私は、同じアパートの住民として、管理会社に尋ねたいことがありました。
それは、「うちのアパートに住んでみえるとび職の人たちは、このアパートで集合生活をしているのですか? だとしたら、そんな賃貸契約ってありですか?」ということ。
もし、そんな賃貸契約はありえないなら共有スペースをきれいに使ってね、という以前にそもそも彼らには出て行ってもらわなければなりません。
なので、問題としては「共有スペースをきれいに使うように指導して欲しい。」ということだったのですが、その前に上記の質問を先にする必要がありました。
すると管理会社の人は「ん? どうしてですか?何かありましたか?」と逆に尋ね返してきました。それで、私は最近共有スペースが非常に汚いこと、そういう状態にしたのは誰なのかということはわかっている、ということを話しました。
管理会社の人は「あそこはとびの派遣業をやってみえる方が住んでいるので、一日の仕事が終わったあとにはんこもらったりするためにいろいろな人が出入りするけど、あそこに住まわせてあそこを拠点にして派遣しているわけではない、って言ってみえましたけどねえ」と言う。
私は思わず、「そんなの実態と違いますよ。あそこを拠点にはんこ押すために立ち寄るだけってレベルじゃないですよ。他の人の出入りの仕方を見ていると。」といいました。
管理会社の人も私の「実態と違いますよ。」という言葉にカチンときたのか、「あそこの人を訪ねて、部屋のなかまでみせてもらったんですよ。そうしたら、ほんとに奥さんとこどもがみえて、一家で住んでるだけ、って感じですよ。」とまるでとびの人を擁護するかのようなことを言って来ました。「でも、同じ人が何日もいらっしゃるのを見たことありますけど」と私。「ああ、まあ泊まることもあるらしいです。だけど、あそこを拠点に宿泊所のように使っているわけではなく、そこまでの実態は無い我々では思っていますが」と管理会社。「やっぱり、泊まってるんですね。どこまでを友人としてたまたま泊めただけ。どこまでを宿泊所のように、って言うのは難しいとは思いますけど、同じアパートに住む住民としてはあの出入りの頻繁さと一定の時期同じ人をみかける、ということでいえばとても泊まることもある、というレベルには思えませんけどね。」
こうなるとまるで、とびの人を追い出したい、責めたいおばさんと守ってやりたいと思ってる人との攻防というようなおかしな図式になってきてしまいました。
結局、とにかくまず共有スペースの汚さの実態を見に来てもらうこと。どの程度の出入りかを正確に調査してもらうこと。の2点を約束して電話を切りました。
電話を切ってからも、なんだかもやもやとして嫌な気分が残りました。こんないやな思いをしてまで言わなければよかった、誰かが言ってくれるのを待っていればよかった、なんて私らしくもなくマイナス思考になりました。
そして、どうして私はこんなにムカムカしているんだろう、と考えました。
すると、一つのことに気付きました。「あの管理会社の人、そう言えば一言も私をねぎらったり、謝ったりしていない・・」ということに。
私は自分もサービス業に従事していますから、クレームを受けたときの基本的な態度というものはわかっています。それは、仮にどれだけ理不尽な怒りだったとしてもまず謝らなければいけない、ということです。
え!「どんなに理不尽な怒りに、でもですか?」と驚く方もいらっしゃるかもしれません。
そうです。そうなんです。なぜなら、その人が怒ってしまっていることは事実なんですから、そういう怒りに囚われるような心にあなたをしてしまったことについてすみません、と謝るのです。火の無い所に煙はたたず、といいますが、怒る原因のないところに怒りはあらず、ですから。他人から見てどれだけ理不尽な怒りだったとしてもその人にとっては理由があるのですから。
そして、「すみません」というのは「清みません」から来ているのだ、という説もあります。つまり、今までは清く澄んでいたあなたの心の湖になにかしらの波紋が広がり、清んだ状態ではなくなった、ということを「すみません」というのです。だから「何で、私が謝らなくちゃいけないの?」と思う必要は無くて、「貴方の心が清んでいませんよね」という気持ちで「すみません」と言えばいいだけなのです。
こういうことはサービス業につき、ましてや窓口や営業というようなポジションについた人にはひととおりの教育があると思うんですが・・・
その管理会社の人は「ん?何かありましたか?」に始まって、一度も私に対して、「それは知らなかったこととはいえ、住民の方が不愉快な思いをするような事態を招いてしまい、すみません。」とか「エレベーターにいつもいつも知らない頑強な男が何人も乗っていて、こんなご時世ですからさぞ恐い思いをされたことでしょう。」とか私の気持ちに対して思いを至らせてくれたことが一度もなかったわけです。
だから、私はどうも、もやもやしていたんだ、と自分で自分の気持ちに気付きました。私は、一言ぐらい管理会社の人に「お気持ちわかりますよー」と言ってほしかったんだ、と。
そのあとに私はちょっと友人にメールをする予定がありました。そして、頭の中ではこういうことを伝えようという言葉もぼんやりとながら思い浮かんでいたんです。そうしたら、なんと!その電話のあとではまったくポジティブな言葉が出てこなくなってしまんったんです。これほどに「怒り」というものは人を破壊するのか、と思いました。「怒り」というものは誰かに向けてぶつけたつもりでも、結局、自分を傷つけているんだな、ということがわかりました。
内にためても、外に向けても怒りは怒りです。どちらも自分に帰ってきます。そもそも最初に自分の胸のうちにあった怒りをそのまま火山の噴火のように爆発させてしまうと自分自身にドロドロとしたマグマが流れ出る、というわけです。
では、どうしたらいいのか。少し自分から距離をおいて、もう一人の自分になって怒っている自分を見て、「あの人、怒ってるわ。まあ、怒らせといてあげましょ。」ぐらいの感じで高みからみることができると「怒らせといてあげた自分」がたとえマグマにやられても、そこから抜け出て見ている自分がいるので、傷も浅くなるような気がします。
うーん、むずかしいことですがね。
しかし、「挨拶」からはじまって、「人と距離をおいてつきあえない現代の人」というような話を昨日書いて、「自分を距離をおいて見つめなければいけない怒り」で終わるなんて、なんだか謎めいているわ・・禅問答のようでもあり、落語のオチのようでもある・・ふむ。
わたくしは、今日、仕事で大阪にいってまいります。
そして、夜は大阪ドームで阪神の応援で~す。
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