2022謹賀新年。
年末年始 無休だった人、今日から仕事始めの人、まだ休暇中の人、色々な人がいることだろう。
今年もコロナの影響で帰省や旅行を控えた人が少なくなかったよう。
私は、大晦日が仕事納め、そして2日が仕事始めだった。
つまり、今年は、例年のシフトに変更があり、元旦は休日だったのだ。
元旦休暇は何年ぶりかのことだった。
大晦日は、紅白などを観ながら、ゆっくりと、おせち+晩酌。
その後、ゆく年くる年を観ながら年を越し、0:15頃 就寝。
そして、元旦は、完全な寝正月。
朝御飯も昼御飯も食べず、カーテンも開けず、「朝はくるな!ずっと夜でいい!」とばかりに、午後三時頃まで睡眠と覚醒を繰り返しながらずっと布団に潜っていた。
もともと、出かけたいところもなかったし、出かけたい気持ちもなかったし、そうするつもりだったとはいえ、ほとんど病人の状態。
世間は、初詣とかレジャー・ショッピングとか、楽しい雰囲気に包まれていたのだろうけど、結局、私は一歩たりとも外へは出なかった。
その原因は、精神疲労。
新しい年を迎えても「あけましておめでとう」なんて気分にはならず。
それどころか、新しい一年が始まることの期待感は皆無で、疲労感に苛まれるような始末。
例年、冬季は鬱っぽくなりやすいのだが、とりわけ、近年の正月鬱は深刻な状態。
特に、今年の場合は、昨年から、個人的に超ネガティブな出来事に見舞われ、更に、そこから派生した諸々のことを自分の精神が処理できずヒドく苦悩苦悶している
不眠症はもちろん、この寒さの中でも身体が猛烈に熱くなり、首元にグッショリと脂汗をかく。
まるで、首がオネショをしたみたいにパジャマが濡れることもあり、かなりツラい状態に陥っている。
最も深刻なのは明け方だけど、日中も、動悸・息切れが続き、食欲も減退している。
居ても立ってもいられなくなったときには、“元気がでる言葉”の類をスマホで検索したりすることもあるけど、虚しいかな、それらが凍り固まった心に刺さることはない。
自己分析すると、不安神経症系の鬱病なのではないかと思っている。
これまで同様の状態は何度も経験してはいるし、心療内科を受診したことも何度かあるけど、ただ、今回は、これまでにないくらい重症で、しかも、発症している期間が長い。
こうしてブログに書いているところをみると、まだ“余裕”があるように見受けられるかもしれないが、かなりギリギリのところまできている。
放っておくと、更にマズい方向にも行きかねず、再び、どこかの心療内科を受診してもようかとも考えている。
とにかく、今は、脳にガツン!と効く薬を飲みたい気分なのだ。
しかし、ネットを検索しても、評判のいい医院はなかなか見つからず(どこも悪評コメントばかり)、それが更に私を憂鬱にしている。
ただ、私だけではなく、多くの人も、大なり小なりの憂鬱を抱えながらも忍耐を重ね、適当なところで折り合いをつけて生きているはず。
そして、このコロナ禍によって、それに輪をかけられている人も。
残念なことに、落ち着いていた感染者もジワリジワリと増えてきており、新型のオミクロン株が急拡大するのも時間の問題だろう。
今月後半から2月にかけて、爆発的に増えるのではないかと思う。
私は、昨年9月と10月にワクチンを二回接種しているのだが、二回接種者でも感染発症するらしいから、まったく、油断はできない。
とりわけ、心配なのは高齢の両親。
今年2月で八十五になる父は、血糖値が高く身体の衰えは顕著。
また、4月で八十になる母は、老齢に加えて持病(肺癌・糖尿病)がある。
それでも、それぞれ、介護保険を利用するまでのことにはなっておらず、自立した生活を送ることができている。
これは、本当にありがたいことで、感謝している。
12月下旬、世間が年末年始休暇に入る前、そんな両親に、久しぶりに会いに行ってきた。
ただ、コロナのことを考えると迷うところはあった。
その時はまだ市中感染の情報こそなかったものの、オミクロン株も日本に入ってきていたし、ブレークスルー感染も頻発していたし。
しかし、第六波がくる可能性が高い中で、このタイミングを逃すと、またしばらく会えなくなくなることが容易に想像でき、結果、「会えるときに会っておかないと、もう二度と会えなくなるかも・・・」という考えに至り動くことにした。
間もなく二年になる長いコロナ禍で、慌ただしく時間が過ぎ、振り返ってみると、実に二年二カ月ぶりの再会だった。
当然のことながら、両親とも二年分は歳をとり、それだけ衰えていた。
そういう私も二年分は歳をとり、母からは、「白髪が増えたね・・・」としみじみ言われた。
とにもかくにも、二人とも、私との再会をとても喜んでくれ、私も感謝の念でいっぱいになった。
ただ、以降のコロナ波によっては、またしばらく会えない日が続く可能性もある。
また、仕事柄、高齢者が急逝するケースは、イヤというほど見聞きしている。
これについては、私の両親も例外ではない。
先日の別れが今生の別れになる可能性だって充分にある。
しかし、何はともあれ、「また会いたい!」と強く願っている。
訪れた現場は、郊外に建つ一軒家。
要件は、供養処分する遺品の回収。
依頼者は高齢の男性。
共通の知人を介しての依頼だった。
約束の日の早朝、私の晴れ渡る空の下、男性宅に向かった。
東京都内とはいえ、うちの会社からは遠方。
ただ、“一人の車中”は、私にとって数少ない落ち着ける場所。
私は、ドライブ気分を携え、長距離運転でも苦も無く車を走らせた。
目的の地域は整備されて住宅地で、ナビが示した場所には大きな家が建っていた。
築年数は新しくはなかったが、廃れた感はなく、家屋はきれいに保たれていた。
ただ、外周は整然としており、どことなく生活感は薄く、わずかに寂れた雰囲気が漂っていた。
私は、掲げられていた表札を確認し、その前の道路に車を駐車。
車を降りで門扉のインターフォンを押した。
すると、すぐさま、高齢の男性が丁寧な物腰で玄関から出てきた。
お互い、顔を会わせるのは初めてだったが、それまでに電話でのやりとりが何度かあり、見ず知らずの関係でもなく、やわらかな挨拶を交わした。
玄関に入った私は、あることにすぐ気がついた。
それは、家の中にあるはずの、色々な家財生活用品が目につかないこと。
ちょっと大袈裟に言うと、「空き家?」と思ってしまうほど。
私は、怪訝に思いながら、すすめられたスリッパに足を入れ奥へと進んだ。
玄関同様、リビングもやけにモノが少なかった。
生活できないほどでもなかったが、「引っ越すのかな・・・」と思うほど。
ただ、そんな疑問は仕事には関係ないので、何も言わず、うながされるままダイニングチェアに腰を下した。
目的の回収品(供養遺品)は、既に用意され、テーブルの上に置かれていた。
それは、三柱の位牌と三枚の遺影。
それは、男性の父・母・妻のもの。
男性は、それらを名残惜しそうに触りながら、事の経緯を説明。
そして、男性は、話したいことがたまっていたのか、次から次へと言葉をつなげた。
一方の私も、急ぐ用事でもなく、供養品を回収するだけなら、ものの数分で済むところ、わざわざ遠方から出向いてきたわけだし、それだけでサヨナラするのは素気ない気がして、時の流れを男性のスピードに合わせることにした。
もともと、この家には、両親・男性夫妻・二人の息子、最多時は六人が生活していた。
当時の生活は、この大きな家も狭苦しく感じるくらい賑やかなものだった。
しかし、父が逝き、母が逝き、自分より長生きするとばかり思っていた妻も逝き・・・
独立した二人の息子は、遠く離れた地方で家と家族を持ち、その土地に根を下ろし・・・
結果、男性宅は、必要のない部屋やモノが ただ残されているだけ、“想い出の物置”のような状態になった。
そんな家で暮らす中、男性は、自分が死んだ後のことを想像。
すると、
「人生の後始末は、できるだけ自分でやりたい」
「せめて、両親と妻の後始末だけはやって逝かないと」
という想いが芽生え、一念発起。
身体の衰えと、先が短くなっていることをヒシヒシと感じ、自分が動けるうちに、やれることはやっておくことを決意し、齢八十を機に終活に着手したのだった。
現に、私が出向いたときは、家財が置いてあったのは、男性が生活に使っている一階の1LDK分のみ。
それ以外の部屋には何も置いておらず、余計な調度品や装飾品も皆無。
また、二階の部屋はすべて空室になっているとのこと。
日常生活で二階を使うことはなく、用事といえば換気で窓を開閉するくらいのこと。
足腰が弱まれば昇降もできなくなるため、二階はいち早く片付け、上がらなくても生活に困らないようにしたのだった。
亡き両親のモノ、妻のモノ、自身のモノ、息子達のモノ、六人分の荷物は大量。
想い出深いモノもたくさんあり、その懐かしさと愛おしさに心が折れそうにもなったことも何度となくあった。
しかし、男性は、
「始まりがあれば終わりもある」
「どんなに執着したって、自分の身体さえ置いて逝かなければならないときがくる」
と“自分の終わり”をシッカリと見据えて、片づけを続けた。
「息子のためじゃなく、自分のためですよ・・・」
「自分の人生なんだから、できるだけ自分で始末をつけて逝きたいと思いましてね・・・」
男性は、そう言いながら、寂しさを滲ませつつも信念みたいなものを表情に浮かべた。
そんな中で、手に余ったのが、遺影と位牌。
ほとんどのモノはゴミに出せたのだが、心情的に、これだけはゴミに出すことができず。
位牌や遺影だって、見方を変えれば、“ただのモノ”であることに間違いはない。
男性は、思い入れのある他のモノだって、想い出だけを心にしまい、必死に割り切って処分してきた。
しかし、位牌と遺影だけは、長年、故人同様に想ってきた品だから、他のモノと同じようにゴミに捨てることができず。
そこで、私が参上することになったのだった。
男性は、特定の宗教を信仰しているわけでもなく、悟りきった死生観をもっているわけでもなかった。
しかし、
「親父やお袋や女房に会いたい気持ちが、歳をとるごとに強くなっていくんですよね・・・」
「で、あの世に逝ったら、また会えるような気がしてるんですよね・・・」
「もう、棺桶に片足突っ込んでるわけですから、それまで、もうちょっとの辛抱ですけどね・・・」・・・」
と、真理の端でも見つけたかのように微笑んだ。
男性宅に一時間くらいいただろうか、話に区切りがついたところで、私は預かった遺影・位牌を手に男性宅を後に。
玄関前に出て見送ってくれる男性に、
「もう、お目にかかることはないでしょうけど、どうぞお元気で・・・」
と、いつものセリフで挨拶。
すると、男性は、
「いや・・・また会えるかもしれませんよ・・・先に逝ってますから・・・」
と、頭上に広がる晴天を指差して笑った。
車に乗り込んだ私は、男性に会釈をしながらゆっくり発進。
バックミラーの中で遠ざかる男性の姿に
「人生って、寂しく切ないもんだな・・・」
「でも、明日に生きなきゃいけないんだよな・・・」
と思いながらアクセルを踏み込んだ。
そして、想い出の中にいる色んな顔や、想い出の中にある色んな光景を思い浮かべながら、
「会いたいなぁ・・・」
と、何となく寂しい気持ちで、再び、長い道程に向かってハンドルを握ったのだった。
このコロナ禍で、多くの人が笑顔を失った。
多くの人が、楽しみにしていた再会を断念せざるを得ない事態にも陥った。
そして、第五波が収束し、笑顔を取り戻しつつあった人達の顔も、忍び寄るオミクロン株で再び曇りはじめている。
誰しも、この世にもあの世にも、会いたい人がいるだろう。
過去に置いてきた、会いたい想い出があるだろう。
自分のことさえどうにもできないでいるのだが、私は、会いたい。
他人のことを想う余裕はないのだが、私は、会ってほしい。
愛する人に、すばらしき想い出に。
そして、元気な自分に、笑顔の自分に。
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