電脳筆写『 心超臨界 』

人間の行動はその人の考えを表す最高の解説者
( ジョン・ロック )

活眼 活学 《 知識・見識・胆識――安岡正篤 》

2024-08-31 | 03-自己・信念・努力
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
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■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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見識が高ければ高いほど、低俗な人間は反対するでしょう。そこでこれを実行するためには、いろいろの反対、妨害等を断々乎々として排し実行する知識・見識を胆識と申します。つまり決断力・実行力を持った知識あるいは見識が胆識であります。これがないと、せっかく良い見識を持っておっても優柔不断に終わります。


『活眼 活学』
( 安岡正篤、PHP研究所 (1988/06)、p42 )
[1] 活眼・活学
2 時世と活学

◆知識・見識・胆識

私たちには、平生起こる出来事を処理する場合に、大事な原理、原則があります。これらについても既に古人の文献を皆さんに紹介する中に幾つも出て参りまして、そのたびに解説いたしましたが、こういう時勢になりますと、平生の因襲的・機械的な知識や教養では役に立ちません。

知識なんていうものは、そのもの自体では力になりません。知識は理論と結びつくわけですが、知識、理論というものは、腹に一物があればどうにでもなるもので、「泥棒にも三分の理」という有名な言葉があります。また理論には理論闘争というものがあって、例えばソ連と中共の理論闘争は有名です。同じマルクス・レーニン主義を標榜しながら、徹底的に両国は闘争したわけであります。理論というものは、胸に一物があればいくらでもつけられるもので、第三者の批判というものがあっても、これはあくまでも第三者でありますから、当人たちはさようなことを受けつけるものではありません。どこまでいってもかたがつきません。

これは国家でも、個人でも、家庭でも同じであります。家の中でも、父は父、母は母、倅(せがれ)は倅、娘は娘と、勝手に理屈を言い合っては治まるものではなく、もっと根本的に厳粛なものを持ってこなければ解決できるものでありません。つまり理論闘争というものでは所詮駄目であって、既に知識、理論の問題ではありません。

かつてこの講座で人間精神の大事な要素についてお話をいたしましたが、その中で知識より見識が必要だと申し述べました。知識と見識は似ておるようですが、これは全く違います。知識というものは、薄っぺらな大脳皮質の作用だけで得られます。学校へ入って講義を聞いておるだけでも、あるいは参考書を読むだけでも得ることができます。しかし、これは人間の信念とか行動力にはなりません。知識というものにもっと根本的なもの、もっと権威のあるものが加わりませんと、知識というものも役に立ちません。それは何かと言えば見識であります。

ある一つの問題についても、いろいろの知識をもった人が解答をします。しかし、それはあくまでも知識であります。しかし事に当たってこれを解決しようという時に、こうしよう、こうでなければならぬという判断は、人格、体験、あるいはそこから得た悟り等が内容となって出て参ります。これが見識であります。知識と見識とはこのように違うものです。

ところが、見識というものはそういう意味で難しいものですけれども、この見識だけではまだ駄目で、反対がどうしてもあります。つまり見識が高ければ高いほど、低俗な人間は反対するでしょう。そこでこれを実行するためには、いろいろの反対、妨害等を断々乎々として排し実行する知識・見識を胆識と申します。つまり決断力・実行力を持った知識あるいは見識が胆識であります。これがないと、せっかく良い見識を持っておっても優柔不断に終わります。

また平生どういう理想を持っているか、ただ漫然と過ごすのではなく、一つの理想あるいは目標を持っている、これを志を持つといいます。しかしそれは、一時的では駄目でありまして、永続性がなければなりませんので、これを操という言葉で表現いたします。また仕事をするに当たっては、きびきびした締めくくりも必要でありまして、これを節といい、前述の操と合わせて、節操という熟語ができております。つまり単なる知識人あるいは事務家では駄目でありまして、胆識があり、節操のある人物が出てこなければ、この難局は救われません。
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