(メルボルン 2007年6月20日 市庁舎で行われた世界難民デーのイベント風景 “flickr”より By josiejose http://www.flickr.com/photos/awaketodream/1393137629/in/photostream/)
【「彼らが私たちから学んだのと同時に私たちも彼らから学びました」】
「移民の国」オーストラリアには、アフガニスタン、イラクやスリランカなど紛争地域から多くの難民が向かっていますが、南北対立やダルフールなどの紛争を抱えるスーダンからの難民も多く移住しているとのことです。
****スーダン難民が見つけた第2の故郷、豪州のオレンジ市****
オーストラリアの国民歌「ワルチング・マチルダ」の作詞で知られる詩人バンジョー・パターソンの故郷として知られる田舎の金鉱と農業の街、ニューサウスウェールズ州オレンジ市が、長年内戦の続いたスーダン難民たちの第2の故郷になると想像するのは難しいかもしれない。
だが、たった1家族で始まったこの街に暮らすスーダン難民は、現在では300人ほどにまで増えている。
「世界で一番の街かもしれない。特に気候がね」とスーダン難民のファティ・ショーマさんはたどたどしい英語で語る。「スーダンで暮らしていた場所に似ている。まるで同じ地域のようで、生まれた場所で暮らしている気になる。ここでの生活は幸せだよ」
だがショーマさんが平穏な生活にたどり着くまでには長い道のりがあった。ショーマさんと妻のネイマット・ダラーさんは内戦の中、スーダンの南コルドファン州ヌバ山脈の故郷を逃れ、エジプトの難民キャンプで3年間を過ごした。
そこでは、女性たちはしばしば行方不明になり、臓器を取り出すために難民が殺されたといううわさ話がたびたび流れ、人口過密で常に暑く、伝染病は日常の一部だった。
「エジプトはとても大変だった。あそこからここに安全に来られたことを神に感謝しています」とダラーさんは語る。
前庭から子供たちの笑い声が聞こえるレンガ造りの質素な家で落ち着いてコーヒーを入れる姿を見ていると、エジプトはここオレンジの郊外からはるか遠くの世界のように思える。
多くのスーダン難民が移住し、この地を第2の故郷とした。2006年の最新の人口調査によると、難民認定を受けてオーストラリアに滞在する外国人のうち24%がスーダンからの難民だった。オーストラリアが受け入れた人道移民を出身国別にみるとスーダンが最も多く、イラク、アフガニスタンと続いている。
■オーストラリアの田舎での挑戦
最初のスーダン人家族、オスマン・タグさんとその妻、7人の子供たちが、難民たちがまず生活するシドニーを離れて人口3万7000人のこの街に移住してきたのは7年前だった。
詩人バンジョー・パターソンは、この地域のなだらかな丘陵と川に触発されて詩を作った。タグさんは、スーダンの山岳地方を思い出したという。
「私は小さな村で生まれた。良き友をつくるなら小さな街の方がいい」とタグさんはAFPの取材に語った。
スーダンからの難民は市の総人口の1%にも満たないが、多民族コミュニティーの中でスーダン難民が占める割合は11%に上る。この数字について、同市広報のアニー・ギャラガー氏は「かなりの」割合だと述べる。そのうち3分の2は子供だ。
■地元の人の手助けで仕事を得る
オーストラリアの田舎への移住には苦労もあった。地元の文化プログラムでは乗馬や水泳などが提供されている。青く澄んだ水をたたえたプールでの水泳学習は、地元の子供たちにとっては通過儀礼のようなものだが、難民の子供たちには全くなじみのない経験だった。
プログラム責任者のカレン・ボイドさんは「かなり生意気な子供たちもいますが、水をとても怖がってプールの底から足を離すこともできないんですよ」と話した。
英語をほとんど話せず、ときには読み書きもできない親たちにとって、学校や求職、賃貸などの手続きをこなすのは大変だった。
地元の退職者、サムさんとジェニーさんのグロブスナー夫妻がショーマさんとダラーさんの手助けをすることになり、申込書を書いたり、新聞を読んだりといった簡単な仕事を手伝った。
時とともに2家族の間には固い友情が結ばれた。ジェニーさんは「私たちにとっては、とても有意義でした。彼らは本当に驚くべき人たちです。彼らが私たちから学んだのと同時に私たちも彼らから学びました。そして今も学び続けています」と語る。
グロブスナー夫妻の助けをかりてダラーさんは地元スーパーで肉を詰める仕事を見つけた。早朝の仕事なので、3人の子供たちが学校から帰宅するころには自宅に戻れる。ショーマさんも、地元の新聞に記事が載ったことをきっかけにガソリンスタンドでの仕事を得た。
■子供たちのために困難を乗り越える
仕事や住宅の確保や、語学など生きていく上で必要な技能の習得に加え、文化の違いを乗り越える必要もあった。スーダン人コミュニティーのリーダー、アブドゥル・ジャバード・フセイン氏は「オーストラリアの子供は16歳になれば独立するが、これはわれわれの感覚ではあまり良くない。スーダンでは子供は結婚するまで両親や家族とともに暮らす」と言う。
スーダン人移民と地元のアボリジニとの摩擦も折に触れて激化した。地元住民からは本当にうまくやっていけるのか疑問視する声も上がったが、「人々の心の温かさで状況は一夜にして変わりました」(ジェニーさん)
しかし、2006年にニューサウスウェールズ州タムワースで、すでに移住していた人たちがオーストラリアの法律と習慣を守っていないとして、5家族の移住が拒絶されたことはよく知られている。この決定は最終的には覆されたが、その過程で何度か開かれた住民集会で、人道移住者をめぐる根深い偏見と意見の相違があることが浮き彫りになった。
ショーマさんとダラーさんはスーダン難民として初めて、オレンジ市に家を買うことになった。とはいえ、故郷を逃れて今もエジプトにいる家族や友人たちのことが気がかりだ。
「ときに、とても大変なこともある。一生懸命、考えている。自分たちのことでなく、子供たちのことを。子供たちはとても幸せそうだ」と、ショーマさんは語った。【3月20日 AFP】
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【政策的混乱、社会的な軋轢も】
多くの難民を受け入れるオーストラリアの難民政策が順調に進んでいる訳ではありません。
むしろ、押し寄せる難民の扱いに苦慮し、政策的にも混迷しているというのが実情です。
そのあたりの事情については、これまでも取り上げたことがあります。
11年6月11日ブログ「オーストラリア 牛とラクダと難民に見る“人道的”ということ」(http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20110611)
11年6月6日ブログ「オーストラリア 迷走する難民対策 マレーシアで審査する案に人道上の問題」(http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20110606)
10年12月16日「オーストラリア・クリスマス島沖で難民船大破 難民対応に苦慮する豪政府」(http://blog.goo.ne.jp/azianokaze/d/20101216)
オーストラリア社会にも増加する難民への抵抗がありますし、「カレー・バッシング」と呼ばれるインド系移民への業力行為が横行し、インドから留学生が激減するといった社会風潮も見られています。
そうした政策的混乱、社会的な軋轢を抱えるなかで、冒頭記事にあるような多くのスーダン難民が定住を実現しています。
【社会全体の“パラダイス鎖国”“ガラパゴス化”】
一方、日本は従来から、難民受け入れには消極的です。
****日本で難民申請、11年は最多1867人 認定は21人****
日本で難民認定を申請した外国人が2011年は1867人にのぼり、制度ができた1982年以降で最多となったことが法務省入国管理局のまとめでわかった。ただ、難民認定されたのはわずか21人で、05年以降で最も少なかった。
申請者の国籍は57カ国で、特に多かったのはミャンマー(491人)、ネパール(251人)、トルコ(234人)など。前年の申請者1202人から約1.6倍になった。同局は増加の理由を「就労する目的などで、何度も申請する外国人が増えた可能性がある」と説明している。
難民認定された外国人の国籍はミャンマー(18人)など4カ国。難民とは認められなかったものの、「在留特別許可」など人道的な配慮で滞在が認められた外国人が248人いた。認定者数の減少について、同局は「個別の審査の結果」としている。【2月24日】
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異質な人間が少ないことで、日本社会は安定的で、治安も世界有数の良好さを維持しています。
ただ、そうした同質社会への適応が困難なこともあって、そもそも日本への移住を希望する難民も限られているようです。
****第三国定住、面接は2家族=試行最終年、課題も―ミャンマー難民****
ミャンマーからタイに逃れた難民を日本に受け入れる第三国定住の第3陣に対する面接が15日、タイ北部メソトの国際機関施設で行われた。日本側は試験運用の3年間で90人を受け入れる予定だったが、最終年となる今年の候補者2家族10人を含めて計55人にとどまる見通し。政府は近く、来年度以降本格実施に移るか試行を続けるか方針を決める。
この日面接を受けたのはこのうちの9人で、いずれもミャンマーの少数民族カレン族。法務省の担当者が「最悪の場合、日本へ行けなくなることもあるので、うそはつかないでください」などと注意事項を説明し、家族ごとに移住の意思確認などを行った。
試験運用の初年度は5家族27人が日本に移住したが、2年目は最終段階で辞退者が出るなどして4家族18人に減少した。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が希望者を募るが、海外移住を求める人の数自体が減少傾向にあるという。
第1陣として来日した難民の中に、日本での生活に適応できない人も現れた。こうした情報が難民キャンプ内に届いているという。法務省担当者は「既に移住した人たちが適応できるよう努力するとともに、キャンプ内の人に制度のことをよく知ってもらうことが大切」と話した。【2月15日 時事】
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審査も厳しいし、希望者も少ないということで、ある意味“難民”や“移民”が社会問題となることもあまりない安定状態にあるとも言えます。
外から異質な人間を受け入れることは多大なリスク・負担が生じます。
異質な人間への抵抗は、移民排斥的な極右政党が伸張する欧州各国でも顕著に見られます。
ただ、同質的な人間だけの居心地の良い安定した社会は、社会全体の“パラダイス鎖国”“ガラパゴス化”が進行するようにも思われ、今後少子高齢化が更に深刻な問題となる日本にとって、プラスとマイナス、どちらが大きいのか懸念もされます。
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