川崎市の老人ホームで3人の入居者が連続して不審な転落死が起きた。一時はあの事件は迷宮入りしてしまうのではないかとさえ言われていた。2月16日にその老人ホームで介護士として働いていた元従業員今井隼人容疑者(23歳)が殺人の容疑で逮捕された。
2001年私は心臓バイパス手術を受けることになった。当時私は妻の赴任地チュニジアに住んでいた。心臓に異変を感じ、日本で精密検査を受けることになった。検査の結果、心臓の冠動脈に狭窄が見つかった。ところが病院の手術室が工事中だったため手術を2箇月待たなければならなかった。家で静養して待機するよう言われたが、私に家はなかった。特例として他の病院に転院して手術を待つことになった。8人しか入院できない小さな医院だった。
私以外は皆寝たきりの老人の患者だった。当時はまだ病院は老人高齢者の患者を3箇月間という入院期間の制限なく受け入れていた。老人ホームの代用とされていた。特に隣の病室の男性は、よく大声や奇声を上げていた。女性看護士はその男性患者より大きな声で叱りつけた。病室にいるとうるさいので私は日中待合室で過ごした。夜は睡眠薬を飲まないと眠れなかった。老人の大声や奇声以上に看護士による罵声に耐えられなかった。排泄物の処理の時の看護士の荒れようは凄まじかった。現場を見てないが、虐待と言っても過言ではない状況だった。私は男性患者の側からも、看護士の側からもどうすればよいのか考えたが答えは見いだせなかった。
老人ホームでの介護士の仕事は、私のあの小さな医院での経験からも容易に想像できる。川崎市で3人の入居者を転落死させたと逮捕された今井隼人容疑者は、「静かにせず、いらだっていた」「見えづらい位置に落とした」「ばれない状況を狙った」などと供述している。私があの医院で経験した状況と今井容疑者がどんなふうに川崎の老人ホームで働いていたかを重ね合わせてしまう。
私は老人介護における大きな障害は、排泄物処理の問題だとみている。どんな偉い人であっても人間は口から食物を入れ、排泄する。生まれてから自分でトイレを使えるようになるまでは、親が排泄物の処理をしてくれた。その親が今度は年老いて排泄さえ困難になれば、順番から言えば子が親の面倒をみるのは当たり前のことのようだが、私にはその覚悟がない。到底出来そうもない。本当に意気地なしだと思う。恥ずかしいとさえ思うが、出来ない。
老人介護の分野でもロボットの導入や排泄物処理の方法が研究されているが、いまだ実用化されていない。私が介護を受けるようになっても間に合いそうにない。そこで思い出すのは昔まだ元気な頃の母と話したことである。母はこう言った。「歳とってだんだん脳の働きが弱ってきて、体も思うように動かせなくなって施設に入るようになっても、私はたった一言“ありがとう”だけ自分の中に残しておいて、“ありがとう”“ありがとう”と言い続けて周りの世話をしてくれる人たちから可愛がられるような人でありたい。最後はそんな中で迎えたい」
今、その母が病院付設の老健施設に入所している。かつて母が言っていたように施設で働く人々に可愛がられていることを願わずにはいられない。
私もいつどうなるかわからない。記憶を失っても、視力が衰えても、聴力が弱くなっても、体が動かなくても“ありがとう”だけは私に残りますように。