先週の金曜日、妻を駅に送る車中で「髪の毛、伸びたから今日、床屋へ行ってくる」と言った。「ぜんぜん伸びていないよ」と妻。前回床屋へ行ったのは、たしか9月。すでに2ヶ月が過ぎている。若く頭の毛がフサフサだったころは、1カ月ごとに床屋へ行った。2ヶ月経っていても“ぜんぜん”には傷ついた。
私の行きつけの床屋は、電車を乗り継いで40分くらい離れた駅前にある。私は床屋にうるさい。子供の頃、通った床屋がずっと基準になっている。話しやすく腕が良い床屋。私が通った床屋は、おじいさん、おじさん、奥さん、息子さんの3代4人の布陣だった。誰が刈ってくれるかは、その日によって違う。皆腕が良かった。中でもおじいさんが一番で最後は必ずおじいさんが仕上げのハサミをいれてくれた。家族といえども暗黙の序列が心地よかった。誰が刈ってくれても刈りながらいろいろな話ができた。床屋はさながら町の情報交換所だった。他の客の台での会話に耳を傾けた。町の情報がたくさん聞けた。春夏秋冬、店内に変化があった。冬のストーブが記憶に残っている。冬になると入り口の4人用の待合のすぐそばにストーブがあった。おが屑を焚く珍しい達磨ストーブだった。その熱過ぎず、やわらかな温かさは、いまでも覚えている。
高校からカナダに渡った。留学した全寮制の高校では、大学部の学生が無料で散髪をしてくれた。無料だった。全生徒に課せられている1日2時間の学校奉仕の時間に大学生が他の生徒の散髪を受け持った。出来上がりは、鏡を見られない程ひどかった。髭剃りや洗髪はもちろんなかった。アメリカの軍人のような髪型になっていた。
日本に帰国して同じ床屋に再び行った時、これが散髪だと感動した。結婚したが7年で離婚。二人の子供を引き取った。同じ床屋に通った。おじいさんは亡くなり、おじさんが店主になり、息子が結婚して、息子の奥さんも店に出ていた。狭い世間である。私の情報は筒抜けになっていた。それを知っていても、私の家庭状況の話を避けてくれていた。離婚して13年後、再婚。妻の仕事で海外赴任することになり、床屋に行けなくなった。
ネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、サハリンと妻について行き、暮らした。それぞれの国でまた旅行先で床屋や美容院に行った。日本の床屋以上の床屋はなかった。ただローマで入った床屋は、気に入った。衛生上の問題などから床屋に行けなかった国もある。妻が日本から持って行った電動バリカンとハサミで散髪してくれた。結構上手だった。ネパールでは頭全体に湿疹のようなものができ、しばらく丸坊主になった。
14年に及ぶ海外生活に終止符を打ち、帰国した。温暖な地に終の棲家を構え、住み始めた。やっと新天地での生活に慣れてきたが、行きつけになる床屋が決まらず、散髪のたびにあちこち試した。やっと少し離れた所の駅前で腕もよく話しやすい床屋に出会った。夫婦とその息子の店だった。すでに10年以上通った。奥さんの洗髪と髭剃りは丁寧で特に気に入った。店主は話し上手聞き上手だったが、奥さんは静かでただ微笑むだけ。
先週、床屋へ行った。入った途端、違和感が襲った。店主が先客と話していた。「カミさんが焼かれて骨に…」 私は「…骨…」に反応。後で店主の口から奥さんが10月に病気で亡くなったと聞いた。享年66歳。あっという間だったという。店に入った時、感じたのは店主の奥さんを失った悲しみだったのだ。私はただの客。訃報の知らせをもらえる関係にはない。でも悲しい。突然消えた存在。店に来ればいると思っていた奥さんが消えてしまった。店主の様子を見ていて、私は私が4歳の時母親が死んだ日の父を思い出した。かける言葉もなかった。いつもの通りに散髪してもらった。髭剃りの時、店主の爪が私の肌に食い込み痛かった。でも黙って耐えた。
帰宅して妻に「床屋の奥さん死んじゃった」と告げた。考えてはいけないことだけれど、私は頭の中で、妻がいなくなったら、私はどうなるのかと妻を目の前にして思った。人間、いつ何が起こってどうなるかわからない。先の別れを考えるより、“今”を一緒に生きていよう。後悔しないように。
床屋の奥さんと店主の最後の会話は、「『わんたんや』へもう一度あなたと行きたかった」だったそうだ。