植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

三国志時代の州の遷移3(三国時代末)

2011年07月10日 20時03分25秒 | ゲームシステム
 こちらが一番三国志の地図として関連書籍に載っている地図ではないでしょうか? よく小説でも1巻の黄巾の乱の内容でもこの地図が掲載されているのですが、黄巾の乱から官渡の戦いまでならこの地図は適さないでしょう。この地図は諸葛亮が北伐(特に第3回)を繰り返していた224年以降の地図です。

 前の地図との違いを見ていくと、まず平原が青州から冀州に組み込まれています。官渡の戦いで勝利した曹操が冀州を統治する際に行った措置です。もともと平原は青州の中で唯一黄河の北側にあるので、これを統治しやすいように同じ北側の冀州に含ませた格好です。

 次に大きな変更点としては、ややこしいのですが涼州と雍州が逆転して、東が雍州となり西が涼州とされております。さらに司隷だった長安が雍州に編入されています。
 元々、涼州と雍州をあわせた地域は、全体で涼州とも雍州とも言われており、どっちの名前でも大差は無いのですが、両方の名前を入れ替えるなんてかなりの荒業です。これは北伐まっさかりの220年に行われており、蜀が涼州を奪うぞと明言しているので、蜀が奪いそうな範囲を雍州と変更することで蜀がたとえこの地を奪ったとしても目的を達成させた訳ではないと言い訳できような処置だったのかなー。
 ちなみに長安が雍州に組み込まれているのは、この時代になると洛陽が首都として機能しますので、漢時代に首都として機能した長安に首都機能を求めなくなり、さらに北伐に対抗する魏の拠点となっていたので、蜀が押し寄せてくる他の雍州の地域と一緒にすることで管理しやすくしたのでしょう。

 あとは益州の上庸が荊州になっています。益州のほぼ全ては当時蜀が抑えており、魏に残っていたのがこの上庸です。魏では上庸だけで益州とするわけにもいかなかったのかこの地域を魏の荊州に組み入れています。宛や襄陽なんかと同地域です。逆に、下弁がある雍州?涼州?の 武都郡が 第3回の北伐で蜀に取られたので、魏はこの地域を雍州?涼州?から切り離して、益州としています。こちらは正式な記述を見つけられなかったのですが地図からすると益州とみなされるようになっています。もしかしたら、蜀が武都郡を奪った際に、蜀が奪ったのは雍州や涼州では無い!としたかったのかもしれません。
 ここまでがこの地図上での話になります。

 これ以外ではこのあたりの益州と雍州の境の地域が泰州となったり、孫権が一時的に交州の東側を広州に分割したとか、晋代には南中が寧州になったとかあるのですが、三国時代の地図としては出てくることが余りありませんね。

三国志時代の州の遷移1(後漢)
三国志時代の州の遷移2(三国時代初頭)
三国志時代の州の遷移3(三国時代末)
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