ダーリンが帰ってくるなり、言いました。
「今日、面白い話を聞いたよ」って。
ダーリンは建築関係の仕事をしていますが、ときどき大手の建築会社が主催する新素材の勉強会みたいなのがあるらしくて、そういうところは最後に余興のように有名人を呼んで、講演なんかがあるらしいんです。
それが、どういう話だったかというと・・
アメリカではCMもドラマ仕立てになっている長いものが多いんだって。
ふんふん。それで?
今日聞いた話はバドワイザーのCMなんだけど。
ほぉ。どういう話?
大リーグかなんかの試合が白熱していて、1-0で9回裏を迎える。2アウトでヒットが出る。2塁ランナーがホームに帰ってくる。すわ、同点か!?と固唾を呑むと、審判が「アウト!」の宣告。はい、試合終了。
アメリカではホームのチームの応援がすごいから、そこで、大ブーイング。(あわや同点か、というのがホームのチームのほうだった。)
ホームチームの監督も後ろ手に退場寸前の猛抗議。
みんなが熱く立ち上がってブーイングをしているところに、ひとりだけポツネンと座ったままの老婦人が。おもむろにその婦人が立ち上がって、横断幕を広げる。そこには「I LOVE HUSBAND」の文字が。その審判が彼女の夫だったのだ。
球場は一瞬しずまりかえったが、次に婦人に対して暖かい拍手が送られる。その拍手の渦はだんだん大きいものになり、球場全体が拍手に包まれ、めでたし、めでたし、ということになる。
ところはかわり、その晩、とあるレストランでその老婦人と審判の夫が楽しそうにディナーを食べていた。ウエイターがテーブルに「あちらの方からです。」といってバドワイザーのプレゼントを置く。あら、誰かしら、ということで振り向くと、球場で猛抗議をしていたホームの監督だった。一瞬目が合ったのち、監督が親指をたててウィンク。審判夫婦もウィンク。
で、ジャンジャン、というわけだ。
ふーん、それが? と私。
いや、それが、って言われると困るんだけど・・・とダーリン。その講師の元キャスターの人が「やあ、感動したCMでした。」って話してたよ、って話。
私には、どこが感動的なのかさっぱりわからない。
そりゃ、多少、小粋なCMだとは思う。だけどそれだけのことだ。
それどころか、私が気になったのは、その老婦人がそんなシチュエーションにならなかったら、いったいどこで「I LOVE HUSBAND 」なんて横断幕を使うつもりだったんだろう、ということだった。
年をとってめっきり涙もろくはなったけれど、つまり、感情の吐露を肉体の制御がしなくなったけれど(早い話が感情の垂れ流し状態)、これは「感動」とはちょと違う。
私は、「感動」とは『心が強く揺さぶられることによって何かしら自分も動かされる』ことだと思っているのです。
心が強く揺さぶられれば、それによって自分の生き様を見直すことになったり、何かに取り組みたくなったり、そのことをもっと知りたくなったり、そして実際に調べたり、つまり、どんなささいなことでもいいから行動が伴わなくてはいけないと思うんです。
だから、「あー、感動した映画だったぁ。さ、ケーキでも食べに行こうか」というのは感動とは違うだろう、と思うわけです。映画に感動してケーキ食べるわけじゃないもん。違う一息の入れ方したいだけじゃん。
ささいな一歩を踏み出さなければ、せっかく揺さぶられた心は行き場をなくしてしまってかわいそう。よどんじゃう。よどんだものは腐る。つまり、心が腐る。
出入りしている会社の事務所にとっても良い言葉が飾ってあった。
「思いは、行動を変える。
行動が変わると、習慣が変わる。
習慣が変わると、生活が変わる。
生活が変わると、人生が変わる。
人生が変わると、運命が開ける。」
ちょっと違うかもしれないけれど、こんな感じの言葉。
だから、簡単に「感動」って言うだけじゃいけないと思うんだ。
逆にいえば、「感動」したならちゃんと感じた心の行き場をつくって風通しをよくしてあげようよ。
私にとってオーラソーマは確実に私を「感動」させてくれました。
だから、今こうして私は気付きを得られたし、みんなにも気付き得てほしくて、プラクティショナーになる、という行動にも移せました。
う~ん、幸せ。
「感動」→「幸せ」行きにしてあげましょうよ。
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