団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

身の丈大学入試

2019年11月05日 | Weblog

  カナダへ留学して大学進学前にSATというアメリカの共通試験を在学していた高校で受けた。カナダの大学でもSATと高校からの内申書で合否を決めていた。私は英語と数学の2科目を受けた。英語90分数学70分。数学は日本の高校では、追試ばかりでまるきし成績が悪かったが、SATの数学の結果は良かった。それもそのはず数学は日本の中学3年程度のレベルだった。ただし設問は英語なのでここでも英語力は必要だ。設問は、結構ひっかけのような表現あった。私が主張する“ところ変われば、評価は変わる”の例である。

 11月1日午前、萩生田光一文部科学大臣は英語民間試験の導入を2024年に先延ばしすると発表した。なんと発表した日は、センター試験から新しい共通試験へ移行する試験を受ける資格修得のための申込日だった。高校はもちろん受験生に与える混乱と動揺は、避けようもない。高校3年生になった孫がいる。来年度の受験生だ。孫は、ずっと新テスト目指して勉強してきて、今更延期されて悔しいと言った。

 私はカナダから帰国後、長野県で私塾を開き、英語を教えた。英会話を教えたかったが、次第に高校受験や大学受験のための受験英語を教えるようになった。驚いたことに長野県の公立学校にはある予備校が強い影響力を持っていた。公立中学校や高校の退職教員を予備校の講師にしたり校長を傘下の幼稚園の園長や高校の教師校長に再就職させていた。私が通った県立上田高校の校長の多くが園長や校長になった。予備校の経営する高校は、今では上田高校と争う進学校になっている。東京で毎年開かれる高校の関東同窓会に現役校長が来て挨拶して上田高校の大学合格状況を説明したかと思えば、翌年退職してライバル校である予備校傘下の高校の校長になっていたり、予備校の講師になっていた。今はどうか知らないが、長野県の中学の成績表には、その予備校が主催する模擬試験の結果の欄があるほどだった。私は長野県の教育委員会や新聞社に意見書を提出したが、相手にされなかった。

 受験産業に携わった私は、日本の受験は、抜け駆けと利権の巣窟のように感じた。今回の新共通テストへの移行延期を見ても、何か利権のニオイが漂うのである。どうみても受験生のための改革には思われない。害になっている。日本で挫折した私は、カナダで復活できた。要因は、緩やかな学習進度と、暗記でなく自分の言葉での表現と説得力の履修、教師の添削能力だった。日本の優等生は、抜群の暗記力を有する。カナダの優等生は、抜群の要約力と表現力と説得力を有する。日本は試験で学生を切り捨てる。カナダは試験で学生をより適所へと振り分ける。

 日本の大学入試は戦後何回変えられてきただろう。アメリカやカナダは、いまだにSATを続けている。大学入試で日本の教育の質は向上しただろうか。疑問である。

 将来を憂えるばかりの私に光明が差した。橘玲の『上級国民/下級国民』(小学館新書 902円税込み)に書いてあった。団塊の世代がこの世から消えた後、年金の問題も解決される。勉強もほとんどの事はAIが人間に変わってしてくれる。勉強も試験も変わる。書いてあること全てに共感したわけではない。萩生田大臣は「身の丈に合わせて頑張って」と言った。学生は将来の自分の“身の丈”を良くしようと大学入試に挑む。身の丈を良くしようと努力する学生にまるですでに君の今の身の丈、すなわち君の親の経済状態に合わせなさい、と言っているように聞こえる。

 私は言いたい。受験生諸君、君の日本での評価は絶対ではない。世界また日本の君が住んでいない属していない所にも君をより正当に評価してくれる機会がある。暗記だけが科目の多さだけが成績評価ではない。どんな環境においても「読み、書き、そろばん」を大事にすれば道は開ける。


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