ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

言葉の威力、言葉の無力

2012-12-24 09:09:00 | うんちく・小ネタ

今日はクリスマスイブですね。

聖なる夜にふさわしい記事にしたかったのですが、冒頭はちょっとそれにふさわしくない出だしです。

でも、どうかお付き合いください。

少し前にアメリカのコネティカット州の小学校で起こった銃乱射事件・・・

なんともいたたまれません・・・

こういう問題があるたびに銃を簡単に一般市民が持つことの出来る是非が論議されますが、今日私が書きたいのはそういうことではありません。


テレビでは、犠牲となった児童の親が事件後にコメントする様子を映し出しているものがありました。

こういうときいつも思うのですが、アメリカって実に“社会的な”っていうか、「私は地域のなかで生かされている人間のひとりです。」っていうような視線を持っている人が多いんですね。

このときにも、

「私の娘がもし、生き残っているほうであったら真っ先に犠牲者の子どもに駆け寄るような子どもであっただろう。」とか、

「この悲しみをどう乗り越えたらいいのかわからないが、彼女の笑顔を思い出しこれからも皆さんに貢献していく生き方をしていきたい。」とか・・

ものすご~く立派なコメントをなさるんですよ・・

そんななかで、私が思わずもらい泣きしてしまった人がいました。

犠牲者のお母さんです。

どういうシチュエーションでその人はマイクを向けられたのかわかりませんが、泣きながらただ、

「Baby、Baby、just  My  Baby・・・」とつぶやいていました。

「私の子、私の子、ただただ可愛い私の子・・」

彼女はそれしか言いませんでしたが、その背後には、

「どこ行っちゃったの?」「ただただ愛してる、ってことしか思い出せない・・」「どうして今ここにいないの?」「私のすべて」

というようなあらゆる最上級の気持ちがこもっていることがわかりました。

彼女は立派なコメントをしたわけではありませんでしたが、すべての気持ちを言葉に置き換えなかったぶん、よけいにその辛さがこちらにも伝わってきました。

では、ただただ彼女が号泣していたら私はこのように心打たれたであろうか、と思うとそうではない。

やはり、「Baby、Baby、just  my Baby・・・」というこの言葉があったからこそ、ただ泣いている人よりも余計にぐっと胸に訴えかけられるものがあったことは確かです。

一見意味を成さないように見える言葉が、最も重い意味あるものとなるときがある。

そんなことを思いました。

そして私は、昔の南極隊員の話を思い出しました。

有名な話です。

皆さん、ご存知の方も多いことでしょう。

今から40年前の、携帯電話やインターネットのメールなど何もない時代の話です。

厳しい任務の南極越冬隊員の唯一の楽しみは、日本の家族から1年に1、2度送られてくる電報でした。

その日は確かクリスマスで、隊員全員に家族からの電報が来ている、ということでそれぞれの電報をみんなの前で読みあいっこしていたそうです。

「こちらはみんな元気です。お父さんも頑張ってください。」

「早く帰ってきてね。帰ってきたら一緒にお味噌汁のもうね。」

そんな他愛もないけれど、愛情や思いやりがこもった電報をみんなで披露しあいながら、他人の電報にもみんな心あたたまり、

「次、おまえのはどうだ?」などと盛り上がっていたところでした。

ある1人の隊員がいそいそと自分の電報を開くと、固まってしまいました。

ほかの隊員が、

「どうしたんだ? 何が書いてあるんだ?」とみんなでのぞきこむと、なんとそこにはその隊員からの妻の一言、

「あなた・・」とだけ記された文字が。

これには隊員全員が涙したそうです。


電報は1文字につき、いくら、というように料金が決まっています。

誰もがなるべく短い文字数で、でも愛する夫やお父さんに多くを語り掛けたい、という気持ちであれこれ工夫を凝らしたことでしょう。

しかし、これほどに万感の思いのこもった言葉があるでしょうか。

そこには「会いたい・・」「愛してます」「でも待ってるから頑張ってね。」などのいろんな意味が含まれているように思います。

そこでふと気づきました。

「Baby、Baby・・・」にしても、この「あなた」にしても、自分以外の誰かに呼びかけている言葉です。

私たちというのは、誰もが一番必死なときというのは一番愛している者の名をただただ呼ぶのでしょうか。

そして単に名を呼ぶだけではなく、そこに万感の思いを込めることによって相手に語りかけるのみならず、自分自身の存在の意味のようなものも確認するのでしょうか。

もし、この世にたったひとりだったら・・・?

自分の思いを聞いてもらう相手がいなかったら・・・?

言葉なんて意味をもたないでしょうし、自分が生きている意味さえ見失ってしまいそうです。

キリスト教信者の方がたはこの聖夜に「主よ・・」と改めて語りかけることで、自分がこれから何をなすべきか聞いてもらうことができます。

自分がこの1年無事に生きてきたことに対する感謝を伝えることができます。

でも、キリスト教信者でない人も、誰か身近の一番愛している人に、「ねぇ、あなた」「君」「おい、おまえ」・・・   何でもいいですけれど語りかけ、その言葉から始まる、声をかけられることの感謝を伝えてみませんか?

南極越冬隊員の「あなた・・」のように、あなたが居てくれるから私は幸せでいられるのよ、と。

そしてアメリカの銃乱射事件の犠牲者となった残された遺族のように「Baby,Baby・・」と語りかける相手を失ったことがどれだけ辛いことか・・・に心を寄せて、心を込めて“相手”がいることの喜び、そこから“自分”を確認できることの喜びについてちょっと語り合ってみませんか。





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