特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

想定害

2021-02-22 08:27:45 | 遺品整理
「早起きは三文の徳」
できるかぎり、私は、早起きを励行している。
夜明けが遅い冬場でも、起床はほとんど5時台。
夜明けが早い夏場だと、4時台。
不眠症のメリット?で、夜中には何度も目が醒めるし、自分が予定していた時間を過ぎて目を醒ますことは、ごくたまにあるけど、仕事に遅刻するくらいに寝坊してしまうことは皆無。
当然、目覚まし時計なんて、まったく必要がない。
それで何をするかというと、早朝のウォーキング。
それから、朝ご飯をしっかりと食べるのだ。
もちろん、仕事の予定によって変動はするけど、おおかた朝はこのパターン。

もちろん、早朝の起床はツラい。
特に、冬は暗いし寒いし。
しかも、ほとんど朝は「このまま夜が明けなければいいのに・・・」と思うような鬱状態。
だからこそ、そこで思い切って起きないと余計に苦しむことになる。
怠惰な欲望を振り切って自分を叩き起こさないと、その後が大変なことになるのだ。

楽ではないけど、早起きしていいこともある。
ウォーキングの時間帯は、ちょうど朝陽が上がるタイミングで、晴れた日には絶景がおがめるのだ。
澄みきった空気、オレンジに染まる空、日によっては輝く月星もみえる。
「人生は短い・・・絶景が見られるなら、見られるうちに見ておかないともったいない」と言っている人がいたけど、まったく同感!
感動や感激、そして感謝の念は、いくつになっても持ち続けることができる!
それこそ、“生きてる楽しみ”というもの!

ただ、そうなると、逆に夜は弱い。
何も用がないときの就寝時刻は、高齢者or小学校低学年レベル。
起きたまま0:00を越すなんてことは、年に一度の大晦日くらい(前の大晦日は0:00前に寝てしまったけど)。
でも、それもまたヨシ。
晩酌しても深酒にはならないし、遅い時間に食べて脂肪を蓄えることもない。
質はともかく、充分な睡眠時間が確保できるため、ゆったりとした気持ちで寝床につくことができる。
そして、そんな安息のひとときは、次へのエネルギーを養ってくれる。

そんな深夜、2月13日、枕元に置いているスマホがいきなり唸った。
昼間でもそこそこ驚くのに、夜中だとビックリ仰天!
そう、それは、緊急地震速報。
誰が考えたのか、あの警報音は、本当に不気味で恐怖心があおられる。
十年前の出来事が思い起こされ、今でもある種のトラウマみたいになっている。
また、心臓麻痺で亡くなる人もでてくるのではないかと心配にもなる。
その警報が、けたたましく鳴ったのだ。
そして、間髪入れずにグラグラ!っときた。
福島県を中心に最大震度6強の地震に見舞われたのだった。

いつものように浅い眠りについていた私は、すぐに目を醒ました。
首都直下、東南海、南海トラフ・・・今の日本は、いつ どこで、大きな地震がきてもおかしくない状態にあるのは承知のとおり。
いつもとは違う強い揺れ方に、私は「大地震がいよいよ来たか!?」と身構えながら身体を起こし、そのまま立ち上がった。
が、外で出るべきか室内にとどまるべきか、すぐに判断がつかず。
また、持って出るべきものも、すぐに思いつかず。
とっさに掴んだキーホルダーを手に、ギシギシと軋む音がする室内を右往左往するばかり。
心配性の私は、一般の人よりも強くコロナや地震に対する心構えをもっている自負していたけど、結局、戸惑うばかりで素早い判断と行動ができなかった。

揺れが治まってきた頃、NHKをつけると、早速、地震のニュースをやっていた。
「福島県で震度6強」「震源が海底の場合、津波が起こる可能性があるので注意」
と、アナウンサーがやや早口で情報を流していた。
私は、津波の心配がない土地に暮らしているので、その不安はなかったけど、脳裏には十年前の映像が蘇ってきていた。
そして、「大事にならなければいいけどな・・・」と、スウェット(パジャマ)の上に袢纏を羽織り、冷え冷えとした部屋の中で、しばらく繰り返されるニュースを注視した。

考える時間、迷っている時間が、結果的に命取りになる危険性もある。
頭ではわかっていても、実際に地震が起こったとき、すみやかに適切な行動ができないと意味がない。
今回、私は、コロナ同様に地震にも慣れてしまっていることに気づかされた。
あと、実際に大揺れすると、一時的に頭が真っ白になることも。
不意に地震が起こることは想定内のはずなのに、実際の感覚は想定外。
「想定外」を「想定内」にしておくこと・・・物理的な備えはもちろん、自分がとるべき行動もよくよく考え置いて、直感的に動けるようにしておくことが大切だと、つくづく思った。



訪れた現場は、郊外の閑静な住宅地に建つメゾネット式アパート。
オシャレな外観、凝った造りで、軽量鉄骨構造ながらも一般的な重量鉄骨マンションよりも高級感がある建物。
亡くなったのは50代男性、自室で孤独死。
仕事は個人事業で、亡くなったことをすぐに察知されるような人付き合いもなく、発見されたのは亡くなってから数日後。
ただ、寒冷な季節でもあり、その肉体は、腐敗らしい腐敗はしておらず。
寝室のベッドに、薄いシミが発生している程度。
わずかにアンモニア系の異臭があったものの、一般的な生活臭の方が強く、“そこで人が亡くなっていた”ということは言われなければわからないくらいだった。
また、長年の一人暮らしで家事には慣れていたのだろう、中年男性の一人暮らしの割に部屋はきれいで、汚くなりやすい水廻りもきれいに保たれていた。

故人は独身独居、親兄弟はなく、もっとも近い血縁者は叔父・叔母。
ただ、叔父・叔母は遠方の田舎に暮らし、また、かなりの高齢。
一族の文化か、田舎の風習か、親族は“血のつながり”というものを重く考えているよう。
遠戚とはいえ、借り物の家で身内が孤独死したことに少なからずに責任?負い目?みたいなものを感じているようで、深刻な表情。
その様子から、故人の後始末を引き受けるつもりがあることは充分に伺い知ることができた。

大家は、代々、この地域の地主。
先祖は、この地域に田畑をもって汗を流していた農家だったのだろうが、時代の移り変わりとともに農地は商業地や宅地となり、資産価値は上昇。
汗水流していたのは先祖、その末裔である大家は、ハッキリ言ってしまえば“棚ぼた”で資産を手に入れた身。
もちろん、相応の労苦はあるのだろうけど、一般庶民に比べれば、経済には余裕があり、生活は優雅。
何の資産も持たない貧乏人(私)からみると、羨ましく思える身分。
ただ、同じ資産家でも色んな人がいて、寛容な人もいれば強欲な人もいる。
自分のことを棚に上げて言わせてもらえば、残念ながら、本件の大家は後者だった。

大家、親族、業者(私)、三者協議のテーブルでのこと。
親族に対して大家は、家財生活用品の処分と、そこで亡くなっていたことを理由に、ある程度の消臭消毒を要求。
もともとそのつもりはあったようで、これは、親族も承諾。
しかし、ことはそれだけにはとどまらず。
“世間知らずの田舎者”“お人よしのお年寄り”といった体の親族が黙って頷いていることに気を大きくしたのか、大家は、全面的な内装改修工事や設備の入れ替えまで打診。
「新築にする気か?」「そこまでする必要ないだろ?」と思うようなことまで、当然のように要求しはじめた。
そして、用意周到なことに、親族の前に、「原状回復に関する全責任を負う」といった旨の覚書を差し出し、署名押印するよう促した。

対する親族は、戸惑いの表情。
家財処分や消毒、一部の内装改修や清掃を強いられるのは仕方がないと思っていたようだったが、大家の要求はそれをはるかに超越した想定外のもの。
故人の部屋は、何も言わなければフツーの部屋、特段の汚損も異臭もない。
いくら、親族が孤独死現場の後始末に関して素人といっても、そのくらいの分別はつく。
三者の中では若輩だった私の目からみても大家の下心はみえみえで、親族も大家の言うことを黙って聞いてはいたものの、それは“=納得”でないことは明らかだった。


不動産にかぎったことではなく、物の貸借契約において借主は「善良な管理者としての注意義務」、つまり、「借りたものは良識をもって大切に使用しなければならない」という責任・義務を負う。
通常の生活を送るなかで傷んでしまうものや、経年による劣化は免責されるのが通例だけど、「内装建材・建具設備を通常使用外で損傷させてはならない」という責任を負うわけ。
具体的には、「禁煙の部屋でタバコを吸ったり、ペット不可の部屋で動物を飼ったり、大量のゴミを溜めたり、常識的な清掃を怠ってヒドく汚したりしてはいけない」ということ。
不可抗力ながら、孤独死して腐乱した場合も、汚損が顕著に表れるので、なかなか抗弁しにくい。
自殺となれば尚更で、「不可抗力」ではなく「故意」とみなされるので、借主側の責任は大きなものとなる。

話を一般の案件に戻すと、通常損耗・経年劣化の判断基準にはグレーなところがあり、借主・貸主の間で争いになることも少なくない。
私自身も、三年暮らした部屋で原状回復代が全額免除されて嬉しかったこともあれば、一年しか暮らさなかった部屋で少なくない額の修繕費をとられて不満に思ったこともある。
が、本物件は、上記の借主義務を逸脱しておらず。
家賃の滞納をはじめ、迷惑行為もトラブルもなし。
所々に通常の生活汚れがあるのは当然ながら、全体的に部屋はきれいで経年劣化も軽症。
居住年数を考えると、原状回復費用のほとんどは貸主(大家)が負担するべきものと考えるのが自然だった。

しかし、“孤独死”というところが借主(故人)側の急所となっていた。
で、大家は、被害者色を前面に押し出して、その一点を突いてきた。
ただ、それは、法的拘束力をもっているものではなく、あくまで情に訴えるもの。
親族は、故人と生前の付き合いも浅く、賃貸借契約の連帯保証人や身元保証人にもなっておらず。
しかも、「血縁者」とはいえ、親子・兄弟でもない遠戚。
ただただ、一族の倫理観・・・つまり、血はつながった者としての善意で後始末をしようとしていたわけで、放り投げよう思えば、容易に放り投げられる立場にあった。


大家は、話が進むにつれ、それまで従順だった親族の空気が不穏なものに変わってきたのを察知したよう。
それを警戒してだろう、そしてまた、専門業者の意見だったら説得力があると思ったのだろう、大家は、私にも意見を求めてきた。
大家の主張は業者の私にも利があるため、当然、大家は、自分側に立った“援護射撃”を期待していたはず。
しかし、一つ間違えば悪質な押し売り、もっと言えば詐欺にもなりかねない。
私だって、仕事=商売をするためにやってきたわけで、一儲けも二儲けもしたかったけど、大家とグルだと思われるのは不本意だし、犯罪者みたいな後ろめたさを味わうのはもっとイヤ。
そうは言っても、大家を敵に回したら、仕事を獲たとしてもやりにくくなるに決まっている。
業者の立場としては、大家側につくのが得策・・・
個人の立場としては、親族側につきたい・・・
私は、大家側につくべきか、親族側につくべきか、ない頭をめいっぱい捻って打算を働かせた。
で、いつでも都合よく自分の立ち位置を変えられるようにしておくため、
「業者である私も利害関係者の一人ですから、ここでの意見は差し控えます」
と言って、結局、どちら側にもつかず。
その結果、大家の思惑は外れ、決着には至らず。
親族の、「この案件は持ち帰って検討する」という回答をもって、その場はお開きとなった。

数日後、親族は、
「弁護士に相談したところ、“負うべき責任はない”と言われた」
「ある程度は負担するつもりだったけど、もう一切の後始末から手を引く」
と大家に通達してきた。
肉親の情に厚い田舎者だと思っていたら、いきなり手のひらを反してきたわけで、これは大家も想定外。
慌てて腰を低くしても、もう手遅れ、後の祭り。
結局、親族の善意につけ込んで欲をかいたばかりに、大家は、本来なら得られるはずだったものまですべて逸してしまった。
一方の私は、親族に悪者扱いされることもなく、仕事の規模は縮小したものの大家との請負契約で一仕事を獲ることができ、このときは、どちら側にもつかない優柔不断なスタンスが「吉」とでたのだった。


とにもかくにも、人の善意に乗っかって一儲けしようとするのはよろしくない。
詐欺や窃盗を筆頭に、このコロナ禍に、そういった輩が横行しているのは、承知の通り。
そんな卑怯者は、あえて善良な高齢者や弱っている店を狙う。
「コロナなんか関係ない」と我が物顔で店をハシゴしイキがっている連中より、更に性質が悪い。
関連するニュースを見聞きすると、「くたばってしまえ」と、過剰な思いが湧きあがってくる。

そうは言っても、我を顧みれば、
「オマエだって、他人の不幸で飯を喰ってるんじゃないの?」
「似たようなもんじゃない?」
と、どこからかそんな声が聞こえてきそう。
これまでも、たまに、内から外から、そんな声が聞こえてきた。
ただ、私は、人生の半分以上をこうやって生きてきた。
もう、他の生き方は忘れてしまったし、今更、他の生き方なんてできっこない。

人生は、想定外のことが起こるから楽じゃない。
それで、どれだけ泣かされてきたことか・・・
しかし、想定外のことが起こるから面白くもある。
それで、いくらか笑いもした・・・
想定内の死に向かう中で、想定外の死期と死に方を覚悟しつつ、これからも、私は、こうやって生きていくしかない。

狭苦しく冷暗な地ベタを、ひたすら這いずり回っているような人生。
若かりし頃の自分にとっては、まったく想定外の人生。
そんな想いに、気分を沈ませてばかりの日々・・・
くたびれた男になってしまった自分に、ここから這い出るチャンスは、まだあるのか・・・もうないのか・・・
ただ、泣いても笑っても、残りの人生が刻一刻と短くなっていることだけは間違いない。

「だったら、全力で地ベタを這い回ってやろうじゃないか!」
そんな覚悟も根性もないくせに、生きてる楽しみを少しでも味わおうと、時々、私は自分にそう言って朝陽に向かっているのである。



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緊急事態

2021-02-15 08:35:29 | その他
この状況では仕方がない・・・おおかたの予想どおり、緊急事態宣言の終了が一ヶ月延長された。
表面上の感染者数は減少傾向にあるものの、高齢者の感染者数や重症者数はそれにリンクしておらず、病床の逼迫具合も改善されていないのが理由らしい。
死亡者数も高止まりしており、延長はやむを得ないと思う。

まったく、「慣れ」というものは恐ろしい。
かつて、東京都一日の感染者数が500人を超えたときは、ビッグニュースとして衝撃的に受け止められた。
が、しかし、今では、500人くらいで驚く人はおらず、もはや「少ない」といった印象。
事実、不要不急の外出自粛が呼びかけられているけど、私が住む世界(昼の世界)では、あまりその変化は見受けられない。
仕事上、あちこちの商店街を通りかかることがあるけど、「緊急事態宣言下」といった雰囲気はない。
いいことなのか 悪いことなのか・・・ほとんどの商店街には、大勢の人が出歩いている。
パチンコ屋は朝から賑わっているし、ランチ時には狭い店も混み合っている。
特に、東京の人間は、もともと人ごみに慣れているせいか、“密”もあまり気にしていないように見える。
余計なおせっかいか・・・神経質な私なんかは、「もっと、人を警戒した方がいいんじゃない?」と思ってしまう。

かくいう私も、正直なところ、春のときよりは明らかに緊迫感がない。
しかし、私の場合は、もともと地味な性格で、金遣いも地味なら遊びも地味。
当然、暮らしぶりも地味なので、不要不急の用も少なく、普段の生活スタイルそのものが自粛生活みたいなものだから自制してるっぽく見えるだけ。
そんな中でも、テレワークできる仕事ではないので、毎日、仕事には出ている。
ただ、電車やバスは避けているうえ、マスクの着用、こまめな消毒はもちろん、できるだけ人と距離をあけるように心がけている。
作業でも密にならないよう気をつけ、飛沫が散らないように口数も減らしている(“減らず口”は多いけど)。
また、感染も重症化も恐いし、後遺症も侮ることはできないので、少しでも免疫力を高めておこうと、食事・運動・睡眠のバランスには気を使っている。

さてさて、この緊急事態、一体、いつまで続くのだろうか。
いつになったら“終わり”が見えてくるのだろうか。
一昨日の深夜には、世の中の不安につけこむかのように、大きな地震が起こったし・・・
その次には何が待っているのだろうか。
景気回復か、それとも第四波か。
少なくとも、東京オリンピックが待っているようには思えない。
図らずも、大会組織委員会のドタバタ劇は、それを後押ししているようで、“延期派”の私は冷めた視線で観劇している。



ある日の深夜、一本の電話が入った。
相手は中年の男性、かなり慌てている様子。
相談の内容は“特殊清掃”。
ただ、得意の(?)腐乱死体とかゴミ部屋とかではなく、対象は糞尿・・・男性自身がやらかした跡を始末する仕事だった。

男性は、人々で賑わう繁華街にいた。
仕事を終えた男性は、職場の仲間とそこで飲んでいた。
愉快で楽しい酒だったのだろう、結構な量を飲んだよう。
で、ひとしきり飲んで後、終電間際で宴はお開きに。
終電を逃すわけにはいかなかったので、時間には余裕をもって駅に向かって千鳥足を進めていた。

そのとき、身体に異変が!
楽しい酒に酔っていい気分だったのに・・・下腹部にイヤ~な圧迫感が・・・
そう・・・急に“大”をもよおしてきたのだ。
しかし、心配無用、駅には安息の地、トイレがある。
そして、駅までは数分の距離、そんなに遠いわけではないし、いつもの帰り道で道順もわかっている。
「落ち着け!このくらいの腹痛なら駅までは充分にもつ」と、男性は慌てそうになった自分を落ち着かせ、駅までの道を確実に進んだ。

しかし!、男性の大腸は、たった数分も待ってくれなかった。
酒を飲み過ぎたせいもあるのか、大腸の圧力は急上昇!
男性の立場も顧みず、ブツを放出しようと躍起に。
尻の穴に力を入れて抵抗する男性に対し、冷酷にも、大腸は膨張と収縮を過激に繰り返して攻め立ててきた。
もはや、数分の猶予もならない状態、大ピンチ!
悲しいかな、このパターン、攻防戦の結末はだいたい決まっている。
尻の穴が決壊するのは時間の問題となっていた。

「慌てるな!間に合う!間に合わせてみせる!」
自分を奮い立たせながら歩行スピードを上げるも、尻の穴を力ませたまま走ることまではできず。
圧力を増すばかりの大腸を前に、次第に男性は弱気に。
「間に合わないかも・・・」
事は、一刻を争う状態に。
「ウウ・・・もう、間に合わない・・・」
諦念した(悟りの境地に達した?)男性は、頭を切り替え、別の選択肢を思案。
そして、急いで周囲を見回し、身を隠せそうな場所を探した。

不幸中の幸い、時刻は深夜。
多くが店じまいする時間帯で、ほとんどの店が暖簾をおろし始めていた。
周辺に人影は少なく、街灯の明かりもまばらで、あちこちに暗闇を発見。
男性は、営業を終えた とある店舗の脇に、人目につかない隙間をみつけ、素早くそこへ身体を滑り込ませた。
そして、せわしなくズボンとパンツを下し、ブリブリブリッ!・・・
・・・クサ~い空気を吸い込みながら、ホッと一息ついたのだった。

しかし、一息ついたのも束の間、その直後、災難は再びやってきた。
不審な物音をききつけた店員が店から出てきたのだ。
そこには、ズボンを下してしゃがみ込んでいる男・・・
周囲には、不穏かつクサい空気が漂い・・・
暗闇に潜む不審者を発見した店員は、
「オイ!そこで何やってんだ!?」
と男性に向かって大声を上げ、一か所しかない通路に立ちふさがって威嚇した。
一方の男性が、
「ウ・・・ウンコしてるんです・・・」
と言ったかどうか定かではないが、どんなに弁が立ったとしても、この状況は言い逃れようがない。
男性は、潔く?観念。
ズボンを上げる前に白旗を上げたのだった。

冷静になって考えれば、新聞を敷くとかレジ袋を使うとか、何かしらの対処ができたはず。
そこまでの余裕がなかったとはいえ、男性は、何の措置も講じず用を足したわけで、はなから“垂れ逃げ”するつもりだったことは明白。
誰にも見つからなければ、そのまま知らんぷりして立ち去るつもりだったのだろう。
さすがに、それは悪質。
不法侵入?器物破損?営業妨害?、多分、何らかの犯罪になるはずで、弁解の余地はない。

しかし、尻丸出しの状態で店員に見つかった男性は、相当にパニックったことだろう。
怒鳴る店員を前に慌てふためき、尻を拭くことも忘れてズボンを上げたかも(訊きたいのは山々だっだけど、仕事に関係ないから、そこのところは詳しく訊いてない)。
店員だって、男が脱糞している姿なんて、見たくないものを見せられて、気持ちが悪かっただろう。
同時に、怒りが込み上げてきたに違いない。
男性が店員にコテンパンに叱られたのは、想像に難くなかった。

翌日の朝一、私は、あまりに滑稽なものだから、遊びに出かけるような気分で現場に出向いた。
着くと、現場には店長らしき人物と依頼者の男性がいた。
結局、男性は、そのまま帰宅できず。
夜通しで、掃除をやらされたのだろう、心身共に疲れ切った様子。
罪悪感・羞恥心・徹夜・二日酔・・・悲愴感を漂わせる男性が、やや気の毒に思えたけど、これは自分で撒いた種。
緊急事態だったとはいえ、脱糞逃亡しようとしたツケが回ってきただけで、同情の余地はあるような ないような・・・とにかく、私は、どうしてもニヤけてしまう顔を隠しながら糞跡を消毒するのみだった。



また、違う日、とある会社から特殊清掃に関する相談が入った。
対象は会社の車。
内容は糞尿。
「車の糞尿汚染?」
私は、すぐには状況が呑み込めず、詳しく話を訊いた。

ある日、男性社員二人が、社用車で外出。
そして、走行中に一方の男性が“大”をもよおしてきてしまった。
しかも、通常の便意ではなく、腹痛をともなう緊急の便意。
しかし、そこは高速道路。
おまけに、大渋滞にハマって超ノロノロ、PAなんて何十キロも先。
そうは言っても、車を降りて路肩で尻を出すわけにもいかない。
(それはそれで、渋滞で退屈していたドライバー達に超ウケだと思うけど)
そうこうしているうちにも、大腸は残酷な蠕動運動をやめず。
腹の痛みも酷くなってきて、限界が近づいてきたことを悟った男性は「もう、我慢できない!」と同僚に告げたかと思うと、おもむろに助手席から後部座席へ移動。
そして、「ま!まさか!?」と思った同僚の予想通り、男性は、ズボンのベルトを外しはじめた。
それは、尻の穴ばかりか、羞恥心までもが大腸の圧力に屈してしまう瞬間だった・・・
「やめろ!やめろーっ!!」と、同僚が制止するのもきかず、シートの下にしゃがみ込み、そのままブリブリブリッ!・・・
で、その後の車が悲惨なことになり、同情していた同僚が悲惨な目に遭ったのはいうまでもない。

自分がやらかしたことの恥ずかしさに耐えられなかったのだろう、その後、数日、「体調不良」ということで、本人は休暇をとった。
そして、わざわざ病院に行って、指示もないのに会社に診断書まで提出したそう。
車中脱糞を病気のせいにして、周囲に不可抗力だったことを理解してもらい、更に同情を誘おうとしたのだろう。
それで、少しは罪悪感や羞恥心を紛らわすことができたかもしれなかったけど、残念ながら、その浅知恵は会社もお見通しで、気の毒にも本人の意図は空振りとなっていた。

問題の車は、社屋の敷地内にある駐車場にあった。
上司や同僚達・・・仕事をそっちのけで野次馬が集まること集まること。
しかも、皆が、ニヤニヤ クスクスと笑っている。
そのうち、上司らしき人がでてきて、
「“固形物”は自分で始末させましたから」
「費用は、私が責任をもって本人に払わせますから」
と、これまた、笑いたいのをこらえるようなニヤケ顔で作業を依頼してきた。

そんな余裕もなかったのだろう、本人は、ビニールとか何も敷かず、ダイレクトに脱糞。
コゲ茶色の変色と濡れた痕・・・
ニオイからしても、それは明らかに糞尿汚れ・・・
汚れは、後部座席の足を置くスペースを中心にシートにまで付着。
限られたスペースの中でズボンを脱いで用を足すわけだから、あちこち汚れてしまうのはやむを得ない。
そうは言っても、当然、特別のチューニングでもしないかぎり、フツーの車は便器仕様にはなっていない(“便器仕様のチューニング”なんて聞いたことないけど)。
内装は布地が多く、染み込んだ汚れを完全に除去するのは困難。
掃除するより内装材を張り替えたり、シートを交換したりする方がはやい。
私は、
「やるだけのことはやりますけど、見た目はあまり変わらないと思いますよ・・・」
と上司に伝えて、一通りの作業をやった。

「それにしても、随分と思い切ったことしたなぁ・・・」
「しかし、そうするしか方法がないか・・・」
「そのままパンツの中に漏らした方がマシだったんじゃないか?」
「いや・・・やっぱり、パンツの中はマズいか・・・」
「ん~・・・車の中orパンツの中、究極の選択だな・・・」
私は、頭のヒマつぶしで、作業をしながら“自分だったらどうするだろう”と考えてみた。
が、やはり、この二者択一で結論を出すのは困難。
で、深酒すると腹を下しやすい(肝臓が弱っているとそうなりやすいらしい)私は、「酒はほどほどが自分のため!」というところに着地し、それで、くだらないことを考えるのをやめた。

休暇を終えた本人がどんな顔で出社してくるのか、また、他の社員がどんな態度で迎えるのか、興味深いものがあった。
どちらにしろ、その車は、会社にとって、誰もが敬遠する“伝説の名車”となり、本人は“伝説のウ○コ男”となり、笑いのネタになったことは間違いない。
そして、車の中で“野グソ”をした男として社史に残るかもしれない。
ただ、“災い転じて福となす”こともある。
車はダメになってしまったけど、一時でも、会社には笑いがあふれ、くだらなくもハッピーな雰囲気に包まれたかもしれない。
その後の本人の動向は知る由もなかったが、羞恥心に負けて転職したりせず、笑いもとれる“恥ずかしいヒーロー”として会社で活躍していてほしいものである。


当人達のことを思うと、笑ってばかりではいけないのだけど、このところ しばらく心が深刻だったので、“明るく、元気よく”をモットーに、バカバカしい記事を書いてみたくなった次第。
それにしても、こんなくだらないネタで、くだらない内容の記事がこんなに長く書けるとは・・・普段の私がくだらないことばかり考えている証拠か?
でも、「くだらない」って悪いことばかりではない。
人生、「無意味なことに意味がある」「無意味だから楽しい」ってことも多い。
どんな時も悪事はよろしくないけど、たまには、くだらないことをしたり、くだらないことを考えたりしてバカ笑いすると人生は楽しくなる。


人生の緊急事態にあるK子さんとは、2月9日0:29に たった八文字の打ちかけたメールが送られてきて以降、連絡が途絶えている。
体調は1月28日から急激に悪化したものの、2月4日には復調の兆しもでてきた。
しかし、以前のようにまで戻ることはなく、8日から再び悪くなり、今日に至っている。
本人も私も、ある程度は予想していたことだけど、ひょっとしたら、もう、この記事も読めなくなっているかもしれない・・・

ただ・・・かすかな望みをつないで、
「特掃隊長のバカっぷりをみて、“クスリ”とでも笑ってくれればいいな・・・」
・・・そんな風に想っているのである。


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残された時間 ~後編~

2021-02-03 08:17:05 | 遺品整理
女性の両親は共に聾唖者で、父親は幼少期に、母親もだいぶ前に亡くなり、兄弟姉妹もおらず、女性自身、結婚歴もなし。
父が亡くなって以降、将来を悲観した母親から心中を持ちかけられたりと、悲しく悔しい思いをしたことも少なくなかった。
生前の母親との関係も良好ではなく、手話をおぼえる気も起きず、血縁的には孤独な身の上だった。
苦難の多い少女期を過ごして後、大人になると誰を頼ることもなく懸命に働き、駅近の好立地にマンションを購入、四匹の愛猫との幸せな暮らしを手に入れた。
また、その人柄から、親しく付き合える友達が何人も与えられた。

女性が癌を患ったのは十年以上も前、それから長い闘病生活がはじまり、再発・転移を繰り返し、徐々に悪化。
しかし、悪いことは重なるもの、癌を患っただけでも充分なのに、勤務先の倒産・失業・・・災難が女性に襲いかかった。
多くの苦難に遭遇、ツラいことばかりが起こり、辛酸という辛酸を舐めつくし、自殺を考えた時期もあった。
癌の悪化で働くこともままならなくなり、貯えは底を尽き、生活のために借金。
ようやくありつけた正社員の仕事も5日でクビになり、闘病しながらの生活はどうにも回らなくなってしまった。

最後のトドメは、借金苦のまま仕事も見つからず、身動きがとれなくなった二年前。
癌が悪化する中、とうとう破産、やむなく生活保護を申請・・・
家族だった愛猫とも引き離され、一生住み続けたいと思っていたマンションも取り上げられ・・・
女性に幸せをくれていたもの、すべてを失ってしまった。
ただ、唯一、もともと猫をくれた友人が愛猫を再び引き取ってくれたことのみが救いだった。

新しく暮らす家が必要になっても、女性のような境遇の人を入居させてくれるところはなかなか見つからず。
病身を押しての家探しは、惨めなものだったかもしれない・・・やっとの思いで見つけたのは、小さな賃貸マンション。
どうしても手放したくない最低限の物と一緒に そこへ越し、部屋の大きさに合う小さな家電を揃えて、新しい生活をスタート。
そのとき、女性は、「自分の人生で本当にツラいことは、やっと、やっと全部終わった・・・」「これ以上、苦しまなくてすむ・・・」と悟った。
そこには、諦念を超えた安堵感があった・・・もっと言うと、その時、女性は、絶望感を超えた希望のようなものを抱いたのではないかと私は思った。


女性が余命宣告を受けたのは、昨年12月3日のこと。
その日、女性が訊ねたわけでもないのに、主治医は、「これ以上、やれる治療はなくなりました」「余命二カ月、ですね」と、淡々と告げたそう。
医師と女性の間には信頼関係ができており、医師は、女性の性質をわかったうえで告げたのだった。
それは、女性にとって最悪のシナリオだったが、その可能性があることも充分に覚悟しており、“仕方ないな・・・”と素直に受け入れた。
そして、淡々とした心持ちで、「あ~・・・そ~ですか・・・」とだけ返した。

「医者も用心して、余命は“最短”を言うでしょうから、“桜が見れるかどうか・・・”ってところでしょうかね・・・」
「部屋で倒れてもすぐ発見してもらえるように、看護ヘルパーに来てもらっています」
女性は、さすがに、私のブログをよく読んでくれている。
孤独死して放置されるとどうなるか、よく理解。
まるで他人のことを話すかのように、軽々とそう言った。

「多くの人は、“明日がある”“次の季節がある”“来年がある”と思っている・・・そのことが何だか不思議に思える」
「自分には“次”がないという感覚が、何とも新鮮」
一般の人に比べると、はるかに“死”というものを意識して生きてきたつもりの私だけど、その「不思議」「新鮮」といった言葉は、到底、私の口からは発し得ないもの。
私の中では、“そういうものなのか・・・”といった思いと、“なるほど・・・”といった思いが複雑に交錯。
そこは、まったく未知の境地・・・それこそ、私にとっては“不思議”で“新鮮”な感覚だった。

確かに、平均寿命を、漠然と自分の寿命のように思っている人は多いだろう。
何の保証もなく、何の確証もないまま、勝手に。
また、そう思わないと自分の人生をプランニングできないし、まともに生きられない。
しかし、残された時間は自分が思っているほど長くはなく、現実的には、いつ どこで この人生が終わるかわからない。
平均寿命まで生きるつもりでいながらも、残された時間が少ないことを知って生きることが賢い生き方なのだろうと、あらためて気づかされた私だった。

相手に精神的な重荷を負わせることになりかねないから、女性は、一時、「余命二カ月」と告げられたことを親しい人に伝えることを躊躇った。
それに対する応えとして、私は、「麦は、生きているうちは一粒のままだが、死ねば多くの実をむすぶ」という聖書の言葉を引用し、同時に、2011年4月1日のブログ「一粒の麦」を紹介しながら、冷たい人間に似合わない熱量をもって持論を展開。
女性の最期の生き様と、その死は、私を含めた周囲の人の心に、“大切な気づき”を必ず与えること・・・
生活に追われる毎日から、一旦 目を離し、立ち止まって、静かに命や人生を見つめ直すチャンスをもたらすこと・・・
それが、人の心に“よい実”を実らせること、決して“無”ではないことを伝えると、「心に刺さりました・・・」と、それまでの様子とはうってかわって、女性は、ポロポロと涙をこぼした。


話が尽きない中 ダラダラと居座るわけにもいかず、夕方には帰社する必要もあったので、女性との面談は二時間余で終えた。
ただ、その後も、女性に訊きたいことが次々にでてきて、女性も私に話したいことがでてきて(?)、その関係性に釣り合わないくらい頻繁にメールでやりとりしている。
別れた直後には、本気なのか冗談なのか、ジョークを飛ばすように「冥土の土産になりました」とメールが入った。
また、その後にも、私と会えたことについて「やってまいりました、千載一遇のチャンスが!」「“余命二カ月も悪くないな”と本気で思いました」との言葉(文字)が出てきた。
「何が何でも長生きすることが、命の価値を高めたり、人生に意味を持たせたりするものだとは思っていませんけど、せっかく知り合いになれたのですから、粘り強く生きて下さい」と送ると、「“余命?なんだっけソレ?”という感じで元気でやってます」と返ってきた。

女性は、私と会ったのを機に、650編を超えるこのブログを、はじめから再び読み直し始めたそう。
また、 “みき さえ”さんという漫画家が、何年も前から、このブログを原案に描いておられる「命の足あと」という作品があるのだが、それを紹介したら、早速、電子コミックで読み始めてくれた。
もともと漫画は好きなようで、「読者に伝わるように構成がよく考えられている」「絵もコマ割りもとても上手」とプロっぽいコメントで作品の出来ばえを褒めてくれた。
とは言え、私は、作者から質問があったときに応答しているだけで、制作に細かく携わっているわけではない。
とにかく、女性は、私に関わることは何でもかんでも褒めてくれ、楽しげに喜んでくれた。

そんな具合に、女性は、病んだ肉体とは裏腹に、内面は、とにかく明るくて元気!
深く落ち込んだり、気分が沈んだりすることも、ほとんどないよう。
ウィットに富んだ表現もとても上手で、いい意味で、「どういう神経してるんだ?」と笑ってしまうくらい。
しかし、そんな女性だって、これまで何度となく鬱状態に陥ったことがあり、自殺を考えた時期もあったわけで、“強い人間”というわけでもなかった。
「人それぞれ」と言えばそれまでだけど、とにかく女性は、弱くて脆く、ネクラな私とは まったく異なるタイプで、私は、そこのところに、憧れに近い疑問(興味)を覚え、同時に、その理由を探って、そこから、楽に生きるためのコツ・ヒントを学び取りたいと思った。

女性が人生を楽に生きられるようになったのは、ここ数年のこと。
何もかも失って以降は尚更。
もう、死ぬことも恐くなく、生きることへ執着もなく、ただ、残された一日一日を大切に、楽しんで生きたいのだそう。
そんな女性の明るさは、絶望や諦念の反動からくるものではないことはハッキリしている。
それは、打ちのめされた弱い自分から錬りだされた強さと、守るべき人も 守るべきものもない身軽さと、すべてを失うことの達観からきているもの・・・
しかし、それだけではなく、私には、女性自身も気づいていない深層心理の部分に、一つの信念、ある種の信仰心のようなものがあるように思えた。

そんな元気な様子が伺えても、身体は、容赦なく癌が蝕み続けている・・・特に、1月28日からは深刻な状態に陥っている・・・
まだ何とか一人での生活を営めているものの、腹部を中心に身体には鈍い痛みがあり、少し前までは、鎮痛剤“ロキソニン”が飲むと痛みが引いていたのだけど、今では、もうそれも効かなくなっている。
で、この頃は、イザというときの“御守”として処方してもらっていた、麻薬系の鎮痛剤“オキノーム”を服用。
それも、はじめは一日一回で抑えられていたのが、今では一日三回にまで増量せざるを得ない状況で、それでも、痛みは治まりきらず、更に、記憶がとんだり、意識が朦朧としたりするときもあるよう。
その苦痛を想うと、こんな私の心でもシクシクと痛んでくる・・・女性の心身が癒されるよう、祈らずにはいられない。


私が、このブログ「特殊清掃 戦う男たち」を始めたのは、2006年5月17日・・・もう15年近く前のこと。
650編を超える中で、色んなことを書いてきた。
経験したこと、想ったこと、考えていること、愚痴や弱音や泣き言も。
できるかぎり自分と正直に向き合い、できるかぎり自分の心の声に耳を傾けながら。
そしてまた、自分から出る言葉だけではなく、僭越ながらも、故人の声を代弁するようなエピソードもしたためてきた。

当初は、自分なりに精一杯 女性を癒し、励ますことが自分の役目だと考えていた私。
しかし、前述のとおり、私には、女性を癒し励ますことができるほどの見識はない。
勇気や希望を与えることができるほどの力量もない。
それでも、できることはある・・・私は、とにかく、自分ができることをしようと思った。
独善でも、独断でも、偏見でもいい、私は、女性の心の声をきいて、それを特掃隊長というフィルター通して核心を洗い出し、ダメ人間なりに研磨して代弁することが、“特掃隊長ができること”ということに行きついた。

で、この経験をブログに書こうと思い立った。
この経験を自分に刻み、また読者に伝えて、そこから何か大切なものを得よう、得てもらおうと考えた。
しかし、困った・・・悩んだ・・・
起こった出来事だけを新聞記事のように書くのは簡単なのだけど、それだけでは何かが足りない・・・
“何かが足りない”のはわかっていながらも“何が足りないのか”、考えても考えても、それがわからなかった。

一般の世では、現実的な“死”を語ることはタブー視されやすい。
とりわけ、リアルに該当する当人の前では。
しかし、女性に そのタブーはなかった。
“女性の心の声をきく力”が不足していることに気づいた私は、“無神経”を承知で女性へ質問を投げかけた。
一方の女性は、「今は何でもオープンですので、何でも訊いて下さい!」と、大らかな姿勢で応じてくれた。

「仮に、愛猫と一緒に、マンションで平和に暮らしていたとしても、その精神状態は変わらなかったでしょうか?」
「それに答えるのは、ちょっと難しいです・・・それを現実に想像するのが難しいです・・・“何もかも失った今の私には想像かつかない”というのが正直なところです」
「切ない質問をしてゴメンナサイ・・・」
「大好きだった猫達と 大事にしていたマンションを失った悲しみが通り過ぎたら、もう何にも恐いものがなくなりました」
この他にも、私は、ビジネスライクなお願いや酷な質問を連発した。

そして、女性からも、たくさんの言葉を送って(贈って)もらった。
「フツーに生きてるだけでめっけもん!」
「自分が好きなように過ごしたのだから、何もしなくても、充分、幸せな一日」
「自分がツラいだけで誰の得にもならないから、自分を責めることを一切やめた」
「親身になってくれる友人はもちろん、この世の ありとあらゆるものに対して感謝が止まらない」等々・・・


当初、私は、この経験をここに書くにあたって、おさまりのよい一つの着地点をつくろうとしていた。
女性とのやりとりを通して、その“大切な想い”を探り出し、多くの人に共感してもらえるようなゴールを目指そうとした
打算癖のある頭に頼った、変な計算が働いていた。
しかし、悲しいかな、女性の心の声をきく力だけではなく、その深層心理を探りきる力、それをキチンと文章にまとめる力までも不足。
結局、悩んでいるうちに 時間は足早に過ぎていき、ゴールにたどり着くことはおろか、メッセージらしいメッセージをかたち造ることさえできなかった。

ただ、もっと もっと時間をかければ、自分を錬ることができ、思慮を深めることができ、納得のいくゴールが見えてきたかもしれない。
しかし、女性が「余命二カ月」と告げられて、今日が その二カ月・・・もう時間がない。
もたもた悩んでいるうちに、時間は“酷”一刻と過ぎていく。
私は、女性が自分の目で読めるうちにこれを書くことが、自分に課された“務め”のような、“使命”のような、“責任”のような・・・私を必要としてくれ、私を呼んでくれた、女性に対する“こたえ”のような気がしている。
だから、私は、ひとしきり悩んだ末、想いが伝わらなくても、想いが届かなくても、女性のために・・・結局は自分のためにも、“二カ月以内”に書きあげることに渾身の力を注ぐことにした。


もともと、私は、薄情な人間、いちいち感傷に浸るクセは強いけど、だいたい一過性のもの。
いよいよになって、悲しむかどうかわからない。
目に涙が滲むかどうかも、心が痛むかどうかも、喪失感に襲われるかどうかもわからない。
仮に、涙を流したとしても、多分、それは自分の偽善性をごまかすための感傷、自分の悪性と折り合いをつけるためのパフォーマンス。
ただ、しかし、そのことで、何か 自分のためになるものがこの胸に刻まれること・・・この胸に蒔かれた“一粒の麦”が芽吹くことは間違いない。

女性との出逢いによって蒔かれた種が、その別れによって芽をだし、その先、何日、何ヶ月、何年かかるかわからないけど、自分の生き方によって実をつける・・・
いずれ、私にも死が訪れる。
それまでには実をつけ、そのときは、私も誰かの・・・欲を言えば、一人でも多くの誰かの“一粒の麦”となりたい。
そのためにも、私は、自分に残された時間を大切に、精一杯生きたいと思う。
ボロボロの身体でも、クタクタの心でも、ヘトヘトの人生でも・・・それでも、女性のように、明るく、元気よく。


『 K子さん
私は、この経験を、これから生きていく日々の・・・私に残された時間の糧にします。
やりとりしたメッセージも、消さないで残しておきます。
そして、何よりも、貴女のことを生涯忘れません。        
2021年2月3日  特掃隊長 』


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残された時間 ~中編~

2021-01-30 08:52:25 | 遺品整理
依頼者は、「余命二カ月を宣告された」とのこと。
そして、また、「できたら、ブログを書いている人に来てほしい」とのこと。
“ブログを書いている人”って・・・つまり、私のこと・・・
ただの仕事ではないことは依頼者と話すまでもなく明らかで、しかも“ご指名”ときた。
私は、慣れない依頼に、狼狽に似た戸惑いを覚えた。

が、まったく、自分らしい・・・
少しすると、今度は、いつもの悪い性質が頭をもたげてきた。
妙に気分が高揚、酒に酔ったときのように気持ちが大きくなってきた。
そこには、“誰かに頼りにされている”といった男気や、“誰かの役に立てるかも”といった喜びはなく、あったのは、“思い上がり”と“下衆の高ぶり”だけ。
「人の不幸は蜜の味」とまでは言わないけど、情けないことに、依頼者を思いやる優しい気持ちは小さく、珍事が起こったごとく、好奇心旺盛な野次馬が駆け回るばかりだった。

訊くまでもなく、女性はブログの読者。
しかも、“通りすがり”ではなく、多分、愛読者。
ということは、女性なりの“特掃隊長像”を持っているはず。
自分でいうのもなんだけど、「特掃隊長」って、欠点や短所を脇に置いてカッコつけるクセがある。
女性がイメージしているキャラクターと実際が大きく異なっていたら申し訳ないような気がして、野次馬は野次馬なりに、妙なプレッシャーがかかってきた。

想像するに、女性は、おそらく末期の癌患者・・・
しかも、「余命二カ月」ということは、かなり進行しているのだろう・・・
身も心もボロボロになっているかもしれない・・・
特掃隊長を指名してきた理由は何だろう・・・
“癒し”とか“励まし”とか、何かを求めてのことだろうか・・・

どちらにしろ、“余命二カ月”ということを知ってしまった以上は、「プレッシャーゼロ」というわけにはいかない。
“特掃隊長=私”、別に化けているわけじゃないから、化けの皮は剥がされようがないけど、女性の期待を蔑にする“裏切者”にはなりたくない。
私が冷酷非情な一面を持っているのは事実だけど、そこばかりに囚われて卑屈になっていては、女性が失望する側に人間が偏る。
結局のところ、明るく話せばいいのか、厳粛に落ち着いた感じで話せばいいのか、自分がブレまくり、どういったスタンスをもって電話をすればいいのか、固めることができず。
結局、私は、手が空いても、すぐに電話をかけることができなかった。

独りよがりでいつまで考えても、所詮は、私が特掃隊長で、特掃隊長は私。
ブログだって、他人が打った文字はこれまで一つもなく、今更、立派な男に化けようもない。
もともと、“特掃隊長=私”なんてダメ人間の代表格。
今更、気どる必要など どこにもないし、どんなに気どったってポンコツはポンコツ。
開き直った私は、小心者らしい不安を抱えたまま、素に近い自分で電話をかけた。


スマホを手元に置いて連絡を待っていたのか、女性はすぐに電話をとった。
神妙な心持ちでかけた私とは対照的に、思いのほか明るく、礼儀正しく丁寧な物腰。
重い病を患っていることは、言われなければわからないくらい、明るい声でハキハキとした口調。
そして、一通りの話がすんだ後、女性は、少し言いにくそうに、私が“特掃隊長”なのかどうかを訊いてきた。
私にウソをつく理由はなく、「そうです・・・そのようにご要望いただいたものですから・・・」と正直に答えた。

私が特掃隊長だとわかると、女性は、テンションを一段上げて喜んでくれた。
そして、自分がブログの昔からの愛読者であること、まさか自分が特掃隊長に仕事を依頼する立場になるなんて思っていなかったこと等々、興奮気味に話してくれた。
まるで、自分に 幸運が訪れたかのように・・・
私は、そんな女性に対して、声のトーンを落として応対。
短い会話だけでは、女性の真(心)の温度を想い計ることができなかったからである。

女性宅を訪問する日時を決めるにあたっては、「午前中は体調が整わないから、できたら午後にしてほしい」とのこと要望があった。
で、私は、次の日曜の午後を予定。
すると、女性は、「本来、日曜は休みなのでは?」「自分との面談より休暇を優先してほしい」と、心遣いをみせてくれた。
残された時間が二カ月とすると、たった一週間でも、その一割くらいを占める・・・そんな厳しい状況にも関わらず。
もう時間がない・・・日にちを空けることが躊躇われた私は、女性の心遣いに感謝しつつ「原則、年中無休だから大丈夫です」と返答した。

訪問予定の日まで四日の間があった。
その間、あまり経験したことのない出来事を前に、私の心持ちは、神妙なものに変わっていった。
そして、昼となく夜となく、私は、女性のことを考え、その心情を想った。
女性に関して知っていることは、氏名・住所、余命二カ月ということくらいで、顔も、年齢も、経歴も、何も知らないのに。
「残された時間が二カ月しかない」という現実は、ドライな私にも、それだけのインパクトを与えていたのだった。

「どんな心持ちだろう・・・」
「街や人は、どんな風に見えているだろうか・・・」
「空は、きれいだろうか・・・」
それが、ただの好奇心なのか、勝手な同情心なのか、独りよがりの感傷なのか、自分でもわからなかった・・・今でもわからない。
ただ、わずかでも、女性を思いやる気持ちが湧いており、そこには、自分らしくない、ある種の正義感があった。


12月13日 快晴、約束の日。
その日の午前中、私は、自分が片づけた腐乱死体現場跡を確認する仕事があった。
コロナウイルスは空気中を漂うだけでなく、服等にもついて移動するらしい。
自分が感染しないことはもちろん、女性宅にウイルスを持ち込んだら大変なことになる。
この身に腐乱死体臭はついてはいなかったが、私は、その現場を離れるとき、手指をキチンと消毒し、車の中で洗いたての作業服に着替えた。

約束の13:00の15分前、私は、女性が暮らすマンション近くのコインPに車を入れた。
そして、マスクを新品に交換し、手指を再度 念入りに消毒しながら、約束の時刻が近づくのを待った。
私は、ピッタリの時刻にインターフォンを押すつもりで、数分前に車を降り、ゆっくりと女性宅に向かった。
約束の時刻が迫ってくると、にわかに心臓がドキドキしはじめ、3Fへの階段を昇ると それは動悸にように不快なものに変わってきた。
自分が気弱な小心者であることは充分に承知しているけど、その類の緊張感を味わうのは滅多にないことだった。

私は、3分前の12:57に女性宅前に到着。
玄関を開ける前から心臓がドキドキするなんて・・・
どんな凄惨な現場に入るときも、そこまで緊張することはないのに・・・
「どんな男がやってくるのだろう・・・」と、女性は期待しているはず。
「俺に何ができるだろう・・・」と、私は不安に思っていた。

私には、余命短い女性を癒し励ますことができるほどの見識はない。
勇気や希望を与えることができるほどの力もない。
そんなこと充分にわかっていた。
しかし、どうしようもないプレッシャーを感じていた。
それは、偽善者でもダメ人間でも、少しはマトモな正義感が持てている証かもしれなかったが、そのときは、そんなことで自分を慰める余裕もなかった。

高ぶる気分を少しでも落ち着かせるため、私は、晴れ渡る青空に向かって深呼吸。
昔から、何かにつけ仰ぐ空に、そのときもまた助けを求めた。
それでも、なかなか心臓の鼓動はおさまらず。
自分に自信が持てない私にかかるプレッシャーも なかなかのもの。
結局、その間に耐えきれなくなり、私は13:00になるのを待たず、12:58、意を決して力が入りきらない指に勢いをつけてインターフォンを押した。                       


約束の時刻が迫る中で待ち構えていたのか、女性は、すぐに玄関を開けてくれた。
「はじめまして・・・」と言いながらも、親しい友人を出迎えたときのようなフレンドリーな雰囲気。
そして、「お待ちしてました・・・」と、イソイソとスリッパをすすめてくれた。
一方の私も、多少はドギマギしていたものの、半分は古い友人に会うような感覚。
「こんにちは・・・」と、マスクの下で社交辞令的な笑顔をつくり、部屋へあがらせてもらった。

訪問の目的は、“遺品整理の見積調査”。
とはいえ、事実上、それは「付録」みたいなもの。
“面談”が、女性の真の依頼であり、目的であった。
そうは言っても、見積調査を放っておくわけにはいかず、そそくさと家財を確認。
部屋は1Kの賃貸マンション、お世辞にも「広い」とは言えず・・・ハッキリ言えば「狭く」、更に、余命を意識してかどうか、家財の量も少なく、見分作業は ものの数分で終わった。

見分作業が終わると、女性は私に椅子をすすめ、自分は「いつもここに座ってるんです」と、使い古されたソファーに腰をおろした。
いつもそうなのか、寒い外からやってくる私に気をつかってか、暖房がきいた部屋は とても暖かく、やや暑いくらい。
しかも、その日は快晴で、私の左側の窓からは明るい陽光が射しこんでいた。
少し暑かったし、“密”になるのを避けたかった私は、窓を少し開けて換気してもらおうかとも思ったけど、風邪でも引かれたら困るのでやめておいた。
何はともあれ、天気のいい穏やかな日曜の昼下がりだった。


はじめ、女性は、熱いお茶を入れてくれた。
私は、それに口をつけるかどうか迷った。
重々気をつけてはいるし、自覚症状はないけど、PCR検査は受けておらず、私がコロナウイルスをもっていない保証はどこにもない。
茶碗にウイルスが付着して、それに女性が感染でもしたらマズイと考えたのだ。
しかし、缶やペットボトルならいざ知らず、せっかく入れてもらったお茶に口をつけないのは失礼だし、しばらく手をつけないでいると「どうぞ」と二度すすめられたので、結局、ウイルスのことは考えないで普通にいただくことにした。

初対面なのだから「当然」といえば当然か。
揉め事の解決や難しい商談をしに来たわけでもないのに、はじめは、何とも落ち着かず。
どんな態度で、どんな温度で、何をどう話せばいいのか・・・
ナーバスになっているかもしれない女性にとっては、私が吐く何気ない言葉が、デリカシーのない暴言になる可能性だってある
だから、当初は、女性の様子をうかがいながら頭に浮かぶ単語を慎重に選び、ややビクビクしながら言葉を発した。

そしてまた、目も口ほどにものを言う。
顔の半分はマスクで隠れているから、表情はつかみにくいけど、その分、“目の色”の変化は鮮明に表れる。
曇らせたり、驚いたり、引きつらせたり、険しくしたり・・・女性の余生を暗くするために来たのではないのだから、女性の心持ちにそぐわない目の色を浮かべてしまってはよろしくない。
私は、口から出す言葉だけではなく、自分の目の色にまで神経を尖らせた。
そして、お茶を飲むためマスクを外すときは、似合いもしない柔和な顔をあえてつくった。


女性は、このブログ初期からの愛読者で、実によく読み込んでくれていた。
気が向いたときに気が向いた記事だけ“つまみ読み”してもらっても充分なのに、すべてに目を通してくれているよう。
書いた本人でも忘れているようなこともシッカリ憶えてくれており、例年、冬の時季、私が調子を崩すこともわかってくれていた。
それで、自分の病気をそっちのけで、「大丈夫ですか?」と心配してくれた。
そして、普通なら「大丈夫です!」と言うべきところ、私は、「実は、あまり大丈夫じゃないんです・・・」と、バカ正直に答えてしまった。

そういうときは、ウソでも何でも「大丈夫です!」と明るく応えるべきだろう。
「大丈夫じゃない・・・」なんて言われたら、招いた女性も気を遣うし、気マズい思いをする。
ましてや、大きな病を抱えているのは女性の方で、「大丈夫じゃない」というのは、本来、女性のセリフ。
吐く言葉には細心の注意を払うつもりでいたのに、しょっぱなからしくじった。
私は、どんなときも自己中心的な自分に対し、マスクの下で小さな溜息をついた。

女性は、ブログを愛読してくれているだけではなく、“特掃隊長”のことをやけに気に入ってくれていた。
私の何かを勘違いしているのだろう、「前からの大ファン!」とのこと。
やたらと特掃隊長を褒めてくれ、賞賛してくれ、「カッコいい!」と持ちあげてくれた。
また、野次馬根性で訪問したにも関わらず、私と顔を会わせたことも大いに喜んでくれた。
その、はしゃぎようといったら、“残された時間が少ない・・・”といった切迫感を忘れさせるくらいのものだった。


この私、性格は暗く 内向的、人付き合いも下手なうえ苦手。
しかし、女性はその真逆。
明るく社交的な人柄。
誰とでも、親しく上手に付き合えるような感じ。
私は、人に褒められる喜びと、自分は持ちえない明るさに惹かれつつ、女性が醸し出すWelcomeな雰囲気に、温泉にでも浸かっているような心地よさを覚えた。

そんな女性の人柄と、自分の苦境を他人事のように話す明るい語り口によって、張りつめていた緊張の糸はみるみるうちに緩んでいった。
結局、色々と神経を尖らせ、気を遣っていた私が“素”で会話できるようになるまで、そんなに時間はかからなかった。
場の雰囲気に酔ってしまったのか、気をよくした私は、まるで酒に酔ったときのように饒舌に。
自分が話すことより女性の話を聴くことを心掛けつつも、聴き上手の女性を相手にすると、どうしても多弁に。
そう簡単には、自己中心的な性格は直らないのだった。

私を必要としてくれ、私の存在を喜んでくれ、こんなブログが女性の生き方に良い影響を与えているなんて・・・
おだてられる一方の私は、表向きは恐縮至極、内面は鼻高々。
照れくさいやら、恥ずかしいやら・・・
同時に、それは、とても嬉しく、とてもありがたく、少し誇らしくも思えることだった。
ただ、その後、話題は、向かうべきところに向かっていき、女性を泣かせてしまう場面もあったのだった。
つづく


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残された時間 ~前編~

2021-01-26 08:37:10 | 遺品整理
もう時間がない・・・
今夏に予定されている東京オリンピック、コロナ禍のせいで盛り上がりに欠けている・・・国民の関心が著しく薄れているのは明らか。
街には、開催を諦める空気が充満、再延期や中止を求める声も多くなっている。
いや・・・もっと言うと、もう、どうでもいい・・・今では、人々の関心はコロナと経済に集中し、オリンピックなんて何処吹く風。
それは、日本だけにとどまらず、世界中に広がりつつある。

もう半年しかないという段階でも、コロナ禍は一向に治まる気配はなく、悪化の一途をたどっている。
世界に目を向ければ、欧米の状況は、我が国よりも更に悪い。
国によっては、突貫工事のごとくワクチンが乱打されているけど、仮に、これがうまくいったとしても、全体的な効果がでるには一年も二年もかかるらしい。
こんな状況で、どうやってオリンピックが開催できるというのか・・・
出場予定の選手や関係者には気の毒なことではあるけど、どこからどう見ても無理。

“お偉いさん”達に、庶民にはわからない大人の事情があるのはわかる。
それぞれに立場(利権?)があり、表立って、開催に否定的な発言ができないのもわかる。
しかし、決断力や指導力、頼もしさや潔さがなさすぎる。
“国の祭”より、“国民の命”“国民の生活”の方が大切なのは、わかりきったこと。
はたして、こんな状況で無理矢理に開催したオリンピックが、楽しいものになるだろうか、喜ばしいものになるだろうか、弱っている人達が勇気づけられたり、困っている人達が癒されたりするだろうか・・・はなはだ疑問である。

いつみても虚ろな目をしている総理の言葉は、他人が書いた学芸会のセリフのようで、力強さや熱もなく、魂や志も感じず、信念やビジョンもみえない。
国が右往左往、迷走する中で強引に開催しようものなら、思いもよらないしっぺ返しがくるはず。
そして、そんな愚策によって、真っ先に犠牲になるのは、下々にいる身体的・社会的・経済的弱者であり、また、医療従事者やエッセンシャルワーカーの人達。
金や利権、権力や名声をもった、社会の上の方にいる人達ではない。
国民は、国のリーダー達の、政治家としてのスポーツマンシップと最高のパフォーマンスを求めているのである。



もう何年も前の話・・・
初老の男性から遺品整理の相談を受けたことがあった。
ただ、「遺品整理」と言っても、男性は、遺族ではなかった。
相談の内容は、“自分が死んだ後の始末について”ということ。
今風にいえば「終活」ということになるのだろうが、その中身は、一般的な終活とは異なっていた。

男性は、緩和ケア病棟、いわゆる“ホスピス”に入院中。
末期癌で、余命が短いことを宣告されていた。
しかも、医師から宣告された余命期間は過ぎた状態で、いよいよ残された時間が少なくなっていた。
何らかの事情があってそうなったのか、意図的にそうしたのか、結構、ギリギリのタイミング。
“モタモタしていられない”と判断した私は、早速、面会の日時を調整した。

男性の事情だけでなく、病院の都合もあり、面会予定の日時はすぐには決まらず。
また、「日時を約束しても、体調によっては急に変更をお願いすることがあるかも」とのこと。
あと、男性が現場(男性宅)に同行することはできないので、私が鍵を預かって一人で見に行くことになることも、面談の条件となった。
ただ、どれも私にとっては問題ないことなので、二つ返事で引き受けた。
その上で、私は、何かに急かされるように、一日でもはやく動ける日を探していった。

原則として、当社は遺品処理について生前契約は行わない。
当人の死後に相続が円滑に行われるとはかぎらないし、本人が想定していなかった相続人が現れるかもしれないし、誰も気づかなかった負債があるかもしれない。
つまり、遺産相続手続きに抵触し、トラブルに発展するリスクが高いのである。
あと、本人の死後に渡って、確実に当方の信用度を担保するものも提供できない。
したがって、死後の始末については見積書や契約書の作成にとどめ、事前に契約締結や金銭を授受することはないのである。

本来、こういった類の相談には、故人の代理人として相続人、もしくは相続人と同等の権限を有する人(後見人)を立ててもらう必要がある。
そして、その上で、本人には遺言書を書いてもらっておく。
正式な契約は、その代理人と取り交わし、作業はその契約・権限において実施するわけ。
たから、本件でも、代理人を立ててもらうつもりでいた。
ただ、会う前からそんな難しいことを言っても話がややこしくなるだけなので、まずは、面会日時を決めることを最優先にした。

この仕事を長年に渡ってやってきて、多くの経験も積んできた私。
世間様に自慢できる仕事ではないことは重々承知しているものの、“熟練”の自負はある。
ただ、経験してきた現場のほとんどは、本人が亡くなった後の始末。
生前の相談を受けたことがあっても、皆、健常な高齢者で、死期が明確に迫った人達ではなく、ほとんど一般論や世間話に近い内容。
“死”を取り扱った話でも、そこに、切迫感や緊張感はなかった。

稀有な仕事が舞い込んできたことに、私は興奮。
自分が頼られていることを誇らしく思い、喜びもあった。
心優しき善人でいたかったけど、私の中には、野次馬が闊歩。
若干の同情心はあったけど、深い悲しみや、男性を憐れむ気持ちはなかった。
自分の薄情さにはとっくに慣れており、そういう自分が“人としてどんなもんか”という疑問や嫌悪感は微塵も湧いてこなかった。

ただ、思いあぐねるところはたくさんあった。
余命いくばくもない人を相手に、どう接することが適切なのか・・・
男性の心を癒すことに努めるべきか、事務的な姿勢に徹するべきか・・・
どちらにしろ、下衆な野次馬根性や好奇心はもちろん、薄っぺらな同情心や、心にもない傷心は、簡単に見透かされるはず。
私は、心にもない沈んだ表情を浮かべたり、白々しいセリフを吐いたりするのはやめにして、とにかく、男性の雰囲気や温度を観察し、それに合わせることを心がけようと思った。

面会を約束した日の朝。
私は、どことなく高揚、どことなく緊張・・・落ち着きを失っていた。
不謹慎ながら、私の中には、どこか楽しいところに遊びにでも行くかのような妙な感覚が湧いていた。
同時に、そういう自分の悪い性質に対する敗北感も。
そんなソワソワした気分を携え、私は、男性が待つ病院へイソイソと車を走らせた。

そうして車を走らせることしばし、もう少しで到着するというとき携帯電話が鳴った。
相手は、男性を担当する看護師。
「少し前に、○○さん(男性)が亡くなりまして・・・」
「面会のお約束をされていると思うんですけど、そういうわけですから・・・」
それは、その日の未明に男性が死去したことを知らせる電話だった。

「え!? 亡くなったんですか!?」「そうでしたか・・・」
看護師に「ご愁傷様です」なんて言うのもおかしい。
驚きとともに、それ以上 返す言葉失った私は、
「それは・・・どうも・・・お疲れ様でした・・・」「じゃ・・・引き返します・・・」
とだけ応えて、そのまま電話を切った。

いきなり“肩すかし”を喰ったかたちとなり、とりわけ、それが人の死によるものだったから、私は、強い脱力感に襲われた。
面会の約束がキャンセルになったのは理解できたものの、その先にすべきことがすぐに思いつかず、しばし呆然。
未経験の寂寥感、妙な喪失感を覚えて、身体の力が抜けてしまった。
そうは言っても、いつまでもボーッとはしていられないので、気を取り直し、後ろ髪を引かれるような思いを胸に、イソイソと来た道をトボトボと引き返したのだった。



約一ヶ月半前のこと・・・2020年12月9日、曇天の昼下がり、一本の電話が会社に入った。
電話の相手は女性、相談の内容は遺品整理。
しかし、ただの遺品整理ではなかった。
電話を受けたスタッフは、その旨を部署の人間にメールで連絡。
その一人である私のスマホにも、その連絡は入った。

通常、日中は現場に出ていることが多い私。
緊急でないかぎり、会社からの連絡はメールで入る。
着信音が鳴るから気づくことはできるけど、作業中で手がふさがっているときは、わざわざ手を空けて見ることはしない。
とりわけ、汚物と格闘しているときなんかは。
私は、その時も作業中で、着信に気づいたものの、スマホを手に取るのは後回しにした。

「さてさて・・・どんな仕事かな・・・」
作業が一段落ついて、私は、いつものようにポケットからスマホを取り出した。
そして、会社からの連絡事項を確認すべく、メールの受信画面を開け、思わず目を見開いた。
そこには、依頼者曰くとして、「余命二カ月を宣告された」との文字。
そして、依頼者からの要望として「できたら、ブログを書いている人に来てほしい」
と記してあったのだった。
つづく



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野良犬

2021-01-13 08:30:27 | その他
月日がたつのは、はやい・・・
可愛がっていたチビ犬がいなくなって、もう六年半余が経つ。
スマホの待受画面は、ずっとチビ犬にしていたけど、一年前に機種変更したとき画像はど
こかへいってしまい、それからは、待受画面は味気ない既製画像になっている。

外を歩いていると、たまにチビ犬と同じ犬種(シーズー)を見かけることがある。
もともと犬好きの私だから、どんな犬も可愛く思えるのだけど、とりわけシーズーには格別に目を惹かれる。
他人がつれているよその犬なのに、ジーッと見つめてニヤニヤしてしまう。
どこの誰とも知れないオッサンがニヤニヤしていると、すごく怪しいけど・・・
飼主が話しかけやすそうな感じの人(だいたい中高年女性)だと、見ず知らずの人でも声をかけ、犬に触らせてもらう。

もう二十年近く前の話・・・
住んでいたマンションに近接する駅前スーパーの前に一頭のレトリバーがいた。
首輪をしていたものの、リードは着けておらず。
リードにつながれていないことを不審に思わなくもなかったけど、「買い物をしている飼主を待ってるんだろう・・・」と思い、多くの人と同じく、私も、そのまま素通りした。
しかし、それから、何時間か後。
再びスーパーの前を通ると、その犬は まだそこにいた。
さすがに妙に思った私は、犬に近寄り、頭や身体を撫でながら首輪を確認。
同時に、鑑札を探し、それを見つけた。
犬はおとなしく、やや怯えたように、やや遠慮がちに、下がり気味の尻尾をゆっくり振った。

時刻は夕暮れにさしかかっていた。
当時は、動物を飼ってはいけないマンションに住んでいた私。
首輪には鑑札もついており、捨て犬ではなさそうだったから、そのまま放っておいても問題なさそうだったけど、車に撥ねられたり、酒癖の悪い酔っぱらいや、弱い者いじめが好きな不良連中に襲われたりでもしたらマズい。
結局、犬を放っておくことが躊躇われた私は、「一晩くらいならいいだろう・・・」「明日、役所に問い合わせればいいんだから」と、首輪に手をかけた。
犬は、不安そうな顔をしながらも、おとなしくついてきた。
そして、私は、人妻でも誘ってきたかのようにキョロキョロと周りの目を気にしながら、そそくさとエレベーターに乗り、コソコソと部屋に引き入れた。

その翌日、私はすぐに役所へ連絡。
鑑札に刻まれたナンバーと伝え、氏名と住所、無事に引き取っていることを伝えた。
すると、飼主はすぐに見つかった。
飼主の方も、飼犬が失踪したことを前日中に役所へ届けていたらしく、すぐに連絡がきた。
思いのほか早くみつかったことに、私は、鑑札の重要性を再認識。
同時に、見捨てるつもりはなかったものの、「飼主が見つからなかったらどうしよう・・・」と不安に思っていたので、ホッと胸を撫で下ろした。

飼主宅は、同じ江戸川区内。
ただ、犬を見つけたところとは別の街で、何キロも離れたところ。
しばらく待っていると、飼主の女性が犬を迎えに来た。
犬は、何かの拍子で綱が外れ、庭から脱走。
そして、気の向くまま遊んでいるうちに迷子になったよう。
女性は、「このバカ!心配してたんだから!」と泣き笑いで、犬の頭を撫でるようにポンポンと叩いて叱った。
そこからは、犬が、家族の一員として大切にされていることが見てとれ、微笑ましく思った。
一方の犬は、自分が引き起こした事態を理解してか、上目遣いで気マズそうに尻尾をふった。

不意の客を招いた私は、大切な客をもてなすみたいに、美味そうなドッグフードを買いそろえた。
トイレの問題があるから、ビニール紐で即席のリードをつくって、夜と朝に散歩にも出かけた。
周りに気づかれたらマズいので、スリル満点だった。
犬が一宿一飯の恩をどれだけ感じていたかわからないけど、私の方は、なかなか楽しいひと時を過ごした。
あれから、随分の月日がたつ・・・
もう、あの犬も、寿命がきて死んじゃっただろうな・・・
飼主に引き取られて私のもとから去っていくのを少し寂しく思ったことを、今でも憶えている。

その後、私は住居をかえ、その何年か後に、「Hot dog」で書いた現場でチビ犬に出会うことになるのだが、チビ犬の前にも、近所をうろついていた野良犬(捨て犬)を連れて帰って飼っていたことがある。
雑種の中型犬、とてもおとなしくて いい犬だった。
ハスキー犬?の血が混ざっていたのか、額の真ん中に薄っすらとハートマークがあり、愛嬌タップリ。
相当の悪天候でもないがきり、春夏秋冬、朝と晩、それぞれ30分くらい一緒に散歩。
毎日の決まったことなのに、犬は、連れて出るたびに狂喜し、ハイテンションで跳び回った。
私も若かったから、季節の美景とその移ろいを肌で感じながら、とにかく 一緒によく歩いた。

引き取ったとき、犬はフォラリアに感染しており、すぐに入院治療。
その治療が痛かったのだろう、苦しかったのだろう・・・余程恐かったようで、年に一度、病院に連れていっていたのだが、ひどく怯えてガタガタ震えた。
診察室に入るときも、病院のフロアをモップのように引きずられる始末で、その様は、可哀想でありながらも可愛らしくもあった。
結局、六年半くらい共に暮らしたところで、老いて弱り、儚く死んでしまった・・・チビ犬を連れて来る一年半前のことだった。

このコロナ禍で、見捨てられるペットが増えているらしい。
巣ごもり生活で、新たにペットを飼い始めた人が増えた一方、「手間がかかる」「クサい」「うるさい」等と、見放す者も多いそう。
安易な動機と、人間にとって都合のいい欲望が、この状況を生みだしている。
「よくもまぁ“家族”を捨てられるものだ」と、呆れるのを通り越して憎悪の念を覚える。
コロナ禍で飲み歩いている連中よりも、更に性質が悪い。
動物とはいえ、“いのち”を預るということがどういうことなのか、想像も自覚もできないなんて・・・そういう連中は、ロボット犬を買うべきだ。



出向いた現場は、昭和の香が漂う老朽アパート。
橙色にボンヤリ光る裸電球、むき出しの木柱、剥がれかけた土壁、雨戸も窓枠も木製、レトロな磨りガラス、タイル貼の和式便所、蜘蛛の巣だらけの天井・・・
所々がトタン板で補修されていたものの、メンテナンスらしいメンテナンスはされておらず。
外周は、草樹が野性の趣くまま うっそうと茂り、廃材やガラクタも散乱。
陽射しを遮るくらいに荒れ放題で、「幽霊屋敷」と揶揄されてもおかしくないくらいの薄暗さ。
今風の建物に囲まれる中、そのアパートだけがポツンと時代に取り残されていた。

亡くなったのは、70代の男性。
もちろん、一人暮らし。
間取りは1K、風呂はなくトイレは共同。
とはいえ、他の部屋はすべて空いており、「共同」といっても使うのは故人だけだから、事実上は「専用」。
その部屋で、ひっそりと孤独死。
そして、気づいてくれる人もおらず、そのまま何日も放置。
肉は虫の餌になり、骨がむき出しになる頃になって やっと発見され、ゴミのように運び出されたのだった。

依頼者は、故人の元妻(以後“女性”)と、その息子(以後“男性”)。
男性は、故人の実の息子でもあった。
ただ、両親は男性が幼少期のときに離婚。
幼い頃は、時々は、故人と会うこともあったけど、いい想い出は残っていないようで、“父への情”はまったく感じられず。
その死を悼んでいる様子はなく、むしろ、故人を嫌悪しているような、軽蔑しているような冷淡な空気を漂わせていた。

一方の女性は、やや複雑な心境のよう。
女性も、“死”を悲しんでいる風ではなかったけど、故人との いい想い出を大切にしたいのか、悪い想い出が捨てきれないのか、何かしらの想いを持っているよう。
弔いのつもりか、仕返しのつもりか、一時でも、夫だった故人の最期を始末することを、自分のためにしようとしているようにも見え・・・
法定相続人である男性が相続放棄しさえすれば、故人の後始末には関与しなくて済むのに、それを“よし”とせず。
で、後始末を段取るべく、男性を擁して現場に来たのだった。

「自由に生きる! 自由に生きてみせる!」
若かりし頃の故人は、口癖のようにそう言っていた。
そして、実際に仕事も趣味も、好きなようにやっていた。
若かった女性には、そんな故人が、男らしく、頼もしく思え、カッコよくも見えた。
しかし、二人の間に子供ができた途端に状況は一変。
定職に就かなければ生計は安定しない。
生活より趣味を優先すれば、生計が成り立たない。
それでも、故人は、妻子のことを顧みることなく放蕩生活を続けた。
定職に就かなかったのはもちろん、遊ぶために借金までした。
それでも、故人は生き方を変えず、結果、家族の生計と夫婦関係は破綻した。

世の中には、あえて定職に就かずに生きている人はたくさんいる。
夢や目標のために、社会や誰かのために。
フリーランスで失敗する人も少なくない中、成功している人も多い。
とにかく、皆、勇気をもってチャレンジしたり、相当に努力したり、辛抱したりしているはず。
あと、その気概も覚悟もあるはず。
しかし、故人には、その能力はなく、根性もプランも何もなし。
努力も忍耐もできず、何より、人生に対する夢や目標がなかった。

その後、故人がどういう風に生きたのか・・・
職も転々、住居も転々、人間関係も転々、家族からも見捨てられて・・・
野に逃げ出した犬のように、錯覚した自由を胸に・・・
自らが目指していた“自由な生き方”は、とんだ見当違い・・・
生き方を変えないかぎり、明るい将来は想像し難く・・・
事実、借金も重ね、結局、破産者に・・・
一時は、刑務所のお世話になっていた時期もあるようで・・・
最期の何年か、普通の人は入らないようなボロアパートに暮らしていたことや、年金がなく生活保護を受けていたことを勘案すると・・・
他人の人生を勝手に“判定”するのは愚かなことだけど、私は、到底、故人が、自由な人生を手にしていたとは思えなかった。


私の持論。
「飼犬は野良犬の不自由を知らず、野良犬は飼犬の自由を知らない」。
“自由”とは、自分を律しないこと、自制しないことではない。
“自律・自制できない人間”を“自由な人間”と呼ぶことはできない。
皮肉なことに、自由に生きようとすればするほど不自由になる。
結局のところ、自律心・自制心が自分を自由にすることを理解しなければならない。

あくまで、外面的・物理的なところに軸足をおいた自由論だけど、私は、自由の礎になる材料としては「金」「時間」「健康」が三位一体で成り立つことが必要だと思う。
(※内面的・精神的な自由は、重なる部分はあるけど本質的に別物。)
例えば、ディズニーリゾートに遊びに行きたいと思ったとして、
金があっても時間と健康がなければ無理、
時間があっても金と健康がなければ無理、
健康があっても金と時間がなければ無理、
というわけ。
もちろん、その他、世の中が平和であったり、愛する家族や親しい友人がいたり等、外的要因もあるけど、一個人の自由を見るときは、その三要素が基本だと考えている。

では、その三要素を手に入れるにはどうすればいいのか。
言わずと知れたこと・・・勤勉に働き、時間に正しい優先順位をつけ(公私のバランスを適正に保ち)、健康管理に努めること。それに尽きる。
制限・制約は、それに抵抗するのではなく、そこから逃げるのではなく、自律・自制によって取り払われる。
自分を律することや自制するといったことは、一見、不自由なことのように思えるけど、実は、それが自由の礎となり、そこから自由が生まれてくるのである。


コロナ第三波は、これでも、まだ潮位を上げたくらい。
考えたくもないけど、本波はこれからやってくる。
この災難は、摂理による訓戒、摂理による訓練なのかもしれない。
今、我々一人一人に、多くのことを学ばせてくれ、多くのことを気づかせてくれている。
同時に、我々一人一人が、どれだけの自律心・自制心を育むことができるかを問うてきている。

まるで、我々が、野良犬のような不自由な目に遭わないため、正しい自由を手に入れるための生き方を教えてくれようとしているかのように。


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春がくるまで

2021-01-08 08:56:18 | その他
「冬らしい」と言えば、冬らしい。
秋があまりに長く、あまりに暑かったせいか、寒さが 一層 身体に堪える。
特に、朝は色んな意味でツラい!
しかし、それで寝坊なんかしたりしたらアウト!
冗談抜きで、下手したら、そのまま会社を休み、そのまま二度と社会復帰できない事態に陥る可能性もある。
だから、そこは、あえて荒療治。
重い心と重い身体を引きずり起こして、まだ薄暗い極寒の早朝にウォーキングに出たりしている。
そして、「春になれば、きれいに咲くんだよな・・・」と、桜並木をぼんやりと見上げては、憂鬱な一日を始めている。


年末の特番だったか、TVで超常現象・怪奇現象を扱った番組をやっていた。
少し興味はあったけど、苦手なモノがでてきたら困るから、結局、その番組は数分しか観なかった。
「苦手なモノ」とは、いわゆる、“心霊写真”“心霊スポット”、幽霊関係のネタ。
私は、この類が超苦手!
中学の頃、興味本位で、友達が持っていた心霊写真集を見たことがあり、その中には超強烈な画があり、それがトラウマになり、それ以降、そういった類のものを拒絶するようになった。
そのとき抱いた恐怖心・嫌悪感は凄まじく、思い出しただけで 今でも背中に悪寒が走る。
だから、今でも、心霊写真と言われるものは絶対にみないし、心霊スポットと言われるようなところにも絶対に行かない!
恐ろしく苦手な蛇の方が、まだマシに思える。

なのに・・・
腐乱死体現場や自殺現場に一人で入るのは平気。
真っ暗闇の浴室現場だって、我ながらおかしくなるくらい平気で入れる。
自分のスマホで遺体痕写真を撮るもの平気。
そこに何かが写るかもしれないのに、平気でパシャパシャと撮る。
実際、同僚が担当した現場の写真には、白い煙のようなものが、床に横たわる遺体のかたちになって写っていたことがある(社内で話題になったけど、私は断固として見なかった)。
あと、私が特掃した後の自殺現場で、電気工事会社のスタッフが、目に見えない誰かに腕をつかまれて悲鳴をあげたようなこともあった。

相反する、その二つの感覚は、自分でも不思議。
そんな奴が、よくもこんな仕事に就き、ここまで続けられているものだと、呆れついでに感心もする。
自己分析すると、多分、現場に入ると、自分の何かに火がつくからだろうと思う。
あと、目の前の故人を嫌悪・恐怖する感情が湧いてこないからだろうと思う。
凄惨・悲惨に思う気持ちと、嫌悪・恐怖する気持ちは別物だし、嫌悪・恐怖する理由もない。
あとは、私が、“大変な変態”ということもあるかもしれない。


昨今のコロナ禍も ある種の“超常現象”。
で、国の施策も ある種の“怪奇現象”か・・・
「今更?」といった感が否めない中、とうとう一都三県に緊急事態宣言が発出された。
が、「一大事」っぽく感じつつも、春のときとは明らかに様相が異なる。
主策は、飲食店の時短営業のみで、誰がどう見てもお粗末。
そもそも、この期に及んで夜に飲み歩いているのは ごく一部の人間で、それを締めだしたからって、何が変わるというのか・・・
(ニュース映像に、“宣言前の飲み納め”している者が出ていたけど、個人的には、不快なほどその神経を疑う。)
「緊迫感に欠ける」というか、「他人事のように見える」というか・・・
で、多少は街の人通りは減っているのかもしれないけど、ゴーストタウン化するような寒々しさはなく、「これじゃ、大した効果は見込めないんじゃない?」と首を傾げる。

私は、もともと、外食が少ない人間。
外で飲むことは年に一~二度くらい。
昨年なんか、一度も外で飲んでいないし、外食したのも、記憶にあるのは一度きり。
友達がいないうえ、ヒドい面倒臭がり屋なものだから、外での飲食が制限されても、まったく平気。
ただ、自制している部分もある。
仕事以外の外出は極力減らし、外に出るときは常にマスクをつけ、人と話すときは できるだけ距離を空けている。
電車やバスにも乗らない・・・あれは、どうみても危険。
通勤通学などで、乗りたくなくても乗らざるを得ない人を気の毒に思う。

藁にもすがるような思いで、新開発のワクチンに羨望の眼差しが向けられている。
しかし、接種が始まっても、社会が劇的に回復していくわけではない。
数量の限界もあれば、回数の問題もある。
ワクチンが広がるスピードより、ウイルスが広がるスピードの方がはるかにはやい。
ワクチンが防ぐ前に、ウイルスが入り込む。
将来の副作用も不透明。
私は、ワクチンは必要だし役に立つだろうと思ってはいるけど、それが救世主になるとは思っていない。
「このコロナ禍が過去のものとなるには数年かかる」と言っている専門家もおり、それが現実的であることは、世界の混乱ぶりが示唆している。

感染対策と真剣に向き合わない一部の民衆も問題だけど、国や行政の弱腰にも問題がある。
世間に呆れられるほど、国は迷走し、毅然とした対策を打たず、すべてが後手後手、しかも中途半端。
ただ、国の迷走は今に始まったことではなく、「国」「政府」というものが もともとそういうものであることは、かつての“アベノマスク”が、大枚をはたいて国民に教えてくれた。
ここまできたら“指示待ち人間”をやめて、「自分が国を守る」という気概と責任感をもって、一人一人が積極的に自衛していくしかない。

私は、基礎疾患はないけど、自分で気づかないところで病に侵されているかもしれない。
また、「高齢者」ではないけど、若くもない。
同年代はもちろん、自分より若い年代の人でも重症化し、亡くなることが珍しくないことは承知のとおり。
自分が感染したらどうなるか不安もあるし、周囲に大迷惑をかけてしまうことも恐い。
元気を失った今の私は、免疫力がだいぶ下がっていそうだから、コロナに感染したら、相当マズイことになるかもしれない。

まずは、常日頃から免疫力を上げておくことが肝要。
ストレスを溜めず、よく食べ、よく眠り、適度な運動を心がけることが大事。
しかしながら、このところ調子が悪いのは前回書いたとおり。
ストレスは溜まりっぱなしだし、食欲はないし、熟睡なんて程遠い。

ただ、食欲があってもなくても、一日の始まりの朝食はシッカリ食べるようにしている。
玄米飯・味噌汁・納豆・生卵が定番、今の時季は それに菊芋が加わっている。
「精進料理か?」って感じ。
昼食はいたってシンプル。
ここ数年は、決まった菓子パンですませていたのだが、今はそれも食べたくなくなり、バナナ1~2本に加え、煎餅やチョコレート等を間食、とても「食事」とはいえない内容。
夕飯も、わりと軽め、量は決して多くはない。
昔みたいな「肉が食べたい!刺身が食べたい!大福が食べたい!」といった欲もなく、身近にあるモノをテキトーな量食べれば充分。
歳のせいか、コッテリしたものも好まなくなり、このところは、肉や油物なども滅多に食べなくなっている。
結局のところ、これじゃ、身体は強くなりようがないか・・・

その程度の食欲だから、体重も増えてはいかない。
あまりに痩せてくると見た目は貧相になるし、筋力も落ちるので、玉子は必ず一日二個は食べるようにしたり、もともと好きではないけど牛乳を飲むようにしたりしている。
ただ、そこに“食の楽しみ”はない(感謝はある)。


何か、いいストレス解消法があればいいのだけど、趣味らしい趣味を持っていない私。
しいて言えば、飲酒・スーパー銭湯・旅行・ドライブ等々か・・・
できることなら、温泉旅行とか、あちこちのレジャー施設に行ってみたい。
しかし、今の精神状態では、うまい酒を飲むことはできないし、今の時勢では、スーパー銭湯にも出かけにくい。
開き直って長期休暇をとるくらいの余裕が持てればいいのだけど、懐具合とコロナ事情がそれをゆるしてくれない。
今できるのは、せいぜい、仕事中でも、車を運転しているときはドライブ気分を楽しむよう心がけることくらい。
特に、見慣れない景色の道や、遠出の道程は、自分の気分次第でどうにでも楽しめるから。

あと、身近にあり手軽にできることといえば、自然と接すること。
月星・太陽・空雲・海湖・山丘・森林・樹木・草花・風の音・鳥虫の声・・・視界に人を入れず、聴界に人の雑音を入れず、そういったモノに身を晒し、そういったモノの中に身を置き、そういったモノを眺めると、何とも気分が落ち着く。
もちろん、日常生活においては、世界遺産的な大自然に出かけることは簡単ではないけど、身近なところでも空は仰げるし、街路樹もあれば公園には草花もある。雑草でもいい。
実際、自然の中に身を置くメリットには科学的な根拠(フィトンチッド等)があるらしいから、おすすめである。


例年、冬場は、過酷な現場は減る。
低温乾燥の時季、遺体は腐敗損傷しにくい。
また、今年は、コロナの影響もあるのだろうか、仕事量も少ない。
肉体的には楽である。
しかし、“肉体的な楽”と“精神的な楽”は同一とはかぎらない。
このところは、ちょっとしたことが大きな問題のように感じられるし、些細なことが面倒臭く思えるし、大したことをやっていないのにスゴく疲れる。
心配事は、無数に湧いてくるウジのようにキリがなく、不安感は、無数に飛び交うハエのように光を遮る。
無力感・脱力感・虚無感・疲労感となって、私から意欲を奪っている。
精神と肉体のバランスが崩れているだけではなく、精神内の明暗・躁鬱のバランスも崩れているのは明らかである。

やはり、私は“デスクワーカー”ではなく“デスワーカー”。
文字を読むのが苦手なうえ、時代遅れのアナログ人間。
現場仕事がなくて、ずっと事務所にいると気分が煮詰まってくる。
ずっとキツイいのはイヤだけど、ずっと楽チンでいては身体も心も萎えてしまう。
ぬるま湯に浸かっているのは好きだけど、本当に ぬるま湯に浸かりっぱなしでは、人間がぬるくなる。
生活にはメリハリが、人生には彩が大切。
心身のバランスは、適度な苦楽があってこそ保てるのではないかと思う。


世の中に、腐乱死体現場、自殺汚染現場、ゴミ部屋、猫部屋等々・・・いわゆる「特別汚損現場」なんかない方がいいに決まっている。
しかし、現実にはそれがある。
言うまでもなく、私は、その後始末を生業にしている。
そこから糧を得て、それで生活している。
それが、「生きること、そのものになっている」といっても過言ではない。

おかしな現象だけど・・・
特殊清掃なんかやりたくないけど、やらないと心身が衰弱してくる。
きれいなモノばかり触っていたけど、自分の手が それを好しとしない。
きれいなモノばかり見ていたいけど、自分の目が それを好しとしない。
きれいなことばかり聞いていたいけど、自分の耳が それを好しとしない。
・・・私は、人生の半分以上をこうして生きてきたのだから、そんな人間になってしまっている。

凄惨な現場が好きなわけではない。
重度の汚染が好きなわけじゃない。
腐った人肉が好きなわけじゃない。
凄まじい悪臭が好きなわけじゃない。
ウジやハエ、ゴキブリやネズミが好きなわけじゃない。
ゴミや死骸、糞や尿が好きなわけじゃない。

当然、面白おかしい仕事でもなく、楽しい作業でもない。
ただ、そこに集中すると、上下・前後・左右、過去・未来のことが頭から離れて、その瞬間、余計な雑念を捨てることができ、無用な邪心を削ぎ落とすことができ、自分の芯を研ぎ出すことができる。
今風にいうと「全集中」で作業に没頭でき、いい意味で“無”になれ、一時でも強くなれるのである。
心的基礎疾患がある私にとって、これがいい薬になるのである。


春がくる頃には、コロナも、少しは落ち着いているだろう。
こんな私でも、必要としてくれる人が現れるかもしれない。
役に立てる現場があるかもしれない。
今は、その時季がくるまで、ジッと耐えるしかない。

春はくる。必ず。
それを信じて。


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重圧

2021-01-03 16:36:05 | 自殺腐乱死体
2021謹賀新年。
日本海側は大雪で難儀しているようだけど、この三が日、こちらは気持ちのいい快晴に恵まれた。
一見は穏やかな正月、元旦は、早朝から日課のウォーキングに出かけ、明るくなれない心に初陽の光を当てながら黙々と歩いた。
自分の心に纏わりつく暗い過去を振り払うように、自分の心が欲しがっている明るい未来を探すように。

特に忙しかったわけでもないが、例年通り、大晦日が仕事納めで、元旦が仕事始め。
また、これも、ほとんど毎年のことだけど、
「また、一年、労苦に汗し、苦悩を携えて生きていかなければならないのか・・・」
と、動悸にも似た浅い溜息が、幾重にも口を突いてでてきた。
とはいえ、大晦日と元旦の夜は、TVを相手に、いつにない御馳走に舌鼓を打った。
気分は浮かないながらも、「せっかくの正月だから」と、酒も、いつもより多めに飲み、それなりに穏やかに、それなりに平和に年を越すことができた(0:00になる前に寝てしまったけど)。

しかし、今年の正月は、「おめでとう」とばかりは言っていられない。
承知の通り、コロナ第三波が猛威をふるっているからだ。
その禍は、春の緊急事態宣言時をはるかに超越していて、もはや制御不能の状態。
しかも、そのピークは、まだ見えていない。
緊急事態宣言が再び発出されるのは、時間の問題かもしれない。

この冬が、今回のコロナ禍において、最大・最悪の山場になるであろうことは、かねてから予想されていたことだろうけど、我々がコロナに慣れてしまっていること、我慢・自制に疲れてしまっていること、政府の対策が後手後手になっていること等々、一波・二波にはなかった要因が、感染に拍車をかけているように思う。
併せて、「経済を回すため」「自分は重症化しない」等とのたまわり、医療従事者の苦境も他人事にして自制しない人達のことが目につき、どうしても気に障ってしまっている。
飲食店や観光業を支援する術は、他にもたくさんあるはずなのに。

ただ、身体が不要不急の外出をしていないだけで、自分だって、中身は似たようなもの。
「人々の気が緩んでいる」と言われている中、私にも心当たりがある。
忘年会中止や、新年会不要不急の外出を自粛しているのはもちろん、スーパーマーケット以外、人が多いところに出向くこともしていないけど、第一波のときに比べると緊張感は薄い。
あの頃は、人の少ない屋外をウォーキングするだけでもピリピリしていたけど、今は、そこまでではない。
で、この期に及んでも、「たまには、スーパー銭湯くらいには行きたいな」なんて、呑気なことを考えてしまう。
そんな自分を顧みて、“他人を批難することは簡単、自分を改めることは難しい”と、つくづく思う。
とにかく、国や自治体が行う感染対策の足を引っ張らないようにだけは気をつけたい。

やはり、心配なのは医療体制。
このままだと、医療体制が崩壊するうえ、医療従事者といわれる人達が病んでしまう(既に病んでしまっている人も多いらしい)。
「感染したって重症化しなければいい」と、自分だけのことを考えるのはよした方がいい。
感染者を罪人扱いするつもりもないし、罪人扱いしてならないけど、無責任な行動によって多くの人を感染のリスクに晒し、多くの人の手を煩わせることになることを肝に銘じよう。
自分だって、コロナに限らず、いつ、どんな傷病で病院のお世話になることになるかわからないのだから。

それでも、残念ながら、これから、感染者数・死者数は激増していくはず。
私の場合、感染者数や死者数だけでなく、同年代男性の、倒産、破産、失業、路上生活に転落・・・なんていうニュースがやたらと目につき、とても他人事として流すことができず、気分を落ち込ませている。
この寒空の下、外で夜を明かさなければならないなんて・・・
どんなに寒いだろうか・・・
どんなに惨めだろうか・・・
どんなに淋しいだろうか・・・
「生きているのがイヤになる」って、よくわかる・・・切ない。

それも一因としてあるのだろう、昨年から気分が優れない。
例年の“冬鬱”か。
虚無感・疲労感、そして、得も知れぬ孤独感・・・
今回はここ数年になかったくらい重症で、なかなかツラいものがある。
夕方から夜にかけては、比較的 楽になるのだが、夜明け前の早朝がもっとも苦しい。
不眠症は長年の持病なので仕方がないとしても、寒いはずなのに身体が熱くなって、ベットリと汗をかく。
息は浅く、小刻みになり、時にはうなされる。
一体、自分はどうなっているのだろう・・・原因は何なのだろう・・・
自分よりはるかに苦しい境遇にあっても、果敢に生きようとしている人達もたくさんいるというのに、得体の知れない重圧が、私の精神を押さえつけてくるのである。

重鬱になると、今や未来、周りの環境や周り人達に気持ちが向かなくなる。
仕事や家族のことさえ、心の視界から消える。
周りの迷惑を考えないわけでもなく、誰かが悲しむのがわからないのでもなく、「周りがどうなってもいい」と思うのでもなく、自分のツラさだけで手いっぱいになり、周りのことに想いが行かなくなるのである。
そして、人によっては、それが自死に向かわせる・・・それが恐い。
死生観的な“健常者”が、そこのところを理解すれば、少しは自死を減らすことができるような気がする。



出向いた現場は、市街地に建つ賃貸マンション。
駅近で生活の利便性は高い地域。
築年数は浅く、間取りは1K。
部屋の状態は、一言でいうと、「腐乱死体ゴミ部屋」。
ドロドロの遺体汚物、無数のウジ・ハエ、凄まじい悪臭はもちろんのこと、目を引いたのは、ウイスキーの空瓶と氷の空袋。
かなりの量を飲んでいたのだろう、それが、部屋中に散乱・山積みされていた。
その荒れ様は、そのまま、故人の最期の生き様が映し出されているようで、凄惨さの中にも何ともいえない切なさがあった。

発見のキッカケは異臭と害虫。
当該現場から妙な異臭がしはじめ、そのうち小さなハエまででるように。
それが日に日に悪化してきたものだから、隣室の住人は、管理会社に通報。
玄関ドアの隙間から漏れ出る異臭は、それまでに嗅いだことがない種類の悪臭。
部屋の中でとんでもないことが起こっていることはドアを開けずとも察することができ、管理会社は、そのまま警察に通報。
そして、部屋の床、ゴミに埋もれるように、人間のかたちをした物体が、人間とは思えないくらい変わり果てた姿で横たわっているのを発見。
凄まじい悪臭と、無数のウジ・ハエが放たれる中、その後、警察の手によって、その物体は、人間扱いしたくてもできないくらいの状態で、引きずられるように搬出されたのだった。

亡くなったのは、50代後半の男性。
死因は、一応、自然死(病死)。
晩年は無職。
ただ、一流企業でもなく、エリートでもなかったけど、それ以前は一所の会社に長く勤務。
出世も望まず、当たり障りなく、誰かと競うこともなく、無難なサラリーマン生活だった。
一方、社宅暮らしの独身で、上司に従順だった故人は、会社にとっても動かしやすく、使い勝手のいい社員だった。

そんな中で転機となったのは異動。
肩書きは“昇進”だったが、社内の誰の目にも、それは“左遷”。
ただでさえ、歴代、そのポジションに就いて長くもった人はおらず、いわば“窓際”。
五十も半ばにして「NО!」と言えない立場であることは、会社にも見透かされていた。
会社都合の転勤や異動に黙って従い、実直に勤めてきた見返りがこれ・・・
余計なプライドや自分を幸せにしない意地は持たないようにして、従順サラリーマンを渡世として無難に過ごしてきた故人だったが、事実上の「クビ」を言い渡され、自分の中で、張りつめていた何かが“プツン”と切れた。

結局、定年を待たず退職。
同時に、住み慣れた社宅を出て、新しい住処(現場)へ転居。
「何とかなる!」「まだやれる!」と信じて。
が、自分が思っていたよりはるかに現実は厳しく、なかなか新しい仕事にありつけず。
それでも、非正規のアルバイトや派遣の仕事で食いつなぎながら、粘り強く就職活動を続けた。
しかし、経験や能力をよそに、自分の年齢が、それを邪魔した。
年齢だけ訊かれてはねられたことは数知れず。
悲しく、悔しい思いをしたことも数知れず。
“現実”に打ちのめされ、“現実”をイヤと言うほど思い知らされた。

この状況では、「心を折らず がんばれ!」と言う方に無理がある。
労働意欲は次第に削がれていき、そのうち、就活も頓挫。
現実を忘れたくて・・・
昼間から酒を飲むクセがつき・・・
貯えは減っていく一方で・・・
先には暗闇しか見えず・・・
自らを破滅に追いやることはわかっていたけど・・・
そこから抜けだす術がわからず・・・
理性は麻痺し、そのまま酒に溺れる日々は続いていった。

病死、老衰、事故死、戦死、餓死etc・・・そして自死・・・死因は後の人が決める。
また、“自殺という名の病死”があれば“病死という名の自殺”もある。
故人は、「このまま死んだってかまわない」と思いながら飲んでいたように思え・・・
私には、故人が、生きること・生きなければばらないことの重圧に押しつぶされた、いわば“圧死”のように思えた。
そして、それは、私にとって決して他人事ではなく・・・
その圧が重すぎるのか、こちらか弱すぎるのか・・・その答を導くヒントさえ見つけることができず、私は、ただただ重苦しい溜息を吐くしかなかった。



死業二十九年目の冬・・・
私も、随分と歳をとった・・・
そして、何だかスゴく疲れた・・・
鏡の中に衰えた自分を見ると、その顔からは、「後悔」なんて簡単な言葉では片づけられないくらい重苦しいものが滲み出ている。

あと、どれくらい、こうやって生きていかなければならないのだろうか・・・
この重い虚無感・疲労感・孤独感が癒される日はくるのだろうか・・・
自分に待っているのは明るい未来ではなく、暗い日々ばかりのように思えることもしばしば。

それでも、生かされているうえは生きなければならない。
死ぬまでは生きなければならない。
それが、摂理だから。

私は、「生かされている」ことの感謝・喜びと、「生きなければならない」ことの苦悩・重圧の狭間で、もがいている。
決意もなければ、覚悟もできていない中で・・・
しかし、生きていくかぎりは、これからも もがき続けるしかない。

「がんばれ・・・」
心の奥底にこだまする、幸せに生きたがる自分のそんな声に、かすかな希望を抱きながら。


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暴発

2020-07-13 08:40:09 | 特殊清掃
休業要請や自粛要請が緩和されてしばらく経ち、街は“日常”取り戻しつつある。
先月19日、都道府県を跨いでの移動が緩和され、観光地でも人が増えているよう。
しかし、それに合わせるように、報告される感染者数は増えている。
ある程度は想定内のことだろうけど、「東京一日200人超」まで想定していたかどうか・・・政治家の表情から漂うのは想定以上の状況になっているというような不安感。
「第二波がきている」という専門家もいる中、再び、緊急事態宣言は発令されたら経済は壊滅的な打撃をうけるらしいから、そう簡単には出せないらしい。
やっと動き始めた社会経済活動を再び止めることが、感染拡大と同じくらいリスキーなことは、素人の私でもわかる。
ただ、上からの指示がどうあれ、個々人が、事実上 緊急事態下にあることを認識し、感染しないこと・感染させないことに努めなければならないと思う。

5月上旬、緊急事態宣言下のある日、税金を納めるため、銀行の窓口に行ったときのこと。
メガバンクの支店なのだが、入口には消毒剤が置いてあり、「マスク非着用での入店禁止」の札も掲げられていた。
更に、「窓口は約120分待ち」と表示され、傍らに立つ行員は、「不要不急の用であれば日をあらためて下さい」と、どことなく“上から目線”で、客を追い返そうとするような案内。
“120分待ち”にも行員の態度にも不満を覚えた私だったが、納期も迫っていたし、“日をあらためて出直しても同じことだろう”と、諦めて列に並んだ。
その私のすぐ後ろには初老の男性が立った。
“120分待ち”なんてまったく想定してなかったのだろう、驚いた様子。
それでも並ばなければならない用事があるのだろう、イライラした様子でブツブツ・ブツブツ。
そのうち、案内係の行員に文句を言い始めた。
行員の態度もよくなかったけど、用を済ませたいなら順番がくるまで黙って待つしかない。
我慢できなければ帰ればいい。
にも関わらず、男性は行員に不満をぶつけ、行員も悪態ギリギリのところでチクチクと反論し、その場の空気は換気が必要なくらい汚れたのだった。

また、これはコロナ渦初期の頃、スーパーでの出来事。
レジ列の前の前、カップ麺を大量に箱買している男性がいた。
そこへ、私の前に立つ老人が「こんな人がいるから皆が困るんだよ」と、善人気取り?で文句を言った。
どうも、自分本位の買い占めだと思ったらしい。
すると、その声が聞こえた男性は、「何!?俺に言ったのか!?」と振り向き、「文句でもあんのか!?」と老人に喰ってかかった。
老人も、「買い占めはよくないだろ!」と応戦。
周囲の賛同を得られるとでも思ったのか、振り絞った勇気に満悦したのか、はたまた、振りあげた拳を降ろせなくなったのか、衰えた外見に似合わず強気に。
当然、男性も黙ってはいない。
“三密回避”はどこへやら、「この くたばり損ないのジジイが、妙な言いがかりつけやがって!」と、怒顔を老人の顔に近づけて睨みつけた。
傍にいた店員がすぐさま割って入り、大ゲンカに発展するのは抑えられたが、公衆の面前での小競り合いはしばし続いた。
結局、男性の行為は買い占めではなく、普段の買い物で、大人数で食べるための買い出しだったよう。
しかし、二人は和解することなく、周囲には殺伐とした虚無感が漂い、換気が必要なくらい汚れた空気だけが残ったのだった。

殺伐とした世の中は、今に始まったことではない。
この時代、殺人事件や傷害事件を筆頭に、そんなニュースが途絶えることはない。
ちょっとしたことでキレる・・・
ちょっとしたことで揉める・・・
コロナ渦によって、それが増長されているような気がする。

あの時、あの警官も、ある意味でキレてしまったのだろうか・・・
5月25日、アメリカで黒人男性が白人警察官に殺された事件。
警官が男性の首を膝で抑えつけている映像を観て、私も「ヒドい!」と思った。
既に抵抗できない状態で、明らかに苦しがっているにも関わらず、それを無視して抑え続ける様には嫌悪感しか覚えなかった。
これに抗議するデモは、アメリカだけにとどまらず世界中に広がった。
この日本にも。
私は、こういったデモに反対ではない。
しかし、度を越したもの・・・暴力をともなうものは反対。
考えを主張するのは自由かもしれないけど、とにかく、暴力はよくない。
暴力は暴力を呼ぶだけ、暴言は暴言を呼ぶだけ。
たとえ、それが、正義を貫くためであっても、暴発はしてはいけない。

団体行動が苦手な私は「デモ」というものに参加したことがないからわからないけど、独特の高揚感みたいなものがあり、日常にはない心地よい正義感が味わえるのだろう。
また、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」、一種の集団心理も働くのだろう。
多数でやれば罪悪感が薄まり、大人数でやれば正義になる。
その昔、封建主義の世の正義は支配者が決めたが、今、民主主義の世の正義は“数”が決めるのだから。
それが、強い力を得たような錯覚をおぼえさせたり、それに陶酔させたりするのか。
そして、本来、人々が持ち合わせている理性を麻痺させるのかもしれない。
便乗した暴力・放火・略奪は、もはや抗議デモではなく、ただの犯罪。
いつの間にか、そこから正義は消えている。

ちょっとしたことがキッカケで、暴力・暴言が噴出するこの社会。
人間の悪性や人々のストレスが、言葉の暴力・文字の暴力・拳の暴力となって、いらぬところで、いらぬかたちで現れている。
刑事的犯罪の陰で、SNS上でのイジメや誹謗中傷がまかり通ったり、人知れずDVや児童虐待が行われていたり、あおり運転が横行したり。
そして、今や、銃や刃物だけじゃなく、言葉や文字が人を殺す凶器になる時代。
「個人情報保護」という鎧を着て、「匿名」という盾を持ち、文字(言葉)という刃物で容赦なく他人を突き刺す。
一体、これは、どういうことか・・・
私も含め、人間という生き物は、どうして そんなくだらないことをしてしまうのか、くだらないことがやめられないのか・・・
人間は、弱い者をいじめる習性をもち、他人の不幸を喜ぶ習性をもつ・・・
このまま、人々は理性・道徳心・正義感を失い、あたたかい笑顔を捨てていくのか・・・
他人に対する悪態が常態化し、弱肉強食が顕著な社会になっていくのか・・・
コロナ渦の第二波はもちろん、風水害や地震などの災害、減給や失業による貧困も恐いけど、もっと恐いのは、人々の心が荒むこと。
そして、それが人と人との絆を、人と人の情愛を、社会秩序を破壊していくこと。
先を楽観できない時代、とにかく、少しでも“人間の悪性”が影を潜めてくれることを祈るしかない。

かくいう私も他人事では済まされない。
SNSは一切やらないから、その世界での加害・被害はない。
また、暴言を吐くことも暴力をふるうこともない。
しかし、情緒不安定で感情の起伏が激しい。
人間の器が小さく、人間が弱い。
気も短く、ちょっとしたことイラつく。
恥ずかしながら、心の中で暴言を吐き、空想で拳を振りあげることがある。
それが自分を不幸にすることがわかっていても、理性で抑えることができない。
特に、このコロナ渦に見舞われてからは、減収・失業が現実味を帯びてきているから尚更。鬱だけではなく、持病の不眠症まで重症化し、心身を蝕んでいる。

ただ、とにかく、日本は、銃のない社会でよかった。
銃は、小さな引き金をちょっと引くだけで人を殺せるのだから、たった一瞬の感情、瞬間的に理性を失うことよって取り返しのつかないことが起こる。
拳で殴るのとはわけが違う。
カッ!となって、取り返しのつかないことをしてしまった、取り返しのつかない事態に陥ってしまった・・・
そうなったら、後悔しても遅い。
加害者・被害者を問わず、銃社会において、それで人生を狂わせた人間は少なくないのではないだろうか。
あんな、飛び道具ひとつで・・・まったく、悲惨である。



ある日の昼間。
“ズドン!!”
とある民家の二階で大きな爆発音がした。
驚いた家族が部屋に駆けつけてみると、部屋の模様は一変・・・
そこに横たわる故人も変わり果てた姿となり・・・
その光景はあまりにショッキングで・・・
失神寸前で、そのままその場にへたり込んでしまった。

私が現場の呼ばれたのは、その翌々日。
依頼の内容は、特殊清掃。
事件性がないことが確認され、警察から立入許可がでてからのこと。
事前にだいたいの状況を聞いていた私だったが、よくあるケースではないので、リアルに想像することが困難。
作業の難易度が高いことは想像できたものの、それがどこまでの高さなのかが見えず。
私は、重症の飛び降り自殺現場を思い浮かべながら、また、少し緊張しながら現地に向かった。

部屋のドアを開けた目の前には、ある部分は想像通り、ある部分は想像を越えた悲惨な光景が広がっていた。
故人が倒れていた床には大きな血痕・・・
更に、赤黒の血痕が天井・壁・床、上下左右、360℃に飛散・・・
凝視すると、白子を粉砕させたような脳片、木屑のようになった頭蓋骨片も・・・
そして、床のあちこちには、極小の鉄球が無数に転がり・・・
故人は、趣味を楽しむために所有していた散弾銃を、自分に向かって打ったのだった。

銃口を何処にあてたのかはわからなかったが、一発で死ぬことを目的とするなら頭を狙うのが自然。
ただ、銃身長を考えると、手指で引き金を引くことは困難。
おそらく、銃口を自分の額に向け、足指で引き金を引いたのだろう。
生きることを楽しむために持っていた銃で、生きることを終わらせた・・・
頭の上半分を粉々に吹き飛ばし、一瞬にして、この世から去ったのだった。

故人は、私と同年代の男性。
社会人としてバリバリ働いていたとき大病を罹患。
会社は休職し、入院、治療。
療養の結果、病状は随分と落ち着いたが、それは完治を見込みにくい難病。
勤務先は、そんな故人に“いい顔”をせず冷遇。
結果、追い立てられるように退職。
表向きは“自己都合による退職”だったが、事実上の“クビ”だった。

故人は、病と闘いながら社会復帰を目指した。
しかし、当然、企業は健康な人を優先して採用する。
少しでも経験が活かせるよう、前職と同業種を目指し、中小零細にこだわらず 多くの会社に応募するも、ことごとく採用には至らず。
願望を捨て、異業種や非正規の求人にも応募したが、それでも、なかなか色よい返事は得られず。
不採用の理由をハッキリ告げられることは少なかったが、結局、持病があることが敬遠される原因であることは明白だった。

そんな故人の生計は同居の家族が支えていた。
それは、家族として当然のこととしてなされており、故人を責めるようなことはもちろん、社会復帰へのプレッシャーをかけるようなことも一切なかった。
しかし、
「家族に迷惑をかけている・・・」
「家族の負担になっている・・・」
と、その家族愛が、一層、故人を苦しめていたのかもしれなかった。

働きたくても働けないツラさがどんなものか・・・
怠けるつもりはないのに怠け者に見られる惨めさがどんなものか・・・
そんな生活は、まさに“生地獄”・・・
自ずと心身は衰弱していき、始めは小さな石コロだったものが 次第に大きな岩になり、始めは薄低の壁だったものが 次第に厚高の壁になり、社会に戻ろうとする故人の行く手を阻む・・・
ともなって、その精神は、病んでいくばかり・・・狂ったように・・・

「甘やかすからそうなる」
「生きていれば楽しいこともある」
「死ぬ気になれば何でもできる」
と、人は言う。
一理あるかもしれないけど、これは、まったくわかっていない人間がいうセリフ。
生きる力を失った者にとっては、日常生活ほとんどのことが虚無・疲労の原因となる。
生きる力を失った者にとっては、人生の楽しみさえもどうでもよくなる。
生きる力を失った者とって“死”は、最悪のことではなく最良のことのように思えてしまう。
そして、家族を悲しませることがわかっていても、抱える苦しみは、それを超越してしまうのである。

事情や境遇はまったく違うけど、私にも似たような経験があり、生きる意欲を失った時期・・・自分に刃を向けた過去がある。
あれからもう三十年近くが経とうとしているけど、ヒドく苦しみ、両親もヒドく苦しめた。
その後遺症は今でもあり、遠い昔のことなのに、思い出すと息が重くなる。
だから、故人の苦悩が痛いほど・・・涙が出るほどわかった。

私は、黙々と血・肉・骨を除去・・・
天井や壁の高部は、脚立に昇って・・・
点々と無数に広がる汚れと格闘・・・
無数に転がる散弾も、床を這って探し回り・・・
静かに流れる汗と、寂しく潤む目を拭きながら・・・
手間と時間がかかる作業であったことはもちろん、湧いてくる想いが多すぎて、考えさせられることが多すぎて、重い心労をともなう作業となった。

結局、想い描いていた人生をまっとうすることなく、最期を決断した故人。
愛用の銃を手に取り、弾を込め、銃口を額に当てて決行・・・
その様を思い浮かべると、自然と目に涙が滲んできた。
ただの同情・・・ただの感傷・・・しかし、身に覚えがある私には、心の奥深くに突き刺さるものがあった。
あの時、私が、銃を持っていたら、今、こうして生きているかどうかわからない・・・
一瞬の“魔”で決まるのだから。
ただ、銃を持っていなかったから、そうならなかっただけかも・・・
だから、こうして生きていられるのかもしれない。


生きることは素晴らしい。
生きることは楽しい。
同時に、
生きることは苦しい。
生きることは辛い。
しかし、“始まり”があれば、必ず“終わり”がある。
生まれてきたからには、いずれ死んでいかなければならない。
だから、それまで、耐え忍んで待つしかないのだ。

けれど、この世には、耐えきれない苦悩・苦痛がある。
他人が推し量ることができない苦しみが。
故人は、それに負けたのかもしれない・・・
そこから逃げたのかもしれない・・・
しかし、弱虫や卑怯者なんかではなかったと思う。
本当の弱虫や卑怯者は、苦しむことはないし、悩むこともない。
悪い意味で開き直って、悪い意味で堂々と生きていくもの。
そうはせず、悩みに悩んで、苦しんで苦しみ抜いて、戦いに戦って散らせた命の誠実さを、私は、生きることにくじけやすい自分に刻み込んだ。


「しんどかったね・・・お疲れ様・・・」
「俺は・・・もうちょっと頑張ってみるよ・・・」
私は、一仕事を終えた自分と 一人生を終えた故人にそう言い、くたびれた命を新たにして現場を後にしたのだった。





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厚顔無恥 ~後篇~

2020-07-07 08:40:40 | 遺品整理
偉そうな人、図々しい人、乱暴な人、ケチな人・・・
これまで、不愉快な人間とは何人も遭遇してきた。
人間は十人十色。
いい人もいれば悪い人もいる。
礼儀正しい人もいれば無礼な人もいる。
自分と肌が合う人もいれば合わない人もいる。
“好き嫌い”を通していては、仕事にならない。
とにかく、一仕事の中で我慢すればいいのだ。
しかし、私だって ただの人間。
しかも、懐は浅く 器は小さい。
許容量には限界がある。
善悪は抜きにして、世の中には、自分とは関わらない方がいい人間がいるのも事実だろうから、できることなら、そういった類の人とは別の世界で生きていきたい。
そうすれば、余計なストレスを抱えなくて済むし、嫌な思いをしなくても済む。
しかし、誰しも身に覚えがあるだろう、学校でも、会社でも、仕事でも、そうできないから苦労する。
“人間関係”は、楽しいときはいいけど、難しいときは、ヒドく人を苦しめる。
そして、ときに、憎悪・嫌悪・敵意・怒り・・・恐ろしいくらいの悪感情を人に抱かせるのである。


前篇の続き・・・

部屋にある家財は少な目。
ただ、大家は、故人が付けたエアコンの撤去も要求。
たいした金額ではないが、一つ一つを処分するには費用がかかる。
男性は、それが嫌なようで、
「これはまだ使えるよ!次の人が使うでしょ!?」
と、押し売りが得意のセールスマンのようにエアコンの再利用をPR。
しかし、それは、とっくに耐用年数が過ぎている代物。
充分に古く、充分に汚れている。
欲しがる人は、まずいないはず。
だから、
「それは○○さん(故人)がつけたモノだから、外して下さい! 次の人には自分で新しくつけてもらいますから!」
と、大家は、男性による“ガラクタの押し売り”をキッパリ断った。

主張が通らなかった男性は、おもしろくなさそうに、
「使えるモノをざわざわ捨てなくてもいいのに・・・」
「処分を業者に頼んだら金がかかるわけだよな・・・」
と、ブツブツ言いながら、エアコンの室内機・ホース・室外機を舐めるように眺めた。
どうも、自分で取り外せないか考えているよう。
その様子を見ていた担当者が、
「そういうのは、専門業者に任せたほうがいいですよ」
「壁とか壊れると修繕費もかかりますから」
と親切心で言うと、
「業者に頼んだら金がかかるだろ?!」
「そんなの無駄金!無駄金!自分でやればタダなんだから!」
と一蹴。
私だって“金がかかる業者”なわけで・・・わざわざ人を呼びつけておいてその言い草・・・失礼極まりなし・・・
ただでさえ冷たくなっていた場の空気を更に冷え冷えとさせた。

退去時の原状回復費用を、貸主・借主でどう負担するか。
これは、賃貸不動産で起こりがちなトラブルである。
私個人の経験でも、過去に、一年しか住まなかったマンションで、敷金+修繕費を徴収されたこともあった。
また、三年住んだマンションで、敷金全額を返してもらえたこともあった。
国土交通省がガイドラインを定めてはいるけど、明確な基準ではないし強制力もない。
結局、不動産屋や大家の裁量によるところが大きい。
だから、“賃貸人 vs 賃借人”でトラブルが起こりやすい。

しかし、この案件の場合、入居者が“善良なる管理者の注意義務(良識をもって部屋を使用する義務)”に違反していたことは明らか。
特殊清掃が必要なくらいトイレは糞尿まみれ。
風呂や洗面台はカビ・水垢だらけ。
キッチンシンクはカビ・水垢に覆われ、レンジ周りは油汚れで真っ黒ベトベト。
で酷く汚れ、部屋もホコリだらけで壁紙も変色は結構な汚れ具合に。
長年に渡って掃除されていなかったであろうことは、誰の目からも一目瞭然だった。

担当者は、
「修繕費とクリーニング代を合わせると、預からせていただいている敷金だけでは足りないはずなので、不足分は保証人さん(男性)に負担していただくことになります」
と説明。
すると、
「なんで!?フツーに住んだって、これくらいは汚れるでしょ!?」
男性は、予想通り抵抗。
「いやいや・・・これは、経年劣化とか通常損耗じゃないですよ!」
担当者も黙っておらず。
「そんなことないでしょ!妙な言いがかりつけると黙っちゃいないよ!」
最初から“黙っちゃいない”男性だったが、自分の理屈を無理矢理にでも通そうと、声のトーンを上げた。

「あと、先月分の家賃が払われていないので、お願いします」
「退去申告は一ヶ月以上前にしていただく規約ですけど、ご本人が亡くなっておられますので、今月分の家賃は退去までの日割分で結構です」
男性の態度にいちいち反応していては仕事にならない。
担当者も、早々に男性の性質を理解したよう、冷静に努めることにした様子。
また、退去時の揉め事にも慣れているのだろう、揚げ足をとられないよう言葉を選びながら、退去の手続きを事務的に説明していった。

「先月分って・・・入院してここに住んでなかったのに家賃とるの!?」
「そんなの、おかしいだろ!」
おかしいのは男性の方。
しかし、男性は、担当者の話が進むにしたがってハイテンションに。
担当者の口からは、金のかかる話が次から次へと出てきて、みるみるうちに怒りに満ちた表情に。
そして、何か考える素振りで少しの間をあけて後、意地悪そうな微笑を浮かべたかと思うと、
「じゃぁさ、“払わない”って言ったらどうなるの?」
と、イヤ~な予感がする一言を吐いた。
「え!? 保証人になっておられるわけですから、払っていただかないと困ります・・・」
不気味な返答に、冷静沈着だった担当者は少し動揺。
「困るかどうかなんて、訊いてないよ!」
不利な立場なのに、男性は何故か強気。
返答に困った担当者が言葉を詰まらせていると、
「だから!“払わない”っていったらどうなるのかって訊いてんの!」
と、語気を強めた。
「・・・そ、その場合は・・・大家さんに負担していただくしか・・・」
傍らには大家が立っているわけで、担当者は、言いにくそうにそう言った。
同時に、言われた方の大家は、“なんでそういうことになるの?”と不満とともに不安気な表情を浮かべた。

「あ~そぉ~・・・・・じゃ、払わない!」
「今まで払った家賃だけで充分に儲かってるはずだから!」
「そもそも、こんなボロアパートで高い家賃とって、悪いと思わないの?」
「文句があるなら、警察でもどこでも行ってやるよ!」
“最後は大家が負担するしかない”ということを知った男性は、悪知恵を働かせ完全に開き直った。
そして、誰も予想しない一言・・・常軌を逸した暴言を吐き、その場の空気を凍りつかせた。

何という言い草・・・理性というものを持ち合わせていないのか・・・大家の面前で、よくもまぁ、そんな乱暴なことが言えたもの。
これには、大家も担当者も唖然・絶句。
思いもよらない返答に頭が真っ白になったのか、はたまた、言い返したいことがあり過ぎて言葉に詰まったのか、二人は無言のまま。
不気味な余裕顔を浮かべる男性とは対照的に、ただただ顔を引きつらせるだけだった。

この程度の揉め事は、裁判沙汰にするほどのことでもなく、かといって、黙って泣き寝入るのも悔しすぎる。
しかし、残念ながら、この手の人間は、かなり厄介。
一般的な常識・良識・社会通念は通用しない。
もっというと、公の法律も。
“自分がどう思われるか”なんてまったく気にせず、警察が関与するような犯罪行為でなければ、堂々とやってのける。
結局、話は男性のペースで進み、その場は、善悪の感覚が麻痺してくるような雰囲気に包まれていった。

私は、社交辞令的な会話は苦手なクセに口が減らないタイプの人間。
そのやりとりを見ていて、男性に言ってやりたいことが、闘志とともに次から次へと頭に湧いてきた。
が、私は、まったくの第三者。
“男性 vs 大家・担当者”に口を挟める立場にない。
男性に対する怒りと参戦できないもどかしさに苛立ちを覚えた。

しかし、こんな男を相手にストレスを抱えるのはバカバカしい。
“参戦できないなら離脱した方がいい”と考えた私は、一応の用事を済ませるため、攻防を繰り広げる三人を横目に、目視で家財を簡単にチェック。
そして、右手にペン、左手にファイルを持ち、見積書を制作。
どちらにしろ、男性が、故人のために身銭を切るつもりがないことは ほぼ明白。
また、病院や葬儀社への代金をキチンと支払ったかどうかも怪しく・・・
どう考えても、この案件が仕事(契約)になる可能性はかぎりなくゼロに近く、私は、無駄足を喰わされた不満の中で見積書を書いていった。

同時に、私は、仕事とはいえ“もう、この男性とは関わり合いになりたくない”と思った。
万が一、契約が成立して作業を実施したとしても、契約外の雑用を命じられたり、事後に値引きを迫られたり、また、横柄な態度や、礼儀をわきまえない言動も変わらないはずで、作業中や作業後に不快な思いをさせられることが容易に想像できたし。
それだけなら まだマシで、代金をまるごと踏み倒される可能性も考えられた。
結局のところ、この仕事は、気持ちよく、また安心してできないと判断。
で、やる気なく、かたちだけの見積書をつくって、男性に差し出した。

「え!?そんなにかかるの!?」
「オイオイ、そんなにかかるわけないだろぉ!」
男性は、まったく予想通りの反応。
ただ、これ以上、不愉快な思いをするのはまっぴら御免。
交渉に応じて商談を進めるつもりなんか更々なく、
「これでご検討下さい」
「必要があったらご連絡ください」
と、一方的に話を締め、そそくさと現場を引き揚げた。

「当然」というか・・・結局、契約には至らなかった。
だから、その後、あの案件がどうなったか、男性がどうしたかは知らない。
ただ、一悶着も二悶着もあったはず。
ともなって、関わった人は、皆、気分の悪い思いをさせられたことだろう。
大家をはじめ、実害を被った人もいたと思う。
一つの仕事を逃したものの、いち早くそこから離脱した私は、何度思い返しても、その判断が間違っていたとは思わなかった。


今回のブログ、わざわざ前後篇に渡って長々と書いた割に、その内容は、ただの男性への悪口。
その厚顔無恥ぶりは反面教師の上をいっており、表面上、得るものは何もなし。
しかし、この無意味なブログからも、何かが読み取れるかも。
自分にも似たようなところがないか・・・
これまでの人間関係や生き方に省みる余地がないか・・・
無意味な記事に意味を探すこともまた、「特殊清掃 戦う男たち」の一趣一嗜(?)。

“自分は厚顔無恥な人間じゃない”と思いたい私は、無理矢理そんな風に考えて善人でいようとする・・・
・・・実のところ、厚顔無恥な人間なのかもしれない。



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厚顔無恥 ~前篇~

2020-06-30 08:30:37 | その他
外出時のマスク着用が当然のエチケットになっている今日この頃。
一時のマスク不足は解消され、街でもフツーに購入できる。
結局のところ、やっと届いたアベノマスクも用をなさず。
“かかった大金が、もっと有効に使われていたら”・・・と思うと、何とも歯痒い。
自分の努力や忍耐力ではどうにもできないところで困窮している人がたくさんいるのだから。

そんなアベノマスクが可哀想になるくらい、既に、市中には多種多様なマスクが出回っている。
で、昨今は、冷感マスクとか、暑さに強い素材のもの、また、呼吸がしやすいものが注目されている。
人気商品になると、ネットでも店頭でもなかなか手に入れることができない。
私は、ずっと不織布の使い捨てマスクを使っているけど、汗で濡れると、鼻口に貼りついて まともに呼吸ができなくなってしまう。
で、たまにポリエステル製のモノを使っている。
もちろん、ネット弱者のうえ、店に並ぶヒマもないから、その辺の量販店で売っている安物を。
それでも、不織布に比べると、随分と快適である。

しかし、疑問もある。
それは、マスク本来の機能。
「呼吸が楽」ということは、フィルター機能が弱いのではないだろうか。
いくら呼吸が楽でも、涼しくても、ウイルスが筒抜けではマスクを着ける意味がない。
顔が暑くなるのは困るけど、ウイルスが通り抜けてくるはもっと困る。
頻繁に流れるマスク紹介のニュースは、快適性やデザインばかり注目し、肝心のウイルス対策の機能についてはほとんど触れない。
取り扱っている会社は一流企業も多く、「金になればそれでいい」「売れればいい」等とは思っていないはずだけど、品質や機能についてもキチンとした説明がほしい。
ま、そこのところは、価格とのバランスもとらなければならないのだろうから、各メーカーの良識に任せるとして、この辺で、“顔が暑い”話から “ツラが厚い”話に移ろう。


見積調査を依頼された現場は、老朽アパートの一室。
用向きは家財生活用品の片付け。
間取りは1K。
暮らしていたのは70代の男性。
長患いの末、病院で死去。
その住まいには、古びた家財だけが残されたのだった。

依頼者は故人の弟。
アパートの賃貸借契約の連帯保証人。
「いくらかかる?」
「見積は無料なのか?」
と、当初の電話は金銭的な質問ばかり。
早い段階から“金銭にシビアな人物”ということが見て取れ、
“ただの冷やかしじゃなきゃいいけどな・・・”
そう思いながら、私は、依頼者の質問に応えた。
ただ、“できるだけ費用は抑えたい”と、何事においてもそう思う庶民感覚は充分に理解できる。
私の気に障ったのは金銭的なことではなく、男性の態度と その口からでる言葉。
フレンドリーなタメ口ならまだしも、偉そうなタメ口。
声からして明らかに私の方が年下で、暫定とはいえ、男性は“客”で私は業者。
それでも、私は、初対面の人間にタメ口をきくような礼儀を知らない人間は好きではない。
相手の心象なんかお構いなしに、デカい態度でタメ口をきく男性に、強い不快感を覚えた。

どの世界にも、まだ客になってもいないうちから客面する人間はいる。
私の業界でも珍しくなく、そこら辺は割り切らないと仕事にならない
で、男性は、現地調査の日時も一方的に指定。
多くの依頼者は、希望の日時を持ちながらも、こちらの都合も聞いてくれるのだが、男性に私の都合なんか関係なし。
この類の人間には社会通念は通用しないことが多い。
余計なことをいうと話がこじれて無駄に長くなるだけなので、私は、男性の指定した日時に素直に応じ、現場に出向く約束をした。

日時が決まったら、次は場所の確認。
現場の住所を訊ねると、男性は「○○区○○町○丁目○号○番地」と返答。
建物名を訊ねると、「何だったっけなぁ~・・・思い出せない・・・古いアパートの2Fだから来ればわかるよ」とテキトーな返事。
ただ、今はカーナビも高性能だし、スマホの地図アプリも使える。
その昔、私がこの仕事を始めた頃は、カーナビやスマホはおろか、一般人は携帯電話さえ持っていなかった時代。
当時は、ポケットベルと縮尺100万分の1地図でフツーに仕事をしていた。
それが当り前だったわけだから苦も無くやっていたけど、それに比べれば全然マシ。
番地までわかれば目的のアパートは難なく探せるはず。
現地で待ち合わせることができればいいだけのことなので、アパート名は不明のまま電話を終えた。

約束の日、私は目的の住所に出向いた。
幹線道路に面した場所で、近くに駐車場はなく、私は離れたコインPに車を停めて、そこから歩いていった。
しかし、教えられていた場所に、それらしき老朽アパートは見当たらず。
ただ、その周辺には何棟かのアパートが建っていたので、“このうちのどれかだろう”と思って、約束の時刻が近づくまで待機。
そして、前触れもなく遅刻するのは失礼なので、約束の時刻の10分前になって男性に電話をかけた。

「今、近くにいるはずなんですけど、どのアパートですか?」
すると、
「俺も、今、来たところ」
とのこと。
しかし、その周辺にそれらしき人影は目につかなかった。
それで、私は、建物の色や特徴、更には周囲の景観を訊ねた。
相変わらずの言葉づかいが気に障らなくはなかったけど、それよりも、男性が説明するアパートの特徴も、周辺の景色も、私がいる場所と噛み合わないことが気がかりに。
どうも、まったく別の場所にいるようだった。

そこで、教えられていた住所を再確認。
すると、「○丁目○号○番地」の「○号○番地」の部分が違っていた。
紛らわしい数字ではあったが、明らかに男性のミス。
しかし、男性の誠実性を疑っていた私は、男性が私に濡れ衣を着せようとすることを予感。
当然、そんなことされたらたまらないので、
「確か、“○丁目○号○番地”っておっしゃってましたよね!? メモを復唱して確認もしましたし!」
と、間髪入れずに先手を打った。
そう言われた男性は、自分が間違っていたことを認めざるを得ず。
だが、しかし、
「とにかく、○丁目△号△番地だから、そこに来て!」
と、悪びれた様子もなく、これまた一方的に指図してきた。

当然、私はムカッ!ときた。
ただ、仕事は仕事で進めなければならず、抑えきれるくらいの苛立ちを覚えながら、私はスマホを再検索。
画面に映された地図を凝視し、そこまでのルートを目で追った。
もともと、“○丁目”まで同じなわけで、新しく示された場所はそこから数百メートルのところ。
わざわざ車を使うほどでもなく、私は、そのまま歩いて訂正された住所へ向かった。

目的の番地には、ものの数分で到着。
しかし、そのエリアには、アパートらしき建物がまったく見当たらず。
先程とは違い、隣接する番地にもアパートはなく、町工場やオフィスビルが建ち並んでいるだけ。
更に、その周囲は道路や空地。
それ以上 探しようがなかった私は、再び男性に電話をかけた。

「今、教えられた番地にいるんですけど、この番地は、会社の事務所になってますけど・・・」
すると、
「そんなはずないよ! ちゃんと探してんの?」
とのこと。
ただ、私がいる場所周辺に住宅はなく、どこからどう見ても違っていた。
で、その地域は、町名の前に「西」がつく町もあるところもあることに気づいた私は、
「もしかして、○○町じゃなく、西○○町の間違いじゃないですか?」
と問いただした。
しかし、男性は
「間違ってないよ! 周りをよく見てみなよ!」
と、私の話もろくに聞かず、そう言い張った。

そうして問答することしばし、男性のもとにアパートの大家が現れた。
男性と話していてもラチがあかないと思った私は、大家に電話を代わってもらった。
そして、アパートの周囲に目印になるようなモノがないか尋ねた。
が、やはり大家とも話が噛み合わず。
ただ、大家はすぐにピンきたようで、
「もしかして、あなた、○○町にいるんじゃないの!?」
「うちは西○○町ですよ!?・・・西!○○町○丁目△号△番地です!」
と、少し呆れたように、真正の場所を教えてくれた。

やはり、町名が違っていた。
“やっぱりそうだろ!?”
“だから、何度も確認したんじゃないか!!
“それを、ロクに確認もせず、偉そうに言い張って!”
私が湧いてくる不満を収めきれず、内心でブツブツ。
大家から男性に電話を戻してもらい
「やはり、町名が違っていたみたいですよ!」
と、嫌味を込めつつ、男性に非があることを理解させようとした。
それでも、男性は平然。
「とにかく、さっきから待ってるんだから、はやく来てくれる?」
と、詫びの言葉一つも入れないで、まるでケンカを売っているかのような言葉を返してきた。

当然、私はムカムカッ!ときた。
それでも、一仕事が待っている身。
約束に時間に遅刻してしまうことは避けられなかったけど、こんな時こそ、焦らず、慌てず、イラつかず、冷静に行くことが大切。
私は、二~三度 深呼吸して後、“もしかしたら、このまま歩いて行けるかも”と期待を込めてスマホを検索した。
しかし、残念、画面はやたらと長い道程を表示。
真の場所は、そこから3kmばかり離れていた。
ウォーキング好きの私でも30分はかかる。
私は、徒歩で行くことを諦め、離れたところに停めていた車のもとへ。
無駄になった駐車料金を精算して、再び車に乗り込んだ。

やっとのことで現場アパートに到着した私。
自分に対しても人に対しても時間にうるさい私は、結構なストレスを抱えていた。
結局、最初の約束時刻から30分の遅刻。
現場には、大家をはじめ、管理会社の担当者も来ていた。
待たされたことに不満を覚えていたのか、男性は外にでてタバコを小刻みに吹かしていた。
私に非がないことは明らかだったが、立場上、私の方から頭を下げた。
一方の男性は、頭を下げるどころか、例によって詫びの言葉ひとつもなし。
当り前のような顔で、「ちょっと見てくれる?」と二階の部屋を指差し、私を急かした。
その厚かましい態度に、当然、私はムカムカムカッ!ときた。
が、そこは仕事場。
“我慢!我慢!”と自分に言いきかせ、内心を表に出さないように気をつけた。

しかし、そんなストレスをよそに、男性の厚顔無恥ぶりは、とどまるところを知らず。
この後、さらにエスカレートするのだった。
つづく




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一寸先

2020-06-24 08:44:23 | 浴室腐乱
やっときた“アベノマスク”、もういらない“アベノマスク”。
周囲にも、それらしきモノを使ってる人を見たこともない。
TVで観る政治家の一部が仕方なさそうに着けている布マスクがそれなのだろうが、そのサイズは明らかに小さい。
本来なら、鼻の上から顎の下までスッポリ覆われなければならないはずなのに、あの小ささは、昔よく見た(?)エロ本の水着級で、貧相を通り越して卑猥に見える。
「何かの冗談か?」と思ってしまうくらい。
安直発想の企画立案、欠陥品だらけの開発製造、いつまで経っても届かない配達頒布、すべてにおいて大失敗ではないか!
おまけに、多額の税金が突っ込まれているわけで・・・
“善意でやったことなら赦される”と思ったら大間違い、世の中には“過失責任”というものがある。
この大コケの責任は、誰がどうとるのか。
ただ、世間の雑音は当事者の耳には届かないだろう。
人間というものは、権力をつかむと“背徳性難聴”を患いやすいようで、都合の悪いことは聞こえないらしい。
また、“部分性視覚障害”も併発しやすいのか、都合の悪いものは見えないらしい。
結局、先を読めなかった御上の責任は、「アベノマスク」なんていう不名誉な名前によって静かに相殺され、“なかったこと”にされるのだろう。

定額給付金の申請書、私のところには6月1日に届いた。
で、早速、返送。
入金がいつになるかわからないけど、助かることは助かる。
しかし、得した気分にはなれない。
先々、徴税というかたちで、この何倍もの金額が課されるのだから。
それはさておき、まずは温泉旅行にでも行きたいところだけど、寂しいかな、気持ちにも懐にもそんな余裕はない。
今のところ減収には至っていないけど、“一寸先は闇”。
私は、もともと、余裕のある生活をしているわけではないけど、この先に待ち受けているかもしれない経済苦を考えると、生活資金は少しでも多く手元に置いておきたい。
給付金は一時的に貯蓄に回った後、結局のところ、生活費としていつの間にか消えていくのだろうと思う。
ま、筋金入りの守銭奴の私は、節約生活は苦にならないので、これからも“ケチ道”に邁進するのみだ。


重症の“汚腐呂”が発生。
現場は、公営団地の一室。
依頼者は初老の女性で、亡くなったのは女性の弟。
無職の一人暮らしで近所づき合いもなかったため、長期放置。
で、遺体は腐敗溶解し、浴室は凄まじい光景に変容。
遺体も浴室も、とても一般人が見られる状態ではなく、女性は、警察からも「見ないほうがいい」と忠告を受けていた。

このレベルで汚損してしまった浴槽設備は、清掃消毒をしたところで再び使えるようにはならない。
浴槽内側には遺体液の色素が沈着し変色したままになる。
給湯設備内にも汚物や異物が侵入し、それをきれいに除去することは困難。
仮に、きれいに掃除できたとしても、次に入居する人が気にしないとは思えない。
並の神経では、そんな経緯のある風呂は入りたくないだろう。
結局、浴室設備は一切合切、新しいものに入れ替える必要がある。
ただ、解体処分される浴室設備とはいえ、そのままの状態では何の工事もできない。
できるかぎりの清掃・消毒をしないと、工事業者も仕事ができない。
で、特殊清掃の出番となるのである。

“浴室死亡”って、居室死に比べれば少ないけど、そんなに珍しいことではない。
中でも、浴槽に浸かったまま亡くなるケースは多い。
そして、それがそのまま放置されるとどうなるか・・・
経過時間や湯温にもよるけど、相当なことになる・・・
“24時間風呂”等、湯温が自動的に維持される仕組みだったりすると、それはもう・・・
その昔、文章を書くことに慣れていなかった頃は、“煮込系の肉料理”で表現したこともあったけど、当然、実際は そんな生易しいものではない。
同時に、放たれる悪臭がどれほど深刻なものかも 言うまでもない。
浴槽死亡の場合、部屋死亡の場合とは異なった独特の生臭さがある。
私が嗅ぐケースとしては部屋死亡の方が圧倒的に多いから、“慣れ”の問題もあるのだろうが、これが、結構 腹にくる。
結局のところ、不気味さや悪臭はハンパなレベルではなく、常人を寄せつけない威圧感を放つのである。

この故人も、浴槽に浸かった状態で死亡。
ただ、その死因はちょっと違っていた。
それは、“溺死”。
通常は、脳梗塞は心筋梗塞等、脳血管や心臓の疾患での突然死。
しかし、故人はそうではなく、上半身は湯をはった浴槽の中に突っ込み、下半身は洗い場に残し、前屈したような姿勢で亡くなっていた。
風呂に入ろうとしたところで何かの病気を発症し、そのまま浴槽に向かって倒れ込んだのだろう。
しかし、腐敗がヒドくて、解剖もままならず。
生前から脳血管系の疾患があったことはわかっていたものの、死因は“事件性のない溺死”となった。
最期、故人が苦しんだのかどうか・・・
多分、突然に意識を失ったのだろうから、苦しまずに逝ったことが想像されたが、“上半身だけ湯に浸かっての溺死”って、無理矢理、水中で頭を押さえつけられたような光景がイメージされ、ヒドく気の毒に思えた。

故人は、もともと高血圧症で降圧剤を服用。
酒は飲まなかったが、高血圧の大敵であるタバコをやめず。
また、生活習慣の改善にも取り組まなければならなかったのに、それも満足にやらず。
たまの電話で忠告する女性にも、自分に都合のいい言い訳ばかりしては、体調については「そんなに悪くはない・・・」と言葉を濁していた。
数か月前、路上で倒れ、通りすがりの人に助けられて救急搬送されたこともあったらしい。
この時は、軽症で事なきを得たのだが、以降も、それを教訓にすることなく不摂生な生活を送った。
そういった具合だから、急に倒れるリスクは常にあった。

浴室から漂ってきているのだろう、玄関を開けると汚腐呂特有の異臭が私をお出迎え。
更に、明りのない室内の薄暗さが、不気味さを演出。
私は、ゆっくり歩を進めながら、壁のスイッチを一つ一つ押して明りを灯していった。
そして、この後に受けることになる衝撃に備え、それまでに遭遇した幾つもの“汚腐呂”を思い浮かべながら、メンタルのウォーミングアップをはじめた。

玄関を入って進んだ廊下の左側に洗面所があり、問題の浴室はその脇。
遺体を引きずり出した際に汚れたのだろう、手前の洗面所の床や浴室扉の枠にも汚染痕。
そこからは、遺体を搬出する際の難儀がうかがえた。
全身ズルズル、膨張溶解して、大人二~三人がかりでも容易に持ち上げらなかっただろう。
しかも、頭部はまるごと湯に浸かっていたわけで、その形相は、例えようもなく恐ろしいものに変容していたはず(故人を愚弄しているわけではない)。
その昔は、そういった作業は、葬儀屋が“仕事欲しさ”でやらされることがほとんどだったようだが、最近では、コンプライアンスの問題(警察と葬儀社の癒着)で警察自らの手で行うようになっているらしい(実のところは不明)。
とにかく、誰がやるにしても、その作業が超過酷であることに変わりはない。
私は、見ず知らずの誰かがやったその作業を労いながら、同じような労苦を味わうことになる自分を励ました。

私は、浴室の前で停止。
明りを灯すと、扉越しに中の色がボンヤリと映し出された。
普通の浴室なら、だいたい白っぽく見えるはず。
しかし、この浴室は全体的に黒。
それは、本来の浴室にはないはずの大量の何かがあることを示唆。
それが、扉を開けなくてもわかるくらいで、私は、微かに期待していた“軽症”を諦めざるを得なかった。

高まる緊張感を無視して浴室の扉を開けると、そこには凄まじい光景が・・・
浴槽の淵には皮膚や頭髪がベッタリ・・・
下半身があった洗い場には、茶黒の腐敗粘土・・・
重厚な悪臭を放っていたことは言うまでもなく、警察が女性に「見ないほうがいい」と言ったのは大正解!
衝撃的な光景が精神を患わせ、あまりの悪臭が胃まで吐き出させるくらいに腹をえぐってきただろうから。
もちろん、“非日常”を楽しむ余裕はないものの、私は、悲惨な光景も、凄まじい異臭も、ほぼほぼ慣れている。
あと、止まって見物していても仕方がないわけで、床の汚れに気をつけながら浴室に足を踏み入れ、浴槽に顔を近づけた。

ゆっくり湯に浸かろうとしていたのだろう、浴槽にはタップリの水。
もちろん、上半身の多くが溶け込んでしまっているわけだから、凄まじい汚水に変容。
コーヒー色に濁り、その水面は黄色い脂が覆い、水中には得体の知れない異物が浮遊。
当然、浴槽の底なんか見えるわけはなく、視界は ほぼゼロ。
ただ、底の方はヘドロ状態で、身体の何かしらが沈んでいるに決まっている。
水の色の濃度と浮遊物から大方の判断はできるので、見通せなくてもわかる。
水の中に何が溶け込んでいるのか、何が残留していそうなのか、“汚腐呂屋”の私には容易に想像できるものだったけど、できることなら想像したくなかった。

汚水の濃度や中身によって作業の難易度は大きく変わる。
もちろん、ドロドロじゃなく、できるだけサラサラである方が助かる。
汚染レベルを確認するため、ゆっくりかき回してみると、視界の悪い汚水の中なら白いクラゲのような物体がいくつも舞い上がってきた。
見慣れていればすぐわかる、それは、故人の身体から剥がれた皮膚。
水死体特有の現象で、長く放置すると遺体は“脱皮”する。
ふやけてサイズアップした皮膚が、手の場合は手袋のように、足の場合は五本指靴下のように、スッポリ抜けるのだ。
所々が破れてしまい 五本指すべてが揃っていたわけではなかったが、爪まできれいに残っており、指関節の曲がり具合も実物そのもので、それがあまりにリアルなものだから、そんなことあるはずないのに、“手が落っこちてんのか?”と驚くくらいだった。

この状況、どう見たって簡単な作業にはなりそうにない。
見たくないものを見、嗅ぎたくないものを嗅ぎ、触りたくないものを触らなければならない。
仕事とはいえ、こんな現場で気分が乗るわけはない。
それでも、やらなければならない・・・憂鬱と戦いながら、自分が生きていくために。
ただ、作業が進めば進むほど、先が見通せてくるから、気持ちが楽になってくる。
同時に、憂鬱感は薄らいでいく。
浴槽の底が見えてくると もうこっちのもの、“峠を越した”感じて、気持ちに余裕がでてくる。
そのうちに憂鬱な気分は消えていき、達成感や爽快感が湧いてくる(こんな現場で“爽快感”ってのも変だけど)。

作業中、私は、独特の緊張感や恐怖感を覚えながら、何度も汚水に手を突っ込んだ。
そして、視界に浮遊してきた“故人の手”を自分の手で掴み取った。
そのとき、汚物に怯え、汚物を嫌悪していたはずの私に、生身の人と握手したみたいな妙な感覚が走った。
同時に、この汚物が、自分と同じ人間であったことを、人として生きていたことを再認識した。
しかし、それは、実態のない、ただの皮。
水から上げると、一瞬で無実態・無重量に。
その様は、生死の境に建つ壁は、自分が思っているほど高くなく、自分が思っているほど厚くなく、ただ、細い線が一本引いてあるだけのような状態であることを表しているかのように感じられて、“いずれ、皆 死ぬ・・・”“それでも、今 生きている!”と、ひと時ではあったけど、私から余計な憂いを取り去ってくれた。


すべては、自分が蒔いた種、自業自得。
決して、好きでやっている仕事ではない。
辞められるものなら辞めてしまいたい。
「なんでこんなことになってしまったのだろう・・・」と、この人生に自問する日々。
しかし、私は、この仕事、過酷であればあるほど、生きていること、生かされていることを実感する。
そして、これまで私に与えられてきた無数の恵と自分を取り巻く無数の幸を再認識して、そのありがたさを痛感する。

一寸先は闇か、光か。
それを決めるのは自分であったり、自分でなかったり。
自分次第の部分もあれば、自分の力が及ばない部分もある。
それでも、時間だけは過ぎていく。
明るい未来を想像(創造)しにくい昨今ではあるけど、一日一日の出来事を積み重ねて、一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎ、一年が過ぎ、一生が過ぎていく。

見えない先には不安しかない。
しかし、わかっているはず・・・人生、ずっと真っ暗闇ではないことを。
まずは、一寸先・・・一寸先に集中。
私は、明るい明日を掴み取るため、必要なだけの勇気と小さな希望をもって、一寸先も見えない汚水に手を入れるのである。


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崖っぷち

2020-06-18 09:01:26 | ゴミ部屋 ゴミ屋敷
ある日の深夜、電話が鳴った。
「掃除をお願いしたいんですけど・・・」
声の感じからすると、30代くらいに思われる女性。
「知り合いに部屋を貸していたら、汚されてしまって・・・」
訊きもしないのに、そういって語尾を濁した。

これまで、似たような電話を何本も受けてきた私は、“知り合いに部屋を貸していたら・・・”というセリフにピンときた。
これは、よくあるパターン・・・ほとんどのケースで、それはウソ。
昼間でもいいはずなのに、間夜中にかけてくるというのも不自然。
他人がしでかしたことなら尚更。
実のところ、ゴミ部屋をつくったのは、知り合いでも何でもなく本人。
それが、羞恥心に耐えられず、第三者のフリをするのである。
ただ、そこのところは、契約前の電話問い合わせに影響するものではないから、真に受けたフリをして話を聞くのが、ある種の礼儀なのである。

また、夜中の電話は、“急を要している”ということを示唆している。
緊急事態でなければ、寝静まっている夜中にわざわざ電話してこなくてもいいはずだから。
もちろん、その事情は色々ある。
腐乱死体、自殺、汚物嘔吐、汚水漏水、動物死骸、トイレ掃除etc・・・
中には、「ゴキブリが出た!」といった、呆れた電話もある。
夜遅く、飲んだ帰り道、もよおしてきてしまい、どうしても我慢ができず、通りすがりのマンションの物陰で脱糞していたところを住人に見つかって警察に通報された人もいた。
で、住人から「すぐに掃除と消毒をしろ!」と言われて、当方に電話してきたのだ。
悪意ではなく便意が問題を引き起こしたわけで・・・本人は困り果てているにも関わらず、その時は、同情心とおかしさが同時に込みあげてきた。

ただ、この女性の依頼はこの類にあらず。
経験にもとづいて推察したところ、現場は“ゴミ部屋”。
しかし、ゴミなんて、数週間くらいでは、たいした量にはならない。
相当な量に達するには、相応の年月・月日がかかる。
長期間で出来上がるものだから、“急を要する”なんてことは考えにくい。
とはいえ、それが、いきなり、緊急事態に陥ることが、ままあるのである。

それは、建物設備の定期点検。
分譲・賃貸問わず、一般のマンションならどこでも行われているもの。
そして、そういうものは、事前に通知される。
共用部の場合は、理事会を通して各住人に口頭伝達されると同時に、エントランスの掲示板やエレベーター内に掲示告知される。
そして、専有部の場合は、当該住人に個別に通知され日時調整がなされる。
マンション全体のメンテナンスに関わることだから、住人は個人の事情でそれを拒むことはできない。
点検業者と都合を合わせての在宅が原則だけど、仕事等で在宅できない場合は、入室承諾書等を書いて入室を許可する運びとなる。

しかし、女性は、これを無視し続けてきたのだろう。
一方の管理会社だって素人ではなく、これを不審に思わないはずはない。
頑なに点検を拒み続けるには、それなりの理由があることくらい容易に想像できる。
そして、その“理由”とは、“部屋が、人に見られたらマズイ状態になっているから”ということも。
漏電・漏水・ペット・異臭騒ぎetc・・・事故でも起こって、管理責任を問われると管理会社も困る。
必要に迫られた管理会社は、結局、「不在の場合は合鍵を使って入る」と、女性に最終通告を発したものと思われた。

最後通告は、入室予定の何日も前、余裕をもった日付が設定されたはず。
“通告の翌日に入室”なんて急なことはなかったと思う。
しかし、女性の怠惰な性分は変わらず。
一時的に慌てただけで、直ちにアクションを起こすことなく、その結果、ジリジリと崖っぷちへ。
そして、ギリギリになってようやく尻に火がつき、ネット検索。
作業してくれそうな業者をシラミ潰しに当たり、そうしてヒットしたうちの一つが当社だったのだろう。

“年貢の納め時”がきたのか・・・
ゴミ部屋が発覚すると、大家や管理会社を巻き込んでの大騒動に発展する。
早急にゴミを片づけさせられることはもちろん、清掃消毒、リフォーム等、原状回復の責任を負わされ、挙句には追い出されてしまう。
そういった一連のプレッシャーが圧し掛かっているだろう、女性は、ヒドく焦っている様子。
「いくらかかりますか?」
「いつ来てもらえますか?」
と、しきりに費用と工期を訊いてきた。

現場を見ないで作業内容や料金を提案することは困難。
また、現場を見ないでの見積は、後々でトラブルが発生するリスクが高い。
で、当社の場合、余程の簡易作業でないかぎり電話見積には応じていない。
そうは言っても、大まかな作業内容や概算費用くらいは応えないと、問い合わせてきた相手の期待を裏切ることにもなりかねない。
そのため、相手の要望によっては、電話の段階でも、現場の状況をできるかぎり詳細に把握する必要がある。
この案件のそうで、現地調査・見積提出をする以前に、要望の作業が責任をもって施工できるかどうかも判断しなければならなかったので、私は、その事情を説明したうえで、現地の詳細を聞き出そうと、細かな質問を投げかけた。
もちろん、女性が第三者であることを鵜呑みにしたフリをしたままで。

この女性もそうだったが、こういったケースの案件で、大方の人は、はじめのうちは軽症を臭わせる。
これには、ある種、交渉に入る前のウォーミングアップのような意味があり、業者が、どういう反応を示すのかを確かめるため、あと、早い段階で断られないようにするためだと思われる。
女性も、始めは、「浴室とトイレがちょっと汚れてまして・・・」と控えめな説明からスタート。
しかし、私の想像通り、それは、質疑応答をすすめるにしたがって変容。
これまた、私の想像通りの実状が、徐々に明るみになってきた。

やはり、状況は深刻。
部屋には、長年のゴミが堆積、結構なゴミ部屋になっている模様。
床が見えていないことはもちろん、結構な高さまで積み上がっているよう。
食べ物ゴミ、衣類、雑誌等々・・・本来なら、日々、家庭ゴミとして出されるべき生活ゴミが、そのまま溜まっていた。
とりわけ深刻なのが、トイレと浴室。
糞尿系の汚物や生理用品等、不衛生度が高いゴミはそこへ集められていた。
ビニール袋に入れた糞尿が、いくつも突っ込んであるらしい。
相当量に達しているだけでなく、悪臭も充満。
破れたビニール袋もたくさんあるはずで、かなり悲惨な状況になっているのは容易に想像できた。

“ゴミを片づけさえすれば問題は解決する”と思っていたら大間違い!
ゴミを撤去しても、部屋は、再び以前のような姿で現れることはない。
床も壁も内装建材には、相応の汚染・汚損が残り、水廻りもサビ・カビだらけでボロボロ。
浴室・トイレにいたっては、腐り果てていることだろう。
しかし、その辺をリアルに想像できる人はいない。
女性も、かかる費用と工期以外のことは、鼻で笑うくらい簡単に考えているようだった。

一つのウソをつき通すには、その周囲を多くのウソで固めなければならない。
その辺の詰めが甘かった女性は、時々、自分が“第三者”であることを忘れたかのように、そこで生活していた者でしかわかり得ないようなことも口にした。
通常、他人がつくったゴミ部屋について詳細に回答できるわけはなく、もうバレバレ。
仮に作業することになった場合、契約書には実名を書いてもらわなければならないし、室内には個人情報がタップリ詰まっているはず。
恥ずかしいのはわかるけど、作業に入ればすぐバレる。
ウソは恥の上塗りになるだけ。
いずれ恥ずかしい思いをすることになるのだから、始めからウソをつかないことが肝要。
それでも、女性は正体がバレてないつもりのようで、時々、思い出したように“知り合い”の悪口を織り交ぜて被害者を装った。

「現金での分割払いではできますか?」
状況からみて、結構な費用になりそうなことは覚悟しているよう。
しかし、たいした預貯金もなさそうで、どうも、クレジットカードも使えないよう。
精神衛生上だけではなく、与信上も問題のある人物だった。

「周囲にわからないようにできますか?」
荷物は、どうみてもフツーの家財には見えないはず。
糞尿系汚物や腐敗物も多くあるはずで、悪臭も放つはず。
管理人に問われてウソをつくと無用なとばっちりを受けるかもしれず、自己防衛上、それは困難だった。

「明日中・・・いや、もう0時過ぎてるから“今日中”ってことになるのか・・・今日中にできますか?」
“点検が入るのは明日”ということなのだろう。
切羽詰まっていることが伺えたが、現地調査もやっていない段階で作業日は決められない。
事故トラブルなく安全に施工しようと思えば、無理な話だった。

女性と会ってもいないし、現場もみていない上は、安請け合いはできない。
作業日時は、マンション管理人の勤務日・勤務時間に合わせる必要があるかもしれない。
管理規定で、引越し作業等は事前の申請・許可が必要かもしれない。
車両を停めるにも事前予約・許可が必要かもしれない。
1Fエントランス・通路・エレベーター等の共用部にどの程度の養生をする必要があるのかも判断不能。
相当の不衛生物もあるわけで、無用なトラブルを招かないため、作業を行ううえで必要な諸々のことを、管理人と打合せる必要がある。
私は、「現地調査→見積提出→契約→マンション側との打ち合わせ→施工」といった流れが必要かつ重要であることを説明し、それを理解してくれるよう促した。

しかし、女性は、理屈としてそれを理解できても感情が受け入れないよう。
“そんなことやってるヒマはない”とでも言いたげに、少しイラついた感じで
「仕事が忙しくて、明日しか時間がないんです」
と、お得意のウソっぽい返事。
その雑な考え方に危うさを感じた私は、結局、この案件から降りることに。
「ご期待に沿うことができず申し訳ありません・・・」
そういって電話を終えた。


その後、女性はどうしたか・・・
多分、その後も寝ずにネットを検索して、やってくれる業者を探したことだろう。
女性の要望に応えられる業者がいたかどうかは知る由もないけど、普段からキチンとした仕事をやっている業者は請け負わない思う。
仮に施工業者が見つかったとしても、施工条件も厳しく安易度も高い仕事なわけだから、高額な料金を見積もられた可能性が高い。
女性は資力が乏しいようだから、その辺のところは引っかかっただろう。

可能性として高いのは、結局、どうすることもできず朝を迎え、何も策を打つことなく予告通り点検業者に踏み込まれた・・・
そして、私が想像したような大騒動になった・・・
同時に、女性は、“もっと早く手を打っておくべきだった!”“その前に、日常でゴミをキチンと片づけていればよかった!”と、自業自得を痛感しつつ、後悔の念に苛まれた・・・
しかし、もはや手遅れ・・・自分を甘やかしてきたツケを払うかたちで、厳しい現実に苦悩することになったのではないかと思う。


やらなければならないことを放っておいて、期日ギリギリなって慌ててやる。
どうせやらなければならないことなら、さっさとやってしまった方がいいに決まっているのに。
しかし、自分の怠け心がそれを邪魔する。
そのうちには、自分が自分に、都合のいい言い訳をし始める。
もっといくと、やらなくても済むような逃げ道を探し始める。
こういう類のことは、多かれ少なかれ、誰しも身に覚えがあるのではないだろうか。
面倒臭がりの私も、これまで幾度も、自分で自分を崖っぷちに追いやったことがある。
「学習能力がない」というか、「教訓を生かせない」というか、懲りずに何度も。

一方、自分に起因しないことで崖っぷちに立たされることもある。
このコロナ渦がまさにそう。
今、これで苦境に陥っている人はあまりに多い。
飲食・レジャー・観光・イベント・エンターテイメント・スポーツ・・・多くの業種業界に多大な悪影響を及ぼしている。
社会の底、世間の陰、世の中の隙間で小さく生きている私にさえ影響があるのだから、事態は深刻だ。

これからくる第二波・第三波・・・
それがどんな影響を及ぼすのか、考えると恐ろしい。
だけど、私なんかよりもっと深刻な状況で戦っている人達がいる。
顔も名前も知らない多くの人達が苦境と戦っていることを思うと、心細さが薄れ、心強さを感じる。

「人生なんてアッという間!」
「崖っぷちの人生でも死ぬまでは生きられる!」
「開き直って闘志を燃やそうじゃないか!」
今、生きるために必死に戦っている“仲間”と、戦うことに怯えている自分にそう訴えたい、人生 黄昏時の私である。




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梅雨の晴れ間に

2020-06-12 08:32:10 | その他
本格的な夏を前に、蒸し暑い日が続いている。
関東圏も梅雨に入り、いよいよ、昨日からは空も曇雨気味。
毎年のこととはいえ、その不快感はなかなかのもの。
更に、今年は、コロナ雲まで垂れ込めていて、もともと鬱持ちの私の精神は、ちょっとしたことでどんよりしてしまう。
このところも、決して調子はよくなく、できることなら、涼しい部屋で、一日中 静かに横になっていたいような気分。
しかし、こんな状況でジッとしていても、状況が良くなるはずはない。
適度な運動と日光浴は鬱の改善に役立つらしいし、いつものコースには、例年通りの紫陽花がきれいに咲いている。
だから、こんな時は特に、奮起して外に出て、四季折々の草花を愛で、朝昼夕の風を感じ、生まれてくる前から変わらない空気を吸い、空の光を浴びながら身体を動かすように心がけているのである。

私が、運動を意識してのウォーキングを始めて6~7年は経つだろうか。
冬場は陽の高い日中に、この季節は早朝に。
たまに違うコースを歩くことはあるけど、ほぼ決まったコースを歩いている。
時間があるときは約一時間で約6km。
限られた時間しかないときは30~40分程度で3~4km。
やや早歩き、わずかに息があがる程度で。
原則として雨天でははやらないけど、精神が弱っているときは雨天でも決行。
スニーカーがグジュグジュに濡れるのを承知のうえで。
雨が強いときは、ゴム長を履いて傘をさしてでも歩く(かなり歩きにくいけど)。

いつものコースは歩行者と自転車専用で、緑多い景色もきれいで、とても歩きやすい。
その上、コロナの影響もあり、この春からはウォーキングやジョギングをする人が明らかに増えた。
健康志向は歓迎できるものだけど、「屋外は感染リスクがない」「屋外なら“密”を気にしなくても大丈夫」と、大きな勘違いをしている人も多いように思う。
感染リスクを変えるのは、“屋外or室内”ではなく、あくまで人との“距離・接触度”。
また、「自分が保菌者かもしれない」という危機意識も欠落しているように思う。
いくら外出規制が緩和されているからといっても、ノーマスクでの外出は禁物。
特に、ランニング・ジョギングなど、ハードな運動をしている人には着用を強くお願いしたい。
息苦しいのはわかるけど、ノーマスクで“ハァ!ハァ!”と息を吐きながら傍を走られると不快な気持ち悪さを感じるし、事実、ウイルスは、咳をするよりも広く拡散するらしいから。
また、“かつての日常を取り戻しつつある”といった世の中の雰囲気に圧されているのだろう、街中でもマスクを着けていない人が多く目につくようになっている。
“東京アラート”が解除され、それはそれで歓迎できることだけど、常識を共有できない人達がはじけ過ぎないか不安に思う。
とにもかくにも、ジョガーだけではなく、市中の一般人にも、マスク着用と、人との距離を保つなどの努力が必要。
それが、この時世に求められているマナー・エチケットだから。


いつものウォーキングコースには、何人かの顔見知りがいる。
私は、見た目は実年齢相応のはずなのだが、精神年齢を反映してか、全員 高齢者。
はじめは「おはようございます」「こんにちは」と挨拶を交わすだけなのだが、何度も顔を会わせているうちに立ち止まってちょっとした雑談をするように。
お互い、名前を名乗るほどでもないのだが、それが、一人・二人と増えて、結局、人数が増えている。

私は、自己分析の結果、“自分は結構な人見知り”だと思っている。
臆病、引っ込み思案な性格で、子供の頃は特にひどかった。
今だって、仕事上のこととか特定のネタがあればそれなりに会話できるけど、そうでないとうまく話せない。
社交辞令的なフリートークが苦手なのである。
だから、酒席では、酒の力を借りることが多い。
しかし、冷静に考えてみると、テキトーに接しても大丈夫な人とは、ざっくばらんに喋れることが多い。
もちろん相手がどういうタイプの人かにもよるけど、自分から話しかけることも少なくない。

利害関係になく、新密度の浅い人との会話は、それはそれで、なかなか楽しいもの。
好き嫌い以前の適度な距離感が保たれ、差し障りのない話に終始できる。
見栄を張る必要もなく、カッコつける必要もなく、気張らずに話せる。
お互い、“いい人”のまま、無難なスタンスでいられるから、独特の心地よさがある。

その中の一人に、八十代後半の女性がいる。
歩くスピードはとてもスロー。
小柄で、丸っこいフォルムの可愛いおばあちゃん。
私が話しかけると
「若い男に話しかけられると嬉しくなっちゃうよ」
と喜んでくれるものだから、“若い”と言ってもらいたいついでに、ついつい話しかけてしまう。

まだコロナが流行る前、しばらくぶりに出会ったときに話しかけてみると、
「ちょっと温泉に行ってたのよ」
「青森に気に入った湯治場があって、毎年、そこへ行くのが楽しみでね」
とのこと。
「へぇ~・・・それは羨ましいなァ・・・」
「でも、そんなに長く行ってたら、結構なお金がかかるでしょ?」
と、思いついたまま遠慮のない質問。
「そりゃね・・・30万くらいはかかるねぇ」
「でもね、銭金がつかえるのは身体が動くうち・・・アタシなんて、いつ逝ってもおかしくないんだから・・・銭金には代えられない!代えられない!」
と、手を振りながら豪儀に笑った。
「私も、歳とったらそんな生活したいなァ・・・」
「現実は甘くないですけどね・・・」
と、安泰な老後を早々と諦めている私は、笑ってる場合じゃない現実に苦笑いした。

女性は、三姉妹の末妹。
父親は、幼少期に戦死し、母親が女手一つで三人の娘を育てた。
ごく一部に裕福な家庭はあったけど、今と違って、貧乏が当り前の時代。
ただ、片親で三人も子供がいた女性一家は、まわりと比べても一段と貧乏。
で、よその家を羨ましく思ったり、生活に不便を感じたりすることはあった。
それでも、惨めに思ったり恥ずかしいと思ったりしたことはなかった。
母親が一生懸命に働いている姿が、子供心に“誇り”を抱かせたのだった。

母親は、苦労に苦労を重ね、子供を育て上げた。
貧しくても、子供の成長を喜び、子育てに幸せを感じたことだろう。
しかし、のんびりした老後を迎えることなく、子供達が成人すると、それを見届けるように死去。
そして、それから数十年、それぞれの人生を生き抜き、高齢となった二人の姉も先逝。
一人残った女性は、
「まさか、こんな長生きするとは思わなかったよ・・・長く生きてると色んなことがあるよね・・・いいこともあれば 悪いこともね・・・」
と、何もかもが過ぎ去ったことを寂しく思っているかのように、少しだけ表情を曇らせた。

「とにかく、気をつけなきゃね・・・このコロナってヤツは、どこにコロナってる(転がってる)かわからないんだから」
と、女性は、お気に入りのギャグで話を締めて笑った。
それは、過去は“いい想い出”に変えて胸に置き、“今”を楽しく生きようとしている姿にも見えた。
そして、そのシワくちゃのドヤ笑顔は、可笑しくもあり可愛らしくもあり、ホッコリ癒されるものがあった。


予定通りにいかないのが人生。
計画通りにいかないのが人生。
生涯をとおして順風満帆って人生は、少ないかも。
理屈ではそれがわかっていても、素直には受け入れられない。
世の中が、世界がこんなことになるなんて、つい三カ月前までは、夢にも思っていなかった。
そう嘆いている人は、この日本に、この世界にたくさんいるだろう。
私も、その一人。
嘆いてばかりじゃ何も変わらないのはわかっているけど、身の回りにも、この社会にも明るい材料がない。
将来も読み切れず、私などは不満と不安だらけで、失うものばかりが頭を過る。

私は、これから、何を失うおそれがあるのか・・・
当然、若さ(既に若くないけど)と体力は失っていくだろう。
しかし、仕事、金、日常の生活は失いたくない。
その危機感があまりに強いものだから、その理由を自分なりに突き詰めてみた。
すると、私は、貧困を恐れていることが判明。
もともと金持ちではないし、高収入を得ているわけでもない。
収入が減ったって、失業したって、ワガママ言わず働きさえすれば、飢え死にするほど貧乏になる可能性は低い。
しかし、命にかかわらない貧困を恐れてしまっている、もっといえば、貧困にともなうカッコ悪さを恐れているのである。

私は、物理的豊かさを否定するものではないし、私も そのメリットを享受している一人だけど、物理的豊かさは人間の虚栄心を刺激し、物事の核心を見極める力を麻痺させる。
そして、結果的に、人間を貧しくさせる。
心身の健康、理性・正義・道徳心、信頼、友情、家族愛etc・・・金より失ってはいけないものがあるのに、私は、カッコばかりつけたがる。
既に、充分、カッコ悪い生き方をしていることは承知のうえで尚も。

“貧しいこと=カッコ悪いこと、恥ずかしいこと”といった価値観は、いつ どこで醸成されたものだろうか。
誰かに植え付けられたものだろうか、よく憶えていない・・ていうか、ひょっとしたら本能の一部だろうか。
真に恥ずべきことは、貧困ではなく、怠惰による不労、怠けて働かないことのはずなのに。
ただ、この価値観はかなり強固、簡単に変えることはできない。
一生変わらないものかもしれない、死ぬ間際にならないと変わらないものかもしれない。
しかし、自分にとってその価値観が好ましいものかどうか・・・
そこに気づき、立ち止まってみるだけでも、自分の中に新しい風が入ってくる。
そして、
「カッコ悪くたっていいじゃないか!」
と、肩の力を抜いてみると、それだけで気持ちが楽になる。

人間って、他人が思ってるほど強くなく、自分が思っているほど弱くない。
そしてまた、他人が思ってるほど賢くなく、自分が思ってるほどバカじゃない。
泣き言のひとつも言わないで、黙って忍耐することだけが美しいのではない。
愚痴のひとつも言わないで、果敢に挑戦することだけが素晴らしいのではない。
溜息のひとつもつかないで、直向きに努力することだけが尊いのではない。
泣いて 愚痴って 溜息をついて、それでも、性根に一生懸命さを持ち続けてやる姿に、人間の美しさ・素晴らしさ・尊さが映し出されるのではないか。
そして、そのカッコ悪さが、曇りがちな自分や人の人生に光を照らすこともあるのではないだろうかと思う。

梅雨の晴れ間にさす陽のように。




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底んところ

2020-06-06 08:33:38 | 腐乱死体
緊急事態宣言が解除され安堵の一息をついたのも束の間、「微増」とはいえ感染者数が増えてきている。
所々では、小さなクラスターも発生。
東京では独自の「東京アラート」なるものが発動されている。
それでも、もう我慢ならないのか、街や観光地には多くの人々が繰り出している。
感染者数が爆発的に増えなければ(?)、今月19日には(?)、一部地域から(?)、越境規制も緩和される(?)。
そうなると、人の行き来は、ますます増えていくはず。
慎重派の私は、解除の前後でほとんど生活スタイルを変えていないけど、人々のストレスと経済を考えると、無策でなければ、それはそれで悪いことではないだろう。
ただ、あれから二週間近くたつから“そろそろ大きな第二波がくるのでは?”と、不安に思っている。

知ってのとおり、世界は、健康上のことだけでなく経済的にも大打撃を受けている。
中小零細企業の倒産、解雇・失業はもとより、大企業の業績も悪化。
しかし、こんなに甚大な被害を引き換えにしてもなお、ウイルスは終息していない。
それでも、“withコロナ”ということで、各種の規制要請は次第に緩和されつつあり、“夜の街”が不安視されながらも、経済の歯車は小さいところからゆっくり回り始めている。
今のところ、外食の予定も出かける予定もないけど、行きつけのスーパー銭湯が再開しているから、行ってみようかどうか迷っている。
今、流行りの“水着マスク”を着けて行けば、大丈夫かな。
しかし、そういった、考えの甘さと軽率な行動が、感染を再拡大させてしまうのかもしれず、悩ましいところである。


何度が仕事をしたことがある不動産会社から特殊清掃の依頼が入った。
「管理するアパートの一室で腐乱死体が出た」
「“異臭がする”ということで、隣室の住人が通報」
「どんな状況か、行ってみてきてほしい」
お互いに顔を見知っている我々は、“人が死んでいる”というのに声のトーンもテンポも落とさず、不謹慎にも、時折、談笑を交えながら現地調査の段取りを打ち合わせた。

アパートが建っているのは郊外の住宅地。
近年に大規模修繕を行ったのだろう、建築から三十年近くたっているにも関わらず、それほど古びて見えることはなく、結構きれいな建物。
現場は、その二階の一室、間取りは2DK。
汚染度はライト級~ミドル級程度。
ニオイは、そこそこパンチのある濃度で放たれていたが、実際の遺体汚染はそれほど深刻な状態ではなく、床材もクッションフロア(CF)であったため、遺体痕清掃も、「特殊清掃」というほどハードな作業ではなかった。

亡くなったのは、初老の男性。
無職のため社会から距離が空いており発見が遅延。
その孤独な生活は、生活保護を受給して維持。
にも関わらず、部屋からは、故人が節度・良識をもった生活をしていたことはうかがえず。
ギャンブルのマークカードがなかっただけマシかもしれないけど、酒の空缶やタバコの空箱が転がり、整理整頓・掃除もロクにできておらず。
もともと、この類の人間を快く思わない私は、冷酷非情は承知のうえで、
「ただ、“働く気がない”のを“働けない”ってことにしてただけなんじゃないの?」
と、口の中で飼っている苦虫を噛み潰した。

訊けば、このアパートに暮らしているのは、大半が生活保護受給者。
小ぎれいな建物だし、一般の人でも暮らせる充分な間取り。
ただ、周辺には、より条件のいいアパートが乱立。
家賃が同等であれば、少しでも立地がよく、建物や設備のいい物件に人は流れる。
そういった人気物件は、黙ってても一般の入居者で埋まるわけだから、社会的・人間的にハイリスクな生活保護受給者は相手にしない。
一方、その逆で、人気のない物件はそんな“ワガママ”は言っていられない。
“空室にしておくよりマシ”ということで、生活保護受給者でも何でも入れるのである。

不動産運用って、「金持ちの道楽」とはかぎらず、一部の富裕大家を除き、庶民大家の中には、借金して投資して運用している人も少なくない。
また、月々の家賃収入が、そのまま自分の生活費になっている大家も。
空いたままの部屋は一銭の金も生まないわけで、庶民大家には、そのままにしておく余裕はない。
で、人気のない物件は、空室を埋める策として地域相場より家賃を下げざるをえず、結果として、それが生活保護受給要件(家賃の上限額)を満たして、入居契約に結び付きやすくなる。
同時に、それがキッカケで、生活保護部署の役人とパイプができ、以降もつながっていくのである。

受給者は中高齢者、持病がある人が多いため、一般の人に比べて孤独死する可能性が高いことがリスクとして挙げられるかもしれないけど、役所(税金)が生活費の面倒をみるのだから、家賃を取りっぱぐれることはない。
つまり、「経済的にはローリスク・・・ノーリスク」ということ。
結果的に、大家と入居者・役所の利害が一致し、自ずとアパートにはそういった人達ばかりが集まり、本件の類のアパートができ上がるのである。
実際、そういったアパートは街のあちこちにあり、私が、苦虫を噛み潰しながら片づけてきた現場にも、そういったアパートが多くあった。

受給者は、“中高齢者”“持病あり”といったケースが多いのだろうと思うけど、中には、そうでない人もいる。
“若年・無傷病”でも生活保護を受給している人が。
この現場の隣室に暮らす女性がそうだった。
もともと、故人が発見されたのも、女性が「隣の部屋がクサい」と言いだしたことがキッカケ。
で、「自室もクサくなった」ということで、その後、私は女性宅を何度か訪れ、女性の身辺を知ることとなった。

女性は母子家庭だそうで、3歳くらいの小さな子供がいた。
どういう経緯で生活保護の受給要件を満たしたのか怪訝に思うほど、歳は若く身体も健康そう。
会話もハキハキとしており、表面上は精神疾患があるようにも見えなかった。
ま、その辺のところは、私が詮索することではない。
私が引っかかったのは、「母子家庭」といいながらも、そこに“男”がいたこと。
平日の昼間から、スエット姿、寝ぼけた表情。
私が挨拶をしても、目も合さず無言でペコリと頭を下げるだけ。
私が考えていることが伝わったのか、フテ腐れたようにタバコを吹かしているときもあった。
消臭作業と臭気判定のため、女性宅には何度か入ったのだが、平日の昼間、いつ行っても男の姿はあった。
もしかしたら、夜の仕事をしているのかもしれなかったけど、マトモに仕事をしているような善良な雰囲気は醸し出していなかった。

どうみても男は女性親子と一緒に、この部屋で暮らしていた。
私の先入観も手伝って、想像された素性は“ヒモ”。
もちろん、誰と付き合おうが、誰と暮らそうが女性の自由。
しかし、生活保護受給者となると、その自由度は下がって然るべき。
世に中には、金銭(育児手当・児童手当・減税等)目的で、戸籍上でのみの偽装離婚をしている夫婦がいる。
もちろん、この男女がその類なのかどうかわからない。
しかし、遺体異臭がなくなった時点でも、何かよからぬことをやっていそうな人間の “人間異臭”はずっと残り、それは、クサいものには慣れっこの“ウ○コ男”の鼻をも捻じ曲げるほどだった。


これまでも、受給者の部屋を片付けたことは数えきれないくらいあるけど、酒を飲み、タバコを吸い、博打をやっていた形跡のある部屋もまた、数えきれないくらいあった。
死んだ人に悪意を抱くのは私も悪人だからだろうけど、死を悼むどころか、頭にくるような現場だっていくつもあった。
もちろん、“オフレコ”としてではあるけど、親しい役所の人間も、
「大半の受給者は詐欺師」
と言っていた。
私も、現場でのそう感じたことは多々ある。
また、個人的に付き合いのある警察官も、
「受給者に人権はいらない」
と言っていた。
私も、一般の人と比べて人権が制約を受けるのも当然だと思う。
生活保護制度についてプライベートで話すと、愚痴や悪口が、噴火した火山のようにでてくる。
世の中に、同様の意見を持っている人は多いように思う。
しかし、それは、反論の余地のない現実。
私も、私なりに、仕事を通じて感じたことが蓄積され、また、似たような不満を持っている。

これはまだ緊急事態宣言が解除される前のことだけど、とある失業者(40代男性)がTVインタビューを受けている姿が映った。
その人物は、家賃も払えなくなって住処を失いかけており、「このままだと生活保護を申請するしかない」と言っていた。
ただ、どうも求職活動はしていないらしく、それについての言及はなし。
そんな中での、“失業→生活保護”といった考え方に、私は不快感に近い違和感を覚えた。
「安直」というか「短絡的」というか「他力本願」というか「無責任」というか・・・
失業と生活保護の間には“就職活動”が入るべきではないだろうか。

確かに、羨望の眼差しを浴びるほどのキャリアや、威張れるほどの技能でもないかぎり、この時世で、再就職を果たすのは難しいかもしれない。
難儀することが容易に想像でき、前向きに就活する気分になれないのかもしれない。
また、仮に仕事が見つかったとしても、「キツい、汚い、危険」いわゆる3Kの仕事とか、気のすすまない仕事である可能性が高い。
しかし、もともと、仕事は“好き嫌い”でやるものではないし、特に今は「好き嫌い」を言っているときではないと思う。

この厳しい現実にあって、私の脳裏から「失業」という文字が消えることは片時もないけど、「生活保護」という文字は頭の片隅にも浮かんでこない。
受給要件が簡単にクリアできるような生き方はしてこなかったし、頭と外見を中心に欠陥だらけではあっても働けないほどの傷病も抱えていないし、その前に、その意思がない。
ただ、この私だって、働くのは好きじゃない。
怠けたい、楽したい、遊んで暮らしたい。
「働かなくても生きていけたら どんなにいいいだろう」って、常に憂いている。
税金だって社会保険料だって、払わずに済むのなら払いたくない。
そんなもの払うくらいなら、その分、生活に余裕をもってプチ贅沢でもしたい。
しかし、マトモに生活していくためには、そんなことできるわけがない。
しかも、どうせ生きるのなら最低限の暮らしはイヤ。
少しでも快適に、少しでも楽しく、少しでも幸せに暮らしたい。
となると、その方法は、ただ一つ。
しっかり働いて、社会的責任を果たしていくしかない。

勤労と納税は国民の義務。
社会保険料だって第二の税金で、納める義務がある。
“生活保護費”の原資は、良民の労働による血税。
しかし、受給者の多くは、まともに税金や社会保険料を払ってきていないわけで、そんなデタラメな生活をしていたから困窮したとも言えるわけで、こういうのを「理不尽・不条理」と言わずして、何が「理不尽・不条理」なのか。
そういった義務・責任を果たさないでおいて、“もらえるモノはもらう”といった盗人根性には、憤りすら覚える。

一方で、真に生活保護で守られるべき人に、本当に支援を必要としている人のところに届いていないような気がする。
邪悪な受給者が、生活保護制度の本分を歪め、良民を裏切り、受給者の品格を貶めているが故、また、こういう人達にかぎって結構な人格者だったり高潔なプライドを持っていたりするが故に、生活保護に頼ろうとしない現実もあると思う。
「人様に迷惑をかけたくない」と、仕事を二重三重にかけもちして働いている人、身体を壊すギリギリのところで節約生活を送っている人、惨めな想いに耐え忍んでいる人もたくさんいると思う。
事故や犯罪等の被害者で、自分の努力ではどうすることもできない貧困に陥っている人も。
一生懸命 働いているのに、我が子にひもじい思いをさせなければならない親の悲しさや惨めさを考えたことがあるだろうか・・・
真に社会全体で助ける必要のある人が、正々堂々と受給できるようにならなければいけないのではないだろうか。

私は、生活保護制度に反対しているわけではない。
支援が必要な人を社会全体で守る制度は必要。
しかし、“正直者がバカをみる”社会であってはならないし、ズルい人間、ただの怠け者を甘やかすだけの制度であってはならない。
しかし、現実は、“だらしない生き方をしてきた人間のズルい生活を、善良な市民が身銭を削って守っている制度”になっていやしないだろうか。
働きもせず、他人の金で飯食って、酒飲んで、タバコ吸って、ギャンブル打って、寝たいときに寝ている者が、寝る間も惜しみ、嗜好を楽しむ余裕もなく働きながらも貧困から脱出できないでいる人より楽な暮らしをしているなんて、どう考えてもおかしい。
現実の運用は、はなはだ不愉快であり、大きな不信感と違和感を持っている。

では、
でたらめに生きてきた者は飢え死にしても仕方がないのか?
だらしない生き方をしてきた者は貧乏しても仕方がないのか?
・・・ある意味で、私は「仕方がない」と思う。
少なくとも、日本は自由主義・資本主義の国なのだから。
でなければ、生活を支援する代わりに、人権に相応の制約を加えるべきだと思う。
例えば、一定の場所(言葉は悪いけど“収容所”みたいなところ)に集めて、能力に応じた労働を課すとか。
それが、一般の人が遠ざける、単純作業や重労働、3K仕事であってもやむを得ないだろう。
ただし、特殊清掃だけは除外して・・・私の仕事がなくなるから。

「オマエは、そこまでの苦境に陥ったことがないから、そこまで困窮したことがないから、そんな冷酷非情なことが言えるんだ!」
と言われるかもしれない。
確かに、そう・・・それは認める。
しかし、多くの一般市民は、そうならないために、汗かきベソかき、必死に頑張っているのである。
その頑張りによって獲た実を一方的に横取りすることも、また、人権侵害なのではないだろうか。

世の中は上にいる人達が動かしていることは承知しているけど、たまには、私がいる“底んところ”にも目を向けてほしいものである。



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