特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

Hiking

2014-12-07 10:33:50 | Weblog
毎年のことながら、この季節は欝っぽくなる私。
秋頃から気分が落ち始めて、冬場は低空飛行。
朝、明け方にはうなされ、寒いのに脂汗をかく。
普段なら軽く乗り越えられるような小さな問題にもつまずいてしまう。
疲れるようなことはしていないのに、やたらと疲労感に襲われる。
何をするにも、何を考えるにも虚無感がともない、やる気がでない。
何事も悲観し、悪い予感ばかりに苛まれる。
気持ちにも身体にも力が入らない。
だから、時間がゆるすかぎり、自分に閉じこもって悶々としてしまう。
・・・そんな風に、昨年秋から本年冬もかなりツラい思いをした。

例によって、今年も秋に入り、徐々に気分は落ちてきていた。
「今年もまた、この季節がやってきたか・・・」
と、したくない覚悟を決めかけていた。
そんなところに遭遇したのがチビ犬の死。
これが慢性的な欝を直撃。
少々の悲しみなら欝を更に深刻化させたのだろうけど、今回の悲しみは、あまりに大きすぎて欝を深刻化させたのではなく、そのかたちを変えた。

「この傷心をどうにかしたい・・・」
「欝を軽くするための努力をしたい・・・」
欝に対しては、毎年、当り前のように泣き寝入ってきたネガティブ人間(私)に、こんな思いが芽生えてきた。
時に委ねることが必要であることを理解しつつも、死別の悲しさから脱け出すための努力と欝を軽くするための策を講じてみようという考えが浮かんできたのだ。

何年も前の話だけど、知り合いの医師に不眠症や欝について相談したところ、
「精神と肉体の疲労バランスが悪いことも影響していると思う」
と言われたことがあるのを思い出した。
夏場は、肉体は疲労するが、精神はそれほど疲労しない。
冬場は、肉体は疲労しにくいが、精神はすぐに疲労する。
長年のこの性分につき、催眠術にでもかからなければ精神疲労は解消しないと思う。
だったら、精神疲労に準じて、肉体も疲労させようと考えたのである。
(フツーなら思いつかない“妙案”だと自讃している。)

しかし、この時季、仕事だけでは、肉体はそんなに疲労しない。
また、労苦で疲労させるのは、あまりいい方法とは思えず。
そうなると、仕事以外で積極的に身体を動かす必要がでてくる。
身体を動かすには、スポーツが一番。
ただ、スポーツには縁も興味もないし、スポーツクラブも興味がないうえお金がかかる。
そこで浮上したのはハイキング。
アウトドアレジャーが好きで、若い頃はキャンプやBBQ等をよくやっていた私。
自然の中に身を置くのは好きなほう。
また、ハイキングなら低予算でやれる。
思案の結果、素人でも歩ける渓谷や、素人でも登れる山に行ってみることにした。

夏場は、なかなか休みがとりにくいけど、冬場だと週1日くらいはとれる。
せっかくの休日、精神疲労に負けてジッとするのはもったいない。
だから、チビ犬はいなくなってから毎週のように出かけた。
出かけた先は、高尾山(東京都八王子市)、鋸山(千葉県富津市)、大山(神奈川県伊勢原市)。
どこも初めての場所。
鋸山はそうでもなかったが、紅葉の季節で、高尾山と大山は大勢の登山客や観光客で賑わっていた。

紅葉の山々は絶景だった。
そして、どこの山にも複数のハイキングコースがあった。
普段なら、最も楽なコースを選ぶはずの私。
しかし、せっかく出掛けたのだから、それはやめた。
シンプルなルートは避け、距離のながいコースをあえて選んだ。
もちろん、ケーブルカーやリフトの類は使わず。
待ち時間と運賃の無駄だし、歩くために出かけたのだから。

目的地(頂上)まで楽な道はほとんどない。
急坂や階段、岩場や悪路は当り前。
おまけに、長年かけて作業向に改造された中年の身体は、山登りに順応できない。
だから、足腰は、歩き始めてすぐにだるくなった。
しかし、それに耐えて進まないと意味がない。
私は、景色を見ながら、チビ犬を思い出しながら、努力と忍耐の足りなかった人生を振り返りながら、重い足を一歩一歩進めた。

私は、右膝に古傷をもつ。
若い頃の長距離ランニングで傷めたのだ。
上り坂より下り坂のほうが膝には負担がかかるもの。
日常生活では痛みはないのだが、山の下り坂でそれを発症。
はじめからその不安はあったので、下り坂は膝に負担をかけないようゆっくり慎重に歩いたのだけど、長い距離に右膝は悲鳴をあげた。
痛みがでるとフツーには歩けない。
右足を引きずるようなかたちで歩かざるをえなくなって、とても歩きにくい。
ただ、不幸中の幸いで、痛みがではじめたのは下に近い位置まで戻っていたため、そんなに大変なことにはならなかった。
(今後、何らかの対策が必要だと思っている。)

早朝から出かけて行って、家に帰ってくるのは夜遅く。
望み通り(?)肉体はクタクタになる。
だけど、山には山の美味があった。
労苦の美味とは違う味わいがあった。

普段、怪しい光景ばかりを見ている私の目は、紅葉の絶景を喜んだ。
普段、臭い空気ばかりを吸っている私の鼻は、森の空気を喜んだ。
普段、街の雑音ばかりを聞いている私の耳は、山の静寂を喜んだ。
普段、冷たい風ばかりを受けている私の肌は、自然の風を喜んだ。

頂上まで上る道は楽ではなかった。
ただ、その分の達成感はあった。
また、麓まで下る道も楽ではなかった。
ただ、その分の満足感はあった。

人生道にも上り坂はある。
苦労してこそ得られる幸せがある。
悩んでこそ得られる心地よさがある。
悲しんでこそ得られる晴れやかさがある。
病んでこそ得られる健やかさがある。
尽くしてこそ得られる温かさがある。

「生きるために働くのであって、働くために生きているわけではない」
頭ではわかっていても、実際はその逆で、仕事に支配された生活をしてしまう。
時間配分においては、もう何年もプライベートより仕事優先の生活をしている。
ひょっとしたら、時間的にだけではなく、精神的にも肉体的にもそうかも
しれない。
“偽の仕事人間”と“真の仕事人間”の分別もかわらないまま、ここまできている感じ。
もちろん、“遊んでばかり”より“働いてばかり”のほうがマシだとは思うけど。
ただ、真の仕事人間は、仕事とプライベートをバランスよく両立させて、それぞれに相乗効果を発揮させている人だと思う。
私も、少しでもそうありたいと思う。
もちろん、今回の“我流荒療法”が功を奏するかどうか自分でもわからない。
だけど、頭で悩んでばかりではなく実際に行動を起こしているだけでも、頭デッカチ・口だけ人間の私には大きな進歩だと思っている。


人には、それぞれ与えられた道がある。
そして、それぞれに与えられた「寿命」という長短がある。
ただ、長かろうと短かろうと、“生き抜いた!”という達成感を味わいたいもの。
そのためには、歩みはとめられない、とにかく進むしかない。
「人生」という名のハイキングコースは、人に幸せを与えながら人を励まし、人に試練を与えながら人を鍛錬し、その前進を望み、助け、そして歓迎してくれるもの。

楽するためには、上り坂は選ばないほうがいい。
しかし、幸せになるためには、上り坂を選んだほうがいいときがある。
「年内にもう一回くらいは山に出かけたいなぁ・・・」
と考えている私の心は、苦難の道中にあっても、小さな命がくれた幸せに微笑んでいるような気がしているのである。




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