テレビを見ていたら、夏の縁日で屋台が一杯出る時期になりましたね、という話の延長で、金魚の生産で全国一の<msnctyst w:st="on" address="愛知県弥富町" addresslist="23:愛知県弥富町;"> 愛知県弥富町
最初は、「ふんふん、そりゃそうでしょ。金魚すくいに限らず、どんな商売でも縁日に出ている屋台の営業ってどこも厳しいんじゃないのぉ」と思っただけでしたが、金魚すくいの危機は、たとえばリンゴ飴の危機とか射的の危機とかいう話とはちょっと様相が違うのです。
どういうことかというと、金魚すくいというのはご存知のように紙を貼った「ポイ」という金魚をすくうぺらぺらのおたまのようなもので、金魚をすくい上げる競技(!?)じゃない、遊びですよね。
で、昔っからすくうことができた金魚は持ち帰ることができるのがあたりまえです。
しかし最近、せっかく何匹か金魚をすくうことができても
「いらない」という子供が増えているんだそうです。いや、厳密に言うと、こどもは欲しいんだけれども、親が「置いていきなさい。」「いらない、って言いなさい」ということで家にもって帰らないんだそうです。
その理由というのが、
「持って帰っても、飼えないから」
「遊びだから」
ということらしい。
これの、私は意味がわからなくて・・・
「飼えないから」っていうのは、もう少し意訳すると、「子供が欲しい欲しいっていうから持って帰るけれど、結局、子供は面倒なんか見やしない。親に負担がかかるだけ。それならば、親である私がほしいと思ってるわけじゃないから、置いていきなさい。」っていう意味なの?
それとも、
「こどもに面倒をみさせてもいいかげんだから、金魚の寿命をまっとうさせてやることができなくて、金魚が可哀想だから」という『飼いこなす能力』のことを言ってるの?
はたまた、
「住宅の事情やら置く場所のスペースやらの問題で、飼いたくても置く場所がないから」という『環境問題』のことを言ってるの?でも、金魚数匹がおけない家ってまずないと思うんだけど・・
さっぱりわからなくて、ドレのことなのかわかっている人がいたら、教えてほしい・・・
昔っから私は自分の納得のいかないこと、わからないことはその意味がわかるまで「どうして?」「どうして?」と聞きたがるところがあって、つい尋ねた相手を追い詰めちゃったりするところがあるから気をつけなきゃ、って思うんだけど、今回のこれもそう。金魚すくいや縁日の行方を真剣に憂えているわけでは実はありません。疑問を氷解させたいだけ。
先生にもよく言われます。
「いま、わからなくったっていいのよ。そのうちちゃんと腑に落ちるときがくるんだから。小学生に高校生の授業の解説をしたって無理でしょ? それと同じこと」
だからオーラソーマの授業では、わからないことはわからないままにそこに横たわらせておく、ということをしました。
最初の頃はそういわれてもそれでも納得できなくて、今の私にわかるレベルの言葉で疑問に答えて欲しい、と思いましたが、先生のおっしゃる意味をそのままなぞらえるような腑に落ち方の経験をしましたので、高校生のことは自分が高校生になるまでほうっておけるようになりました。
しかし金魚すくいに関しては、どの答えだったとしても、なんでそこまで突き詰めてきっぱりと壁をつくらなくてはいけないのかわからない。
私の小さい頃だって、金魚の寿命なんかまっとうさせてはやれませんでしたよ。でも、たいがい当たり前のように持って帰りましたよね。で、バンバン死なせちゃってました。金魚って意外に長生きで上手に飼えば何年もひょっとすると10何年も生きるらしいけれど、金魚すくいでもらってきた金魚を水槽にいれて毎日水道の水で水槽の水を入れ替えるだけ、んで、時々エサをやるだけ、という特にくふうもない飼い方をしていると、そこまで生きることはないよねえ。でも、それの何がいけないの? そこから子供がもっと長生きさせてやりたかった、そのためにはどうしたらいいのかを考えることが大切なんじゃないの? ここで、こどもの学習のために金魚とはいえ、大切な命を実験のように粗末に扱っていいのか、と目くじらたてなくてはいけませんか?
そりゃあ確かに正論でしょうよ。
だけど、正論っていうのは、つまんないよね。正義という名のまっすぐな棒を喉から肛門まで飲み込んでいるみたいな考え方って楽しいですか? もう少しいいかげんでもいいじゃん、って思うけどねえ。
正論をふりかざすと確かに誰も反論できないから、独裁者のようになっちゃうよ。
それにしても、金魚の生産者のみなさん、縁日で金魚すくいを営業している興行者の方々、もう少しくふうしましょうよ。
時代がほとんど持ってかえらない、という人たちが増えたのなら、やり方も変えないと。たとえば、「いらない」といった人には「あ、そうですか」で終わらせるんじゃなくて、代わりにお菓子でもあげるとか。なんのくふうもしなければそりゃあ衰退しています、って言われても同情できなかったなあ。
ニュースでは、嘆く生産者の人に聞いてみると、なんと金魚すくいをやっているところへ行ったことは一度もないそうで、自分が生産したものがエンドユーザーにどのように受け入れられているかを一度も確認したことがなくて、嘆いているばかりではそりゃあ次にどういう手をうったらいいのかわからんはずだわ。
オーラソーマに47番「オールドソウル」(古い魂)というボトルがあります。
ちょっと変わったネーミングですよね。
私は最初このボトルの意味するところがわかりませんでした。
で、この前ようやくわかったんです。
「古い魂は新しいものを欲する。」ということです。
先生いわく、
「たとえば、虎やのようかんは昔のように1本同じ味のようかんを食べきる人が少なくなっちゃって売れ行きが落ちていたから、別々の味を5種類取り揃えたものを量を少なくしてアソートにしたら、また売れるようになったのよ。横浜のシューマイは新幹線ができたときにより売るためにはどうしたらいいかと考えて真空パックのものを開発したのよ。こういうように老舗でもその昔ながらの製品にあぐらをかいてちゃだめってことね。商品のよさはそのままに、いかに現代にマッチするのかって言う部分を付加するなり、少しずつ変えていかないと。古い魂は新しいものを欲する、というのはそういうことなのよ。」と。
そうか、よくわかった。
食べ物の具体的な話で例をあげられるととたんに腑に落ちるっていうあたしもいかがなものか、という気もするが。
そういうわけで、弥富のみなさん、もう少し「新しいものを欲して」くださいよ。そして、なぜもってかえらないのか、の理由は、ぜひ、知りたいです・・
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