電脳筆写『 心超臨界 』

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( 中国のことわざ )

日本史 古代編 《 なぜ、日本の後宮は「ハレム化」しなかったか――渡部昇一 》

2024-05-10 | 04-歴史・文化・社会
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面白いことには、皇后の身分制限のないところほど、男子禁制度が高かったようである。トルコやシナのハレムは有名であるが、日本の江戸の大奥も、男子禁制がかなり厳しかった。江戸の将軍は、誰にでも手をつけたわけであり、大奥のメンバーの身分も雑多であった。したがって、日本の後宮は、身分の明らかな者たちより成る、小ぢんまりしたもので、もちろん、宦官の必要もなかった。


『日本史から見た日本人 古代編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/04)、p239 )
3章 平安朝――女性文化の確立
――日本における「成熟社会」の典型は、ここにある
(1) 和歌に見る文化的洗練の達成

◆なぜ、日本の後宮は「ハレム化」しなかったか

このように強大な藤原氏さえも、皇位にだけは、孫を通じてのみしか、つまり外祖父としてしか関係できないとすれば、ほかに誰が皇位に手を出すことを考えるであろうか。日本の天皇はこれによって「裏返しのアンタッチャブル」、つまり「不可触貴民」になった。そしてこのパタンは、今日まで続いているのである。

したがって、政治的野心は武力によってでなく、娘の質によることになる。娘の質は、もちろん強さに関係なく、まったく才能と美貌に、特に前者によった。このため、世界に類のない女性文化が発生したのである。

日本の後宮に宦官(かんがん)がいなかったこと、また、皇后・皇妃などに残虐な人がいなかったことについては、すでに述べたが、前者については日本の男性の名誉であるし、後者については日本の女性の名誉である。男性が自己のシンボルまで切って出世欲を満たそうというのは、考えただけでもゾッとするし、権力を持った女性の残虐性というのは、それに劣らずいまわしい。

では日本では、どうしてこのような悪徳の発生を抑えることができたのであろうか。日本人だけが先天的に趣味がよかった、ということではなく、そういう悪を抑えるメカニズムがあったため、人間性が違う方向に発達していったものだと思う。

ではそのメカニズムはどのようなものであったかと言えば、私はまず、身分制度のことを考える。日本で皇妃になるには古来、厳しい身分の規制があった。つまり「女性の育ち」が、つねに大切であった。天皇や皇太子が、そこらの娘に目を奪われて宮廷に入れるという具合にはいかなかった。それは皇妃のみならず女官まで、地方の名家の出身者に限られていたのである。「どこの馬の骨かわからない女」が、愚かな皇帝の目にとまって宮廷に入って掻き回すことはありえなかった。素姓正しく、幼いときから宮廷向けに躾けられた女性たちに、嫉妬はあったろうが、シナやヨーロッパにあったような、途方もない悪女はいなかったのである。

素姓正しい女の世界であったため、その人たちを獣を飼うような発想法で処遇できないことははじめから明らかである。いつでも里帰りできるし、男性とも自由に会える。

つまり、一個の身分ある女性としての待遇を与えられていたので、「ハレムに飼われた牝獣」でなかった。

面白いことには、皇后の身分制限のないところほど、男子禁制度が高かったようである。トルコやシナのハレムは有名であるが、日本の江戸の大奥も、男子禁制がかなり厳しかった。江戸の将軍は、誰にでも手をつけたわけであり、大奥のメンバーの身分も雑多であった。

したがって、日本の後宮は、身分の明らかな者たちより成る、小ぢんまりしたもので、もちろん、宦官の必要もなかった。先に養老律令が唐の律令の3分の1の巻数に簡略化されているのも、こんなことに関係があるであろう。

このように、はじめから教養の雰囲気のあった日本の宮廷は、藤原時代の長い平和な時代に入るや、一挙に花を咲かせたのである。その見事さは、掛け値なしに東西にその比がない。
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