オーラソーマをやってらっしゃるプラクティショナーの方やティーチャーの方は時々、
「それって、オーラソーマっぽくないよねぇ。」とか、
「それは実にオーラソーマ的じゃない。」とか、
「それはまさにオーラソーマだね。」とかいうような言い方をなさるときがあります。
これが私はいやだった・・
っていうか、どうにも馴染めなかった・・
自分たちがいかに“オーラソーマ的な”生き方に殉じているかに誇りを持っているのはわかりますが、「オーラソーマっぽい」か「オーラソーマっぽくないか」で物事を色分けしていくというのは、妙な選民意識の現われみたいな感じがして、私にはどうも居心地が悪かったのです。
その“違い”に焦点を当てて、“オーラソーマっぽい”ことと“オーラソーマっぽくない”ことの違いを際立たせる、ということ自体、それこそがオーラソーマっぽくないことではないのか。そう思っていました。
それはジャッジをする、ということにほかならないから。
しかし、この前たまたまテレビで今はなき、ブルーハーツが「Train Train」を歌っているところを見ました。
私はこの歌を最初から最後まで真剣に聞いたこと、って多分ないと思います。
当時もヒットしているからサビの部分だけ、テレビやラジオで耳にするって感じだったと思います。
そして、ボーカルの人がまるで電流に打たれたかのように時々妙に体を震わせてリズム感をとるのも、なんだか病気みたいで見ていて気持ちのいいものではない、と顔を背けていました。
そして、コード進行自体は単純なこの歌をロックだとも思っていませんでした。
「あぁ、流行っている歌謡曲ね。」って感じでした。
しかし、この日たまたまフルコーラスでこの歌をじっくりと聴いていたら、
「ふ~ぅむ、やっぱりこの曲は名曲だねぇ。実にロックンロールだわ。」と思いました。
私は音楽のジャンルのなかでロックが特に好きなわけでもありません。
そんな私が、この曲を聴いて、「実にロックンロールだわ。」という言葉が浮かんだこと自体に自分で驚きました。
「・・・・・・・・・・
弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者をたたく
その音が響き渡ればブルースは加速していく
見えない自由がほしくて
見えない銃を撃ちまくる
本当の声を聞かせておくれよ
・・・・・・・・・
世界中に定められたどんな記念日なんかより
あなたが生きている今日はどんなに素晴らしいだろう
世界に建てられているどんな記念碑なんかより
あなたが生きている今日はどんなに意味があるだろう
・・・・・・・・・・・
栄光に向かって走るあの列車に乗っていこう
はだしのまま飛び出してあの列車に乗っていこう
土砂降りの雨のなかを傘もささずに走ってく
聖者になんてなれないよ だけど生きてるほうがいい
だから僕は歌うんだよ 精一杯でかい声で」
「ブルーハーツ train train より」
このステキな歌詞をかみしめているうちに、ロックンロール魂で生きていきたい、と思いました。
「はだしのまま飛び出したり」、「土砂降りの雨の中を傘もささずに走ったり」することは若いからできることなんだよぉ、もうあたしぐらいの年齢になるとそれは無理だよぉ、と泣きを入れたくは不思議となりませんでした。
むしろ、何も持たずにはだしで飛び出したらどうなるのか? 土砂降りの雨の中を傘もささずに走ったりしたらどうなるのか? たぶん、どうもなりはしない。
やってみればいいじゃないか。
年齢のせいでそんなことぐらいで死んだりはしない。
思いっきりやってみればいいじゃないか、と思えました。
そうして自由の意味がわからずに持て余す自分にいらだって、見えない銃を撃ちまくりたくなったらそんな自分を愛おしいな、と思って抱きしめてあげよう、と思いました。
そうしてほんの少しステキな時間に浸っていたら、不思議と冒頭の「オーラソーマっぽい」「オーラソーマ的な」という言葉にも抵抗を感じなくなったのです。
最初から頭ではわかっていたつもりでした。
この言葉を使うときの人たちが、オーラソーマ的な生き方を目指し、それをいつも指針のように掲げることによって自分を励ましているのだ、ということは。
でも、どうしてもそれを愛ある目で見てあげられない私がいました。
(どうしてそうやって、オーラソーマにより親しんでいる自分と一般の人とを区別するような表現を使うの?)
(そうしてオーラソーマに親しんでいない人はまるでダメな人だ、って言いたいわけ?)
(私は違う、って言いたいわけ?)
そんな風に思い、ことさらに“違い”にだけ焦点を当てている人たちがいる、という気持ちでいました。
でもブルーハーツのロックンロール魂に浸っているうちに、ロックを愛する人たちが「俺達は生き方からしてロックンロールなのさ。」と言いたがるのを自然と愛おしいものだ、と認めてあげられるのと同じように、「オーラソーマっぽい」とか「オーラソーマ的」という言い方に対しても、そういう生き方に根ざさない人たちとの“違い”に焦点を当てているわけではなく、純粋にオーラソーマ的な生き方を信条にしているのよ、ということを認めてあげられる気がしてきました。
不思議ですね~
頭でその言葉の意味は最初からそうなんだろう、と思っていたことではありますが、どうしても心情的に添えなかったものが、ひょんなことをきっかけとして理屈ではなくわかるようになる、というのが。
ま、それでも私はこれからも「それってオーラソーマっぽいよね。」とか、「それはオーラソーマ的だよね。」という言葉は使わないと思います。
しかし、心にはいつも燃える炎を抱いていようと思います。
オーラソーマ魂を。
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