団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

善光寺の甘酒

2019年11月25日 | Weblog

  私は実母を4歳で亡くした。父は母を長野の善光寺の納骨堂に収めたと言っていた。どういうことなのか理解できなかった。でも母が納骨堂に入っているのだと信じた。父は再婚するまで子供4人を連れて必ず命日に善光寺の納骨堂へ行った。納骨堂は善光寺の裏の高台にあった。当時、自家用車などなかった。5人で歩いて坂を登った。お参りしてから善光寺にもお参りした。境内に何軒かの休憩所があり、そこでおでんとか甘酒を売っていた。あの甘酒が美味かった。幼い頃の思い出が原因なのか、甘酒は私にとって特別なものとなった。

 毎年、父親の兄の家で味噌づくりを家族総出の合同で行った。どういう作業だったのかは記憶にない。何をどう手伝ったのかも覚えていない。ただムシロの上に等間隔で並べられた円錐型の味噌玉と大豆を蒸かした青臭いけれど鼻孔を拡げたくなるようなニオイが残っている。作業が一段落すると、叔母さんが全員に甘酒をふるまった。従兄弟たちと日向の縁側に並んで脚をブラブラさせながらアツアツの甘酒を口にした。優しい味だった。

 私の父は毎晩、燗をした日本酒を1合晩酌していた。父だけ箱膳に子供とは違う1品が付いていた。父は尋常小学校に数年通っただけで、宇都宮の羊羹屋へ丁稚に出された。そこで奉公人としての自分と、同じ年ごろのお坊ちゃまやお嬢さまたちが自分とは違う生活をしているのを見た。お坊ちゃまやお嬢さまは、きれいな箱膳で食べ、奉公人は床の上だった。そのことがあってか父は、箱膳にこだわった。晩酌を楽しむ父を見て、酒は何か大人の特別な飲み物だと思った。酒は大人しか口にできないもの、でも甘酒は子供でも許される。その禁断の境を渡るのは、渓谷のつり橋の真ん中に立つような怖さとその向こうにある別世界への好奇心が入り混じった気持ちだった。甘酒の“酒”という漢字、酒のという音の響きは、子供を惑わす。

 日本から離れて海外に住むと、手に入らない物を美化して渇望してしまう。私にとって甘酒もその一つだった。森永が缶入りの甘酒を販売している。ヨーロッパの日本食品を売る店で買うことができた。見つけると嬉しくなる。つい買ってしまう。でも違うのである。善光寺のあの甘酒とも味噌づくりのお手伝いをしたとき飲んだ甘酒とも違う。森永の缶入り甘酒は、甘すぎる。年齢を重ねるうちに、私の舌の感覚が変化してきたのだろうか。それもあるだろう。環境の変化、特に気候の変化は、味覚に関係すると思う。どうであっても「旨い、美味しい」と言える物を望む。

 私の周りに味噌を自分の家で作っている親戚知人友人はいない。だから市販の甘酒を買うしかない。ところが中々自分の気に入った甘酒がない。百貨店の地下の食品売り場で時々甘酒の出張販売に出くわす。喜んで試飲するも何か物足りない。先日新宿高島屋の地下でやっと気に入った甘酒を見つけた。私の求めていた甘酒と一致した。さっそく買い求めた。1本税別760円。大分県のぶんご銘醸という会社のものだった。

 こうして何かをきっかけを与えられる度に、コキジ(古稀+2歳)は、遠い過去を思い出す。これもまた年寄りの特権であろう。善光寺の境内でまだ甘酒は売られているのだろうか。思えば遠くに来たものだ。


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