ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

刑期満期修了者のための勉強会

2019-09-21 09:01:46 | テレビ番組
<neW !>

   「太陽の自分エクササイズ ~自己受容ヴァージョン~」
                          リリース!  
   「自己受容」「自己表現」を網羅した、「This is Meと言える自分になる」 太陽の自分エクササイズ。
   それに対して、こちらの「自己受容ヴァージョン」は自己受容に特化した凝縮版です。

   今だけの特典あり!
   是非こちらをご覧下さい。

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<今後のワークショップ予定>


「色で暮らしを彩る講座」   
場所:ヒーリングサロン「些々羅」 岐阜市
STEP1 募集中!  参加費:¥15000(税込)
      ※どこで、を問わず、色について学んだことがある人は自己申告により参加費が半額になります。
[内容]
 ・色からのメッセージ
 ・色の性質
 ・その色を使ってどんなことが可能になるの? ~五感を使って色を取り入れる~
 座学というより、楽しいワークショップ形式で自然に色のメッセージを自分に取り入れましょう!

STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます) ¥20000

STEP3(※STEP3はSTEP1,2を受講した人のみ受けることができます) ¥30000
10/11(金)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席 
 お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで

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先日、テレビで刑務所で刑期を勤め終えようとする人には、社会に対応できるようにするための勉強会が行われるのだ、ということをやっていました。
たとえば、10年とか20年とかあまりに刑期が長い人だとスマホとかICカードの存在を知りません。
だから現物を見せながら、
「これはこういうものだよ。こういうときに使うんだよ」
と教えたりするのです。
スイカを見せながら、
「この中にはICチップが埋め込まれていて、改札でこれを通せばいいんです」
という説明には、
「じゃあ、このカードがお金ってことですか!」
と素っ頓狂な声があがっていました。
彼らがカードさえ存在しない仮想通貨の存在を知ったら、もっと目を丸くするでしょうねぇ・・。



このように現実的に浦島太郎になってしまった情報を補う、という講座もあれば、人間性を養うための講座もありました。
刑務官ではなく、外部講師でしたが、こんな授業をされた方がいらっしゃいました。
「朝の8時半、出勤ラッシュでどよめく駅であなたも電車に乗ろうと列に並んでいます。そのとき、あなたの後ろにはベビーカーを押すお母さんが並びました。
この人についてあなたはどう思いますか?」
この問い掛けに、出所まじかの人たちは異口同音に、
「邪魔だなぁ、って思います」
「俺の列じゃなくて、どっかほかへ行ってくれよ、って思います。できるだけかかわりたくない」
と言いました。



この答えに私はびっくりしました。
これが彼らの本音かもしれません。
しかし、曲りなりにもテレビの撮影クルーが入っていることは知っているでしょうから、もっとお行儀の良い答えとか、いかにも人の好さそうな感じの良いことを言おうとは思わないのか、と。
いや、それを意識してでもこれなのか、と。
そりゃまさかここでこんな本音を言ったからといって、刑期満了が延びるとかはありえないでしょう。
それにしても・・・。
彼らの答えはまったく自分本位でした。
「あなたはどう思いますか?」と聞かれて、そのまま思ったことを口にしただけ、それの何が悪い? という開き直っている様子にも受け取れるほどでした。
こういう人間性の人たちだったからこそ、犯罪をおかしてしまったのか、とちょっとゾッとするほどでした。



すると次に講師はこう問いかけました。
「朝の出勤ラッシュの8時半、と言いましたね。こういう時間帯にこのベビーカーのお母さんはどうしてこの電車に乗ろうとしているのでしょう? それを想像してみてください」
すると色んな推理が飛び出しました。
「タクシーは使えないんだ。この人は貧しいんだ」
「どこへ行くのかはわからないけれど、この人は手伝ってくれる旦那さんとか家族がいないんだ。だからきっと全部自分ひとりでやらなくちゃいけないんだ」
「子どもが熱を出しちゃって、隣町の病院へ連れて行かなくちゃいけないんだ。一刻も早く連れて行きたいから、満員電車でも我慢して並んでるんだ」
そして総合して、彼らは彼女を
「気の毒な人なんだ」
と定義づけたようです。
そして講師が、
「もう1度同じことを聞きます。この女の人が自分の列に並んだらどう思いますか?」
と尋ねました。
すると今度は、
「この人を守ってあげなくちゃいけない、と思った」
「先に電車に乗せてあげたい、と思った」
など好意的な意見がバンバン飛び出しました。



これには私はひどく考えさせられました。
人間ってたいていは自分がスタンダード、標準って思っているところがあるでしょう。
だから自分が気付いていること、思っていることはたいてい人も気付いているはず、って思うんですよね。
で、気付いているにもかかわらずそういう行動しかとれないんだ、と思うから自分とは違う行動をとる人を恐いと思ったり排除しようとしたりするんですよね。
この場合だと私なら、自分が乗ろうと思っている電車の列にベビーカーの女の人がいて、その人のことを(ちっ! あっちへいけよ)みたいなうっとおしそうな目つきで眺める男性がいたら、それだけでその人と自分は別の人種と思ってしまいそうですね。(この場合、ベビーカーを電車に持ち込むことの是非はまた別問題として)
そしてその男性が「あっちへいけよ」という目つきをするのは、この女性がどんなに大変な立場にいるのかをわかったうえで、それでもただうっとおしい存在だとしか見なさないんだな、と思ってしまいます。
この女性の背景にはまったく思いを寄せないからそう思うだけで、よぉくその辺を想像力を巡らせたらこの男性もいい人なのかもしれない、とは思いません。
だって、ベビーカーの女の人の背景程度については誰だって一瞬のうちに想像を巡らせるのが当たり前だろうと思ってしまっているから。



それからもう1つ。
この満期予定者に対する講座は「人の気持ちがわかる人間になろう」というテーマだったらしいのですが、彼らは最初はこの女性のことをあっちへいけよ、ぐらいにしか思わなかったのが、この女性はひょっとしたら可哀想な人なのかもしれない、と想像を巡らせることによって親切にしてあげたい、という気持ちが芽生えました。
しかし、現実はそんなことばかりではありません。
このベビーカーの女性はタクシーを選択しようと思えばできるだけの財力の持ち主だったかもしれません。
たまたま幼子を連れて混んだ電車に乗ることもたいしたことじゃない、と思っていたから乗っただけかもしれません。
「自分の境遇より可哀想な人だから親切にしてあげたくなった」気持ちは、実は彼女のほうが自分よりよほど恵まれた境遇である、とわかったとたんに失せてしまいはしないだろうか。
いや、失せるだけのみならず、親切にしてあげようとした気持ちを裏切られたような気持になってカッと頭に血が上るんではないだろうか・・
自分より可哀そうな境遇だから親切にしてあげる、という教えや気付きでいいんだろうか・・
いやぁ、しかし、10年も20年もただただひたすら毎日規律と統制の中に居て、最後の数日のそのほんの数時間でこういうことを教えようとしても、土台無理があるのではないだろうか・・
刑務所というところの努め方を考えさせられました。



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