電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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「船津工作」は塘沽停戦協定以来、日本側が北支で手にした権益のほとんどを放棄するという思い切った提案です。中国側からいってきた案を丸呑みするような妥協案でした。ですから中国としても文句のつけようのない、このうえもない好条件がそろっていました。日本側が要求したのは「満州国の黙認」と「反日運動の取り締まり」だけでしたから、これをもってすれば、両国の紛争はただちに止むとみられていました。
◆潰された「船津工作」
『国難の日本史』
( 藤岡信勝、ビジネス社 (2015/4/30)、p227 )
「通州事件」にもかかわらず、あくまでも中国との和平を希望していた日本は、昭和天皇みずから、近衛首相に「外交交渉で解決してはどうか」と、熱烈なご希望を伝えました。そこで、ふだんは仲のよくない陸軍省、海軍省、外務省が足並みをそろえ、1937年8月4日に「船津工作」を整えたのです。
ここに名前の出てきた船津辰一郎(ふなつたついちろう)という人は中国側からも信頼の厚い元外交官の実業家です。日本側はこの船津氏を通じて、蒋介石政府にきわめて寛大な和平を働きかけました。その骨子は次のとおりです。
①塘沽停戦協定(タンクーていせんきょうてい)(1933年)、梅津・何応欽(かおうきん)協定(35年)、土肥原(どいはら)・秦徳純協定(同)など、日本に有利な北支那に対する軍事協定をすべて解消する。
②非武装地帯を設ける。
③冀東(きとう)・冀察(きさつ)政権を解消し、南京政府の下に置く
④日本の駐屯軍の兵員は盧溝橋事件以前と同じ状況に戻す。
これは塘沽停戦協定以来、日本側が北支で手にした権益のほとんどを放棄するという思い切った提案です。中国側からいってきた案を丸呑みするような妥協案でした。ですから中国としても文句のつけようのない、このうえもない好条件がそろっていました。日本側が要求したのは「満州国の黙認」と「反日運動の取り締まり」だけでしたから、これをもってすれば、両国の紛争はただちに止むとみられていました。
ところが、その第一回会談が上海で行われることになっていた8月9日の当日、当の上海で「大山中尉虐殺事件」が起こったのです。海軍上海陸戦隊の大山勇夫(おおやまいさお)中尉(死後、大尉に昇進)が斎藤與蔵(よぞう)一等水兵の運転する車で市内を視察していたところ、中国側の保安隊に包囲され、機関銃で撃たれます。しかも頭を青竜刀で割られるというむごたらしい事件でした。車を運転していた斎藤一等水兵も運転席で多数の銃弾を浴びて死んでいます。
この事件の勃発によって、当日予定されていた日本と国民党の和平会議はご破算となり、その1週間後に第2次上海事変が起こるのです。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『日本を崩壊へ導く「選択制夫婦別姓」問題』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
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「船津工作」は塘沽停戦協定以来、日本側が北支で手にした権益のほとんどを放棄するという思い切った提案です。中国側からいってきた案を丸呑みするような妥協案でした。ですから中国としても文句のつけようのない、このうえもない好条件がそろっていました。日本側が要求したのは「満州国の黙認」と「反日運動の取り締まり」だけでしたから、これをもってすれば、両国の紛争はただちに止むとみられていました。
◆潰された「船津工作」
『国難の日本史』
( 藤岡信勝、ビジネス社 (2015/4/30)、p227 )
「通州事件」にもかかわらず、あくまでも中国との和平を希望していた日本は、昭和天皇みずから、近衛首相に「外交交渉で解決してはどうか」と、熱烈なご希望を伝えました。そこで、ふだんは仲のよくない陸軍省、海軍省、外務省が足並みをそろえ、1937年8月4日に「船津工作」を整えたのです。
ここに名前の出てきた船津辰一郎(ふなつたついちろう)という人は中国側からも信頼の厚い元外交官の実業家です。日本側はこの船津氏を通じて、蒋介石政府にきわめて寛大な和平を働きかけました。その骨子は次のとおりです。
①塘沽停戦協定(タンクーていせんきょうてい)(1933年)、梅津・何応欽(かおうきん)協定(35年)、土肥原(どいはら)・秦徳純協定(同)など、日本に有利な北支那に対する軍事協定をすべて解消する。
②非武装地帯を設ける。
③冀東(きとう)・冀察(きさつ)政権を解消し、南京政府の下に置く
④日本の駐屯軍の兵員は盧溝橋事件以前と同じ状況に戻す。
これは塘沽停戦協定以来、日本側が北支で手にした権益のほとんどを放棄するという思い切った提案です。中国側からいってきた案を丸呑みするような妥協案でした。ですから中国としても文句のつけようのない、このうえもない好条件がそろっていました。日本側が要求したのは「満州国の黙認」と「反日運動の取り締まり」だけでしたから、これをもってすれば、両国の紛争はただちに止むとみられていました。
ところが、その第一回会談が上海で行われることになっていた8月9日の当日、当の上海で「大山中尉虐殺事件」が起こったのです。海軍上海陸戦隊の大山勇夫(おおやまいさお)中尉(死後、大尉に昇進)が斎藤與蔵(よぞう)一等水兵の運転する車で市内を視察していたところ、中国側の保安隊に包囲され、機関銃で撃たれます。しかも頭を青竜刀で割られるというむごたらしい事件でした。車を運転していた斎藤一等水兵も運転席で多数の銃弾を浴びて死んでいます。
この事件の勃発によって、当日予定されていた日本と国民党の和平会議はご破算となり、その1週間後に第2次上海事変が起こるのです。