特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

厚顔無恥 ~前篇~

2020-06-30 08:30:37 | その他
外出時のマスク着用が当然のエチケットになっている今日この頃。
一時のマスク不足は解消され、街でもフツーに購入できる。
結局のところ、やっと届いたアベノマスクも用をなさず。
“かかった大金が、もっと有効に使われていたら”・・・と思うと、何とも歯痒い。
自分の努力や忍耐力ではどうにもできないところで困窮している人がたくさんいるのだから。

そんなアベノマスクが可哀想になるくらい、既に、市中には多種多様なマスクが出回っている。
で、昨今は、冷感マスクとか、暑さに強い素材のもの、また、呼吸がしやすいものが注目されている。
人気商品になると、ネットでも店頭でもなかなか手に入れることができない。
私は、ずっと不織布の使い捨てマスクを使っているけど、汗で濡れると、鼻口に貼りついて まともに呼吸ができなくなってしまう。
で、たまにポリエステル製のモノを使っている。
もちろん、ネット弱者のうえ、店に並ぶヒマもないから、その辺の量販店で売っている安物を。
それでも、不織布に比べると、随分と快適である。

しかし、疑問もある。
それは、マスク本来の機能。
「呼吸が楽」ということは、フィルター機能が弱いのではないだろうか。
いくら呼吸が楽でも、涼しくても、ウイルスが筒抜けではマスクを着ける意味がない。
顔が暑くなるのは困るけど、ウイルスが通り抜けてくるはもっと困る。
頻繁に流れるマスク紹介のニュースは、快適性やデザインばかり注目し、肝心のウイルス対策の機能についてはほとんど触れない。
取り扱っている会社は一流企業も多く、「金になればそれでいい」「売れればいい」等とは思っていないはずだけど、品質や機能についてもキチンとした説明がほしい。
ま、そこのところは、価格とのバランスもとらなければならないのだろうから、各メーカーの良識に任せるとして、この辺で、“顔が暑い”話から “ツラが厚い”話に移ろう。


見積調査を依頼された現場は、老朽アパートの一室。
用向きは家財生活用品の片付け。
間取りは1K。
暮らしていたのは70代の男性。
長患いの末、病院で死去。
その住まいには、古びた家財だけが残されたのだった。

依頼者は故人の弟。
アパートの賃貸借契約の連帯保証人。
「いくらかかる?」
「見積は無料なのか?」
と、当初の電話は金銭的な質問ばかり。
早い段階から“金銭にシビアな人物”ということが見て取れ、
“ただの冷やかしじゃなきゃいいけどな・・・”
そう思いながら、私は、依頼者の質問に応えた。
ただ、“できるだけ費用は抑えたい”と、何事においてもそう思う庶民感覚は充分に理解できる。
私の気に障ったのは金銭的なことではなく、男性の態度と その口からでる言葉。
フレンドリーなタメ口ならまだしも、偉そうなタメ口。
声からして明らかに私の方が年下で、暫定とはいえ、男性は“客”で私は業者。
それでも、私は、初対面の人間にタメ口をきくような礼儀を知らない人間は好きではない。
相手の心象なんかお構いなしに、デカい態度でタメ口をきく男性に、強い不快感を覚えた。

どの世界にも、まだ客になってもいないうちから客面する人間はいる。
私の業界でも珍しくなく、そこら辺は割り切らないと仕事にならない
で、男性は、現地調査の日時も一方的に指定。
多くの依頼者は、希望の日時を持ちながらも、こちらの都合も聞いてくれるのだが、男性に私の都合なんか関係なし。
この類の人間には社会通念は通用しないことが多い。
余計なことをいうと話がこじれて無駄に長くなるだけなので、私は、男性の指定した日時に素直に応じ、現場に出向く約束をした。

日時が決まったら、次は場所の確認。
現場の住所を訊ねると、男性は「○○区○○町○丁目○号○番地」と返答。
建物名を訊ねると、「何だったっけなぁ~・・・思い出せない・・・古いアパートの2Fだから来ればわかるよ」とテキトーな返事。
ただ、今はカーナビも高性能だし、スマホの地図アプリも使える。
その昔、私がこの仕事を始めた頃は、カーナビやスマホはおろか、一般人は携帯電話さえ持っていなかった時代。
当時は、ポケットベルと縮尺100万分の1地図でフツーに仕事をしていた。
それが当り前だったわけだから苦も無くやっていたけど、それに比べれば全然マシ。
番地までわかれば目的のアパートは難なく探せるはず。
現地で待ち合わせることができればいいだけのことなので、アパート名は不明のまま電話を終えた。

約束の日、私は目的の住所に出向いた。
幹線道路に面した場所で、近くに駐車場はなく、私は離れたコインPに車を停めて、そこから歩いていった。
しかし、教えられていた場所に、それらしき老朽アパートは見当たらず。
ただ、その周辺には何棟かのアパートが建っていたので、“このうちのどれかだろう”と思って、約束の時刻が近づくまで待機。
そして、前触れもなく遅刻するのは失礼なので、約束の時刻の10分前になって男性に電話をかけた。

「今、近くにいるはずなんですけど、どのアパートですか?」
すると、
「俺も、今、来たところ」
とのこと。
しかし、その周辺にそれらしき人影は目につかなかった。
それで、私は、建物の色や特徴、更には周囲の景観を訊ねた。
相変わらずの言葉づかいが気に障らなくはなかったけど、それよりも、男性が説明するアパートの特徴も、周辺の景色も、私がいる場所と噛み合わないことが気がかりに。
どうも、まったく別の場所にいるようだった。

そこで、教えられていた住所を再確認。
すると、「○丁目○号○番地」の「○号○番地」の部分が違っていた。
紛らわしい数字ではあったが、明らかに男性のミス。
しかし、男性の誠実性を疑っていた私は、男性が私に濡れ衣を着せようとすることを予感。
当然、そんなことされたらたまらないので、
「確か、“○丁目○号○番地”っておっしゃってましたよね!? メモを復唱して確認もしましたし!」
と、間髪入れずに先手を打った。
そう言われた男性は、自分が間違っていたことを認めざるを得ず。
だが、しかし、
「とにかく、○丁目△号△番地だから、そこに来て!」
と、悪びれた様子もなく、これまた一方的に指図してきた。

当然、私はムカッ!ときた。
ただ、仕事は仕事で進めなければならず、抑えきれるくらいの苛立ちを覚えながら、私はスマホを再検索。
画面に映された地図を凝視し、そこまでのルートを目で追った。
もともと、“○丁目”まで同じなわけで、新しく示された場所はそこから数百メートルのところ。
わざわざ車を使うほどでもなく、私は、そのまま歩いて訂正された住所へ向かった。

目的の番地には、ものの数分で到着。
しかし、そのエリアには、アパートらしき建物がまったく見当たらず。
先程とは違い、隣接する番地にもアパートはなく、町工場やオフィスビルが建ち並んでいるだけ。
更に、その周囲は道路や空地。
それ以上 探しようがなかった私は、再び男性に電話をかけた。

「今、教えられた番地にいるんですけど、この番地は、会社の事務所になってますけど・・・」
すると、
「そんなはずないよ! ちゃんと探してんの?」
とのこと。
ただ、私がいる場所周辺に住宅はなく、どこからどう見ても違っていた。
で、その地域は、町名の前に「西」がつく町もあるところもあることに気づいた私は、
「もしかして、○○町じゃなく、西○○町の間違いじゃないですか?」
と問いただした。
しかし、男性は
「間違ってないよ! 周りをよく見てみなよ!」
と、私の話もろくに聞かず、そう言い張った。

そうして問答することしばし、男性のもとにアパートの大家が現れた。
男性と話していてもラチがあかないと思った私は、大家に電話を代わってもらった。
そして、アパートの周囲に目印になるようなモノがないか尋ねた。
が、やはり大家とも話が噛み合わず。
ただ、大家はすぐにピンきたようで、
「もしかして、あなた、○○町にいるんじゃないの!?」
「うちは西○○町ですよ!?・・・西!○○町○丁目△号△番地です!」
と、少し呆れたように、真正の場所を教えてくれた。

やはり、町名が違っていた。
“やっぱりそうだろ!?”
“だから、何度も確認したんじゃないか!!
“それを、ロクに確認もせず、偉そうに言い張って!”
私が湧いてくる不満を収めきれず、内心でブツブツ。
大家から男性に電話を戻してもらい
「やはり、町名が違っていたみたいですよ!」
と、嫌味を込めつつ、男性に非があることを理解させようとした。
それでも、男性は平然。
「とにかく、さっきから待ってるんだから、はやく来てくれる?」
と、詫びの言葉一つも入れないで、まるでケンカを売っているかのような言葉を返してきた。

当然、私はムカムカッ!ときた。
それでも、一仕事が待っている身。
約束に時間に遅刻してしまうことは避けられなかったけど、こんな時こそ、焦らず、慌てず、イラつかず、冷静に行くことが大切。
私は、二~三度 深呼吸して後、“もしかしたら、このまま歩いて行けるかも”と期待を込めてスマホを検索した。
しかし、残念、画面はやたらと長い道程を表示。
真の場所は、そこから3kmばかり離れていた。
ウォーキング好きの私でも30分はかかる。
私は、徒歩で行くことを諦め、離れたところに停めていた車のもとへ。
無駄になった駐車料金を精算して、再び車に乗り込んだ。

やっとのことで現場アパートに到着した私。
自分に対しても人に対しても時間にうるさい私は、結構なストレスを抱えていた。
結局、最初の約束時刻から30分の遅刻。
現場には、大家をはじめ、管理会社の担当者も来ていた。
待たされたことに不満を覚えていたのか、男性は外にでてタバコを小刻みに吹かしていた。
私に非がないことは明らかだったが、立場上、私の方から頭を下げた。
一方の男性は、頭を下げるどころか、例によって詫びの言葉ひとつもなし。
当り前のような顔で、「ちょっと見てくれる?」と二階の部屋を指差し、私を急かした。
その厚かましい態度に、当然、私はムカムカムカッ!ときた。
が、そこは仕事場。
“我慢!我慢!”と自分に言いきかせ、内心を表に出さないように気をつけた。

しかし、そんなストレスをよそに、男性の厚顔無恥ぶりは、とどまるところを知らず。
この後、さらにエスカレートするのだった。
つづく




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一寸先

2020-06-24 08:44:23 | 浴室腐乱
やっときた“アベノマスク”、もういらない“アベノマスク”。
周囲にも、それらしきモノを使ってる人を見たこともない。
TVで観る政治家の一部が仕方なさそうに着けている布マスクがそれなのだろうが、そのサイズは明らかに小さい。
本来なら、鼻の上から顎の下までスッポリ覆われなければならないはずなのに、あの小ささは、昔よく見た(?)エロ本の水着級で、貧相を通り越して卑猥に見える。
「何かの冗談か?」と思ってしまうくらい。
安直発想の企画立案、欠陥品だらけの開発製造、いつまで経っても届かない配達頒布、すべてにおいて大失敗ではないか!
おまけに、多額の税金が突っ込まれているわけで・・・
“善意でやったことなら赦される”と思ったら大間違い、世の中には“過失責任”というものがある。
この大コケの責任は、誰がどうとるのか。
ただ、世間の雑音は当事者の耳には届かないだろう。
人間というものは、権力をつかむと“背徳性難聴”を患いやすいようで、都合の悪いことは聞こえないらしい。
また、“部分性視覚障害”も併発しやすいのか、都合の悪いものは見えないらしい。
結局、先を読めなかった御上の責任は、「アベノマスク」なんていう不名誉な名前によって静かに相殺され、“なかったこと”にされるのだろう。

定額給付金の申請書、私のところには6月1日に届いた。
で、早速、返送。
入金がいつになるかわからないけど、助かることは助かる。
しかし、得した気分にはなれない。
先々、徴税というかたちで、この何倍もの金額が課されるのだから。
それはさておき、まずは温泉旅行にでも行きたいところだけど、寂しいかな、気持ちにも懐にもそんな余裕はない。
今のところ減収には至っていないけど、“一寸先は闇”。
私は、もともと、余裕のある生活をしているわけではないけど、この先に待ち受けているかもしれない経済苦を考えると、生活資金は少しでも多く手元に置いておきたい。
給付金は一時的に貯蓄に回った後、結局のところ、生活費としていつの間にか消えていくのだろうと思う。
ま、筋金入りの守銭奴の私は、節約生活は苦にならないので、これからも“ケチ道”に邁進するのみだ。


重症の“汚腐呂”が発生。
現場は、公営団地の一室。
依頼者は初老の女性で、亡くなったのは女性の弟。
無職の一人暮らしで近所づき合いもなかったため、長期放置。
で、遺体は腐敗溶解し、浴室は凄まじい光景に変容。
遺体も浴室も、とても一般人が見られる状態ではなく、女性は、警察からも「見ないほうがいい」と忠告を受けていた。

このレベルで汚損してしまった浴槽設備は、清掃消毒をしたところで再び使えるようにはならない。
浴槽内側には遺体液の色素が沈着し変色したままになる。
給湯設備内にも汚物や異物が侵入し、それをきれいに除去することは困難。
仮に、きれいに掃除できたとしても、次に入居する人が気にしないとは思えない。
並の神経では、そんな経緯のある風呂は入りたくないだろう。
結局、浴室設備は一切合切、新しいものに入れ替える必要がある。
ただ、解体処分される浴室設備とはいえ、そのままの状態では何の工事もできない。
できるかぎりの清掃・消毒をしないと、工事業者も仕事ができない。
で、特殊清掃の出番となるのである。

“浴室死亡”って、居室死に比べれば少ないけど、そんなに珍しいことではない。
中でも、浴槽に浸かったまま亡くなるケースは多い。
そして、それがそのまま放置されるとどうなるか・・・
経過時間や湯温にもよるけど、相当なことになる・・・
“24時間風呂”等、湯温が自動的に維持される仕組みだったりすると、それはもう・・・
その昔、文章を書くことに慣れていなかった頃は、“煮込系の肉料理”で表現したこともあったけど、当然、実際は そんな生易しいものではない。
同時に、放たれる悪臭がどれほど深刻なものかも 言うまでもない。
浴槽死亡の場合、部屋死亡の場合とは異なった独特の生臭さがある。
私が嗅ぐケースとしては部屋死亡の方が圧倒的に多いから、“慣れ”の問題もあるのだろうが、これが、結構 腹にくる。
結局のところ、不気味さや悪臭はハンパなレベルではなく、常人を寄せつけない威圧感を放つのである。

この故人も、浴槽に浸かった状態で死亡。
ただ、その死因はちょっと違っていた。
それは、“溺死”。
通常は、脳梗塞は心筋梗塞等、脳血管や心臓の疾患での突然死。
しかし、故人はそうではなく、上半身は湯をはった浴槽の中に突っ込み、下半身は洗い場に残し、前屈したような姿勢で亡くなっていた。
風呂に入ろうとしたところで何かの病気を発症し、そのまま浴槽に向かって倒れ込んだのだろう。
しかし、腐敗がヒドくて、解剖もままならず。
生前から脳血管系の疾患があったことはわかっていたものの、死因は“事件性のない溺死”となった。
最期、故人が苦しんだのかどうか・・・
多分、突然に意識を失ったのだろうから、苦しまずに逝ったことが想像されたが、“上半身だけ湯に浸かっての溺死”って、無理矢理、水中で頭を押さえつけられたような光景がイメージされ、ヒドく気の毒に思えた。

故人は、もともと高血圧症で降圧剤を服用。
酒は飲まなかったが、高血圧の大敵であるタバコをやめず。
また、生活習慣の改善にも取り組まなければならなかったのに、それも満足にやらず。
たまの電話で忠告する女性にも、自分に都合のいい言い訳ばかりしては、体調については「そんなに悪くはない・・・」と言葉を濁していた。
数か月前、路上で倒れ、通りすがりの人に助けられて救急搬送されたこともあったらしい。
この時は、軽症で事なきを得たのだが、以降も、それを教訓にすることなく不摂生な生活を送った。
そういった具合だから、急に倒れるリスクは常にあった。

浴室から漂ってきているのだろう、玄関を開けると汚腐呂特有の異臭が私をお出迎え。
更に、明りのない室内の薄暗さが、不気味さを演出。
私は、ゆっくり歩を進めながら、壁のスイッチを一つ一つ押して明りを灯していった。
そして、この後に受けることになる衝撃に備え、それまでに遭遇した幾つもの“汚腐呂”を思い浮かべながら、メンタルのウォーミングアップをはじめた。

玄関を入って進んだ廊下の左側に洗面所があり、問題の浴室はその脇。
遺体を引きずり出した際に汚れたのだろう、手前の洗面所の床や浴室扉の枠にも汚染痕。
そこからは、遺体を搬出する際の難儀がうかがえた。
全身ズルズル、膨張溶解して、大人二~三人がかりでも容易に持ち上げらなかっただろう。
しかも、頭部はまるごと湯に浸かっていたわけで、その形相は、例えようもなく恐ろしいものに変容していたはず(故人を愚弄しているわけではない)。
その昔は、そういった作業は、葬儀屋が“仕事欲しさ”でやらされることがほとんどだったようだが、最近では、コンプライアンスの問題(警察と葬儀社の癒着)で警察自らの手で行うようになっているらしい(実のところは不明)。
とにかく、誰がやるにしても、その作業が超過酷であることに変わりはない。
私は、見ず知らずの誰かがやったその作業を労いながら、同じような労苦を味わうことになる自分を励ました。

私は、浴室の前で停止。
明りを灯すと、扉越しに中の色がボンヤリと映し出された。
普通の浴室なら、だいたい白っぽく見えるはず。
しかし、この浴室は全体的に黒。
それは、本来の浴室にはないはずの大量の何かがあることを示唆。
それが、扉を開けなくてもわかるくらいで、私は、微かに期待していた“軽症”を諦めざるを得なかった。

高まる緊張感を無視して浴室の扉を開けると、そこには凄まじい光景が・・・
浴槽の淵には皮膚や頭髪がベッタリ・・・
下半身があった洗い場には、茶黒の腐敗粘土・・・
重厚な悪臭を放っていたことは言うまでもなく、警察が女性に「見ないほうがいい」と言ったのは大正解!
衝撃的な光景が精神を患わせ、あまりの悪臭が胃まで吐き出させるくらいに腹をえぐってきただろうから。
もちろん、“非日常”を楽しむ余裕はないものの、私は、悲惨な光景も、凄まじい異臭も、ほぼほぼ慣れている。
あと、止まって見物していても仕方がないわけで、床の汚れに気をつけながら浴室に足を踏み入れ、浴槽に顔を近づけた。

ゆっくり湯に浸かろうとしていたのだろう、浴槽にはタップリの水。
もちろん、上半身の多くが溶け込んでしまっているわけだから、凄まじい汚水に変容。
コーヒー色に濁り、その水面は黄色い脂が覆い、水中には得体の知れない異物が浮遊。
当然、浴槽の底なんか見えるわけはなく、視界は ほぼゼロ。
ただ、底の方はヘドロ状態で、身体の何かしらが沈んでいるに決まっている。
水の色の濃度と浮遊物から大方の判断はできるので、見通せなくてもわかる。
水の中に何が溶け込んでいるのか、何が残留していそうなのか、“汚腐呂屋”の私には容易に想像できるものだったけど、できることなら想像したくなかった。

汚水の濃度や中身によって作業の難易度は大きく変わる。
もちろん、ドロドロじゃなく、できるだけサラサラである方が助かる。
汚染レベルを確認するため、ゆっくりかき回してみると、視界の悪い汚水の中なら白いクラゲのような物体がいくつも舞い上がってきた。
見慣れていればすぐわかる、それは、故人の身体から剥がれた皮膚。
水死体特有の現象で、長く放置すると遺体は“脱皮”する。
ふやけてサイズアップした皮膚が、手の場合は手袋のように、足の場合は五本指靴下のように、スッポリ抜けるのだ。
所々が破れてしまい 五本指すべてが揃っていたわけではなかったが、爪まできれいに残っており、指関節の曲がり具合も実物そのもので、それがあまりにリアルなものだから、そんなことあるはずないのに、“手が落っこちてんのか?”と驚くくらいだった。

この状況、どう見たって簡単な作業にはなりそうにない。
見たくないものを見、嗅ぎたくないものを嗅ぎ、触りたくないものを触らなければならない。
仕事とはいえ、こんな現場で気分が乗るわけはない。
それでも、やらなければならない・・・憂鬱と戦いながら、自分が生きていくために。
ただ、作業が進めば進むほど、先が見通せてくるから、気持ちが楽になってくる。
同時に、憂鬱感は薄らいでいく。
浴槽の底が見えてくると もうこっちのもの、“峠を越した”感じて、気持ちに余裕がでてくる。
そのうちに憂鬱な気分は消えていき、達成感や爽快感が湧いてくる(こんな現場で“爽快感”ってのも変だけど)。

作業中、私は、独特の緊張感や恐怖感を覚えながら、何度も汚水に手を突っ込んだ。
そして、視界に浮遊してきた“故人の手”を自分の手で掴み取った。
そのとき、汚物に怯え、汚物を嫌悪していたはずの私に、生身の人と握手したみたいな妙な感覚が走った。
同時に、この汚物が、自分と同じ人間であったことを、人として生きていたことを再認識した。
しかし、それは、実態のない、ただの皮。
水から上げると、一瞬で無実態・無重量に。
その様は、生死の境に建つ壁は、自分が思っているほど高くなく、自分が思っているほど厚くなく、ただ、細い線が一本引いてあるだけのような状態であることを表しているかのように感じられて、“いずれ、皆 死ぬ・・・”“それでも、今 生きている!”と、ひと時ではあったけど、私から余計な憂いを取り去ってくれた。


すべては、自分が蒔いた種、自業自得。
決して、好きでやっている仕事ではない。
辞められるものなら辞めてしまいたい。
「なんでこんなことになってしまったのだろう・・・」と、この人生に自問する日々。
しかし、私は、この仕事、過酷であればあるほど、生きていること、生かされていることを実感する。
そして、これまで私に与えられてきた無数の恵と自分を取り巻く無数の幸を再認識して、そのありがたさを痛感する。

一寸先は闇か、光か。
それを決めるのは自分であったり、自分でなかったり。
自分次第の部分もあれば、自分の力が及ばない部分もある。
それでも、時間だけは過ぎていく。
明るい未来を想像(創造)しにくい昨今ではあるけど、一日一日の出来事を積み重ねて、一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎ、一年が過ぎ、一生が過ぎていく。

見えない先には不安しかない。
しかし、わかっているはず・・・人生、ずっと真っ暗闇ではないことを。
まずは、一寸先・・・一寸先に集中。
私は、明るい明日を掴み取るため、必要なだけの勇気と小さな希望をもって、一寸先も見えない汚水に手を入れるのである。


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崖っぷち

2020-06-18 09:01:26 | ゴミ部屋 ゴミ屋敷
ある日の深夜、電話が鳴った。
「掃除をお願いしたいんですけど・・・」
声の感じからすると、30代くらいに思われる女性。
「知り合いに部屋を貸していたら、汚されてしまって・・・」
訊きもしないのに、そういって語尾を濁した。

これまで、似たような電話を何本も受けてきた私は、“知り合いに部屋を貸していたら・・・”というセリフにピンときた。
これは、よくあるパターン・・・ほとんどのケースで、それはウソ。
昼間でもいいはずなのに、間夜中にかけてくるというのも不自然。
他人がしでかしたことなら尚更。
実のところ、ゴミ部屋をつくったのは、知り合いでも何でもなく本人。
それが、羞恥心に耐えられず、第三者のフリをするのである。
ただ、そこのところは、契約前の電話問い合わせに影響するものではないから、真に受けたフリをして話を聞くのが、ある種の礼儀なのである。

また、夜中の電話は、“急を要している”ということを示唆している。
緊急事態でなければ、寝静まっている夜中にわざわざ電話してこなくてもいいはずだから。
もちろん、その事情は色々ある。
腐乱死体、自殺、汚物嘔吐、汚水漏水、動物死骸、トイレ掃除etc・・・
中には、「ゴキブリが出た!」といった、呆れた電話もある。
夜遅く、飲んだ帰り道、もよおしてきてしまい、どうしても我慢ができず、通りすがりのマンションの物陰で脱糞していたところを住人に見つかって警察に通報された人もいた。
で、住人から「すぐに掃除と消毒をしろ!」と言われて、当方に電話してきたのだ。
悪意ではなく便意が問題を引き起こしたわけで・・・本人は困り果てているにも関わらず、その時は、同情心とおかしさが同時に込みあげてきた。

ただ、この女性の依頼はこの類にあらず。
経験にもとづいて推察したところ、現場は“ゴミ部屋”。
しかし、ゴミなんて、数週間くらいでは、たいした量にはならない。
相当な量に達するには、相応の年月・月日がかかる。
長期間で出来上がるものだから、“急を要する”なんてことは考えにくい。
とはいえ、それが、いきなり、緊急事態に陥ることが、ままあるのである。

それは、建物設備の定期点検。
分譲・賃貸問わず、一般のマンションならどこでも行われているもの。
そして、そういうものは、事前に通知される。
共用部の場合は、理事会を通して各住人に口頭伝達されると同時に、エントランスの掲示板やエレベーター内に掲示告知される。
そして、専有部の場合は、当該住人に個別に通知され日時調整がなされる。
マンション全体のメンテナンスに関わることだから、住人は個人の事情でそれを拒むことはできない。
点検業者と都合を合わせての在宅が原則だけど、仕事等で在宅できない場合は、入室承諾書等を書いて入室を許可する運びとなる。

しかし、女性は、これを無視し続けてきたのだろう。
一方の管理会社だって素人ではなく、これを不審に思わないはずはない。
頑なに点検を拒み続けるには、それなりの理由があることくらい容易に想像できる。
そして、その“理由”とは、“部屋が、人に見られたらマズイ状態になっているから”ということも。
漏電・漏水・ペット・異臭騒ぎetc・・・事故でも起こって、管理責任を問われると管理会社も困る。
必要に迫られた管理会社は、結局、「不在の場合は合鍵を使って入る」と、女性に最終通告を発したものと思われた。

最後通告は、入室予定の何日も前、余裕をもった日付が設定されたはず。
“通告の翌日に入室”なんて急なことはなかったと思う。
しかし、女性の怠惰な性分は変わらず。
一時的に慌てただけで、直ちにアクションを起こすことなく、その結果、ジリジリと崖っぷちへ。
そして、ギリギリになってようやく尻に火がつき、ネット検索。
作業してくれそうな業者をシラミ潰しに当たり、そうしてヒットしたうちの一つが当社だったのだろう。

“年貢の納め時”がきたのか・・・
ゴミ部屋が発覚すると、大家や管理会社を巻き込んでの大騒動に発展する。
早急にゴミを片づけさせられることはもちろん、清掃消毒、リフォーム等、原状回復の責任を負わされ、挙句には追い出されてしまう。
そういった一連のプレッシャーが圧し掛かっているだろう、女性は、ヒドく焦っている様子。
「いくらかかりますか?」
「いつ来てもらえますか?」
と、しきりに費用と工期を訊いてきた。

現場を見ないで作業内容や料金を提案することは困難。
また、現場を見ないでの見積は、後々でトラブルが発生するリスクが高い。
で、当社の場合、余程の簡易作業でないかぎり電話見積には応じていない。
そうは言っても、大まかな作業内容や概算費用くらいは応えないと、問い合わせてきた相手の期待を裏切ることにもなりかねない。
そのため、相手の要望によっては、電話の段階でも、現場の状況をできるかぎり詳細に把握する必要がある。
この案件のそうで、現地調査・見積提出をする以前に、要望の作業が責任をもって施工できるかどうかも判断しなければならなかったので、私は、その事情を説明したうえで、現地の詳細を聞き出そうと、細かな質問を投げかけた。
もちろん、女性が第三者であることを鵜呑みにしたフリをしたままで。

この女性もそうだったが、こういったケースの案件で、大方の人は、はじめのうちは軽症を臭わせる。
これには、ある種、交渉に入る前のウォーミングアップのような意味があり、業者が、どういう反応を示すのかを確かめるため、あと、早い段階で断られないようにするためだと思われる。
女性も、始めは、「浴室とトイレがちょっと汚れてまして・・・」と控えめな説明からスタート。
しかし、私の想像通り、それは、質疑応答をすすめるにしたがって変容。
これまた、私の想像通りの実状が、徐々に明るみになってきた。

やはり、状況は深刻。
部屋には、長年のゴミが堆積、結構なゴミ部屋になっている模様。
床が見えていないことはもちろん、結構な高さまで積み上がっているよう。
食べ物ゴミ、衣類、雑誌等々・・・本来なら、日々、家庭ゴミとして出されるべき生活ゴミが、そのまま溜まっていた。
とりわけ深刻なのが、トイレと浴室。
糞尿系の汚物や生理用品等、不衛生度が高いゴミはそこへ集められていた。
ビニール袋に入れた糞尿が、いくつも突っ込んであるらしい。
相当量に達しているだけでなく、悪臭も充満。
破れたビニール袋もたくさんあるはずで、かなり悲惨な状況になっているのは容易に想像できた。

“ゴミを片づけさえすれば問題は解決する”と思っていたら大間違い!
ゴミを撤去しても、部屋は、再び以前のような姿で現れることはない。
床も壁も内装建材には、相応の汚染・汚損が残り、水廻りもサビ・カビだらけでボロボロ。
浴室・トイレにいたっては、腐り果てていることだろう。
しかし、その辺をリアルに想像できる人はいない。
女性も、かかる費用と工期以外のことは、鼻で笑うくらい簡単に考えているようだった。

一つのウソをつき通すには、その周囲を多くのウソで固めなければならない。
その辺の詰めが甘かった女性は、時々、自分が“第三者”であることを忘れたかのように、そこで生活していた者でしかわかり得ないようなことも口にした。
通常、他人がつくったゴミ部屋について詳細に回答できるわけはなく、もうバレバレ。
仮に作業することになった場合、契約書には実名を書いてもらわなければならないし、室内には個人情報がタップリ詰まっているはず。
恥ずかしいのはわかるけど、作業に入ればすぐバレる。
ウソは恥の上塗りになるだけ。
いずれ恥ずかしい思いをすることになるのだから、始めからウソをつかないことが肝要。
それでも、女性は正体がバレてないつもりのようで、時々、思い出したように“知り合い”の悪口を織り交ぜて被害者を装った。

「現金での分割払いではできますか?」
状況からみて、結構な費用になりそうなことは覚悟しているよう。
しかし、たいした預貯金もなさそうで、どうも、クレジットカードも使えないよう。
精神衛生上だけではなく、与信上も問題のある人物だった。

「周囲にわからないようにできますか?」
荷物は、どうみてもフツーの家財には見えないはず。
糞尿系汚物や腐敗物も多くあるはずで、悪臭も放つはず。
管理人に問われてウソをつくと無用なとばっちりを受けるかもしれず、自己防衛上、それは困難だった。

「明日中・・・いや、もう0時過ぎてるから“今日中”ってことになるのか・・・今日中にできますか?」
“点検が入るのは明日”ということなのだろう。
切羽詰まっていることが伺えたが、現地調査もやっていない段階で作業日は決められない。
事故トラブルなく安全に施工しようと思えば、無理な話だった。

女性と会ってもいないし、現場もみていない上は、安請け合いはできない。
作業日時は、マンション管理人の勤務日・勤務時間に合わせる必要があるかもしれない。
管理規定で、引越し作業等は事前の申請・許可が必要かもしれない。
車両を停めるにも事前予約・許可が必要かもしれない。
1Fエントランス・通路・エレベーター等の共用部にどの程度の養生をする必要があるのかも判断不能。
相当の不衛生物もあるわけで、無用なトラブルを招かないため、作業を行ううえで必要な諸々のことを、管理人と打合せる必要がある。
私は、「現地調査→見積提出→契約→マンション側との打ち合わせ→施工」といった流れが必要かつ重要であることを説明し、それを理解してくれるよう促した。

しかし、女性は、理屈としてそれを理解できても感情が受け入れないよう。
“そんなことやってるヒマはない”とでも言いたげに、少しイラついた感じで
「仕事が忙しくて、明日しか時間がないんです」
と、お得意のウソっぽい返事。
その雑な考え方に危うさを感じた私は、結局、この案件から降りることに。
「ご期待に沿うことができず申し訳ありません・・・」
そういって電話を終えた。


その後、女性はどうしたか・・・
多分、その後も寝ずにネットを検索して、やってくれる業者を探したことだろう。
女性の要望に応えられる業者がいたかどうかは知る由もないけど、普段からキチンとした仕事をやっている業者は請け負わない思う。
仮に施工業者が見つかったとしても、施工条件も厳しく安易度も高い仕事なわけだから、高額な料金を見積もられた可能性が高い。
女性は資力が乏しいようだから、その辺のところは引っかかっただろう。

可能性として高いのは、結局、どうすることもできず朝を迎え、何も策を打つことなく予告通り点検業者に踏み込まれた・・・
そして、私が想像したような大騒動になった・・・
同時に、女性は、“もっと早く手を打っておくべきだった!”“その前に、日常でゴミをキチンと片づけていればよかった!”と、自業自得を痛感しつつ、後悔の念に苛まれた・・・
しかし、もはや手遅れ・・・自分を甘やかしてきたツケを払うかたちで、厳しい現実に苦悩することになったのではないかと思う。


やらなければならないことを放っておいて、期日ギリギリなって慌ててやる。
どうせやらなければならないことなら、さっさとやってしまった方がいいに決まっているのに。
しかし、自分の怠け心がそれを邪魔する。
そのうちには、自分が自分に、都合のいい言い訳をし始める。
もっといくと、やらなくても済むような逃げ道を探し始める。
こういう類のことは、多かれ少なかれ、誰しも身に覚えがあるのではないだろうか。
面倒臭がりの私も、これまで幾度も、自分で自分を崖っぷちに追いやったことがある。
「学習能力がない」というか、「教訓を生かせない」というか、懲りずに何度も。

一方、自分に起因しないことで崖っぷちに立たされることもある。
このコロナ渦がまさにそう。
今、これで苦境に陥っている人はあまりに多い。
飲食・レジャー・観光・イベント・エンターテイメント・スポーツ・・・多くの業種業界に多大な悪影響を及ぼしている。
社会の底、世間の陰、世の中の隙間で小さく生きている私にさえ影響があるのだから、事態は深刻だ。

これからくる第二波・第三波・・・
それがどんな影響を及ぼすのか、考えると恐ろしい。
だけど、私なんかよりもっと深刻な状況で戦っている人達がいる。
顔も名前も知らない多くの人達が苦境と戦っていることを思うと、心細さが薄れ、心強さを感じる。

「人生なんてアッという間!」
「崖っぷちの人生でも死ぬまでは生きられる!」
「開き直って闘志を燃やそうじゃないか!」
今、生きるために必死に戦っている“仲間”と、戦うことに怯えている自分にそう訴えたい、人生 黄昏時の私である。




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梅雨の晴れ間に

2020-06-12 08:32:10 | その他
本格的な夏を前に、蒸し暑い日が続いている。
関東圏も梅雨に入り、いよいよ、昨日からは空も曇雨気味。
毎年のこととはいえ、その不快感はなかなかのもの。
更に、今年は、コロナ雲まで垂れ込めていて、もともと鬱持ちの私の精神は、ちょっとしたことでどんよりしてしまう。
このところも、決して調子はよくなく、できることなら、涼しい部屋で、一日中 静かに横になっていたいような気分。
しかし、こんな状況でジッとしていても、状況が良くなるはずはない。
適度な運動と日光浴は鬱の改善に役立つらしいし、いつものコースには、例年通りの紫陽花がきれいに咲いている。
だから、こんな時は特に、奮起して外に出て、四季折々の草花を愛で、朝昼夕の風を感じ、生まれてくる前から変わらない空気を吸い、空の光を浴びながら身体を動かすように心がけているのである。

私が、運動を意識してのウォーキングを始めて6~7年は経つだろうか。
冬場は陽の高い日中に、この季節は早朝に。
たまに違うコースを歩くことはあるけど、ほぼ決まったコースを歩いている。
時間があるときは約一時間で約6km。
限られた時間しかないときは30~40分程度で3~4km。
やや早歩き、わずかに息があがる程度で。
原則として雨天でははやらないけど、精神が弱っているときは雨天でも決行。
スニーカーがグジュグジュに濡れるのを承知のうえで。
雨が強いときは、ゴム長を履いて傘をさしてでも歩く(かなり歩きにくいけど)。

いつものコースは歩行者と自転車専用で、緑多い景色もきれいで、とても歩きやすい。
その上、コロナの影響もあり、この春からはウォーキングやジョギングをする人が明らかに増えた。
健康志向は歓迎できるものだけど、「屋外は感染リスクがない」「屋外なら“密”を気にしなくても大丈夫」と、大きな勘違いをしている人も多いように思う。
感染リスクを変えるのは、“屋外or室内”ではなく、あくまで人との“距離・接触度”。
また、「自分が保菌者かもしれない」という危機意識も欠落しているように思う。
いくら外出規制が緩和されているからといっても、ノーマスクでの外出は禁物。
特に、ランニング・ジョギングなど、ハードな運動をしている人には着用を強くお願いしたい。
息苦しいのはわかるけど、ノーマスクで“ハァ!ハァ!”と息を吐きながら傍を走られると不快な気持ち悪さを感じるし、事実、ウイルスは、咳をするよりも広く拡散するらしいから。
また、“かつての日常を取り戻しつつある”といった世の中の雰囲気に圧されているのだろう、街中でもマスクを着けていない人が多く目につくようになっている。
“東京アラート”が解除され、それはそれで歓迎できることだけど、常識を共有できない人達がはじけ過ぎないか不安に思う。
とにもかくにも、ジョガーだけではなく、市中の一般人にも、マスク着用と、人との距離を保つなどの努力が必要。
それが、この時世に求められているマナー・エチケットだから。


いつものウォーキングコースには、何人かの顔見知りがいる。
私は、見た目は実年齢相応のはずなのだが、精神年齢を反映してか、全員 高齢者。
はじめは「おはようございます」「こんにちは」と挨拶を交わすだけなのだが、何度も顔を会わせているうちに立ち止まってちょっとした雑談をするように。
お互い、名前を名乗るほどでもないのだが、それが、一人・二人と増えて、結局、人数が増えている。

私は、自己分析の結果、“自分は結構な人見知り”だと思っている。
臆病、引っ込み思案な性格で、子供の頃は特にひどかった。
今だって、仕事上のこととか特定のネタがあればそれなりに会話できるけど、そうでないとうまく話せない。
社交辞令的なフリートークが苦手なのである。
だから、酒席では、酒の力を借りることが多い。
しかし、冷静に考えてみると、テキトーに接しても大丈夫な人とは、ざっくばらんに喋れることが多い。
もちろん相手がどういうタイプの人かにもよるけど、自分から話しかけることも少なくない。

利害関係になく、新密度の浅い人との会話は、それはそれで、なかなか楽しいもの。
好き嫌い以前の適度な距離感が保たれ、差し障りのない話に終始できる。
見栄を張る必要もなく、カッコつける必要もなく、気張らずに話せる。
お互い、“いい人”のまま、無難なスタンスでいられるから、独特の心地よさがある。

その中の一人に、八十代後半の女性がいる。
歩くスピードはとてもスロー。
小柄で、丸っこいフォルムの可愛いおばあちゃん。
私が話しかけると
「若い男に話しかけられると嬉しくなっちゃうよ」
と喜んでくれるものだから、“若い”と言ってもらいたいついでに、ついつい話しかけてしまう。

まだコロナが流行る前、しばらくぶりに出会ったときに話しかけてみると、
「ちょっと温泉に行ってたのよ」
「青森に気に入った湯治場があって、毎年、そこへ行くのが楽しみでね」
とのこと。
「へぇ~・・・それは羨ましいなァ・・・」
「でも、そんなに長く行ってたら、結構なお金がかかるでしょ?」
と、思いついたまま遠慮のない質問。
「そりゃね・・・30万くらいはかかるねぇ」
「でもね、銭金がつかえるのは身体が動くうち・・・アタシなんて、いつ逝ってもおかしくないんだから・・・銭金には代えられない!代えられない!」
と、手を振りながら豪儀に笑った。
「私も、歳とったらそんな生活したいなァ・・・」
「現実は甘くないですけどね・・・」
と、安泰な老後を早々と諦めている私は、笑ってる場合じゃない現実に苦笑いした。

女性は、三姉妹の末妹。
父親は、幼少期に戦死し、母親が女手一つで三人の娘を育てた。
ごく一部に裕福な家庭はあったけど、今と違って、貧乏が当り前の時代。
ただ、片親で三人も子供がいた女性一家は、まわりと比べても一段と貧乏。
で、よその家を羨ましく思ったり、生活に不便を感じたりすることはあった。
それでも、惨めに思ったり恥ずかしいと思ったりしたことはなかった。
母親が一生懸命に働いている姿が、子供心に“誇り”を抱かせたのだった。

母親は、苦労に苦労を重ね、子供を育て上げた。
貧しくても、子供の成長を喜び、子育てに幸せを感じたことだろう。
しかし、のんびりした老後を迎えることなく、子供達が成人すると、それを見届けるように死去。
そして、それから数十年、それぞれの人生を生き抜き、高齢となった二人の姉も先逝。
一人残った女性は、
「まさか、こんな長生きするとは思わなかったよ・・・長く生きてると色んなことがあるよね・・・いいこともあれば 悪いこともね・・・」
と、何もかもが過ぎ去ったことを寂しく思っているかのように、少しだけ表情を曇らせた。

「とにかく、気をつけなきゃね・・・このコロナってヤツは、どこにコロナってる(転がってる)かわからないんだから」
と、女性は、お気に入りのギャグで話を締めて笑った。
それは、過去は“いい想い出”に変えて胸に置き、“今”を楽しく生きようとしている姿にも見えた。
そして、そのシワくちゃのドヤ笑顔は、可笑しくもあり可愛らしくもあり、ホッコリ癒されるものがあった。


予定通りにいかないのが人生。
計画通りにいかないのが人生。
生涯をとおして順風満帆って人生は、少ないかも。
理屈ではそれがわかっていても、素直には受け入れられない。
世の中が、世界がこんなことになるなんて、つい三カ月前までは、夢にも思っていなかった。
そう嘆いている人は、この日本に、この世界にたくさんいるだろう。
私も、その一人。
嘆いてばかりじゃ何も変わらないのはわかっているけど、身の回りにも、この社会にも明るい材料がない。
将来も読み切れず、私などは不満と不安だらけで、失うものばかりが頭を過る。

私は、これから、何を失うおそれがあるのか・・・
当然、若さ(既に若くないけど)と体力は失っていくだろう。
しかし、仕事、金、日常の生活は失いたくない。
その危機感があまりに強いものだから、その理由を自分なりに突き詰めてみた。
すると、私は、貧困を恐れていることが判明。
もともと金持ちではないし、高収入を得ているわけでもない。
収入が減ったって、失業したって、ワガママ言わず働きさえすれば、飢え死にするほど貧乏になる可能性は低い。
しかし、命にかかわらない貧困を恐れてしまっている、もっといえば、貧困にともなうカッコ悪さを恐れているのである。

私は、物理的豊かさを否定するものではないし、私も そのメリットを享受している一人だけど、物理的豊かさは人間の虚栄心を刺激し、物事の核心を見極める力を麻痺させる。
そして、結果的に、人間を貧しくさせる。
心身の健康、理性・正義・道徳心、信頼、友情、家族愛etc・・・金より失ってはいけないものがあるのに、私は、カッコばかりつけたがる。
既に、充分、カッコ悪い生き方をしていることは承知のうえで尚も。

“貧しいこと=カッコ悪いこと、恥ずかしいこと”といった価値観は、いつ どこで醸成されたものだろうか。
誰かに植え付けられたものだろうか、よく憶えていない・・ていうか、ひょっとしたら本能の一部だろうか。
真に恥ずべきことは、貧困ではなく、怠惰による不労、怠けて働かないことのはずなのに。
ただ、この価値観はかなり強固、簡単に変えることはできない。
一生変わらないものかもしれない、死ぬ間際にならないと変わらないものかもしれない。
しかし、自分にとってその価値観が好ましいものかどうか・・・
そこに気づき、立ち止まってみるだけでも、自分の中に新しい風が入ってくる。
そして、
「カッコ悪くたっていいじゃないか!」
と、肩の力を抜いてみると、それだけで気持ちが楽になる。

人間って、他人が思ってるほど強くなく、自分が思っているほど弱くない。
そしてまた、他人が思ってるほど賢くなく、自分が思ってるほどバカじゃない。
泣き言のひとつも言わないで、黙って忍耐することだけが美しいのではない。
愚痴のひとつも言わないで、果敢に挑戦することだけが素晴らしいのではない。
溜息のひとつもつかないで、直向きに努力することだけが尊いのではない。
泣いて 愚痴って 溜息をついて、それでも、性根に一生懸命さを持ち続けてやる姿に、人間の美しさ・素晴らしさ・尊さが映し出されるのではないか。
そして、そのカッコ悪さが、曇りがちな自分や人の人生に光を照らすこともあるのではないだろうかと思う。

梅雨の晴れ間にさす陽のように。




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底んところ

2020-06-06 08:33:38 | 腐乱死体
緊急事態宣言が解除され安堵の一息をついたのも束の間、「微増」とはいえ感染者数が増えてきている。
所々では、小さなクラスターも発生。
東京では独自の「東京アラート」なるものが発動されている。
それでも、もう我慢ならないのか、街や観光地には多くの人々が繰り出している。
感染者数が爆発的に増えなければ(?)、今月19日には(?)、一部地域から(?)、越境規制も緩和される(?)。
そうなると、人の行き来は、ますます増えていくはず。
慎重派の私は、解除の前後でほとんど生活スタイルを変えていないけど、人々のストレスと経済を考えると、無策でなければ、それはそれで悪いことではないだろう。
ただ、あれから二週間近くたつから“そろそろ大きな第二波がくるのでは?”と、不安に思っている。

知ってのとおり、世界は、健康上のことだけでなく経済的にも大打撃を受けている。
中小零細企業の倒産、解雇・失業はもとより、大企業の業績も悪化。
しかし、こんなに甚大な被害を引き換えにしてもなお、ウイルスは終息していない。
それでも、“withコロナ”ということで、各種の規制要請は次第に緩和されつつあり、“夜の街”が不安視されながらも、経済の歯車は小さいところからゆっくり回り始めている。
今のところ、外食の予定も出かける予定もないけど、行きつけのスーパー銭湯が再開しているから、行ってみようかどうか迷っている。
今、流行りの“水着マスク”を着けて行けば、大丈夫かな。
しかし、そういった、考えの甘さと軽率な行動が、感染を再拡大させてしまうのかもしれず、悩ましいところである。


何度が仕事をしたことがある不動産会社から特殊清掃の依頼が入った。
「管理するアパートの一室で腐乱死体が出た」
「“異臭がする”ということで、隣室の住人が通報」
「どんな状況か、行ってみてきてほしい」
お互いに顔を見知っている我々は、“人が死んでいる”というのに声のトーンもテンポも落とさず、不謹慎にも、時折、談笑を交えながら現地調査の段取りを打ち合わせた。

アパートが建っているのは郊外の住宅地。
近年に大規模修繕を行ったのだろう、建築から三十年近くたっているにも関わらず、それほど古びて見えることはなく、結構きれいな建物。
現場は、その二階の一室、間取りは2DK。
汚染度はライト級~ミドル級程度。
ニオイは、そこそこパンチのある濃度で放たれていたが、実際の遺体汚染はそれほど深刻な状態ではなく、床材もクッションフロア(CF)であったため、遺体痕清掃も、「特殊清掃」というほどハードな作業ではなかった。

亡くなったのは、初老の男性。
無職のため社会から距離が空いており発見が遅延。
その孤独な生活は、生活保護を受給して維持。
にも関わらず、部屋からは、故人が節度・良識をもった生活をしていたことはうかがえず。
ギャンブルのマークカードがなかっただけマシかもしれないけど、酒の空缶やタバコの空箱が転がり、整理整頓・掃除もロクにできておらず。
もともと、この類の人間を快く思わない私は、冷酷非情は承知のうえで、
「ただ、“働く気がない”のを“働けない”ってことにしてただけなんじゃないの?」
と、口の中で飼っている苦虫を噛み潰した。

訊けば、このアパートに暮らしているのは、大半が生活保護受給者。
小ぎれいな建物だし、一般の人でも暮らせる充分な間取り。
ただ、周辺には、より条件のいいアパートが乱立。
家賃が同等であれば、少しでも立地がよく、建物や設備のいい物件に人は流れる。
そういった人気物件は、黙ってても一般の入居者で埋まるわけだから、社会的・人間的にハイリスクな生活保護受給者は相手にしない。
一方、その逆で、人気のない物件はそんな“ワガママ”は言っていられない。
“空室にしておくよりマシ”ということで、生活保護受給者でも何でも入れるのである。

不動産運用って、「金持ちの道楽」とはかぎらず、一部の富裕大家を除き、庶民大家の中には、借金して投資して運用している人も少なくない。
また、月々の家賃収入が、そのまま自分の生活費になっている大家も。
空いたままの部屋は一銭の金も生まないわけで、庶民大家には、そのままにしておく余裕はない。
で、人気のない物件は、空室を埋める策として地域相場より家賃を下げざるをえず、結果として、それが生活保護受給要件(家賃の上限額)を満たして、入居契約に結び付きやすくなる。
同時に、それがキッカケで、生活保護部署の役人とパイプができ、以降もつながっていくのである。

受給者は中高齢者、持病がある人が多いため、一般の人に比べて孤独死する可能性が高いことがリスクとして挙げられるかもしれないけど、役所(税金)が生活費の面倒をみるのだから、家賃を取りっぱぐれることはない。
つまり、「経済的にはローリスク・・・ノーリスク」ということ。
結果的に、大家と入居者・役所の利害が一致し、自ずとアパートにはそういった人達ばかりが集まり、本件の類のアパートができ上がるのである。
実際、そういったアパートは街のあちこちにあり、私が、苦虫を噛み潰しながら片づけてきた現場にも、そういったアパートが多くあった。

受給者は、“中高齢者”“持病あり”といったケースが多いのだろうと思うけど、中には、そうでない人もいる。
“若年・無傷病”でも生活保護を受給している人が。
この現場の隣室に暮らす女性がそうだった。
もともと、故人が発見されたのも、女性が「隣の部屋がクサい」と言いだしたことがキッカケ。
で、「自室もクサくなった」ということで、その後、私は女性宅を何度か訪れ、女性の身辺を知ることとなった。

女性は母子家庭だそうで、3歳くらいの小さな子供がいた。
どういう経緯で生活保護の受給要件を満たしたのか怪訝に思うほど、歳は若く身体も健康そう。
会話もハキハキとしており、表面上は精神疾患があるようにも見えなかった。
ま、その辺のところは、私が詮索することではない。
私が引っかかったのは、「母子家庭」といいながらも、そこに“男”がいたこと。
平日の昼間から、スエット姿、寝ぼけた表情。
私が挨拶をしても、目も合さず無言でペコリと頭を下げるだけ。
私が考えていることが伝わったのか、フテ腐れたようにタバコを吹かしているときもあった。
消臭作業と臭気判定のため、女性宅には何度か入ったのだが、平日の昼間、いつ行っても男の姿はあった。
もしかしたら、夜の仕事をしているのかもしれなかったけど、マトモに仕事をしているような善良な雰囲気は醸し出していなかった。

どうみても男は女性親子と一緒に、この部屋で暮らしていた。
私の先入観も手伝って、想像された素性は“ヒモ”。
もちろん、誰と付き合おうが、誰と暮らそうが女性の自由。
しかし、生活保護受給者となると、その自由度は下がって然るべき。
世に中には、金銭(育児手当・児童手当・減税等)目的で、戸籍上でのみの偽装離婚をしている夫婦がいる。
もちろん、この男女がその類なのかどうかわからない。
しかし、遺体異臭がなくなった時点でも、何かよからぬことをやっていそうな人間の “人間異臭”はずっと残り、それは、クサいものには慣れっこの“ウ○コ男”の鼻をも捻じ曲げるほどだった。


これまでも、受給者の部屋を片付けたことは数えきれないくらいあるけど、酒を飲み、タバコを吸い、博打をやっていた形跡のある部屋もまた、数えきれないくらいあった。
死んだ人に悪意を抱くのは私も悪人だからだろうけど、死を悼むどころか、頭にくるような現場だっていくつもあった。
もちろん、“オフレコ”としてではあるけど、親しい役所の人間も、
「大半の受給者は詐欺師」
と言っていた。
私も、現場でのそう感じたことは多々ある。
また、個人的に付き合いのある警察官も、
「受給者に人権はいらない」
と言っていた。
私も、一般の人と比べて人権が制約を受けるのも当然だと思う。
生活保護制度についてプライベートで話すと、愚痴や悪口が、噴火した火山のようにでてくる。
世の中に、同様の意見を持っている人は多いように思う。
しかし、それは、反論の余地のない現実。
私も、私なりに、仕事を通じて感じたことが蓄積され、また、似たような不満を持っている。

これはまだ緊急事態宣言が解除される前のことだけど、とある失業者(40代男性)がTVインタビューを受けている姿が映った。
その人物は、家賃も払えなくなって住処を失いかけており、「このままだと生活保護を申請するしかない」と言っていた。
ただ、どうも求職活動はしていないらしく、それについての言及はなし。
そんな中での、“失業→生活保護”といった考え方に、私は不快感に近い違和感を覚えた。
「安直」というか「短絡的」というか「他力本願」というか「無責任」というか・・・
失業と生活保護の間には“就職活動”が入るべきではないだろうか。

確かに、羨望の眼差しを浴びるほどのキャリアや、威張れるほどの技能でもないかぎり、この時世で、再就職を果たすのは難しいかもしれない。
難儀することが容易に想像でき、前向きに就活する気分になれないのかもしれない。
また、仮に仕事が見つかったとしても、「キツい、汚い、危険」いわゆる3Kの仕事とか、気のすすまない仕事である可能性が高い。
しかし、もともと、仕事は“好き嫌い”でやるものではないし、特に今は「好き嫌い」を言っているときではないと思う。

この厳しい現実にあって、私の脳裏から「失業」という文字が消えることは片時もないけど、「生活保護」という文字は頭の片隅にも浮かんでこない。
受給要件が簡単にクリアできるような生き方はしてこなかったし、頭と外見を中心に欠陥だらけではあっても働けないほどの傷病も抱えていないし、その前に、その意思がない。
ただ、この私だって、働くのは好きじゃない。
怠けたい、楽したい、遊んで暮らしたい。
「働かなくても生きていけたら どんなにいいいだろう」って、常に憂いている。
税金だって社会保険料だって、払わずに済むのなら払いたくない。
そんなもの払うくらいなら、その分、生活に余裕をもってプチ贅沢でもしたい。
しかし、マトモに生活していくためには、そんなことできるわけがない。
しかも、どうせ生きるのなら最低限の暮らしはイヤ。
少しでも快適に、少しでも楽しく、少しでも幸せに暮らしたい。
となると、その方法は、ただ一つ。
しっかり働いて、社会的責任を果たしていくしかない。

勤労と納税は国民の義務。
社会保険料だって第二の税金で、納める義務がある。
“生活保護費”の原資は、良民の労働による血税。
しかし、受給者の多くは、まともに税金や社会保険料を払ってきていないわけで、そんなデタラメな生活をしていたから困窮したとも言えるわけで、こういうのを「理不尽・不条理」と言わずして、何が「理不尽・不条理」なのか。
そういった義務・責任を果たさないでおいて、“もらえるモノはもらう”といった盗人根性には、憤りすら覚える。

一方で、真に生活保護で守られるべき人に、本当に支援を必要としている人のところに届いていないような気がする。
邪悪な受給者が、生活保護制度の本分を歪め、良民を裏切り、受給者の品格を貶めているが故、また、こういう人達にかぎって結構な人格者だったり高潔なプライドを持っていたりするが故に、生活保護に頼ろうとしない現実もあると思う。
「人様に迷惑をかけたくない」と、仕事を二重三重にかけもちして働いている人、身体を壊すギリギリのところで節約生活を送っている人、惨めな想いに耐え忍んでいる人もたくさんいると思う。
事故や犯罪等の被害者で、自分の努力ではどうすることもできない貧困に陥っている人も。
一生懸命 働いているのに、我が子にひもじい思いをさせなければならない親の悲しさや惨めさを考えたことがあるだろうか・・・
真に社会全体で助ける必要のある人が、正々堂々と受給できるようにならなければいけないのではないだろうか。

私は、生活保護制度に反対しているわけではない。
支援が必要な人を社会全体で守る制度は必要。
しかし、“正直者がバカをみる”社会であってはならないし、ズルい人間、ただの怠け者を甘やかすだけの制度であってはならない。
しかし、現実は、“だらしない生き方をしてきた人間のズルい生活を、善良な市民が身銭を削って守っている制度”になっていやしないだろうか。
働きもせず、他人の金で飯食って、酒飲んで、タバコ吸って、ギャンブル打って、寝たいときに寝ている者が、寝る間も惜しみ、嗜好を楽しむ余裕もなく働きながらも貧困から脱出できないでいる人より楽な暮らしをしているなんて、どう考えてもおかしい。
現実の運用は、はなはだ不愉快であり、大きな不信感と違和感を持っている。

では、
でたらめに生きてきた者は飢え死にしても仕方がないのか?
だらしない生き方をしてきた者は貧乏しても仕方がないのか?
・・・ある意味で、私は「仕方がない」と思う。
少なくとも、日本は自由主義・資本主義の国なのだから。
でなければ、生活を支援する代わりに、人権に相応の制約を加えるべきだと思う。
例えば、一定の場所(言葉は悪いけど“収容所”みたいなところ)に集めて、能力に応じた労働を課すとか。
それが、一般の人が遠ざける、単純作業や重労働、3K仕事であってもやむを得ないだろう。
ただし、特殊清掃だけは除外して・・・私の仕事がなくなるから。

「オマエは、そこまでの苦境に陥ったことがないから、そこまで困窮したことがないから、そんな冷酷非情なことが言えるんだ!」
と言われるかもしれない。
確かに、そう・・・それは認める。
しかし、多くの一般市民は、そうならないために、汗かきベソかき、必死に頑張っているのである。
その頑張りによって獲た実を一方的に横取りすることも、また、人権侵害なのではないだろうか。

世の中は上にいる人達が動かしていることは承知しているけど、たまには、私がいる“底んところ”にも目を向けてほしいものである。



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