ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

エキストラ2

2009-02-23 07:43:38 | 身辺雑事

エキストラといえば、もうひとつ、思い出深い体験があります。

NHKの連続朝ドラ「じょっぱり」という昭和初期のドラマにエキストラ出演したときの話です。

主演は片平なぎさ。

今では「2時間サスペンスの女王」となった片平なぎささんですが、当時はお嬢様タレント、って感じでした。

撮影は場所を忘れましたが、渋谷のNHKではなく、ちょっと辺鄙なところにあるスタジオでした。

そこで、昭和初期のお嬢様が通う学校の話でしたから、私たちは着くなり、着物に袴に髪はひとつに長く結わえてあるようなカツラをかぶせられました。

カツラっていったって、エキストラのものは小道具さんの部屋にあるた~くさんのものを適当にかぶせられるだけです。

サイズが合ってる、合ってないもへったくれもありません。

私がかぶせられたのは少し私の頭にたいしては小さめで、「まぁ、これでいけなくもないか・・」という程度のものでしたが、時間が経つとジンジンと頭蓋骨がしびれてくるような感じでだんだん頭痛がしてきました。

その格好だけはさせられたものの、撮影は難航しているのかいっこうにお呼びがかかりません。

そうこうするうちに午前中で終わるはずだった撮影はとっくにお昼もすぎ、スタッフの人が、

「はい、それではいったん休憩~! なぎが休憩に入りま~す!」

と大声で言うのが聞こえました。

そう、片平なぎささんは「なぎ、なぎ」とスタッフの人に呼ばれ、それはそれは大切にされていました。主演女優で1年間という長丁場おつきあいする仕事仲間なんですから当然でしょうね。

休憩に入ります、っていわれたって、そもそもお昼までと聞いていた撮影ですからお弁当なんてもってきていませんし、スタジオは辺鄙なところで外へ出たってなんにもレストランなんてありそうもありません。

第一、昭和初期のこんな格好で表になんて出られるわけがありません。時代錯誤のちょっと頭のおかしい人だと思われてしまいます。

私たちエキストラは、ひたすらすきっぱらと頭痛をこらえて「待つのみ」でした。

このときも撮影というのはひたすら「待つ」ことなのだ、と痛感したことです。

つい先日、トム・ハンクスが何かのインタビューで、俳優とは?と聞かれ、

「ひたすら待つことだよ。」と答えたそうですが、この意味には撮影の合間合間に待つという意味だけでなく、もっと深い意味もあったようです。

つまり、俳優とはどこかの会社に所属して毎日同じ場所に出勤すればいいというわけではなく、仕事の依頼がくるまでひたすら自宅で待機、という生活。

いつ、どこから仕事の依頼が舞い込むかもわからずにひたすらそれでも待つ、それが俳優だと。

トム・ハンクスほどの大俳優でもそう思うくらいなんですから、出演回数がほとんどないような大部屋俳優の人はどれくらい待っていることでしょう。


さて、ようやく、撮影が再開され、エキストラの出番もやってきました。

シーン設定は、田舎から出てきてひょんな人の好意からとてもお金がかかるお嬢様学校に通わせてもらえることになった「なぎ」が、朝、教室に入っていくとクラスのほかの生徒から冷たい目で見られる、というものです。

「なぎ」は貧しい出ということをみんな知っていて、でもとても勉強ができたので妬みを買い、今でいういじめに会っていたわけです。

「なぎ」ががらがらと教室の扉をあける。

それまできゃっきゃっと楽しそうに談笑していたクラスメイトのさざめきがピタッとおさまり、いっせいにみんなヘビのような冷たい目で「なぎ」を見る。

「ストーーっプ!!」

監督の声。

「だめだめぇ!! みんな、もっと楽しそうにしゃべって、一気に空気変わるんだよぉ。冷たい目でなぎをみるんだよ。わかったぁ? はい、もう1回。」

「ストーーっプ!!」の繰り返し。

わたしたち、エキストラのできが悪いのか、何度も何度もやり直しになりました。

ついに最後には監督はこういいました。

「いいか、てめえら! おまえらは、なぎがうらやましいんだよ。なぎ、可愛いだろ? あんな可愛くなりたいなってうらやましくてしょうがないんだよ。自分のなかで嫉妬の感情をてっぺんまで上り詰めてなぎを見ろ!!」

ひえ~

正直、私は「片平なぎさ」さんのことをうらやましい、とは思っていませんでした。そりゃ、可愛いけれど、わたしがうらやましいな、あんな顔好きだな、というタイプの顔とは違っていましたし・・

でも!

そのとき、すきっぱらで頭痛も極限に達していた私は、確かに「あなただけはおなかいっぱい食べて、満ち足りた顔をしてるわね。わたしゃ、食べてないんだよ! あなたは自分特注のかつらでそりゃいつまでかぶってても快適でしょうよ。わたしはもうスリーパーホールドくわされっぱなし状態で落ちそうなんだよ!」というのは事実でしたので、「すきっぱら」と「頭痛」において、本気で片平なぎささんに憎しみさえ抱くことができるほどでした。

で、自分のなかで思いっきりその感情を高めたら・・

「はい、オッケー。」が出ました。

ふぅ~、やれやれ。

しかし、このとき演技とはいえ、自分のなかの妬みという感情を煽られるというのは厭なものだな、と思いました。

まったくないものや経験したことのないことで自分の感情づくりをすることはできませんから、自分の実体験から演技のための表情を導き出すわけです。

ということは、過去の妬みの経験をもう一度リアルにほじくりかえすわけで・・

それがいい気持ちがするわけがありません。

このとき「俳優さんってのは大変だぁ。いくらもらっても自分の感情をミキサーでぐじゃぐじゃにされるような毎日では合わんわな。」と思いました。

先日、新聞にある研究チームが脳のしくみをひとつ解明できた、という記事が載っていました。

それは、大学生にパソコン上のゲームを見せ、どんなシーンで脳のどんな部分が活性したかを見る、というものです。

ゲームとはある大学生には友人ABがいて、友人Aはとても優秀な成績で一流企業に就職が決まり、友人Bは並み、という話。

そして、どんなときに脳がいちばん活性化したかというと、優秀な友人Aが勤めた会社が不況により倒産してしまって一気に奈落の底につきおとされる、というところで、一様に活性化したそうです。

「人の不幸は蜜の味」・・・

イヤですね。

一流企業に就職が決まった、というところで「いいなぁ~」と妬みの気持ちが生まれ、いちばん活性化するのではなく、何の罪もなく、自分が頑張ったから良い成績をあげ、良い企業に就職できた友人が突き落とされるところで「しめしめ、そうこなくっちゃ」と誰もが実は思っている、っていうのはどうなのよ!?

自分もそう思うんだろうか・・

少なくとも友人の成功や頑張っているっていう話は大好きで、心から応援できてる、って思ってた。

でもそれって、回りまわってひいてはどこかで自分のためにもなるだろうというあわよくば、という気持ちがさせていただけのことで本当に友人のためを思って喜んであげていたんだろうか・・ なんてことも思っちゃいました。

でも少なくとも大学生のときの「なぎ」に対する妬みの演技では、「すきっぱら」と「頭痛」の2重苦で本当に「なぎ」を憎みそうになりましたもん。

私にとっては、「空腹」と「肉体の苦痛」という、人間の一次欲求レベルをつつけばすぐにそんな感情がわいちゃう単純な人間ってことですかね。




オーラソーマヒーリングサロン「些々羅」では、メールにてコンサルテーションのご予約を受け付けております。営業時間は月~土(AM10:00~PM4:30)です。

刻々と予約状況が変わるため、まずはメールにてご希望の日時をお聞かせください。

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エキストラ

2009-02-22 07:48:43 | 身辺雑事

大学生の頃、エキストラのバイトをしていました。

通行人Aとかいうアレです。

劇団に名前だけ登録しておいて、自分が授業がなくてヒマなときに「なんか、入ってませんかぁ?」とそこに電話して聞くと、

「う~ん、明日なら○○の『その他大勢』があるよ。」てな具合です。

いい時代だったのかなぁ。

バイトの内容は撮影によっては12時間で終わってしまうときもあれば、丸っと1日かかるときもありましたが、バイト代は当時としては良いほうでしたから。

だから月末生活費が足らなくなたったり、「ちょっと、BIGIのシャツが欲しいなぁ」なんて思うと「よし、いっちょ明日はエキストラだ。」ということになるわけです。

あるとき、「男はつらいよ」のロケで通行人Aをやることになりました。

ロケ場所はもちろん、柴又です。

河原の堤防をきれいな着物を着た女優さんが寅さんを呼び止めるために走ります。(きれいな女優さん、なんてレベルじゃなく寅さん映画に良く出ていた皆さんも多分ご存知のほら、あの人なんだけど名前が出てこな~い!)

撮り直しで何度も何度も走っていました。

後で映画をみたら、そのシーンは映画のストーリーにとってまったくといっていいほど必要もない程度のシーンでした。

でも女優さんは「撮影ってこういうもの」という手馴れた感じで、文句も言わずに、なにが悪くて撮りなおしになったのかも聞かずに、ひたすら走っていました。

(着物であれだけ何回も走るってたいへんだろうなぁ・・)とハタチの私はぼんやり思っていました。

女優さんは息さえあがらずに何度も走ります。

しかし、カットがかかるとメイクさんが間髪をいれずに近づいて、額ににじみでた汗をぬぐうことでやはり、かなりの運動量だったのだ、ということがわかります。

役者魂、ってやつを見た最初だったかもしれません。

ちなみにそのときの通行人Aの役割はカップルで楽しそうに談笑しながら歩け、というものでした。

今はどうか知りませんが、当時は「楽しそうに談笑」と言っても、本当に声を出して談笑してしまうとその声をマイクが拾ってしまうから、ということで、口パクで談笑の雰囲気をださなくてはなりませんでした。

だから、私は何回かエキストラをやりながら、心の中ではこう思っていました。

「主役がいちばん簡単じゃん。ホントウにそのセリフを声にだして言って、そのとおりの感情を表現すればいいだけなんだから。それにひきかえ、エキストラは声には出さずにその雰囲気をださなきゃいけない。しかも台本はなし。自分で考えてやらなくちゃいけない。その場で初めて会った人と。エキストラが出来れば、どんな役だってこなせるわ。」と。

みなさん、テレビドラマなどを見ていても、喫茶店のなかで主人公の後方の席でやけにぎこちなく話しているようなカップルを見るでしょう?

あれは演技が下手なんじゃなくて、口パクでやれ、って言われてるからあのくらいのぎこちなさになっちゃうんですよ。

何度も言いますが、今は知りませんよ。

これだけCGの技術がスゴイのに、後方のカップルの地声だけ消せない、ってありえない気がするんですけどねぇ。

ま、それは余談ですが。

この寅さんの撮影のときに話を戻しましょう。

映画の撮影というのは、「忍耐強く同じ演技を何度もできる」という能力が求められますが、もうひとつ、「忍耐強くほかの人の撮影時間をやりすごす」つまり、ただひたすら待つ、という能力も求められます。

このときも私たちエキストラだけでなく、主役の渥美清さんもずいぶん待ち時間がありました。

堤防でやることもなく、ぼーっとしていると、渥美清さんが私に、なんと!

「きれいな女優さんだねぇ」と言ってくれたのです。

ありえん! 私がきれいなわけないじゃん。しかも女優さんじゃないし。

明らかに渥美さんは「心にもないオベンチャラ」を言ってくださったのです。

だって、考えてもみてくださいよ。

映画界にいらっしゃる渥美清という大御所なら毎日毎日腐るほどきれいな女優さんなんて見ていることでしょう。B級程度のきれいさでも一般社会で見れば、すごく目だってきれいな人でしょうよ。

それが一般社会のなかでも埋もれまくりの私程度が「きれいな女優さん」であるわけないじゃないですか!

しかし、私は「まぁ! それはありがとうございます。渥美さんにそんなことを言っていただけるなんて、私も明日からスター街道ですね。」なんて社交辞令がスラスラと出てくるようなハタチではありませんでした。(今ならいけしゃあしゃあと言っちゃいますけどね。)

そして、そのときに私のとった行動は・・

完全無視。

聞こえないふりをしたのです。

「あ、聞こえなかったんだ。」と思った渥美清さんは、もう一度、「しかし、きれいな女優さんだねぇ。」と言いました。

再び完全無視。

私は渥美さんとは反対側にいたエキストラの人たちの話に耳を傾けていて、そちらの声にはまったく気づかなかったというふりをしたのです。

でも、その2回目の私の無視で、渥美さんは私の心に気づかれました。

悲しいかな、自分が綺麗ではない、とわかっている人間がほめ言葉に素直になれずに聞こえないふりをしたのだ、ということに。

そのとき確実に彼は理解しました。私の心に潜む悲哀感、卑屈感、放っておいてよオーラというものを。

私には確信できます。

だって、渥美さんが「はっ」と息を呑むのまでが私に伝わりましたから。

渥美さんだって、寅さんで花咲いたけれど、決して美男子ではありませんし、美男子でないなら徹底的な三枚目で売っていく、というふうに自分のポジションを見つけたくはなかったのでしょう。この作品に出会うまでは苦労されたと聞いています。

そんな渥美さんと私の間だけにそのときほんの一瞬ですが、「華やかな業界のなかに身をおきながらも決してそこにふさわしくない容姿に生まれついてしまった者」としての共犯者のような共鳴があったのが私にはわかったのでした。

そして、心のなかで「ごめんなさい。渥美清さん。無視なんて方法でしか、自分を表現できなくてごめんなさい。」と謝っていました。

今でこそ、「卑屈になる必要なんて微塵もない。たとえ、自分の容姿に自信がなくたって、おべんちゃらに過ぎないと思ったって、人が褒めてくれたら、素直にありがとう!って言ったほうが自分の精神衛生上、なんぼかええわい。」と思えるのですが、ハタチの私は妙に潔癖なところがあって、「嘘はやめてよ、嘘は。」という気持ちと、渥美さんが出たばっかりの大部屋女優を(少なくとも渥美さんはそう思っていたはず)励ますつもりで、温かい気持ちから言ってくれたのだ、とわかってはいても素直になれなかったのでした。

「話さなくてもテレパシーで通じる」とかの感覚があるとすれば、これまでの一生のうちであのときがもっとも鮮明でした。

そりゃあ、親しい友人や恋人や家族との間で、(あ、この人、いまたぶんこう考えているな)と思い、実際にそれが当たっている、ということは往々にして起こります。しかも、大概はその推測をするに至るその前後というものがあります。

しかし、有名人とはいえ、まったくその場で初めて会った方と、とても濃密な意識の交流があったはずだ、と信じられたのは後にも先にもこのときだけでした。




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初観音

2009-02-21 09:29:09 | まち歩き

関のちーちゃんちで恒例のオーラソーマ勉強会でした。

着いてすぐにまずは腹ごしらえ。

ちーちゃんが「おむすび定食のおいしいところがあるから。」ということで、そこへ行きました。

あった、あった、確かに。おむすび定食 500円なり。

「おむすび」がメインの定食ということや、500円という値段から、

「これで、おなかいっぱいになる?」と小声で聞くと、

「十分におなかいっぱいだよ。」とちーちゃん。

その声を無視するかのように、

「あたし、ミニまぐろ丼とおむすび定食!」とjynちゃん。

えっ! やる気まんまんだね~と思いつつ、私はおむすび定食にしようかな、と思っていると、その店のだんなさんが、

「今日は、いいマグロが入ってるよ。まぐろ、お勧めだよ。」

その一言に、私も、

「じゃあ、私もミニまぐろ丼とおむすび定食」と言っちゃってました・・

まぐろ、ほんとにおいしかったぁ。

むっちり、もっちりしていて、身に弾力があって、新鮮そのもの。

おむすびもひとつは天むすでひとつは好きなおにぎりを選べるとのことだったので、天むすって通常の小ぶりのサイズを想像してたら、おむすびよりデカいスーパーサイズだった。(で、上にえびがひとつ、中にもうひとつ入ってるの!)

それに鶏の唐揚げと野菜の煮物とおつけもの、ごはん、みそしる、コーヒー付きで500円。

これはお値打ちっしょ!

おまけにコーヒーは、「おかわりいかがですか?」って・・

そんなサービスしてたら500円で半日ぐらい長居しちゃうって!

他人事ながら経営が成り立つのか心配になっちゃいました。

で、私たちがそのランチを満喫している頃、やたら、おばあさんの大人数のグループとかが店をのぞく。

そして、「満員だわ。入れないわ。」とあきらめて出て行かれるのですが、なんだか今日はいつもの関に比べて人出が多そう。

なんだろう?と思っていると、ちーちゃんが、

「今日は、吉田神社(きったじんじゃ)の初観音なの。だから、大勢の人がお参りに来てみえるようね。」とのこと。

「え? なに、それ?」と私とjynちゃん。

「え? 知らないの?」とちーちゃん。

なんでも、吉田神社の初観音といえば、かなり有名らしいのです。

それは、是非私たちも行きたい、みた~い、ということで、ランチを終えてから、早速でかけました。

参道からすでにいろんな出店がでっぱってます。

なんだかどれもこれもメチャメチャおいしそうで、干し芋に、きんかんに、干し柿に、芽カブ茶に、栗まんじゅうにといっぱい買っちゃいました。

どれもこれもすごくお値打ちで大満足。

Photo とくに芽カブ茶は、糖尿病や高血圧にも良くて、売っているおじさんが、

「糖尿病の人だったら、普通の人よりちょっと多めの6gを毎日朝晩飲めば、数値なんて1ヶ月で下がっちゃうよ。」と言うので、糖尿病予備軍のダーリンに早速今日から毎日飲ませなくては!と大袋を買ってしまった私でした。

さて、いざ神社のなかへ。

ふだんは開陳されないところまで開けてあるそうで、貴重な重要文化財がいっぱいある薬師如来像やら、釈迦像やらを見ることができました。

たいていは、メインの仏像の脇をかためるように3体、4体と奉ってあります。

釈迦像の脇に聖徳太子が奉ってあるのを見て、(でもこれって、今の時代の私たちだから素直にまとめてお参りしちゃうけど、鎌倉、室町当時の感覚で言うと釈迦像の隣に麻生首相の像が奉ってあるようなもんじゃないの? それって素直にお参りできるのかなぁ・・)とふと思ってしまう私でした。

またまた境内で売っていた高嶋易断をつい買ってしまう私たち。

生年月日で選ぶのですが、この中に入っていた「あなたの性格」を見て、あまりにぴったりなのでびっくりしてしまいました。

いわく、

「あなたの性格は任侠の気質があって、人の世話面倒を見るが、たいていそのたびに損害をこうむることが多い。」

まあ、「損害」と明快に認識することは少なくてむしろ勉強になったな、と思うことのほうが多いけれど、「任侠の気質」というやつはぴったりだねぇ。

そして、うれしいことが書いてありました。

「一生を通観するに相当の成功運の持ち主であって、一意専心目的に向かって努力を惜しまねば、立志伝中の人となれる。」

きゃ~! これって私が努力を惜しまなければ、オーラソーマで身を立てることができるってことぉ~!!

そして、肝心の運勢は・・

「才知に満ち、鋭敏・知性をもってして、万事意のごとくなる象である。」

きゃっ、きゃ~っつ!!

Photo_2 気をよくしたところで、帰ろうとしますと、ちょうど飾り馬が4,5頭つらなって、本堂のほうへ引き立てられていくところが見られました。

今年は丑年なので、わらで編んだ牛やらねずみやらの飾りものをくっつけています。

そのあとから法螺貝や笛をふきながら袈裟を着たお坊さんたちが続きます。

ふぅ~ん。

なんだかみんなわらわらと前のほうに集まってきて一生懸命、写メやらデジカメやらで写真とってるけど、これ、どういう意味があるの?

こういう儀式っぽいものはその意味がわかっていないと、なんだか楽しくな~いと思った私でした。

帰りにはちーちゃんが「地元の野菜を売っているスーパーがあるよ。すんごい安くて新鮮なの。」と言うので、「行きたい、行きた~い!」とまた私とjynちゃん。

行ってみると、ごく普通の地元のスーパーというたたずまいなのに、確かに安い!

大根葉2束で98円。ほうれんそう一束58円。二束なら108円なり。

みんな、こんな調子。

ここでも調子に乗って、春菊、うど、しいたけ、里芋・・と買いこんじゃいました。

「あたし、関に住もうかな~」と冗談でjynちゃんが言うと、ちーちゃんが真顔で、

「でも、関は意外にアパート代は高いの。」といいました。

そうなんだ。

でも、なんだかいい感じだな~、関って。

ほんとにお値打ちでいいものに出会えるし。

おそるべし、関市。

あ、ちゃんとオーラソーマの勉強もしましたよ~(笑)



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2009-02-20 06:49:38 | 身辺雑事

「些々羅」にいらしてくださったお客さまのなかには、ときに涙を流される方もみえます。悲しくて・・ 嬉しくて・・ 思い出して・・ やりきれなくて・・

なぜかわからずに・・ いろんな涙、です。

そんなときは、「どうぞ、我慢せずに泣いちゃって下さいね。涙を流すということはそれだけ浄化されてすっきりしますから。」と申し上げますが、そういう私は、というと、実はとても泣かないタイプでした。


「でした。」と過去形にして言うのは、今でこそ年齢のせいか涙もろくなったということもあるし、自分で言うとおり「涙を流すことでたとえそれがどんな種類の涙であったとしてもすっきりするから」とわかって、ということもありますが、小さい頃は「泣かない、ということが勇気のしるし。強い子というしるし。」と思い込んでいて、とにかく泣かないこどもでした。とくに人前では。


小学校の6年間で泣いたことはたった2度だけ。

一度は放課後に運動場で遊んでいて、友達が蹴った砂が目に入ったからです。ですからこれは、実際には「泣いた」ということにはなりませんね。物理的に涙は流しましたが、それこそ目に入ったゴミを浄化して流し去るために出た涙で感情のともなうものではありません。

もう1つは、小学校4年生のときに飼っていた猫が死んだときです。

ネコの名前は「トマシーナ」。略して「トマ」と呼んでいました。

変わった名前ですねぇって?

当時、「トマシーナの3つの命」という映画を見て、えらく感動したので、そこから取った名前でした。

「トマシーナの3つの命」というのは、あるネコがひょんなことから一生の間に3人飼い主が変わる、というそのネコにとっては波乱万丈の一生でしたが、確か最後は落ち着けそうな穏やかな老後を送れそう、というところで終わるお話でしたので、やれやれでした。

トマは優美なシャム猫でしたが、私の子供の頃はまだまだ雑種の日本猫を放し飼いにして飼っているところが多く、ペットショップで売っている洋猫を部屋のなかで飼う、という飼い方は珍しいほうでした。

私の部屋のなかばかりで飼っていたトマですが、こどものことですからたいして面倒もみませんし、朝学校へ行ったら、夕方まで帰ってきませんし、寂しかったと思います。そして、そんなトマが食欲がなくて、食べたものを少し吐いてもどした、という兆候にも気づかなかったのでした。いや、厳密にいうと、その現象は目の当たりにしていても「こんなこと、たいしたことじゃないだろう。」とタカをくくっていたのです。


ある日曜日、友達がやってきて、私の家で遊んでいました。

そのときトマが「かっ」と変な喉の鳴らし方をしたな、と思ったとたん、バタンと倒れてしまったのです。

子供心ながらにその瞬間、(死んだのだな)という思いを強くしました。

でも、私にはそれを確認して、確実なものとして受け止める用意ができていませんでした。

信じたくない、というのもありましたが、なんとそのときに私の大半を占めた考えというのは、「いま、トマの死を前にしてパニくりたくない。友達の前で大泣きする自分をさらけだしたくない。」というものでした。

自分ながら、トマを思いやる気持ちより、自分の泣く姿を友達にさらしたくない、という気持ちのほうが勝ったのだ、ということはとても不思議な感覚でした。

不思議な感覚だから、このことを私は決して一生忘れないだろう、とそのときに思った覚えがあります。

友達には「いきなり寝たみたい。あるんだ。そういうこと。」とごまかしました。

猫にたいして興味を示さなかった友達は素直に「あ、そう。」と言って、私たちは、遊びに戻りました。
ただ、それからは遊びながらも上の空で、(早く、この友達が帰ってくれないかな)ということばかり考えていました。

そして、友達が帰ったあと、母親を呼び、トマの死が確認されました。

そのときも私は母親の前で泣けませんでした。

夕飯のあと、いつものように個室の勉強部屋で宿題を片付けていた私に母親が心配してやってきました。

うちは1階で両親が居酒屋をやっていましたので、まず忙しくて子供の様子を見に来ることなどできなかったのですが、このときばかりは私が可哀想だ、悲しんでいることだろう、と様子を見に来てくれたのでしょう。

でも、私はいっさいの感じる心をシャットアウトして、普通に宿題をやっていました。

そのとき母親がなんと声をかけたのかもう忘れてしまいましたが、私は自分の言ったことだけは今でもはっきりと覚えています。

「ねぇ、出て行ってくれない? この宿題を片付けたら、今日はあとは泣く時間にとってあるんだから。」


母親はちょっと悲しそうな、ちょっと何かを考え込んだような、ちょっと満足げな表情を浮かべた後、ゆっくりとした動作で部屋を出て行きました。

「ちょっと悲しそうな」と「ちょっと何かを考え込んだような」というのは理解できると思いますが、「ちょっと満足げな」というのはどういうこと?と思われる方もみえるでしょうね。

これはあくまで私サイドから見るとそう見えた、という話ですからほんとうのところはわかりませんが、私はそのとき母親が「可愛がっていたペットが死んだ日でさえ、この子は勉強をおろそかにしないのだ。」という意味での満足げだったように思います。

それくらい、小学生の間は私は優等生でした。

「泣く」ということをその場の感情の発露とせずに、ちゃんと時間割りを決めて、「泣く時間」をとってあるときだけに泣くーーー。たったひとりで。

今の私がそのときの私を目の前にしたら、抱きしめてあげたいと思います。

それくらい私にとって激しい感情の発露というのは、「たったひとりのときだけにすること」という不文律のおきて、マイ・ルールがあったのです。(こうしてみると、小さい頃から私はやっぱりブルーの人だなぁ・・)

いったい私は、何にこれほどまでに囚われていたのだろう・・

どうして人前で泣くことが、たとえそれが家族であっても、こんなにまで「恥ずべきこと」と思うようになってしまったのだろう・・

いや、家族だからこそ、かなぁ・・

これは今だに「そうか! そういうことだったのか!」という理屈はつけられません。


しかし、こんな私が上手に感情をコントロールできないまま大人にならずに、むしろ「感情的」な(よく言えば情緒的な)大人となったのは、われながら、良かった、良かった、と思います。

ロボットのようにのっぺらぼーな感情の表し方しかできないよりは、多少怒りっぽかったり、泣き虫だったり、笑いすぎだったりしても感情豊かなほうがいいですもんね。

これからもオーラソーマでより皆さんが上手に感情を発露できる人であって欲しい、と思います。




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本屋さん

2009-02-19 07:10:09 | 身辺雑事

私は本屋さんをうろつくのが大好き。

もちろん、本を読むことも好きなんですが、それ以上に本屋さんをうろうろするのが好きなんです。


一軒一軒の本屋さんを回ると、同じ本なのに積み方や置いてある場所が本屋さんによって違います。

本屋さんによってくくるカテゴリーにその本屋さんの意志が出てくるところが面白くて何軒も回ってしまいます。

そして何軒か回っているうちに、「あれぇ、さっきからこの本にばかりなぜか目がとまっちゃうなぁ」とか逆に「さっきまで全然この本を手に取ってみよう、とは思わなかったのにこの本屋さんのこの考え方で置いてあると急に気になってきたぞ。」とか思い、一期一会とばかりに本を買うのが好きなんです。

そう、私は本との出会いも人と同じで一期一会だと思っています。

よほど発行部数も少ない専門書でない限り、まずあとでその気になればいつでも買えるものだから今日ここで買わなくてもいいでしょ、まだうちには読む本いっぱいあるし・・とか思っていると大概その本は買うことはありませんね。

そのときにどうしてその本が気になって手にとり、何に惹かれて中身までページを繰り、最終的にどんな心境でじっくりこの本を読んでみたい、と思って買ったのか、その一連の心の動きそのままに素直に購入した本は、それらのことをいつまでも読まずにうちの本棚に並べておくだけでも背表紙をみただけで、そのときの自分の精神状態や思いがすっとよみがえってくるんです。

いわば、本を購入して本棚に並べておくのはオーラソーマと同じで、私の魂の進化をみるようなもの。

だからこそ、たとえいつまでもなかなか読まなくても意味があるんです(かなり言い訳っぽいかしら・・)

例えばオーラソーマの本を探して本屋さんに行ったとします。

オーラソーマの本を「色」というカテゴリーで置いている本屋さんもあれば、「趣味」というカテゴリーで置いている本屋さんもあれば、「精神世界」というカテゴリーで置いている本屋さんもあり、いろいろです。

たとえば「色」というカテゴリーで置いてある本屋さんであれば、その棚に立ったとき、オーラソーマの本だけでなく、パーソナルカラーに関する本であったり、色彩療法についての本であったり、オーラソーマのカテゴリーを飛び出したいろんな本に出会うことがあります。そして、「色は結局、ゆきつくところ、ゲーテの色彩心理学なんだな。ちょっとじっくりゲーテから読んでみようかしら・・」なんて気になったりもします。(気になったときがあっただけで、これは今だトライしていません。はは。)


「趣味」というカテゴリーにオーラソーマがあれば、その隣には「タロットカード」や「四柱推命」や「手相うらない」や「風水」やらが並んで居たりします。「そういえば、これらのこともオーラソーマは関係しているんだったよなぁ」という思いで、有名なDr.コパやユミリーの本を何気に手にとって見たりする。

すると、彼らは実に上手に「今年は・・」とか「今のファッションに合わせると・・」というように新たな手を繰り出し、風水の原理を教えるだけでなく、どうしても新しくその本を買わざるをえないようなテーマで本を出している。

オーラソーマもこういうフレッシュな「今年これを!」とか「今月はこれを!」ってことで親しまざるをえない、ように顧客をつなぎとめる手はないのかなぁ、なんてことに思いを馳せたりする。

また、「趣味」だと美容の本なども一緒に並んでいることも多いので、ちょっとわき道にそれて佐伯チズさんの新刊を手にとって見たり、パワーストーンの本を手にとって見たりするのも面白いですね。

「精神世界」というカテゴリーにオーラソーマがあれば、そこには心理カウンセリングや宗教などの本がずらーっと並びます。

「スピリチュアル」というカテゴリーでくくられた本には大概軽いものが多く、これが「心理学」とか「精神世界」となるとずいぶん重い感じになってくるのも面白いことです。そしてたぶん、本の売上もそれに反比例する関係ですよね。

そこで新たな瞑想の本にであったり、マントラがわかりやすく説いてあったりする本を見つけるとうれしくなっちゃったりします。

こんな感じでいろんなことに思いを馳せつつ、本屋さんめぐりをしているとすぐに何時間もたってしまいます。

結婚前に比べると今はずいぶん本を読まなくなってしまいました。

なにせひとりになれる時間がほとんどありませんから(それをどうしても捻出したければダーリンが寝静まってから、自分の睡眠時間を削るしかありません)、ゆっくり落ち着いて本を読める環境にないのがつらいところです。

結婚前は年間に読む本の冊数が50冊を下回るなんてありえませんでした。

そんなことしたら、自分のアイデンティティが保てなくなるくらい本中毒症といってもいいくらいだったかもしれません。なにせ、一番本を読んだ年なんて、1年で、200冊以上読んでましたからね。

それって、考えてみたら(そんな考えなくてもすぐわかるか)、1日1冊まではいかないにしても、3日に2冊は読んでいるって計算じゃないですか。

ありえねぇ~

そのときってほかに何してたんだろう・・ 私って・・と思うくらいですよね。

それが去年から今年にかえての1年間では50冊も読んでないでしょう。

そんな私でも相変わらず本屋さんめぐりだけはせっせせっせと続けているのでした・・



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