ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

「敬老の日」に思ったこと

2019-09-20 09:01:00 | 身辺雑事
<neW !>

   「太陽の自分エクササイズ ~自己受容ヴァージョン~」
                          リリース!  
   「自己受容」「自己表現」を網羅した、「This is Meと言える自分になる」 太陽の自分エクササイズ。
   それに対して、こちらの「自己受容ヴァージョン」は自己受容に特化した凝縮版です。

   今だけの特典あり!
   是非こちらをご覧下さい。

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<今後のワークショップ予定>


「色で暮らしを彩る講座」   
場所:ヒーリングサロン「些々羅」 岐阜市
STEP1 募集中!  参加費:¥15000(税込)
      ※どこで、を問わず、色について学んだことがある人は自己申告により参加費が半額になります。
[内容]
 ・色からのメッセージ
 ・色の性質
 ・その色を使ってどんなことが可能になるの? ~五感を使って色を取り入れる~
 座学というより、楽しいワークショップ形式で自然に色のメッセージを自分に取り入れましょう!

STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます) ¥20000

STEP3(※STEP3はSTEP1,2を受講した人のみ受けることができます) ¥30000
10/11(金)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席 
 お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで

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この前、「敬老の日」がありましたね。
我が家では、こういう記念日にはきちんとプレゼントを渡すので、ダーリンの両親と私の母にプレゼントを渡しました。
これがね~
毎年のことなんですけれども、極端な反応で考えさせられるんですわ。



まず、お義母さんにはポシェット型の斜め掛けできる財布をあげました。
お義父さんにはカード入れがたっぷりあるやはり財布をあげました。
それを選んだ時点で、ダーリンが、
「ま、使わんと思うけど」
って言ったんですよね。
「え?」
思わず聞き返しました。
「どういうこと? なんで使わないの? 絶対使わないってわかってるものだったらあげてもしょうがないじゃない。どういう機能の財布なら使いそうなの?」
と言うと、
「いや・・ どういう機能が備わってたら使う、とかそういう問題じゃなくて、なんとなく、さ。今使ってる慣れ親しんだものをなかなか手放さないんだろうな、って思っただけ」
と言いました。



年をとれば誰だって慣れ親しんだものの方を使いたいのはわかるけれども、ダーリンの両親はそういう問題じゃない気がする。
ただ“気持ち”だけを受け取るタイプなのだ。
だからいつも行くと
「まぁまぁ、そんなもの買ってくれなくてもよかったのに」
と言いつつも、息子が記念日ともなれば忘れることなく自分たちのところへ寄ってくれることが何より嬉しいのだ。
プレゼント自体に興味がない証拠に、行ってプレゼントを渡しても、開けようともしないし、見向きもしない。
ヘタすると、見向きもしないどころかテーブルの上に置いたそれを「こんなもの邪魔だから」といわんばかりに手で払いのけながら、
「そんなことより、恵津子さぁ、この前・・」
などと、愚痴の話に余念がない。



この様子を私は最初のこそすら、内心腹を立てていました。
「こちらは時間をかけてプレゼント選びをしているのだから、せめてその場で開けてみて、何か感想を言ってくれれば、まだこの先の参考にもなるのに」と。
でも、もうあちらもダーリンも「物そのものよりその行事がつつがなく催行されることが大事」としか思っていないことがわかったので、私ももうなんとも思っていません。
どうせムダになるものならコストパフォーマンスのできるだけ良いものを、と思うだけです。
それにしても人の気持ちを汲み取らない人たちよ、とは思っていますが。



反対にうちの母親。
「まぁ、ありがとう」
と言ってすぐに中身を空け、身に着けてみてくれたりするのは良いのですが・・。(今年はネックレスをあげました)
「あ、そういえば、あんたナスを買いすぎちゃったから、少しもっていく?」
と言うので、
「そう。じゃあ、もらっていくわ」
と言うと、
「何本?」
と言う。
その瞬間、私はなにか自分が居るべき場所に立っていないような妙な気持ちになる。
何本って・・ そちらが買い過ぎたからもらってくれ、と言うからじゃあ、もらうわ、と言っただけで、母が必要ない、使いきれない、と思う本数をこちらへよこせば済むことだろう、と思う。
この時点で私に必要な本数を自己申告させる、ということ自体がもう違うような・・。
そして今、私のアタマにナスを使ったメニューが思い浮かんでいるわけではない。
従って何本使用する、などということはわからない。
これが例えばもやしであれば、傷みやすいから今日中に使わないと、と思うだろうから
「一袋でいいよ」
とか即答できるでしょう。
けれど、ナスなんて仮に今日使い残したからって、どうってことないじゃないの。
今日仮に焼きナスにしてまだ残ったって、明日は漬物、あさっては麻婆茄子とかにできるじゃないの。
何十本もあれば、たった2人の家庭でそんなには・・と思うけれど、どうせ母のことだから数本の話なんでしょ、どっちだっていいわ、そんなもの。
――――と思いながら、私が答えないと話が先に進まないので、
「じゃ、3本」
とてきとーに言ってみる。



すると次は、
「細めのやつ? 小さくて丸っこいやつ?」
ときたもんだ。
もうこの時点で、私はだんだん腹が立ってきている。
アンタがたくさん買い過ぎたからもらってくれ、なんだろーが!
それを何本欲しいんだ? どんなタイプのが欲しいんだ? さ、申し述べてみろ、と聞かれているうちに、私のほうが
「お願いします。私はどうしても今日ナスが欲しいんです。お母さん、分けていただけませんか?」
とひざまずいて乞うている感じになってきて、なんだかみじめな気分になってきてしまうのです。
こんなみじめな気分になってまで、たかがナス3本なんかいらんわ! とむらむらしてくる(ナス農家の方、ごめんなさい)
でも、そんなことを言おうものなら、心底母は不思議そうな顔をして、
「だって、いらないものをあげてもしょうがないから、聞いてるんじゃないの?」
と言ってくることは間違いない。
たぶん、母は正しいのだろう。
せっかくモノをあげてムダにされても、と思う昔かたぎの物を大切にしたい気持ちからそう言っているのだろう。
もうこの時点で義父母とは正反対。
でもね~ はぁ~



それでもなんとか気持ちを抑え、
「・・・どっちも取り混ぜてにしといて」
と言ってみる。
するとさらに、
「取り混ぜて、ってアンタ3本って言ったじゃない。どっちが2本?」
「じゃあ、2本2本で4本ちょうだい!」
もうこの時点で完全に私は物乞いです。
「ちょうだい」って言葉つかっちまってるんですから。
もう毎回毎回、母のほうが「もらってくれない?」と言うから「じゃあ・・」と言ってもらってあげようとするとこういう会話になる。
ほんとにイヤだ。
母は自分が「あげる」立場ばかりの目線で、もらう人の気持ちがわかっていないと思う。
だからこそ、「敬老の日」や「母の日」などで何かプレゼントをあげると異常に喜んだフリを見せ、
「こんなぐらい喜んでおけばいいんでしょ。わたし、ちゃんと演じきったでしょ」
と言いたいのだ、とうがった見方をしてしまうほどです。



ほんとにねぇ・・
どっちもどっちなんですよ、両極端。
母も義父母も。
もう虚礼廃止にさせてほしいわ。



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