特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

自己不満足

2016-03-10 09:06:09 | ボランティア
“死”のニュースは、毎日、世界中を駆け巡っている。
遠い世界だけのことではなく、それは、身近なところでも起こっている。
それを見れば、“死”というものは、いつ訪れてもおかしくないことがわかる。
人を死に至らしめるのは老いや病気が多いのは間違いないけど、それだけではない。
“生”というものは常に“死”と隣り合わせであり、人は、いつ死んでもおかしくない状況で生かされているのである。

あまりにインパクトが強すぎて、地が大きく揺れた恐ろしさが、まるで昨日のことのように思い出されるが、あれから明日で五年。
2011年3月11日の朝、その日で自分の人生が終わることを知って仕事や学校に出かけた人はどれだけいただろうか・・・
多分、一人もいなかったはず。
それでも、多くの人の人生が終わりを迎えた。
そして、それぞれの意思に関係なく、残された多くの人の人生が予期せぬ方向へ流されていった。

それでも、五年という時間は変わりなく過ぎた。
そして、過ぎた時間の分だけ、非被災地にとっての震災は遠くにぼやけていった。
それが、時間が持つ優しさでもあり冷たさでもある。
だからか、この時期以外、普段は、あまりニュースにもならなくなった。
どうでもいいように思える有名人のスキャンダルは飽き飽きするほど繰り返し報道されるのに、震災のニュースは、まるで“旬”でもあるかのように一時的なものになっている。
しかし、今でも、困っている人はたくさんいる。
長い苦しみに耐えている人はたくさんいる。
そして、ボランティアで、それを支えている人もたくさんいるのだろう。

当時、知人の中には、積極的に物資や義援金を募り、現地に送った人がいた。
そして、実際に、奉仕に参加する人もいた。
私も、衣類・タオル類・毛布・布団・水・食料、そして少々の金銭・・・
自分の手元に余っているモノを、支援物資として提供した。

しかし、身体は動かさなかった。
“動かせなかった”のではなく“動かさなかった”。
もちろん、給料を失う覚悟で長期休暇をとれば(もしくは退職すれば)行けなくはなかった。
しかし、そこまでの熱意もなければ覚悟も持てなかった。
そもそも、ボランティア活動に従事する人の多くは、長期休暇がとりやすい公務員や大企業の社員とのこと。
零細企業で不安定な仕事に従事する私のような者は、他人様を助けに出る余裕がない。

ただ、私の場合、“余裕がない”という以前に、その精神がない。
“人にために何かをやる”なんて思考回路を持ち合わせていない。
ついでに言うと、三食や酒を減らしてまで義援金を出そうとも思わない。
つまり、“自己犠牲をともなう支援はしたくない“ということ。

更に、それに対して、大した罪悪感はない。
もちろん、“俺が悪いんじゃない”とか“俺の責任じゃない”等と、開き直っているわけでもないけど、そんなに罪なことだとは思っていない。
これを「悪」と呼ぶかどうかはさておき、どちらにしろ、あまり好ましい人間ではないだろう。
それは、わかっている。
が、小さな罪悪感や後ろめたさを、小さな罪悪感や後ろめたさを抱くことでごまかしている。
結局のところ、自分が一番かわいいから。

「人間なんてそんなもの」
「皆、似たようなもの」
そんな考えに逃げ道をもらうこともあるけど、悲しいかな、それは自分がそんな人間でいい理由にはならない。
これは、自分個人、一人の人間の問題。
物事の良し悪しは、多数決で決まるものではない。
「多くの人がそうなのだから、自分もそれでいい」
なんて理屈はまったく成り立たない。

私は、自分を“心のあたたかい人間”だとは思っていない。
このブログにおいて、“心のあたたかい人間”であるような風体を醸し出してはいるけど、わりと冷たい人間。
だから、何事も、自分本位。
自分にとって自分は世界の中心。
標準であり、基準であり、常識。
何をやるにも、まずは自分のため。
他人のためのように見えることも、まずは自分のため。
自分さえよければ、それでいい。
すべての動機は、“自分のため”からきている。

何年も前になるけど、自殺現場に残されていたチビ犬を引き取ったときもそう。
“犬のためを思って引き取った”みたいな雰囲気でブログを書いたけど、実は自分のため。
犬を見殺しにすることによる罪悪感や後ろめたさを抱えるのがイヤだったから。
犬を引き取ることによって善人気分を味わいたかったから。
そして、それを回りに言うことによって、賞賛を浴びたかったから。
所詮、動機はそんなところである。
もちろん、それでチビ犬が救われたこともたくさんあると思うし、一緒に暮すようになってたくさんの幸せが生まれたことは事実だけど、ただ、それは二次効・三次効。
まずは、自分のためだった。

仕事もそう。
目的の本質は“自己満足”。
“世のため、人のため”でもなければ、“会社のため”でもない。
金銭獲得のため、人格形成のため、自己研鑽のため、あくまで自分のため。
人や社会への貢献があるとするなら、それは、二次効・三次効。
結果の実であり、私が第一に求めているものではない。

頑張っている自分を褒めながら、頑張っている自分を慰めながら、
頑張れない自分を嘆きながら、頑張れない自分を憂いながら、
得は増やさず、歳ばかり増やして、
「自分のため」「自分のため」と、私は、生きている。

それが悪いとは思わない。
ただ、そんな自分の窮屈さと満たされない現実に、時にフテ腐れ、時に苛立っている。
そんな自分に満足しているわけでもない。
しかし、自分では、どうしようもないのである。


インフルエンザにかかって以降、なんだか調子が悪い。
食欲は戻っているし、ウォーキングも、たまの晩酌も再開できているので、身体は、ほとんど回復したと思う。
そして、思考がおかしいのも、精神の調子が悪いのも、今に始まったことではない。
何と言うか・・・その類じゃなく、気分がイライラするというか、クサクサすることが多いのだ。
それが、よくない状態であることが自分でわかっていながら、どうすることもできない。
自分で自分の心は変えられない。
反面、自分の意を無視したところで、簡単に変わる。
その軽率さに翻弄されて、キレそうになることもある。

これだけ、めいっぱい利己的に生きている私なのに、何故、満たされないのだろうか。
利己的すぎるからか・・・
欲が大きすぎるからか・・・
「自分のため」と思ってやっていることが、本当は、自分のためになっていないからか・・・
心を満たしてくれるモノを見当違いしているのか・・・
心の持ち方が間違っているのか・・・

私は、自分の欲求を満たすモノで心を満たそうとしているから、いつまでたっても、満たされないのかもしれない。
本当に心を満たしてくれるのは、自分の欲求しているモノではないのかもしれない。
例えば、チビ犬と暮すことによって与えられた幸福感とか、人から感謝されることによって気づかせてもらう自分の存在価値とか、一生懸命働くことによって得られる平和な生活とか、そういったもの。
自分の欲が追う目先の一次効ではなく、その向こうにある二次効・三次効こそが、真に自分の心を満たしてくれるものなのかもしれない。

満足感を高めるには、心の持ち方を変えることが必要。
利己的な思考に支配されないよう気をつけ、
無駄な欲を持たないよう心がけ、
得ることよりも、まずは、与えてみることを志向し、
どこかに、人の幸せで満足できる自分がいないか探し、
そして、自分の心と冷静に向き合い、自分の心を賢明に整える。
そんな人間になれれば、自分の満足度を上げることができるかもしれない。

ただ、私が、そういう人間になるには、まだ、しばらくの時間と修練が必要。
いや・・・一生かかっても、そうなれない可能性も充分にある。
だけど、この隙間だらけの心を持つ者は、それを埋める何かを探すくらいのことはできるかもしれない。

とにもかくにも、気分が優れないときは汗をかくにかぎる。
我武者羅に、無心で、ひたむきに、目の前の事象にあたるにかぎる。
重作業に従事すれば身体は重くなるけど、その分、心の荷は軽くなるような気がする。
汚仕事に従事すれば身体は汚れるけど、その分、心の垢はとれるような気がする。

クサクサした気分を持て余している私は、この重苦しい生業が生みだす“きれいごと”という名の真実を心にかき集めて、その隙間を埋めようとしているのである。


公開コメント版

特殊清掃についてのお問い合わせは
特殊清掃プロセンター
0120-74-4949
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世のため人のため?

2006-08-28 08:24:56 | ボランティア
「人の不幸につけ込んで金儲けをしているような気がする」
昔、後輩スタッフからこう相談されたことがある。
「警察だって、消防だって、医者だって、宗教家だってタダで働いている訳じゃない」
「何でも無償でやることが正しいことか?」
「死体業に先入観を持つのは世間に任せておけばいい」
と、私は彼の悩みを掃いのけた。

「この仕事って、値段があってないようなものでしょ」
ある依頼者から皮肉られたことがある。
「どんな商品やサービスの価格も、コスト+利益で構成されていることに変わりはないですよ」
「○○さん(依頼者の名前)の仕事は利益を取らないでやっているのですか?」
「申し訳ありませんが、ボランティアでやってる訳ではありませんので」
と、私は依頼者の皮肉を一蹴した。

私の仕事は人の死に直接関わるものなので、それを知った人からは良くも悪くも一目置かれる。
私は、死体に群がるハイエナ、いやハエ?・・・ウジかも?
世間からそう見られても仕方がない面があるし、自分の中にも葛藤がないわけじゃない。

仕事に疲れを覚えたりストレスを感じることは誰だってあると思う。
そして、あまりに疲れたりストレスを抱えたりすると、何のために仕事をしているのかが分からなくなることがある。
生きるために仕事をしているのではなく、仕事をするために生きているような日が続くと、気分も滅入ってくる。

そんな時は私も「何のために仕事をやっているのだろう」と思うことがある。
世のため人のため?
とんでもない!
そんな考えは微塵もない!
私は、金のため自分のために仕事をしている。
生きるために仕事をしている。
「仕事のやりがい」「仕事による自己研鑽」「仕事を通じての社会貢献」なんて二次的・三次的なオマケみたいなもの。
まずは、自分が生きるためだ。

「世のため人のため」なんて、たまには格好をつけてみたいけど、とてもそんな大ウソはつけない。
好意でやる+αの作業も所詮は仕事の範疇。
ビジネスとして成り立たなくなるまでは踏み込まない打算がある。
正直なところ、依頼者に満足してもらい、喜んでもらうことは一次的な目的ではない。
大きな成果・やり甲斐ではあるが結果でしかない。

無償・有償にこだわらず世のため人のために仕事ができる人、または、そういう心構えで仕事をしている人は立派だと思う。
そういうことが苦もなくできる人が羨ましい。
「そんな人間になれたらいいな」と思っても、結局は、自分が一番かわいいし自分が一番大事。
そして、楽をしたい。
私は、どうしても、元々の自分を捨てる(変える)ことができない。

自分のためだから耐えられる。
自分のためだから頑張れる。
好意の作業も善意の仕事も、回り回って結局は自分のためにやっていること。
決して、世のため人のためじゃない。
私は、そんなケチな男。

でも、生きているうちに一度くらいは人のために何かをしてみたい。
人のために何かができるような人間になってみたい。
偽善も打算もなく、純粋に。

せっかく人間に生まれて来たんだから。
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