植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

三国志時代の州の遷移2(三国時代初頭)

2011年07月06日 21時23分25秒 | ゲームシステム
 次の地図は書籍などであまり見ない地図かと思います。一番特徴的なのは涼州が分割されて、西側(左)が「雍州」となっていることです。
 194年に涼州の西側4郡を雍州とすると言う通達が出ています。4郡とは敦煌・酒泉・張掖・武威です。こちらが雍州で、安定や隴西・金城・武都・漢陽などはそのまま涼州です。このお達しは西側4郡が異民族が跋扈して漢民族の支配が及ばなくなったので、及ばなくなった地域専用に刺史を派遣して、その地を統治しようとしたためと言われていますが、194年と言うと李カク政権の頃で、ちょうど隴西や天水郡を勢力範囲とする馬騰が反乱を起こしたときなので、勢力を弱めたり、朝廷の支配を強めるための対策だったのかもしれません。
 
 次に并州の領域が半分になっています。朔方を中心とした黄河を挟んだ西側のオルドス地方は漢の初期には并州刺史とは別にこの地を統括する為に朔方刺史が置かれましたが、後漢末には漢の支配がまったく及んでいなかった為です。正式にこの地方である朔方・上党・五原・雲中・定襄の各郡が破棄されるのは曹操の時代の215年になります。
 同様に涼州の北地郡も大半が漢の支配が及ばなくなっており、ほんの南の地域だけが勢力範囲でした。こちらは北側が正式に破棄された記述は見つけられなかったのですが、地図をみると破棄されたように扱われています。
 サクサク三国志では、このオルドス地方は朔方としてショートカットの道としました。

 あとは幽州の東側の遼東は公孫氏が三国とは別に支配し続け、益州の南の南中(雲南)は劉焉・劉璋の支配が及んでいない地域でした。また、交州も士燮が支配して独立国家を形成していました。この辺境の地域は一応、漢の版図内ですが、三国時代の初頭は中央の群雄割拠とは無縁の状態だった為、この地域がゲームの地図上から外されていることも多いです(逆に入っていることもありますが…)。
 それぞれ後年、遼東は司馬懿がこの地を支配していた公孫淵を滅ぼした238年に魏に組み込まれ、南中は、諸葛亮が孟獲を下してこの地を平定した225年に蜀に組み込まれ、交州は226年に士燮が病死した際に、呉の支配が強まり、それに反発した息子の士徽を呉の将軍 呂岱が鎮圧して以降 呉に組み込まれました。

三国志時代の州の遷移1(後漢)
三国志時代の州の遷移2(三国時代初頭)
三国志時代の州の遷移3(三国時代末)
QLOOKアクセス解析
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 植民地戦争 Ver2.0のテストプ... | トップ | EVEN(カードゲーム)<ゲー... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ゲームシステム」カテゴリの最新記事