ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

魂の放浪2

2008-09-20 07:47:52 | 身辺雑事

 「自己啓発セミナー」の次に私が出会ったものは、「エホバの証人」でした。

ある日、品のよい老婦人が会社にあらわれ、「よろしかったらこれを読んでください。」とだけ言って冊子を置いていきました。

 
何度かそんなことが続いた後、あるとき意を決したかのようにその老婦人が初めて口をきかれました。

「あの・・ 読んでもらってます? 聖書に興味はありますか?」と。

確かそのときには「聖書の暗号」というタイトルの古代を推理するというような面白そうな本がベストセラーになっていたところだったので、それを読んでみるつもりだ、というようなことをいうと、

「せっかく聖書に触れられるのであれば、最初はきちんとした原書がよろしいでしょう。」と言って、次の日にまた子供が読むための読みやすい聖書を訳した簡単な本をもって現れました。

これが「エホバの証人」と私の出会いでした。

まあ、せっかく置いていってくれたのだから、というので私はそれに目を通しました。

でも、全く心惹かれませんでした。

ただ、いくつかの疑問点とか老婦人にぶつけてみたい質問が生じました。

それらをメモしておいて、次に老婦人があらわれたときにそれを尋ねました。

すると彼女はことのほか喜んで、「まあ! こんな質問を用意してくださったなんて!」と思いがけぬ反応を示しました。


というのも、私の質問というのは質問に名を借りた批判でもあったからです。

たとえば、もうはっきりしたことは忘れましたが創世記のはじめのほうで、神が「いけにえ」を要求するところがあります。

「神は見返りを期待するものだったのですか?」とか、血を流すような残酷なシーンもあったと思いますので、

「神とは意外にも残酷なものだったんですね。」というようなこととか。


それらに対する彼女の答えは私を満足させるものではありませんでした。

複数の答えのなか、もちろんあぁ、そうだったのか、と腑に落ちるものも確かに在りましたが、多くは肝心なところになると、

「それは、人間の私たちの目から見るからそういう疑問が生じるのよ。神の尺度から見れば、そんなことはどうってことないことなのよ。」という言葉で逃げられてしまいました。

でも、これは今でも不服なのですが、人間である私たちには永久に理解できっこないものが神だとすれば、何を信じてエホバの証人の方々は神を崇拝する気になったのでしょう?

老婦人は自分だけでは手に負えない、と思ったのか私に、自分たちの集会である教会にくることをすすめました。

「毎週、いいお話がきけるから一度顔をだしてみない?」

あまり気乗りはしませんでしたが、普通のキリスト教会でも外国では日曜日には講話を聞きに行くことが当たり前なのだからたまには日常の禊を落とすようなつもりでそういうところに出向いてみるのもいいか、ぐらいの気楽な構えで出かけてみました。

私は、ただ後ろの席のほうでこっそりと話を聞き、終わったらまたこっそりと立ち去ればいいや、と思っていたのですが、そうは問屋がおろしてくれませんでした。

終わるやいなや、いろんな人たちが私の席に集まり、

「まあ、ようこそおいでくださいました。」と心から歓迎してくれるのです。私はとまどってしまいました。

なんだかどんどん引き込まれる自分を感じながらも、相変わらず心は最初のときと同じく冷めたままでした。ただ、最初の頃からいただいた冊子の口調というものは、一言一句無駄な表現がなく、優しい言葉ばかりで書かれているにもかかわらずこれ以上もこれ以下もない、という言葉ばかりでまとめられており、そして非常に抑制がきいており、読んでいて心がやすらかになるものではありました。

ただ、たからといって、私が「エホバの証人」という集団の仲間となるかというとそれはまったくの別問題で、「エホバ」という神の存在にもまったく慕わしくも崇める気にも恐れ多くもなく、何も惹かれないままでした。

彼らの言うことや教えには納得できるものはありました。

しかし私にとって何が一番イヤだったかというと、彼らの金太郎飴かのような誰彼を問わず示す優しさ、ものの言い方、考え方にあまりにも没個性を感じてしまい、ぞっとしてしまったからです。

そして、その布教活動。

かれらは私が最初に受け取った冊子をもって、地道に各家庭を訪問します。

でも、このご時世、簡単に玄関のドアを開ける人がそう多くないことは想像に難くありません。どんな立派な人だって無碍にされたり、汚いものを追い払うかのような目にあえばそれが積もり積もればモチベーションも落ちるでしょうし、私にはそんな効率の悪い彼らのやり方が納得できませんでした。

だから、「ほんとうに信者を増やしたいならこのやり方はまずいんじゃないですか?」と尋ねました。

彼らの答えはこうでした。

「でも、聖書のなかのキリストが弟子たちに布教の仕方を述べるところで、こうしなさい、と教え諭している場面があるのよ。私たちはそのとおりにしなければなりません。」


キリストが2000年たって、コミュニケーションの方法にはインターネットやテレビやラジオや新聞を使うってこともあり、ってわかるわけないじゃん。

私たちはキリストが生きていた時代に生きているわけじゃないんだから。

しかし、彼らはかたくなに聖書に書いてあるとおりのことしかしないのです。

逆に言えば、いっさいのくふうや現代人としての知恵はそこで抹殺されるわけですよね。私にはそれも大きな不満でした。


そういう不満を述べたところで、

「あなたも私たちとともにもっとじっくり活動していけば、そのうち気持ちも一緒になってわかるわよ。」というのみです。

別に一緒になりたくないし、わかりたくもない。今わからないことが時間を供にすればわかるとも思わない。

そして、彼らの活動は火曜日の夜、木曜日の夜、日曜日のほとんど一日中に及びます。

それだけ必ず集まらなければならない、というのはかなりのプレッシャーです。

ともだちと「今日、帰りにいっぱいやるか?」ということもできやしません。ましてや土日に旅行に行くこともできません。

しかし、彼らは非常に優しい言い方で強制ではありませんが、この集まりに対して絶対的な価値観をもっており、いったんエホバの証人になれば、この集まりを個人の理由などで好き勝手に欠席したりすることはまず許されない、ということが私にもひしひしとわかりました。

彼らは異口同音に言いました。

「出なければいけない、というわけではなく、出たくてしかたがなくなっちゃうものなのよ。」と。

しかし、これも出たくて仕方がなくならなければエホバの証人として失格だ、という圧力だ、と思いました。実際、ひどい風邪をひいていても無理をして集会に出ている人をいっぱいみました。そんなの、家で休んでいたいに決まってるジャン。

あるとき、同じ教会に来ている人が、自分が働いているスーパーで売り出しのハッピを着ろ、といわれてそれをかたくなに拒否した、という話をしました。

「もう、ほかのことならなんでもしますので、それは許してください、ってお願いしたのよ。」と彼女は誇らしげに言っていました。

つまり、キリストは偶像崇拝を禁じていますので、それにまつわる小道具なども一切禁止、ということらしいです。

「祭り」って地域に脈脈と残るお祭りじゃなくて、たかがスーパーの「創業祭」じゃないの・・!
私はびっくりすると同時にぞっとしてしまいました。
そんなこともいけないの!?って。

その話を別のエホバの証人の人にしたときには、「うーん、別にそこまでじゃなくてもいいけれど・・結局、本人がどこまで許せないかって問題なのよ。その人はそれがいやだったのね。」といいましたから、組織としてハッピを着ることを禁じている、というわけではなさそうでしたが・・

まあ、そんなこんなで私にとっては一律の全体行動をとらされる集団だ、という意識が強まっていったのです。私にしてみれば、北朝鮮のマスゲームをみてぞっとするのと同じ感じでした。

物事や人間に惹かれるときというのは、一瞬じゃないでしょうか。

今までの私の人生をふりかえるとたいていそうです。

理由はあとづけです。

とにかく惹かれてしまうんです。

一瞬のうちに惹かれなければ、それは出会うタイミングでなかったのか、一生出会わなくてもよかったものなのか、そのどちらかでしかない、というのが私の考えです。

誰が惹かれもしないものにずっと身をおいたり、探求しようとしたりするでしょう。

だから「エホバの証人」の人たちは、私とは違って、聖書の中の記述かエホバの証人の活動かなにかしらに最初からぐぐっと惹き付けられたに違いないのです。

そうはいいながら、私は優しい彼らの扱いにきっぱりと断ることもできず、結局1年ほど彼らとの付き合いは続きました。

そしてあるとき老婦人が何かを言い出すのを制して、

「すいません。今日はこれだけを言いにきました。わたし、やっぱり、もうやめます。」といいました。

すると、老婦人は、優しい目をして、

「何となく、そうじゃないかな、って思ってた。」とおっしゃいました。

そしてそれきり「エホバの証人」の人たちと私の縁は切れました。

あっけないものでした。

彼らは自分たちの仲間ではない、という人々と日常をともにすることはありませんから。

それでもなんだかんだで私が彼らとつきあいはじめて、1年ほどが経過していました。

無駄な時間だったとは思っていません。そこを通り抜けてこなくては今の私はいないのでしょうから。でも、やはりそこに身をおかなくてよかったとは思います。

今でもいい人たちだった、と思います。

世界中で宗教がもとで戦争にまで発展することが往々にしてありますが、それはエホバの証人の人たちに限っては絶対にないだろうとも断言できます。

だから、これからあの集団のなかに身をおこうと考えていらっしゃる方にケチをつけるつもりはまったくありません。

あくまでこれは個人的な体験です。

あのときほど聖書に親しんだことはなかった、それは私にとって財産です。

しかし、このときにひとつの私の魂の放浪は終わりを告げました。

ここでは私の魂は癒されることはなかったのです。

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