団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

幼児虐待

2016年02月02日 | Weblog

  以前フィリピン人女性が我が子を頭に壁に打ち付けて殺した事件の裁判で通訳をしたことがある。証拠として亡くなった子供の写真を何枚も見なければならなかった。その子の無残な顔は私の記憶にコールタールのようにへばりついている。

 1月9日埼玉県の狭山市で3歳の藤本羽月ちゃんが、そして25日には東京都大田区でやはり3歳の新井礼人くんが亡くなった。また幼児虐待の被害者がでた。テレビ画面に映し出された犠牲になった子供の顔写真が私の胸を締め付ける。すでに30年以上前のフィリピン人女性の子供の顔がその子たちの写真と重なる。こういう事件が起こるたびに私のあの裁判での記憶が呼び起こされる。

 子育ては人間として親としての最大事業だと私は思っている。私が再婚した妻は確固たる決意を持って子供を産まなかった。彼女が育った環境がそうさせたという。私は何も考えずに先の結婚で二人の子供をもうけた。妻は熟慮に熟慮を重ねて決心した。大きな違いである。私は成り行きに任せて人生をなめていた。今回の羽月ちゃんや礼人くんの親と変わらない。離婚後男手ひとつで二人の子供を育てた。その結果、私は子育てが親としての最大事業であると身をもって知ることができた。

 子育ては片手間にできることではない。人間の子は自立できるまでに他の動物と違って随分長い時間がかかる。前妻が駆け落ちした時、子供は11歳と7歳だった。私は自分の問題は禅寺での坐禅に於いて対峙するよう心掛けた。そして徐々に子供が大学を卒業するまでは、自分を犠牲にするよう自分を説得した。すべては自分が原因で招いたのだから責任を取ると思えるようになった。そうして10数年が過ぎた。二人の子供は大学を卒業した。私は今の妻と出逢って再婚できた。

 私がくじけそうになった時友人が言った。「50歳前の失敗は何度でもやり直しができる。お前はまだ30歳代だ。絶対にできる」 この言葉を信じた。信じたと言うより賭けたと言ったほうがいい。

 人は弱い。一人になると不安でさみしくなる。羽月ちゃんや礼人くんの母親もそうだったと思う。人は迷う。ましてや先の結婚に破れた離婚者はなおさらである。きっと子育てを本気でやろうと決心して努力していたに違いない。犠牲になった子供たちの名前に親としての期待と夢を読み取る。ひとり親になった女と男には、親としての理性とは別の性がある。その対応に多くのひとり親は失敗する。個人の問題ではあるが、軽はずみに同居したり結婚するよりは、アメリカのシングルズバーのような形態や考え方が日本にもあれば、犠牲になる子供の数は減少するのではないだろうかと私は考える。

 何事においても深く考えることなく生きてきた私だが、痛い目に会うたびに少しずつ成長できた。「50歳前ならやり直しがきく」 この友達の言葉で私は救われた。子育ては親の最大事業であるとともに、子育ては親をも人間として育ててくれる。

 たった3年しか生きることができなかった羽月ちゃん、礼人くん。命を犠牲にして日本の多くの親に子育ての責任の重大さを訴えてくれた。目覚める親がでてくれることを願う。


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