銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

点滴悪用事件の真実を、考えてみる

2009-01-16 00:48:08 | Weblog
 最近、わが子(と言っても一歳にも、まだ、なっていない赤ちゃん)に、点滴で、腐った水を注入したという事件が起こりました。私は最初、『新手の虐待だなあ。このお母さんは元看護婦さんなのだろうか?』などと、考えておりました。

 子どもへの虐待はたいてい密室で起こります。しかし、今朝(09-1-15)の日経新聞で、この事件が病院内で起こり、単なる虐待ではなくて、お母さん自身が、心理的な問題を隠しもっている、新しい病気にかかっているのだとわかりました。『代理による、ミュンヒハウゼン症候群』と言うのだそうです。大体を引用させていただくと、ほら吹き男爵の話で有名な名前がミュンヒハウゼンで、病気を詐称しては、入退院を繰り返す男性を見つけた英国の医師が病名を創設したのですが、その応用例として、「他人が病気だ」といって入退院を繰り返させる場合を、<代理による>と、冠言葉をかぶせるのだそうです。

 この事件のお母さんは、「一歳になる前の赤ちゃんが、病気だ」といって入院をさせるわけですから、赤ちゃん自身は確かに言うなりでしょう。抗議も抗弁もしないでしょう。まだしゃべれないのですから。

 でもね。長女以外はすべて、この被害にあっていて、四女は、既に死亡をしています。病院側は不審に思って、注意し注目をしていたのでしょう。それで、この悪さがやっと発覚をしました。
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 私はその情景を、いろいろ想像しました。多分、長女は実際の病気になって入院をした事があるのでしょう。その時にお母さんは味を占めたのです。病院は楽しいということを。病院はある意味で楽しいのです。幸田文の『闘』ではないが、そこは、グランドホテルであり、いろいろな登場人物がいます。そして、みんな気弱になっていて、素直になっていて、しかも一期一会の関係だと思うので、何でも話してしまいます。特に付き添いをしている人間にとっては、リラックスできる、楽しいところなのです。

 たとえば、その悪魔のようなお母さんが、極く普通の人で、家へ帰れば、お姑さんに、頭が上がらない人だとしましょう。で、病院が、大部屋で八人ぐらい一緒だとする。

 そこでは、小さい子どもが重病で、気の毒なお母さんと言うことになり、一種のヒロイン願望を満たされるわけです。

 私も子どもが入院したときに、いろいろ、考えましたし、経験しました。病人本人は痛かったりして大変なのですが、付添い人は自由があるし、発見もあるし、会話もあるのです。たとえば、湘南高校の生徒のお見舞い客が、病人のことはそっちのけで、病人の枕元においてある、漫画本を読むのに夢中になっている姿を見て、『ああ、家では漫画を読むのを許されていないのだなあ』と考えたりしたものです。ただし、これは、20年前の話です。今は、漫画はもっと、認知されていますから、たとえ、湘南高校に通っていても、以前よりは、漫画に自由に接しているのではないかなあ。

 子育てはすごく重労働です。それが、病人だと、自分がしなくてよいですね。病院がしてくれます。そして、見舞いに来るたびに、他人に同情をされる。となって、その心地よさにはまってしまった。そういう、ずるずるとした欲望の犠牲に、小さな赤ちゃんが、はめられてしまった。それも、自分の子なのに。・・・・・こう考えていくと、やっとこの事件が、わかってきます。虐待ではなくて、お母さん自身の、一種の心理的な病だったのです。

 ここまで判ったのが、15日の午前中のことで、その夜の11時ごろでした。主人と話をしていると、「そのお母さんは、コンプレックスが相当ひどかったのだろうね」と主人が言います。そこから、また、考えが発展をします。

 普通の人が、主役になれるチャンスが、日本では、一生のうちで四回あると思います。最初は、希望の学校へ入学できたときです。都会では中学時代にそれを味わう人もいますが、たいていは、大学へ入ったときかなあ。その次は、就職が入るケースもあるし、それが、希望の対象ではなかった場合は、結婚式があります。それも行わなかったりした場合は、赤ちゃん誕生があります。この4回の慶事は、さほどの、才能がなくても訪れる慶事です。そして、一応ですが、誰からも祝福をされます。

 それ以降は、女性の場合は、普通の場合はあんまり無いので、趣味の世界で、達成感を味わおうとしたり、家元制度やPTAでの階級を、上へ上がろうとしたりします。30代、40代ですと避けられない傾向の一つです。男性なら一種の自己満足と達成感の成就としての、職場の出世とかがあるでしょう。

 このお母さんにとって、病気の赤ちゃんを入院させ、その付き添いをするという経験が、一生でそれ以前には味わうことが出来なかったほどの、快感を与えたのでしょう。自分が大事にされるというか、注目をされる初めての機会となったのです。長女のときに。それ以降は、その繰り返しを求めての行動が結果として、殺人までいたる犯行となっていると思います。不思議ですよね。他者から分析すると、明々白々に、おかしいことでも、本人にとっては、おかしいことではないことになっている。今日はぽつんと切れますが、ここで、終わります。  
        2009年1月16日、早朝。 川崎 千恵子(筆名雨宮舜)
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