何だか最近、読書づいておりまして・・
もともと本は大好きですが、オーラソーマに出会ってから、そして結婚してからは、どうしてもスピ系の本に目を通すことが多くなったり、なかなか時間がつくれなかったりして以前ほど読書に割く時間がとれないでいました。
そしてまた、平日にぽっかりとヒマな日が出来たりすると、今度はそれはそれで「どれ、ゆっくり1日読書でもして過ごそうか。」ということに対して、何だかとても罪悪感を感じてしまい(「世間では皆さん、働いているというのに。」というような)、じゃあいつもはできない名簿整理でもしておこうか、と自ら仕事をつくったりしてやっぱりあんまり読書できないでいました。
けれど、ここのところ、開き直るわけではありませんが、
「それが天から私に与えられた時間だとすると、読書して1日過ごして何が悪い?」と思えるようになりまして、幸いアマゾンで買うだけ買って「積んドク」になっていた本などもあり、暇をみつけてはバンバン読書に励んでおります。
そんななか、またまたMさんが貸してくださった漫画本に思うところがありまして、今日はそのテーマについて考えてみたいと思います。
「乙嫁」とは「若いお嫁さん」というほどの意味だそうです。
甲乙丙で、上級ではない普通のクラスのお嫁さん、という意味じゃないですよ。
舞台は中央アジア、ということだけしかわかりません。
実際にはない国として描かれています。
でも、ライフスタイルや環境などからしてモンゴルあたりの遊牧民に非常に似ています。
つまり、牧歌的な生活を営みながらも非常に生き抜くことについてはシビアな環境にさらされている、という感じですね。
羊を飼って放牧に出し、また追い集めて柵のなかに入れるまで水を汲みに行ったり、食事の準備をしたり、時には狩りをしたり、女性は自分の嫁入りのときのために、あるいは内職として非常に細かい刺繍をしたりして1日を過ごします。
時代は19世紀後半。
なんでもオートメーション化され、100mショップと呼ばれるコンビニに出掛ければ自分では何もせずお金という対価を払えばたいていのことは簡単に手に入る、という生活をしている私からすると、こういう生活をしている人たちの話を読むということは、普段の自分の生活からはあまりにもかけ離れているために、つい「世界ウルルン滞在記」でもテレビで見ているかのような“他人事”という感じに陥りがちです。
これが自分だったら、という想像力を働かせにくい。
そんな感じで、しかし、知らない世界を垣間見るという面白さからふんふんと読み進めていったとき、ハタと私の手が止まった箇所がありました。
それはどういった箇所だったか、というと。
歴史や風俗を研究するためにこのお話の部族のある一家に居候となっているイギリス人の学者でスミスさんという人がいるのですが、この人がある未亡人に好かれてしまい(正確にいうとそのお義母さんに、ですが。それはこの際、たいしたことではないのでスルーしてください。)、後釜の夫になってくれないか、ともちかけられます。
スミスは、その未亡人の女性のことをステキな人だ、とは思っていますが、すぐに結婚とかなんとかそんなところまではまだとてもとても・・という感じです。
そしてちょっと照れ隠しもあり、スミスは町の案内人であるアリという若い男性に、
「今いるお義母さんが亡くなったら身寄りがないんだろ? かわいそうだからもらってやれよ。」と言われたとき、
「そんな同情で結婚するなんて、さすがに出来ませんよ!」と言います。
この感覚って、現代の先進国に生きる私たちにはごくまっとうな考え方に映りますよね。
しかし、次にアリはしごく真面目なちょっと怒ったような顔をしてこう言うのです。
「同情で結婚して、何が悪いね?」と。
このフレーズを読んだとき、そっかあ・・ そうだよなぁ・・と私は少し考え込んでしまったのでした。
現代人である私たちは、「結婚とは愛し合った男女がするものだ。」と思っている。
それを“現代の日本では”通用する考え方だから採用しているのだなぁ、とは思っていない。
現代の我々こそが、永遠の真理にたどりついたのだ、というように思っているフシがある。
哲学的には幼かった時代を経て、どんどん人間は進化して、遅く生まれた人間ほど賢くて、永遠の真理に近づいた考えを持っている、というような傲慢な考え方をついついしている。
けれど、そんなものは吹けば飛ぶようなものに過ぎないのだ、と思い知らされた感じでした。
19世紀の中央アジアの遊牧民の女性にとって、男手がない、ということは生きるか死ぬか、ということなのです。
先述しましたが、現代の私たちはお金という対価を使ってほとんどのものを手に入れることができます。
だから独身を通したければ、年をとって体の融通がきかなくて女ひとりではあれが出来ない、これが出来ない、と言ってもそれをお金さえあれば他人の手でまかなってもらえます。
だから独身を通したい、という希望があれば、頑張ってそれを通すだけに必要な老後資金を溜めれば普通の生活が確保できます。
しかし、19世紀の中央アジアの遊牧民にとって、家族がいない、男手がない、ということはすぐ飢えて死ぬかもしれない、少なくともその時期が男手のある一家よりは早く訪れることに直結することなのですね。
それは切実でしょう。
そう考えたとき、ほとんど現代に生きる私が大切にしていると思ってきた道義とは取るに足らないことのように思えてきました。
一番大切なことは「とにかく生きる」ことだ。
それが脅かされるくらいなら、同情でもかまわない、愛情が育っていなくてもかまわない、そりゃあ結婚したほうがよいでしょう。
「愛がない結婚なんて・・」とは、コンビニエンスな国家に生きる者の甘えに過ぎない、と思いました。
日本だって、ほんの300、400年ほど前は女性は領土や家を守るための手駒に過ぎなかったりした時代を経てきているわけです。
もちろん、自分が生きるためには何を踏みつけにしてもいい、と言うつもりはありません。
しかし、人間として生まれた限り、「何があっても生き抜きたい。」と願う細胞で生まれてきているのだ、という自分のマルクト(生命の樹の一番下に位置する場所)のパワーをなめてはいけない、と思いました。
そしてそういうパワーで毎日を必死に生き抜いている人々のことを、心が発達していないなどと思ってはいけない、と思いました。
かといって、真理を追い求める考え方をしたときに、その中央アジアの部族の考え方のほうが現代人よりよほど正しいのだ、というわけでもないと思います。
ようは自分の考えがどれほど社会や政治、その国の事情などに影響を受けていることなのか、もし別の国や時代がさかのぼれば、この考えは通用することなのかどうか?という目を持って考えてみるのも面白い、と思っただけです。
そういう意味で考えてみると、どこまでいっても人間のやることには「この現実的な肉体を維持するためにはどうしたらいいのか。」というテーマから離れることはできなくて、哲学的な意味での”永遠の真理”というものは、神のみぞ知る、なのかもしれませんね。
いやあ、漫画って勉強になりますわぁ。
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