電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■緊急拡散『2024年8月発表:トランプ前大統領「米国を再び偉大にするための核心的公約20」』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
多くの偉人は、母の影響を強く受けて育つ。ユージン・スミスは、「カントリー・ドクター」や、「慈悲のひと シュバイツァー」、「水俣」を撮ったフォトジャーナリストとして広く知られている。そのユージンに写真の道をひらいたのは、アメリカ・インディアン、ポタワトミ族の血を引く母のネティだった。
◆飛行機よりも写真の魅力にとりつかれる――ユージン・スミス
『ユージン 楽園への歩み』http://tinyurl.com/mozqb34
( 土方正志、佑学社 (1993/04)、p5 )
ウィリアム・ユージン・スミスは、1918年12月30日、アメリカ合衆国カンザス州ウィチタで生まれました。
おとうさんのウィリアム・ヘンリー・スミスは小麦を商う裕福な商人、おかあさんのネティはしっかりしたひとで、アメリカ・インディアンの血をひいていました。おかあさんのおばあさんがポタワトミ族のインディアンだったのです。つまり、ユージンにもまた、インディアンの血が流れていたことになります。
ユージンに写真の道をひらいたのは、このお母さんのネティでした。ユージンの家には、おかあさんが使った器材や暗室の道具などがひととおりそろっていました。おかあさんには、自分がめざしたカメラマンへの道をむすこのユージンにうけついでほしい、という気持ちがありました。
でもユージンは、おとなになったら飛行機の設計家になろうと思っていました。
当時、飛行機は時代の最先端をいく乗り物でした。1903年にライト兄弟が初飛行を成功させたのち、第一次世界大戦で実戦に戦闘機が使われ、その威力に世界が注目していました。ちょうどユージンが生まれたころのことです。第一次世界大戦がおわると、戦闘機の操縦士たちはアメリカ各地で曲芸飛行を披露して歩き、子どもたちの人気を博していました。
また1927年には、アメリカの飛行家チャールズ・リンドバーグが大西洋無着陸横断飛行に成功、いちやくヒーローとなっていました。
ユージンも、飛行機にあこがれる少年のひとりでした。おまけにユージンの住むウィチタの町は航空産業のさかんなところでもありました。
飛行機の本や写真集をほしがるユージンに、おかあさんのネティは「そんなに飛行機がすきなら、自分で写真を撮ってみたら」とカメラをわたしました。そして自分で撮ったフィルムを現像し、このネガ・フィルムを印画紙に焼きつけて、紙焼きをつくることまで教えてくれました。ユージンは、暗室での焼きつけ作業にいろいろとくふうをこらすことによって、写真の仕上がりにさまざまな変化がえられることを知りました。
おかあさんのカメラをもって近所の飛行場に通いだしたユージンは、そこでひとりのカメラマンにであいました。彼の名前はフランク・ノエルといいました。『ウィチタ・イーグル』という、町の新聞社につとめるカメラマンでした。
ユージンは、フランクが撮影したみごとな飛行機の写真におどろきました。なんどか顔をあわせるうちに、ユージンはフランクに飛行機の写真をせがむようになりました。フランクは気前よく何枚かの写真をくれたばかりか、撮影を手伝わせてくれたり、いろいろな技術を教えてくれたりするようになりました。このフランクとのつきあいのなかで、ユージンは飛行機よりも写真の魅力にとりつかれていきました。
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■緊急拡散『2024年8月発表:トランプ前大統領「米国を再び偉大にするための核心的公約20」』
■『小樽龍宮神社「土方歳三慰霊祭祭文」全文
◆村上春樹著『騎士団長殺し』の〈南京城内民間人の死者数40万人は間違いで「34人」だった〉
■超拡散『日本の「月面着陸」をライヴ放送しないNHKの電波1本返却させよ◇この国会質疑を視聴しよう⁉️:https://youtube.com/watch?v=apyoi2KTMpA&si=I9x7DoDLgkcfESSc』
■超拡散『移民受入れを推進した安倍晋三総理の妄言』
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
多くの偉人は、母の影響を強く受けて育つ。ユージン・スミスは、「カントリー・ドクター」や、「慈悲のひと シュバイツァー」、「水俣」を撮ったフォトジャーナリストとして広く知られている。そのユージンに写真の道をひらいたのは、アメリカ・インディアン、ポタワトミ族の血を引く母のネティだった。
◆飛行機よりも写真の魅力にとりつかれる――ユージン・スミス
『ユージン 楽園への歩み』http://tinyurl.com/mozqb34
( 土方正志、佑学社 (1993/04)、p5 )
ウィリアム・ユージン・スミスは、1918年12月30日、アメリカ合衆国カンザス州ウィチタで生まれました。
おとうさんのウィリアム・ヘンリー・スミスは小麦を商う裕福な商人、おかあさんのネティはしっかりしたひとで、アメリカ・インディアンの血をひいていました。おかあさんのおばあさんがポタワトミ族のインディアンだったのです。つまり、ユージンにもまた、インディアンの血が流れていたことになります。
ユージンに写真の道をひらいたのは、このお母さんのネティでした。ユージンの家には、おかあさんが使った器材や暗室の道具などがひととおりそろっていました。おかあさんには、自分がめざしたカメラマンへの道をむすこのユージンにうけついでほしい、という気持ちがありました。
でもユージンは、おとなになったら飛行機の設計家になろうと思っていました。
当時、飛行機は時代の最先端をいく乗り物でした。1903年にライト兄弟が初飛行を成功させたのち、第一次世界大戦で実戦に戦闘機が使われ、その威力に世界が注目していました。ちょうどユージンが生まれたころのことです。第一次世界大戦がおわると、戦闘機の操縦士たちはアメリカ各地で曲芸飛行を披露して歩き、子どもたちの人気を博していました。
また1927年には、アメリカの飛行家チャールズ・リンドバーグが大西洋無着陸横断飛行に成功、いちやくヒーローとなっていました。
ユージンも、飛行機にあこがれる少年のひとりでした。おまけにユージンの住むウィチタの町は航空産業のさかんなところでもありました。
飛行機の本や写真集をほしがるユージンに、おかあさんのネティは「そんなに飛行機がすきなら、自分で写真を撮ってみたら」とカメラをわたしました。そして自分で撮ったフィルムを現像し、このネガ・フィルムを印画紙に焼きつけて、紙焼きをつくることまで教えてくれました。ユージンは、暗室での焼きつけ作業にいろいろとくふうをこらすことによって、写真の仕上がりにさまざまな変化がえられることを知りました。
おかあさんのカメラをもって近所の飛行場に通いだしたユージンは、そこでひとりのカメラマンにであいました。彼の名前はフランク・ノエルといいました。『ウィチタ・イーグル』という、町の新聞社につとめるカメラマンでした。
ユージンは、フランクが撮影したみごとな飛行機の写真におどろきました。なんどか顔をあわせるうちに、ユージンはフランクに飛行機の写真をせがむようになりました。フランクは気前よく何枚かの写真をくれたばかりか、撮影を手伝わせてくれたり、いろいろな技術を教えてくれたりするようになりました。このフランクとのつきあいのなかで、ユージンは飛行機よりも写真の魅力にとりつかれていきました。