電脳筆写『 心超臨界 』

真の発見の旅は新しい景色を求めることではなく
新しい視野を持つことにある
( マルセル・プルースト )

生きるための杖ことば 《 清風明月――松原泰道 》

2024-10-19 | 03-自己・信念・努力
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清風明月ともに宇宙のたたずまいや風景をいうのではない。いずれも仏心・さとりであるから、それらは外界のことではなく、自分の心中に見えられているとする。ただこの事実に気づかないだけだと教える。法然上人(1212年没)の有名な歌「月かげのいたらぬ里はなけれども 眺むる人のこころにぞすむ」に、誰もの心中に仏心(仏性(ぶっしょう)とも。仏となる可能性)が秘められていることを、わかりやすく示されている。


◆清風明月(せいふうめいげつ)

『生きるための杖ことば』
( 松原泰道、全国青少年教化協議会 (2001/04)、p218 )

一般に、自分の胸中や心中にやましいことのないのを“清風明月”といっているようだが、本来は煩悩を生じない清らかな状態を「清風明月」という。転じて、何ごとにも執(とら)われない悟境(ごきょう)を「清風明月」という。

しかし、たといさとりであっても、さとりに引っかかっていては真実のさとりといわれない。さとりを忘れなければいけないから、「清風払明月 明月払清風(清風、明月を払い、明月、清風を払う)」ともいう。清風明月といっても、清風と明月との二本立てに考えてはならない。「清風と明月」とは別のものではない。さとりの心情の表象であるから、明月といっても清風といってもいい、とにかく二つに分けてはならない。ゆえに禅者は「清風明月共(に)一家」と言ったりする。

さらに、清風明月ともに宇宙のたたずまいや風景をいうのではない。いずれも仏心・さとりであるから、それらは外界のことではなく、自分の心中に見えられているとする。ただこの事実に気づかないだけだと教える。

法然上人(1212年没)の有名な歌「月かげのいたらぬ里はなけれども 眺むる人のこころにぞすむ」に、誰もの心中に仏心(仏性(ぶっしょう)とも。仏となる可能性)が秘められていることを、わかりやすく示されている。

「月かげ」は、月光に照らし出されたものの影ではなく、月の光そのものをうたう。月光は地上隈(くま)なく照らしている事実を「月かげのいたらぬ里はなけれども」と示す。下の二句の「眺むる人のこころにぞすむ」は、澄む・住むの二語にまたがる掛け言葉である。

月かげ即ち真理・教えの届かぬところはない。誰もの心中に仏性が住む、心が清澄になれば、月のかげ(教え)が自然に宿るであろうと――。

華厳経に「菩提(ぼだい=さとり)清涼の月、畢竟(ひっきょう)空(くう)に遊ぶ。衆生(迷える人びと)の心水(しんすい)清ければ、菩提の影、(衆生の心)中に現ず」とある。
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