特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

暴発

2020-07-13 08:40:09 | 特殊清掃
休業要請や自粛要請が緩和されてしばらく経ち、街は“日常”取り戻しつつある。
先月19日、都道府県を跨いでの移動が緩和され、観光地でも人が増えているよう。
しかし、それに合わせるように、報告される感染者数は増えている。
ある程度は想定内のことだろうけど、「東京一日200人超」まで想定していたかどうか・・・政治家の表情から漂うのは想定以上の状況になっているというような不安感。
「第二波がきている」という専門家もいる中、再び、緊急事態宣言は発令されたら経済は壊滅的な打撃をうけるらしいから、そう簡単には出せないらしい。
やっと動き始めた社会経済活動を再び止めることが、感染拡大と同じくらいリスキーなことは、素人の私でもわかる。
ただ、上からの指示がどうあれ、個々人が、事実上 緊急事態下にあることを認識し、感染しないこと・感染させないことに努めなければならないと思う。

5月上旬、緊急事態宣言下のある日、税金を納めるため、銀行の窓口に行ったときのこと。
メガバンクの支店なのだが、入口には消毒剤が置いてあり、「マスク非着用での入店禁止」の札も掲げられていた。
更に、「窓口は約120分待ち」と表示され、傍らに立つ行員は、「不要不急の用であれば日をあらためて下さい」と、どことなく“上から目線”で、客を追い返そうとするような案内。
“120分待ち”にも行員の態度にも不満を覚えた私だったが、納期も迫っていたし、“日をあらためて出直しても同じことだろう”と、諦めて列に並んだ。
その私のすぐ後ろには初老の男性が立った。
“120分待ち”なんてまったく想定してなかったのだろう、驚いた様子。
それでも並ばなければならない用事があるのだろう、イライラした様子でブツブツ・ブツブツ。
そのうち、案内係の行員に文句を言い始めた。
行員の態度もよくなかったけど、用を済ませたいなら順番がくるまで黙って待つしかない。
我慢できなければ帰ればいい。
にも関わらず、男性は行員に不満をぶつけ、行員も悪態ギリギリのところでチクチクと反論し、その場の空気は換気が必要なくらい汚れたのだった。

また、これはコロナ渦初期の頃、スーパーでの出来事。
レジ列の前の前、カップ麺を大量に箱買している男性がいた。
そこへ、私の前に立つ老人が「こんな人がいるから皆が困るんだよ」と、善人気取り?で文句を言った。
どうも、自分本位の買い占めだと思ったらしい。
すると、その声が聞こえた男性は、「何!?俺に言ったのか!?」と振り向き、「文句でもあんのか!?」と老人に喰ってかかった。
老人も、「買い占めはよくないだろ!」と応戦。
周囲の賛同を得られるとでも思ったのか、振り絞った勇気に満悦したのか、はたまた、振りあげた拳を降ろせなくなったのか、衰えた外見に似合わず強気に。
当然、男性も黙ってはいない。
“三密回避”はどこへやら、「この くたばり損ないのジジイが、妙な言いがかりつけやがって!」と、怒顔を老人の顔に近づけて睨みつけた。
傍にいた店員がすぐさま割って入り、大ゲンカに発展するのは抑えられたが、公衆の面前での小競り合いはしばし続いた。
結局、男性の行為は買い占めではなく、普段の買い物で、大人数で食べるための買い出しだったよう。
しかし、二人は和解することなく、周囲には殺伐とした虚無感が漂い、換気が必要なくらい汚れた空気だけが残ったのだった。

殺伐とした世の中は、今に始まったことではない。
この時代、殺人事件や傷害事件を筆頭に、そんなニュースが途絶えることはない。
ちょっとしたことでキレる・・・
ちょっとしたことで揉める・・・
コロナ渦によって、それが増長されているような気がする。

あの時、あの警官も、ある意味でキレてしまったのだろうか・・・
5月25日、アメリカで黒人男性が白人警察官に殺された事件。
警官が男性の首を膝で抑えつけている映像を観て、私も「ヒドい!」と思った。
既に抵抗できない状態で、明らかに苦しがっているにも関わらず、それを無視して抑え続ける様には嫌悪感しか覚えなかった。
これに抗議するデモは、アメリカだけにとどまらず世界中に広がった。
この日本にも。
私は、こういったデモに反対ではない。
しかし、度を越したもの・・・暴力をともなうものは反対。
考えを主張するのは自由かもしれないけど、とにかく、暴力はよくない。
暴力は暴力を呼ぶだけ、暴言は暴言を呼ぶだけ。
たとえ、それが、正義を貫くためであっても、暴発はしてはいけない。

団体行動が苦手な私は「デモ」というものに参加したことがないからわからないけど、独特の高揚感みたいなものがあり、日常にはない心地よい正義感が味わえるのだろう。
また、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」、一種の集団心理も働くのだろう。
多数でやれば罪悪感が薄まり、大人数でやれば正義になる。
その昔、封建主義の世の正義は支配者が決めたが、今、民主主義の世の正義は“数”が決めるのだから。
それが、強い力を得たような錯覚をおぼえさせたり、それに陶酔させたりするのか。
そして、本来、人々が持ち合わせている理性を麻痺させるのかもしれない。
便乗した暴力・放火・略奪は、もはや抗議デモではなく、ただの犯罪。
いつの間にか、そこから正義は消えている。

ちょっとしたことがキッカケで、暴力・暴言が噴出するこの社会。
人間の悪性や人々のストレスが、言葉の暴力・文字の暴力・拳の暴力となって、いらぬところで、いらぬかたちで現れている。
刑事的犯罪の陰で、SNS上でのイジメや誹謗中傷がまかり通ったり、人知れずDVや児童虐待が行われていたり、あおり運転が横行したり。
そして、今や、銃や刃物だけじゃなく、言葉や文字が人を殺す凶器になる時代。
「個人情報保護」という鎧を着て、「匿名」という盾を持ち、文字(言葉)という刃物で容赦なく他人を突き刺す。
一体、これは、どういうことか・・・
私も含め、人間という生き物は、どうして そんなくだらないことをしてしまうのか、くだらないことがやめられないのか・・・
人間は、弱い者をいじめる習性をもち、他人の不幸を喜ぶ習性をもつ・・・
このまま、人々は理性・道徳心・正義感を失い、あたたかい笑顔を捨てていくのか・・・
他人に対する悪態が常態化し、弱肉強食が顕著な社会になっていくのか・・・
コロナ渦の第二波はもちろん、風水害や地震などの災害、減給や失業による貧困も恐いけど、もっと恐いのは、人々の心が荒むこと。
そして、それが人と人との絆を、人と人の情愛を、社会秩序を破壊していくこと。
先を楽観できない時代、とにかく、少しでも“人間の悪性”が影を潜めてくれることを祈るしかない。

かくいう私も他人事では済まされない。
SNSは一切やらないから、その世界での加害・被害はない。
また、暴言を吐くことも暴力をふるうこともない。
しかし、情緒不安定で感情の起伏が激しい。
人間の器が小さく、人間が弱い。
気も短く、ちょっとしたことイラつく。
恥ずかしながら、心の中で暴言を吐き、空想で拳を振りあげることがある。
それが自分を不幸にすることがわかっていても、理性で抑えることができない。
特に、このコロナ渦に見舞われてからは、減収・失業が現実味を帯びてきているから尚更。鬱だけではなく、持病の不眠症まで重症化し、心身を蝕んでいる。

ただ、とにかく、日本は、銃のない社会でよかった。
銃は、小さな引き金をちょっと引くだけで人を殺せるのだから、たった一瞬の感情、瞬間的に理性を失うことよって取り返しのつかないことが起こる。
拳で殴るのとはわけが違う。
カッ!となって、取り返しのつかないことをしてしまった、取り返しのつかない事態に陥ってしまった・・・
そうなったら、後悔しても遅い。
加害者・被害者を問わず、銃社会において、それで人生を狂わせた人間は少なくないのではないだろうか。
あんな、飛び道具ひとつで・・・まったく、悲惨である。



ある日の昼間。
“ズドン!!”
とある民家の二階で大きな爆発音がした。
驚いた家族が部屋に駆けつけてみると、部屋の模様は一変・・・
そこに横たわる故人も変わり果てた姿となり・・・
その光景はあまりにショッキングで・・・
失神寸前で、そのままその場にへたり込んでしまった。

私が現場の呼ばれたのは、その翌々日。
依頼の内容は、特殊清掃。
事件性がないことが確認され、警察から立入許可がでてからのこと。
事前にだいたいの状況を聞いていた私だったが、よくあるケースではないので、リアルに想像することが困難。
作業の難易度が高いことは想像できたものの、それがどこまでの高さなのかが見えず。
私は、重症の飛び降り自殺現場を思い浮かべながら、また、少し緊張しながら現地に向かった。

部屋のドアを開けた目の前には、ある部分は想像通り、ある部分は想像を越えた悲惨な光景が広がっていた。
故人が倒れていた床には大きな血痕・・・
更に、赤黒の血痕が天井・壁・床、上下左右、360℃に飛散・・・
凝視すると、白子を粉砕させたような脳片、木屑のようになった頭蓋骨片も・・・
そして、床のあちこちには、極小の鉄球が無数に転がり・・・
故人は、趣味を楽しむために所有していた散弾銃を、自分に向かって打ったのだった。

銃口を何処にあてたのかはわからなかったが、一発で死ぬことを目的とするなら頭を狙うのが自然。
ただ、銃身長を考えると、手指で引き金を引くことは困難。
おそらく、銃口を自分の額に向け、足指で引き金を引いたのだろう。
生きることを楽しむために持っていた銃で、生きることを終わらせた・・・
頭の上半分を粉々に吹き飛ばし、一瞬にして、この世から去ったのだった。

故人は、私と同年代の男性。
社会人としてバリバリ働いていたとき大病を罹患。
会社は休職し、入院、治療。
療養の結果、病状は随分と落ち着いたが、それは完治を見込みにくい難病。
勤務先は、そんな故人に“いい顔”をせず冷遇。
結果、追い立てられるように退職。
表向きは“自己都合による退職”だったが、事実上の“クビ”だった。

故人は、病と闘いながら社会復帰を目指した。
しかし、当然、企業は健康な人を優先して採用する。
少しでも経験が活かせるよう、前職と同業種を目指し、中小零細にこだわらず 多くの会社に応募するも、ことごとく採用には至らず。
願望を捨て、異業種や非正規の求人にも応募したが、それでも、なかなか色よい返事は得られず。
不採用の理由をハッキリ告げられることは少なかったが、結局、持病があることが敬遠される原因であることは明白だった。

そんな故人の生計は同居の家族が支えていた。
それは、家族として当然のこととしてなされており、故人を責めるようなことはもちろん、社会復帰へのプレッシャーをかけるようなことも一切なかった。
しかし、
「家族に迷惑をかけている・・・」
「家族の負担になっている・・・」
と、その家族愛が、一層、故人を苦しめていたのかもしれなかった。

働きたくても働けないツラさがどんなものか・・・
怠けるつもりはないのに怠け者に見られる惨めさがどんなものか・・・
そんな生活は、まさに“生地獄”・・・
自ずと心身は衰弱していき、始めは小さな石コロだったものが 次第に大きな岩になり、始めは薄低の壁だったものが 次第に厚高の壁になり、社会に戻ろうとする故人の行く手を阻む・・・
ともなって、その精神は、病んでいくばかり・・・狂ったように・・・

「甘やかすからそうなる」
「生きていれば楽しいこともある」
「死ぬ気になれば何でもできる」
と、人は言う。
一理あるかもしれないけど、これは、まったくわかっていない人間がいうセリフ。
生きる力を失った者にとっては、日常生活ほとんどのことが虚無・疲労の原因となる。
生きる力を失った者にとっては、人生の楽しみさえもどうでもよくなる。
生きる力を失った者とって“死”は、最悪のことではなく最良のことのように思えてしまう。
そして、家族を悲しませることがわかっていても、抱える苦しみは、それを超越してしまうのである。

事情や境遇はまったく違うけど、私にも似たような経験があり、生きる意欲を失った時期・・・自分に刃を向けた過去がある。
あれからもう三十年近くが経とうとしているけど、ヒドく苦しみ、両親もヒドく苦しめた。
その後遺症は今でもあり、遠い昔のことなのに、思い出すと息が重くなる。
だから、故人の苦悩が痛いほど・・・涙が出るほどわかった。

私は、黙々と血・肉・骨を除去・・・
天井や壁の高部は、脚立に昇って・・・
点々と無数に広がる汚れと格闘・・・
無数に転がる散弾も、床を這って探し回り・・・
静かに流れる汗と、寂しく潤む目を拭きながら・・・
手間と時間がかかる作業であったことはもちろん、湧いてくる想いが多すぎて、考えさせられることが多すぎて、重い心労をともなう作業となった。

結局、想い描いていた人生をまっとうすることなく、最期を決断した故人。
愛用の銃を手に取り、弾を込め、銃口を額に当てて決行・・・
その様を思い浮かべると、自然と目に涙が滲んできた。
ただの同情・・・ただの感傷・・・しかし、身に覚えがある私には、心の奥深くに突き刺さるものがあった。
あの時、私が、銃を持っていたら、今、こうして生きているかどうかわからない・・・
一瞬の“魔”で決まるのだから。
ただ、銃を持っていなかったから、そうならなかっただけかも・・・
だから、こうして生きていられるのかもしれない。


生きることは素晴らしい。
生きることは楽しい。
同時に、
生きることは苦しい。
生きることは辛い。
しかし、“始まり”があれば、必ず“終わり”がある。
生まれてきたからには、いずれ死んでいかなければならない。
だから、それまで、耐え忍んで待つしかないのだ。

けれど、この世には、耐えきれない苦悩・苦痛がある。
他人が推し量ることができない苦しみが。
故人は、それに負けたのかもしれない・・・
そこから逃げたのかもしれない・・・
しかし、弱虫や卑怯者なんかではなかったと思う。
本当の弱虫や卑怯者は、苦しむことはないし、悩むこともない。
悪い意味で開き直って、悪い意味で堂々と生きていくもの。
そうはせず、悩みに悩んで、苦しんで苦しみ抜いて、戦いに戦って散らせた命の誠実さを、私は、生きることにくじけやすい自分に刻み込んだ。


「しんどかったね・・・お疲れ様・・・」
「俺は・・・もうちょっと頑張ってみるよ・・・」
私は、一仕事を終えた自分と 一人生を終えた故人にそう言い、くたびれた命を新たにして現場を後にしたのだった。





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厚顔無恥 ~後篇~

2020-07-07 08:40:40 | 遺品整理
偉そうな人、図々しい人、乱暴な人、ケチな人・・・
これまで、不愉快な人間とは何人も遭遇してきた。
人間は十人十色。
いい人もいれば悪い人もいる。
礼儀正しい人もいれば無礼な人もいる。
自分と肌が合う人もいれば合わない人もいる。
“好き嫌い”を通していては、仕事にならない。
とにかく、一仕事の中で我慢すればいいのだ。
しかし、私だって ただの人間。
しかも、懐は浅く 器は小さい。
許容量には限界がある。
善悪は抜きにして、世の中には、自分とは関わらない方がいい人間がいるのも事実だろうから、できることなら、そういった類の人とは別の世界で生きていきたい。
そうすれば、余計なストレスを抱えなくて済むし、嫌な思いをしなくても済む。
しかし、誰しも身に覚えがあるだろう、学校でも、会社でも、仕事でも、そうできないから苦労する。
“人間関係”は、楽しいときはいいけど、難しいときは、ヒドく人を苦しめる。
そして、ときに、憎悪・嫌悪・敵意・怒り・・・恐ろしいくらいの悪感情を人に抱かせるのである。


前篇の続き・・・

部屋にある家財は少な目。
ただ、大家は、故人が付けたエアコンの撤去も要求。
たいした金額ではないが、一つ一つを処分するには費用がかかる。
男性は、それが嫌なようで、
「これはまだ使えるよ!次の人が使うでしょ!?」
と、押し売りが得意のセールスマンのようにエアコンの再利用をPR。
しかし、それは、とっくに耐用年数が過ぎている代物。
充分に古く、充分に汚れている。
欲しがる人は、まずいないはず。
だから、
「それは○○さん(故人)がつけたモノだから、外して下さい! 次の人には自分で新しくつけてもらいますから!」
と、大家は、男性による“ガラクタの押し売り”をキッパリ断った。

主張が通らなかった男性は、おもしろくなさそうに、
「使えるモノをざわざわ捨てなくてもいいのに・・・」
「処分を業者に頼んだら金がかかるわけだよな・・・」
と、ブツブツ言いながら、エアコンの室内機・ホース・室外機を舐めるように眺めた。
どうも、自分で取り外せないか考えているよう。
その様子を見ていた担当者が、
「そういうのは、専門業者に任せたほうがいいですよ」
「壁とか壊れると修繕費もかかりますから」
と親切心で言うと、
「業者に頼んだら金がかかるだろ?!」
「そんなの無駄金!無駄金!自分でやればタダなんだから!」
と一蹴。
私だって“金がかかる業者”なわけで・・・わざわざ人を呼びつけておいてその言い草・・・失礼極まりなし・・・
ただでさえ冷たくなっていた場の空気を更に冷え冷えとさせた。

退去時の原状回復費用を、貸主・借主でどう負担するか。
これは、賃貸不動産で起こりがちなトラブルである。
私個人の経験でも、過去に、一年しか住まなかったマンションで、敷金+修繕費を徴収されたこともあった。
また、三年住んだマンションで、敷金全額を返してもらえたこともあった。
国土交通省がガイドラインを定めてはいるけど、明確な基準ではないし強制力もない。
結局、不動産屋や大家の裁量によるところが大きい。
だから、“賃貸人 vs 賃借人”でトラブルが起こりやすい。

しかし、この案件の場合、入居者が“善良なる管理者の注意義務(良識をもって部屋を使用する義務)”に違反していたことは明らか。
特殊清掃が必要なくらいトイレは糞尿まみれ。
風呂や洗面台はカビ・水垢だらけ。
キッチンシンクはカビ・水垢に覆われ、レンジ周りは油汚れで真っ黒ベトベト。
で酷く汚れ、部屋もホコリだらけで壁紙も変色は結構な汚れ具合に。
長年に渡って掃除されていなかったであろうことは、誰の目からも一目瞭然だった。

担当者は、
「修繕費とクリーニング代を合わせると、預からせていただいている敷金だけでは足りないはずなので、不足分は保証人さん(男性)に負担していただくことになります」
と説明。
すると、
「なんで!?フツーに住んだって、これくらいは汚れるでしょ!?」
男性は、予想通り抵抗。
「いやいや・・・これは、経年劣化とか通常損耗じゃないですよ!」
担当者も黙っておらず。
「そんなことないでしょ!妙な言いがかりつけると黙っちゃいないよ!」
最初から“黙っちゃいない”男性だったが、自分の理屈を無理矢理にでも通そうと、声のトーンを上げた。

「あと、先月分の家賃が払われていないので、お願いします」
「退去申告は一ヶ月以上前にしていただく規約ですけど、ご本人が亡くなっておられますので、今月分の家賃は退去までの日割分で結構です」
男性の態度にいちいち反応していては仕事にならない。
担当者も、早々に男性の性質を理解したよう、冷静に努めることにした様子。
また、退去時の揉め事にも慣れているのだろう、揚げ足をとられないよう言葉を選びながら、退去の手続きを事務的に説明していった。

「先月分って・・・入院してここに住んでなかったのに家賃とるの!?」
「そんなの、おかしいだろ!」
おかしいのは男性の方。
しかし、男性は、担当者の話が進むにしたがってハイテンションに。
担当者の口からは、金のかかる話が次から次へと出てきて、みるみるうちに怒りに満ちた表情に。
そして、何か考える素振りで少しの間をあけて後、意地悪そうな微笑を浮かべたかと思うと、
「じゃぁさ、“払わない”って言ったらどうなるの?」
と、イヤ~な予感がする一言を吐いた。
「え!? 保証人になっておられるわけですから、払っていただかないと困ります・・・」
不気味な返答に、冷静沈着だった担当者は少し動揺。
「困るかどうかなんて、訊いてないよ!」
不利な立場なのに、男性は何故か強気。
返答に困った担当者が言葉を詰まらせていると、
「だから!“払わない”っていったらどうなるのかって訊いてんの!」
と、語気を強めた。
「・・・そ、その場合は・・・大家さんに負担していただくしか・・・」
傍らには大家が立っているわけで、担当者は、言いにくそうにそう言った。
同時に、言われた方の大家は、“なんでそういうことになるの?”と不満とともに不安気な表情を浮かべた。

「あ~そぉ~・・・・・じゃ、払わない!」
「今まで払った家賃だけで充分に儲かってるはずだから!」
「そもそも、こんなボロアパートで高い家賃とって、悪いと思わないの?」
「文句があるなら、警察でもどこでも行ってやるよ!」
“最後は大家が負担するしかない”ということを知った男性は、悪知恵を働かせ完全に開き直った。
そして、誰も予想しない一言・・・常軌を逸した暴言を吐き、その場の空気を凍りつかせた。

何という言い草・・・理性というものを持ち合わせていないのか・・・大家の面前で、よくもまぁ、そんな乱暴なことが言えたもの。
これには、大家も担当者も唖然・絶句。
思いもよらない返答に頭が真っ白になったのか、はたまた、言い返したいことがあり過ぎて言葉に詰まったのか、二人は無言のまま。
不気味な余裕顔を浮かべる男性とは対照的に、ただただ顔を引きつらせるだけだった。

この程度の揉め事は、裁判沙汰にするほどのことでもなく、かといって、黙って泣き寝入るのも悔しすぎる。
しかし、残念ながら、この手の人間は、かなり厄介。
一般的な常識・良識・社会通念は通用しない。
もっというと、公の法律も。
“自分がどう思われるか”なんてまったく気にせず、警察が関与するような犯罪行為でなければ、堂々とやってのける。
結局、話は男性のペースで進み、その場は、善悪の感覚が麻痺してくるような雰囲気に包まれていった。

私は、社交辞令的な会話は苦手なクセに口が減らないタイプの人間。
そのやりとりを見ていて、男性に言ってやりたいことが、闘志とともに次から次へと頭に湧いてきた。
が、私は、まったくの第三者。
“男性 vs 大家・担当者”に口を挟める立場にない。
男性に対する怒りと参戦できないもどかしさに苛立ちを覚えた。

しかし、こんな男を相手にストレスを抱えるのはバカバカしい。
“参戦できないなら離脱した方がいい”と考えた私は、一応の用事を済ませるため、攻防を繰り広げる三人を横目に、目視で家財を簡単にチェック。
そして、右手にペン、左手にファイルを持ち、見積書を制作。
どちらにしろ、男性が、故人のために身銭を切るつもりがないことは ほぼ明白。
また、病院や葬儀社への代金をキチンと支払ったかどうかも怪しく・・・
どう考えても、この案件が仕事(契約)になる可能性はかぎりなくゼロに近く、私は、無駄足を喰わされた不満の中で見積書を書いていった。

同時に、私は、仕事とはいえ“もう、この男性とは関わり合いになりたくない”と思った。
万が一、契約が成立して作業を実施したとしても、契約外の雑用を命じられたり、事後に値引きを迫られたり、また、横柄な態度や、礼儀をわきまえない言動も変わらないはずで、作業中や作業後に不快な思いをさせられることが容易に想像できたし。
それだけなら まだマシで、代金をまるごと踏み倒される可能性も考えられた。
結局のところ、この仕事は、気持ちよく、また安心してできないと判断。
で、やる気なく、かたちだけの見積書をつくって、男性に差し出した。

「え!?そんなにかかるの!?」
「オイオイ、そんなにかかるわけないだろぉ!」
男性は、まったく予想通りの反応。
ただ、これ以上、不愉快な思いをするのはまっぴら御免。
交渉に応じて商談を進めるつもりなんか更々なく、
「これでご検討下さい」
「必要があったらご連絡ください」
と、一方的に話を締め、そそくさと現場を引き揚げた。

「当然」というか・・・結局、契約には至らなかった。
だから、その後、あの案件がどうなったか、男性がどうしたかは知らない。
ただ、一悶着も二悶着もあったはず。
ともなって、関わった人は、皆、気分の悪い思いをさせられたことだろう。
大家をはじめ、実害を被った人もいたと思う。
一つの仕事を逃したものの、いち早くそこから離脱した私は、何度思い返しても、その判断が間違っていたとは思わなかった。


今回のブログ、わざわざ前後篇に渡って長々と書いた割に、その内容は、ただの男性への悪口。
その厚顔無恥ぶりは反面教師の上をいっており、表面上、得るものは何もなし。
しかし、この無意味なブログからも、何かが読み取れるかも。
自分にも似たようなところがないか・・・
これまでの人間関係や生き方に省みる余地がないか・・・
無意味な記事に意味を探すこともまた、「特殊清掃 戦う男たち」の一趣一嗜(?)。

“自分は厚顔無恥な人間じゃない”と思いたい私は、無理矢理そんな風に考えて善人でいようとする・・・
・・・実のところ、厚顔無恥な人間なのかもしれない。



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厚顔無恥 ~前篇~

2020-06-30 08:30:37 | その他
外出時のマスク着用が当然のエチケットになっている今日この頃。
一時のマスク不足は解消され、街でもフツーに購入できる。
結局のところ、やっと届いたアベノマスクも用をなさず。
“かかった大金が、もっと有効に使われていたら”・・・と思うと、何とも歯痒い。
自分の努力や忍耐力ではどうにもできないところで困窮している人がたくさんいるのだから。

そんなアベノマスクが可哀想になるくらい、既に、市中には多種多様なマスクが出回っている。
で、昨今は、冷感マスクとか、暑さに強い素材のもの、また、呼吸がしやすいものが注目されている。
人気商品になると、ネットでも店頭でもなかなか手に入れることができない。
私は、ずっと不織布の使い捨てマスクを使っているけど、汗で濡れると、鼻口に貼りついて まともに呼吸ができなくなってしまう。
で、たまにポリエステル製のモノを使っている。
もちろん、ネット弱者のうえ、店に並ぶヒマもないから、その辺の量販店で売っている安物を。
それでも、不織布に比べると、随分と快適である。

しかし、疑問もある。
それは、マスク本来の機能。
「呼吸が楽」ということは、フィルター機能が弱いのではないだろうか。
いくら呼吸が楽でも、涼しくても、ウイルスが筒抜けではマスクを着ける意味がない。
顔が暑くなるのは困るけど、ウイルスが通り抜けてくるはもっと困る。
頻繁に流れるマスク紹介のニュースは、快適性やデザインばかり注目し、肝心のウイルス対策の機能についてはほとんど触れない。
取り扱っている会社は一流企業も多く、「金になればそれでいい」「売れればいい」等とは思っていないはずだけど、品質や機能についてもキチンとした説明がほしい。
ま、そこのところは、価格とのバランスもとらなければならないのだろうから、各メーカーの良識に任せるとして、この辺で、“顔が暑い”話から “ツラが厚い”話に移ろう。


見積調査を依頼された現場は、老朽アパートの一室。
用向きは家財生活用品の片付け。
間取りは1K。
暮らしていたのは70代の男性。
長患いの末、病院で死去。
その住まいには、古びた家財だけが残されたのだった。

依頼者は故人の弟。
アパートの賃貸借契約の連帯保証人。
「いくらかかる?」
「見積は無料なのか?」
と、当初の電話は金銭的な質問ばかり。
早い段階から“金銭にシビアな人物”ということが見て取れ、
“ただの冷やかしじゃなきゃいいけどな・・・”
そう思いながら、私は、依頼者の質問に応えた。
ただ、“できるだけ費用は抑えたい”と、何事においてもそう思う庶民感覚は充分に理解できる。
私の気に障ったのは金銭的なことではなく、男性の態度と その口からでる言葉。
フレンドリーなタメ口ならまだしも、偉そうなタメ口。
声からして明らかに私の方が年下で、暫定とはいえ、男性は“客”で私は業者。
それでも、私は、初対面の人間にタメ口をきくような礼儀を知らない人間は好きではない。
相手の心象なんかお構いなしに、デカい態度でタメ口をきく男性に、強い不快感を覚えた。

どの世界にも、まだ客になってもいないうちから客面する人間はいる。
私の業界でも珍しくなく、そこら辺は割り切らないと仕事にならない
で、男性は、現地調査の日時も一方的に指定。
多くの依頼者は、希望の日時を持ちながらも、こちらの都合も聞いてくれるのだが、男性に私の都合なんか関係なし。
この類の人間には社会通念は通用しないことが多い。
余計なことをいうと話がこじれて無駄に長くなるだけなので、私は、男性の指定した日時に素直に応じ、現場に出向く約束をした。

日時が決まったら、次は場所の確認。
現場の住所を訊ねると、男性は「○○区○○町○丁目○号○番地」と返答。
建物名を訊ねると、「何だったっけなぁ~・・・思い出せない・・・古いアパートの2Fだから来ればわかるよ」とテキトーな返事。
ただ、今はカーナビも高性能だし、スマホの地図アプリも使える。
その昔、私がこの仕事を始めた頃は、カーナビやスマホはおろか、一般人は携帯電話さえ持っていなかった時代。
当時は、ポケットベルと縮尺100万分の1地図でフツーに仕事をしていた。
それが当り前だったわけだから苦も無くやっていたけど、それに比べれば全然マシ。
番地までわかれば目的のアパートは難なく探せるはず。
現地で待ち合わせることができればいいだけのことなので、アパート名は不明のまま電話を終えた。

約束の日、私は目的の住所に出向いた。
幹線道路に面した場所で、近くに駐車場はなく、私は離れたコインPに車を停めて、そこから歩いていった。
しかし、教えられていた場所に、それらしき老朽アパートは見当たらず。
ただ、その周辺には何棟かのアパートが建っていたので、“このうちのどれかだろう”と思って、約束の時刻が近づくまで待機。
そして、前触れもなく遅刻するのは失礼なので、約束の時刻の10分前になって男性に電話をかけた。

「今、近くにいるはずなんですけど、どのアパートですか?」
すると、
「俺も、今、来たところ」
とのこと。
しかし、その周辺にそれらしき人影は目につかなかった。
それで、私は、建物の色や特徴、更には周囲の景観を訊ねた。
相変わらずの言葉づかいが気に障らなくはなかったけど、それよりも、男性が説明するアパートの特徴も、周辺の景色も、私がいる場所と噛み合わないことが気がかりに。
どうも、まったく別の場所にいるようだった。

そこで、教えられていた住所を再確認。
すると、「○丁目○号○番地」の「○号○番地」の部分が違っていた。
紛らわしい数字ではあったが、明らかに男性のミス。
しかし、男性の誠実性を疑っていた私は、男性が私に濡れ衣を着せようとすることを予感。
当然、そんなことされたらたまらないので、
「確か、“○丁目○号○番地”っておっしゃってましたよね!? メモを復唱して確認もしましたし!」
と、間髪入れずに先手を打った。
そう言われた男性は、自分が間違っていたことを認めざるを得ず。
だが、しかし、
「とにかく、○丁目△号△番地だから、そこに来て!」
と、悪びれた様子もなく、これまた一方的に指図してきた。

当然、私はムカッ!ときた。
ただ、仕事は仕事で進めなければならず、抑えきれるくらいの苛立ちを覚えながら、私はスマホを再検索。
画面に映された地図を凝視し、そこまでのルートを目で追った。
もともと、“○丁目”まで同じなわけで、新しく示された場所はそこから数百メートルのところ。
わざわざ車を使うほどでもなく、私は、そのまま歩いて訂正された住所へ向かった。

目的の番地には、ものの数分で到着。
しかし、そのエリアには、アパートらしき建物がまったく見当たらず。
先程とは違い、隣接する番地にもアパートはなく、町工場やオフィスビルが建ち並んでいるだけ。
更に、その周囲は道路や空地。
それ以上 探しようがなかった私は、再び男性に電話をかけた。

「今、教えられた番地にいるんですけど、この番地は、会社の事務所になってますけど・・・」
すると、
「そんなはずないよ! ちゃんと探してんの?」
とのこと。
ただ、私がいる場所周辺に住宅はなく、どこからどう見ても違っていた。
で、その地域は、町名の前に「西」がつく町もあるところもあることに気づいた私は、
「もしかして、○○町じゃなく、西○○町の間違いじゃないですか?」
と問いただした。
しかし、男性は
「間違ってないよ! 周りをよく見てみなよ!」
と、私の話もろくに聞かず、そう言い張った。

そうして問答することしばし、男性のもとにアパートの大家が現れた。
男性と話していてもラチがあかないと思った私は、大家に電話を代わってもらった。
そして、アパートの周囲に目印になるようなモノがないか尋ねた。
が、やはり大家とも話が噛み合わず。
ただ、大家はすぐにピンきたようで、
「もしかして、あなた、○○町にいるんじゃないの!?」
「うちは西○○町ですよ!?・・・西!○○町○丁目△号△番地です!」
と、少し呆れたように、真正の場所を教えてくれた。

やはり、町名が違っていた。
“やっぱりそうだろ!?”
“だから、何度も確認したんじゃないか!!
“それを、ロクに確認もせず、偉そうに言い張って!”
私が湧いてくる不満を収めきれず、内心でブツブツ。
大家から男性に電話を戻してもらい
「やはり、町名が違っていたみたいですよ!」
と、嫌味を込めつつ、男性に非があることを理解させようとした。
それでも、男性は平然。
「とにかく、さっきから待ってるんだから、はやく来てくれる?」
と、詫びの言葉一つも入れないで、まるでケンカを売っているかのような言葉を返してきた。

当然、私はムカムカッ!ときた。
それでも、一仕事が待っている身。
約束に時間に遅刻してしまうことは避けられなかったけど、こんな時こそ、焦らず、慌てず、イラつかず、冷静に行くことが大切。
私は、二~三度 深呼吸して後、“もしかしたら、このまま歩いて行けるかも”と期待を込めてスマホを検索した。
しかし、残念、画面はやたらと長い道程を表示。
真の場所は、そこから3kmばかり離れていた。
ウォーキング好きの私でも30分はかかる。
私は、徒歩で行くことを諦め、離れたところに停めていた車のもとへ。
無駄になった駐車料金を精算して、再び車に乗り込んだ。

やっとのことで現場アパートに到着した私。
自分に対しても人に対しても時間にうるさい私は、結構なストレスを抱えていた。
結局、最初の約束時刻から30分の遅刻。
現場には、大家をはじめ、管理会社の担当者も来ていた。
待たされたことに不満を覚えていたのか、男性は外にでてタバコを小刻みに吹かしていた。
私に非がないことは明らかだったが、立場上、私の方から頭を下げた。
一方の男性は、頭を下げるどころか、例によって詫びの言葉ひとつもなし。
当り前のような顔で、「ちょっと見てくれる?」と二階の部屋を指差し、私を急かした。
その厚かましい態度に、当然、私はムカムカムカッ!ときた。
が、そこは仕事場。
“我慢!我慢!”と自分に言いきかせ、内心を表に出さないように気をつけた。

しかし、そんなストレスをよそに、男性の厚顔無恥ぶりは、とどまるところを知らず。
この後、さらにエスカレートするのだった。
つづく




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一寸先

2020-06-24 08:44:23 | 浴室腐乱
やっときた“アベノマスク”、もういらない“アベノマスク”。
周囲にも、それらしきモノを使ってる人を見たこともない。
TVで観る政治家の一部が仕方なさそうに着けている布マスクがそれなのだろうが、そのサイズは明らかに小さい。
本来なら、鼻の上から顎の下までスッポリ覆われなければならないはずなのに、あの小ささは、昔よく見た(?)エロ本の水着級で、貧相を通り越して卑猥に見える。
「何かの冗談か?」と思ってしまうくらい。
安直発想の企画立案、欠陥品だらけの開発製造、いつまで経っても届かない配達頒布、すべてにおいて大失敗ではないか!
おまけに、多額の税金が突っ込まれているわけで・・・
“善意でやったことなら赦される”と思ったら大間違い、世の中には“過失責任”というものがある。
この大コケの責任は、誰がどうとるのか。
ただ、世間の雑音は当事者の耳には届かないだろう。
人間というものは、権力をつかむと“背徳性難聴”を患いやすいようで、都合の悪いことは聞こえないらしい。
また、“部分性視覚障害”も併発しやすいのか、都合の悪いものは見えないらしい。
結局、先を読めなかった御上の責任は、「アベノマスク」なんていう不名誉な名前によって静かに相殺され、“なかったこと”にされるのだろう。

定額給付金の申請書、私のところには6月1日に届いた。
で、早速、返送。
入金がいつになるかわからないけど、助かることは助かる。
しかし、得した気分にはなれない。
先々、徴税というかたちで、この何倍もの金額が課されるのだから。
それはさておき、まずは温泉旅行にでも行きたいところだけど、寂しいかな、気持ちにも懐にもそんな余裕はない。
今のところ減収には至っていないけど、“一寸先は闇”。
私は、もともと、余裕のある生活をしているわけではないけど、この先に待ち受けているかもしれない経済苦を考えると、生活資金は少しでも多く手元に置いておきたい。
給付金は一時的に貯蓄に回った後、結局のところ、生活費としていつの間にか消えていくのだろうと思う。
ま、筋金入りの守銭奴の私は、節約生活は苦にならないので、これからも“ケチ道”に邁進するのみだ。


重症の“汚腐呂”が発生。
現場は、公営団地の一室。
依頼者は初老の女性で、亡くなったのは女性の弟。
無職の一人暮らしで近所づき合いもなかったため、長期放置。
で、遺体は腐敗溶解し、浴室は凄まじい光景に変容。
遺体も浴室も、とても一般人が見られる状態ではなく、女性は、警察からも「見ないほうがいい」と忠告を受けていた。

このレベルで汚損してしまった浴槽設備は、清掃消毒をしたところで再び使えるようにはならない。
浴槽内側には遺体液の色素が沈着し変色したままになる。
給湯設備内にも汚物や異物が侵入し、それをきれいに除去することは困難。
仮に、きれいに掃除できたとしても、次に入居する人が気にしないとは思えない。
並の神経では、そんな経緯のある風呂は入りたくないだろう。
結局、浴室設備は一切合切、新しいものに入れ替える必要がある。
ただ、解体処分される浴室設備とはいえ、そのままの状態では何の工事もできない。
できるかぎりの清掃・消毒をしないと、工事業者も仕事ができない。
で、特殊清掃の出番となるのである。

“浴室死亡”って、居室死に比べれば少ないけど、そんなに珍しいことではない。
中でも、浴槽に浸かったまま亡くなるケースは多い。
そして、それがそのまま放置されるとどうなるか・・・
経過時間や湯温にもよるけど、相当なことになる・・・
“24時間風呂”等、湯温が自動的に維持される仕組みだったりすると、それはもう・・・
その昔、文章を書くことに慣れていなかった頃は、“煮込系の肉料理”で表現したこともあったけど、当然、実際は そんな生易しいものではない。
同時に、放たれる悪臭がどれほど深刻なものかも 言うまでもない。
浴槽死亡の場合、部屋死亡の場合とは異なった独特の生臭さがある。
私が嗅ぐケースとしては部屋死亡の方が圧倒的に多いから、“慣れ”の問題もあるのだろうが、これが、結構 腹にくる。
結局のところ、不気味さや悪臭はハンパなレベルではなく、常人を寄せつけない威圧感を放つのである。

この故人も、浴槽に浸かった状態で死亡。
ただ、その死因はちょっと違っていた。
それは、“溺死”。
通常は、脳梗塞は心筋梗塞等、脳血管や心臓の疾患での突然死。
しかし、故人はそうではなく、上半身は湯をはった浴槽の中に突っ込み、下半身は洗い場に残し、前屈したような姿勢で亡くなっていた。
風呂に入ろうとしたところで何かの病気を発症し、そのまま浴槽に向かって倒れ込んだのだろう。
しかし、腐敗がヒドくて、解剖もままならず。
生前から脳血管系の疾患があったことはわかっていたものの、死因は“事件性のない溺死”となった。
最期、故人が苦しんだのかどうか・・・
多分、突然に意識を失ったのだろうから、苦しまずに逝ったことが想像されたが、“上半身だけ湯に浸かっての溺死”って、無理矢理、水中で頭を押さえつけられたような光景がイメージされ、ヒドく気の毒に思えた。

故人は、もともと高血圧症で降圧剤を服用。
酒は飲まなかったが、高血圧の大敵であるタバコをやめず。
また、生活習慣の改善にも取り組まなければならなかったのに、それも満足にやらず。
たまの電話で忠告する女性にも、自分に都合のいい言い訳ばかりしては、体調については「そんなに悪くはない・・・」と言葉を濁していた。
数か月前、路上で倒れ、通りすがりの人に助けられて救急搬送されたこともあったらしい。
この時は、軽症で事なきを得たのだが、以降も、それを教訓にすることなく不摂生な生活を送った。
そういった具合だから、急に倒れるリスクは常にあった。

浴室から漂ってきているのだろう、玄関を開けると汚腐呂特有の異臭が私をお出迎え。
更に、明りのない室内の薄暗さが、不気味さを演出。
私は、ゆっくり歩を進めながら、壁のスイッチを一つ一つ押して明りを灯していった。
そして、この後に受けることになる衝撃に備え、それまでに遭遇した幾つもの“汚腐呂”を思い浮かべながら、メンタルのウォーミングアップをはじめた。

玄関を入って進んだ廊下の左側に洗面所があり、問題の浴室はその脇。
遺体を引きずり出した際に汚れたのだろう、手前の洗面所の床や浴室扉の枠にも汚染痕。
そこからは、遺体を搬出する際の難儀がうかがえた。
全身ズルズル、膨張溶解して、大人二~三人がかりでも容易に持ち上げらなかっただろう。
しかも、頭部はまるごと湯に浸かっていたわけで、その形相は、例えようもなく恐ろしいものに変容していたはず(故人を愚弄しているわけではない)。
その昔は、そういった作業は、葬儀屋が“仕事欲しさ”でやらされることがほとんどだったようだが、最近では、コンプライアンスの問題(警察と葬儀社の癒着)で警察自らの手で行うようになっているらしい(実のところは不明)。
とにかく、誰がやるにしても、その作業が超過酷であることに変わりはない。
私は、見ず知らずの誰かがやったその作業を労いながら、同じような労苦を味わうことになる自分を励ました。

私は、浴室の前で停止。
明りを灯すと、扉越しに中の色がボンヤリと映し出された。
普通の浴室なら、だいたい白っぽく見えるはず。
しかし、この浴室は全体的に黒。
それは、本来の浴室にはないはずの大量の何かがあることを示唆。
それが、扉を開けなくてもわかるくらいで、私は、微かに期待していた“軽症”を諦めざるを得なかった。

高まる緊張感を無視して浴室の扉を開けると、そこには凄まじい光景が・・・
浴槽の淵には皮膚や頭髪がベッタリ・・・
下半身があった洗い場には、茶黒の腐敗粘土・・・
重厚な悪臭を放っていたことは言うまでもなく、警察が女性に「見ないほうがいい」と言ったのは大正解!
衝撃的な光景が精神を患わせ、あまりの悪臭が胃まで吐き出させるくらいに腹をえぐってきただろうから。
もちろん、“非日常”を楽しむ余裕はないものの、私は、悲惨な光景も、凄まじい異臭も、ほぼほぼ慣れている。
あと、止まって見物していても仕方がないわけで、床の汚れに気をつけながら浴室に足を踏み入れ、浴槽に顔を近づけた。

ゆっくり湯に浸かろうとしていたのだろう、浴槽にはタップリの水。
もちろん、上半身の多くが溶け込んでしまっているわけだから、凄まじい汚水に変容。
コーヒー色に濁り、その水面は黄色い脂が覆い、水中には得体の知れない異物が浮遊。
当然、浴槽の底なんか見えるわけはなく、視界は ほぼゼロ。
ただ、底の方はヘドロ状態で、身体の何かしらが沈んでいるに決まっている。
水の色の濃度と浮遊物から大方の判断はできるので、見通せなくてもわかる。
水の中に何が溶け込んでいるのか、何が残留していそうなのか、“汚腐呂屋”の私には容易に想像できるものだったけど、できることなら想像したくなかった。

汚水の濃度や中身によって作業の難易度は大きく変わる。
もちろん、ドロドロじゃなく、できるだけサラサラである方が助かる。
汚染レベルを確認するため、ゆっくりかき回してみると、視界の悪い汚水の中なら白いクラゲのような物体がいくつも舞い上がってきた。
見慣れていればすぐわかる、それは、故人の身体から剥がれた皮膚。
水死体特有の現象で、長く放置すると遺体は“脱皮”する。
ふやけてサイズアップした皮膚が、手の場合は手袋のように、足の場合は五本指靴下のように、スッポリ抜けるのだ。
所々が破れてしまい 五本指すべてが揃っていたわけではなかったが、爪まできれいに残っており、指関節の曲がり具合も実物そのもので、それがあまりにリアルなものだから、そんなことあるはずないのに、“手が落っこちてんのか?”と驚くくらいだった。

この状況、どう見たって簡単な作業にはなりそうにない。
見たくないものを見、嗅ぎたくないものを嗅ぎ、触りたくないものを触らなければならない。
仕事とはいえ、こんな現場で気分が乗るわけはない。
それでも、やらなければならない・・・憂鬱と戦いながら、自分が生きていくために。
ただ、作業が進めば進むほど、先が見通せてくるから、気持ちが楽になってくる。
同時に、憂鬱感は薄らいでいく。
浴槽の底が見えてくると もうこっちのもの、“峠を越した”感じて、気持ちに余裕がでてくる。
そのうちに憂鬱な気分は消えていき、達成感や爽快感が湧いてくる(こんな現場で“爽快感”ってのも変だけど)。

作業中、私は、独特の緊張感や恐怖感を覚えながら、何度も汚水に手を突っ込んだ。
そして、視界に浮遊してきた“故人の手”を自分の手で掴み取った。
そのとき、汚物に怯え、汚物を嫌悪していたはずの私に、生身の人と握手したみたいな妙な感覚が走った。
同時に、この汚物が、自分と同じ人間であったことを、人として生きていたことを再認識した。
しかし、それは、実態のない、ただの皮。
水から上げると、一瞬で無実態・無重量に。
その様は、生死の境に建つ壁は、自分が思っているほど高くなく、自分が思っているほど厚くなく、ただ、細い線が一本引いてあるだけのような状態であることを表しているかのように感じられて、“いずれ、皆 死ぬ・・・”“それでも、今 生きている!”と、ひと時ではあったけど、私から余計な憂いを取り去ってくれた。


すべては、自分が蒔いた種、自業自得。
決して、好きでやっている仕事ではない。
辞められるものなら辞めてしまいたい。
「なんでこんなことになってしまったのだろう・・・」と、この人生に自問する日々。
しかし、私は、この仕事、過酷であればあるほど、生きていること、生かされていることを実感する。
そして、これまで私に与えられてきた無数の恵と自分を取り巻く無数の幸を再認識して、そのありがたさを痛感する。

一寸先は闇か、光か。
それを決めるのは自分であったり、自分でなかったり。
自分次第の部分もあれば、自分の力が及ばない部分もある。
それでも、時間だけは過ぎていく。
明るい未来を想像(創造)しにくい昨今ではあるけど、一日一日の出来事を積み重ねて、一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎ、一年が過ぎ、一生が過ぎていく。

見えない先には不安しかない。
しかし、わかっているはず・・・人生、ずっと真っ暗闇ではないことを。
まずは、一寸先・・・一寸先に集中。
私は、明るい明日を掴み取るため、必要なだけの勇気と小さな希望をもって、一寸先も見えない汚水に手を入れるのである。


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崖っぷち

2020-06-18 09:01:26 | ゴミ部屋 ゴミ屋敷
ある日の深夜、電話が鳴った。
「掃除をお願いしたいんですけど・・・」
声の感じからすると、30代くらいに思われる女性。
「知り合いに部屋を貸していたら、汚されてしまって・・・」
訊きもしないのに、そういって語尾を濁した。

これまで、似たような電話を何本も受けてきた私は、“知り合いに部屋を貸していたら・・・”というセリフにピンときた。
これは、よくあるパターン・・・ほとんどのケースで、それはウソ。
昼間でもいいはずなのに、間夜中にかけてくるというのも不自然。
他人がしでかしたことなら尚更。
実のところ、ゴミ部屋をつくったのは、知り合いでも何でもなく本人。
それが、羞恥心に耐えられず、第三者のフリをするのである。
ただ、そこのところは、契約前の電話問い合わせに影響するものではないから、真に受けたフリをして話を聞くのが、ある種の礼儀なのである。

また、夜中の電話は、“急を要している”ということを示唆している。
緊急事態でなければ、寝静まっている夜中にわざわざ電話してこなくてもいいはずだから。
もちろん、その事情は色々ある。
腐乱死体、自殺、汚物嘔吐、汚水漏水、動物死骸、トイレ掃除etc・・・
中には、「ゴキブリが出た!」といった、呆れた電話もある。
夜遅く、飲んだ帰り道、もよおしてきてしまい、どうしても我慢ができず、通りすがりのマンションの物陰で脱糞していたところを住人に見つかって警察に通報された人もいた。
で、住人から「すぐに掃除と消毒をしろ!」と言われて、当方に電話してきたのだ。
悪意ではなく便意が問題を引き起こしたわけで・・・本人は困り果てているにも関わらず、その時は、同情心とおかしさが同時に込みあげてきた。

ただ、この女性の依頼はこの類にあらず。
経験にもとづいて推察したところ、現場は“ゴミ部屋”。
しかし、ゴミなんて、数週間くらいでは、たいした量にはならない。
相当な量に達するには、相応の年月・月日がかかる。
長期間で出来上がるものだから、“急を要する”なんてことは考えにくい。
とはいえ、それが、いきなり、緊急事態に陥ることが、ままあるのである。

それは、建物設備の定期点検。
分譲・賃貸問わず、一般のマンションならどこでも行われているもの。
そして、そういうものは、事前に通知される。
共用部の場合は、理事会を通して各住人に口頭伝達されると同時に、エントランスの掲示板やエレベーター内に掲示告知される。
そして、専有部の場合は、当該住人に個別に通知され日時調整がなされる。
マンション全体のメンテナンスに関わることだから、住人は個人の事情でそれを拒むことはできない。
点検業者と都合を合わせての在宅が原則だけど、仕事等で在宅できない場合は、入室承諾書等を書いて入室を許可する運びとなる。

しかし、女性は、これを無視し続けてきたのだろう。
一方の管理会社だって素人ではなく、これを不審に思わないはずはない。
頑なに点検を拒み続けるには、それなりの理由があることくらい容易に想像できる。
そして、その“理由”とは、“部屋が、人に見られたらマズイ状態になっているから”ということも。
漏電・漏水・ペット・異臭騒ぎetc・・・事故でも起こって、管理責任を問われると管理会社も困る。
必要に迫られた管理会社は、結局、「不在の場合は合鍵を使って入る」と、女性に最終通告を発したものと思われた。

最後通告は、入室予定の何日も前、余裕をもった日付が設定されたはず。
“通告の翌日に入室”なんて急なことはなかったと思う。
しかし、女性の怠惰な性分は変わらず。
一時的に慌てただけで、直ちにアクションを起こすことなく、その結果、ジリジリと崖っぷちへ。
そして、ギリギリになってようやく尻に火がつき、ネット検索。
作業してくれそうな業者をシラミ潰しに当たり、そうしてヒットしたうちの一つが当社だったのだろう。

“年貢の納め時”がきたのか・・・
ゴミ部屋が発覚すると、大家や管理会社を巻き込んでの大騒動に発展する。
早急にゴミを片づけさせられることはもちろん、清掃消毒、リフォーム等、原状回復の責任を負わされ、挙句には追い出されてしまう。
そういった一連のプレッシャーが圧し掛かっているだろう、女性は、ヒドく焦っている様子。
「いくらかかりますか?」
「いつ来てもらえますか?」
と、しきりに費用と工期を訊いてきた。

現場を見ないで作業内容や料金を提案することは困難。
また、現場を見ないでの見積は、後々でトラブルが発生するリスクが高い。
で、当社の場合、余程の簡易作業でないかぎり電話見積には応じていない。
そうは言っても、大まかな作業内容や概算費用くらいは応えないと、問い合わせてきた相手の期待を裏切ることにもなりかねない。
そのため、相手の要望によっては、電話の段階でも、現場の状況をできるかぎり詳細に把握する必要がある。
この案件のそうで、現地調査・見積提出をする以前に、要望の作業が責任をもって施工できるかどうかも判断しなければならなかったので、私は、その事情を説明したうえで、現地の詳細を聞き出そうと、細かな質問を投げかけた。
もちろん、女性が第三者であることを鵜呑みにしたフリをしたままで。

この女性もそうだったが、こういったケースの案件で、大方の人は、はじめのうちは軽症を臭わせる。
これには、ある種、交渉に入る前のウォーミングアップのような意味があり、業者が、どういう反応を示すのかを確かめるため、あと、早い段階で断られないようにするためだと思われる。
女性も、始めは、「浴室とトイレがちょっと汚れてまして・・・」と控えめな説明からスタート。
しかし、私の想像通り、それは、質疑応答をすすめるにしたがって変容。
これまた、私の想像通りの実状が、徐々に明るみになってきた。

やはり、状況は深刻。
部屋には、長年のゴミが堆積、結構なゴミ部屋になっている模様。
床が見えていないことはもちろん、結構な高さまで積み上がっているよう。
食べ物ゴミ、衣類、雑誌等々・・・本来なら、日々、家庭ゴミとして出されるべき生活ゴミが、そのまま溜まっていた。
とりわけ深刻なのが、トイレと浴室。
糞尿系の汚物や生理用品等、不衛生度が高いゴミはそこへ集められていた。
ビニール袋に入れた糞尿が、いくつも突っ込んであるらしい。
相当量に達しているだけでなく、悪臭も充満。
破れたビニール袋もたくさんあるはずで、かなり悲惨な状況になっているのは容易に想像できた。

“ゴミを片づけさえすれば問題は解決する”と思っていたら大間違い!
ゴミを撤去しても、部屋は、再び以前のような姿で現れることはない。
床も壁も内装建材には、相応の汚染・汚損が残り、水廻りもサビ・カビだらけでボロボロ。
浴室・トイレにいたっては、腐り果てていることだろう。
しかし、その辺をリアルに想像できる人はいない。
女性も、かかる費用と工期以外のことは、鼻で笑うくらい簡単に考えているようだった。

一つのウソをつき通すには、その周囲を多くのウソで固めなければならない。
その辺の詰めが甘かった女性は、時々、自分が“第三者”であることを忘れたかのように、そこで生活していた者でしかわかり得ないようなことも口にした。
通常、他人がつくったゴミ部屋について詳細に回答できるわけはなく、もうバレバレ。
仮に作業することになった場合、契約書には実名を書いてもらわなければならないし、室内には個人情報がタップリ詰まっているはず。
恥ずかしいのはわかるけど、作業に入ればすぐバレる。
ウソは恥の上塗りになるだけ。
いずれ恥ずかしい思いをすることになるのだから、始めからウソをつかないことが肝要。
それでも、女性は正体がバレてないつもりのようで、時々、思い出したように“知り合い”の悪口を織り交ぜて被害者を装った。

「現金での分割払いではできますか?」
状況からみて、結構な費用になりそうなことは覚悟しているよう。
しかし、たいした預貯金もなさそうで、どうも、クレジットカードも使えないよう。
精神衛生上だけではなく、与信上も問題のある人物だった。

「周囲にわからないようにできますか?」
荷物は、どうみてもフツーの家財には見えないはず。
糞尿系汚物や腐敗物も多くあるはずで、悪臭も放つはず。
管理人に問われてウソをつくと無用なとばっちりを受けるかもしれず、自己防衛上、それは困難だった。

「明日中・・・いや、もう0時過ぎてるから“今日中”ってことになるのか・・・今日中にできますか?」
“点検が入るのは明日”ということなのだろう。
切羽詰まっていることが伺えたが、現地調査もやっていない段階で作業日は決められない。
事故トラブルなく安全に施工しようと思えば、無理な話だった。

女性と会ってもいないし、現場もみていない上は、安請け合いはできない。
作業日時は、マンション管理人の勤務日・勤務時間に合わせる必要があるかもしれない。
管理規定で、引越し作業等は事前の申請・許可が必要かもしれない。
車両を停めるにも事前予約・許可が必要かもしれない。
1Fエントランス・通路・エレベーター等の共用部にどの程度の養生をする必要があるのかも判断不能。
相当の不衛生物もあるわけで、無用なトラブルを招かないため、作業を行ううえで必要な諸々のことを、管理人と打合せる必要がある。
私は、「現地調査→見積提出→契約→マンション側との打ち合わせ→施工」といった流れが必要かつ重要であることを説明し、それを理解してくれるよう促した。

しかし、女性は、理屈としてそれを理解できても感情が受け入れないよう。
“そんなことやってるヒマはない”とでも言いたげに、少しイラついた感じで
「仕事が忙しくて、明日しか時間がないんです」
と、お得意のウソっぽい返事。
その雑な考え方に危うさを感じた私は、結局、この案件から降りることに。
「ご期待に沿うことができず申し訳ありません・・・」
そういって電話を終えた。


その後、女性はどうしたか・・・
多分、その後も寝ずにネットを検索して、やってくれる業者を探したことだろう。
女性の要望に応えられる業者がいたかどうかは知る由もないけど、普段からキチンとした仕事をやっている業者は請け負わない思う。
仮に施工業者が見つかったとしても、施工条件も厳しく安易度も高い仕事なわけだから、高額な料金を見積もられた可能性が高い。
女性は資力が乏しいようだから、その辺のところは引っかかっただろう。

可能性として高いのは、結局、どうすることもできず朝を迎え、何も策を打つことなく予告通り点検業者に踏み込まれた・・・
そして、私が想像したような大騒動になった・・・
同時に、女性は、“もっと早く手を打っておくべきだった!”“その前に、日常でゴミをキチンと片づけていればよかった!”と、自業自得を痛感しつつ、後悔の念に苛まれた・・・
しかし、もはや手遅れ・・・自分を甘やかしてきたツケを払うかたちで、厳しい現実に苦悩することになったのではないかと思う。


やらなければならないことを放っておいて、期日ギリギリなって慌ててやる。
どうせやらなければならないことなら、さっさとやってしまった方がいいに決まっているのに。
しかし、自分の怠け心がそれを邪魔する。
そのうちには、自分が自分に、都合のいい言い訳をし始める。
もっといくと、やらなくても済むような逃げ道を探し始める。
こういう類のことは、多かれ少なかれ、誰しも身に覚えがあるのではないだろうか。
面倒臭がりの私も、これまで幾度も、自分で自分を崖っぷちに追いやったことがある。
「学習能力がない」というか、「教訓を生かせない」というか、懲りずに何度も。

一方、自分に起因しないことで崖っぷちに立たされることもある。
このコロナ渦がまさにそう。
今、これで苦境に陥っている人はあまりに多い。
飲食・レジャー・観光・イベント・エンターテイメント・スポーツ・・・多くの業種業界に多大な悪影響を及ぼしている。
社会の底、世間の陰、世の中の隙間で小さく生きている私にさえ影響があるのだから、事態は深刻だ。

これからくる第二波・第三波・・・
それがどんな影響を及ぼすのか、考えると恐ろしい。
だけど、私なんかよりもっと深刻な状況で戦っている人達がいる。
顔も名前も知らない多くの人達が苦境と戦っていることを思うと、心細さが薄れ、心強さを感じる。

「人生なんてアッという間!」
「崖っぷちの人生でも死ぬまでは生きられる!」
「開き直って闘志を燃やそうじゃないか!」
今、生きるために必死に戦っている“仲間”と、戦うことに怯えている自分にそう訴えたい、人生 黄昏時の私である。




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梅雨の晴れ間に

2020-06-12 08:32:10 | その他
本格的な夏を前に、蒸し暑い日が続いている。
関東圏も梅雨に入り、いよいよ、昨日からは空も曇雨気味。
毎年のこととはいえ、その不快感はなかなかのもの。
更に、今年は、コロナ雲まで垂れ込めていて、もともと鬱持ちの私の精神は、ちょっとしたことでどんよりしてしまう。
このところも、決して調子はよくなく、できることなら、涼しい部屋で、一日中 静かに横になっていたいような気分。
しかし、こんな状況でジッとしていても、状況が良くなるはずはない。
適度な運動と日光浴は鬱の改善に役立つらしいし、いつものコースには、例年通りの紫陽花がきれいに咲いている。
だから、こんな時は特に、奮起して外に出て、四季折々の草花を愛で、朝昼夕の風を感じ、生まれてくる前から変わらない空気を吸い、空の光を浴びながら身体を動かすように心がけているのである。

私が、運動を意識してのウォーキングを始めて6~7年は経つだろうか。
冬場は陽の高い日中に、この季節は早朝に。
たまに違うコースを歩くことはあるけど、ほぼ決まったコースを歩いている。
時間があるときは約一時間で約6km。
限られた時間しかないときは30~40分程度で3~4km。
やや早歩き、わずかに息があがる程度で。
原則として雨天でははやらないけど、精神が弱っているときは雨天でも決行。
スニーカーがグジュグジュに濡れるのを承知のうえで。
雨が強いときは、ゴム長を履いて傘をさしてでも歩く(かなり歩きにくいけど)。

いつものコースは歩行者と自転車専用で、緑多い景色もきれいで、とても歩きやすい。
その上、コロナの影響もあり、この春からはウォーキングやジョギングをする人が明らかに増えた。
健康志向は歓迎できるものだけど、「屋外は感染リスクがない」「屋外なら“密”を気にしなくても大丈夫」と、大きな勘違いをしている人も多いように思う。
感染リスクを変えるのは、“屋外or室内”ではなく、あくまで人との“距離・接触度”。
また、「自分が保菌者かもしれない」という危機意識も欠落しているように思う。
いくら外出規制が緩和されているからといっても、ノーマスクでの外出は禁物。
特に、ランニング・ジョギングなど、ハードな運動をしている人には着用を強くお願いしたい。
息苦しいのはわかるけど、ノーマスクで“ハァ!ハァ!”と息を吐きながら傍を走られると不快な気持ち悪さを感じるし、事実、ウイルスは、咳をするよりも広く拡散するらしいから。
また、“かつての日常を取り戻しつつある”といった世の中の雰囲気に圧されているのだろう、街中でもマスクを着けていない人が多く目につくようになっている。
“東京アラート”が解除され、それはそれで歓迎できることだけど、常識を共有できない人達がはじけ過ぎないか不安に思う。
とにもかくにも、ジョガーだけではなく、市中の一般人にも、マスク着用と、人との距離を保つなどの努力が必要。
それが、この時世に求められているマナー・エチケットだから。


いつものウォーキングコースには、何人かの顔見知りがいる。
私は、見た目は実年齢相応のはずなのだが、精神年齢を反映してか、全員 高齢者。
はじめは「おはようございます」「こんにちは」と挨拶を交わすだけなのだが、何度も顔を会わせているうちに立ち止まってちょっとした雑談をするように。
お互い、名前を名乗るほどでもないのだが、それが、一人・二人と増えて、結局、人数が増えている。

私は、自己分析の結果、“自分は結構な人見知り”だと思っている。
臆病、引っ込み思案な性格で、子供の頃は特にひどかった。
今だって、仕事上のこととか特定のネタがあればそれなりに会話できるけど、そうでないとうまく話せない。
社交辞令的なフリートークが苦手なのである。
だから、酒席では、酒の力を借りることが多い。
しかし、冷静に考えてみると、テキトーに接しても大丈夫な人とは、ざっくばらんに喋れることが多い。
もちろん相手がどういうタイプの人かにもよるけど、自分から話しかけることも少なくない。

利害関係になく、新密度の浅い人との会話は、それはそれで、なかなか楽しいもの。
好き嫌い以前の適度な距離感が保たれ、差し障りのない話に終始できる。
見栄を張る必要もなく、カッコつける必要もなく、気張らずに話せる。
お互い、“いい人”のまま、無難なスタンスでいられるから、独特の心地よさがある。

その中の一人に、八十代後半の女性がいる。
歩くスピードはとてもスロー。
小柄で、丸っこいフォルムの可愛いおばあちゃん。
私が話しかけると
「若い男に話しかけられると嬉しくなっちゃうよ」
と喜んでくれるものだから、“若い”と言ってもらいたいついでに、ついつい話しかけてしまう。

まだコロナが流行る前、しばらくぶりに出会ったときに話しかけてみると、
「ちょっと温泉に行ってたのよ」
「青森に気に入った湯治場があって、毎年、そこへ行くのが楽しみでね」
とのこと。
「へぇ~・・・それは羨ましいなァ・・・」
「でも、そんなに長く行ってたら、結構なお金がかかるでしょ?」
と、思いついたまま遠慮のない質問。
「そりゃね・・・30万くらいはかかるねぇ」
「でもね、銭金がつかえるのは身体が動くうち・・・アタシなんて、いつ逝ってもおかしくないんだから・・・銭金には代えられない!代えられない!」
と、手を振りながら豪儀に笑った。
「私も、歳とったらそんな生活したいなァ・・・」
「現実は甘くないですけどね・・・」
と、安泰な老後を早々と諦めている私は、笑ってる場合じゃない現実に苦笑いした。

女性は、三姉妹の末妹。
父親は、幼少期に戦死し、母親が女手一つで三人の娘を育てた。
ごく一部に裕福な家庭はあったけど、今と違って、貧乏が当り前の時代。
ただ、片親で三人も子供がいた女性一家は、まわりと比べても一段と貧乏。
で、よその家を羨ましく思ったり、生活に不便を感じたりすることはあった。
それでも、惨めに思ったり恥ずかしいと思ったりしたことはなかった。
母親が一生懸命に働いている姿が、子供心に“誇り”を抱かせたのだった。

母親は、苦労に苦労を重ね、子供を育て上げた。
貧しくても、子供の成長を喜び、子育てに幸せを感じたことだろう。
しかし、のんびりした老後を迎えることなく、子供達が成人すると、それを見届けるように死去。
そして、それから数十年、それぞれの人生を生き抜き、高齢となった二人の姉も先逝。
一人残った女性は、
「まさか、こんな長生きするとは思わなかったよ・・・長く生きてると色んなことがあるよね・・・いいこともあれば 悪いこともね・・・」
と、何もかもが過ぎ去ったことを寂しく思っているかのように、少しだけ表情を曇らせた。

「とにかく、気をつけなきゃね・・・このコロナってヤツは、どこにコロナってる(転がってる)かわからないんだから」
と、女性は、お気に入りのギャグで話を締めて笑った。
それは、過去は“いい想い出”に変えて胸に置き、“今”を楽しく生きようとしている姿にも見えた。
そして、そのシワくちゃのドヤ笑顔は、可笑しくもあり可愛らしくもあり、ホッコリ癒されるものがあった。


予定通りにいかないのが人生。
計画通りにいかないのが人生。
生涯をとおして順風満帆って人生は、少ないかも。
理屈ではそれがわかっていても、素直には受け入れられない。
世の中が、世界がこんなことになるなんて、つい三カ月前までは、夢にも思っていなかった。
そう嘆いている人は、この日本に、この世界にたくさんいるだろう。
私も、その一人。
嘆いてばかりじゃ何も変わらないのはわかっているけど、身の回りにも、この社会にも明るい材料がない。
将来も読み切れず、私などは不満と不安だらけで、失うものばかりが頭を過る。

私は、これから、何を失うおそれがあるのか・・・
当然、若さ(既に若くないけど)と体力は失っていくだろう。
しかし、仕事、金、日常の生活は失いたくない。
その危機感があまりに強いものだから、その理由を自分なりに突き詰めてみた。
すると、私は、貧困を恐れていることが判明。
もともと金持ちではないし、高収入を得ているわけでもない。
収入が減ったって、失業したって、ワガママ言わず働きさえすれば、飢え死にするほど貧乏になる可能性は低い。
しかし、命にかかわらない貧困を恐れてしまっている、もっといえば、貧困にともなうカッコ悪さを恐れているのである。

私は、物理的豊かさを否定するものではないし、私も そのメリットを享受している一人だけど、物理的豊かさは人間の虚栄心を刺激し、物事の核心を見極める力を麻痺させる。
そして、結果的に、人間を貧しくさせる。
心身の健康、理性・正義・道徳心、信頼、友情、家族愛etc・・・金より失ってはいけないものがあるのに、私は、カッコばかりつけたがる。
既に、充分、カッコ悪い生き方をしていることは承知のうえで尚も。

“貧しいこと=カッコ悪いこと、恥ずかしいこと”といった価値観は、いつ どこで醸成されたものだろうか。
誰かに植え付けられたものだろうか、よく憶えていない・・ていうか、ひょっとしたら本能の一部だろうか。
真に恥ずべきことは、貧困ではなく、怠惰による不労、怠けて働かないことのはずなのに。
ただ、この価値観はかなり強固、簡単に変えることはできない。
一生変わらないものかもしれない、死ぬ間際にならないと変わらないものかもしれない。
しかし、自分にとってその価値観が好ましいものかどうか・・・
そこに気づき、立ち止まってみるだけでも、自分の中に新しい風が入ってくる。
そして、
「カッコ悪くたっていいじゃないか!」
と、肩の力を抜いてみると、それだけで気持ちが楽になる。

人間って、他人が思ってるほど強くなく、自分が思っているほど弱くない。
そしてまた、他人が思ってるほど賢くなく、自分が思ってるほどバカじゃない。
泣き言のひとつも言わないで、黙って忍耐することだけが美しいのではない。
愚痴のひとつも言わないで、果敢に挑戦することだけが素晴らしいのではない。
溜息のひとつもつかないで、直向きに努力することだけが尊いのではない。
泣いて 愚痴って 溜息をついて、それでも、性根に一生懸命さを持ち続けてやる姿に、人間の美しさ・素晴らしさ・尊さが映し出されるのではないか。
そして、そのカッコ悪さが、曇りがちな自分や人の人生に光を照らすこともあるのではないだろうかと思う。

梅雨の晴れ間にさす陽のように。




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底んところ

2020-06-06 08:33:38 | 腐乱死体
緊急事態宣言が解除され安堵の一息をついたのも束の間、「微増」とはいえ感染者数が増えてきている。
所々では、小さなクラスターも発生。
東京では独自の「東京アラート」なるものが発動されている。
それでも、もう我慢ならないのか、街や観光地には多くの人々が繰り出している。
感染者数が爆発的に増えなければ(?)、今月19日には(?)、一部地域から(?)、越境規制も緩和される(?)。
そうなると、人の行き来は、ますます増えていくはず。
慎重派の私は、解除の前後でほとんど生活スタイルを変えていないけど、人々のストレスと経済を考えると、無策でなければ、それはそれで悪いことではないだろう。
ただ、あれから二週間近くたつから“そろそろ大きな第二波がくるのでは?”と、不安に思っている。

知ってのとおり、世界は、健康上のことだけでなく経済的にも大打撃を受けている。
中小零細企業の倒産、解雇・失業はもとより、大企業の業績も悪化。
しかし、こんなに甚大な被害を引き換えにしてもなお、ウイルスは終息していない。
それでも、“withコロナ”ということで、各種の規制要請は次第に緩和されつつあり、“夜の街”が不安視されながらも、経済の歯車は小さいところからゆっくり回り始めている。
今のところ、外食の予定も出かける予定もないけど、行きつけのスーパー銭湯が再開しているから、行ってみようかどうか迷っている。
今、流行りの“水着マスク”を着けて行けば、大丈夫かな。
しかし、そういった、考えの甘さと軽率な行動が、感染を再拡大させてしまうのかもしれず、悩ましいところである。


何度が仕事をしたことがある不動産会社から特殊清掃の依頼が入った。
「管理するアパートの一室で腐乱死体が出た」
「“異臭がする”ということで、隣室の住人が通報」
「どんな状況か、行ってみてきてほしい」
お互いに顔を見知っている我々は、“人が死んでいる”というのに声のトーンもテンポも落とさず、不謹慎にも、時折、談笑を交えながら現地調査の段取りを打ち合わせた。

アパートが建っているのは郊外の住宅地。
近年に大規模修繕を行ったのだろう、建築から三十年近くたっているにも関わらず、それほど古びて見えることはなく、結構きれいな建物。
現場は、その二階の一室、間取りは2DK。
汚染度はライト級~ミドル級程度。
ニオイは、そこそこパンチのある濃度で放たれていたが、実際の遺体汚染はそれほど深刻な状態ではなく、床材もクッションフロア(CF)であったため、遺体痕清掃も、「特殊清掃」というほどハードな作業ではなかった。

亡くなったのは、初老の男性。
無職のため社会から距離が空いており発見が遅延。
その孤独な生活は、生活保護を受給して維持。
にも関わらず、部屋からは、故人が節度・良識をもった生活をしていたことはうかがえず。
ギャンブルのマークカードがなかっただけマシかもしれないけど、酒の空缶やタバコの空箱が転がり、整理整頓・掃除もロクにできておらず。
もともと、この類の人間を快く思わない私は、冷酷非情は承知のうえで、
「ただ、“働く気がない”のを“働けない”ってことにしてただけなんじゃないの?」
と、口の中で飼っている苦虫を噛み潰した。

訊けば、このアパートに暮らしているのは、大半が生活保護受給者。
小ぎれいな建物だし、一般の人でも暮らせる充分な間取り。
ただ、周辺には、より条件のいいアパートが乱立。
家賃が同等であれば、少しでも立地がよく、建物や設備のいい物件に人は流れる。
そういった人気物件は、黙ってても一般の入居者で埋まるわけだから、社会的・人間的にハイリスクな生活保護受給者は相手にしない。
一方、その逆で、人気のない物件はそんな“ワガママ”は言っていられない。
“空室にしておくよりマシ”ということで、生活保護受給者でも何でも入れるのである。

不動産運用って、「金持ちの道楽」とはかぎらず、一部の富裕大家を除き、庶民大家の中には、借金して投資して運用している人も少なくない。
また、月々の家賃収入が、そのまま自分の生活費になっている大家も。
空いたままの部屋は一銭の金も生まないわけで、庶民大家には、そのままにしておく余裕はない。
で、人気のない物件は、空室を埋める策として地域相場より家賃を下げざるをえず、結果として、それが生活保護受給要件(家賃の上限額)を満たして、入居契約に結び付きやすくなる。
同時に、それがキッカケで、生活保護部署の役人とパイプができ、以降もつながっていくのである。

受給者は中高齢者、持病がある人が多いため、一般の人に比べて孤独死する可能性が高いことがリスクとして挙げられるかもしれないけど、役所(税金)が生活費の面倒をみるのだから、家賃を取りっぱぐれることはない。
つまり、「経済的にはローリスク・・・ノーリスク」ということ。
結果的に、大家と入居者・役所の利害が一致し、自ずとアパートにはそういった人達ばかりが集まり、本件の類のアパートができ上がるのである。
実際、そういったアパートは街のあちこちにあり、私が、苦虫を噛み潰しながら片づけてきた現場にも、そういったアパートが多くあった。

受給者は、“中高齢者”“持病あり”といったケースが多いのだろうと思うけど、中には、そうでない人もいる。
“若年・無傷病”でも生活保護を受給している人が。
この現場の隣室に暮らす女性がそうだった。
もともと、故人が発見されたのも、女性が「隣の部屋がクサい」と言いだしたことがキッカケ。
で、「自室もクサくなった」ということで、その後、私は女性宅を何度か訪れ、女性の身辺を知ることとなった。

女性は母子家庭だそうで、3歳くらいの小さな子供がいた。
どういう経緯で生活保護の受給要件を満たしたのか怪訝に思うほど、歳は若く身体も健康そう。
会話もハキハキとしており、表面上は精神疾患があるようにも見えなかった。
ま、その辺のところは、私が詮索することではない。
私が引っかかったのは、「母子家庭」といいながらも、そこに“男”がいたこと。
平日の昼間から、スエット姿、寝ぼけた表情。
私が挨拶をしても、目も合さず無言でペコリと頭を下げるだけ。
私が考えていることが伝わったのか、フテ腐れたようにタバコを吹かしているときもあった。
消臭作業と臭気判定のため、女性宅には何度か入ったのだが、平日の昼間、いつ行っても男の姿はあった。
もしかしたら、夜の仕事をしているのかもしれなかったけど、マトモに仕事をしているような善良な雰囲気は醸し出していなかった。

どうみても男は女性親子と一緒に、この部屋で暮らしていた。
私の先入観も手伝って、想像された素性は“ヒモ”。
もちろん、誰と付き合おうが、誰と暮らそうが女性の自由。
しかし、生活保護受給者となると、その自由度は下がって然るべき。
世に中には、金銭(育児手当・児童手当・減税等)目的で、戸籍上でのみの偽装離婚をしている夫婦がいる。
もちろん、この男女がその類なのかどうかわからない。
しかし、遺体異臭がなくなった時点でも、何かよからぬことをやっていそうな人間の “人間異臭”はずっと残り、それは、クサいものには慣れっこの“ウ○コ男”の鼻をも捻じ曲げるほどだった。


これまでも、受給者の部屋を片付けたことは数えきれないくらいあるけど、酒を飲み、タバコを吸い、博打をやっていた形跡のある部屋もまた、数えきれないくらいあった。
死んだ人に悪意を抱くのは私も悪人だからだろうけど、死を悼むどころか、頭にくるような現場だっていくつもあった。
もちろん、“オフレコ”としてではあるけど、親しい役所の人間も、
「大半の受給者は詐欺師」
と言っていた。
私も、現場でのそう感じたことは多々ある。
また、個人的に付き合いのある警察官も、
「受給者に人権はいらない」
と言っていた。
私も、一般の人と比べて人権が制約を受けるのも当然だと思う。
生活保護制度についてプライベートで話すと、愚痴や悪口が、噴火した火山のようにでてくる。
世の中に、同様の意見を持っている人は多いように思う。
しかし、それは、反論の余地のない現実。
私も、私なりに、仕事を通じて感じたことが蓄積され、また、似たような不満を持っている。

これはまだ緊急事態宣言が解除される前のことだけど、とある失業者(40代男性)がTVインタビューを受けている姿が映った。
その人物は、家賃も払えなくなって住処を失いかけており、「このままだと生活保護を申請するしかない」と言っていた。
ただ、どうも求職活動はしていないらしく、それについての言及はなし。
そんな中での、“失業→生活保護”といった考え方に、私は不快感に近い違和感を覚えた。
「安直」というか「短絡的」というか「他力本願」というか「無責任」というか・・・
失業と生活保護の間には“就職活動”が入るべきではないだろうか。

確かに、羨望の眼差しを浴びるほどのキャリアや、威張れるほどの技能でもないかぎり、この時世で、再就職を果たすのは難しいかもしれない。
難儀することが容易に想像でき、前向きに就活する気分になれないのかもしれない。
また、仮に仕事が見つかったとしても、「キツい、汚い、危険」いわゆる3Kの仕事とか、気のすすまない仕事である可能性が高い。
しかし、もともと、仕事は“好き嫌い”でやるものではないし、特に今は「好き嫌い」を言っているときではないと思う。

この厳しい現実にあって、私の脳裏から「失業」という文字が消えることは片時もないけど、「生活保護」という文字は頭の片隅にも浮かんでこない。
受給要件が簡単にクリアできるような生き方はしてこなかったし、頭と外見を中心に欠陥だらけではあっても働けないほどの傷病も抱えていないし、その前に、その意思がない。
ただ、この私だって、働くのは好きじゃない。
怠けたい、楽したい、遊んで暮らしたい。
「働かなくても生きていけたら どんなにいいいだろう」って、常に憂いている。
税金だって社会保険料だって、払わずに済むのなら払いたくない。
そんなもの払うくらいなら、その分、生活に余裕をもってプチ贅沢でもしたい。
しかし、マトモに生活していくためには、そんなことできるわけがない。
しかも、どうせ生きるのなら最低限の暮らしはイヤ。
少しでも快適に、少しでも楽しく、少しでも幸せに暮らしたい。
となると、その方法は、ただ一つ。
しっかり働いて、社会的責任を果たしていくしかない。

勤労と納税は国民の義務。
社会保険料だって第二の税金で、納める義務がある。
“生活保護費”の原資は、良民の労働による血税。
しかし、受給者の多くは、まともに税金や社会保険料を払ってきていないわけで、そんなデタラメな生活をしていたから困窮したとも言えるわけで、こういうのを「理不尽・不条理」と言わずして、何が「理不尽・不条理」なのか。
そういった義務・責任を果たさないでおいて、“もらえるモノはもらう”といった盗人根性には、憤りすら覚える。

一方で、真に生活保護で守られるべき人に、本当に支援を必要としている人のところに届いていないような気がする。
邪悪な受給者が、生活保護制度の本分を歪め、良民を裏切り、受給者の品格を貶めているが故、また、こういう人達にかぎって結構な人格者だったり高潔なプライドを持っていたりするが故に、生活保護に頼ろうとしない現実もあると思う。
「人様に迷惑をかけたくない」と、仕事を二重三重にかけもちして働いている人、身体を壊すギリギリのところで節約生活を送っている人、惨めな想いに耐え忍んでいる人もたくさんいると思う。
事故や犯罪等の被害者で、自分の努力ではどうすることもできない貧困に陥っている人も。
一生懸命 働いているのに、我が子にひもじい思いをさせなければならない親の悲しさや惨めさを考えたことがあるだろうか・・・
真に社会全体で助ける必要のある人が、正々堂々と受給できるようにならなければいけないのではないだろうか。

私は、生活保護制度に反対しているわけではない。
支援が必要な人を社会全体で守る制度は必要。
しかし、“正直者がバカをみる”社会であってはならないし、ズルい人間、ただの怠け者を甘やかすだけの制度であってはならない。
しかし、現実は、“だらしない生き方をしてきた人間のズルい生活を、善良な市民が身銭を削って守っている制度”になっていやしないだろうか。
働きもせず、他人の金で飯食って、酒飲んで、タバコ吸って、ギャンブル打って、寝たいときに寝ている者が、寝る間も惜しみ、嗜好を楽しむ余裕もなく働きながらも貧困から脱出できないでいる人より楽な暮らしをしているなんて、どう考えてもおかしい。
現実の運用は、はなはだ不愉快であり、大きな不信感と違和感を持っている。

では、
でたらめに生きてきた者は飢え死にしても仕方がないのか?
だらしない生き方をしてきた者は貧乏しても仕方がないのか?
・・・ある意味で、私は「仕方がない」と思う。
少なくとも、日本は自由主義・資本主義の国なのだから。
でなければ、生活を支援する代わりに、人権に相応の制約を加えるべきだと思う。
例えば、一定の場所(言葉は悪いけど“収容所”みたいなところ)に集めて、能力に応じた労働を課すとか。
それが、一般の人が遠ざける、単純作業や重労働、3K仕事であってもやむを得ないだろう。
ただし、特殊清掃だけは除外して・・・私の仕事がなくなるから。

「オマエは、そこまでの苦境に陥ったことがないから、そこまで困窮したことがないから、そんな冷酷非情なことが言えるんだ!」
と言われるかもしれない。
確かに、そう・・・それは認める。
しかし、多くの一般市民は、そうならないために、汗かきベソかき、必死に頑張っているのである。
その頑張りによって獲た実を一方的に横取りすることも、また、人権侵害なのではないだろうか。

世の中は上にいる人達が動かしていることは承知しているけど、たまには、私がいる“底んところ”にも目を向けてほしいものである。



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尻拭い

2020-05-30 08:20:51 | 孤独死
ある日の朝、見知らぬ番号で私の携帯が鳴った。
「“とても良心的な方”ってきいたものですから・・・」
「実際にお仕事を頼むことになるかどうかわからないんですけど・・・」
「相談だけでも大丈夫ですか?」
声の主は、年配の女性。
以前から懇意にしてくれている人の紹介での、仕事の問い合わせだった。

人には人それぞれの生き様があり、人生には人それぞれのドラマがある。
そして、それをじっくり聴くのが嫌いじゃない私。
下衆な野次馬根性もあるけど、それだけじゃなく、自分にとって糧になることも多いから。
ただ、結果として、人の目には、それが“親身に話をきいてくれる”という風に映るのかもしれない。
私は、“良心的”という言葉に、小さな罪悪感と、中くらいの照れ臭さと、大きなプレッシャーを感じながら、それでも、単細胞らしく気を良くして、イソイソと現場に出かけて行った。

出向いた現場は、古い鉄筋構造の建物。
「マンション」と呼ぶには老朽低層すぎる、そうは言っても、重量鉄骨構造は「アパート」と呼ぶには相応しくない。
メンテナンスも行き届いておらず、朽ち果てるのを待っているだけのような建物。
間取りは2DK。
充分に床は露出していたけど、掃除なんか何年もしていない様子。
散らかり放題、汚れ放題、たくさんのゴミが溜まり、至るところが真っ黒・真っ茶色、ホコリだらけカビだらけ。
タバコ臭・油臭・ゴミ臭などの生活異臭も充満。
それは、そのまま故人の人格や生き様を表しているようでもあり、「男性の一人暮らしなんて、だいたいこんなもんですよ」といったセリフもお世辞に聞こえるくらい、ヒドい有り様だった。

そこで暮らしていたのは、70代後半の男性。
無職・無年金、生活保護を受けての一人暮らし。
フツーだったら、部屋の汚さに目を奪われるばかりで、そんなことは気にも留めないのだろうけど、フツーじゃない私には“ピン”とくるものがあった。
それは、そこが孤独死現場であるということ。
もともと、「孤独死現場」とは聞いていなっかたが、DKの床に敷かれた新しい新聞紙と それに滲むシミが、私にそのことを教えてくれた。

相談者は、「一応、血のつながった妹」と名乗る高齢の女性。
相談の内容は、この一室の後始末について。
故人の死を悼んでいる様子はなく、滲み出ているのは困惑の想い。
困惑の表情、怒りの表情、狼狽の表情、嘆きの表情、苦虫を噛み潰したような表情・・・色んな表情を織り交ぜながら、また、複雑な心情を滲ませながら、ことの経緯を話してくれた。


故人は女性の実兄で、若い頃からの放蕩者。
高校の頃からグレはじめ、以降、ずっと家族に迷惑をかけ通し。
自ら高校を中退して社会に飛び出たものの、コツコツ働くことができず。
どんな仕事に就いても長続きせず、トラブルを起こしてクビになることも多々。
色んな理由をつけては転職を繰り返した。
一方、飲む・打つ・買うの三拍子は勢揃い。
おまけに、ケンカや借金も日常茶飯。
収入はないくせに金遣いは荒く、両親が、借金の肩代わりをしたもの一度や二度のことではなく、親のスネは細る一方。
悪い連中と悪さをしては警察の厄介になるようなことも繰り返し、二十代も後半になると、そっちの世界にズルズルとハマっていった。

素行の悪さは近所でも有名。
で、人間という生き物も、他人のスキャンダルを好む。
故人の悪行は、近隣奥様方の井戸端会議のかっこうのネタにされ、犯罪者をみるような好奇の目は、本人を飛び越え家族にまで向けられるようになった。
特に近所に迷惑をかけていたわけでもないのだけど、そのうちに、好奇の目は白い目に変わっていき、そこでの暮らしは“針の筵”のようになっていった。
しかし、だからといって家を越すことはできず、ただただ、それに耐えるほかなかった。

家族が故人と“絶縁”したキッカケは二つ。
一つ目は、借金のかたに家を失いかけたこと。
両親が保証人になっていたわけでもないが、借金の取り立ては両親のもとへ容赦なくきた。
犯罪ギリギリの嫌がらせを受けたこともしばしば。
借金取りは近所の目もはばからずやって来ては、脅しにもとれる派手な雑言を吐いて、女性家族を追い詰めた。
「子の不始末は親の責任」と、それまでも故人がつくった借金を肩代わりしてきた両親だったが、借金のペースは返済のペースを上回り、とうとう、家を売らないと弁済できないところまできてしまった。
しかし、家を失ったら生活が立ち行かない。
切羽詰まった両親は、「これを最後にしよう!」と、親戚縁者を頼って何とか金を工面。
ささやかなプライドと生活の余裕を失うこととを引き換えに、ギリギリのところで家を失うことは免れた。

二つ目・・・それは、女性が当時 交際していた相手の両親に結婚を反対され、破談になったこと。
「実兄にそんな人間がいたら、いつ どんな災いが降りかかってくるかわからない」と。
事実、“災い”は、何度も降りかかってきていたわけで、女性は相手方にまったく反論することができず、泣く泣く身を引いた。
この出来事は、本当に悲しくて悔しくて、自殺すら考えたという。
その後、別の人と縁を持つことができたけど、その時もやはり兄の存在が邪魔をした。
相手側の両親には露骨にイヤな顔をされ、事実上、兄と絶縁することが結婚の条件みたいになった。

事を起こす度、「心を入れ替えてやり直す!」と詫びた故人だったが、すぐに堕落。
血のつながった親兄妹といっても、それぞれが一人の人間であり、それぞれに人生がある。
繰り返し、何度も故人に裏切られた家族は、故人を信じることを諦めた。
そして、自分達の人生が台なしになる前に故人との絶縁を決意。
固い意思をもって、「親でもなければ子でもない」「兄でもなければ妹でもない」「死のうが生きようが、まったく関知しない」と絶縁を宣した。
それに逆ギレした故人は、それまで散々迷惑をかけてきたことを棚にあげ「そんな冷たい人間とは、こっちから縁を切ってやる!」と捨て台詞を吐いて、姿を消した。
そして、それ以降、音沙汰はなくなり、結局、それが、故人との最期の別れとなった。

生前の両親も、それ以降、二度と故人と顔を会わせることはなかった。
故人のせいで大きな借金を負った両親は、平穏な老後を奪われ、身体が動くかぎり働き続けた。
その上、世間の好奇の目にさらされ、下げなくてもいい頭を下げ、親類縁者の中で肩身の狭い思いをしなくてはならなかった。
楽しい余生を故人が奪ったかたちとなり、二人とも、疲れ果てたように逝ってしまった。
女性は、故人にその死を知らせようとも思わず、故人もその葬式に来ることはなかった。

「絶縁!」と言ったって、それは社会的・心情的なもので、血縁をはじめ、戸籍上の縁を切ることはできない。
したがって、故人が何かやらかせば、警察から何かしらの連絡が入ってくるはず。
また、いつ難題が降りかかってくるかわからないわけで、別離後の数年は落ち着かない日々が続いた。
それでも、時間は多くのことを解決してくれる。
年月が経過するとともに故人のことは記憶から遠のいていき、そのうちに頭から消えていった。
何年かに一度、ふとしたときに、
「どこかで生きてるんだろう・・・」
「どうせ、ロクな暮らしはしていないだろう・・・」
と、思い出すようなことはあったけど、そこには楽しい想い出も懐かしさもなく、再会を望む気持ちも湧いてこず。
「このままアカの他人として忘れたい」
という気持ちが変わることはなかった。
そうしているうちに、女性の歳を重ね、子供達は独立し、夫は亡くなり、一人きりの老後ではあったけど平穏に暮らしていた。
そんな静かな日々に、突如、何十年も前に別れたきりの兄の訃報が舞い込んできて、再び、女性の心に苦悩の種を撒いたのだった。


女性は、弁護士に相談して相続放棄の手続きをすすめていた。
そして、永年の絶縁関係なのだから、当然、部屋の賃貸借契約の保証人にもなっておらず。
弁護士からも、「家財処分等、一切やる必要はない」と言われていた。
つまり、死後の始末において、“女性には法的責任はない”ということ。
ましてや、負の遺産の始末なんて、好き好んでやる人はあまりいない。
女性は、そのことを充分に理解していた。
しかし、一方で、大家からは「家財は身内が片づけるべきでは?」とプレッシャーをかけられていた。
そして、“血縁者の道義的責任”ってヤツが、女性の心に引っかかっていた。

女性は、年金生活。
決して裕福な生活ではなく、普段は爪の先に火を灯すような生活をしていることは容易に想像できた。
しかも、既に、故人を葬るため、結構な費用を負担。
それを知ったうえで私が算出した見積は“○十万円”と決して安くはなく、「どこが良心的!?」と憤られても仕方がない金額に。
「“儲けが入ってない”と言ったらウソになりますけど、経費もそれなりにかかるものですから・・・」
それを聞いた女性は、ヒドく表情を曇らせて、
「やっぱり、それくらいかかるんですね・・・」
と、諦めたように溜息をついた。

単に金銭だけの問題ではなく、迷いの種は他にもあり、女性は悩んでいた。
仮に放棄しても、大家に顰蹙をかうくらい。
借金はあったかもしれないけど、広く社会に迷惑をかけるわけではなく、女性が負うべき責任は見当たらず。
それでも、女性は、放棄することが正解だとは思えないみたいで、少しでも正解に近い答を求めるように、
「どうしたらいいと思いますか?」
と訊いてきた。

「血縁者として道義的な責任は負うべき」と言えば、商売根性丸出し、足元をみての押し売りみたいになる。
「法的責任はないのだから放ってもいいのでは?」と言えば、自らの手で大事な一仕事を捨てることになる。
だから、
「私は、お金を払っていただく側の業者ですから、“こうした方がいい”って言える立場じゃないんですよね・・・」
と、結論を導き出すことを躊躇。
結局、“良心的な人間”らしい気の利いた一言が捻り出せず、あとは沈黙でフェードアウトするしかなかった。

女性と故人のような疎遠な関係ではなく、懇意にしていた親族でも、死を境に“知らぬ 存ぜぬ”を通す人もいる。
ヒドい人になると、金目のモノだけコッソリ持ち出して知らんぷりする者もいる。
そんな悍ましい光景を目の当たりにすると、薄情な私でさえ「薄情だな・・・」と軽蔑してしまう。
逆に、どんなに疎遠な関係でも、法的責任はなくても、血縁者としての道義的責任を感じて、身銭をきって故人の後始末をする人もいる。
薄情な私は、「俺だったら放っておくけど・・・奇特な人だな」と、感心することもある。
私は、自分ごときが意見できるものではないことを承知のうえで、それまでに携わってきた多くの現場を思い出しながら、色々なケースがあり、色々な人がいることを話した。
そして、ことは善悪で判断できるものではなく、その人その人の価値観や考え方によって異なること、また、それが、その後の人生に“吉”とでるか“凶”とでるかはわからないけど、何かしらの“節目”というか・・・“分岐点”になるのではないかということを話した。
そして、
「決して小さい金額ではありませんし、相続放棄に抵触することがあったらいけないので、お子さん達と弁護士とよく相談して決めて下さい」
「返答に期限はありませんし、お断りいただいても構いませんから」
と、最低限、“良心的な人間”らしいところをみせて、その場を締めた。

“時間をかけると迷いが生じるばかり”と考えたのだろうか、女性からの電話は翌朝に入った。
“数日先か・・・もしくは、もう連絡がくることはないかもな・・・”と思っていたので、早々の連絡は意外だった。
「子供達は反対したんですけど、お願いすることにしました!」
「何かの因果でしょう・・・こんな人の妹に生まれてきたのは・・・」
「私だってこの歳で先は短いですから・・・この先、心に引っかかるものを残したまま生きていくのは気がすすみませんしね!」
女性は、自分に言い聞かせるようにそう言った。


世の中にとっては ありえない現場でも、私にとっては ありがちな現場。
慣れた仕事でもあり、作業は難なく進行し終了。
最後、完了の日、私は再び女性と待ち合わせ。
私は、薄汚れたまま空っぽになった部屋で、実施した作業の概要を女性に説明。
女性は、作業工程一つ一つに会釈するように頷きながら、黙って私の話に耳を傾けた。
そして、一通りの説明を終えた私が預かっていた鍵を差し出すと、
「ありがとうございました! 本当にお世話になりました!」
と言って、恐縮するくらい深々と頭を下げてくれた。

「さようなら・・・」
現場を去るとき、玄関にカギをかけながら、女性はそうつぶやいた。
その表情は、長年負っていた重荷が肩からおりたのだから、清々しい笑顔であってもよさそうなものだったけど、その横顔はどことなく寂しげな感じ。
こんな性格の私の目は それを見逃さず、また、このクセのある感性は自ずと動いていった。

故人の犠牲になって多くを失った青春時代・・・
故人と別れて平和に過ごした数十年・・・
そして再び、老い先短い自分に降りかかった故人の尻拭い・・・
そうした自分の人生を振り返ると一抹の寂しさが過り、それが顔に表れたのかもしれなかった。
そして、それを振り切るため、残り少ない人生を楽しく生きるため、上を向いて堂々と生きるために、“涙の想い出”にサヨナラしようとしたのかもしれなかった。


そんな風に想うと・・・
私にとっては ただの汚仕事が、私の人生にとっては ただならぬ大仕事になる。
そして、サヨナラしたい過去をたくさん抱えながらも、“特掃隊長ってのも悪くないか”と、この人生を笑って受け入れられるのである。




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自制の時世

2020-05-24 07:25:39 | その他
4月7日に緊急事態宣言がだされてから、はや一か月半余が経つ。
そして、5月14日には、多くの地域で宣言が解除された。
同じく、5月21日には関西圏でも。
苦境に喘いできた人々にとっては、「長いトンネルの出口が見えてきた」といった感じだろうか。
私がいる首都圏一都三県でも、解除が期待されていたが、結局、それもなし。
それを象徴するかのように、昨日午前中までの数日間、空も記録的な雨曇が続いていた。
しかし、判明している感染者数の明らかな減少が「遅くとも月内には解除されるだろう」といった憶測を呼び、14日を機に、何かよくないものに誘惑されているかのように、人々の気が緩みはじめたような気がする。
しかも、明日には宣言が解除される見込みだそうで、それ以降の人々のハジケぶりが心配になる。
そんな中でも私は、幸か不幸か、元来の悲観的神経質・ネガティブ思考派であり、この先の生活不安が常につきまとっているため、一向に気は緩んでいかない。

私の勤務先は「ヒューマンケア株式会社」という零細企業で、所属しているのは「ライフケア事業部」という部署なのだが、事故現場・自殺現場・腐乱死体現場など“不要不急”じゃない仕事もある中、遺品処理・ゴミ部屋・リフォームなど“不要不急”の仕事も多い。
で、その“不要不急”の仕事は減っている。
三月下旬から、コロナの影響で新規の仕事は減りはじめ、4月は激減。
ただ、それ以前に契約していた現場が何件かあったので、5月以降が正念場になることや、新規受注がゼロになることを覚悟しながら、4月はそれらをポツポツとさばきながら何とか乗り越えた。
しかし、GWを過ぎると再び仕事が入り始め、今現在は、恐れていたほどは減っていない。
何のお陰か・・・そういうわけで、あくまで「今のところ」という条件は付くけど、「失業」という最悪の事態は免れている。
一方で、世の中に目を向ければ、倒産・失業の数値は上がりっぱなし、自殺者が増加することも見込まれ、更年期脂肪に覆われた胃が締めつけられるような憂いは続いている。


TVをつければコロナのニュースばかり。
毎日のように各地域の感染者数が発表され、一喜一憂している。
しかし、私は、「感染者」という呼び方に異論がある。
「感染者」ではなく、「感染判明者」とか「発症者」という風にした方がいいと思う。
「感染者」だと、「保菌者」「無症状感染者」をイメージしにくい。
そして、その「感染者数」が減少していると、ウイルスが死滅していっているような印象が強く、どうしても警戒心を薄まってしまい、気が緩んでしまう。
しかし、現実は、決して油断できる状況ではないはず。
これまでも「感染経路不明者」は多くいたわけで・・・ということは市中に保菌者がたくさんいるわけで・・・
細心の注意をはらって生活してはいるものの、私自身が保菌者である可能性だって充分にある。
ということは、緊急事態宣言が解除されても、外出自粛・休業要請が解除されても、それは、あくまで机上の事情による処理。
また、発表される感染者数がどんなに減っても、保菌者数までは把握できない。
重症化しやすい要因をもっている人はもちろん、一般の人も油断は禁物!
万人が感染しない努力をするべきで、万人が感染させない責任を負うべきだろう。

これから夏にかけて感染者数が落ち着いてくることが予想されているが、それは季節的要因や我々の努力(休業・自粛)があってのこと。
コロナウイルスに勝利したからではないわけで、根本的な問題は何も片付いていない。
秋冬にかけて、また大きな波・長いトンネルがくることが懸念されている。
だから、専門家の「この夏は、秋冬にかけてやってくるであろう大きな第二波に備えるべき」という言葉は重く受け止めなければならない。


明日以降、段階的に緩められていくのだろうけど、今現在、首都圏では、市民への外出自粛要請、店舗への営業自粛要請も継続中。
しかし、一部の市民、一部の店舗には、「我関せず」と無視し続けている者も少なくない。
社会的動物である一人一人には、法律上の責任の前に社会的責任を負う。
社会から守られている反面で、社会を守る責任も負っている。
「普段、自分は社会に守ってもらっている」という意識が希薄・・・皆無なのだろう。
「ヒマだから」「営業する方がわるい」「居酒屋の方がよっぽど三密」等と言ってパチンコ屋に行列している連中。
ただ欲望の赴くまま、自制できないことを“自分の自由”“当然の権利”とでも思っているのだろう。
“忍耐力がない”“自制できない”“欲望を抑えられない”ということ以外にまっとうな理由があるのなら聞いてみたい。
おそらく、「なるほど」「それなら仕方がない」と思えるような理由なんかないはず。
結局のところ、義務を負わないヤツほど権利を主張する、責任をとらないヤツほど人に責任をとらせたがる。
そして、何かのときに、そういう輩の尻を拭く羽目になるのが、愚直に社会的責任を負う善良な市民なのである。

また一方、多くの店舗(企業)が苦渋の休業をしている中、「自分さえよければ」と営業するパチンコ店にも不快感はある。
しかし、多分それは、死活問題を抱えているが故の営業。
経営者からすると「倒産or存続」、従業員からすると「失業or雇用継続」という事情がある。
大袈裟な言い方かもしれないけど、倒産・失業は社会的な死を意味する
そして、それがキッカケとなり、生命の死にまで至ることも少なくない。
事実、自殺原因の多くは経済的な問題が占めている。
したがって、役所から指示されようと、世間から非難されようと、「これで死ぬわけにはいかない!」と営業するのである。
そして、それは、「自分が生き残るためには、他人が死ぬこともいとわない」という解釈にもつながる。
もはや、「弱肉強食」というより、「弱肉弱食」・・・露骨な言い方をすれば「共喰い」。
どうしたって殺伐感は否めない。
ただ、実際は平時より繁盛している店もあるようだけど、せめて、休業しても そこそこ耐えられる体力のある店が「他店が休んでいる今が儲けどき!」とばかりに営業しているわけではないことは信じたい。


この状況は、かつての世界恐慌にも例えられる。
それが第二次世界大戦にまで発展した経緯を知ると、「なるほどな・・・」と思ったりするけど、「歴史の勉強になる」なんて呑気なことは言っていられない。
やがてくる“第二波”のことを考えると、「新しい生活様式」とやらを定着させることも急務だろう。
検査・医療体制を立て直すこと、ワクチン・治療薬を開発することはその道のプロにしかできないけど、「新しい生活様式」を確立して定着させることは我々一般市民にもできる・・・我々一般市民がしなければならないこと。
安易にコロナ前の生活様式に戻るのではなく、“新しい生活様式”を習慣化させる必要がある。

「自分一人が変わっても社会は変わらない」と思うかもしれない。
しかし、社会を変えるのは一人一人。
一人一人がつながれば大きな力になる。
中国武漢の街角でうまれた小さなウイルスが、今や、世界中に多大な影響を及ぼしているように、我々も連帯して、従来の生活様式を大きく変革するしかない。

人前で口と鼻を露出するのを恥ずかしく思うようになるのかな・・・
人と向かい合わず、無言で食べるのがテーブルマナーになるのかな・・・
人の間近で話すのが無礼な社会になるのかな・・・
ヒソヒソ話が上品に思われるようになるのかな・・・
“新しい生活様式”って、なんだか窮屈そうな感じもするけど、皆が明るい気持ちで工夫すれば、ちょっと面白い世の中になるかもしれない。


前述のとおり、我が“ライフケア事業部”において、今月は“仕事ゼロ”も覚悟していた私だけど、そこそこの仕事にはありつくことができている。
で、一戸建・マンション・団地etc・・・あちこちの現場で、多くの人と会っている(一人をのぞき、あとは全員初対面)。
正直いうと、この時世では、あまり人と会いたくないのだけど、食べていくためにはそうもいかない。

そこで感じたのは、人々の“感染に対する警戒心の薄さ”。
“どこの馬の骨かわからないヤツ(私)”と会うというのに、中には、マスクもつけず接近会話する人もいた。
“俺だってウイルスを持ってるかもしれないのに・・・初めて会う人間(私)に対して警戒心を持たないのだろうか・・・”と不思議に思ったくらい。
一方の私は、警戒しまくり。
マスク着用はもちろん、エレベーターボタン・インターフォン・ドアノブ等、なるべく素手で触らないように心がけ、依頼者と顔を合わせた時も、
「マスク着用のままで失礼します」
「こういう時世なので、お互い距離をとりましょう」
「換気にもご協力ください」
というセリフが、定番の挨拶になった。

しかし、対する人々はほとんど「?」みたいな、怪訝な表情を浮かべた。
私の言いたいことを理解しつつも、まるで「別世界の出来事」「他人事」のように捉えている様子。
話しはじめるとそれに夢中になり、私との距離なんか一向に気にせず。
更に、窓も玄関も閉めっぱなし。
狭い密室に複数名の親族がひしめき合うように集まっていた現場もあった。
さすがにその状況には耐えきれず。
他人の家に上がり込んでおいての失礼は承知のうえだったが、一言いって窓を開けさせてもらった。
ドアストッパーがないところでは玄関ドアに自分の靴を挟んで通気したこともあった。
なんだか・・・“私一人が異常に神経質”みたいな雰囲気で、罪悪感みたいな変な気マズさを抱きながら。

確かに、もともと、私は、不安神経症気味で神経質。
“潔癖症”とはちょっと違いのだが、病的なまでに敏感になるときもある。
思い返すと、子供の頃からそう。
それは自分でもわかっている・・・自分でもイヤになるくらい。
そのせいでもあるのだろうけど、ここ二カ月で、それなりの数の人達と接してきた中で、私以上に感染対策に神経をすり減らしていそうな人には一度も会わなかった。
悪意に至るような疑心暗鬼は自制しなければならないけど、ただ、人と会うときは、相手も自分も「保菌者かもしれない」という前提が必要ではないだろうか。
私は、うつされるのも嫌だし、うつすのも嫌。誰だってそうだろう。
どこまでが必要で、どこが適正で、どこからが過剰なのか判断できない感染対策が変なストレスになって、無頓着な人に対して嫌悪感を抱くようにまでなってしまっている。


今、多くの人が苛立ち、多くの人が悩み、多くの人が苦しんでいる。
“自粛疲れ”“自粛飽き”“自粛ストレス”が膨らんでいるのも事実。
この先 困窮しないともかぎらないので、余計なお金を使いたくない時期ではあるけど、私も、観光・レジャーに出かけたい衝動に駆られるときがある。
海、山、スーパー銭湯、居酒屋・・・
しかし、出かけない・・・今は、出かけないことが課された責任、社会貢献。
今、私が出かけるのは、4~5日に一回のスーパーと、たまの銀行・郵便局くらい。
それも、前述のような始末だから、人の影にビクビクしながら、人の存在にモヤモヤしながら、人の無頓着にイライラしながら。
ウイルスには厳しくとも、人には優しくするべきなのに。

ただ、従来の自分の生活スタイルを冷静に思い返してみると、今の外出自粛生活と大差ないことがわかる。
仕事!仕事!でロクに休みもなく、外食も少なく、旅行なんて滅多にしていなかった。
外で飲むなんて年に二~三度、近年は、たった一~二度。
スーパー銭湯だって、多い時季は週一くらいのペースで行っていたけど、何ヶ月も行かないときもあった。
コロナ渦の前後で、何が変わったというのか・・・
にも関わらず、これまでとは違ったストレスがかかっている。
一体、これはどういうことなのか・・・ひょっとしたら、気づかないうちに心の自由を失っているのかもしれない。
行動の自由が奪われたからといって、心の自由まで失う必要はないのに。

自己分析の結果、おもしろいことがわかった。
それは、「やっていることは変わらなくても、禁じられるとストレスがかかる」ということ。
“飲みにいかない”ことと“飲みにいけない”ことは、双方、飲みに行かないことに変わりはないのに、後者は妙にストレスがかかる。
“飲みに行かない”という事実(行為)に変わりはないのに・・・
それは“選択の自由”“自由意思による選択権”が奪われているから。
つまり、行為そのものではなく、この“自由意思による選択”の有無が明暗を分けているのである。

“自由意思による選択”、ネガティブな方に言い換えると「欲望の赴くまま」。
往々して、“志望”“願望”と違い、“欲望”というものには邪悪な性質が入りやすい。
“欲”というものは、もともと、人間の本性の中にある悪性に近いところにあるから、膨らみ具合によっては、どうしても穢れてくる。
だから、欲望は、あるレベルで抑えなければならない。
そうしないと、自分を、家族を、他人を、世の中を破壊する。
多くの人に心当たりがあるだろう、欲望に負けて虚無感や罪悪感を覚えたことが。
一時的に満たされはしたものの、結果的に後悔したことが。
また、欲望に支配されている人をみて、嫌悪感や悍ましさを覚えたことが。

欲望を抑えるには、先を見とおす目が必要。
欲望の赴くままに生きたら、または、自律・自制とともに生きたら、この先、自分がどうなるか、家族がどうなるか、世の中がどうなるかをリアルに考える。
また、未来に目的をみつけること、目標を定めることもひとつ。
合格を目指して勉学に励む学生のように、一流を目指してトレーニングに励むアスリートのように、そして、金持ちを目指して汚仕事に励む特掃隊長のように(?)。
あとは、“心は自由である”ということを認識し、“心の自由”を楽しむこと。
それは、妄想・幻想・夢想・空想の類と似ているものであるけど、もっとハッキリしたもので、理想の自分・理想の人生をもって過ぎた欲望を中和してくれる。
それでも、「そんなの知ったことか」「今がよければ それでいい」「自分さえよければ それでいい」といった短絡的な思考しかせず、欲望を抑える努力をする気がない者には、もはや ここで言うことは何もない。
とりあえず、「自分のケツは自分で拭け!」・・・いや、「自分で拭けないケツは汚すな!」とだけ言っておこう。


「あの時はよかったなぁ・・・」
今、ほんの少し前のことを思い出してそう想う。
「まだ、あの時の方がよかったなぁ・・・」
先々、今のことを思い出して、そう想わないようにしたい。
そのための今・・・自制の時世なのである。




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隣人愛

2020-05-18 08:45:23 | 腐乱死体
「いや~・・・まいった!夜も眠れなくてね・・・」
時は真夏の昼下がり、場所はマンションの共用通路。
私の傍に立つ男性は、深い溜息とともに葉巻タバコの煙を吐き出した。


現場は街中に建つマンション。
ほとんどの間取りが1Rまたは1DK、ありがちな“投資用マンション”。
部屋ごとにオーナーがおり、住人のほとんどが独居の賃借人だった。

その一室で、住人が孤独死。
暑い季節も手伝って、遺体はヒドく腐敗。
ベランダから玄関から、隙間という隙間から異臭は漏洩し、どこからどう出たのか ウジやハエまで室外に進出しているような始末だった。

「まいった!眠れない!」と私にボヤいたのは、その部屋の隣に暮らす男性。
年齢は七十手前といったところ。
ただ、醸し出す雰囲気は もっと若く、その辺にいるようなフツーの爺さんとは趣が異なっていた。

年齢を感じさせないくらいの鋭い眼光で、ドスのきいた低い声に荒い言葉づかい、常に葉巻タバコを吹かしている。
悪い言い方になるけど、“ヤクザっぽい”というか、“チンピラの風体”というか・・・
“そんなのどこで売ってんの?”と首を傾げるくらいド派手な半袖シャツの袖口から覗く くすんだ色の刺青が、私の斜め見が浅はかな偏見ではないことを証していた。

男性と故人は、隣人同士でも付き合いはなく、たまたま顔を合せたときに一言挨拶を交わす程度。
だから、お互い、身の上も知らず、情といった情もないよう。
それでも男性は、「可哀想になぁ・・・こんなことになっちゃって・・・」と、本来なら文句の一つ吐いてもおかしくないところで優しい気遣いをみせた。

亡くなったのは40代の男性。
独り暮らしで仕事はフリーランス。
結果的に、それが発見を遅らせ、肉体をヒドく腐らせてしまった。

出来事をきいて、遠く離れた実家から老親二人も駆けつけてきた。
ただ、警察からは「遺体は見ないほうがいい」「部屋は入らないほうがいい」と忠告を受けた。
それでも両親は甘く考えたのか、遺品チェックのため部屋に入ることを試みた。

腐乱死体現場って、一般の人には馴染みがないもの。
遺体が腐敗するとどうなるのか、部屋はどんな汚れ方をするのか、どんなニオイが出るのか、想像できないのも無理はない。
とにかく、その辺の生ゴミを腐らせるのとは訳が違う・・・違いすぎる。

玄関前は片側オープンの共用通路なのに、そこにはそれまで経験したことがない 腹をえぐるような異臭が滞留。
しかも、ドア下からはウジまで這い出ている。
そのインパクトは衝撃的で、結局、ドアを開けるのが恐ろしくなり、そのままの状態で鍵は私へ引き継がれた。

近隣住人からの苦情は、管理会社にガンガン寄せられていた。
しかし、それは仕方がないこと・・・
どこからどう見ても、「文句を言うな」という方が無理な状況だった。

故人宅は角部屋で、男性宅の反対側に隣室はない。
で、マンションの中で最も被害が大きいのが、すぐ隣の男性宅。
玄関だけじゃなくベランダ側からも悪臭とウジ・ハエが発生し、男性宅にまで及んでいた。

しかし、男性は、至って冷静。
他の住民が騒ぐ中、言葉は控えめ。
口から出るのは、「非難・苦情」というより、「独り言・愚痴」といった方がシックリくるくらいだった。

「しかし、“ウジ”ってのは気持ち悪いヤツだなぁ!」
「部屋ン中には、あんなのがウジャウジャいるんだろ?」
子供のように興味ありげにしつつも、気持ち悪そうに顔をしかめた。

「そんな中で仕事して、身体は大丈夫か?」
「精神ブッ壊れないか?」
ある意味で、とっくにブッ壊れてる私の心身を気にかけてくれた。

「アンタ、若い頃、相当悪かっただろ?・・・今は真面目にやってるんだろうけど」
「俺も悪かったから、わかるんだよ・・・人に言えないような事情があるんだろ?」
昔を思い出したのか、タバコをゆっくり吹かしながら感慨深そうな笑みを浮かべた。

「俺だって、お隣さん(故人)と似たような境遇さ・・・」
「いつか、アンタの世話になるかもしれないじゃない?」
手すりの向こうに落とす灰を見下ろしながら、ちょっと寂しげにそうつぶやいた。

「誰だっていつかは死ぬんだから、あんまり大騒ぎするもんじゃないよな」
「ただ、さすがに、このニオイにはまいるけどな・・・」
タバコの火が消え、葉巻特有の甘香煙と入れ換わった悪臭に、閉口気味に苦笑いした。

「え!?一人でやんの!? 肝が据わってんなぁ!」
「アンタが神様みたいに見えるよ!」
バカの使い方に慣れているのか、大袈裟な言い方をして私をおだててくれた。

「一服やってくか? え?吸わないの?」
「じゃぁ、景気づけに一杯ひっかけてくか? 嫌いじゃないだろ? 冷えたのがあるぞ?」
タバコを差し出したものの、私が吸わないことがわかると、“クイッ”と一杯飲む素振りをみせながらビールをすすめてきた。

「そうか・・・車で来てんのか・・・俺なら、一杯くらい飲んじゃうけどな・・・」
「じゃ、これ飲んで行きな!精がつくから!」
車どうこうの問題でもないのだが、ビールを断った私に冷えたエナジードリンクを持ってきてくれた。

「じゃぁさ、どうせ誰も見てないんだから、服脱いで裸でやれば!?」
「そんで、うちでシャワー浴びて、服着て帰りゃいいじゃん!」
作業後は、私が凄まじい“ウ○コ男”になって出てくることを説明すると、意外な応えが返ってきた。

親切な人とは今まで何人も関わってきたけど、“裸特掃”なんていう珍アイデアをくれたのは、この男性が初めて。
しかし、無数のウジが這いまわり、無数のハエが飛び回り、高濃度の悪臭が充満し、大量の腐敗汚物が広がるサウナ部屋で、裸で作業するなんて、もう、達人なのか変態なのかわからなくなる(“超人”には違いない)。
その前に、その姿は、私の理性が受け入れないし、その羞恥心には耐えられない。

いくら「誰も見てない」ったってね・・・
目に見えないだけで、近くに見てる人がいるかもしれないし・・・
とか言いながら、一回やったらクセになったりして・・・

それにしても、マスク・手袋・靴だけ身に着けて、あとは素っ裸なんて・・・
しかも、その場所が場所なわけで・・・特掃隊長の秘密兵器、自慢の“巨砲”(?)も何の役にも“立たず”、ヘチマのように ただブラ下ってるだけ。
実際にやるわけないけど、想像すると、かなり笑える!・・・故人でさえ笑うかも。

世間の鼻つまみ者、“ウ○コ男”を自宅に入れてくれるだけでも相当に奇特なのに、風呂にまで入れてくれようとするなんて、もう、フツーじゃない。
私が逆の立場だったら、絶対にそんなことはしないし、それどころか近寄りもしない。
その善意と心遣いは、乱暴にもみえる人柄の対面で際立ち、目が潤むくらい気持ちを熱くさせるものだった。

男性は、型やぶりな性格で、破天荒な生き方をしてきたのだろう。
ただ、その見た目や物腰に似合わず、物事を冷静に見極める力をもっているように思えた。
過去の苦い経験が、そういう能力を身につけさせ、慈愛の人柄をつくっていったのかもしれなかった。


ドアを開けてみるまでもなく、想像されるのはヘヴィー級・・・無差別級の現場。
その状況に怖気づくほど青くはなかったけど、あまりの状況に一時停止。
仕事とはいえ、これからそこへ身を投じなければならない災難と“裸案”のミスマッチがコントのようにおかしくて、クスリと笑いがこぼれた。

泣こうわめこうが、その場から逃れる術はない。
私は、男性がくれたエナジードリンクを一気飲みし、いつものように額にタオルを巻き、手袋と専用マスクを装着。
そして、鍵を挿入、ドアを最小限開け、不穏な空気が充満する室内に身体を滑り込ませた。

中は凄まじい熱気、そして、超芳醇・・・・・もとい・・・超濃厚な悪臭。
鼻は専用マスクに守られていたものの、目がその臭い嗅ぎ取った。
更に、それがジリジリと皮膚にまで浸みこんでくるような感覚に悪寒が走り、猛暑の中でも鳥肌が立つくらいの状況だった。

遺体が残した腐敗物・・・腐敗粘土・腐敗液・腐敗脂が、六畳の床を半分くらいまで汚染。
室内には熱気がムンムン、足元にはウジがウヨウヨ、頭上にはハエがブンブン。
頭髪の塊もシッカリ残っており、爪や歯、指先の小骨等がどこかに置き去りにされていてもおかしくないレベルだった。

こういった現場で注意しなければならないのは熱中症。
根性だけに頼った無理な長居は危険。
私は、自分を客観視することを忘れないようにしながら、汚染部分を中心に部屋中を見て回った。

作業が困難を極めたのは言うまでもない。
汚物処理をはじめ、清掃、害虫駆除、そして消臭消毒、作業は何日にも渡った。
そして、重なる日々の中で、何人ものウ○コ男が生まれていった。

結局、私は、最後まで迷いなく裸にはならなかった。
男性宅に上がり込んで風呂を借りることも。
ただ、時折 顔を合わせた男性との どうでもいいようなくだらない話は、ただの気分転換にとどまらず、私に染みついた汚れ・・・非情さや薄情さを洗い流してくれているようにも感じられた。


“愛”は、“言葉”ではなく“行為”。
また、“愛”って多くのかたちがあるけど、“究極の愛”は「隣人愛」だという。
「利他愛」「自己犠牲」ともいわれ、「慈愛」「親切心」にも似ている。

一方、私は自他ともに求める「利己主義者」、“自分が一番大事”“自分さえよければ それでいい”という思考癖がある。
事実、人の為っぽく見えていることでも、何らかの打算があり、何らかの見返りを期待している。
しかし、こんな時代だからこそ、こんな時世だからこそ、隣人愛は必要とされる。

この利己主義者は利他主義者に生まれ変わることはできないかもしれないけど、心に響く一場面で変わることくらいはできるかもしれない。
私を激励し、エナジードリンクをくれた男性のように。
汚れた私にシャワーを使わせてくれようとした男性のように。

それは、誰のためでもなく、
今の自分のためでもなく、
明日の自分のため・・・その先の自分のため。

時を廻り、人を廻り、かたちを変え、やがて自分のところに戻ってくる・・・
目に見えない恵み、気づかない幸運を連れてきて、それが、知らず知らずのうちに 飢え乾いた心を満たしてくれる・・・
せっかく、人間として生を受け、愛の中で生かされているのだから、残り少ない人生の中、一度くらいは そう信じて、愛ある人間になってみたいものである。


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隣人哀

2020-05-12 08:48:07 | 腐乱死体
「誠意をみせろ!誠意を!!」
男性は、私に向かって大声をあげた。

ことの発端はこう・・・
とあるアパートの一室で、高齢の住人男性がひっそりと孤独死。
放置された日数は少なくはなかったが、冬の寒冷の中で腐敗速度は低速。
遺体は、膨張溶解ではなく乾燥収縮。
異臭は発生してはいたものの、それは「腐乱死体臭」というより、高齢者宅にありがちの“尿臭”にちかいもの。
私からすれば“ライト級”・・・いや、“ストロー級”、ホッとできるくらいの現場だった。

故人の部屋は独立した角部屋。
アパートの構造上、隣室との間には、共用階段が挟まれていた。
つまり、壁一枚で隔てられた隣室はないということ。
しかも、室内の異臭は軽度で外部漏洩はなく、近隣に迷惑がかかっているというようなことはなし。
それは、不動産管理会社の担当者も現場に来て確認していた。

私は、調査からほどなくして作業に着手。
軽症の現場とはいえ、油断せず、近隣に対する配慮も怠らず、いつものように自分のセオリー通り組み立てた手順で作業を進めた。
遺体汚染は素人目にはわからないくらいのもので、尿臭も素人でも我慢できるくらいのもの。
床の残った体液は最初の30分で、室内にこもった尿臭も数日のうちに収束。
何も言われなければ、そこで人が亡くなったことはおろか、まだ、そこで人が生活していると言ってもいいくらいの部屋に戻った。

「隣の部屋の人が“クサい!”って言ってるんですけど・・・」
作業も終盤にさしかかった頃のある日の夕方、管理会社の担当者から電話が入った。
何日も前に特掃は終わらせ、消臭消毒作業も山場を越えて仕上げ段階にきてのこと。
「何かの間違いじゃないですか?」
まったく心当たりのない私は、首をかしげた。
現場を知っている担当者も、どうにも解せない様子だった。

しかし、臭覚は、個人的・主観的な感覚。
臭気の感じ方に、個人差があっても不自然ではない。
また、腐乱死体臭の場合、一度嗅いでしまうと精神にニオイがついてしまい、「鼻について離れない」と言われることも多い。
結局、「電話じゃラチが明かない」ということで、私は、急遽、現場へ出向くことに。
一日の仕事を終え帰り支度も終わった段階、暗くなってからの出動はとても面倒臭くはあったけど、付き合いの長い担当者は、いつも私の仕事ぶりを評価してくれ、何かとよくしてくれていた。
その恩義もあったので、私は、さっさと支度を整えて現場へ急行した。

現地に着いた頃、陽はとっくに暮れ、冷え冷えとした空気が暗がりを覆っていた。
まず、私は、現場の部屋の前へ。
周辺の空気を慎重に嗅いだが、当初から変わらず特に異臭は感じず。
ただ、常日頃から凄惨現場で苛めぬかれている鼻が、腐乱死体臭を“異臭”として感知しない可能性もある(そんなはずないけど)。
ミスがあってはいけないので、私は、念には念を入れて、外気と部屋の前の臭気を交互に嗅いだ。

結果、異臭を感知しなかった私は、「異臭なし」と判断。
「何かの勘違いだろう・・・」と、苦情を言ってきている隣室のドアをノック。
すると、中から初老の男性がでてきた。
「アンタが掃除の業者?」
初対面なのに、不愉快なタメ口。
「そうです・・・」
礼をわきまえない人間は嫌いなのだが、私は、敬語対応。
「クサくて部屋にいられないよぉ!どおしてくれんの?」
完全に上から目線で、何かをたかるような ねちっこい口調。
「特に変なニオイはしませんけど・・・」
まったく異臭を感じない私は、感じたことを率直に返答。
「何いってんだよ!こんだけ人に迷惑をかけといて、“臭わない”はねぇだろ!」
男性は不快感を露わに。
「この仕事、恥ずかしいくらい長くやってますから、ここに遺体のニオイがないことくらいわかりますよ」
こういうときに熱くなるのは禁物、私は冷静さを保つよう努めた。
「俺が“クサい!”って言ってんだからクサいんだよ!」
男性は、どこかの政治家みたいに論点をすり替えて、テンションを上げた。
「私が“クサくない!”って言ってるんだからクサくないんですよ!」
内心で苛立ちはじめていた私は、ギアを戦闘モードに切り換える準備をしながら男性の揚げ足をとった。

そんな平行線のやりとりを繰り返しているうちに、男性の怒りは頂点に。
「バカ野郎!」「掃除屋のクセに!」等と語気を強め、人差し指を頬にあてて「こっちの知り合いもいるんだからな!」と、化石級の脅し文句で威嚇してきた。
そして、そんなやりとりの中で、「誠意をみせろ!誠意を!!」と、大声をあげたのだった。

良識をもって作業を行うことはもちろん、近隣や他人に社会通念を逸するような迷惑をかけてはいけない。
しかし、根拠のない苦情や理不尽な行為は 到底 容認できるものではない。
そのうえ、私は、臆病者のくせに気は短い。
争いごとは好まないくせに、勝算のある揉め事は嫌わない。
また、弱虫のくせに口は達者で、屁理屈をこねるのも不得意ではない(“口が減らないヤツ”と褒めて?くれる人も多い)。

「金がとれる」等と、どこかの愚か者に入れ知恵でもされたのだろう・・・話の中で男性の魂胆が見えた私は“ニヤリ”。
「ちょっと不動産会社の担当者と相談しますから・・・」
と、男性の要求を検討する素振りをみせながら、一方、頭の中では形勢逆転を画策しながら、一旦、戦線を離脱した。

私は、ことの経緯を担当者へ報告。
どんな人間であれ不動産会社にとって入居者は客であるから、不愉快な気持ちを抑えて丁寧に対応してきた担当者だったが、事の真相が“金銭目的のゆすり”であろうことがわかると声色が変わった。
怒りを滲ませ、「何を言われても無視していい」とのこと。
更に、「反論していいですか?」の問いに、
「言いたいことがあるなら言い返してもいいですよ!」
「ただ、挑発にのって手を出したりしないように!」
「あと、念のため録音に気をつけて下さい」
と、男性に応戦することを認めてくれた。
本件の責任者である担当者の許可を得た私は、意気揚々かつ虎視眈眈と戦線に復帰。
再び男性と対峙し、先に口火を切った。

「ところで、“誠意”って何ですか? 具体的に言ってもらわないとわからないんですけど!」
「“誠意”ったら“誠意”だよ! ガキじゃないんだからそんなのすぐわかるだろ!」
「そう言われてもねぇ・・・」
「自分の頭で考えろ!」
「私、頭が悪いものでわからないんですよぉ・・・具体的に教えてくださいよ!」
「バカか!?オマエは!」
「そうなんでしょうねぇ~・・・全然わからないなぁ~・・・」
「ホント!頭にくるヤツだ!!」

男性が金銭を要求しているのは明らかだったので、私は、男性の口から「金」という一言を引き出そうとした。
しかし、自ら「金をよこせ」なんていうと詐欺・恐喝などの犯罪になりかねない。
あと、感情にまかせて暴力をふるっても同様。
男性はそこまでバカじゃなかったのではなく、同じようなことをやらかして懲らしめられた過去があったのだろう、その一言は口にしなかった。
また、拳をあげる素振りで威嚇してきたものの実際に殴りかかってくることもなかった。
男性はフルパワーで脅しているつもりだったのだろうけど、一方の私は、恐いどころか痛くも痒くもなし。
余裕の薄ら笑いを浮かべながら、“のらりくらり”と“おとぼけ”に徹した。

しかし、終わりの見えない口論は時間の無駄。
押し問答に飽きてきた私は、男性の弾が尽きそうな頃合いを見計らって、攻勢に転じた。
「○○(故人)さんが亡くなって発見されないでいる間はクサくなかったんですか!?」
「悪臭があったとしたら最初からのはずなのに、なんで、今頃になって言ってくるんですか!?」
「“クサい!クサい!”って、そもそも遺体のニオイを知ってるんですか!?」
「もともと△△(男性)さんちがクサいんじゃないですか!? その証拠に、アパートの他の人は誰も何も言ってきてないじゃないですか!」
「何をせしめたいのか、ハッキリ言ったらどうですか!?」
と、嫌味弾をたっぷり込めたマシンガンをブチかました。
更に、腹いせついでに、
「△△さんは、この先ずっと死なないんですか? その歳で、この先○○さんみたいにならない確証はあるんですか?」
「そもそも私が出したニオイじゃないんだから、私が文句を言われる筋合いはないですよ!」
「“一人きりで亡くなった○○さんが悪い”とでも言いたいのなら、どうぞ当人に言って下さい! 近くで、こっちを見てるかもしれませんから!」
「ただし、その後、何が起こっても私は知りませんけどね!!」
と、グーの手に立てた親指で故人の部屋をクイクイと指しながら、私は、意味のないことを ことさら意味ありげに言い放った。

「・・・そ、そんなの俺の知ったことか!」
男性は、まともに反論できず“蜂の巣”に。
子供のようにそう言い捨てると、スゴスゴと自室に退却。
まだ弾が残っていた私が“話はまだ終わってない!”とばかりにドアをノックしても反応せず、天敵を前にしたカタツムリのように、そのまま部屋に閉じこもってしまった。
そして、これに懲りたのだろう、その後も、私が故人の部屋に作業に入っても自室から出てくることはなかった。

そんなある日、私が隣室に立ち入る物音をききつけた男性が、久しぶりに自室から出てきた。
「新たなネタを仕入れたか? 今度はどんな因縁をつけてくる気だ?」と私は警戒。
しかし、何だか、それまでとは様子が違う。
前回同様に私を睨みつけてくるのかと思ったら、予想に反し、どことなく気マズそうな顔に不気味な愛想笑いを浮かべて近寄ってきた。
「ご苦労様・・・この前は申し訳なかった・・・お互い、なかったことにして水に流してよ」
何があったのか、男性は私に謝罪。
私は、それまでとは別人のような低姿勢に気持ち悪さを覚えたものの、謝られて無視するのは礼に反する。
「こちらこそ・・・あの時はちょっと言い過ぎたかもしれません・・・スイマセンでした・・・」
男性に対する不快感は拭いきれなかったが、私は男性の謝罪を受け入れ、自分の非礼も詫びた。

それにしても、男性が態度を豹変させたのは奇妙だった。
しかし、何があったのか・・・その理由はサッパリわからず。
管理会社が金品を渡したわけではないし、大家に叱られたわけでもなさそうだし、他の住人にたしなめられたわけでもなさそう。
「何が起こっても知らないぞ!!」といった、私の意味深な言葉が効いたのか・・・
とにかく、その訳はわからず仕舞いだった。

何はともあれ、表面上でも男性と和解できたことはよかった。
自分に非がないとしても、心にシコリが残ってしまい気分が悪い。
また、作業が無事に完了ことにもホッとした。
ともすれば、忍耐力の弱さがでてしまい、大ゲンカに発展して仕事どころではなくなったかもしれないから。
そうなったら、私の仕事を信頼してくれている担当者や その向こうにいるアパートオーナーを裏切ることにもなったし、更には他住人や故人にまで迷惑をかけてしまうことにもなりかねなかった。

後腐れなく一仕事を終えることができて、清々しい気分に包まれた私は、
「ひょっとして・・・○○(故人)さんが、ちょっと恐いイタズラでもしたのかな・・・・・Good job!」
と、青く澄んだ大空を仰ぎつつ、透明になった故人に微笑んだのだった。


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笑顔の向こうに

2020-05-06 08:59:41 | 遺品整理
ぬけるような青空、心地よい春風、まぶしいくらいの新緑・・・
5月に入って、時折汗ばむくらいの、この時季らしい暖かさがやってきた。
このまま10日まで休暇の人もいるのかもしれないけど、とりあえず、今日はGWの最終日。
例年通りのGWなら、観光地・レジャー施設・繁華街は大賑わい。
連休とは薄縁の私でも、世の中の休暇気分のお裾分けをもらうことができて、少しはのんびりした気分が味わえる。

しかし、今年は一味も二味も違う。
今年は、GWならぬ“SHW”(ステイホームウィーク)。
緊急事態宣言も延長され、遊ぶ場所は軒並み休業で、外出自粛はもちろん他都道府県への移動も事実上制限されている。
こういう局面になっても自制できない連中のことはさておき、良識ある?私にはモラルをもった行動が求められる。
そうはいっても、自制心のある大多数の人の中にも、GWの過ごし方に悩み、“ステイホーム”しきれず、屋外の散策等に出かけた人も少なくないのではないだろうか。

“三密回避”の啓蒙がすすんだ反面、“密が三つ揃わなければ大丈夫”“屋外なら大丈夫”といった誤った認識も広がったのではないかと思う。
だから、人々は公園や海に出かけて平気で遊べるわけ。
人が密集していようが、人と密接していようが、「屋外」というだけで安心して。
実際、身近なところでも、マスクもせずハァハァ走っている中年や、数名で集まってワイワイやっている若者をよく見かける。
そして、利己主義者特有の自己中心的な苦々しさを覚えている。

かくいう私も、4月下旬に旅行を計画していた(正確にいうと、実兄が計画したものに乗っかっただけ)。
生まれて初めての四国旅行だったのだが、緊急事態宣言が出された段階で即中止に。
ちなみに、私は半世紀余も生きてきて、一度も四国四県に行ったことがない。
あとは、沖縄も・・・そういえば、福井・和歌山・長崎・佐賀にも行ったことがなく、岐阜は ただ何度も通過したのみ。
そう考えると、どこも行ってみたいところばかりだ。

でも今は無理だから、かわりに、「気分転換に海にでも行こうか・・・」と考えた。
そうはいっても、さすがに伊豆や熱海ってわけにはいかないから、もっと近場で。
鎌倉や江の島、湘南方面もいいところなんだけど、そのときは“不自粛サーファー”の悪い印象があった。
個人的には、館山や銚子、九十九里の方が気楽で行きやすいので、房総方面を検討。
しかし、結局のところ、それでは、“自制できない輩”と同じで、思慮のない無責任行動は世の中のためにならない・・・ひいては、自分のためにならないから いつもの狭い生活圏内にとどまっている。

ただ、絶え間ない自粛・緊縮は人々にストレスを与え、長引けば長引くほどそれは大きくなる。
私に笑顔がないのはコロナ前からの日常的なことだけど、人々から笑顔が消えてしまわないか心配。
そして、今はまだ理性で支配できている秩序が乱れていくことも。
ささいなことで揉める、ちょっとしたことでキレる、暴力や暴言が横行する・・・
医療崩壊だけでなく、このままでは社会秩序まで崩壊してしまうのではないかと懸念される。



遺品処理の依頼が入った。
依頼者は50代の男性。
亡くなったのは男性の父親、80代。
葬儀も終わり、身辺も落ち着いてきたので、故人宅の家財を片づけたいとのこと。
男性は、その死因までは言及しなかったが、話のニュアンスから急逝であったことが伺えた。

現地調査の日、男性は、約束に時刻より早く現地に来ていた。
外見上の年齢は、私より少し上。
ちなみに、私は、自分の外見について“実年齢より若く見える”といった勘違いはしていない。
男女問わず、“自分は若く見える”というのは、多くの人がやらかすイタい過ちである。
それはさておき、男性は仕事の合間をみて現場に来たらしく、私と似たような作業着姿で、同じ肉体労働者として親しみを持ってもらえたのか、私に対してとても礼儀正しく接してくれた。

現場は、閑静な住宅地に建つ老朽アパートの一室。
間取りは、古いタイプの2DK。
和室が二間と狭い台所、トイレ、浴室。
部屋は純和風、トイレも和式、浴室はタイル貼で、給湯設備も 今はもう少なくなってきたバランス窯。
新築当時はモダンだったのだろう、昭和の香りがプンプン漂う建物だった。

故人は、もともと、几帳面な性格で、きれい好きだったよう。
室内の家財は多めだったが、整理整頓清掃は行き届いていた。
老人の一人暮らしのわりには、水廻りもきれいにされていた。
「庭」と呼べるほどのスペースではなかったけど、物干が置かれた裏手には、数個の鉢植があり、季節の花が蕾をふくらませていた。
そして、これから花開こうとするその生気は、そこから故人がいなくなったことを・・・儚いからこそ命は輝くことを説いているようにも見えた。

部屋の隅には、スペースと釣り合わない立派な仏壇が鎮座。
私の背丈よりは低いものの、重量は私よりも重そう。
また、私は安い人間だけど、仏壇の方は結構な値段がしそうなものだった。
中に置かれた仏具は整然と並んでおり、ホコリを被っているようなこともなし。
線香やロウソクも新しいもので、厚い信仰心を持っていたのだろう、故人が“日々のお勤め”を欠かしていなかったことが伺えた。

その仏壇の前の畳には、水をこぼしたような不自然なシミ。
特掃隊長の本能か、私の野次馬根性と鼻は、かすかにそれに引っかかった。
水なら数時間で乾いて消えるはず・・・しかし、油脂なら乾いて消えることはない・・・
つまり・・・それは植物性の油、もしくは動物性の脂ということになる。
肌寒の季節に似合わず窓が全開になっていることを鑑みて、私は“後者”だと推察した。

私は、それとなくそれを男性に訊いてみた。
すると、男性は、少し気マズそう表情を浮かべ、事実を返答。
やはり故人は、そこで亡くなり、そのまま数日が経過していた。
隠しておくつもりもなかったのだが、伝えるタイミングを探していたところ、私が先に尋ねてしまったよう。
ただ、時季が春先で、そんなに気温が高くなかったため、目に見えるほど腐敗はせず、その肉体から少量の体液が漏れ出ただけで事はおさまっていた。


晩年はアパート暮しだった故人には持家があった。
それは、故人が若い頃、男性(息子)が生まれたのを機に新築購入を考え、妻(男性の母親)と相談して建てたもの。
そして、長い間、そこで生活。
その間、男性も成長し、社会人になり、結婚して、子供(孫)も生まれた。
そうして、親子三代、平凡だけど賑やかに暮らした。

転機が訪れたのは、サラリーマンを定年退職した60歳のとき。
それを機に、故人は一人、このアパートへ転居。
その後は、前職のコネでアルバイトをしながら生活。
そして、70歳を過ぎるとアルバイトも辞め、のんびりした年金生活に。
贅沢な暮らしではなかったけど、時々は頼まれ仕事をし、時々は遊びに出かけ、時々は男性宅(実家)に顔をだし、自由気ままにやっていた。

男性をはじめ、嫁や孫との関係も悪くなかったにもかかわらずアパートに転居した故人には、ある想いがあった。
そこは、若かりし頃の故人夫妻が、一緒に暮らし始めたアパート。
当時の建物もボロで、その分、家賃も廉価。
もう50年も前のことだから、大家も代が変わり、建物は建てかえられていたけど、場所は同じところ建っていた。
そして、生前の故人は、「人生最後はあそこへ戻る!」と誰かに誓うように言っていたのだった。


故人が大事にしていた仏壇の中央には、若い女性のモノクロ写真。
穏やかに微笑む女性が写っていた。
背景はどこかの砂浜・・・多分、海辺。
胸元より上しか写っていなかったので想像を越えることはできないけど、服装はノースリーブの、多分、ワンピース。
背景・服装からすると、どうも、一時代前の夏のひとときのようだった。

何よりも、その表情・・・その“笑顔”が印象的だった。
穏やかな微笑であることに間違いはないのだが、ただ、 “目が笑ってない”というか“泣きそうな目をしている”というか・・・
“抑えきれない複雑な想いや葛藤が、笑顔の向こうからにじみ出ている”というか・・・
得体の知れない何かが感じられ、惹きつけられた私の視線は釘づけに。
そして、何かを推しはかろうとする心に従うように、頭は写真の中へタイムスリップしていった。

「それは私の母です・・・若い頃の写真なんですけど・・・」
アカの他人の私が仏壇の写真を注視する様を怪訝に思ったのだろう、訊かずして男性が口を開いた。
「私が小さいときに亡くなったんです・・・もう50年近く前になりますね・・・」
行年は30代前半、男性が小学校に上がる直前のこと。
死因は胃癌で、気づいたときはあちこちに転移し、手術することもできないほど進行していた。

「“もう長く生きられないから想い出をつくろう”ってことで、三人で海に出かけたんです」
とてつもなく切ない場面なのに、男性は、楽しかった想い出を懐かしむようにゆっくりと話を続けた。
「まだ小さかったですから、母親の記憶はあまりないんですけど、このときのことはよく憶えてるんです・・・」
“これが最後の家族旅行になる”ということが幼心にも感じられ、記憶に強く刻まれたよう。
そのときの家族三人の心情を察すると余りあるものがあり、返す言葉を失った私は、ただただ口を真一文字にして聞いているほかなかった。

そのときの女性は、どういう気持ちだったか・・・
末期の癌に侵され、「もう長くない」と宣告され、身体はどんどん衰弱し、病の苦しみが増す中で、どんなに、「息子の成長を見守りたい」と思ったことか、どんなに、「夫をささえていきたい」と思ったことか。
そして、どんなに、「家族と別れたくない!」「死にたくない!」と思ったことか。
もっともっと・・・ヨボヨボに老いるまで家族と一緒に人生を歩いていきたかったはず。
若い夫と幼い息子を残して先に逝かなければならないことの悲しみ・苦しみ、悔しさ、そして、その恐怖の大きさははかり知れないものがあった。

女性が、写真に笑顔を残した由縁は・・・
冷めた見方をすれば“つくり笑顔”。
しかし、父子家庭の主となる故人(夫)を末永く支えるため、幼い男性(息子)に待つ長い人生の糧になるため、必死につくった笑顔。
“笑顔の想い出は人生の宝物”・・・きっと、夫と息子、二人の その後の人生の糧になる“宝物”を残そうと思ったのだろう。
いわば、“決死のつくり笑顔”だったのではないかと思う。


「母は、“子供のためにも、いい人をみつけて再婚するように”って言ってたらしいんですけどね・・・結局、ひとり身のままでしたね・・・」
男性は、母親がいないことで、悔しい思いをしたり不自由な思いをしたりしたこともあっただろう。
両親揃っている友達を羨んだり、寂しくて一人で涙したりしたことも。
しかし、故人は、父子家庭であることをバネにさせるくらい愛情を注ぎ、丁寧に育てたよう。
男性の頭には、楽しかった想い出ばかり過っていたようで、ずっと笑顔を浮かべていた。

「夏になると、父は一人であの海に出かけてたみたいです」
故人と男性は、あれ以降、あの海に一緒に出かけることはなかった。
想い出の海辺に佇み、故人は一人で何を想ったのか・・・
それまでの人生を振り返り、想い出を懐かしみ、深い感慨にふけったのか・・・
知る由もないけど、多分、亡妻と一緒にいるような気持ちで、微笑みながら、あの時と同じ風に心地よく身をゆだねていたのだろうと思う。


やがてくる死別の悲哀を写した海辺の一枚。
カメラを向けた故人は、どんな気持ちでシャッターをきったのだろうか・・・
カメラを向けられた女性は、どんな気持ちでレンズに顔を向けたのだろうか・・・
・・・決して、幸せで楽しい気持ちではなかっただろう・・・
しかし、そんな中でも、二人は必死に幸せを見つけようとしたのではないか・・・
そして、その想いを微笑みに映そうとしたのではないか・・・
・・・そう想うと、死というものの非情さが恨めしく、また、死別というものの条理が一層切なく感じられた。

元来、薄情者の私。
これも一過性の同情、一時的な感傷・・・自分の感性に浸っただけ。
ただ、畳に残ったシミは、笑顔の向こうにあった涙と汗・・・・・先に逝った女性の涙と その後を生きた故人の汗のようにみえて、私は、なおも深いところで生きつづける“いのち”を受けとめさせられ、同時に“この命の使い方”を考えさせられたのだった。


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見えない敵

2020-04-30 08:51:55 | 遺品整理
今日で4月も終わり。
本来なら穏やかなはずの春暖はどこへやら、今月も激動のひと月となった。
流れるのは厳しいニュースばかりで、世の中の空気は重い。
目に見えるほどの明るい兆しもなく、暗雲はどこまでも垂れこめている。
そこへもってきて、私は、安酒で誤魔化せるほど能天気な性格ではなく、なかなか明るい気持ちになれないでいる。

そんな今月中旬のこと。
私は、仲間4人と、とある民家に向かった。
現場は一般的な木造二階一戸建、築年数は50年くらいか。
空き家になってから、そう時間が経っていなかったにも関わらず、家屋は著しく劣化。
室内もまた、結構な傷みが出ていた。

頼まれた仕事は家財撤去、依頼者は亡くなった住人の遺族。
「遺族」といっても、子や孫ではなく、ちょっと複雑で薄い関係。
家財や家屋はもちろん、故人にも特段の思い入れはないようで、非情にも見えるくらい冷淡。
他人に見せないようにしていても、“欲”というものは、なかなか抑えることができず、どことなく滲み出てしまうもの。
多分、それに突き動かされたのだろう、さっさと家を空にして土地を金に替えたいようだった。

単独でやる特掃にかぎらず、複数名で取りかかる一般現場でも、だいたい、作業難易度の高い部分や危険度の高いところ、特別な汚染や汚物があるようなところは私が担うことになる。
遺体系・腐敗食品系・液物系・害虫害獣系・糞尿系etc・・・
社内ルールでもなく、作業マニュアルでもなく、私が志願するわけでもなく、暗黙の慣習として。
ず~っとそうだから、私も、抗うことなくそれに従っている。

この現場でいうと、当該部分は物置にあたる。
庭に建つ、今にも倒壊しそうな古ぼけた木造物置。
もう、何十年も放置されている感じで、いかにも不衛生。
皆が各々の作業場所に散るのに合わせて、私は、その物置へ。
建てつけのわるい戸をこじ開けると、ヒンヤリとした湿気と肺に悪そうなカビ臭がお出迎え。
薄暗い中、目を凝らしてみると、何もかもにホコリが厚く堆積し、モノクロに変色。
まるで、時代に取り残されたような景観。
加えて、見えないところに何が潜んでいてもおかしくなさそうな、不気味な雰囲気が漂っていた。

私は、ウジやハエはもちろん、ゴキブリやネズミも平気。
蜘蛛やトカゲもかわいいもの。
蜂やムカデも何とかなる。
ただ、蛇はイカン、蛇だけはダメ。
実物はもちろん、玩具のゴミ蛇も無理。
TVとかで、蛇の写真や映像がでてきても目をそむけるくらい。
子供の頃は平気だったのに、いつの頃からか超苦手に。
そんな具合だから、人の死痕でも悲鳴なんか上げないのに、紛らわしいところに紛らわしいかたちで置いてあるロープやホースに悲鳴を上げてしまうこともある。
ハブやマムシじゃなければ、そんなに怖がることもないのだろうけど、あの形状は生理的に受けつけないのだ。

何年か前、一人でアパート孤独死現場の特掃をやっていたとき、天井から蛇が降りてきたことがあった。
わずかな物音で気づいたのだが、天井からのびてくる長いヤツをみたときの私の狼狽ぶりには、上から見ていた(?)故人も、思わず笑っちゃったかもしれない。
あとは、とある御宅のタンスを動かしたら、その裏からデッカイ蛇がでてきてビックリ仰天!、悲鳴とともに飛び跳ねて逃げたこともあった。

また別の民家で、 “ネズミ避け”のつもりのようで、家のあちこち 庭のあちこちに何十匹ものゴム蛇が置いてあったこともあった。
玩具とはいえ、どこを向いても、どこに行っても蛇だらけ。
しかも、何かの陰に隠すように、見えないところに置いてあるものだから、いつも突然現れる。
その驚いたこと、その恐ろしかったこと、その不気味だったことといったら・・・もう泣きそうになった。

本件の物置にトカゲはいたけど、幸い、蛇はおらず。
近くに蜂も飛んでいたが、こちらがちょっかいを出さなければ問題ないので、特に気にならず。
しかし、そこには、目に見えない厄介なヤツが他にいた。
そう・・・そこにいたのは“ダニ”。
私は、そこに多くのダニが潜んでいるのを、身をもって知ることとなった。

作業を始めると、目が痒くなるくらい大量のホコリが舞った。
それは防ぎようがないので、我慢して作業を進行。
すると、ほどなくして、首元が痒くなってきた。
そして、その痒みは、どんどん強くなり、首元から脇、背中へと拡大。
しかし、別に“痛い!”わけじゃないから耐えられないものではなく、そんなことで作業を止めるわけにはいかない。
私は、ヒドくなるばかりの痒みと戦いながら、作業を続行した。

もっとも重症だったのはクビ周り。
ぐるりと360°赤いブツブツができ、これが痒いこと!痒いこと!
しかし、掻くと余計にヒドくなるので、痒くても我慢!
仕事をしている昼間は気が紛れてそんなに気にならなかったけど、夜になると、感じる痒みは倍増!
特に、就寝中が強烈!
もう、痒くて!痒くて!まったく我慢することができず。
ボリボリ ボリボリ、手が届くところは軒並み掻きまくってしまった。
手が届かない背中は、愛用の孫の手をつかってまで。
それが二~三日続き、その間はロクに眠ることができなかった。

私は、頭だけじゃなく身体もかなり固い。
自分の手で背中を掻くことができない。
で、“孫の手”を持っている。
昔ながらの木製のヤツではなく、金属製でアンテナのように伸縮する最新式(?)のヤツ。
よくある木製のモノは先端(指先部分)が丸みをおびていて肌への当たりがソフト。
掻き心地は弱くて、痒みがとれるどころか、逆に歯痒い思いをしてしまう。
一方、私が持っている金属製のモノは先端(指先部分)が鋭利で肌への当たりがハード。
それを痒いところに押し当てて、ガリガリ!と痛いくらいに擦りつける。
すると、その強い掻き具合により、バツグン!の爽快感が得られ、これが相当に気持ちいいのである。

ちなみに、私は、耳カキもハード派・・・「スーパーハード派」といってもいいくらい。
中学の頃からそう。
しかし、耳鼻科医は、「耳掃除は綿棒でソフトにするべき」「耳垢は全部とってはいけない」と警告。
しかし、これは、「雑巾だけで特掃をやれ」って言っているようなもの(じゃない?)。
綿棒で撫でるだけなんて、そんな赤ん坊みたいなことやってられない。
固く鋭利な耳カキ棒で、ガリガリ!やらないと満足できない。
私は、それを、一日に一度とかではなく、二~三度、多いときは五~六度もやる。

となると、それなりの備えが必要(大袈裟な言い方だけど)。
で、いつでもどこでも耳カキができるよう、耳カキ棒は身の回りの至るところ置いてある。
自宅にも何本か持ってるし、会社のデスクにも、車にも積んである。
たまにしか使わない、カバンやリュックにも。
掻きたくなったらすぐに掻けないとストレスになるから、いつでもどこでも掻けるようにしてある。
26とか27くらいのときだったか、運転中の耳カキで右耳の鼓膜を破ったことがあって、今でも難聴と耳鳴りが残っているのに、まったく懲りていないのだ。

ダニの話に戻る。
あれから二週間余が経ち、今、症状はほとんど治まっている。
ブツブツはかなり小さくなり、残っている痒みもわずか。
本来なら、蕁麻疹がでてときみたいに、すぐ病院に行けばよかったのかもしれないけど、もともと私は病院嫌い。
その上、コロナにも注意しなければならず、皮膚科とはいえ不要不急で病院に行くと色んなところに迷惑がかかってしまう恐れもあった。
で、結局、病院には行かず、自然治癒に任せて今日に至っている。


特効薬もワクチンもない今、この新型コロナウイルスも自然治癒を待つのが治療法の主流だそう。
根本的には、人がもつ免疫力や治癒力が頼り。
必死に行われている治療を批判するつもりもなければ、懸命に動かされている医療を軽視しているわけでもないけど、その根幹は原始的。
ということは、日常生活において免疫力を下げないよう気をつけ、免疫力を高めるよう努めることが大切だろう。
感染しないよう充分な対策を実行し、また、“自分が保菌者かもしれない”という危機感を持ち、その上で、人に感染させないよう細心の注意をはらうことと同じくらいに。

問題は、身体のこと以外にもある。
そう・・・、生活の問題・・・お金の問題・・・経済の問題。
リーマンショックのときは、我々のような零細末端の珍業種には、ほとんど影響がなかった。
東日本大震災のときは仕事が激減したが、二カ月を過ぎた頃から徐々に復調してきた。
で、今回のコロナ災難は・・・
これは、それよりも、はるかに大きな影響がでる可能性をはらんでいる。
そして、終わりの見えないこの未知数が、不安感・悲愴感を増大させている。

そんな中、コロナ対策支援金として、政府が一人10万円くれるという。
はじめの30万円のときは、自分が対象外になることは容易に想像できたので何の興味も覚えなかったけど、今回の10万円は私ももらえるようなので関心がある。
ただ、その政策・・・いわゆる“金のバラマキ”には賛成できない。
「安直」というか「安易」というか、そういった浅慮感が否めない。

確かに、今の今、現金がなくて困っている人は多いのかもしれない。
「今をしのぐことで精一杯、その先のことなか考えられない」という人もいるかも。
そういう私だって、お金は必要、お金はほしい。
しかし、世帯差・個人差はあれど、これで延びる“生活寿命”は約一ヶ月。
たった一ヶ月延びるだけ、たったの一ヶ月・・・一ヶ月なんてすぐ過ぎる。
一ヶ月経って、支給金を使い果たして、スッカラカンになって、その後、どう生きればいいのか・・・一ヶ月先に待っているのは、今と同じ苦境なのである。

国も、“焼け石に水”であることは分かってながら、“目先の急務”としてやらざるを得ないということか。
他に妙案があるわけでもないから「愚策」とまでは言えないけど、布マスク二枚も同様、政治家の人達は、本来、頭がいいはずなのだから、もうちょっとマシな政策が打てないものかと、首を傾げてしまう。

もちろん(?)、政策に同調できないからといって、私は、受給を辞退するつもりはない。
「受給を辞退しても10万円は国庫に溶けるだけで何の役にも立たない(byどこかの市長)」といった啓けた見識もなければ、金銭欲を押しのけてまで貫けるほどの信念も持っていない。
ただ、「お金がほしい」「お金が必要」というだけのこと。
結局のところ、誰も最後まで助けてくれないし、自己責任・自助努力・・・個々で何とかするしかないのだから。

・・・と、評論家気取りで私見を述べてはいるものの、ことの是非を判断するのは一個人(私)ではなく社会、成否を見極めるのは一個人(私)ではなく未来、そして、評価を下すのは一個人(私)ではなく歴史。
ただ、この大きな難局において、今は、批判は口(文字)だけにして、国や自治体の方針に従うべきところは従い、協力すべきところは協力すべき。
同時に、痒いところに手が届く孫の手のような策を練りながら、蛇のようにしなやかに 苦難と苦悩の隙間をすり抜けながら、粘り強く生きるしかない。


敵は、新型コロナウイルスだけではない。
そこから派生したツラい出来事・・・怒り、悲しみ、苦しみ、恐怖、不安、絶望感が渦巻く現実も然り。
しかし、この苦境は、これまで我々が目もくれなかったことに目を向けさせ、多くのことを学ばせ、たくさんの知恵を得させてくれるのかもしれない。
人格を練り、品性を磨き、自分を鍛えるチャンスを与えてくれるのかもしれない。

そして今、“ぜいたくウイルス”“わがままウイルス”“傲慢ウイルス”“怠惰ウイルス”“冷淡ウイルス”etc・・・
それぞれ自分が感染している“見えない敵”を私達に気づかせ、その病を治す免疫を与えてくれるのかもしれないのである。


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ヤバい奴

2020-04-24 08:57:10 | 腐乱死体
4月も終盤に入ってきているというのに、なかなか暖かさが安定しない。
例年なら、暖かい日はもちろん、暑い日も少なくないはず。
なのに、今年はこんな感じ、いわば“令春”。
何かの摂理が働いてのことか・・・
この寒気が何かに影響しているのかどうか、逆に、何かが影響して寒気がきているのかどうか知る由もないけど、多くの人が曝されているように 肌で感じる気温だけではなく、世の中の空気まで寒々しくなっていることは言うまでもない。

こういう事態になってくると、平穏な日常のありがたみをヒシヒシと感じる。
飽き飽きするほどかわり映えしない毎日、平凡でありきたりの日常、不平不満ばかり吐いていた味気ない日々を・・・
ついこの前のことなのに、そんな日常を懐かしく思ってしまうのは、それほど、このコロナ災難が重大かつ深刻であるということか。

休業や外出自粛で、街の活気も失われている。
“活気”だけでなく、“生気”まで失っている人もいるだろう。
ただ、この期に及んでも、一部には“三密回避”“外出自粛”を無視し、人の迷惑も顧みない輩もいるよう。 
“自由”というものの成り立ちや根源を知らず、自制できないことを“自由な生き方”と勘違いし、「経済を回すため」等と自制心の欠落を他人への偽善にすり替え、無責任なクセに困ったことが起こると他人からの支援を当然のように貪るヤバい奴だ。
「越境飲み!?」「越境パチンコ!?」
もう、呆れるし、不愉快だし・・・強い憤りを覚える。

「外出自粛要請」がでていても、在宅勤務が不可能な私は、毎日、出勤している。
現場仕事は少なくなってきているけど、それでも、まだやるべき仕事があるから。
ただ、仕事以外での外出は控えている。
スーパーに食料を買いに行くくらいにして、余計な動きはしていない。
しかも、できるだけ短時間で、レジ精算時をはじめ、店内を歩くときも他の客との距離に気をつけている。

せっかく?時間があるのだから、スーパー銭湯にでも行ってリフレッシュしたいところだけど、そこも営業休止中(営業していても、今は行かないけど)。
しばらくぶりの軽登山も考えたが、人出が多いと登山道は混む。
屋外とはいえ、人と濃厚接触してしまうこともあり得る。
しかも、マスクをしたたままでは呼吸がツラい。
で、結局、断念。
あとは、ソロキャンプか、一通りの道具は持ってるし。
しかし、キャンプ場も混み合ったら意味がない。
シャワー室・トイレ・炊事場などは感染リスクが高いから、やはりダメ。
その代わりに、今年は花見もできなかったし、もう少し暖かくなるのを待ってBBQでもやろうかとも思うけど、人を集めてしまうのはマズいので、これも工夫が必要。
あと、“ソロBBQ”でも気分転換できるはずだけど、趣味を孤高に楽しんでいるように見えるソロキャンプは、ある意味でカッコいいのに比べ、“ソロBBQ”ってのは、「そこまでして炭火で飯が食いたいのか?」っていう風に見られて、なんだか、ネクラっぽい孤独感がでて“ヤバい奴”になってしまいかねない。
結局、できることが思いつかず、人を避けながらウォーキングだけやって その日その日を暮れさせているのである。

休みがとりやすくなったのはありがたいけど、遊び慣れしていない私でも、何のレジャーも楽しめないのは寂しく思う。
また、その理由が仕事減では、身体は休めても気持ちは休まらない。
現場作業が少なくて身体は楽になったのかもしれないけど、逆に精神はツラくなっている。
事態が深刻化していく一方であるうえ いまだウイルスの収束時期が読めていないわけで、先に明るい展望が持てないから余計に。
筋金入りのネガティブ男(私)は、この先のことを考えると 悪い予感しかしない。
そして、鬱持ちであるが故に、その精神は それに過敏に反応しているのである。
何とか今はまだ、少しは余裕があるけど、このまま時が経てば経つほど、私も徐々に追い詰められていくだろう。
ホント、困った・・・ホント、弱った・・・。


「転落死なんですけど・・・」
付き合いのある不動産会社から特掃の依頼が入った。
現場は、繁華街の裏路地にある古い木造アパート。
そこは、車が通れるほどの道幅はないけど、自転車や歩行者の往来は多いエリア。
建物は二階建で、1DKが一階に二戸、二階に二戸。
二階の一室は空室で、もう一室が故人の部屋。
二階へつながる階段は内階段になっており、二階二戸の玄関は一階、路地に面していた。

「うぁ!・・・ヤバ・・・」
目を見張ったのは、その玄関。
玄関ドア外側の下部には、いくつも赤黒い筋。
それは、醤油やソースでもなく、チョコレートでもなし。
そう・・・それは、どこからどう見ても血、しかも大量。
私は、不動産会社から“階段下の玄関で倒れていた”ということは聞いていたが、“外に血が流れ出ている”ということまでは聞いていなかったので、ちょっと驚いた。

「さてと・・・開けてみるか・・・」
私は、何枚かのタオルを細長く折り、ドアの下に重ねて置いた。
そして、不動産会社から借りてきた鍵を挿入。
周囲に人影がないことを確認してから、ゆっくりドアを引いた。
素人ではない私は、ドアを開ける際、ダムが決壊したときのように土間の血が再び流れ出てくることにも用心していた。
しかし、幸い、血だまりの大部分は凝固し、新たに流れ出てくることはなかった。

「うぁ~・・・こりゃ迫力あるな・・・」
眼下には、赤黒い粘液で覆われた玄関土間が出現。
それは、半乾きの状態で滞留した大量の血。
乾いた部分は冷えたブラックチョコレートのように固まり、乾ききっていない部分は煮詰めた赤ワインのように生々しく光っていた。
と同時に、特有の血生臭さがプ~ンと私の鼻をとおり過ぎて、ズ~ンと精神を圧してきた。

「本当に転落死か?」
もっとも大きい血痕は玄関土間にあったけど、そこだけにとどまらず階段から二階故人宅の台所床にも付着。
もともと身体の具合が悪かったのだろう、 “転落”だけではない死因が他にあったことは素人目にも明白。
室内で吐血または下血した後、それで慌てたか、階段を転げ落ちて外傷を負ったものと思われた。
ま、どんなに推理を働かせてところで、私がやらなければならない仕事は変わらない。
自分の中で一応の決着をみた私は、作業のシミュレーションに頭を切り替えた。

「しかし、よりによって、この場所とは・・・」
そこは人通りが多い路地に面した位置。
階段は急で狭く、血が溜まった玄関の土間も狭い。
しかも、くたびれた裸電球はロウソクの灯程度の光しか放たない。
室内からの特掃は極めてやりにくい・・・ドアを開けた状態で外からやらないと無理な構造。
しかし、そうすると、通行人から血痕も作業も丸見え、“なかなかの見世物”になりかねない状況だった。

「別に、悪いことするわけじゃないんだから・・・」
ない頭で知恵を絞ってはみたものの、私は、その作業法以外の妙案を思いつかず。
開き直ってやるしかなく、結局、オープンで作業することに決定。
私は、自己防衛のため“一人の世界”に引きこもり、誰かに近づかれないよう“多忙につき声かけ無用”の雰囲気を醸し出して心理的なバリアを張ることに。
極力、自分の視界を狭くするため、うつむき加減でしゃがみ込み、ほとんど路地側に背中を向けたまま作業をすすめた。

「警察とか呼ばれたらかなわんな・・・」
一人の世界にバリアを張っていても、私の横目視界には幾人もの通行人が入り、耳には近づいては遠ざかる足音が聞こえ、背中にはムズ痒くなるような好奇の視線を感じた。
ただ、ヒマな野次馬はほとんどおらず、大方の人は、軽く目をやるだけで通り過ぎていったと思う。
好奇心旺盛な人の中には視線を止めた人もいただろうけど、そんな気配は感じなかったから、多分、歩を止めて覗き込んだ人はいなかったと思う。
ただ、多くの人は、“血だらけの玄関”と“両手 血まみれの男”を見て、“ギョッ!”としたのではないかと思う。
これで鋭利な道具でも使っていたら、完全に警察を呼ばれていただろう。
事実、小声ながらも、何度か驚嘆の声が上がったのを私の耳は聞き逃さなかった。

「ヤバい奴に見えてんだろうな・・・」
私は、背後を往来する人から見た自分の姿を想像。
その怪しさは、例えようがないくらいの奇妙でインパクトのあるもの。
我ながら、その様がなんともおかしくて、故人には失礼ながら、時々 クスクスと笑いが込みあげてきた。
黙っていても“ヤバい奴”なのに、そいつが一人で笑っているとなると“ヤバい”と通りこして“恐ろしい”。
“そんな風に見られているかも”と思ったら、私は、余計に自分がおかしくて、“ヤバい現場で笑っているヤバい奴”となってしまっていた。


時々、私は、ヤバい奴に変身する。
アブナイ系ではなく、ヘンテコ系の。
特掃現場では、特にそうなる。
ヤバい所が元来の仕事場で、ヤバい状況を片づけるのが仕事なのだから仕方がない。
客観的に見ると、その様は、かなりグロテスクかつ滑稽だと思う。
人の目には、とてもカッコよく見えるものではないけど、それでも、自分では「カッコいい」と思ってしまうときもある。
その由縁は、“使命感・責任感”“依頼者の付託に応えるため”などといった上等のものではなく、“故人の尊厳を守る”“仕事のプライド”などと言った高等のものでもない。
“並の奴にはできんだろ”といった塵芥のような優越感だったり、“俺にしかできんだろ”といったゴミ屑のような職人技だったり、自分以外の他人には興味も価値もないことだったりする。

更に、その由縁がある。
それは、その内にいる“ヤバい奴”。
私の心底には、過激な思考、邪悪な想像、卑猥な妄想(ちなみに、性癖はノーマル)をする奴がずっと居座っている。
例えば・・・・・んー・・・問題あるから書くのはやめておこう。
もちろん、そいつが現実の行動にまで姿を現してくることはない(?)けど(たまにはあるかも、・・・あるな・・・)、人に知れると、人は私から離れていくだろう。
ただでさえ、交友関係が狭い私の場合は、いよいよ一人ぼっちになるか。
ま、この時期なら、人との距離は空いた方がいいし、一人ぼっちでいるくらいの方が安全だし、世の中のためにもなる。

今は、これからくるであろう“寒夏”に耐えきれるかどうか悩むことはさておいて(私は悩んでしまうけど)、また、他人事として無責任に遊ぶことはやめて、我々がやれること・やるべきことを真剣に考え、真摯に取り組むべきとき。
今は、今日の自分のために生きるのではなく、明日の自分のために生きるべきとき。
それが、誰かのためになり、世の中のためにもなる。
常々、“今を大切に”、“今を楽しむ”生き方に憧れ、実践したいと思っている私だけど、それは、今を大切にすることに矛盾することなく、今を楽しむことに通じる部分もある。
我々は、獣や草と同じではなく、本能だけじゃない動力を持たせてもらっている「人間」・・・・・幸せに生きるチャンスをもらっている「人間」なのだから。

とにもかくにも、この“新型コロナウイルス”ってヤバい奴、早いとこ くたばってほしいものである。



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希望の芽

2020-04-18 13:29:01 | その他
2020年、春、新緑の季節。
しかし、今日の東京は大荒れの空模様。
肌寒く、台風がきたかのような暴風雨。
これで、水害や土砂災害が起きなければいいけど・・・

時勢も大荒れ。
気温だけじゃなく、世の中の雰囲気も寒々しい。
オリンピックという大祭もなくなってしまったし、芽吹いて間もない葉桜が、どことなく寂しげに見えるのは私だけだろうか。

前回ブログを更新したのが昨年8月23日だったから、夏が終わり、秋が過ぎ、冬を越え、もう8ヶ月近くが経つ。
しばらくぶりの私、「仕事を辞めた?」「傷病で休んでる?」とか「ひょっとして、死んだ?」等と思われていただろうか。
が、歳だけはとったけど、私は、相変わらず そこそこ元気にやっている。
意識してブログを止めていたわけでもなく、仕事等 時間の都合で、結果的に止まってしまっていた。
ごくたまに「そういえば、しばらくブログが止まっているな・・・」と、気づくときもあった。
そして、「このままやめてしまおうか・・・」と思ったこともあった。
とにかく、睡眠や休息の時間を削ってまで書くほどのことでもないので、放っておいた次第。
しかし、この時勢で仕事が減り、少しずつヒマになってきている。
幸か不幸か、ブログを書く時間がつくれるようになっているわけ。
はたして、今更、これを読んでくれる人がいるのかどうかわからないけど、この“ヒマ人のヒマつぶし”に立ち止まってくれる人がいたら、細やかに嬉しい。

基本的に“相変わらず”やっている私だけど、困ったこともあった。
昨秋、プライベートで大変な目に遭った。
それは、身近な人間の大病。
仕事も休めず、心身の疲労が重なり、情緒不安定な状態に陥ってしまった。
それが一段落ついたかと思った矢先、今冬、仕事で大変な目に遭った。
これもまた、身近な人間の大病。
「少しゆっくりさせてもらおうか・・・」と思っていた矢先の急病で、仕事はテンテコ舞。
休んでいるヒマはなく、夜、寝ている間にも仕事のことを考えているような始末だった。
そして、今、プライベート・仕事、両方で大変な目に遭っている。
そう・・・この新型コロナウイルスの問題だ。

二月の時点では完全に他人事。
自分には関係ない、どこか遠くの出来事のように捉えていた。
三月になると、発生地が身近なところにまで迫ってきて、少しは自分の問題として捉えるようになってきた。
連日、コロナのニュースが踊り、飲食業・観光業・レジャー業などの苦境が多く伝えられるようになってきた。
それでもまだ、“他人事”のような感覚は残っていた。
が、三月下旬になると、身近なところの様相も一変。
業界や取引先に影響が及んできて、仕事が減る兆候が見え始めてきたのだ。

それはそうだ。
私の仕事は、生活を維持するうえで不可欠なものではない。
製造・食品・物流・医療等とは関わりがなく、有事の際の社会貢献度も極めて低い。
更に、遊興快楽的な要素も健康に資する要素もなく、人々に元気をもたらすものでもない。
災難の真っ只中では、まず必要とされない。
近隣から苦情がでるような腐乱死体現場なら緊急性・必要性が高いけど、肌寒いくらいのこの時季はそれもない。
したがって、仕事が減っていくのもうなずける。

ただ、“コロナ消毒”の問い合わせは増えてきている
不動産管理会社やマンション管理組合等が、感染が発生した場合を想定した上での事前準備として。
これだけは、この時勢でニーズがあるわけだ。
が、対象の規模が大き過ぎたり、求められるクオリティが高過ぎたりすることも多く、机上の想定だけで安易に契約するのは危険。
また、施工者(当社)のリスク管理の問題もある。
一人でも感染したら、そこで営業中止になるわけだから、一つの依頼でも売上利益だけ見るのではなく、大局的・長期的・客観的に見て判断することが必要なのである。

かと言って、多くの人達と同様、私も収入がなければ生活を維持できない。
つまり、仕事がなければ・・・働かなければ生きていけない。
事態がこのまま深刻化していけば、仕事を選ぶ余裕はなくなってくるはず。
大袈裟な言い方になるけど、生きていくために命を懸けてコロナ消毒をする日がくるかもしれない(今、最前線で闘っている医療従事者に比べれば、“子供のお遊び”みたいなものかもしれないけど・・・)。

こんな状況になって、今、「失業」という文字が“心構え”として頭に浮かんでいる。
加齢や体力が理由の退職なら想定内のことだけど、この事態はまったく想定外。
説得力のある論拠で、事態の収束時期を具体的に示せる専門家も現れていない。
「なるようにしかならない」「何とかなる」等と、根拠なく楽観視できるほど、事は小さくない。
現場仕事がなくなれば仕方がない。
この状態が長引けば、失業の“心構え”は“覚悟”に変わっていき、いずれ“現実”となってしまう。
似たような境遇にある人はごまんといる。
とてもイヤなことを言うようだけど、この先、感染者や死亡者だけでなく、失業者・破産者も増えていくだろう。
悲しいことながら、自殺者も増えていくかもしれない。

察してもらえる通り、私の仕事は“在宅勤務”ができるものではないし、在宅勤務で給料が得られるものでもない。
在宅勤務を拡大解釈しても、我が家は、特殊清掃が必要なほど汚れてはいないし、ゴミ屋敷でもない。
死人もいないし、死体もない(当り前!)。
ブログ制作くらいは家にいてもできるけど、これは仕事(給料がもらえるもの)ではない。
で、今のところ、現場仕事がない日でもフレックスタイムで出退社している。
まだ、いくらかはやらなければいけない事務作業や雑用があるから。
もちろん、事務所では“三密”にならないよう・・・“一密”もつくらないよう細心の注意をはらい、外出の際もかなり気をつけている。

「三密回避」の警告が出されて久しい。
更に、「緊急事態宣言」が出されていることは、承知のとおり。
同時に“外出自粛要請”も出されている。
自分だけの問題じゃ済まされないから、ある種の社会的責任も発生している。
しかし、普段から私は“外出自粛”をしているようなもの。
友達もなく非社交的、外食をはじめ 外で飲むこともほとんどない。
誰かに遊びに誘われることもなく、趣味や同好会等のグループにも属していない。
結果、“外出自粛要請”の前後で、生活スタイルにほとんど変化はない。
変わったことといえば、マスクや消毒剤を常用するようになったことと、ウォーキングや買い物の際、人との距離を意識するようになったことくらい。
それも、日に日に神経過敏になってきていて、不用意に誰かに近づかれると“イラッ!”とくるようになってしまっている(きれいな女性に近づかれて“イラッ!”とくるかどうかは不明)。

外出自粛で家にいると、特にやることがなく、スマホやPCをいじりながら、暇な一日を過ごしている人も多そう。
SNSが高度に活用されている今日この頃、大衆に重用さて重宝されているよう。
反面、私は、普段、YouTubeを観ることはないし、Twitterとうヤツもやったことがない。
“時代おくれ”は重々承知しているけど、興味がないから積極的に触れることもない。
ただ、多くの著名人がそれらを通じて、励ましや癒しの音楽やメッセージ・パフォーマンスを発信しているのを、TVニュースを通して目にしている。
発信側の芸能人やアーティスト・アスリートにとっては、これも ある種のビジネス、または、先を見越したビジネスの種蒔きなのかもしれないけど、個人的にはシックリこない。

人を励ますことができる人は、まだ、余裕がある人。
新型コロナウイルス被災民は、“まだ余裕がある人”と“もう余裕がない人”に分かれると思う。
つまり、「被災民の中にも階層がうまれ、温度差がうまれている」ということ。
そして、残念ながら、これは、時間が経ては経つほどハッキリとした型を成していくと思われる。
真に追い詰められた人は人を励ます余裕はなく、自分と家族を維持していく力さえ奪われている。
そういった発信者達の善意に目を向けられないほど気力を失い、素直に受け止められないほど疲弊し、絶望し、苦悩しているような気がする。

真に追い詰められている人にとって、角度によっては“他人事”“お遊び”“お祭り騒ぎ”にも見えるそれらの発信は、“癒し”“励まし”にはならず、冷淡に神経を逆なですることにもなりかねない。
もちろん、それらを「偽善」「不要」と言っているわけではない。
善意であるだろうし、そういう発信を欲し、それで、癒され・励まされている人も多いだろう。
私のように、能書きだけ垂れて何の人助けもしない輩よりよっぽどいい。
ただ、被災民の中でも、崖っぷちに立たされている“弱被災民”がいることに心を寄せることも人間同士の礼儀ではないかと思う。
善意の押し売りは、結果的に、悪意に似たものとなる可能性があるのだから。

善意だったかもしれないマスクの高額転売も悪意と見なされ、表面上、今はネットからも消えている。
それが拍車をかけたわけでもないのだろうけど、マスクはもちろん、消毒剤の類も、相変わらず手に入れにくい。
街のあちこちにあるドラッグストアには、朝から長蛇の列ができている。
今のところ、自分達で使うくらいのマスク・消毒剤は確保できているから、私は そこまでの購買行動はしていない。
しかし、このままの状態が続けば、そのうち、朝ドラ(朝のドラッグストア)デビューしなければならない日がくるかもしれない。
ま、早起きは得意だし、開店までボーッとつっ立ってるだけのことだから、難しいことではない。
難しいのは、手間暇かけてもマスクが手に入らなかったときに、自分の感情を理性的にコントロールすること。
“溜まっていく一方の不満・ストレスをどう解消していくか”だろう。

事実、コロナ問題が原因で、家庭不和・DVが増えているらしい。
「コロナ離婚」という言葉まで出現している。
この災難は、健康や経済だけにとどまらず、人間的にも多くのマイナスをもたらしている。
しかし、何かしらのプラスを得られないわけではないと思う。
残念ながら、多くの人間は、失わなくても気づくことができる知恵を持ち合わせていない。
与えられている平和を当り前のことのように、手にしている恩恵を当り前のもののように勘違いして生きている。
失ってみて 多くのことに初めて気づき、初めて気づかされる。
こうした困難に遭ってこそ気づかされる大切な何か、苦難に遭ってこそ学ばされる大切な何か、災難に遭ってこそ養われる・練られる大切な何かがある。

もともと、人は、その“何か”の種をもって生まれてくる。
例えば、日常では影を潜めている家族愛や友情、無視している健康や寿命、衰弱している忍耐力や自制心、目をそむけている正義感や道徳心、遠ざけている使命感や責任感・・・
そういった、人が、ただの獣ではなく、人であるが故に大切にすべきものが、暗い土中から“芽”を出してくるのではないだろうか。

不安は大きい・・・将来に大きな不安を抱えている。
それでも、変わりなく時間は流れている。
この先も、望まない事態、逃げたくなるような出来事は起こるだろう。
ただ、今の苦境を楽境に、逆境を順境に反転させるのは、その“芽”。
その芽は、今生で花を咲かせることはできないかもしれない、実をみのらせることはできないかもしれない。
また、人間がもつ愚弱な性質によって、途中で枯れてしまうかもしれない。
しかし、子や孫に、友や縁もゆかりもない若者に、次の世代・新しい時代に、歴史や教訓としてつないで花を咲かせ実をみのらせることはできる。
先の大戦による死苦痛悩悲哀が、今の平和の礎となっているように。
そのための人生、そのための生き方でも、生きる理由と価値は充分に見いだせるのではないだろうか。

生きていくのが面倒臭く思えるくらい、不満の芽・不安の芽が次々と出てくる昨今。
悪い意味での非日常に、気分も沈みがち。
それでも、希望の種はある。
どうあがいても、私の人生、あと もう少し。
これから、自分の人生がどのように展開していくのか、想像を超えた人生が待っているのではないか、ほんの少しは楽しみに思える瞬間がある。
それは、これまで幾度も「死にたい!」と思ってしまうようなことがあったけど、結局のところ生かされてきたことを思い出し、また今、こうして生かされていることを覚えるとき。
同じように、この先も、この命が尽きるまでは生かしてもらえるだろうと思うと、一寸先の闇に一筋の光が射し、希望の芽を導いてくれるのである。


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