ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

どうでもいいこと

2015-01-09 09:02:59 | 身辺雑事
ペットに対して思いを馳せたところ、別の体験を思い出しました。
年末のときのことです。
用事があって、ダーリンの実家に行きました。
孫がいて、たいそう喜んで私たちを(とくにダーリンのことを)迎えてくれました。
用事は大して時間がかかることではなかったので、すぐにおいとましようとしたその時のことです。
孫が火が付いたように「ギャーッ!」と泣きはじめました。



「どうしたの? どうしたの?」
と娘が一生懸命あやしてもまったく効果なし。
そのうち理由がわかりました。
ダーリンは、クリスマスのときに孫にクリスマスプレゼントを買いに連れて行ってやっているのですが、それに味をしめたのか、この日もてっきりプレゼントを買いにつれて行ってもらえるものと思っていたようです。
それなのにあっさりと「じゃ、またね~」と帰ろうとしたので、彼はパニックになってしまったようでした。
うっそ~!!!
ボクにプレゼント買ってくれるんじゃないのぉ!?
一緒にトイザラスこれから連れてってくれるんじゃなかったのぉ!?
こんなにすぐにあっさりと自分だけ帰っちゃうってどういうことぉ~!・・と。



娘が、
「今日はそういう日じゃないんだよ。また今度ね。お正月に、だって。」
と言い聞かせていましたが、泣き止む気配なし。
ダーリンはその様子を困ったように、愛おしそうに眺め、おろおろしていました。
もう少しぐずり続けたら、じゃあ、これから買いに行こうか、と言い出しかねない様子でした。
もしそう言いだしたときにゃあ、私はどうしてやろうか、とじりじりする思いで待っていました。
私は、といえばその様子を苦々しい思いで見つめていたのです。
なんでもかんでも買ってもらえる、と思う子に育ててどうする!
泣けば言うことをきいてもらえる、と思う子に育ててどうする!
ここは大人としてビシッと母親なりじいちゃんであるダーリンは、
「何を言ってるんだ! この前、買ってあげたでしょう? いつもいつもプレゼントを買ってあげるわけじゃないんだよ。」
と言い聞かせようとせずに、「おぉ、よし、よし。」と何とかただなだめすかそうとしているだけなのをもやもやする気持ちで見つめていたのでした。



それでもなんとか少し泣き方が弱くなってきたのを見計らって私たちは帰りました。
そうしてお正月。
またもダーリンの実家を訪ねたときには、
「あれだけ言われてて、買ってやらないわけにゃあ、いかんだろー。」
とダーリンは言い、あらかじめ私たちはトイザラスに寄って孫が欲しがっていたものを買ってから実家に向かいました。
これとて、私にしてみれば甘すぎる、と内心では腹ただしいわけです。
だって、そのおもちゃを買ってやる代わりに孫にあげる予定のお年玉を減らしたわけではない。
ただ単にこのおもちゃ分が増えただけです。
どうしてそう贅沢をさせる必要があるのか。
誕生日やクリスマスなど記念となるような日におもちゃを買ってやることをすべて中止するべきだと言っているわけではない。
でも今度のことはクリスマスにも買ってやっているのに、そのあと訪ねたときに「なんでおもちゃないのぉ~!?」と泣いたから買ってやるにすぎない。
いくらあの場ですぐに買ってやったわけではないから幼い子どもの言いなりになったわけではない、と言いながらもスジが通らないと思う。
しかもあのとき娘は孫をなだめるのに、
「今日はダメだって。今度またお正月にね。」
と言った。
あれで孫には「お正月こそは買ってもらえるんだ。」という観念をインプットさせてしまった。
ダーリンも約束させられたようなもんだ。
それが腹立たしい。
それをまた黙って腹にかかえながらただ見ている自分も腹立たしい。
あー、腹立たしい、腹立たしい。



そして実家に到着。
まずは私たちの車の音を聞き分けて、すぐに歓迎の意を表してくれるムーちゃんにご挨拶。
ムーちゃんの鳴く声や車の音で私たちが来たことを聞きつけた孫が、はだしのまま飛び出してきました。
いつも玄関外まで私たちをお迎えしてくれることなんてないのにね。
「こんにちは!」
期待満々の顔。
どうせ母親に「じいちゃんがおもちゃ買ってきてくれてるはずだよ~」とか言われたんだろう。
そしてそのとおり、ダーリンがプラレールの箱を持っているのを見つけた孫は、
「あ! 輝き!(孫が欲しがってた新幹線です。)」
と言ってそれを奪うように取るとさっさとまた家のなかに入って行きました。
このゲンキンなこと。
こういう幼子の姿を見て、こまっしゃくれていて可愛い~♡と思える人が普通なんでしょうね。
私は全く思えないけど。



そしてふと気付いたのでした。
うちの猫たちは朝、私が起きだすと何をやるよりもまず自分たちに朝ご飯をもらえると思っている。
カチャカチャと食器の音をさせると「私たちのご飯を入れるやつだ!」と思っている。
実際、そうなんだけど。
たま~にダーリンの食事のための食器を先に出すことがある。
そうすると肩すかしをくらった、っていうか、「え・・ 私たちのご飯は?」という不満げな顔をして私の顔を見あげる。
それを見て私は、
「ハイハイ、ごめんね~ 遅くなっちゃって。」と言いながら、いそいそとご飯をあげる。



人間の子どもじゃないから、涙を流して怒ったりはしないけれども、朝、食器が触れ合う音がしたら自分たちのものだ、と思っていたら違っていた、というときの彼らの不満そうな顔をみて、私は、賢いなぁ、ちゃんとわかってるんだなぁ、ご飯もらえるってことを、と思う。(当たり前だけどね。毎日のことなんだから。どんなおバカな猫でも覚えるでしょーよ。)
そして自分たちのものじゃなかったときのがっくり、っていう顔をみて、キャッ、可愛い♡なんて思う。
わざとじらしたりしちゃって、もう少しこの表情、次にどんなおねだりをしてくるか見てたいな、なんて思う。
この私の猫たちに抱く思い、というのは大人が幼子がやることを見ていて抱く思いと一緒ではないか。
どちらも自分のものだ、と思っていたら違っていたということで表す不満、怒り。
それをかたや我がままでエゴ丸出しで可愛くもなんともない、と思ったり、かたやなんて可愛いんだろう、と思う。
なんでかなー?



なんで、なんて理由を求めようとしたって無理ですね。これが私が幼い子どもが好きではない、っていう単純なことなんだろう。
その私の単純な感情のからくりと同様に、普通の人は幼子のやることなすことが可愛いいんだろう。ましてや、自分の子どもや孫ならなおさらに。
だから私は(これが猫だったら可愛いな)といったん「猫だったら」という状況に変換してみて、あぁ、だから彼らはカワイイと思ってるんだろうな、というように理解するしかない。
そういう感情しかわかない、っていうのはどうしようもないことだもんね。
動物のことだとどれだけ我がままな様子を見せても、可愛いとしか思わないのに。
ただ・・
子どものことでは時々わからなくなるのは、十二分に子ども好きだなと思っている人でも時折、「わたし、こういうときムカッときちゃった。」とか話すと、「あたりまえじゃない。そんなの、私だってムカッとくるわよ。」とか言われるときです。
あれれ? 嫌児症の私だからじゃなくてここは普通の人でもムカッとするのか?とか思うと何か一言口を出せばよかった、とか思うんですよね。
ま、どうでもいいようなことですけれど。
こうして自分で「どうでもいいようなこと」と言うことによって、私の人生のなかで孫の存在自体が「どうでもいいこと」ですよ、と言い聞かせている私なのでした。






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