アフリカのセネガルで暮らしたことがある。雨の少ない乾燥した気候だった。首都ダカールから少し離れると砂漠のような荒涼とした平原が拡がっていた。水不足は深刻な問題だった。水がなければ草も木も育たない。
そんな中で時々羊や牛の群れを見かけた。みな痩せていた。ところがラマダンやタバスキの前にはダカールの郊外に大規模な羊を売る市がたった。私は不思議でならなかった。私がフランス語を習っていた女性教師が教えてくれた。その羊はオーストラリアから生きたまま輸入されているのだそうだ。私は納得できた。どこを見てもあれだけの羊がまるまる肥えられるほどの草はないのだから。
11月24日黒海でルーマニアからサウジアラビアへ運ぶ1万4600匹の羊を運ぶ船が沈没した。乗組員21名は全員救助されたが、羊は32匹しか助けられなかったという。このニュースを知って、セネガルで見た市場の風景やチュニジアのラマダン明けのお祝いに現地の友人宅に招かれ、生きた羊を屠って調理されもてなされたことを思い出した。羊は宗教的な儀式のように専門の人がその伝統に従って厳かに屠られた。厳粛さと、その後の宴の華やか賑やかさに強い文化衝撃を受けた。羊の肉は美味かった。
今回の沈没を受けて、動物愛護団体は生きたままの輸出に反対する声明を出した。つまり生きたままで輸出するのでなく、精肉に処理して冷凍なり冷蔵で輸出するなら、しなさい、というのである。これはイスラム教の信者には受け入れられない。なぜなら羊は生贄なのである。精肉がとって代われるものではない。生きた羊でなければ、生贄にはならぬ。しかしイスラム教徒は、砂漠の国に多い。砂漠で羊は育たない。そこで砂漠の多いイスラム諸国で、羊は、英国やスペインやルーマニア、遠くはオーストラリアやニュージーランドから輸入されるのである。
日本で海外のニュースが伝えられる時、私は物足りなさを感じることが多い。今回の黒海での船の沈没による羊が多数死んだというだけでは、視聴者は何をどう受け止めたらよいのかわからない。なぜ羊が生きたまま輸出されるのか?なぜサウジアラビアへそれほど多数の羊が輸出されるのか?どうしてこの時期に輸出されるのか?損害はどれほどなのか?輸入をするサウジアラビアの人々は、これほどの羊が入って来なくなれば、どう思い、どう対処するのか?
報道機関の使命は、視聴者読者に事実を、真実をわかりやすく伝えることである。その基本がすっかり崩れている。今回の桜を見る会の問題にしても、報道は視聴者読者に混乱と諦めしか与えてくれない。報道関係者は秀才で職を得るにも難関を突破してきているはずである。もっと本領発揮してほしいものである。
ところで羊とヤギの見分け方は、尾でできるとセネガルで現地の人に教えてもらった。垂れているのが羊、上がっているのがヤギ。羊の尾は本来長いが、糞で汚れやすいので人間の都合で、幼いうちに尾を切るそうだ。