特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

働くおじさん

2010-08-31 18:39:31 | Weblog
相変わらず猛暑が続いてはいるけど、8月も今日で終わり。
子供達は、夏休みを満喫したことだろう。
来春の受験やその先を見据えて、勉強漬だった子もいただろうけど。
大人の場合は、夏休みがとれた人もいれば、とれなかった人もいそう。
また、“夏休み”とは名ばかりで、家族サービスや所用のため、仕事のときよりも疲れを抱えた人もいそうだ。
電車の座席、車の運転席、公園のベンチetc・・・疲れきっているおじさん達の姿が、あちらこちらで見受けられる。
そして、その姿には、頷けるものがある。

日本人(大人)の夏休みは、平均して4日~7日だったらしい。
欧米では、一ヵ月の長期休暇も珍しくないとのことだが、そんなに休んで社会や経済が成り立つことや国際競争力に悪影響がでないことが不思議だ。
そこまでいくと、“羨ましい”を通り越して、危機感さえ覚える。
自分がそんなに休んだら、怠け心に歯止めがかからなくなって人間がダメになるに決まっているから。

昨年の私は、6月~9月の間、休みはほとんどとらなかった。
それはそれで収穫はあったものの、何だか、働くことに意地になっていたようにも思える。
しかし、今年は、そのスタンスはやめた。
あることに気づいて、休めるときは休むことにしたのだ。
結果、6月は2日、7月は5日、8月は2日の休みをとった。
そして、色んなところに出掛けて、違う時間を美味しく味わった。

前にも書いた通り、例年になく、この夏は朝欝が深刻。
したがって、休暇明けの朝欝は重いかと思いきや、意外とそうではなかった。
仕事に行くのが億劫ではあったけど、“頑張ろう”という気持ちの方が勝り朝欝を抑えてくれた。
これは、自分でも意外だった。
多分、自分の力が及ばないところで、感性や感覚が変えられているのだと思う。
これが、人としての成長や生きるうえでの力が増すことにつながっていれば、なによりである。


「大変なお仕事ですね」
現場で会う依頼者や関係者から、よくそう言われる。
それは、言葉としては、労いの意味を持つ。
ただ、その言葉の裏に、私の仕事を奇異に思う心情が見え隠れすることが珍しくない。
実のところ、言葉や態度にださないだけで、私のことを奇異に思い、気持ち悪く感じる人は少なくないと思う。
単なる嫌悪感や不快感・恐怖感とは違う、気持ち悪さを感じるのだろうと思う。
私は、そんな感覚を抱く人達を批難するつもりはない。
また、批難できるものでもない。
そう感じ・そう思ってしまうことは、仕方がないことだから。
そして、立場が換われば、私だって同じ感情を抱くだろうから。
とにかく、その辺のことは、あまり気にしないようにしている。
たまに、腹に収めきれず、仲間に愚痴ってしまうことはあるけど。

確かに、この仕事は楽ではない。大変なことは多い。疲れも重い。
しかし、大変なのは、私の仕事ばかりではない。
そして、疲れているのも私だけではない。
仕事なんて、もともと大変なもの。そして、疲れるもの。
その種類や重さが違うだけで、人それぞれが重荷を背負っている。
その中で、皆が頑張っているわけだ。

街の人々を見れば、それが一目瞭然。
多くの人が、色んな職種・色んな職業で奮闘している。
自分のため・家族のため、生活のため・生きるため、一生懸命働いている。
そしてまた、多くの人が、疲れている。
労働に、人間関係に、生活に・・・
単独行動が多いせいか、私は、労苦しているのは自分一人のように錯覚してしまうことある。
また、いらぬ思い煩いが多いため、生きることにしばしば疲れてしまう。
だから、ついつい、人の不幸や苦悩に目を向け、それを自分への励ましや癒しにしてしまう。
低次元の誤魔化しでしかないとわかりつつも、この思考性は古くから抜けない。
この仕事を始める動機ともなった、私の悪い本性だ。


「いつかは、陽の目が見れますよ」
「いつかは、いいことがありますよ」
等と、私が何を言ったわけでもないのに、依頼者や関係者に励まされることもある。
他人から見ると、私は“不幸な男”に映るらしく、そんな言葉をかけてくる。
どうも、私のやっている仕事が、私を不幸者に映してしまうよう。
人前でハツラツとしていても、人にそう映ってしまうことが、何だかおかしく思える。

私は、不幸な男だろうか・・・
“世界一の幸せ者だ”と威張れはしないけど、自分では、結構な幸せ者だと自負(勘違い?)している。
だって、幸せに思えること・幸せに感じられることは、身の回りにたくさんあるから。
過酷だろうが、汚かろうが、こうして働けることも幸せの一つ。
仕事ができなくて苦しむより、仕事が過酷で苦しむ方がずっといいと思っている。

大学生・高校生の就職率が、悪かった昨年にも増して深刻な状況にあるという。
何もかも時代や時勢のせいにばかりするような人に未来は開けないような気はするけど、
それを勘案しても、今の学生は気の毒だ。
仕事に就きたいのに就けない、仕事がしたいのにできない・・・
これは、学生に限ったことではなく、その苦境にある人は、世の中に多くいる。
そして、その苦しみが大きいものであることは、容易に推察できる。
私は、それが、本人の生活だけでなく命まで脅かす要因になること、そしてまた、関係者の人生を狂わせてしまうのを、幾度も目の当たりにしてきているから。


私は、多くの人が嫌悪し恐怖する、腐乱死体現場の片付け屋。
特別な目で見られることもやむなしか。
多くはないけど、私に聞こえていないつもりで交わされる心無い会話が聞こえてくるときがある。
態度や言動の露骨さに、反応に困ることもある。
私のことを、“普通の仕事に就けない特別な事情がある”“奇人・変人”“変わった趣味・志向がある”等と思う人も少なくないだろう。
そんな境遇に、悲しく・悔しい思いをすることがある。
それでも、この労苦は、感謝と喜びに値するものと思っている。

この仕事は、“将来の夢”だったわけではない(っていうか、“職業”としてなかった)。
それどころか、将来、こんな仕事に就くことになるなんてことは、夢にも思っていなかった。
今だって、たいした志があるわけでもなく・・・まぁ・・・生きるために“なりゆき”でやっているわけで・・・
だから、誇れることなんて何もない。
ただ、自分でプライドを持ちたいのは、自分にこの仕事が自分に与えられたこと・続けることができたこと、そして、こうして続けることができていること。
更に、誰もが嫌がる腐敗汚物を、自分の中で人に昇華できるようになったこと。

しかし、それもこれも、根本的に、自分の力で成していることではないと思う。
私は、そこまで力と知恵がある人間ではないから・・・
とてつもなく、弱い人間だから・・・
それでも、こうして命がある。人生を歩いている。
その不可解な幸せを想うと涙がでる。
人前で涙を流すことは少ないけど、一人の特掃時・一人の車中etc・・・涙が流れて仕方がないときがある。
そして、その涙もまた、私を生かし、生きていることを証しているのだろう。


死体業に就いたときは、自他共に認める“お兄さん”だった私。
それが、それから18年経つ今では、自他共に認めざるをえない“おじさん”になっている。
頭と精神はまだしばらくもちそうだけど、体力がどこまでもつものか・・・
体力の限界が近づいていることを、ヒシヒシと感じさせられている。
今夏の猛暑を差し引いても、身体能力が衰えているのが明らかにわかる。
そして、それが、将来への不安感となって、いつも私に重くのしかかっている。

「俺、一生、この仕事かなぁ・・・」
自分に訊いてみた。
「“違う!”とは言えないよな・・・」
答えたくなかったが、そう答えるしかなかった。
「やっぱり・・・そうか・・・」
自分でもわかっていた。
「フフ・・・」
苦笑いするしかなかった。
「とにかく、今を頑張るしかない!」
そう、自分に言いきかせた。


思いつくがまま、とりとめのないことを書き連ねたけど、とにもかくにも、“働くおじさん”は今夜もアルコール燃料を注入して、明日もガンバルつもりなのである。





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涙のニオイと涙色の汗

2010-08-14 17:29:40 | Weblog
夏休みをとっている人が多いのだろうか・・・
全般的に、首都高も空き気味で、車での移動が楽だ。
ただ、東京から放射する線は、朝には下りが、夕には上りが渋滞する。
これには注意が必要。
車でエアコンを使わない私の場合、長時間の渋滞は身体への負担が大きいから。

そう・・・私は、猛暑の中でも、一人で車に乗っているときは、ほとんどエアコンを使わない。
窓を全開に、湯(もとは水)をチビチビ補給しながら汗をカキカキ乗っている。
それでも、走っていると風があり、体感温度は少しは低く感じられる。
ただ、やはり、信号待ちや渋滞時はキツイ。
車中には熱気がこもるし、灼熱の太陽光に身を焦がされるから。
だから、信号待ちや街中のミニ渋滞は諦めるにしても、高速道路の大渋滞は避けて通りたいのである。

しかし、車中の暑さなんて、現場の暑さに比べたらまだ可愛いもの。
亡くなった人に失礼な言い方になるけど、腐乱死体現場はホントに臭い、汚い。
そして、この時季は暑い!のだ。
エアコンも使えず、窓も開けられずに作業することはザラにあるわけで・・・
あまりの暑さに、背中に悪寒が走り、皮膚に鳥肌が立ち、泣きが入りそうになることもある。

そんな現場では、熱中症に注意が必要。
作業していると、急に心臓がバクバクし始めるときがあるが、多分、これが黄色信号なのだろうと思う。
作業効率が落ちるし、おまけに、やる気まで落ちてくるから、頻繁に休憩をとるのは避けたいところだが、さすがに、現場で倒れたら洒落にならない。
体調を崩したら、周囲に大迷惑をかけてしまう。
ましてや、現場で命でも落とそうものなら・・・想像するだけで寒気がする。
だから、身体能力を超えた無理はしないようにしている。


ある日の午後、現地調査の依頼が入った。
電話をかけてきたのは故人の母親を名乗る女性。
緊急ではないながらも、その要請は早めの対応。
私はその日の予定を変更して、この現場を優先することにした。

女性は、携帯電話を持っておらず。
また、高齢のゆえに足腰が弱くなっていた。
更に、息子の孤独死による精神疲労も抱え、現場まで一人で行くことが困難であることは、想像に難くなく・・・
私は、現地でうまく待ち合わせることができなかったときのことを考え、とりあえず女性宅に向かうことにした。

到着した女性宅は、古い一軒家。
その外観に生活感はなく・・・
ひっそりと静まり返っており・・・
そこからは、女性が独居の身であることが伺えた。

インターフォンを鳴らすと、女性はすぐに応答。
準備万端で私が来るのを待っていたらしく、玄関ドアは間髪入れずに開いた。
そして、小柄な老年女性が、杖を片手に歩み出てきた。
私は、女性を介助しながら自分の車に乗せ、現場に向かって車を出発させた。

亡くなったのは女性の息子。
年齢は、40代。
体調を崩していたらしく、晩年は無職。
死因までは訊かなかったが、経験上から想像できるものがあった。

女性は、遺体を確認しておらず。
また、室内も見ておらず。
それが、警察からの忠告だった。
そのせいか、女性は家財の処分ばかりを気にして、ニオイや汚れのことは深刻には考えていなかった。

現場は、女性宅から車で15分程度のところにあるアパート。
目的の部屋は、二階の一室。
玄関に近づくまでもなく、その共有廊下には異臭が漂っていた。
そして、風向きによって、それは鼻を突くほどのものとなっていた。

このニオイは、遺体が発見される何日も前から漂っていた。
しかし、近隣住民は、異臭を感知するのみ。
異変を察知することはなかった。
結果、発見時には、遺体も部屋も深刻な状態に陥っていたのだった。

しかし、これはやむを得ないこと。
一般の人は、腐乱死体臭を嗅ぎ分けられるはずもないし、その状況も察知するほどの想像力も持ち合わせていないから。
そして、この想像力の限界が、遺体の発見を遅らせ、事態を深刻化させる一因にもなっているとしても、責められるべき人はいない。
本当に、仕方のないことなのである。

女性は、そのニオイに驚きの表情をみせながらも、半信半疑の様子。
そして、とりあえず部屋を見ることを希望。
私は、それに反対するつもりはなかったのだが、室内には玄関前で感じる何倍もの異臭が充満していることや、グロテスクな汚染があることを説明。
後の人生に後悔が残らないよう、女性に冷静な判断を促した。
しかし、女性は、それによって母親としての覚悟を決めたようで、結局、その意思を変えなかった。

玄関ドアを開けると、異臭熱気が噴出。
しかし、いくら暑くて臭いからと言っても、ドアを長く開けておくわけにはいかない。
悪臭やハエが近所の苦情を呼び、騒ぎが大きくなる可能性があるからだ。
そのため、私は急いで先に入り、それから女性を中へ促し、急いでドアを閉めた。

室内には、高濃度の悪臭と無数のウジ・ハエ。
更に、ベッドとその脇の床には日常にはない汚染。
その汚染痕からは、人型が見て取れ・・・
女性は、ハンカチを鼻口にあて、思いつめたようにそこ一点を凝視。
そして、呆然と目を見開いたまま、無言の涙を流した。

我々が部屋にいた時間は、ほんの数分。
しかし、服や髪には、濃い腐乱臭が付着。
腐乱臭をまとった二人が乗る帰りの車中は、異臭が充満。
外は夕刻になり、いくらか涼しさが感じられるようになったため、私達は、窓を開けて走ることにした。

「それにしても、大変なお仕事ですね・・・」
「まぁ・・・身体は、いつも、こんなニオイになっちゃいますね・・・」
「何とも言えない嫌なニオイですね・・・」
「えぇ・・・」
「こんなに臭うものなんですか?」
「そうですね・・・だいたいこんな感じが多いです・・・」
「悲しいものですね・・・」
「・・・」

「長くやっておられるんですか?」
「えぇ・・・○○年になります」
「偉いですね・・・」
「でも、なりゆきでやってるだけですから・・・」
「それでも、偉いですよ・・・」
「恐縮です・・・」
「辛いことも多いんじゃないですか?」
「それは、まぁ・・・そこそこは・・・」

「でも、頑張って下さいね」
「はい・・・頑張ります」
「お母さんは、ご健在でいらっしゃるの?」
「はい・・・病気はありますけど」
「子供が苦しんでいるのを見るのも辛いですけど、先に死なれるのはもっと辛いんですから、身体を大事にしてくださいね」
「はい・・・」
「息子にも、ホント、生きていてほしかったですよ・・・」
「・・・」

子に先に逝かれた女性の悲しみは、いかばかりか・・・
しかも、こんなかたちで・・・
全部をわかったようなことを書いてはいるけど、私ごときが想像できる痛みは、ほんの一部・・・
私は、横に座る女性の顔を見ることができなかったが、そこに涙のニオイを感じ、その後の作業で涙色の汗を流したのだった。




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