私が子供の頃、お使いに行かされた店は、みな個人商店だった。鈴木八百屋、一ノ瀬タバコ菓子店、三好文具店、塩見漬物店、さかい酒屋、しらい魚屋。それ以外に豆腐売り、納豆売り、シジミ売りが町を行き来した。さながら坂野比呂志(浅草の芸人で金魚売りバナナのたたき売りなど物売りのモノマネ芸を広めた)の世界だった。スーパーなんて存在さえ知らなかった。“ほていや”という百貨店があった。今デパ地下と呼ばれるような地下の食品売り場はなかった。
やがて天秤でシジミ売りをしていたおじさんが店を持ち、あれよあれよと時流に乗り、上田市で大きな食品スーパーを立ち上げた。近郊に何店舗も持ち、破竹の勢いでチェーン展開を始めた。しかし全国展開する大手スーパーチェーンに飲み込まれて消えた。たった一軒しかなかった百貨店も結局合併吸収されショッピングモールになってしまった。私がお使いに行かされた店は、ほとんど店じまいしてしまった。色々な業種で寡占が進んだ。次に「開いてて良かった」のセブンイレブンを先頭にコンビニが進出。残っていた個人経営の店もこれで息の根を止められた。店ばかりではない。下請け工場が多かったせいで、大企業の中国進出により仕事の減少で倒産が相次いだ。同級生の幼いころからお金持ちのお嬢さんで知られていた子がある日突然学校へ来なくなった。町の噂では父親の会社が倒産して夜逃げしたという。このような話は、いくらでもあった。
今も変わらない。今年に入って家具店の倒産が多くなったという。“お値段以上”のニトリの一人勝ちで家具売り上げの実に44%を占めるそうだ。ニトリももとは北海道の小さな家具店だった。世界へ進出しているユニクロだって山口の小さな洋品店から始まった。通販のジャパネットも長崎のカメラ屋だった。自由経済において衰勢の浮き沈みは、必然である。独占禁止法があるが、果たしてこの法律が、弱小企業や個人経営者を守るとは、思われない。
私は発展途上国で暮らした。ネパール、セネガル、ユーゴスラビア、チュニジア、ロシアのサハリン。まだ大企業の寡占にさらされていないので、個人経営がほとんどだった。買い物はスーパーでなく、ゴミゴミした市場へ行った。私は毎日市場へ行った。市場でも買い物が好きだった。売り手と買い手の駆け引きを楽しんだ。品物が少しくらい悪くても、知り合いになった売り手を会いたくて話したくて、その人の常連になった。日本に帰国して、市場の買い物ができなくなった。私は日本での買い物に不満を持っている。合理化された店舗では、売れない商品をどんどん外してゆく。私が買いたい物は、ほとんど近所の店で買えない。だから仕方なく、ネットショップを使う。何でも買える。でもつまらない。
昨日、ヤフーとLineの統合の話が進んでいるというニュースが流れた。ヤフーはソフトバンクの子会社である。ソフトバンクの孫社長が「業界の1番を狙う」と勝者総取りに出ることを宣言した。これってはたして会社経営者の言葉であろうか。キリスト教、イスラム教、アレキサンダー大王、フビライ・カーンが世界制覇を狙ったのと変わりない。欲は果てしない。とどまることがない。
一介の買い手でしかない私に物言う資格はない。でも今の現状は日に日に私が求めている買い物と違った形態に変化していってしまう気がしてならない。私は並んで待たされても、気に入った売り手と丁々発止、顔を見て、微笑んで、納得して商品を買いたい。携帯だネットだと余計なものが人間に割り込み過ぎている。人間ってやっぱり個人と個人のつながりが基本だ。人間からその基本が失われれば、あとは「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。 猛き者も遂にはほろびぬ、 偏 ひとへ に風の前の塵におなじ。」が待っている。