植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

サクサク三国志:袁術

2011年02月26日 09時33分12秒 | ゲームシステム
所属:独立
年齢:約46歳(200年の時 ※45歳で死亡)

 三公の家柄と言われる汝南袁氏の御曹司。袁紹は異母兄で伯父の養子となった為、従兄でもあると言う間柄です。若いときは仲間達と義侠心ある行いをしていましたが、後に改めて仕官するようになります。
 宦官が何進を殺すと、袁紹と共に宮中に押し入って、宦官達を切り殺しまくります。その後、董卓が朝廷を牛耳ると、董卓から後将軍位を貰いますが害が及びそうなり、荊州南陽に逃れます。そこで兵糧を与える条件で孫堅に董卓を攻撃を仕掛けさせます。董卓を洛陽から追い払うと、次は豫州の支配権を巡って袁紹と争います。これによって各地の群雄は袁術派、袁紹派に分かれるようになります。袁術派となったのが孫堅、公孫サン、陶謙。袁紹派となったのが曹操、劉表などです。
 豫州の支配権は公孫サンの弟公孫越が戦死するも、袁術側が勝利を収めます。しかし、その後劉表を攻めさせた孫堅軍は孫堅の死により敗退。翌年、袁術は配下の武将を使って曹操を打つべくエン州に攻め入りますが、その隙を劉表に付かれ南陽を追われます。
 袁術は揚州に移動し、寿春を攻め落として今度は寿春を拠点として孫堅の遺児 孫策を使って揚州の各地を攻めさせ、支配地域を広げます。
 徐州の劉備が朝廷(曹操)の勅により袁術の討伐に動くと、劉備の客将として徐州に残る呂布に兵糧を与える条件で、劉備の背後を突くように依頼、これによって呂布は劉備の本拠地 下ヒを占領した為、劉備は撤退せざる得なくなります。袁術はこのドサクサに徐州の一部を剥ぎ取って自領に組み入れています。
 197年袁術は、孫策から得た玉璽を使って皇帝の即位を宣言しますが、曹操の元に後漢の皇帝が存続していた為、この即位は誰も認めず、配下の孫策も袁術を諌める書状を送り、以後は自立してしまいます。 
 その後、袁術は呂布と約束した兵糧を出さなかった為に関係が悪化します。これに対して袁術は自身の息子と呂布との娘を婚姻することで同盟を行おうとします。これは陳珪・陳登によって阻まれ、これに怒って軍隊を派遣しますが、これも陳珪の離間の策によって楊奉が寝返った為に敗退してしまいます。
 さらに曹操が進軍してくるとこれを迎え討たせますがこれにも敗退、また地盤の寿春でも悪政がたたって維持できなくなり、寿春を捨てて元部下を頼ろうとするも断られ、袁紹を頼ろうとする最中に病死します。その死に様は蜂蜜入りの飲み物を所望しますが、得ることが出来ず「袁術ともあろうものが、こんなざまになったか!」と怒鳴り2リットルも吐血して死んだとあります。
 袁術は豫州の汝南出身で、ここには荀イクや、郭嘉、許攸など多くの名士が居ましたがその殆どが袁紹、そして後に曹操を君主と仰いでいます。一方袁術は変わりに、楊奉などの放浪する武将を軍隊ごと受け入れています。これによって袁紹と互角に渡り合えるほどの兵力を保持しますが、それらを維持する為に南陽や、寿春だけでは養いきれず、結果住民から搾取することとなりました。

 統率は自ら軍を率いることも無ければ、軍を率いることは苦手と書かれているため1。武力は若いときに剣を振っていたので2、政治は拠点とした南陽や、寿春から搾取するだけで内政らしいことを行っていないので1、知力は失敗した策謀もありますが、多くの計略を巡らせていたことから3としました。
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