電脳筆写『 心超臨界 』

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ドクター・スース

禅の説く生きがいというのは、少しでも人様のお役に立つこと――松原泰道禅師

2024-05-12 | 03-自己・信念・努力
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「禅は人々の脚跟下(きゃっこんか)にあり」といいます。遠いところではなく、自分の足元、いまここに禅はあるのです。禅といえば何か特別なものと考えてしまいがちですが、そうではありません。いま、この場で、何をすべきかを問うものです。お茶を飲む時には、ただお茶を飲むことに自分の心を統一していく。履物を脱ぐ時には、履物をちゃんと揃(そろ)えて脱ぐ。日常生活のその場、その場が禅であり、いま自分は何をどうすべきか、いつもこのように自分を見ていくのです。


◎禅の説く生きがいというのは
 少しでも人様のお役に立つこと――松原泰道禅師

[巻頭の言葉]看脚下
南無の会会長・松原泰道
「致知」2009年2月号 )

◆日常のその場、
 その場が禅

禅に「看脚下(かんきゃっか)」という語句があります。11世紀、中国は宋(そう)の時代の禅僧・五祖法演(ごそほうえん)禅師の有名なことばです。

文字通りに捉(とら)えれば自分の足元を看(み)よという意味になります。しかし、仏教、特に禅の思想はすべて、それを象徴するものに置き換えて表現されるため、その語句が何を象徴しているのかを理解しなければ、真意を摑(つか)むことができません。

この禅語は、法演禅師がある夜、三人の弟子を伴って歩いている時に生まれた語句です。途中、突然風に吹かれて手にしていた灯火が消えてしまいます。いまのように明るい照明のない時代ですので、辺りは一瞬にして真っ暗になります。こういうちょっとしたハプニングを捉えて、禅の教育が始まるのです。

法演禅師が弟子たちに問います。

「一転語(いってんご)を下(くだ)せ」
(自己の悟りの心境を表す語句を述べよ)

これに対して、三人の弟子がそれぞれにこたえるのですが、その中で「看脚下」という仏果(ぶっか)(後の『碧眼録(へきがんろく)』の完成者)の答えが法演禅師の心に適(かな)ったのです。

灯火が消えた真っ暗闇では、あらぬものを想像して右往左往し、かえって道を見失ってしまいます。そんな時は、脚下を看るという当たり前のことをしっかり行うことが大切です。

「禅は人々の脚跟下(きゃっこんか)にあり」といいます。遠いところではなく、自分の足元、いまここに禅はあるのです。禅といえば何か特別なものと考えてしまいがちですが、そうではありません。いま、この場で、何をすべきかを問うものです。

お茶を飲む時には、ただお茶を飲むことに自分の心を統一していく。履物を脱ぐ時には、履物をちゃんと揃(そろ)えて脱ぐ。日常生活のその場、その場が禅であり、いま自分は何をどうすべきか、いつもこのように自分を見ていくのです。

これをぜひ、仕事の上でも実践していただきたいと思います。机の上の電話が鳴ったらパッと取る。誰かが取るだろうなどと躊躇(ちゅうちょ)せず、鳴ったらサッと取る。その隙(すき)のない状態が看脚下です。

別の言い方をすれば、いまここで自分がすべきことは何か、と常に自問自答していくことです。そうすれば、他に気を取られながらではなく、本気になってそれをやっていくのです。失敗も少なくなります。


◆すべてのものには
 役割がある

仏教には仏心(ぶっしん)、仏性(ぶっしょう)という言葉があります。いまの言葉に置き換えれば、「万物をして、そのものをそのもたらしめる根源的な心」と言えるでしょう。つまり機能、働きと言い換えることができると思います。

例えば、1枚のティッシュペーパーにも仏心があります。これはつまり、ティッシュペーパーでなければならない機能を持っているということです。電卓がどんなに便利だからといって、こぼれたお茶を拭(ふ)くことはできません。柔らかい紙だからこそ拭くことができます。仏教はそこを捉えて、1枚のティッシュペーパーにも仏様が宿っていると説くわけです。

すべてのものには固有の役割があります。ものがそうですから、人間一人ひとりにおいてもちろん同じことが言えます。

禅の説く生きがいというのは、少しでも人様のお役に立つことであり、そのことを通して自分の人生、他人の人生を豊かにしていくことです。

自分に与えられた役割を自覚して、自分のための自利(じり)と、他人のための利他(りた)とが一つになっていくような仕事、人生を、ぜひ目指していきたいものです。
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