20年に及ぶブログ活動の集大成 → ★仏様の指
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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世の中でいちばん大切なものは家族と愛
( ジョン・ウッドン )
The most important thing in the world is family and love.
( John Wooden )
[ 致知随想 ]
◆子のために生き抜いた母――経営コンサルタント・大島肇
(『致知』 2008年10月号、p104 )
母親がわが子を殺害するといった痛ましい事件が後を絶たない日本。悲しいニュースを耳にするたびに私は何ともやり場のない気持ちに襲われます。と同時に決まって思い出すのは、戦後、5人の子を命懸けで守ってくれた母のことです。厳しい時代を生き抜いた一人の日本女性の姿を通して、人生に迷い、思い悩む人々に少しでも希望を与えられたらという願いを込め、母のお話をしたいと思います。
看護師だった母は戦前、陸軍病院の看護婦長として中国に渡り、貿易商である父と結婚。豊かで幸せな暮らしをしていました。しかしその生活は戦後、一変しました。父は脳溢血(のういっけつ)で突然他界し、母は3歳の私と10歳の姉、8歳の兄、5歳の姉、そして1歳にも満たない弟を連れ、追われるように日本に引き揚げなければならなくなったのです。
南京を経て上海まで数百キロの命懸けの逃避行。我が家で働いていた中国人乳母は「命が危ないから子どもは置いていけ。育ててあげるから」と勧めましたが、母は首を縦に振ることなく子どもたちの手を握り、幾多の苦難を乗り越え、日本へとたどり着きました。
母がもし、乳母の言葉に従っていたら、私も残留孤児となっていたかもしれません。それを思うと運命はまさに紙一重です。
帰国した私たちはまず、父が故郷の埼玉に建てていた家に行きました。ところが、戦後のどさくさでその家は人に占拠されていたのです。交渉するも埒(らち)が明かず、一家は路上生活者のような暮らしを強いられました。夜露をしのぐところもなく、物乞(ご)い同然の私たちを見かねた人が物置を貸してくれましたが、それでも生活の糧はなく、空腹を訴える子どもに満足な食べ物を与えられませんでした。
ある夜、母は寝ていた長女を起こして話しかけました。「お母さんはきょうまで一所懸命頑張ってきたけれど、これ以上生きていけない。みんなでお父さんの所に行こう」と。その片手には青酸カリがありました。万策尽き。精根尽きたのだと思います。すると、わずか10歳の姉が「寝ている弟や妹がかわいそう。私も働くから」と言ったというのです。母が生き抜く覚悟を決めたのは、姉のこの一言を聞いた時でした。
それからの母はこどもたちのためにまさに鬼になりました。夏も冬も同じ黒い上着に黒いズボンという作業服姿で一途(いちず)に働きました。靴磨き、日雇い労働、担ぎ屋など、男と同じ仕事でも、日銭を稼げる仕事なら何でも汗まみれになってやったといいます。
朝は子どもが起きる前に家を出て、夜遅く帰るという日々でしたが、躾(しつけ)は決して疎(おろそ)かにしませんでした。たまに悪さをすると鬼の形相で叱(しか)るのです。父親がいないため、悪の道にいかぬようにとの母の懸命の姿勢だったに違いありません。
一方、私が熱病にかかった時は、母は仕事に出かけず、付きっ切りで看病してくれ、当時高価だったバナナを食べさせてくれました。その時口にしたバナナのおいしさは、いまも鮮明に残っています。母の温かさを感じた幸せなひと時でした。
やがて一家は、露天などが立ち並ぶ、スラム街のような場所に一部屋を確保しました。生活は相変わらず苦しく、子どもたちもサーカスや見世物小屋が公園で開かれれば、行って落ちているものを拾い、パチンコ屋に入っては、また落ちているものを探すというように、毎日がひもじさとの闘いでした。
母が部屋の一隅に麻雀卓(まーじゃんたく)を置き、麻雀屋を始めたのは、このようなどん底生活が3年ほど続いた頃だったと思います。この店が大当たりし、その儲(もう)けを元手に小学校の前に土地を借り、掘っ立て小屋兼文房具店を始めたのです。私たちは仕入れた菓子を小分けする手伝いをし、褒美(ほうび)にクズ菓子をもらって食べました。
生活の基盤ができた頃、苦労人である母のもとには相談に訪れる人も増えてきました。また母の半生が新聞に紹介されたこともあって、その存在は少しずつ知られ始め、60代の頃に周囲に推されて鴻巣(こうのす)市の市会議員になりました。しかし、住民のために献身的に走り回っていた母も一期務めた頃、ついに病に倒れてしまいました。終戦直後から働き詰めで生きてきた無理が祟(たた)ったのです。
その後、なくなるまで10年寝たきりの生活でしたが、母は愚痴一つこぼしませんでした。その凛(りん)とした姿勢は、引き揚げて苦しい生活を送っている時から亡くなるまで一貫していました。いま思うと母には忍耐力、克己心、そして何より深い愛情があったのです。その死に物狂いの働きと深い愛情によって5人の子どもは一人も道を踏み外すことなく、成長することができたのだと思います。
親は子どもにとって最後のよりどころです。私もまた母の生き方をよりどころに、その背中を見て育ちました。私が学校を出て草創期に関わった町工場は、いまやエレクトロニクス分野で日本屈指の企業に成長しています。苦労を苦労と思わず、先の見えない時期を乗り越えられたのも、壮絶な人生を生きた母の背中を見て育ったことによるものと思います。
母は死ぬ間際、「これで天国のお父さんに報告できる。5人の子どもを一人も欠くことなく、育てたよ」と呟きました。亡き父に喜んでもらいたい。それが母の願いだったのです。母の言葉に背くことのないよう、これからも誠実に生きていきたいと誓っています。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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世の中でいちばん大切なものは家族と愛
( ジョン・ウッドン )
The most important thing in the world is family and love.
( John Wooden )
[ 致知随想 ]
◆子のために生き抜いた母――経営コンサルタント・大島肇
(『致知』 2008年10月号、p104 )
母親がわが子を殺害するといった痛ましい事件が後を絶たない日本。悲しいニュースを耳にするたびに私は何ともやり場のない気持ちに襲われます。と同時に決まって思い出すのは、戦後、5人の子を命懸けで守ってくれた母のことです。厳しい時代を生き抜いた一人の日本女性の姿を通して、人生に迷い、思い悩む人々に少しでも希望を与えられたらという願いを込め、母のお話をしたいと思います。
看護師だった母は戦前、陸軍病院の看護婦長として中国に渡り、貿易商である父と結婚。豊かで幸せな暮らしをしていました。しかしその生活は戦後、一変しました。父は脳溢血(のういっけつ)で突然他界し、母は3歳の私と10歳の姉、8歳の兄、5歳の姉、そして1歳にも満たない弟を連れ、追われるように日本に引き揚げなければならなくなったのです。
南京を経て上海まで数百キロの命懸けの逃避行。我が家で働いていた中国人乳母は「命が危ないから子どもは置いていけ。育ててあげるから」と勧めましたが、母は首を縦に振ることなく子どもたちの手を握り、幾多の苦難を乗り越え、日本へとたどり着きました。
母がもし、乳母の言葉に従っていたら、私も残留孤児となっていたかもしれません。それを思うと運命はまさに紙一重です。
帰国した私たちはまず、父が故郷の埼玉に建てていた家に行きました。ところが、戦後のどさくさでその家は人に占拠されていたのです。交渉するも埒(らち)が明かず、一家は路上生活者のような暮らしを強いられました。夜露をしのぐところもなく、物乞(ご)い同然の私たちを見かねた人が物置を貸してくれましたが、それでも生活の糧はなく、空腹を訴える子どもに満足な食べ物を与えられませんでした。
ある夜、母は寝ていた長女を起こして話しかけました。「お母さんはきょうまで一所懸命頑張ってきたけれど、これ以上生きていけない。みんなでお父さんの所に行こう」と。その片手には青酸カリがありました。万策尽き。精根尽きたのだと思います。すると、わずか10歳の姉が「寝ている弟や妹がかわいそう。私も働くから」と言ったというのです。母が生き抜く覚悟を決めたのは、姉のこの一言を聞いた時でした。
それからの母はこどもたちのためにまさに鬼になりました。夏も冬も同じ黒い上着に黒いズボンという作業服姿で一途(いちず)に働きました。靴磨き、日雇い労働、担ぎ屋など、男と同じ仕事でも、日銭を稼げる仕事なら何でも汗まみれになってやったといいます。
朝は子どもが起きる前に家を出て、夜遅く帰るという日々でしたが、躾(しつけ)は決して疎(おろそ)かにしませんでした。たまに悪さをすると鬼の形相で叱(しか)るのです。父親がいないため、悪の道にいかぬようにとの母の懸命の姿勢だったに違いありません。
一方、私が熱病にかかった時は、母は仕事に出かけず、付きっ切りで看病してくれ、当時高価だったバナナを食べさせてくれました。その時口にしたバナナのおいしさは、いまも鮮明に残っています。母の温かさを感じた幸せなひと時でした。
やがて一家は、露天などが立ち並ぶ、スラム街のような場所に一部屋を確保しました。生活は相変わらず苦しく、子どもたちもサーカスや見世物小屋が公園で開かれれば、行って落ちているものを拾い、パチンコ屋に入っては、また落ちているものを探すというように、毎日がひもじさとの闘いでした。
母が部屋の一隅に麻雀卓(まーじゃんたく)を置き、麻雀屋を始めたのは、このようなどん底生活が3年ほど続いた頃だったと思います。この店が大当たりし、その儲(もう)けを元手に小学校の前に土地を借り、掘っ立て小屋兼文房具店を始めたのです。私たちは仕入れた菓子を小分けする手伝いをし、褒美(ほうび)にクズ菓子をもらって食べました。
生活の基盤ができた頃、苦労人である母のもとには相談に訪れる人も増えてきました。また母の半生が新聞に紹介されたこともあって、その存在は少しずつ知られ始め、60代の頃に周囲に推されて鴻巣(こうのす)市の市会議員になりました。しかし、住民のために献身的に走り回っていた母も一期務めた頃、ついに病に倒れてしまいました。終戦直後から働き詰めで生きてきた無理が祟(たた)ったのです。
その後、なくなるまで10年寝たきりの生活でしたが、母は愚痴一つこぼしませんでした。その凛(りん)とした姿勢は、引き揚げて苦しい生活を送っている時から亡くなるまで一貫していました。いま思うと母には忍耐力、克己心、そして何より深い愛情があったのです。その死に物狂いの働きと深い愛情によって5人の子どもは一人も道を踏み外すことなく、成長することができたのだと思います。
親は子どもにとって最後のよりどころです。私もまた母の生き方をよりどころに、その背中を見て育ちました。私が学校を出て草創期に関わった町工場は、いまやエレクトロニクス分野で日本屈指の企業に成長しています。苦労を苦労と思わず、先の見えない時期を乗り越えられたのも、壮絶な人生を生きた母の背中を見て育ったことによるものと思います。
母は死ぬ間際、「これで天国のお父さんに報告できる。5人の子どもを一人も欠くことなく、育てたよ」と呟きました。亡き父に喜んでもらいたい。それが母の願いだったのです。母の言葉に背くことのないよう、これからも誠実に生きていきたいと誓っています。