっとのことで作業も後半戦い入ることができた。
しかし、本当の山場はこれからだった。
防衛本能が働いたのだろうか、私は無意識のうちに床に盛り上がった肉塊を残してしまっていた。
当然、そんなモノを残して帰る訳にはいかない。
意を決して、その肉塊にスコップを入れた。
グスグスとスコップが入る感触とモッチャリした重量感、グレード変えて襲ってくる悪臭に気が遠くなりそうだった。

グルメ番組のリポーターが肉の柔らかさを表現するためによく使うセリフ。
「歯を立てなくても舌の上で崩れる」「口の中で溶ける」
まさに、この表現はこの人肉にもピッタリ当てはまった(当てはめてゴメン)。

しかし、腐敗肉は食い物ではない(言うまでもないね!)。
しばらく直視なんてしようものなら、逆に胃の中のモノが飛び出てきただろう。
私は、とにかく視線を上に向けて泳がせながら、なんとかこらえるしかなかった。
何個か目の肉塊をすくった時、持ち上げたスコップから肉塊の一部が崩れ落ちた。
その肉塊の中に目をやった途端、私の全身に雷のような悪寒が走り抜けた!
私は、持っていたスコップを放り投げて、思わず叫んだ。

「何!?何だよぉ・・・これは一体何なんだよぉーッ!」

つづく。


トラックバック 2006/07/27 15:09:38投稿分より
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身を焦がして

2024-06-26 05:20:15 | 自殺腐乱死体
夏の風物詩のひとつに土用の丑の日がある。
その日に鰻を食べる風習は、全国的なものだと思う。
先日も、スーパーの屋外で鰻を焼く煙が香ばしく、食欲をそそられた。
焼肉屋や焼鳥屋の前を通りかかっても、同じように香ばしいニオイがして、空腹時にはたまらなくいいニオイに感じるものである。
肉を焼くニオイって、どうしてこうも食欲をそそるのだろうか、不思議である。
野菜を焼いたって、こうまでは魅了されないのに。


焼身自殺で人が死んだ。
自殺体は珍しくない中でも、焼身自殺体は少ない。
「何とかなるものなら何とかしてほしい」と依頼され、とりあえず現場へ。
警察の検死が終わって、遺体は納体袋に入れられていた。
この納体袋というヤツは通常の遺体が納められることはほとんどなく、変死体専用の寝袋と言ってもいいほどの不気味な代物である。
したがって、何の説明を受けなくても、納体袋に入っているだけで中の遺体は損傷や腐敗が激しいことがすぐ分かる。
という訳で、納体袋を開けるときはいつも緊張する。

今回は焼身自殺。
「何とかしてほしい」と言うからには「何とかなる」程度のものと推測して、心の準備を整えていた。
しかし、納体袋を開けてビックリ!
損傷が激しく、とても何とかできるような状態ではなかった。
特に、顔・頭部の損傷(燃焼)が酷く、ほとんど部位が炭になって焼失していた。
目蓋・鼻・唇・耳など、燃えやすい部分は燃えてなくなり、大きな眼球と歯は剥き出し状態。
瞬時に、腐敗臭と焦げ臭いニオイが辺りに立ち込めた。
人間の身体も所詮はただの肉。
その焦げたニオイは、普段の街に漂う肉を焼くニオイに酷似していた。

※間違っても「食欲が湧いた」なんてことはないので、誤解のないように(笑)。

「こりゃヒドイなぁ」と思いながら、「依頼者(遺族)の真の要望はどこにあるのだろうか」と考えた。
その損傷の酷さに、遺族の誰も遺体を見ることができなかったよう。
少しでも遺族とコミュニケーションが図れればヒントが掴めるものが、この現場では遺族は立ち会わなかったために思慮を重ねるしかなかった。
しかし、いくら考えを巡らせたところで、遺体の損傷が軽くなる訳でもない。
結局、遺体にはほとんど手を着けることができないまま、隠すように柩に納めた。
遺族の真の要望を計り知れないまま。

焼身自殺はなかなか大胆な手法だと思う。
こと切れるまでの時間、かなり苦しいだろう。
そして、ひとつ間違えて火事にでもなったら、他人を巻き込んでしまう可能性も高い。
もし、そんな事にでもなってしまったら、本人の人生や命そのものを否定されるような結果を招いてしまうだろう。
そして、そんな自分勝手な行為は決して許されることはないと思う。
ただ、残念なことに本人にとっては、「そんなの知ったこっちゃない」のだろうけど。
ほとんどの人が、自分の身の回りも未来も見えなくなるから自殺する訳で、「自分勝手」なんて批判は虚しいばかりか。

ハードな仕事にはスタミナが必要、特に暑い夏は肉料理が恋しくなる。
焼肉・焼鳥、そして鰻の蒲焼etc。
高い人格を持った謙遜な人は言う。
「この世にマズイ食べ物なんかない」と。
私のような愚人は品性もなく、ひたすら舌に美味いものばかりを追い求め、感謝の気持ちなんて少しも持たずに「美味い」「マズイ」と批評しながら命を存えている。

人間に食われるために生まれてくる命がある。
人間に食われるために失われる命がある。
「舌に美味しいものには身体に害があるものが多いのは、何かの摂理が働いているのだろうか」と思うことがある。
人間は、他の命を著しく犠牲にしないと生きていけない動物である。
何を食べるかが問題ではなく、どう食べるかが問題。

平凡な毎日でも、粗食しか口に入れられなくても、当り前のようにモノが食べられる幸せを噛み締めて、「たまには心に美味しいものも食べないとな」と思いながら、街角の香ばしい煙の誘惑との戦いに身を焦がす今日この頃である。


トラックバック 2006/07/26 08:37:56投稿分より
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犬と柿と別れの宴

2024-06-25 05:48:52 | 遺体処置
日本人の平均寿命は男性が77.64歳、女性が84.62歳らしい。
世界的にも長寿国。
現実を見ても、80歳を越えても元気なお年寄りが多く、そんなに長寿というイメージはない。
90歳を越えると長寿という印象がでてきて、100歳を越えると「長生き!」になるのではないだろうか。
実際にも、100歳を超えた故人に合うことはあまり多くない。

葬式というものは普段は顔を合わさない遠い親戚や、疎遠になっていた友人・知人と再会する社交場としての役割もある。
そして、多くの人達が故人の死を忘れて久し振りに会う人との交流に没頭したりするのである。そんな光景は、故人にとっても不快なものでもないと思うし、私的には悪くないことだと思っている。
葬式だからと言って意識して辛気臭くしているよりも、自然体で人と関わり、時には笑顔を浮かべたり笑い声を上げたって一向に構わないと思う。

100歳を越えた老婆が死んだ。
その家に訪問したときは、大勢の人達が集まって酒盛りをしていた。
「100年以上の生涯をまっとうしたのだから立派なもの」「めでたい、めでたい」と。
老年の息子や娘達に中年の孫達、そして年頃の曾孫に幼年の玄孫までいて、それはそれはとても賑やかな宴だった。
一人の人間が死んだのに、そこには悲くて淋しい雰囲気はなかった。

外では、よそ者の私に対して犬が吠え続けていた。
生前の故人が可愛がっていたらしい飼い犬だ。
遺族の中の男性(故人の孫)が、外の犬に向かって「うるせー!このヤロー!黙ってろ!」と怒鳴りちらしながら私には「スイマセンね、バカ犬がうるさくて」と。
私にとっては吠える犬よりも怒鳴る男性の方がうるさかった(笑)

そんな中で、「こういう別れ方があってもいいんだよな」と微笑ましく思いながら私は遺体処置作業を進めた。
酒や食べ物を手に持ったままの人が、故人に近づいては一声掛けたり触ったりして、再び宴に戻っていく。
子々孫々、色んな人が故人に近づいては、そんな別れを繰り返していた。

そんな状況だから、「そのうち自分にも声がかかるだろう」と心の準備をしていたら、やはり「アンタも一杯やって下さいよ」と声が掛かった。
心を許してもらえたような気がして、ちょっと嬉しかった。
「仕事中ですから」なんて言って断るのは野暮ってもの。
死体業はただの仕事ありながらも遺族にとってビジネスとは感じにくい性質を持つ。
死体業は、故人や遺族の極めてプライベートな所まで入り込まないといい仕事ができないし、そこに入れてもらえる嬉しさみたいなものがある。
社会からは嫌悪されても、他人である依頼者に心を許してもらえるような、信頼してもらえるような、そんな嬉しさである。
この宴は故人との別れの宴。
その場の雰囲気を乱さないことを心掛けて宴に混ざった。

誰かが、「庭の柿を食べよう」と言い出した。
生前の故人も柿が好物で、庭に立つ柿の木は、故人に長男が産まれた時の記念樹らしかった。
何人かの男性が外へ出て、たくさんの柿を採ってきた。
もちろん、私も一緒に食べた。その甘さは格別だった。
「柩に入れてあげたらどうですか」と言ったら皆が同意、一人一個づつの柿を柩に納めた。
遺体の回りは小さな柿の実でいっぱいになった。
そこに集まった老若男女すべてが、みんな故人の血を受け継いだ人達だった。
そこに、故人が生きた証と力があった。

外では、相変わらず犬が吠えていた。
そして、ますます酔いが回ってきたアノ男性が「うるせー!」と怒鳴っていた(笑)。
聞けば、その犬は、男性の亡き父親と名前が同じとのこと。
その男性の父親ということは故人の息子(長男)になる訳で・・・産まれた時に柿の木を記念樹にしたときの子供・・・。 
先に逝った息子の名前を飼犬につけて可愛がっていた故人だったらしい。

私はもちろん酔いが回るほどは飲んでいなかったけど、賑やかに送ってもらっている故人の顔が笑っているように見えた。

長寿だろうが短命だろうが、誰にでも生きた証は残る。
犬が元気に吠える声、柿の甘さ、宴の活気から生きることのエネルギーを感じた。
「この故人は、かけがえのない多くの宝物を残したな」としみじみ思いながら、宴を静かに抜けた私であった。

トラックバック 2006/07/25 12:32:16投稿分より
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パートナー

2024-06-24 07:30:53 | 遺体処置
ある老年男性。
妻の葬儀のため一時退院してきた夫は、何も言われなくても病弱ということが明らかだった。
痩せ細った身体は、誰かの介助がないと部屋を移動することもままならない様子。
本来なら、一時退院できるような身体ではなかったのに、無理を言って一時帰宅したとのこと。
「長年連れ添った妻の葬儀」と言えば病院側も承諾せざるを得なかったのだろう。
夫は弱々しい中にも力のこもった言葉で、妻の亡骸に向かって何度も「ありがとう」「ありがとう」と声を掛けていた。そして、「もうじきそっちに行くから待っていてくれ」とも。
作為的な脚色だけど、その別れのひと時は、老夫婦が最期の輝きをみせた瞬間に見えて神妙な気分になった。
その一週間後、私は同じ家に行くことになった。
現場に到着するまで同じ家だとは気づかないでいた。
その家の玄関に到着して、「ん?先週来たばかりの家だ・・・間違いかな?」と間違いじゃないかどうかを会社に確認した。
間違いではなかったので「アノお爺さんが亡くなったのか・・・?」と思いながら玄関を開けた。
亡くなったのは、やはりアノお爺さんだった。
不謹慎かもしれないけど驚きはなかった。
遺族には何と声を掛けていいのか分からず、前回訪問時に比べて自然と言葉数も少なくなった。
対する遺族も私と何を話せばよいのか分からず、言葉が見つからない様子。
既に顔見知りの双方に余計な会話は必要なかった。
故人となったお爺さんは葬儀が終わってから直ちに再入院したものの、体調を一気に崩して妻の後を追うように亡くなったとのこと。
「すぐに自分も逝くから・・・」という言葉は現実のものとなった。
本人にとっては、死に対する心の準備と覚悟がきちんとできていた上での言葉だったのだろう。
帰り道、「お爺さんは、天国でお婆さんと再会できただろうか・・・」としみじみ考えたのを憶えている。

ある老年女性。
夫の亡骸に添い寝をしていた。
最初は家族も止めさせていたのだが、いくら止めても目を離した隙に添い寝をしてしまうらしく、家族もお婆さんの執拗さに根負けしてしまったらしい。
私も仕事がかなりやりにくかったけど、そのお婆さんの気持ちを思えば思うほど遺体から引き離すことはできなかった。
この老夫婦も長い長い年月を共に過ごしたのだろう。
子供達も立派に育て上げ、それぞれがいい歳になり、大きな孫もたくさんいた。
私自身も死体には抵抗感が少ないと自負?している人種だけど、さすがの?私も死体と一緒に同じ布団で寝るのは抵抗を覚える。
「お婆さんは、よっぽどお爺さんのことが好きだったんだろう」
そう思うと、微笑ましくもありながら死別の淋しさが一層気の毒に思えた。
夫を失った喪失感は他の何によっても埋めることはできないのだろう。
遺族からは「こんな調子じゃ、お婆さんも長くないかもな・・・」という溜息も聞こえてきた。
その後、そのお婆さんがどんな人生を過ごしたのかは知る由もない。

一般的には、一生のうちで最も長い間を共にするのは親子でもなく兄弟姉妹でもなく夫婦(配偶者)だろう。
お互い、長生きすればするほど共に過ごす時間も長くなる。
そして、共に過ごす時間が長くなるほど、単なる愛や情を越えた固い絆ができてくるのではないだろうか(想像)。
「生まれ変わっても同じ相手と結婚したい?」なんて愚問は熟年(熟練)夫婦にはナンセンスかも。
その応えは、現世での諸事情があるだろうから、「No!」と言う人もいるだろう。
それはそれで仕方がない。
双方「Yes!」が気持ちいいけど、双方「No!」でも悪くない(それも人生)。
でも、片方が「Yes!」で片方が「No!」だったら・・・なんか嫌だな(笑)。
来世での再婚は希望しないまでも、「亡くなった連れ合いには天国に行ってほしい」と願う人は多いのではないだろうか。そして、天国での再会を願う人も。


「生きているうちに、もっと相手のことを愛すべきだった」
私の経験では、パートナーに先立たれた人の中にはそんな後悔を抱えている人が多いように感じる。
日々の生活と、この社会に生き残るための戦いに追われてばかりの人生では、そんな心のゆとりすら持てない。
でも、ちょっと小休止して立ち止まってみよう。
そして、結婚当時を思い出し、自分を見つめ直してみよう。
自分にとって本当に大切なものを、もう一度探してみたらどうだろうか。
明日から・・・イヤ、今からでも心を入れ替えることはできる。
パートナーへの接し方を変わればお互いの人生も変わる。
そして、「生まれ変わっても一緒になりたい」と思えるようになる・・・といいね。


トラックバック 2006/07/24 14:17:33投稿分より

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皮の流れのように

2024-06-23 13:24:55 | 浴室腐乱
「皮」と言えば何を想像するだろう。
値段は高いけど、皮製品には味わいがある。
身体には悪いらしいけど、焼き鳥の皮は美味い。
面倒臭いけど、果物は皮を剥いた方が甘露。


前フリはこのくらいにしておいて、そろそろ本題。
私が何の皮について書こうとしているのか・・・そう、既にお見通しの人間の皮。


人の皮は薄いけど意外に丈夫。
梅雨が明けたら海水浴に逝く・・・もとい、海水浴に行く人が多いと思う。


本題が始まったばかりなのに早速脱線。
私のwordは「いく」と打てば「行く」じゃなく「逝く」が、「いたい」と打てば「痛い」じゃなく「遺体」が一番に出る。
そんな語句ばかりを毎日当り前のように打っている自分自身が笑える(笑)。


本題に戻る。
日光に弱い人は日焼けの後に水膨れができ、そのうち痒くなってきて皮が破れ剥がれる。
死体が残す皮は、その皮をもっと丈夫にしたようなもの。

浴槽に浸かったままで腐乱した遺体は、体表の皮の大部分を浴槽に置いて行く。
また食べ物に例えてしまうが、濁ったコーラ(コーヒーでもいいけど、そんなのどっちだっていいか)の中に湯葉(ホットミルクの湯膜でもいいけど、そんなのどっちだっていいか)がたくさん入っているような感じ。

浴槽を掃除するのに、皮をそのままにはしておけない。
元人間で排水口を詰まらせでもしたら大変なことになる。
したがって、腐敗水の中の固形物のほとんどは網状の器具を使ってすくい取らなければならない。海や河のように流れて行ってくれれば楽なんだけど。


私自身は未経験だけど、海やダム等の水中で腐乱した場合、皮が身体の形をとどめたままスッポリと抜けていることがあるらしい。
だから、手の皮なんかは手袋と見間違えるような形で浮いていることもあるそう。

ただ、私が浴槽からすくい取る皮は、身体の形を残しているようなものはない。
そんな浴槽をまさぐる緊張感はたまらなくBAD!
まさに「何がでるかな♪何がでるかな♪」と言った感じで。

器具を通じて伝わる感触は何とも言えないものがあり、明らかに何かをキャッチした網を腐敗水から上げるときは緊張度もMAX!
分かるかなぁ、分かんないだろうなぁ・・・このドキドキ感を伝えきれないことが残念だ。


また、床で死んだ場合も、極めて黒に近い茶色になった皮が残っていることが多い。
これは、皮が乾燥した状態で床にくっついているものだから、削り取るしかない。
カーペット・畳や布団・ベッドの上だとそのまま廃棄できるものが、フローリング床とかだと床を傷めないように除去しなければならないので大変。
汗をかきかき、コツコツと削るしかない。
大工仕事みたいな作業を続けていると、自分が削っているものが元人間だったことを忘れてしまう。
この仕事は経験を積めば積むほど神経もズ太く(おかしく?)なる。
いつの間にか、どんなグロい現場も平気でこなしてしまうようになっている自分に、我ながら感心してしまうこともある。
自分の将来を考えるとちょっと恐い(笑)。

最後に一言。
この時季は毎年必ず水の事故で亡くなる人がいる。
これから、海や川に出掛ける予定のある方、くれぐれも事故には注意を。
水を怖がることは格好悪いことじゃないからね。

避暑・納涼と言ったって、出掛けた先で本当に冷たくなって帰ってきちゃいけない
よ。


トラックバック 2006/07/23 09:16:41投稿分より

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2024-06-22 05:58:44 | 遺体処置
「悪夢にうなされるようなことはないのか?」という類の質問が読者から寄せられることがチラホラある。
そういう質問を受けてあらためて思い出してみると、私は仕事がらみの夢はあまり・・・と言うかほとんど見ていないことに気づいた。
ただ、そんな夢も皆無ではない。
かなり前にみた夢だが、覚醒してからもしばらく後味の悪い思いをした夢を紹介したいと思う。


遺体処置業務のこと。
古めの一戸建、私は死んだ老婆に死後処置を施していた。
遺族も一緒に立ち会い、ほとんどの遺族に共通して見られるように、その雰囲気と振舞いは悲しみに包まれていた。
昨日のブログ記事にも通じる部分がある、何となく身体の温かさが残っている、まだ生死の間にいるのではないかと思えるような遺体だった。
作業を進めているうちに、何となく遺体が動いたように感じた。
「気のせいか?」と思いながら更に作業を進めていると、今度はかすかに息をしているように感じた。
さすがに変に思った私は遺体の口元に耳を近づけた。
かすかながら、しかし明らかに呼吸をしていた!
そして、かすかに身体も動き体温も取り戻してきていた!
そう、老婆は生き返ったのである。

驚いた私は、一気に興奮状態。
急いで口や鼻に詰めた綿を取り出し、老婆の蘇生を手助けしようと躍起になった。
一緒にいた遺族にも「おばあさん、生き返りましたよ!」と喜びの声を掛けた。
と同時に「急いで、救急車を呼んで下さい!」と頼んだ。
私は「死者の蘇生」という初めての経験と、老婆が生き返った喜びにかなり興奮していた。

しかし!遺族は一向に救急車を呼ぶような素振りは見せず、何やら身内同士でヒソヒソ話を始めた。
「急いで!早く!」と促す私と、それを無視して静観する遺族。
そして、よく見ると老婆の蘇生を喜んでいる遺族は一人もおらず、それどころかみんな困ったような不快な表情を浮かべていた。
遺族との間にかなりの温度差があることに気づいた私は、独りで勝手にテンションを上げてしまった気恥ずかしさと、蘇生した老婆をどうすればいいのか分からなくなった困惑とで気分がブルーになってしまった。
「なんて冷酷な遺族なんだ!」「さっきまで、老婆の死を悲しんでいたばかりじゃないか!」と。
そんな状況の中で目が醒めた。

この夢を見た当時は、この遺族に人間の本性を見てしまったような気がして後味の悪さに閉口したものだった。
しかし、今、あらためて思い出してみると当時とは違った考えが湧いてくる。
「老婆の蘇生を素直に喜べない、他人には分からない事情があったのかも」と。
介護や看病などの手間、人間関係の問題、経済的な理由など・・・。
夢の中の出来事とはいえ、老婆の蘇生に歓喜した私の喜びは、所詮、人の生存本能からくる無責任な喜びでしかなかった。
対して遺族には責任がある。
「老婆に対しての責任がつきまとう遺族には、素直に喜べない事情があったのかもしれない」
今は、そう思うのである。
そして、私が、遺族や遺体に無用な感情移入をしないようにしている理由は、この辺りにもあるのだろう。

「他人の不幸は蜜の味」という言葉がある。
イヤな言葉だけど、人間の本性を突いた言葉でもあると思う。
私自身にも思い当たる節がたくさんある。
自分以外の人間と喜びや悲しみを真に共有することって、かなり難しいと思う。
ましてや、赤の他人と死の悲しみを共有することなんかできやしない。
少なくとも、この私には。
だから、遺族に対して無責任かつ野次馬根性的な感情移入はできない。
そして、自分のことを、「他人と喜びも悲しみも共有できる善人」と勘違いしないように気をつけている。恥ずかしながら、実態はその逆だから。

そんな私の態度は時には冷淡に、時にはビジネスライクに、そして時にはプロっぽく映るかもしれない。
賛否あると思うが、それが私なりに義であり礼である。

梅雨のせいで脳ミソにカビが生えたのか、仕事疲れのせいで脳ミソの回転速度が落ちたのか、最近はサッパリとくだらないジョークを思いつかなくなった。くだらないオチもね。
そんなの必要ないかもしれないけど、そんなささやかな笑いを提供できる粋な(自己満足)自分が好きだったりするものだから、最近の自分を自分で観察すると「イケていなぁ」とぼやきたくなる。
くだらない事でも笑えるくだらない男だから。


トラックバック 2006/07/22 09:35:05投稿分より

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